北郷一刀が見ていた。
北郷一刀を見ていた。
鏡の中の北郷一刀を見ている。
鏡の中から北郷一刀を見ている。
境界が曖昧になる。
どちらが自分で、どちらが他人なのか。
どこまでが自分で、どこからが他人なのか。
自分の領域に
二人の北郷一刀が、お互いに手を伸ばす。しかし、その手が触れ合うことはなかった。
白い空間は弾け、夢は覚めた。
「……空か」
次の外史に飛ばされた
(なぜ于吉がこんな迂遠な手段を取ったのか気になったこともあったが……)
最初の頃、一刀はただの素人だった。身体スペックが優れていたのは間違いないが、それだけで戦場を駆け抜けた武人に対抗できるほど、戦いとは甘くない。
最初の一回が上手くいったのもマズかった。隙を突けば殺せると考えた結果、行動は雑になった。
百に届くかどうかの
それからは少しだけ物の見方が変わった。
(なんとなく理解できた。俺以外の人間が北郷一刀を害しようとすると、カウンター装置のようなものが作動するのだろう)
そうでないならば、もっと数を増やせばいいだけだ。左慈も似たようなことを言っていたことを思い出す。外史外の人間で北郷一刀を殺せるのはおまえだけだ、と。
(外史の中に存在する人間を使う分にはいいが、外史の外の人間を使うとカウンター装置が作動する。俺だけが例外なのは、俺が北郷一刀だからか)
待ち人はまだ来ない。一刀は焦らずにそのまま待ち続けた。
ずっと、ずっと。
そして、草を踏む音が聞こえた。ようやく来たか、と一刀は目を開いた。
「そろそろ動き始めたらどうですか」
いけ好かない
(答えは得た。ならば突き進むのみ)
立ち上がり、于吉を正面に見据える。
縮地からの貫手。洗練された動作だった。
だが于吉は、若干眉根を寄せた程度で、その攻撃を横移動で躱しながらカウンターの裏拳を放った。
反射的に一刀は首を捻った。だが完全に躱しきることはできず、ほほが切れて鮮血が舞った。
「なんのつもりですか?」
「駒だって自分が使い捨てられると分かれば反逆くらいするってことさ」
「……なるほど」
于吉は眼鏡のブリッジを人差し指でクイッと押し上げると、さして動揺した様子もなく一刀を見つめた。
「あなたは私に逆らえないようにしたはずですが……まあいいでしょう。左慈に多少鍛えられた程度で増長しましたか? 少しおしおきが必要なようですね」
于吉は飄々とした態度を崩さぬまま、全身に気を漲らせた。
その変化を敏感に感じ取った一刀は、顔をこわばらせる。食いしばった歯の隙間から漏れ出そうな呻きを呑み込み、自身の身体を確認するように拳を開閉した。
わずか数歩の距離で、二人は睨み合っていた。
張り詰めた緊張が弾けるのは一瞬だった。
空気のうねりを引き起こした一刀の貫手が于吉の喉元に襲い掛かる。
その神速の一撃を、于吉は掴んで捻った。そのまま一本背負いの要領で一刀の頭を地面に叩きつける。
だが一刀は器用に于吉の腰に脚を絡めながら、更に空いた片手で腹部に突きを放つ。即座にその動きを察知した于吉は、地面を這う様な姿勢で体を躱して足刀で一刀のこめかみを狙った。
しかしその一撃は防がれた。一刀は自由になった腕でその蹴りを受け止めたのだ。ビリビリとした衝撃が腕から全身に伝わり、一刀の身体は三メートルほど吹き飛ばされた。
(……強い!)
着地して体勢を整え、目の前の相手を睨みつける。
レンズ越しに見える双眸は変わらず静謐を保っていた。人間という枠を超え、仙人へと至る者。道士という超越者。それが于吉だった。
「――ッ!?」
一息つく間もなく、一刀は反射的に身を捻った。空気を裂く音と、左耳の上部が弾ける音が重なり、鮮血が滴り落ちる。
「僕だって気を飛ばせるくらいの芸当はできるのですよ」
「……くっ!」
一刀はジグザグに走りながら距離を詰める。于吉の指弾を何発が喰らったが、致命傷ではない。
于吉を目の前に捉えた一刀は怒涛のラッシュを仕掛ける。
「オラオラオラオラオラオラオラオラ!!」
「無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄――無駄ァ!!」
「――カハッ!」
于吉の膝蹴りが一刀の脇腹をえぐる。于吉はそのまま身体を一回転させて、一刀の顔面にソバットを叩き込んだ。
衝撃で吹き飛ばされた一刀の身体は地面で三度バウンドして、ようやく止まった。
「良い攻撃でした。十分に気が練られていた。ですが、どれだけ足搔こうとあなたは僕には勝てない。なぜだか分かりますか?」
酷薄な笑みを浮かべて、于吉がゆっくりと一刀に近づいてくる。一刀は返答の代わりに、口腔に溜まった血塊を吐き捨てた。
「積み重ねた
「だからおとなしく言うことを聞けと?」
「それが賢い選択です」
于吉は含み笑いを浮かべながら一刀を見下ろした。しかし一刀は決して折れることのない瞳の輝きで于吉を睨み返す。
「……もう少しおしおきが必要のようですね。まあ、不都合な記憶は消しておきますので、次の外史からはまた頑張ってください」
二人は再び緊張を漲らせる。
とその時、空からナニカが落ちてきた。
于吉の頭上から落ちてきたそれを、于吉は俊敏な動きで回避した。そして、それを視認した瞬間、小さく舌打ちした。
それは一人の
禿頭ではあるが、両耳の隣からちょこんと三つ編みが伸びていた。毛先にはピンクのリボンが付けられている。何よりも目を引くのがそのなり形であった。身につけているのはリボンと同色のビキニパンツのみ。
そんな異形ではあるが、その肉体は筋骨隆々であり、張り巡らされた気も、尋常のものではない。
「ぶるあぁぁぁ!」
紅を塗った唇から発せられたのは、想像以上の野太い声。
「貂蝉。あなたがなぜ……」
「左慈ちゃんの修行は愛があったからダメだったけど、ふふん。策士策に溺れるとはこのことね、于吉ちゃん」
そう言って、貂蝉はチラリと一刀に視線を向けた。それで于吉も察したのか、忌々し気に口の端を歪める。
「……どうやらやりすぎたようですね。あなたとやり合うのは面倒です。この場は退きましょう……むっ?」
降参のポーズを取りながら後退する于吉だったが、なにかに阻まれたように歩みを止めた。
「ぬるいこと言ってんじゃあねぇぞコラ! テメェが始めた戦争だろうが! あらやだ、私ったらはしたない」
「……結界か」
于吉は渋面を作って貂蝉を睨みつけた。
「……あんたは?」
「とりあえずは味方よん。立てるかしら?」
「ああ」
「それじゃあ、合わせなさいな!」
突撃する貂蝉の後を追って、一刀も地を蹴った。貂蝉と一刀、二方向からの攻撃に、さしもの于吉も冷や汗を流した。それでも防御技術は一級品だった。貂蝉の攻撃を捌きながら、わずかに見せた一刀の隙を突いて、腕を掴み取り、捻り上げる。
掴まれた左腕は肘から先がもぎ取られ、傷口からは蛇口を全開にしたように鮮血が溢れ出した。
「――キャオラッ!!」
それでも一刀は痛みを呑み込み、前蹴りを于吉の水月に叩き込んだ。続けて貂蝉の肘打ちが横っ面に突き刺さる。二方向からの衝撃に、于吉の身体はきりもみ回転しながら宙を舞った。しかし于吉は中空で体勢を整え、なんとか着地に成功する。その瞬間――
「漢女道奥義、
「――なっ!?」
貂蝉の道術が于吉の自由を奪った。
「今よ! ぶん殴っちゃいなさぁい!」
「応ッ!」
発勁において、踏み込みは重要である。踏み込みが強いほど勁の威力は増す。
「
そこで生み出した勁を接触面まで導くことを運勁、その所作を勁道と呼ぶ。この一連の流れをスムーズに行い、勁を確実に伝達させる。
それが第一歩。発勁の神髄は丹田から生み出した気を掌握して叩き込むことにある。
「
一刀の放った拳は于吉の肋骨を打ち砕き、心臓を貫いた。
「ば……ばかな……」
致命傷を負った于吉の身体は、糸の切れたマリオネットのように崩れ落ちた。そして、その身体は粒子となって消失した。
同時に、力を使い果たした一刀も仰向けに倒れた。
「あいつは……死んだのか?」
こちらを心配そうにのぞき込んできた貂蝉に、一刀は質問を投げかけた。
「いいえ。外史にいる管理者は、言ってみれば分体のようなものよ。死んじゃあいないわ。でも、かなり力を削がれたはずよ」
「……そうか」
あの消え方から、一刀も察していたのだろう。落胆した様子はなかった。
「血を流しすぎたようね」
「そのようだ」
流血を気にもせずに全力を使い切った一刀は、すでに死を覚悟していた。今も腕の傷から流れ出る血が大地を紅く染めている。失血死するのは時間の問題だった。
「どうせ、死んでも次の外史に飛ばされるだけさ」
「あなたは、それでいいのかしら?」
「……なんだよ。あんたなら、俺を解放してくれるのか? この終わりのない円環から」
「あなたがそれを望むのなら」
その言葉を聞いて、一刀はハッとなった。
「こう見えても管理者の端くれよん。あなたに『死』を与えることくらいはできるわん」
「……そうか。ようやく俺は、終われるのか」
すでに意識は
貂蝉の手が一刀に添えられる。その指先から発せられた光が、一刀の身体を包んでいく。わずかだが痛みが引いたような気がした。
「眠りなさい、運命に弄ばれた哀れな魂よ。さようなら、もうひとりの一刀ちゃん」
涼やかな風が一刀の髪を撫でていく。貂蝉ならば、北郷一刀を起点としない外史に転生させることもできたが、それはしなかった。生よりも死が救いになることもあるということを、知っていたから。
柔らかな表情を浮かべて、一刀は逝った。
というわけで完結です。
評価・感想・誤字報告ありがとうございました。