「すみません。急な用事ができましたので失礼いたします。」
初ライブを終え、興奮冷めやらぬCRYCHICのメンバーに彼女はそう告げた。
「本当に急だね。祥子ちゃん、気を付けて帰ってね。」
「ええ、ありがとうございます。」
長崎さんがそう言葉をかけ、足早に彼女は楽屋を出て行った。声のトーン、しぐさ、彼女が纏う オーラが一遍して冷たく、哀しみに濡れた音がした。
メンバー全員が不思議に思って、祥が出て行った扉をみるけれど、それも一瞬またライブの話や SNSの書き込みについての話に戻っていった。
違和感。今僕の周りに溢れている音は達成感や充実感、快感に満ちた音なのになぜ、祥からは 絶望や虚無感、哀しみの音がしたのかがわからない。あんなに楽しく心が熱くなるライブをした後 なのに彼女だけが別世界にいるように独りぼっちだった。
そう思い至った瞬間に僕の身体は動いていた。
「ごめん!僕も用事があったんだ。皆、またね!」
「え?康介君!」
後ろから長崎さんの驚いた声が聞こえたがかまっている暇はない。 祥が消えた扉を開け、周りを見渡す。しかし、祥の姿は見当たらない。僕は舌打ちをし、一直線に ライブハウスRiNGの出口へと走り出した。
違和感。いや、今まで祥からあんな音を聴いたことがない。祥との関係はそれなりにある。それに あの音を僕が聴き間違えるはずがない。だってあの音を、感情を僕は一度経験している。
RiNGの出口を潜り、周りを見渡す。居ない。彼女はどこに行った?今の彼女を一人にしてはいけ ないと焦りだけが募る。いや、落ち着くんだ康介。冷静になれ。深呼吸をして呼吸を整えろ。もし、 仮に彼女が走ってRiNGを出たとして、まだそう遠くには行っていないはず。ではどこへ?いや、 彼女は急な用事ができたと言っていた。とするならば豊川家の執事の迎えは来ていないはず。駅 に向かったと考えるべきか。そう思考を巡らせ駅に向けて走る。
駅構内に入った瞬間、彼女のシルエットが見えた。まだ間に合うと彼女の背を追いかける。改札 を抜けた時、電車の出発のアラームがなる。
「きゃっ!」
「痛っ!」
焦りに支配された僕は電車から出てきた女性乗客とぶつかる。
「すみません!」
そう女性乗客に謝り、祥がいる扉に走る。
けれど電車の扉は後一歩のところで僕を阻んだ。
さっきまであんなに苦しかった呼吸を忘れて、去っていく電車を僕はただ見つめることしかできな かった。
「クソ!」
悪態をついた僕。いや、まだ最悪な状態じゃない。終わりじゃない、死ぬわけじゃないと思い直 す。もう一度深呼吸をする。身体はさっきまで走っていたせいで熱いが精神は冷静でいなくてはと 思考する。
何度か深呼吸をした後、目の端に映った電光掲示板を見る。次に到着する電車まで残り2分と表 示されている。しかし、ここからさきを探し出すのは至難の業だ。さきがどのような用件で帰ったの かわかない限り、行き先を絞れない。その思考に行き着いた時、祥の家の前で待っていようと考 えか浮かんだ。たしかに闇雲に彼女を探すよりも、ずっと冴えたやり方だ。
そこまで思考がまとまった時、視界が開け、直前のことを思い出す。ぶつかってしまった女性乗客 がいるであろう場所に視線を向けるとまだその女性はいた。僕は急いでその女性の元へ向かう。
「先ほどはすいません。だい...じょうぶじゃないですよね。」
黒い革ジャンを身にまとった女性にそう声をかけた。それに気づいた女性は僕に視線を向ける。
「いいえ、驚きはしましたが問題はありません。」
「そう...ですか。」
僕は一瞬どもる。それは彼女の整った顔立ち、イヤリング、そして、おそらくベースが入っている だろう少し大きめのハードケース。この大ガールズバンド時代にこれだけの要素を持っていれば この女性はバンドマンなのだろうと考えに至る。
こちらの不注意でぶつかったというのに彼女は冷静に慈悲深い対応をとったことに僕は驚いた。
たしかに女性から発せられる音からは驚きや不快の感情はあるものの、人を気遣う優しい感情も ある。それと彼女からは別の不思議な力を持つ音がする。これは一体なんだろうか?
その僕を惹きつける音に魅了されていると、
「私の顔に何かついていますか?」
「あっ、いえ、何でもありません!すみません。顔をジロジロ見てしまって。」
「先ほどから謝りすぎでは?そこまで謝らなくても。あなたの気持ちは十分伝わりましたので。それより電車に乗らなくてもいいのですか?」
そう言われて振り返ると次の電車が停車していた。
「あ、ありがとうございます。また乗り過ごすところでした。」
「いえ、それでは私はこれで。」
そうして僕と革ジャンを着た女性は別々の道を歩み始めた。
電車に乗り、女性がいた場所を見る。そこにはもう女性の姿はなかったが、それでも僕の中に彼 女の持つ音が強く残っていた。
祥が楽屋を出る直前のしぐさを思い出す。スマホを見て、哀しそうな辛そうな表情をしたかと思え ば、急にライブハウスを後にした。思考する。いつもの彼女とは明らかに違うその行動に。なぜ、 その行動を取ったのかを。過去に僕自身に降りかかったあの感情を。そこから導きだされる答え は僕と同じ出来事が彼女に降りかかったということ。
つまり、母親を亡くしたということ。
その考えに至った瞬間、僕の鳩尾あたりに黒く鉛のような球体が重くのしかかる。あの絶望を、虚 無感を、身体からすべての力が抜けるような感覚を思い起こさせる。もう終わったこと。戻れない 過去だけれど、それでも母親が亡くなるという過去を消せるものなら消し去りたいと願ってしまう。 その絶望の中に今、さきはいるのだ。そう思うと胸がさらに苦しくなった。もう起こってしまったこと は変わらない。けど、同じ傷みを持つ者として目を背けるようなことはしない。絶対、さきを絶望の淵から救い出すと僕は決意する。
独りにはさせない。