104年後からの今 作:requesting anonymity
「おやウィーズリー。お前にあんな額の参加費が工面できたとは驚きだな。何を抵当に入れた?」
「それが僕にも判らないんだザビニ。あの12ガリオンがいったいウチのどっから出てきたのかがさ。家族にレプラコーンが居た覚えは無いんだけどな」
一昨年までなら諍いのキッカケになっていただろうやり取りをしながら、6年生たちはホグズミードにいくつもある飲食店の中でも特に後ろめたい評判の多い「ホッグズ・ヘッド」の、雑然とした裏手にひっそりと隠されていた扉からしか入れない、知る人ぞ知る地下室に集まっていた。
「ホッグズ・ヘッドに、こんなに広い地下室があったなんて……」
天井を見上げて感嘆の声を漏らしたのはラベンダー・ブラウンだったが、自分たちが案内された地下室の広さに驚いているのはハリーたちも同じだった。
ドーム状の天井からは真っ赤な布がいくつも壁沿いに垂らされていて、それらの布の端には必ず「G」と大きく刺繍が施されている。赤にGならグリフィンドールだろうと連想したハリーだったが、Gの横に続けて小さく「oat」とも刺繍してあることには気づけなかった。
赤は確かにグリフィンドール寮出身だからと選んだ色だが、現在のホッグズ・ヘッドでは「G」はグリフィンドールの頭文字ではないのだ。
吹き抜けになっている2階からは数人の闇祓いがハリーたちを見下ろしているが、その闇祓いたちは全員ハリーの知った顔で、中でもニンファドーラ・トンクスは明らかに警備ではなく見物人の気楽な佇まいだっただけでなく、目が合ったハリーに笑顔で手など振ってくれた。
そんな大勢の人を集めて盛大にダンスパーティーができそうな広間で、いつ講習が始まるのかとソワソワしながらひとかたまりになったまま待機しているハリーたちが周囲を興味深げに見渡していることに気づいたらしいホッグズ・ヘッドのバーテンが唐突に口を開いた。
「ここは1890年まではゴロツキのアジトだった。ビクトール・ルックウッド。覚えなくていいぞ試験になんか出てこない地味な悪党だからな。このつまらん男は当時ホッグズ・ヘッドのバーテンだったジャスパー・トラウトって中年オヤジを脅して、この地下室を『秘密の』ねぐらとして提供させていた。が、ホグワーツの学生を1人、どっかの城趾まで誘拐して『説得』しようとして、その1人の学生にお仲間共々まとめて殲滅された。それ以来この地下室はホッグズ・ヘッドのバーテンが好きに使える場所に戻った。仲間内だけの、客を入れない宴会をやったりとかな。今でもたまにウィアード・シスターズが練習場所に使ってたりもするが、主には俺の『自宅の応接間』だ」
ホッグズ・ヘッドのバーテンのお爺さんはそれだけ言うと、この広い部屋の隅にあるバーカウンターへと引っ込んでいった。
そのバーテンのお爺さんが誰の親族なのかを知っている生徒がいないのも当然の話で、なにしろこの気難しいバーテンときたら、普段は客に名前を訊かれた時すら滅多に名乗ろうとしないのだ。
ハリー・ポッターを始めとする何人か、特にスラグホーン先生のお気に入りの生徒たちなどは「アバーフォース・ダンブルドア」という名前を聞いたことならあったが、しかしアバーフォース本人から面と向かって名乗られた経験は無いので、まさかこのホッグズ・ヘッドの無愛想なバーテンがアルバス・ダンブルドアの実の弟だなどとは、ハリーたちは今でもまだ夢にも思っていない。
そもそもハリーが今まで聞いた「アルバス・ダンブルドアの弟のアバーフォース」の話はどれもアバーフォースが学生だった頃か、もしくはそれよりもさらに幼少期の他愛も無いエピソードばかりで、現在のアバーフォース・ダンブルドアの容姿などハリーは想像したことすら無いのだ。
「例年ならホグワーツの大広間で行う特別講習ですが、今年はどこかの誰かが『ホグズミードでやってくれたら見物できて楽しい』などと仰いまして、あろうことか校長先生がその提案を採用なさいましたので、安全面など考慮した結果、必要なだけの床面積と強固な防護を備えている場所として、このホッグズ・ヘッドの地下室を、利用させていただけることになりました。ですので当然、
城からここまでの引率役だったマクゴナガルがそう言うので、ハリーたちはマクゴナガルの後に続いて、今や隅のバーカウンターでカクテルを作り始めたバーテンに、声を揃えて感謝を述べた。
「どうもありがとうございます」
「……気にするな。ワガママを押し通されるのは慣れてる」
いつも通りの無愛想さで、バーテンのお爺さんはハリーたちに返事をした。
「ねえ僕ファラフェル食べたい。それで――ロルフも好きなの頼んでいいよ。きみのパパとママには前もってちゃんと許可もらってあるからね」
事前に許可を取るなんてことがいつの間にできるようになったんだコイツ、とホッグズ・ヘッドのバーテンは目をひん剥いて驚いている。
「ほんとう? ありがとうペットちょう。じゃあ僕ブドウが食べたい」
そのバーカウンターには既に客が3人いて、一番左に座っているのは小さな男の子だった。
「ブドウだな? ならちょうど良いのがあるぞ――」
男の子の左隣には椅子ではなく小さめの丸テーブルがあたかも椅子かのように置かれていて、その上にはヤドカリとリクガメと宝石の鉱床をかけ合わせたような魔法生物が鎮座している。
「――これだ。ニホンの『巨峰』ってやつだ。喰ってみろ」
そのバーテンが取り出した大皿に房のまま盛られているブドウは一粒でリンゴくらいのサイズがあると、そう見て取ったハリー・ポッターは思わず目を丸くしてしまった。
「わあー! おっきいねえアントニオ! ほらアントニオもひとっ、つぶ! 食べてみる?」
房から実をもぎ取るのに少し苦戦しつつも、その男の子は最初の一口を傍らの火蟹に譲った。
「切り分けた方が食べやすいんじゃないかいロルフ。これ粒ひとつがリンゴ1個くらいあるよ」
カウンターの一番右端に座っている男性がそう提案したが、すぐさまバーテンに否定される。
「解ってないな。そのままかぶりつくから嬉しいんだろこういうもんは」
「アブくんの言う通りだよ副部長。だってロルフは巨峰を初めて食べるんだから――あファラフェルありがとアブくん――どうだいロルフ。おいしい?」
「美味しいねえアントニオ。んぶ、む、これ美味しいねえアントニオぉ!」
その男の子の喜ぶ声は広間の全体に反響したので、こちらに背中を向けているロルフが両手だけでなく口のまわりも、あるいはもしかすると顔全体すらブドウの汁でベッチャベチャにしているだろうことも、どれだけ嬉しそうに笑っているのかも、ハリーには見えているかのように解った。
「あそこのチビが言ってる『アントニオ』ってのはもしかしてその隣の火蟹か?」
「そうだよセルウィン。あの子はロルフ。ロルフ・スキャマンダー。あの子は両親がどっちも無言者で、住み込みで働いてるんだって。だからロルフは神秘部で生まれ育ったんだって。去年神秘部に行った時、戦いが終わった後で会ったよ。その時もあの火蟹を連れてた。ロルフの方がアントニオより2時間早く生まれたから、ロルフがお兄ちゃんでアントニオが弟なんだってさ」
セルウィンくんの質問に答えてから、ネビルはようやく疑問を抱いた。
「あれっセルウィンなんで居るの? きみ7年生だろ? 去年この講習受けたんじゃないの?」
痛いところを突かれたはずのセルウィンくんは、しかし平然とネビルに事情を説明する。
「再試験にも合格できなかった奴は来年また講習からやり直しなんだ。頑張れよロングボトム。さもなきゃお前、おばあ様に『もう12ガリオン余計にかかる』って手紙を書く羽目になるぞ」
「それってつまりあなた去年の試験に落ちたってワケねセルウィン?」
ラベンダー・ブラウンがクスクス笑いながらそう訊いても、セルウィンくんは落ち着いていた。
「ご推察の通りだブラウン。左手親指の爪を肉ごと置き忘れてね。血で水たまりができた」
ばあちゃんにそんな手紙書いたら殺されちゃうよと想像しているネビルとそっくり同じの蒼褪めた顔になったラベンダーを見て、セルウィンくんは満足げにニンマリした。
ちょっとからかってやろうと試みたものの撃退されたラベンダーにパーバティ・パチルが無関係な話題を振って気分転換させてあげようとしている中、ハーマイオニーの視線は既に、あれが講師なのねと一目で判る、ホグワーツの教職員の誰でもない1人の小柄で細身の男と向けられていた。
「おはようございますみなさん」
大きな声を出してもいないのに、その男の挨拶は雑談していたハリーたち皆の耳にハッキリと届き、ハリーたち受講希望者一同は条件反射で声を揃えて「おはようございます」と返答した。
「私はウィルキー・トワイクロスです。魔法省から派遣された『姿くらまし』の指導教官です。ホグワーツの先生方ではなく魔法省職員が指導教官を務める理由は、『姿くらまし』が資格免許制であり、資格を与えるかどうかを決定するのが魔法省だからです。もしもこの中に『姿くらまし』あるいは『姿現し』と呼び表される技術について本当に何ひとつ知らないまま講習に参加している者が居るのなら、私は喜んで1から説明いたしますが――」
ロンやザビニ、ハーマイオニーなどは早く実技に移りたいと焦れているのが表情に現れているが、ノットとハリーはまったく同じ直感を抱いて、自分たちの横にいるはずのその2人を見た。
「なんだその『姿くらまし』って。知ってるかクラッブ」
「おれが知るわけないだろゴイル。なんかこう、姿を……くらますんだろ。たぶんな」
落雷を浴びたような驚愕をアゴが外れるんじゃないかと心配になるくらい大きく口を開けて顔いっぱいに表現したドラコがクラッブとゴイルに「姿くらましとは何ぞや」という話を1から丁寧に説明している間、ウィルキー・トワイクロスさんは親切にもただ黙って待っていてくれた。
そしてドラコの説明を聞き終えたクラッブは「おおー、なるほど! そりゃ便利だ!」というシンプルで素直な感想を述べて、周囲の女子たちをクスクスと笑わせることに成功したのだった。
「クラッブとゴイルは今日ここになんだと思って来たんだろうなポッター」
「僕はあいつらが親に何をどう説明して12ガリオン出してもらったのかが気になる」
今日もまた予想を超えてきたクラッブとゴイルの2人を横目に見ながらノットとハリーは海より深い呆れを共有しているが、思わず説明を担当してしまったドラコは既に少し疲弊していた。
一方、講師であるウィルキー・トワイクロスの視線は、ハリーたち受講希望者集団の最前列、すぐ目の前にいる1人の魔女へと注がれていた。
「……あなたがソール・クローカー氏から申し伝えがあった『受講希望の神秘部職員』ですね?」
「はいっ! それあたしです! あたしの名前はクローディア・クランウェル=ブラックです!」
「あなたが背負ってらっしゃるその大きなリュックには、何が入っているのですか?」
「おやつのチョコマフィンです! トワイクロス先生のぶんもちゃんとあります!」
挨拶は元気よくしなさいねというパパとママからの教えを実行したら神秘部の大人たちにすんごく褒めてもらえた、という経験を何度も何度して育ったので、クローディアは今日初めて会ったウィルキー・トワイクロスさんにも当然にそうしたのだった。
「元気があってとても良いですね。頑張ってくださいクランウェル=ブラックさん」
「はいっ! あたしは頑張ります!!」
正直なところ、クローディアの元気いっぱいさは昨日の疲れが寝ても取れない中年男性の身体には少々良くないかたちで響くのだが、しかしそれはこの子ではなく私の生活習慣の方に問題があるのだからと己に言い聞かせて、クローディアの大きな声が頭の中でビリビリと反響して寝不足気味の脳を揺らされているウィルキー・トワイクロスは、殊勝にもクローディアを褒めた。
「それでは早速始めましょうか。最初に言っておきますが、この講習会が全部で何回あるのかは皆様の成績次第です。極論、今日ひとり残らず百発百中で成功できるようになれば、これきりです」
トワイクロスがそう宣告した時、隅のバーカウンターから、ワインか何かのコルク栓を抜いたのだと見ずとも判る小気味の良い音が響いた。
「――ほら、お前が飲むかと思って取り寄せたんだ」
「マルフォイ醸造所の『スーペリア・レッド』って、不動産みたいな値段がするやつじゃ――」
「お。良かったねえ副部長。それ美味しいんだよすっごく」
その何ひとつ配慮などしてくれる様子が無い賑わいに集中力を削がれないようにと注意して自制心を働かせた結果かえってその会話や物音に気を惹かれてしまっているのはハリーだけではなかったが、そもそもここがホッグズ・ヘッドである以上は場違いなのは自分たちの方だとハリーは思っていたため、どれだけ集中力を削がれようとも怒りは湧いてこなかった。
「…………今から姿くらましをやるからちょっと静かにしててくれないかしら、なんてことを追っかけてきてる死喰い人に頼まなきゃいけないようじゃダメだものね……」
パドマ・パチルの呟きは、それが聞こえた全員を納得させた。
「では皆さん、前後のご友人とも、左右のご友人とも、周囲の誰とも、お互いに両腕をめいっぱい伸ばしても指先が触れ合わないだけの距離を空けてください」
ハリーたち受講者一同はトワイクロスに指示されるまま各々が両腕をめいっぱい左右や前後に伸ばして互いから距離を取って大きく広がり、1人ひとりが充分な練習場所を確保した。
ただ、1人だけパンパンに膨らんだ大きなリュックを背負っているクローディアの立ち姿とワクワクしているのが如実に現れている無邪気な笑顔は、どうやらそれを見た者に「トラブル」という単語を連想させるらしく、クローディアは周囲の皆から1.5倍ほど余分に距離を空けられていた。
「頑張りましょうねハーマイオニーちゃん!」
「……あなたそのリュック降ろしたほうがやりやすいんじゃない?」
「いいえハーマイオニーちゃん! だってこの中にはチョコマフィンが入ってますから!」
「そ……そう…………あなたがそれでいいなら……いいけど……」
クローディアが自分たちより7歳年上だという事実は、未だにハリーを混乱させた。
そしてハリーがまたしても隅のバーカウンターに集中力を横取りされて視線を向けてみたら、ちょうどバーテンが自分で作ったカクテルを自分で飲み干すところだった。
「それってもっとちょっとずつ飲むものじゃないの?」
「まあまあ良いじゃん副部長。自分で作って飲んでるんだからさ――ファラフェルおかわり」
ハリーが聞き取れた限りではバーテンの爺さんは「客がこれを一気に飲みやがったら俺は怒る」と言いながらグラスをバーカウンターに置き、そのまま次なるカクテルを作り始めた。
「良いですか? 姿くらましを成功させるために大切なのは――」ウィルキー・トワイクロスが喋り始めたので、ハリーは慌てて意識を向こうのバーカウンターから正面のトワイクロスへと戻す。「――3つの『D』、『
トワイクロスはそこで一旦言葉を切って、緩やかに杖を一振りした。するとハリーたち受講者それぞれの前に1人ひとつずつ、肩幅くらいの直径の輪が出現した。輪は木製で、大昔からこのためだけに継続使用されてきた魔法省の備品なのだとすぐに判るほど年季が入っていた。
「今回はそちらの輪の中です。ハッキリと意識を集中してください。自分が今からどこへ行くのか。アナタがた1人ひとり、各々、自分の目の前の輪の中へ『姿現し』します。目の前ですから、思い浮かべるのは比較的容易ですね。いいですね? 集中してください。『
ハリーたちは皆、周囲をチラチラと盗み見て、自分以外も目の前の床に置かれた輪へと意識を集中させようと努力しているのか、どの程度集中できているのかを確かめようとした。
ハリーが見た限りではザビニもノットも各々の輪を凝視していて、守護霊呪文をハリーが教えた時くらいの集中力を注ぎ込んでいるようだったが、そのすぐ隣のシェーマスは明らかに、クローディアのでっかいリュックに気を取られていた。
次に視界に入ったロンもネビルもドラコも便秘5年目みたいな顔をしていたので、ハリーは自分の集中力が他所へ逸れてしまっているとようやく自覚した。
「いいですか? 集中し続けてください。次は『
ハリーは目の前の輪っかに集中しようとしたが、そうすればするほど隅のバーカウンターから聞こえてくる「もう1個食べるアントニオ?」とか「ほら副部長ファラフェルをお食べよ」とかいう団欒の声や、食事している火蟹のハサミが皿に当たっているのだろうカチャカチャという音がどうしてもハリーの耳から頭の中へと割り込んできて、いまいち集中しきれないのだった。
(こんな程度の物音が原因で失敗するなら、どっちみち姿くらましを習得なんかできない……)
ハリーは自分にそう言い聞かせて、邪魔しないでほしいなあというような雑念を振り払う。
「最後に『
視線のみで穴を開けようと試みているかのように、あるいはそこでピーター・ペティグリューが父さんの顔を踏んでいるんだというくらいに、ハリーは目の前の輪っかだけを睨みつけている。
「――いち、に……さん!!」
トワイクロスが合図した次の瞬間ドサリとかバタリとかいう音が周囲からいくつも聞こえてきたので、つま先だけで回転してその場ですっ転んだのは自分だけではないことがハリーにも判った。
最も上手くできていたのはハリーが起き上がりながら見た限りではクローディアとドラコの2人だったが、この2人も単に転ばなかったというだけで、姿くらましに成功したわけではなかった。
「かまわん、かまわん――誰しもが最初はこうです。転んだ拍子に頭を打った者が居ないだけ、私が初めてこの講習を受けた時よりも皆さんは上手くできています。さあ練習を続けましょう。ほら立って! いいですか? 行きますよ――」
トワイクロスは10秒ほどの猶予をハリーたちに与えてから、2度目の号令をかけた。
「いち、に…………さん!」
そしてバチンという大きな音と、ドサリという転んだ音、そして思わず両耳を手で抑えてしまうほどの悲鳴が響き渡った。
ハーマイオニーが息を飲む声が聞こえたハリーも悲鳴の出どころを見てみれば、輪っかの中に姿現しすることには成功したスーザン・ボーンズが、左膝から先を元居たところに置いてきていた。
スーザンの左足は容赦なくスッパリと切断されていて、蛇口を捻ったように流血し続けている。
「大変、スーザンが!!」
思わず叫んでしまったのはハンナ・アボットだけではなかった。
一方、隅のバーカウンターにちょこんと座っているロルフはどうやら今の悲鳴も物音も全く聞こえていないらしく、動揺するどころか振り向くこともなく、美味しいねえ美味しいねえと繰り返しながら、粒ひとつがリンゴくらいあるニホン産の大きなブドウ「巨峰」を夢中で食べ続けている。
「ちょっと待っててくれるかいロルフ」
悲鳴が響くよりも先にロルフ・スキャマンダーの耳を塞いでいたらしいその魔法使いは音もなくスーザン・ボーンズのすぐ傍に「姿現し」してしゃがみ込み、切断されてしまっているスーザンの左膝に自分の右手を翳した。
(あの人、確か神秘部の副部長さんだよな。神秘部で僕らを助けてくれて、シリウスと先生とアンブリッジがウィゼンガモットで裁判受けるところを大広間まで来て僕らに見せてくれた人)
神秘部部長がバーカウンターに着座したままロルフと火蟹の気を引いている隙に、神秘部副部長を務めるその魔法使いはスーザン・ボーンズを救護し始めた。
「息を大きく吸って、大きく吐いてね。痛みは頑張って我慢しよう」
ハリーはその魔法使いがてっきりスーザンの切断された左脚の流血を止めるのだと予想したが、そうではなかった。スーザンの切断された左脚から流れ出て床に池を作りつつあった血は今や蛇のように一筋にまとまって空中をうねり、少し離れた位置に転がっているスーザンの左脚の膝から下の部分へと伸びていく。
続いて神秘部副部長がスーザンの左脚の切断面に翳している右手の輪郭が、着ているジャケットの裾ごとぼやけ始め、形を崩して霧か煙のようにズルズルと伸び広がっていき、スーザンの左脚の切り離された先端部分までその霧か煙のような物体は届いた。
「あの人、副部長さん、あれはいったい何をやってるのかしら……?」
ハーマイオニーの呟きは、ハリーたちのみならずトワイクロスの心情をも代弁するものだった。
神秘部副部長の、輪郭が曖昧な右手から伸び広がった霧か煙のようなものはスーザンの左脚と、切断された膝から下の部分、そしてその2つを繋いでいる蛇のように空中をうねる流血の全てを、床の石材をいくらか溶かして混ざりながら包みこんでいく。
「大丈夫。こうしたほうが僕がやりやすいだけで、きみが浴びるのは普通の治癒魔法だよ」
神秘部副部長を務める魔法使いがスーザンにそう言った直後、眩い光がスーザンの左脚を包んでいる霧か煙のようなものの内側から炸裂して、ハリーたちは思わず顔を逸らした。
ハリーが視線を戻すとスーザンの左脚は綺麗さっぱり元通りに繋がっていて、スーザンの脚を治した魔法使いの右手も、魔法なんか何ひとつ使っていませんよとでも言うかのように元に戻っていて、そこから広がっていたはずの霧か煙のようなものはどこにも全く残っていなかった。
「割り込んですいませんトワイクロス教授」
最後にそれだけ言った神秘部副部長は、また隅のバーカウンターへ戻っていった。
「……いえ、お手伝い感謝します。大丈夫ですかミス・ボーンズ?」
はい大丈夫ですと答えて立ち上がったスーザン・ボーンズだったが、しかし脚が元通りになっても心の動揺までは収まりきっていない様子で、額にはまだ汗が光っている。
「いいですか皆さん」
トワイクロスは大きめの声でそう言って、ハリーたちの注目を不明な方法でスーザン・ボーンズの脚を治した魔法使いから自分へと引き戻した。
「今ミス・ボーンズは左脚の膝から下をその場に残して、他の部分だけで『姿くらまし』しましたね? これを『ばらける』と言います。『ばらける』のは、3つの『D』の2つ目、『
ハリーはその説明をしっかりと聴いてちゃんと理解したが、それでも、困難だと体感し制限があると知り危険性を目の当たりにしても尚、自分の意思で自由にどこかからどこかへと現れたり消えたりできるというのは、絶対にできるようになりたいと渇望してしまうほどに魅力的だった。
ヴォルデモートを斃すのに役立つだろうとか、分霊箱探しに役立つだろうとか、そういう打算はハッキリ言って二の次で、ハリーが姿くらましを習得したい理由はもっとシンプルだった。
カッコいいから。
そして、脚がちぎれるというトラウマになってもおかしくない体験をしたスーザン・ボーンズも含めて皆が強い意欲をもってその後も練習を続け、今の挑戦で何回目なのかなどハリーには全く判らなくなった頃、最初に成功したのはクローディアだった。
「ぷんぎゃ!」
どこも「ばらける」ことなく輪の中へ姿現しできたクローディアだったが、しかし何故か空中にうつ伏せの姿勢で出現したために、そのまま床に落下してお腹と胸をしっかりと打ったのだった。
「素晴らしいですね、流石は無言者です。その調子ですよ。大丈夫ですか?」
「だいじょぶです……チョコマフィンは無事です……」
相当に痛かったらしいクローディアは、しかしすぐに起き上がった。
直後クローディアが期待を込めて隅のバーカウンターへと視線を向けてみたら、期待した通りに、ぶちょうはこっちを見てくれていた。
「どうしてもって強ふ念じ続けて、慌えず慎重に、どういう意図へって意識するん美味しいねえこのファラフェル。そうすれば今度は転ばないよクローディア。頑張って。見ふぇるからさ」
神秘部部長はバーカウンターの席に座ったままバーカウンターに背を向けていて、揚げ物らしき謎の球体を次々と口に放り込みながらクローディアおよびその他の姿くらまし講習受講者たちを、ショーか何かのように楽しんで見物している。
あの先生は僕らを安心させるために見守ってくれているのではなく単に野次馬根性でそこに居るのだと、ハリーたち6年生も去年合格できなかった再受講者のセルウィンくんも理解していた。
「――いち、に、さん!」
その後もハリーたちはトワイクロスの合図に従って練習を続け、何度も何度も繰り返すうちに遂にクラッブとゴイルも転ばずにその場で優雅にくるりと回転できるようになった頃。
「あ。居たロルフ。ほんとに広いんだね」
その夢見心地かのように聞こえる声が誰のものなのか、ハリーは振り返るまでもなく判った。
「ルーナ!」
神秘部部長を務める魔法使いに小突かれてやっと気づいたロルフは、大喜びで今このホッグズ・ヘッドの地下室に到着したばかりの待ち人に歓迎の挨拶をしようとして、そこで自分が手も口の周りもブドウの汁でベチャベチャだという現状に気づいた。
「あっあのねルーナ違うんだよ僕ねルーナが来るまで食べるの待ってようって思ってたんだよだけどねこのおっきいブドウがとってもとっても美味しそうでねアントニオも嬉しそうでね」
ロルフがごにょごにょと言い訳している間に神秘部部長が杖を取り出して、ロルフの手と口の周りを魔法で綺麗に洗って拭いてくれた。
「アントニオ、確かにちょっとだけ大きくなってるね」
「そうなんだよ! あルーナねえアントニオの脱いだ殻、見る? 僕ね全部集めてね、今日ルーナに見せようと思って持ってきたんだ!」
「ワオ、それは見てみたいな――このとっても大きなブドウはなあに?」
ルーナはハリーたちには見向きもせずに広間の隅のバーカウンターへと吸い込まれていって、そのバーカウンターのロルフと神秘部部長の間の位置に出現したばかりの新しい椅子に着席した。
「先生、椅子ありがとう」
「お気になさらずー。どうして僕だって判ったんだいルーナ」
「どうしてって、杖振ってたでしょ? 自分の身体で隠してそーっと」
「……僕にまだこの権限があるとは思えないけど一応レイブンクローに5点」
ルーナが隣に座ってくれたのがよっぽど嬉しいのか、ロルフは今や体ごとルーナの方を向いていて、ルーナはルーナでバーテンのお爺さんに何も注文しないままロルフの話を聴いている。
「ルーナあのねこのおっきいブドウね『キョホー』って言ってね、ニホンのブドウなんだって! 食べてみて食べてみて美味しいんだよ! あそれとねこれがねアントニオの殻のいっこでね――」
「いいですか? 集中していますか? 冷静さを保てていますか? いきますよ」
合図しようとするトワイクロスの声が聞こえたので、ハリーは慌てて意識を隅のバーカウンターから目の前の床の輪っかへと引き戻して、大急ぎで意識を集中させた。
「いち、に……さん!」
バチンと大きな音が響いたが、ハリーが起き上がりながら周囲を見渡してみれば、音の出どころはハリーたち姿くらまし教習受講者の誰でもなかった。
「ペニーはお客様をお連れしました」
すてきな花飾りのついた麦わら帽子を被った屋敷しもべ妖精が、優雅にカールした黒髪の魔法使いを伴って、隅のバーカウンターのすぐ傍に「姿現し」していた。
「ありがとペニー。僕に何か用かいシリウスくん?」
「先生に見てほしいものがあるんです――キングズリーにも見せたんですが――これです。このロケットペンダントのネックレス。グリモールド・プレイスを…………掃除していて。見つけたんですが、覚えている限りでは、父のコレクションでも母のコレクションでも、他の誰のものでも……あの家で全くこれまで見たことがなかったものなので、何かご存知だったりしないかと――」
そう言いながらシリウスが取り出したのは、表面に緑色の宝石がいくつも嵌め込まれて「S」の文字を象っている、大きな金色のロケットペンダントだった。
「…………どうしてこれがきみんちから見つかるのかなシリウスくん」
そのロケットペンダントを一目見た途端に、神秘部部長の顔から楽しげな笑顔は消え、予想のどれとも違う奇妙極まる結果を出した実験を見届けた時のような、怪訝そうな表情になった。
眉間に深くシワを寄せながら、その魔法使いはシリウスに確認する。
「これが本当にきみの実家から、あのブラック校長の『グリモールド・プレイス12番地』から出てきたんだねシリウスくん? 確かだね?」
「ええ、そうです。先生はやはりご存知なのですか? これは値打ち物なのですか? シャックルボルトのSかとも思ったんですが、キングズリーが違うと言うので――じゃあセルウィンかなと」
まだシリウスが事態を正しく認識できていないのは当たり前で、自分ひとりで納得している神秘部部長は未だシリウスに何一つ説明してくれていないのだ。
「ウィルキーくん! ちょっとの間ハリー・ポッターを借りてもいいかい!」
「ええ構いませんよ。ミスター・ポッターが不在の間も残った者たちが練習を続けてよければ」
「それで良いよ――ハリー! ちょっとごめんねこっち来て! ロルフごめんね僕ちょっと今からお仕事できちゃったけどすぐ戻ってくるからね――ハリー、シリウスくん。ついてきて」
わけもわからないままハリーとシリウス・ブラックはアルバス・ダンブルドアの学生時代の先輩でもあるその魔法使いについて歩いて、まさかこんなに広いとは思っていなかったホッグズ・ヘッドの地下室の奥の通路をさらに進んだ先の、一番奥の行き止まりの部屋までやってきた。
「ここけっこう音が響くからねえ」
先生がそう言って杖を一振りすると、ハリーとシリウスが通ってきたばかりの通路の床と天井と壁とが急激に収縮して完全に閉塞した。
「これでよし。でシリウスくん。いいかい? 僕がそれを最後に見たのは僕がホグワーツの7年生だった年だ。僕の同級生の父親がそれを身につけてた。同級生の名前はオミニス・『ゴーント』。だけどこれは100年以上前の記憶だ。間違ってるかもしれない。けど、そのロケットが僕が思ってる『それ』なら、もっと最近に、ハッキリと見た有力な証人が居る。ハリーだ。ねえハリー、シリウスが持ってるそのロケット、きみがアルバスに見せてもらった『記憶』で見たことないかい?」
シリウスは、ハリーにそのロケットペンダントを見せる。
「みっ、見たことがあります、先生。これはサラザール・スリザリンのネックレスです。スリザリンのロケットです。この『S』はスリザリンのSです。それもスリザリン寮って意味じゃなく、スリザリン個人を意味するSです。ヘプジバ・スミスって婆さんにこれを見せられたトム・リドルが目の色を変えるところを僕は『憂いの篩』で見ました。だからこれは十中八九――でもなんで――」
ハリーの証言を遮って、その魔法使いは結論を述べた。
「分霊箱だね。十中八九。どうしてグリモールド・プレイスにあったのかは謎も謎だけど……とりあえず分霊箱かどうかを確かめるのは簡単だ――」
その魔法使いは言い終わるより先にシリウスの手からロケットを奪い、床に置いた。
「ディフィンド! エクスパルソ! コンフリンゴ! ボンバーダ! レダクト!」
密室を轟音が包みこんだが、土煙が収まってみれば、破壊されたのは床だけだった。
「無傷…………」
ハリーとシリウスは驚いているが、呪文を連発したその魔法使いは驚いていない。
「まあサラザール・スリザリンが施した魔法による元々からの頑丈さかもしれないけど……ハリー、アルバスに見せてもらった記憶の中で、トムはこれを入手してたんだね?」
「入手する直前までを見ました。ヘプジバ・スミスは僕が見た記憶の3日後に死体で発見され、スリザリンのロケットとハッフルパフのカップが失くなっていたそうです」
ハリーがそう言うと、その魔法使いはどこからともなくステッカーだらけの旅行カバンを取り出して足元に置き、開いてその中へと呼びかけた。
「パーシバルぅー。ちょっと手伝ってほしいんだけどー! 毒採らせてくれないかーい!」
「そりゃ構わないが気をつけろよ!」という声が聞こえた数秒後、カバンの中からハリーの腕より大きいサソリの尻尾だけがぬうっと伸びてきた。
この先生が飼ってるマンティコアの「パーシバル」が尻尾だけをこっちに出してくれたのだと、ハリーにもシリウスにもすぐに判った。
「ほんの2、3滴でいいんだ……」と呟きながら、その魔法使いは杖の先をマンティコアの尾の先に翳し、そこから3滴だけ分泌された琥珀色の雫を杖で操って、床に転がったままのスリザリンのロケットの少し上の空中で待機させた。
そしてその魔法使いは「ありがともういいよ」と言いながら杖を持っていない方の手でマンティコアの尻尾を小突いて引っ込ませ、カバンを閉じてしっかりとその手に持った。
「ハリー、僕が合図したら蛇語で『開け』って言ってみて。それでしか開かないんだって、確か、むかーしオミニスが言ってたからね…………今だ!」
〈開け〉
ハリーが蛇語で命じた途端にバネ仕掛けのように勢い良く開いたロケットペンダントの中からは何か灰色の煙のようなものが僅かに吹き出し瞬く間に量を増して立ち昇り始めたが、しかしそこにすぐさま空中で待機していた3滴のマンティコアの毒が浴びせかけられた。
「逃げるよ2人とも!」
マンティコアの毒を浴びた瞬間スリザリンのロケットは爆発したかのように真っ黒い煙を勢い良く大量に噴き上げ、悲鳴にしか聞こえない凄まじい轟音が響き渡る。
スリザリンのロケットから噴出した煙は部屋を埋め尽くしヴォルデモートの顔の形になり、大きな口を開けてハリーたち3人を飲み込もうと迫る。
先生に促されるまでもなく、ハリーとシリウスは閉塞していたはずの通路を大慌てで走り抜けて撤退し、最後尾で逃げたその魔法使いは自分の背後に杖を向けていま開けたばかりの通路を再び絞るように閉鎖し、分霊箱の最期の悪あがきを行き止まりの密室に封じ込めた。
そして念のために数分待機してから、その魔法使いは行き止まりの部屋への通路を再び開いた。
「お邪魔しまーーす……」
ハリーの視界に飛び込んできたのは先ほどまでよりさらに破壊されてひび割れだらけで粉々で黒焦げの床と、その中央にあるドロドロに溶けてひしゃげた、火事で全焼した建物の跡から見つかったかのように酷い状態になり果てた、かつてスリザリンのロケットだった炭クズ。
「うわ崩れた……じゃあここ人んちだし掃除しなきゃな……」
そのスリザリンのロケットだった炭クズを無警戒にも素手で拾い上げようとしたその魔法使いは、ボロボロと崩壊した黒い残骸を見下ろして、かつてスリザリンのロケットだった残骸を杖で操って粉の一片まで余さず拾い上げ、もう片方の手を振って創り出した透明なパウチに収納した。
「ふう。大手柄だよシリウスくん。なんできみんちにあったのかって謎が残ったけど」
「あの、先生……質問いいですか」
「いいよぉ。なんだいシリウスくん。なんでも訊いてよ」
「先生とハリーがさっき仰ってた『分霊箱』とは、なんですか」
話の流れにも事態の展開にもまったくついてこられていなかったシリウスの頭の中は、今に至るまでずっと疑問でいっぱいだったのだ。
「ああー。そうだね、そうだよね。簡単に説明したげるけど、とりあえずハリーは姿くらましの講習会に戻って。あんまり長く離脱してるとみんな気になるだろうし……ハリーのパパとママに関係する話を確認されたとでも言いな。そう言えばあんまり深く訊かれないだろうし。それでシリウスくんは、今からは僕と一緒にアントニオの脱皮祝いパーティに参加してね。ハリーが姿くらましの練習するとこ見たいだろうシリウスくん。で、それが終わったら今あったことをアルバスに報告」
さあ行った行ったと急かされて皆の所へと戻ったハリーだったが、しかし今さら「3つのD」なんぞに集中し直せるはずもなく、その後は何ひとつ進展しないまま、ただひたすらにその場で回っては転び回っては転びを繰り返すだけで、ハリーの第1回の姿くらまし講習は終わったのだった。
【ホッグズ・ヘッドの隠し地下室】
ゲーム「ホグワーツ・レガシー」内において主人公が侵入することになる空間。ホッグズ・ヘッド店内からは入れず、裏手に入り口がある。ビクトール・ルックウッドの部下がいっぱいいた。
この場所を当時のホッグズ・ヘッドのバーテンであるジャスパー・トラウトが「脅されて」ルックウッドのギャングに提供していたというのは私の妄想。
【マルフォイ醸造所】Malfoy Apothecary
【スーペリア・レッド】Superior Red
映画「死の秘宝Part.1」の小道具として登場するワインと、そのラベルに印字された製造元。
マンティコアの毒で分霊箱が破壊できるというのも「できるだろう」という私の妄想です。