言葉を使わず、心から心へ伝えること。また、伝えることができること。
『三省堂 新明解四字熟語辞典』
「拈華微笑」については、
(http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/14373/KJ00005121056.pdf)(https://www.engakuji.or.jp/blog/37015/)
を引用、及び参考にいたしました。
四囲に広がる大都会の夜の眺望――。
それは、人間の作りだした壮麗な光景だった。星のないダークブルーの夜空に見るべきものは何もなく、煌々と輝くものは全て人間の世界にあった。
手前に聳える、光のブロックを歪に組み上げた高層ビル……ほの赤く燃えながら光の庭を横切る、溶岩流みたいな首都高……数多の光の柱の中でも、ひときわ目立つ東京タワー……。
夜空の星を残らず奪い去り、人間は地上に光の楽園を作り上げた。いまや人々は天を仰ぎ見て嘆声を発するのではなく、高いところへと昇り、天から地上を見下ろすのであった。見渡す限りの遥か彼方まで隙間なく敷き詰められた、金粉のような人工の光たち。大都会に建てられた高層ビルから眺められるその金色燦然とした蒔絵は、まさに人間の繁栄の印だったのである。
「これが、現在の池袋の風景です」
優し気なナレーターの声がプラネタリウムの中で反響する。
「今では、ほとんど星が見えなくなってしまった東京ですが、百年前にはこの東京でも満点の星空が見えていたという記録が残っています。ちょっと信じられないですよね? 一体それは、どんな夜空だったのでしょう。東京からはどんな星が見えたのでしょう。本日は、その百年前の夜空を皆様自身の目で見て頂きます」
天頂に古風な柱時計が現れた。カチカチという効果音と共に、針が反時計回りにぐるぐると回り始める。途端に、周囲の景色は逆再生の映像にように、時間を逆行していった。夜から昼へ、今日から昨日へ、冬から秋へ、夏へ、春へ、そしてまた冬へ……。ビルが解体され、道路が崩れ、光がひとつひとつ吹き消されてゆく。
目まぐるしい時間の台風の中で、リクライニングシートにもたれながら、
目を開くと、ただ暗闇が募るばかりであった夜空には、梨地模様のような、大小さまざまな純白の斑点が象嵌されていた。先ほどまで世界を占有していた人工的な金色の光とは違う、自然の柔らかな白い光の羅列。この星たちがプロジェクターによって映し出されたものだとは到底信じられなかった。人間によってこの狭いドームの中に閉じ込められた星空は、人工的だからこそ、人間の目に優しい光を放っているのだろうか。
うっとりとした吐息が左の座席から聞こえて、燈はその方を見た。
そこに座っているのは愛音である。彼女は、まだ人間が電気も火も知らぬ頃の地平のように、煌びやかな天を静かに見上げていた。燈は、天井を覆う星空には目もくれずに、じっとこの横顔を眺めた。
闇の中で、横顔は影絵のようにぼんやりと浮かんでいた。顎からおでこまでのなだらかなカーブを擁するシルエットは、さながら遠くに望む山影のようである。しかも、それは間違いなく雪山だった。というのも、星空の光の余波がその山の稜線のあたりを淡く照らしているために、鼻先の絶巓には白色が凝っていて、その様子が雪を冠する冬の山のように見えたのである。
常ならば、こうして一方的に人の顔を見るという行為は罪悪感で憚られるものだったが、この場所の性質――つまり、何かを眺めることが正当化されている空間では、気おくれもせず、じっくりと横顔を見ることが出来た。今上映されているプログラムは既知であるから、見るべきものは、未知の方、普段見ることのできない方だ。
「冬の空は明るい星が多くとても賑やかですが、中でも有名なのは、皆さまから見て左手側、東の空にあるオリオン座です。一等星を二つも持つこの贅沢な星座は、中央に一列に並ぶ三連星も相まって非常に見つけやすく、冬の大三角を探す手がかりにもなります」
耳にかかる髪の一束が、何かのはずみでするすると流れ落ちてゆく。そのうちの何本かが取り残され、つる植物のように彼女の耳を覆う。小鼻がひくりと蠢き、鼻翼がつかのま羽ばたく。
「ギリシャで一番の狩人だったオリオンですが、女神ヘーラの遣わしたサソリの毒で命を落としてしまいます。そのために、オリオン座は東の空にさそり座が見えるころには、そそくさと沈み逃げていくのです。十二月にさそり座を見ることは難しいですが、冬の終わり、二月の早朝にはオリオンを追うさそり座の姿を確認することが出来ます」
東から西へ、天球が廻りだす。横顔の背景が目まぐるしくうつりかわり、やがて、さそりの心臓であるアンタレスが顔を見せる。横顔の向こう側から昇って来たその真っ赤な星を、燈は、冬の日の出のように見ていた。
「――以上で、本日のプログラムは終了となります。場内暗くなっておりますので、お足もとに気を付けて、後方ドアよりご退場ください」
上映が終わり、席を立つ。ビルを出ると、凛冽たる冬の空気がしたたかに頬を打った。午後三時の空は、地面と太陽との間に障子紙を一枚挟んだかのような、どんよりとした曇り空で、太陽が遮られているせいか、昼にしてはかなり冷え込んでいた。母に持たされたグレーのマフラーをしっかりと首に巻きつけ、愛音が出てくるのを待ちながら、燈は辺りを見回した。
クリスマス・イブまであと一週間となる今日は土曜日で、大抵このへんは祝日になると混雑しているのだが、寒さのためか、ビル前の広場は閑散としていた。
他の季節にはあれほど色彩豊かだったこの広場も、今となっては、壁沿いに生えている常緑樹の緑だけが元気に繁茂しているだけで、道端の大きな桜の木もすっかり葉を落としていた。夜になればこのはげた木も、舞踏会へ出るために綺麗なイルミネーションで着飾るのだが、人間がこれでもかと着込む冬に、逆に服を投げ捨てる木々たちは、見ているだけでも寒々しかった。
「さむ~。ねぇともりん、この巻き方どう? 変じゃないかな?」
首に巻いたマフラーの垂れ下がった端の部分を手で弄びながら、愛音が自動ドアから出て来る。
「うん……。いいと……思う」
「ほんと? なんかね、この巻き方、ミラノ巻きって言うんだって。いいなぁ~ミラノ。修学旅行がミラノだったらいいのに」
とりとめのない会話を交わしながら、人気のない広場の中を、こつんこつんと靴音を滴らせながら歩いてゆく。時折、愛音が恨がましい表情で中空を――恐らくはこの寒さを睨んでいたが、一方で燈は、こうして寒々とした空気の中を歩くのが嫌いではなかった。
体力がないというのもあるのだろうが、燈は、歩いているとすぐに心臓が波打ち、息が切れ、体が火照ってくる。今の燈の身体も、いつもと同じく、蒸気機関車の火室のように燃料を投擲され、内部で盛んに燃えていた。
冬の登山者が寒さよりも汗に注意を払うように、運動によって体温が上がってしまえば、寒さはそれほど感じない。その時、顔に吹き付ける冷たい風は、震えも呼び起こさなければ不快でもない、ただ冷たいだけの風になるのだった。そうして、なんの他意もなく冷たさとじゃれあうことのできる冬の散歩が、燈は面白かったのである。もっとも、もう少しだけ気温が下がれば、ベッドから一歩も出ない芋虫が出来上がるのだが。
それにしても、こうして愛音と二人でプラネタリウムを観るというのは珍しいことだった。今日は昼からバンド練習があったのだが、その解散後に愛音の方から観に行こうよと誘われたのである。
誘ってくれた理由は、もう分かっていた。その証拠に、今も愛音がこちらの様子をちらちらと窺っているのが、頬にチクチク刺す視線で感じ取れる。
しばらくして、気になる気持ちが抑えきれなかったのか、愛音がおずおずと口を開いた。
「ともりん。気分転換になった?」
「うん。ありがとうあのちゃん。もう、大丈夫」
「ならよかった~。いやー。楽奈ちゃんもさ、悪気があったわけじゃないと思うんだよね。なんというか、方向性の違い? ――いや、この言い方はマズいかも。独特っていうか、変わってるっていうか……」
楽奈の言葉……。燈は、愛音に導かれるようにして、今日の練習で言われたその一言を思い返した。
――音の嵐にもみくちゃにされながら、自分の声だけを頼りに一歩一歩前へ進んでゆく。窓ガラスに打ち付ける驟雨のようなスネアの連打。横殴りの雨の中に躍り出すバレーコード。負けじと弦をかきむしるもう一本のギター。雷鳴のように底ふかく轟くベース。
吹き荒れる音の奔流は、しかし、ともりを追い立てるための強風ではなかった。それは、共に戦う同士だ。全てを吹き飛ばすために、世界に立ち向かっている戦友だ。その暴れ馬のような台風にがむしゃらに乗って、背中を押されて、ただ世界を晴らすために叫び続ける。
ともりの最後の叫びが、スペースシャトルみたいに空へと打ちあがる。ぱっと見上げれば、そこには、台風一過の青々しい空――。打ちあがった燈の声はもう見えない。私たちの住む地上から空へ、鳥さえ届かない成層圏へ、宇宙へ、ここではないどこかへ、どこまでも飛んでいってしまったからだ。スペースシャトルが残した白い煙の航跡が風に吹かれて立ち消えると同時に、燈もそっと声を収めた。
それでもまだ音楽は止まず、細やかな雨となって燈に降り注いでいる。きつねの嫁入りのような、晴天の空の下できらきらと落ちるその音の粒たち。叫び終わった燈に出来るのは、それをただ浴びることだけだ。
曲の終わりを惜しむように引き伸ばされる終止和音が、段々と小さくなってフェードアウトしてゆく。音が絶え、その後にやってくる音にならない余韻を受け止めて、演奏が終わった。
ライブでも、練習でも、音楽の世界から日常へと真っ先に立ち帰るのは愛音だ。結成当時などは、曲が終わる前から心配そうにきょろきょろと辺りを見回していた彼女だが、この頃はすっかり一人前のギタリストといった顔つきで、どーよ私の演奏はと言わんばかりにむふんと胸を張っていることが多い。
次に、ふうっと一息ついて、いつも通りに戻るのがそよ。その後が立希で、演奏のフィードバック――といってもほとんどが愛音に対する指摘なのだが――をする。
最後に残った楽奈はといえば、ふわふわと舞う蝶々を追うかのようなぼうっとした眼差しを虚空に注いでいて、音楽の世界から帰って来たのか、はたまた頭の中では未だ演奏中なのか、傍目には分からなかった。
「疲れた〜。五分休憩ね!」
「じゃあ私、飲み物買ってこようかな」
椅子にどかりと座る愛音の横を通り抜けたそよが、扉を開けスタジオから出ていく。
夏であれば、休憩に入ると水分補給のためにみな一斉にフロアを目指すのだが、寒い冬のスタジオではそんな必要もなく、各々が思い思いの姿態で過ごしていた。
水泳の授業後のような、温い抱擁から離れた寂しさと、四肢にのしかかる倦怠感と、運動の心地よさとがじんわりと身体に染み入る。
空気が弛緩したころになって、やっと楽奈が目をぱちくりさせて動き出した。その割にはすばしっこい動きで、楽奈は、ギターを抱えたまま立希の傍へと近寄る。
「今日はもうおしまい?」
「……え? いや、まだ後二、三十分あるから、もう二回くらいは通すつもり」
「そう。わかった」
そう言って素直に元の位置に戻ろうとする楽奈を、立希が呼び止める。
「ちょっと待て、野良猫」
「なに?」
「Bメロの入りの所なんだけど、愛音がついてこれてない。掛け合いのところなんだから、相手の音聴いて、テンポ考えて」
「どこ?」
「
「どこ?」
「また、今日も、のとこからだよ!」
「分かんない」
「――はぁ? 歌詞だよ。お前、把握してないわけ?」
二人の話をなんとなく聞き流していた燈は、ぎょっとして振り向いた。そういえば、新曲の歌詞を見せた時も、楽奈から感想や意見が出たことはない。草稿を見せるたびに目を輝かせて褒めてくれる立希と比べれば、燈の作った歌詞を楽奈がどう思っているのかということを聞く機会は今までなく、それは全く未知の領域だった。
ただ、楽奈には楽奈なりの解釈があるのだと思っていた。いつも超然とした態度でいるからこそその内実を推測することはかなわないが、それでも彼女なりのやり方で、燈の叫びを理解してくれているのだと思っていた。
「楽奈ちゃん……。その……どこが、分からなかった?」
「んー……」
楽奈は瞳をぐるりと回してから、うん、と頷いて答えた。
「ぜんぶ」
「ちょ……野良猫! ともり、こいつの言うことなんて聞かなくていいから!」
ひどくあっけらかんとしたその告白に、燈はホームから突き落とされたような奇妙な浮遊感を味わった。何も考えられず空洞になった脳裏を、スローになった世界がしずしずと通り抜けてゆく。腹の底から突き上げてきた違和感に、気持ち悪くなる。視界はぼやけ、感覚は混乱し、駆け寄ってきた立希の声も耳に入らなかった。
――私の言葉は、楽奈ちゃんに届いてなかったんだ。
そのことが、燈には何よりもショックだった。
苦手と言われるよりも、嫌いと言われるよりも、分からないと言われる方がイヤだった。分からないというのは断絶の証拠だ。きみとぼくとが、決して交わらないということだ。例えそれが負の感情だったとしても、燈は相手と繋がっていたかった。繋がっていれば、理解できれば、相手に合わせることができるかもしれない。修正できるかもしれない。繋がっている限り、可能性は残されている。
ノートに言葉を連ねても、それを掬ってくれる人がいなければ、それは存在しないのと同じだ。だから、燈は必死で叫ぶ。この言葉すら届かなければ、他人を理解するための手がかりすら失ってしまえば、後には、絶望的な虚無が広がっているだけだ。
楽奈の一言に動揺して、胡乱なまま練習も精彩を欠いて、みんなに心配されて、愛音に気分転換しようよと誘われて。星空を眺めながら、痛む胸を押さえながら、それでも、やるべき事は見えた。
――私の言葉を、楽奈ちゃんに届けたい。そして、楽奈ちゃんのことも知りたい。
言葉を通して、彼女を理解したい。
MyGOがバラバラになった時、そうしたように。
分からないなら、伝えるための努力が必要だ。胸の内にあるこの思いを、彼女にも届くような形にしてみせる。燈は、そう決心した。
「じゃあね、ともりん」
「うん。また、明日」
ホームに降りて、改札を通る。歩道橋を渡るその足は自然と早くなる。家のドアを開けて、すぐ自分の部屋に入った。
ノートを集めたボックスから、この前買ったばかりの、青紫の可憐な花弁が特徴的なミズアオイが表紙になっている新作のノートを取り出して、机に広げる。
真っ白なノートと向かい合った燈は、心の奥底から浮かび上がる言の葉たちを、ピペットで薬品を吸い取って吐き出すように、そのペン先から滴らせていった。楽奈のこと、自分のこと、何一つ分かってやしない。だけど、そんな難解な現実を、燈にも理解できるようにしてくれる存在こそが言葉だった。
中学の修学旅行で見た金閣寺。太陽の光を果敢に跳ね返し、悪趣味なほど金色に輝いている金の寺は、それほど燈の感情を揺さぶる建物ではなかった。たちどころに興味を失った燈は、代わりに、隣に立つ同じ班の四人の女生徒の顔をまじまじと眺めてみた。その女生徒たちは、皆一様に目を眇めながら微かに笑っていた。
なぜ彼女たちは笑っているのだろう。燈には、それが不思議でならなかった。同じ景色を見ているはずなのに、なぜ彼女と同じ感情を抱けないのだろう、同じ行動にならないのだろう――それも、自分ひとりだけ。金閣寺そのものが変容しているわけでなければ、恐らく、その見え方が余人と違うのだ。その現実をどう見るか――今、金閣寺は燈の眼前にひとつの謎として立ちふさがっていた。
だが、その謎は意外にも即座に解かれた。先頭にいた女生徒が、燈に振り向いてこう言ったのである。「綺麗だね」と。
瞬間、燈の世界にひとつのルールが敷かれた。複雑な現実に、確かな枠組みが与えられた。この景色の意味は分からないが、綺麗と言う言葉の意味ならば分かる。それは、辞書に書いてある。綺麗という言葉が、どんなものなのかは明確に規定されている。その女生徒の見える世界が、燈にも瞥見できるようになる。
勿論、燈だって、言葉がひどく曖昧なものであることは分かっている。二人の見ている景色が本当にぴたりと一致することはないのだと知っている。だが、燈は、きっと言葉には
言葉とはそういうものだ。夜空に煌めく無数の光を、大きいのも小さいのも、明るいのも暗いのもまとめて星と名付けてしまうように。無秩序な事物の行列から共通項を見出してひとつのグループにまとめる。混沌とした現実に名前を与え、整理する。それこそが言葉の機能のはずだ。
そうして物事を大雑把にまとめることで、人間はものを数えることができるようになる。条件を揃えて、それぞれを比べられるようになる。事物を抽象的な領域まで押し上げることで、伝達が可能になる。
風景を映した写真が、その枠の外にはみ出た世界を全て捨て去ってしまうように、言葉という便利な道具もまた、世界のありのままの写像ではなく、デフォルメされた世界を表しているにすぎない。
でも、それになんの問題があろう。もしその方法に問題があるならば、そのルールに問題があるならば、社会はたちまち崩壊してしまうだろう。崩壊していないということは、誰しもがある一定の価値観を共有しているということだ。
言葉は正確に物事を写し取れない。それは元の姿を保っていないかもしれない。だけど、規則があるならば、手順に沿って復元すれば、きっと、元の形のようなものに辿り着くはずだ。絶対ではない。だけど、極めて確からしいと推察できる答え――。
燈の脳内には、今までに見た綺麗なものが整然と並べられた。それらはいずれも、綺麗と称されたものである。綺麗と名付けられたグループである。そこには綺麗という名がつけられた理由――何かしらの共通点があるはずである。燈は、パターンを見つけるのは得意だった。同じ形の石を、同じ色のマグネットを、同じ種類のノートを並べるのと何も変わらない。法則があるのなら、もう怖くはない。
ハクチョウ座みたいな、夕焼けみたいな、新品の掃除機みたいな、パールみたいな、月みたいな、親戚の香川さんみたいな、陸上選手のスタートみたいな、犬の目みたいな、金閣寺。
金閣寺には、二重写しのように様々な事物のレイヤーが重ねられた。無限に積み重なる比喩。その最奥から、洗礼を終えて生まれ変わった金閣寺が現れる。
その時、燈の世界の金閣寺はまさしく綺麗な建物になるのだった。クラスメイトや、普通の人が見る綺麗な金閣寺を、燈も見ることができるようになるのだ。綺麗な建物を見て、同じように笑うことができるようになるのだ。
燈は、そうやって世界を見ていた。言葉によって世界を認識していた。
推論によって復元されたその確からしい世界……。
でもそれでよかった。むしろ、燈にとっては、ありのままの現実こそ不要だったのである。
目の前の現実は、あまりにも難しすぎた。
燈には、時々、自分の心でさえ分からなくなるときがある。ずんとした苦しさだけが内臓のあたりに澱み、心臓が絶え間なく震え、どうしようもなく息がつまるときがある。燈には分からない。自分が何に傷ついているのか、何に苦しんでいるのか分からない。心は、決して見ることが出来ない。聞くことも、触れることも。
そんな時、言葉は燈を救ってくれる。燈の心にある、どろどろの感情を拾い上げて成形し、燈にも見えるようにしてくれる。それは、感情そのものではないけれども、その分、飲みこみやすいものになっている。燈にはその単純な感情の姿の方がよかった。
だから、燈は、ノートに並んだ自分の心を、感情そのものよりもずっと信頼していた。いつしか主従は逆転し、今や言葉こそ燈自身だった。
言葉は燈と他人を繋ぐだけでなく、燈と自分自身を繋ぐ架け橋でもあった。この世界に残されたたった一つの隘路……それが、燈にとっての言葉だった。
相手を理解するために、相手に理解されるために、ひとつひとつ手に取ってその感触を確かめながら言葉を紡いでゆく。
言葉はいわば抽象的なイメージの連続だ。単品の言葉だけでは世界は広がらない。同じ景色を見てもらえるように、何度も何度も重ね塗るように、イメージを積み上げ続ける。色々な角度から、様々な例えを使って、世界を作り上げる。
出来る限り分かりやすい平易な言葉で、リズムよく、テンポよく、長すぎず短すぎない位のちょうどいい長さで、漢字を開いたり閉じたりしながら、視覚的にも見やすいように。
楽奈は、どちらかといえば感覚派であろうし、なるべく身体感覚に類する言葉を使った方がいいかもしれない。冷たいとか、暑いとか……痛い、臭い、うるさい、眩しい……。
寝る間も惜しんで、燈は必死に言葉と格闘した。
出来上がったのは、文にすらなっていないような、言葉の断片たちである。それでも、それは燈の分身に他ならなかった。偽らざる燈の思い――楽奈に対する気持ちだ。
バンド練習の集合時間より少し早めに着くよう家を出た。最近の楽奈は、休日の練習前の時間、RiNGのカフェスペースで抹茶パフェをつついていることが多い。練習中に話しかけることもためらわれるし、練習後も気が付けばどこかへ行ってしまう楽奈を捕まえるには、このタイミングしかなかった。
ノートを抱えたまま電車に乗り、RiNGへと向かう。頬がちりちりと焦げるような凍てつく風を抜けて、正面玄関へと入る。この季節になると、商業施設ではエアコンが効きすぎていて、ダウンもマフラーも脱いで、袖をまくってなお暑苦しいということもあるのだが、経費削減のためか、空間が広いためか、はたまた環境保全の観点からか、RiNGのフロアはかなり寒かった。玄関のあたりなどは、風がこないだけで外と何ら変わらない冷たさである。
室内に足を踏み入れて、なお一層肩をすくめながら進むと、尋ね人はすぐに見つかった。
楽奈は、陽光をふんだんに取り入れたカフェスペースのカウンターの片隅を陣取って、鼻歌交じりに足をぷらぷらと揺らしていた。カウンターの内側には、退屈そうにグラスを拭いている立希の姿も見える。
「お、おはよう……」
「え? あっ、燈!」
こちらに気づいた立希が、慌てて掛け時計に視線を投げかけた。つられてその方を見てみると、時計の針が指しているのは一時二十分。集合時間までまだ四十分もあった。
「今日は早いね」
「ちょっと楽奈ちゃんに用事があって……」
「……わたし?」
楽奈はそこでやっと振り向いて、燈の目を覗き込むようにこちらへと身体を傾けた。楽奈が前傾姿勢になる分、気圧された燈は、体をぐぐっと反らしつつ、家を出たときから手に持っていたノートを、楽奈に差し出した。
「なに?」
「楽奈ちゃんに、見てほしくて」
初めておもちゃを与えられた赤ん坊のように、手渡されたノートの裏表をしげしげと眺めた楽奈が、ページをめくって中に目を通す。
ぱらぱらとめくってはい終わり、となることも危惧していたが、楽奈は一言ずつじっくりと読んでいるようだった。
「燈、ここ座って」
立希がカウンターにお冷をコトンと置いて、席を用意してくれる。お礼を言って、燈は楽奈の横の席に素直に腰かけた。
地獄の沙汰を待っているかのような重苦しい沈黙が場を支配する。
それでも、燈は、楽奈がこんなに真摯に言葉を受け止めてくれていることが、うれしかった。分からないというのは、今までに興味がわかず、燈の歌詞に注意を払っていなかっただけかもしれない。そこには、一筋の光明がある気がした。
だが、ノートを閉じた楽奈から漏れた言葉は、燈の希望を粉々に打ち壊した。
「……わかんない。抹茶、まだ?」
「お前……!」
「立希ちゃん!」
掴みかからんばかりにカウンターから身を乗り出した立希を、すんでのところで制する。気遣わしげに投げかけられる立希の眼差し……。でも、諦めるつもりはなかった。読んでくれたということは、もっと言葉を換えれば、伝わるかもしれないということだ。
「また、書いてくるから……見てほしい」
「わかった」
楽奈はこともなげに、当然といった感じで頷いた。
「立希ちゃーん。抹茶パフェおねがーい」
厨房の奥から声がかかる。苦虫をかみつぶしたような顔でバックヤードへと向かう立希を、楽奈が満面の笑みで見送った。一点の曇りもない晴れ晴れしい笑顔だった。
翌日の月曜日、燈は学校へ向かっていた。羽丘は、私立にしては珍しくクリスマスまで登校日が続く。しかも、この冬休み前の最後の一週間はテスト週だった。
特段勉学が不出来でなく、推薦を狙っているわけでもない燈にとって、テスト期間は午前中で学校が終わる期間でしかなく、むしろ早く来てほしいくらいなのだが、今回の期末テストだけは、そわそわして落ち着かなかった。実は燈たちMyGOは、今週の土曜……二四日のクリスマス・イブのライブに出演する予定だったのである。
どうして、テスト期間の忙しい時期にライブに出ることになったのかといえば、きっかけは、オーナーの凛々子さんからの誘いだった。この一年間、ライブの経験を積み、知名度もそこそこになったMyGOに、RiNG主催のクリスマス・イブのライブに出演してほしいという依頼を受けたのである。
当然、楽奈は間髪入れずにやりたいと返答した。立希もそよも別にかまわないというスタンス。問題になったのは、羽丘のテスト期間と練習期間がかぶってしまうことだった。花咲川も月ノ森も羽丘より一週間ほどはやく休みに入るため、判断は燈と愛音に委ねられていた。――もっとも、判断に苦しんでいたのは愛音だけだったのだが。
最終的には、いつもより早くテスト勉強を始めればいいだけじゃん、という殊勝な結論に達して、めでたく出演が決定したのである。
教室に入ると、さすが進学校というべきか、直前まで知識を詰め込もうと教科書を開いている生徒が多い。前の席に座る愛音も、授業で配られたプリントを丹念に確認している。
チャイムが鳴り、大量の問題冊子を抱えた先生が現れた。テスト初日の科目は、保健と言語文化なので、それほど大変ではなかった。
まずは保健から。
大して難しくはない。自分でも良くできたと思う。七割くらいは取れただろう。
次に言語文化。これはやる前から分かる。昔から国語は得意で、この前の中間テストでも九十二点でクラストップだった。記述の減点と、文法問題を間違えただけで、読解には何の蹉跌もありはしなかった。
問題用紙を開く、第一問は中原中也のサーカスだ。英語訳と対比することで、言語を翻訳することの難しさを炙り出す単元である。大丈夫、息をするように淀みなく解ける。
第二問はつい先日授業でやった平家物語。これも簡単だ。記述がないから、すぐに解き終わった。
だいぶ時間に余裕のできたところで、シャープペンシルを置いて少し休んでから次へ進む。第三問は、教科書にない、先生謹製のテキストから出されたオリジナルの問題だった。
羽丘はトップの進学校ではないから、市販の教科書を無視してどんどん難しい内容をやっていくというわけではないが、教科書をベースに、その発展として、授業時間の半分くらいは先生が作った学校独自教材を取扱う。
題材は、たいてい過去の大学入試で出された文章だったり、インターネットで検索しても出てこないようなマイナーな文献だったりする。今度の期末で出されたのは、その中でも漢文の問題で、「拈華微笑」という仏教説話だった。
「世尊昔在霊山会上拈花示衆 是時衆皆黙然 唯迦葉尊者破顔微笑」
昔、世尊――釈迦が、山で説法をした際に、ふと黙って花を手に取って弟子たちに示してみせた。弟子たちのほとんどは、釈迦の行動の意味が分からずに黙するばかりであったが、迦葉という弟子だけがその意味するところを知り、釈迦に向かって微笑した、という話である。
この話の意味するところは簡単だ。仏教の神髄――すなわち悟りに達するためには、言葉を使ってはならないのである。悟りというものは人知の外にあるものだから、言葉に表すことが出来ない、言葉で伝えることができない。だから釈迦は黙したまま、心と心を繋ぐことで、選ばれた一握りの人間に教えを託した。迦葉はその釈迦の思いを知り、黙したまま微笑で応えた。
転じて、ただ自分の心と向き合い瞑想し続ける座禅による修行を重視する、禅宗という宗派が生れたのである。彼らは、言葉による伝達を信じていないため、ああして口をつぐんで端座しているのだ。
白文と、与えられた書き下し文とを見比べて、燈は反射的に、解答用紙に書かれた白文の、在の下に二点、上の下に一点、拈と示の下にレ点を書き入れた。続く問題も難なく解き進めてゆく。
ペンを終えて時間を確認すれば、終了まであと二十分もあった。
手持ち無沙汰になった燈は、風のおもむくままに思考を飛ばしていた。行き着く先は、当然、楽奈のところだ。
楽奈と、この説話のように言葉を介さず理解しあえたらどんなにかいいだろう。楽奈だけではない、まるで鏡と相対しているように、寸分の狂いもなく他人と通じ合えるのだとしたら、燈だってすぐに普通になれる。相手の隅々までを理解し、相手と同じ景色を見て、同じ感情を抱くことさえできる。そうすれば、世界からズレることもないはずだ!
だが、所詮それはお坊さんが話す法話の一つにすぎず、宗教が自身の権威を高めるために綴った御伽噺でしかなかった。さらには、「拈華微笑」のこの話は、仏教学の中でも創作だと指摘されていたのである。水をブドウ酒に変えることが今の地球上の誰にもできないように、それが不可能であるからこそ、以心伝心はこうして一つの神話になっているのだ。
――だから、わたしには、わたしたちには、言葉が必要なんだ。伝えるために、伝えてもらうために。
試験に追われる学生たちを尻目に、窓の外では、雲たちが一足早く休暇を楽しんでいた。相変わらずの曇り空……。空を覆う雲は休日のお父さんのようにどっかと寝転んで、当分は動きそうにない。
天気予報では、明日夜、この雲が張り切って雪を降らせるらしい。今日はこのまま家に帰るのだが、明日のテスト後には練習がある。練習が終わって帰路に着くまで、雪が降らないでほしいな、と燈は思った。
試験時間終了を知らせるチャイムが鳴った。解答用紙を手に取った時、その隅に、楽奈への言葉を書きつけていたことに気がついた。あまりにも熱中しすぎたために、知らぬ間に、問題用紙以外のところにも言葉を垂れ流していたのである。羽丘のルールでは、試験終了はチャイムが鳴り終わるまでだった。燈は大急ぎで、その小さな言葉たちを消しゴムで残らず拭きとった。
「めっちゃ疲れたー。今日、数学と地理でさー。ってか、テストの後に練習って、冷静に考えてムリじゃない!?」
「いや、最終的に決めたのはお前だよね」
「そうなんだけど、大変なものは大変っていうか……。ね? ともりん」
練習終わりに急に呼びかけられた燈は、会話を思い返して、曖昧にそうだねと頷いた。頭の中は、楽奈のことでいっぱいだった。練習前に会えなかったから、話をするなら、今日はこの練習後のタイミングしかない。
視線を楽奈の立っていたところに戻すと、既にその姿はなかった。神隠しみたいに消えて――ない。まさに閉じようとしている扉の隙間から、楽奈の背中が見える。
「楽奈ちゃん! 待って!」
部屋を飛び出す。燈が扉の前に立った時には、もう楽奈は通路の先にいる。足をもつれさせながら追いすがる。そこに辿り着いて顔をあげれば、楽奈はもうフロアの奥、玄関を通り抜けようとしている。もう一度叫んだ声は自動ドアに跳ね返された。疲労の蓄積だろうか、もう息が上がっている。室内のはずなのに猛烈な向かい風を受けている気がする。
それでも追いつかなければならない。倒れ込むようにして燈は前へ進んだ。
RiNGを出ると、日は暮れかかり、空はもう濃藍の服に着替え始めていた。爛々と輝く蛍光灯のその足もとに楽奈が見えた。そう遠くはない。燈は声を張り上げた。
「楽奈ちゃん!」
燈の声に気が付いた楽奈は踊るようにくるりと回って、こちらを向いた。
「……なに?」
「あのっ……! 約束っ! また……見てくれるって」
「なにを?」
「ノートをっ……、今、持ってるから」
楽奈は「いいよ」と、燈の方へ歩いてくると、ノートを受け取って、歩道中央にある円形の植樹帯の縁に腰を下ろした。コンクリートで固められた路の中に居を構えているその植樹帯は、まるで絶海の孤島のように見えた。燈は、楽奈に倣って、その孤島を囲う煉瓦に腰かけた。
スカート越しに尻に感じる、無数のでこぼこした突起。その座りにくさは、公園の古びたベンチや、倉庫の奥に眠っているデッキチェアのあの野趣に富んだ座り心地を燈に思い出させた。
目の前には交差点があり、車通りは少ないものの、楽奈を待つ間にも何台かの車が通っている。背中側からやってくる土の匂いを嗅ぎながら、燈は、その車の往来をぼんやりと眺めていた。
読み終えたという気配を感じて、燈は楽奈へ目を向けた。顔を上げた楽奈は、抹茶味だと思って舐めたペーストが、実はバジルソースだったとでもいうような表情をしていた。
「やっぱり。難しい」
「どの言葉が、難しかった?」
「うーん……。ここ」
楽奈は、ノートの「僕と君との間に降り込める 冷たい雨のカーテン」の「冷たい雨」のところを指差した。
「雨って冷たい?」
「冷たい……と思う。なんとなく、想像できる……んじゃないかな?」
「ふーん」
燈は、どうやって楽奈に冷たい雨を伝えようかと言葉を探していた。空を見上げる。裸になった木の枝の隙間から、くすんだ空が見える。雨の降る前には独特の匂いがする――。雨は降りそうになかった。それに、天気予報によれば、今日降るとしたらそれは雪だ。雪の降る前にはどんな匂いがするだろう。その匂いを燈は知らなかった。
「楽奈ちゃんがいつも食べてる抹茶パフェも、冷たい……よね?」
「ううん」
楽奈は首を横に振った。心臓がどくんと跳びはねた。言葉を続けようとする楽奈の窄まった唇が銃口のように見えた。
「抹茶パフェは、あったかい」
燈には、その言葉の意味が分からなかった。抹茶パフェがあたたかいはずが無かった。
「抹茶パフェは美味しい。食べるとほっとする。心がほかほかする。冬に食べても、へいき。たくさん食べると頭が痛くなるけど、熱いものを食べても舌が痛くなる。いっしょ。だから、抹茶パフェは、あったかい」
「――じゃあ、雪は? 水は? それも、あったかいの?」
「ちがう。似てるけど、同じじゃない。雪と、水と、抹茶パフェ、みんな全部冷たいって言う。だけど、それぞれ違う。だから難しい。燈のつめたいは、どんなつめたい?」
雪の冷たさ、水の冷たさ、抹茶パフェの冷たさ。それが全く同じでないことは、燈にも分かっている。でも、違いがある以上に、共通点がある。だから、その三つは共通点で括られ冷たいというグループに分類されている。
でも、楽奈はそうすることなく、抹茶パフェとあったかいものを同じ箱に入れたのだ。なぜだろう? 二人は、同じものを想起している、でもその見方には天と地ほどの隔たりがある。
燈は、言葉で伝えようと、それぞれの冷たさを思い出した。雪は触れれば淡く砕けるけども、擦り傷のように、小さな痛みを手のひらに残してゆく。対して、水は刺すような痛みをもたらす――。
そこまで考えて、燈は愕然とした。擦り傷のような痛み! 刺すような痛み! 果たして、その言葉は適切だろうか? 素手で雪に触れたあの感じと、擦り傷のあの感じは、全く同じではない。少なくとも楽奈にとっては、それは、別個の異なる事象でしかない。同じでないならば、並べることはできない!
彼女の前では、どんな比喩もたちまち効力を失った。天を衝くように積み重なる比喩の塔が崩壊してゆく音が聞こえたような気がした。どれだけものを並べて、どれだけ言い換えて説明しても、彼女は燈のルールとは違う全く別のルールで、思いもよらぬ解釈を見出してしまうかもしれなかった。冷たさを、あったかさとみなす世界――燈の世界とは逆さまの世界に、彼女は生きていた。
「こわいの?」
楽奈の色違いの両目に、酔いそうになる。
「分からないのが、こわいの?」
楽奈が手を伸ばして、燈の首筋にその冷たい手のひらを押し当てる。
「つめたい?」
楽奈はそう言って柔らかに微笑んだ。その手は確かに冷たかった! だが、燈の世界の冷たさと楽奈の世界の冷たさが同一だと保障してくれるものは、どこにもなかった。同じ言葉を使っていても、そのルールが異なっている以上、彼女を理解することは絶対に不可能だった。燈は、微笑を前にただ立ち尽くしていた。
翌日に受けた現代の国語のテストは、ぼろぼろだった。単語の意味を、傍線文の説明を、主題を答えようとするたび、何か一つの答えを選ぼうとして、他の解釈を切り捨てようとするたび、視界の端に楽奈の影がちらついた。燈を見つめたまま、ただ嫣然と微笑する楽奈の影……。その微笑に捉われた途端、燈の手はしびれたように動かなくなった。
いまや言葉はがらんどうの虚ろな箱でしかなかった。ありたけの思いを詰め込んでも、相手に届く前に中身は腐ってしまう。
その変色し、腐臭を放つプレゼントから、相手はなにを読み取るだろう。愛する気持ちが汚らしいヘドロになっていたとしても、元の形に巻き戻すことができるだろうか。もしそれが出来ないのならば、言葉によって伝えようとする行為は不可能だのだ。
楽奈のルールは燈と異なっていた。ならば愛音は? そよは? 立希は? クラスメイトは? 祥子は?
確認するすべはなにもなかった。燈の信じた確からしい解釈など、存在しないのかもしれなかった。同じ言葉を使っていても、見ているのは違う世界かもしれない。燈の楽しいという言葉に頷いてくれた人たちも、その心のうちでは、悲しいという言葉に相当する感情を抱いていたかもしれない。
伝えるために生まれた言葉は、その誕生から、すでに呪われていたのだろうか。絶対の不可能を背負って生まれてきたのだろうか。
家に帰ってからも、思考は空転して、何を考えるべきなのかすら分からなかった。こうした時には、いつもノートを開いて言葉に頼るのだが、言葉が不完全である以上、今の自分の気持ちですら言葉にはできなかった。燈はベッドの中で孤独に打ち震えていた。
寝不足のまま迎えた木曜日のテストも、散々な出来だった。燈の顔色を見て心配する愛音に、大丈夫と返してその後の練習にも無理やり参加したのだが、上手くいくわけがなかった。
「燈。もしかして、体調……悪い?」
燈の不調を見抜いた立希が強引に練習を切り上げ、一同はフロアのベンチで休んでいた。隣に座った立希のその労りに満ちた眼差しに、しかし、燈はおぼつかない返答しかできなかった。
「ごめん……立希ちゃん。テストが大変で……ちょっと疲れたのかも」
「……そうだよね。私じゃなにもできないかもしれないけど、言ってくれれば、助けに行くから」
「ありがとう。立希ちゃん」
体調が悪いかと問うた立希も、テストで疲れたと答えた燈も、発言している自分自身でさえ、それを信じていなかった。立希は、カフェのカウンターで、いつも通りに抹茶パフェをつまんでいる楽奈を鋭く睨みつけた。視線に気づいた楽奈がこちらを見て、何かを思い出したかのように、あっと声を上げる。スプーンを置いて、燈の前までとたとたとやって来た。
「ともり。この前のノート、返す」
「えっ? あ……。うん。でも、そのノートは楽奈ちゃんが持ってて」
「ん? わかった」
ノートを楽奈に渡したまま返してもらっていないことに、燈はそこで初めて気がついた。この前は、放心したまま楽奈と別れてしまったから、その機会がなかった。でも、今の燈にはノートすら不要だった。もう見たくなかった。それは、断絶の証拠だった。
何かを言いたそうに、立希が身じろぎする。愛音とそよがこちらの様子を窺っている。私のせいで、みんなに心配をかけている。いたたまれなくなって、燈は立ち上がった。スクールバッグを手にとって、RiNGから、みんなといるこの場所から逃げ出す。
今日の練習で、力の限り歌って――燈は初めて、みんなの音を怖いと思った。
以前はそうでなかった。みんなの奏でる旋律も、演奏のテンポも、燈の声にそっと添えられるコーラスも、動きのひとつひとつも、燈には理解できていた。曲を通じて――燈の歌詞を通じて、みんなと燈は繋がっていた。燈の言葉が、通奏低音のように全ての土台になっていた。だから簡単だった。みんなと同じ景色を、同じ曲を、同じ感情を抱くのも、簡単だった。言葉を媒介にした信頼がそこにはあった。
だが、言葉の無効が露わになった今では、燈を取り囲むその音の渦は、また謎に戻ってしまった。立希が、楽奈が、愛音が、そよが、楽の音を通じ合わせている中で、燈だけが取り残されていた――友達との帰り道や修学旅行や卒業式の時と同じように。
理解できなかった。どうして笑うのだろう。どうして泣くのだろう。どうして彼女たちだけが……。普通の人たちは、心と心で通じ合うことができているのだろうか? 言葉など不要で、はなから理解しあっているのだろうか? 努力すれば、わたしも、そうなれるのだろうか?
空はまだ明るく、冬の、清澄な空気が青空に充満していた。この一週間、人間と太陽との間に立ちはだかっていた雲も、結局、雪を降らせることもなくどこかへ立ち去ってしまった。明後日に迫ったクリスマス・イブのライブ――。その日も、今日と同じように晴れの日だ、と燈は思った。
試験最終日、最後の科目は数学だった。チェバとメネラウスが燈を癒した。
周囲のほとんどの生徒がもうすでに解き終えて、問題用紙に落書きをしていたり、机に突っ伏していたり、虚空に目を遊ばせたりしている。燈は、先月の席替えで、己の前の席になった愛音を見やった。彼女はまだペンを片手に、問題用紙に立ち向かっていた。
愛音ちゃんに、私の気持ちはどれくらい届いているのだろう。小さな疑問が燈の思考に混じる。高校生になって一番接触機会が多い友人は、愛音かもしれない。同じ景色をみることは、心を重ね合わせることは、本当にできないのだろうか。できないのは私だけなのだろうか。疑念はやがて恐怖へと変異してゆく。燈はぞっとした。たとえ言葉が不完全だったとしても、それでも、少しは、欠片ほどでいいから理解したかった。理解してほしかった。
チャイムが鳴る。解答用紙を愛音に渡す。試験官の先生が退出すると、教室は、一転、テストから解放され休み期間に入る学生の喜悦に満ち溢れた。しばらくしてやってきた担任の先生も、苦しい戦いを終えた生徒たちを慮って、これをあえて注意することはなかった。手早くホームルームを済ませると、各種配布物を回し、あまり羽目をはずしすぎないようにという月並みな注意を与えた。
厳密には、週明けの二六日には終業式と答案返却があるので、休みのスタートは遅く二七日からだったのだが、生徒たちにとっては大した違いではなかった。
挨拶を終えて、がやがやと教室が騒がしくなった頃、燈は意を決して立ち上がった。不安で頭がどうにかなる前に、どうしても確かめておきたかった。
「あのちゃん」
「なに? ともりん。あ! テスト終わったし、この後どっか寄っちゃう?」
「わたし……私は、あのちゃんが、好き」
「――へ?」
「気持ち、どれくらい伝わってるかな? あのちゃんは、私のことどう思ってる? 私の気持ちは届いてる?」
「ちょっ、ちょっと……! ストップストップ!」
困惑が、燈と愛音の周囲から、クラス全体に少しずつ伝播してゆく。顔を赤らめ泣きそうになっている燈の様子に、面倒ごとはごめんだとばかりに遠巻きに見ていたクラスメイト達も、徐々に好奇心たっぷりの野次馬へと変貌してゆく。次第には、囃し立てるような拍手まで聞こえてきた。
「なんか盛大に勘違いされてる気が……。ともりん! 来て!」
なおも捲し立てようとする燈の手を強引に引いて、愛音は屋上へと急いだ。早歩きで移動するうちに、燈も段々大人しくなる。
鉄扉を抜けて、晴天の下の屋上に出る。風のまばらなそこは、春のようにとはいかないまでも、そこそこ暖かかった。
「それで? どうしたの?」
「……楽奈ちゃんに、分かんないって言われて」
うつむきながら、燈はぽつぽつと言葉を接いでゆく。
「伝わるようにたくさん言葉を考えた。でも、届かなかった。わたしの言葉と、楽奈ちゃんの言葉は違った。わたしは、楽奈ちゃんのことを理解できないままなのかな? 楽奈ちゃんだけじゃない。みんなのことを理解できてるのかな? わたしの言葉は、みんなに届いているのかな?」
空気に滲んだ燈のその言葉たちを、形あるものかのように見送ってから、ゆっくりと愛音は答えた。
「……理解するって、伝えるって、なんだろうね」
「それは……」
「例えばさ? ともりんがよく、一生って言うじゃん? 一生バンドやるって。でも、仮にだよ、もしもだよ。私たちがおばあちゃんになって、100歳記念ライブをやって、ステージの上で眠るように死んじゃったとして……次に目が覚めたとき、みんなで天国に着いてたら、ともりんどうする?」
「――え? そうなったら……でも、またみんなとバンドやりたい」
「そうだよね? 私も、またみんなとバンドをやると思う。ならその気持ちは、一生じゃなくて、天国に行ってもじゃない? どうする? 天国のそよりんが、私たち死んじゃったから、もう一生バンドやったよね、じゃあね~ってどっかに行っちゃったら」
「絶対……追いかける」
燈の答えに、「まぁ、そよりんもそんなことは……しないと思うけど」と愛音は苦笑いした。
「だからさ? 言葉で伝えるのってすごく難しい……というか、無理かもしれないじゃん? 一生って同じ言葉を使ってても、その言葉の受け止め方ってそれぞれ違うと思う。伝わってるかもしれないし、伝わってないかもしれない。それって確かめられない。」
燈は、抹茶パフェをあったかいと言った楽奈を思い出した。不完全で曖昧な言葉という存在……。そのあったかいの意味さえ、燈と楽奈では違うかもしれない。
「あのちゃんは……怖くないの? みんなの心が、分からないってこと。……不安に、ならないの?」
愛音が、顎に手を当て「うーん」と唸る。黒目があちらこちらを彷徨った。彼女も言葉を探しているんだと燈は思った。言葉という船で、なんとかして燈に辿り着こうとしていた。
「……私だって、怖いよ。そよりんは、相変わらず何考えてんのか分かんない時があるし……楽奈ちゃんは意味不明だし……りっきーも理不尽だし……」
「でもね」と愛音が続ける。
「私たちは、昨日一緒に演奏した。そして明日も一緒にみんなでライブをする。だから、怖いけど……怖くない」
愛音の顔に微笑が浮かんだ。何かを伝えようとしているその謎かけのような笑みを、燈は呆然と見た。
まだ何の答えも出せてないまま、無情にも時間は淡々と過ぎ去り、ついにライブ当日を迎えてしまった。
ステージ裏にまで波及している観客たちの熱狂……。クリスマス・イブにライブを見る来るくらいなのだから、観客たちは筋金入りのバンド愛好家に違いなかった。演奏を終えた、前の出番のバンドのメンバーが、舞台袖の階段を降りて来る。怒号と聞きまごうかのような、観客たちの激しい称賛を背中に浴びたながら、皆がやり切ったという顔をしている。
「あ、マイゴさん! 次、頑張ってください!」
「お疲れ様です! ありがとうございます、頑張ります!」
はきはきと対応する愛音に追従するようにして、立希、そよ、燈も頭を下げる。頭の位置が順に高くなっているのもさもありなんと言う所で、MyGOにおける渉外能力の高さが如実に表れていた。
「やばー。すっごい盛りあがってるじゃん。なんか急に緊張してきたかも~」
緊張を紛らわせようとしているのか体をくねくねと揺らす愛音を、立希が、なんだこいつという眼差しで見ていた。
「……まぁ、今回は珍しくゲネプロに参加出来て、特に問題もなかったし大丈夫でしょ」
「でも、順調すぎるのも、かえって怖いっていうか……」
「何なの、お前」
「ほら、いつまでも遊んでないで。行くよ」
二人の会話を、そよがぴしゃりと断ち切った。
スタッフの指示通りに、舞台袖から、熱気に満ちた暗いステージへと進み出る。暗転中ながら、ちらほらとメンバーの名を呼ぶ声がした。焼かれた炭がふいにバチンと弾け跳ぶように、誰かが、燈ちゃーんと叫んだのが聞こえた。立希に言わせると、はしたないらしいそれは、ここ数か月で急に増えてきたように思う。
愛音の声。はっと振り返れば、グーサインを出す愛音の姿が見えた。どうやらセッティングが終わったみたいだ。愛音、そよ、立希、楽奈……順繰りに目を合わせてゆく。照明が強烈な輝きを放つと、演奏の気配をくみ取った観客にも緊張が走る。こういった場所では、誰もが音を出さぬよう配慮するあまり、咳払いや物音がその静かな空間に亀裂を走らせてしまうことが多いのだが、それすら途絶えた凪のような静寂が訪れた。
真空を裂く立希の4カウント。瞬間、音楽が燈を容赦なく飲みこんだ。
碧天伴走――。
エンジンを目いっぱい吹かせ、立希のドラムが真っ先に飛び出した。助走じみた4分の準備運動から、叩きつけるような8分、とどめに猛烈な16分の連打。飛び立つべくひた走る飛行機は、ギターとベースの風切り音を伴って徐々にその巨体を宙に浮かし始める。跳躍のためにぐっと力を込めた、踏切のようなシンバルの一閃――。はじき出されるようにして、燈は歌いだした。
真夏の太陽のようなスポットライト。歌いだしからもう汗が噴き出してくる。体は突然やってきた夏に驚いているのに、しかし燈は、歌いながらどこかうすら寒いものを感じていた。音楽が燈の背を押している。みんなと同じ旋律を共有している。だけど、燈は知ってしまった。私たちはばらばらなのだ。一生バンドをする――その誓いさえ、同じ受け取り方ではなかった。
自分の喉から勝手に迸る歌――。握ると音の鳴るゴム人形のように、燈は、なにか大きな力に押しつぶされ、己の内から否応なしに音が絞り出されているような気がした。これが練習の成果なのだろうか。楽器が、自動演奏でひとりでに奏でているようだ。
――音楽も、言葉と同じだ。
テンポを合わせるための拍子がある。ハーモニーを作るために、音の高さは事前に決められている。全てを記す預言書のような楽譜がある。決められたルールに沿って私たちは音を鳴らす――。
でも、各々の聴いている曲は同じではない。その曲をどう受け取っているかは永遠に分からないままで、どんなに正確に協演したとしても、みんなが聞いているように曲を聴くことは決してできない。
見かけ上は心が通じ合っているように見える。一体となって一つの旋律を奏でているかのように聴こえる。だけど、それは全部幻なのだ。
「――ありがとうございました! 碧天伴走でした!」
拍手が鳴りやむのを待って、愛音がMCパートへの導入のため、息をすうっと吸ったとき、楽奈がメンバーの眼前を横切って舞台袖へと消えた。
言葉を失った愛音の口辺がひくひくと震える。
「……えーっと、あの。あっ! メンバー紹介、メンバー紹介します!」
何とか取り繕う愛音だが、あきらかなトラブルの気配に観客たちのざわめきは収まらない。
「あいつ――! 待ってて、捕まえてくる!」
楽奈を追うように勢いよく立ち上がった立希だったが、その足は、ちょうど舞台端まで来たところで俄かに停止した。そのまま小さく舌打ちをして踵を返す。後ろから現れたのは、案の定、楽奈だった。
なにをしに行ったのだろう――。その思考を立ち上げるまでもなく、すぐに燈は気が付いた。楽奈は、燈が渡したあのミズアオイのノートを持っていた。燈の空いている方の手に、そのノートが強引に押し付けられる。
「お願い、たくさん聞いた。今度はわたしの番。ともりの“うた”が聞きたい」
「うた……?」
「そう。わたしの“うた”を」
そう言って、楽奈は自分の立ち位置に戻った。マイクとノートを持ってあたふたする燈に、愛音がステージ脇からマイクスタンドを持ってきてくれる。マイクをかけて、ノートを両手で捧げ持つ。顔をうずめるようにしてみれば、視界は、耕地整理された田んぼみたいな規則正しい緑の罫線の群れと、その中でのたくっている黒いミミズたちに占められた。
自分だけの世界――。誰にも届かない言葉たち――。
「……僕と君との間に降り込める 冷たい雨のカーテン」
抱えきれない水分をぽたぽたと垂らす雨雲のように、燈の唇から言葉が漏れ出てゆく。
言葉の隙間、どうしようもない無音をそっと埋めるのは楽奈のギターだ。と同時に、立希が、そよが、愛音が、示し合わせたかのようにそれぞれの楽器でもって、音の海に一斉に飛び込んでくる。
「遠く向こうに君の影絵が見えて。君と会いたくて、僕は走りだした。でも、どんなに駆けても、どんなに叫んでも、冷たい雨のドームに閉じ込められたままで、君には届かない」
――前にもこんなことがあった。あのときも、燈の言葉に、みんなが旋律を添えてくれた。繋がれた気がしたんだ。同じ景色を見れた気がしたんだ。最初に来てくれたのは楽奈ちゃんだった。だけど、私の言葉は、楽奈ちゃんには分からなかった。分からないなら、どうして私に音をくれたのだろう。どうして私と、一緒にうたってくれたのだろう。
燈の言葉に、音楽で応えた楽奈――。もっと昔にもそんなことがあった。
――思いだした。祥ちゃんだ。
燈の言葉に、初めてうたをくれた人――。
でも、彼女も、一度は燈を認めてくれた彼女でさえも、結局その心の内は分からない。理解することも理解されることもない。
金閣寺を見て綺麗だねと笑いあった同じ班の生徒も、冷たいと微笑した楽奈も、屋上ではにかんだ愛音もそうだ。言葉で、音楽で、微笑で、どんなに伝えようとしても無駄なのだ。確からしい解釈などなく、確かめる方法はなく、全ては闇の中だ!
ただ一つ、魔法じみたあの話を除いては……。拈華微笑――。釈迦の思いをありのまま受け止め、釈迦に向けて、ただ微笑んだ弟子。
その微笑を思い浮かべた燈はある違和感にぶつかった。
釈迦の意図を察した迦葉は、釈迦に向けて微笑した。
――なんのために?
釈迦と迦葉が本当に心を通じ合わせていたのだとしたら、一心同体になっていたとしたら、微笑を向ける必要などなかったはずだ! その気持ちが同じならば、態度に表さずともよかったはずだ! 喜びがこらえきれなかったのだろうか? ……違う。他の弟子にアピールしたかったのだろうか? ……違う。
彼は、伝えたかったのだ。釈迦に、何かを伝えたかったのだ。すなわち、二人の心は結ばれていなかった! だからこそ、伝える必要が、微笑する必要があった!
釈迦の一番弟子である迦葉……。彼だけが釈迦に己の意思を伝えようとした。たとえ、釈迦と以心伝心が叶わなかったとしても、その行動の全てを理解できなかったとしても、彼は、彼だけは笑った。黙るのではなく、伝えようとした。絶対の不可能を、断絶を知って、それでもなお、諦めなかった。
――私たちは、昨日一緒に演奏した。そして明日も一緒にみんなでライブをする。だから、怖いけど……怖くない。
そうだ。私たちは決して同じ景色をみることはできない。同じ感情を共有することはできない。真に理解しあうこともできない。だけど、伝えようとすることはできる。無明の闇に、それでも手と手を繋いで立ち向かうことはできる。微笑も、音楽も、言葉も、不完全だ。だけど、不完全だからこそ、僕らは笑い、音楽を奏で、言葉を交わすのだ。
顔を上げる。目の前には、深い夜空のような闇が広がっている。そこに鏤められた色とりどりの幾許の星……。天に瞬くそれらの星を、私たちはまとめて星と呼んでしまう。だけど、それらは全部違う星だ。色が同じでも、形が同じでも、全部、孤独な星なんだ。
私の言葉も、何万光年先にいる君に届く時には変わってしまうだろう。私と君とが分かり合える日は永遠に来ない。確からしい解釈もそこにはあり得ない。
それでも、いま、私は歌ってる。その歌を、いま、君は聴いている。分からないこそ、私たちは一つのものを分かち合っている。
「だけど、この雨を、一緒に浴びることは出来る。雨上がりの雲間から差し込む光の梯子を、共に見ることは出来る。君のことは何一つ分からない。でも、今ここにいるという事実だけは、それだけは、確かなんだ」
分からないということ、理解できないということ、他人と同じ景色を見ることができないということ……。
普通になりたいと思っていた。みんなみたいになりたいと思っていた。
でも、みんな孤独なんだ。綺麗だねと笑いあったときも、卒業式で泣いていたときも、燈は、自分には理解できないものを、分からないものを勝手にまとめて、普通の烙印を捺して逃げた。よく見れば、同じではなかったのだ。普通の人なんて誰もいなくて、相手を理解することができなくて、それでも伝えようとするから、同じ笑みを、同じ涙を分かちあうのだ。
人は孤独だけど、孤独と孤独とで手を取り合うことはできる。君にはなれないけれど、君の心は分からないけれど、君の手を握ることはできる。
燈がノートを閉じたのに合わせて、音楽も弱まってゆく。流れ星のようにオープンコードをひらめかせ、音を吐き切ったはずの楽奈が、バンドも、観客も裏切って、聴きなれたアルペジオを爪弾きだした。
「それ、私の見せ場ー」と憤慨する愛音に、にやりと笑って宣戦布告する楽奈。それでも、立希がハイハットを鳴らせば、不思議と綺麗にバトンタッチして、二人仲良くそよにぴったりとくっついている。
いつもと同じメンバー。同じメロディ。同じテンポ。だけど、それはちょっとずつ違う。私たちを繋ぐものは不完全で、だからこそ、何度だって歌う。何度だって叫ぶ。何度だってライブをする。
まだ分からないことがたくさんある。私の中にも、まだ伝えてない“うた”がたくさんある。だから私たちはずっとバンドを続ける。いつか、終わりのない終わりを迎えるその日まで――一生、うたい続ける。