「はじめまして、窓際の王子様。せっかくここで出会えたんだ、君の名前を教えてくれないかい?」
「……あ、
高校二年生の冬のこと。一向に良くならない病気とびくとも動かない身体。ただ無機質な病室の窓から見える枯れ木を眺めることしかできなかったおれの世界に、君という春風がふわりと吹いたことを、今でも覚えている。
春風のように突然現れた君は、まるで絵本の王子様のようなポーズをしながら、世界を笑顔にするのが夢であるんだと、そのためにこの病院に来ていたらおれに出会ったんだ、と言っていた。
なんかこう、全体的にキラキラしすぎてたから、本当におれと同じ人間なのか不安になったけど、話してみたらすごく優しくて、あったかくて。おれの知らない外の世界とか、たくさん教えてくれた。
不思議な子だな、って思った。だけど、もう一度この子に会いたいなって、思った。だからお母さんに頼んで、君の連絡先を教えてもらった。
そしたら、君が、たくさん会いに来てくれるようになった。君と話すの、すごい楽しいから、つまらなかった病院生活が、楽しくなった。君と過ごしていくうちに、病気も少しずつ良くなって、身体も少しずつ動くようになって、嬉しかった。
そんなある日、ついにおれはこの病院を退院できることになった。でも、まだ身体が本調子じゃないから、誰かがそばにいてあげないとダメだって、先生に言われた。
でも、お父さんもお母さんも仕事で忙しいし、誰も頼れない。どうしようってなって、君に連絡したら、そのメッセージを見るなり君はおれの病室までやってきてくれて、おれの目の前に跪いてこう言ってくれたんだ。
「大丈夫さ、碧生。これからはこの私、瀬田薫が君の王子として君を守り抜くことを誓おう」
その日から、君は、薫は、おれのことを守ってくれる大切な王子様。誰よりも「強くて」優しい、おれの王子様。
「おはよう、碧生。昨日はよく眠れたかい?」
「ん……おはよ、薫。起こしに来てくれたんだ。おれももう自分で起きられるし、別にこうして起こしに来なくても大丈夫なのに……」
「確かにそうだね。でも、今日は待ちに待った約束の日だ、待ちきれなくて来てしまったのさ……!」
今日の目覚ましは、君の柔らかい声だった。君はそう言っておれの部屋をカーテンを開け、眩しい太陽の光が部屋を照らす。おれはベッドから起き上がって頬を叩いて目を覚まし、改めて薫におはようを告げる。
そう、なんたって今日は大切な約束の日。今まで病室で寝たきりか、頑張っても近くのコンビニしか行けなかったおれと薫が初めて遠くに出かける、そんな日。
「今日は確か、薫のおじさんの別荘で退院二周年おめでとうパーティー! をする予定、だったよね。こころちゃんたちも一緒に祝ってくれるの、嬉しいな」
「フフ、碧生に楽しんでもらえるようみんなでたくさん準備をしたからね、楽しみにしていておくれ……!」
こうして嬉しそうにしている薫を見ると、おれも嬉しい。薫は、この二年間、ずっとそばでおれのことを守ってくれていたから。おれの、王子様として。
この笑顔を見れるだけで、リハビリを頑張っててよかったな、って思う。薫が見守ってくれてなきゃ、多分挫折してたと思うし。本当に、薫と出会えてよかったな。
「それにしても、リハビリしてたのももう半年前か。薫が応援してくれてたおかげかな、健康な人と同じくらいちゃんと身体も動くようになったし、本当に良かったなあ」
「いや、私は何もしていないよ。私はただ君の頑張りを見守っていただけで、リハビリを頑張ったのは碧生さ」
「薫、らしいね」
でも、薫はこうして何もしてないよーってとぼけるんだよな。そんなところもかっこよくて、好きだなあ。なんて、恥ずかしくて言えないけどね。
そんな王子様に連れられ、おれは家を出る。一月の空気はちょっとだけ寒いけど、薫とだったら寒くない。最寄駅に着いたら電車に乗って、おじさんが待ってくれてる駅に向かうんだ。
「碧生、電車は大丈夫かい? 気持ち悪くなったら私に教えておくれ」
「うん、大丈夫。ところでこの椅子、おれが座っちゃって本当に大丈夫だった? 薫、疲れちゃわない?」
「君を立たせっぱなしにするのは、王子の名が廃るからね。それに、碧生と一緒に電車に乗っている、それだけで私はとても儚い気持ちになれるんだ……」
電車の中でも、薫は相変わらずエスコートしてくれる。電車にガタンゴトン、と揺られたのは何年ぶりだろう? とてもワクワクしている。
ただ、気になる点がひとつ。この座席のことだ。おれとしてはこの座席は薫に座って欲しいんだけど、薫はどこまでも王子様だから、きっと座ってくれないんだろうな。おれ、別に四時間ぐらい立ちっぱでも大丈夫になったんだけどなあ。
「薫は本当に王子様みたいだね」
「王子様みたい、ではなく私はいつでも王子様であるつもりさ。いついかなる時も儚く強くいないと、何かあった時君を守れないからね」
「そっか。さすがだな、おれの王子様」
ああ、薫はやっぱりかっこいい。おれも、薫みたいにかっこよくなれたらいいのにな。おれが薫みたいにかっこよくなったら、今度はおれが薫を守ってあげたい、なんて、ちょっと照れくさいかな。
そんなことを考えながら、電車にゆらりゆられ。一際大きな駅に着くと薫のおじさんが待っていて、おれたちふたりを乗せて山奥の別荘へと連れて行ってくれるのだった。
薫たちが開いてくれたパーティーは、とっても楽しかった。薫がやってくれた登場人物全員薫の舞台は、思わず笑っちゃったけど。
みんなおれが歩けるようになったことを心から喜んでくれて、おめでとうって言ってくれた。こんなに優しい人たちに囲まれて、おれは幸せ者だなあって、思った。
ご飯もすごく美味しくて、病室の塩気のないご飯とは大違い! たくさん食べていいよって薫が言ってくれるからたくさん食べちゃったけど、大丈夫かな? なんて考えたりして。
そういえば、だ。今日はパーティーだからだろうか。普段と打って変わって、薫はその長い髪を下ろして、赤いドレスを身に纏っている。ドレス姿の薫は、普段いつも一緒にいるはずのおれですら見惚れてしまうほど綺麗で、思わずドキドキしてしまう。
本当は着替えない予定だったけど、ハロハピのみんなにドレスの方がいいよ! と言われてしまってね、と笑う薫の横顔は、すごく綺麗で。あまりにも綺麗で直視できないからこそ、視線を逸らそうとしたその瞬間。ふと、ドレスに包まれた薫の身体が目に入った。
普段は服の下に隠れているであろう、君の細い細い身体。ああ、君はいつもその細い腕を使い、ギターを弾いているんだな。その華奢な肩を張り、舞台に立っているんだな。その細い腰をひねり、ポーズを決めているんだな。その細い首から、凛と鈴がなるようなやさしい声を出しているんだな。
そう思うと、目の前にいる君がたまらなく愛おしく感じてきた。だって、君の腕はこんなにも細くてやわらかい。このまま強く握ったら、折れちゃいそう。例えば、そう、もっと、握る力を強くして、このまま、強く、ぎゅっと。
──気づけばおれは、薫の腕を強く握りしめていた。
「──痛……っ!」
薫の声で、ようやく意識がハッとする。おれ、今、薫に、何をしてたんだろう。慌てて薫の腕から手を離すと、さっき掴んでいたはずの場所が腫れて赤く染まっていた。
なんで、おれは、薫を傷つけるようなことをしたんだろう。薫を傷つけるようなことなんてしたくないのに。薫は、おれの大切な王子様なのに。
「ご、ごめん、薫、おれ」
「だ、大丈夫、だよ。気にしないでおくれ」
薫の声が、少し震えているのがわかった。それもそうだろう、目の前の男に、急に腕を掴まれたのだから。それも、普通なら考えられないほど力を込めて。
おれはどうしようもなくなって、薫に「ごめん」と謝ると、そのまま自室に帰って行った。薫の腕、痕が残らないといいな。痛いのが、なくなってたらいいな。それに、改めてまた薫に謝らないと。こうして薫を傷つけてしまった以上、パーティーを楽しむなんてことはおれにはできなくて、自室に戻ってただ自分を責めていた。
布団の中で、何度も忘れようとした。頭の中から追い出そうとした。それなのに、ずっと薫の腕の感触が忘れられない。
おれよりもずっと細くて、華奢で、やわらかい、君の腕。ふわりと香る甘い匂いと、ほのかな体温が、どうしても忘れられない。爪を食い込ませた時、少しだけ押し返してくる弾力のある肌の感覚が、ずっとずっと消えてくれないのだ。
じゃあ、首も? 首はもっと、温かい? 細くて華奢で繊細で、力を込めるだけで折れてしまう? いや、折れてしまうことはないとは思うけど、君は、上手に息ができなくて苦しんでしまうかな。
そう思えば思うほど、今までおれの王子様でいてくれていた薫が、今までおれを守ってくれてくれていた薫が、途端に「弱い」存在に思えてしまう。
おれ、ずっと薫に守ってもらって、どんな時もエスコートしてもらって、ずっと王子様でいてもらうって、思ってたのに。ずっと薫は誰よりも「強い」って思ってたのに。
でも、そっか。薫って、女の子、なんだよな。か弱くて、華奢で、繊細で。男と真っ向から取っ組み合いになったりなんかした日にはそのまま殺されてしまうような、女の子、なんだよな。そう思うと、おれの中が何かが昂って、そのままおかしくなってしまいそうだ。
「碧生、まだ起きているかい? 安心したまえ、さっきのことは気にしていないよ。だからリビングに戻っておいで。ちょうど君の好きなビーフシチューが出来上がった──」
──ああ、やっぱり薫の首は細くて綺麗だなあ。
薫が部屋に入ってきたのと同時におれは薫の身体をベッドに押し倒し、その細い首に手をかけて少しずつ体重をかけていく。
首を絞められて上手く呼吸ができなくなってしまったからかな、ひどく咳き込んで苦しそうにする薫の姿を見て、より腕に力が入る。だってしょうがないじゃないか、こんな君の顔、今まで見たことないんだから。
──ねえ、薫。おれ、男なんだよ。男だからさ、薫のこと、殺せちゃうんだよ。
そう口にしようとした瞬間、薫の意識がだんだんと薄れて行っていることに気がつく。目がだんだんと虚になり、身体もだらんとしてきて、それでも、君は、薫は、か細い声を振り絞っておれの名前を呼んだ。
……その時、ようやくおれは自分が許されざることをしてしまったことを理解する。
「ごめん、ごめん、ごめん、ごめん……!」
おれは急いで薫の首から手を離す。それによって急に肺に酸素が入ってくるからだろうか、薫はひどく咳き込んでいる。顔色も悪く、息も絶え絶えで、もしおれがさっき手を離さなかったら、そのまま死んでしまっていたかもしれない。
下手すれば世界で一番大切な人を自分の手で殺めていたのかもしれないと思うと、恐怖で頭がおかしくなりそうになる。おかげで汗と涙が止まらないし、胃の中にあるもの全てが逆流してそのまま吐き出してしまいそうな気持ち悪さがやってきて気が狂いそうだ。
ああ、そうだよ。おれは、薫のことが大好きだ。殺したいだなんて、一度も思ったことはない。傷つけるなんてもってのほか、首を絞める行為なんて、絶対にしたくなかったのに。
それでも君は、汗と涙でべしょべしょになりながら壊れた機械のように無機質な謝罪を繰り返すおれの身体を抱きしめて大丈夫だよ、と優しい言葉をかけてくれる。その優しさで、おれはもっとぐちゃぐちゃになる。
薫の体温、あったかいな。薫の匂い、落ち着くな。薫の身体、華奢で柔らかくて、ああ、やっぱり女の子なんだな。今まであまり意識したことはなかったけど、こうして抱きしめられると改めて男と女の身体の違いを思い知る。
おれが思うよりもずっと、きみは非力なんだって。おれが思うよりもずっと、おれには力があるんだって。それがわかってしまう気がして、君の身体を抱き返すのが怖くなってしまう。
「……碧生」
そんな時、呼ばれるおれの名前。その声は、相変わらず優しかった。薫は、おれのことをもう一度抱きしめて、こう口にする。
「さっきの君が何を考えていたのか、私にはわからない。けれど」
「こうすることで君の気持ちが落ち着くのなら、私で良ければいくらでも身体を貸すよ」
「……だから」
「私以外の人には、同じようなことをしないでくれ」
この感情は、何もかも間違っている。そうだとはわかっていても、こんな時ですら王子様であろうとする君が、おれの目にはひどく愛おしく見えて。生まれた時からずっと心にぽっかりと空いていた穴が、初めて満たされたような気持ちになった。