ある日、才羽モモイは大雨に降られて、びしょびしょになった。冷たいコンクリートでできた廃墟に入り雨やみを待っていると、奥の方からひとりの少女が歩いてきた。

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才羽モモイと雨

 ざあざあと、雨音、雨粒、雨風ばかりが吹いている。吹きさらしの入口を見れば床は黒く濡れ、空気は随分と湿気っていて、もうひどい雨だというほかない。

 そんな中を駆けたわけだから、その少女の靴は少し動くだけで中敷きがぐちょりと水音を立てていた。靴下なんて語るに及ばない具合だから、彼女は地べたに尻もちをついて、足からそれを引きはがしにかかった。

 冷たいコンクリートの床は彼女の地肌に容赦なく冷気を与えてくるから、才羽モモイは思わず眉をひそめて、けれどそのまま引きはがした靴下を絞った。

 びちゃびちゃと水が滴った。水たまりとなったそれは戸口のほうへ伸びてゆく。どうやらこのフロアには傾斜があるらしかった。

 モモイはそれから外をみて、やはりまだまだ雨はやまないらしいことを察して、大きなため息を吐いた。

 足も手も指先がきんと冷えて、それはもうこわばっていた。けれど濡れた靴下を履くわけにはいかないから、モモイはもう一度、手元の束ねたそれをぎゅっと捻った。やはり水がばたばたと落ちてゆく。捻れ具合を戻して、その表面を指で押すと、水気がやはりまだあった。

 モモイはため息をもう一度吐いて、少しだけ水気の抜けた靴下をコンクリートの上に置いた。靴もまた乾かさなければならないからだ。

 雨も、濡れた靴下も、モモイには憂鬱であった。けれどそのほかにも憂鬱なことがあった。だから彼女の小さなからだには暗い気分がいっぱいに充満していて、ただ雨やみを待つのもまた嫌で、けれどそのほかにすることもないから、冷たいコンクリートと尻をくっつけるほかになかった。

 

 そんな彼女の背に、建物の奥から足音が跳ねてきた。一人の軽い足音である。

 モモイが振り返ってみると、どうやらそれはひとりの少女のものらしい、妙な恰好をした彼女がこちらへ歩き寄っている。

 大きな角を頭につけて、奇妙な分銅付きの鎖を身に着けた少女だ。

「こんなところに人とは珍しいねえ。どうだい、なんか飲むか?」

 そう見知らぬ彼女がいうのをみて、モモイはちょっと困った様子で言葉を返した。

「飲むって……」

 わからないづくめのモモイの表情をみて、どうやら少女は察したらしい、膝を打って軽い笑い声をあげた。

「はは、まあこんなところ、こんなときに、こんなことを言われたら、そりゃ困るよね、はは」

 そして背嚢を眼前に置いて、中から古風な瓢箪を取り出した。艶めいた表面は深い琥珀色である。中ほどには朱色の飾り紐がついていて、どうも常用品という気がしない。

 けれど彼女は気にする様子もなく、さらにひとつ、ふたつとラッパ型の陶器を取り出す。これは絵付けのされていない、模様は釉薬そのままの杯であった。けれど緑の色の移り変わりがなんともいえない妙を醸し出している。

 ところで、それらは明らかに酒器であるのだけれど、モモイは大人ではないし、少女もまた大人にはみえない。だからモモイはなんとも困った顔で、戸惑いをそのまま口にしようとした。

 しかしそこに少女は上からことばをかぶせる。

「私の名前は伊吹萃香さ。あんたは」

「ええと、才羽モモイ……」

「よしよし、良い名だ。ささ……」

 器を手渡されたから、モモイはそれを流されるまま掴んだ。それから萃香は自らも杯を持ち、瓢箪を傾けた。

 注がれたのは無色透明な液体であった。えもゆわれぬ香りが漂い、思わずモモイはごくりと唾を飲む。

 決して甘いわけではない。酸いわけでもない。苦いわけでもまたない。ただそれは快さと心地よさをないまぜにしたような、奇妙な気分を湧きたてる香りであった。

 杯と杯が軽く当たり、きんと高い音をたてた。

 萃香がまず香りを間近で確かめた。上品な仕草で顔に杯を寄せ、軽く香りを嗜む。

 そしてにこりと微笑んで、口をつけた。舐めるにわずかに口に含む。転がすように味わい、そして飲み込んだ。

 喉が隆起するまでを、モモイは気が付くとじっと眺めていた。

 はっとしてモモイは自らの器を見た。そこには同じものが入っている。

 ひとまず、真似をするようにして匂いを嗅いだ。

 近くで嗅ぐと、それはより強く、はっきりとしたかたちとなってモモイを刺激した。どこでも嗅いだことがないような、けれどどこか懐かしいような気がして、彼女は瞼を閉じて思い返す。

 まず思い当たったのは、昔、それも遠い昔に浮かべた笑みだ。隣には妹がいて、それから……

 雨音がばたばたと鳴る湿気を帯びた空間、コンクリートの冷たい床に座りながらも、けれどそことは違う場所に今まさにいるような気がして、そしてモモイはふと、これは幸せの香りだと思った。

「これって……」

 その表情をみて、萃香は薄い笑みとともに言葉を返した。

「思い出さ」

 彼女は自らの杯にもう一度瓢箪を傾ける。杯になみなみと注がれた無色透明の液体は、けれど器の色を受けて深く暗い影を帯びている。

 伊吹萃香は、今度は一息に飲み干した。その味わいに浸るように瞼を閉じる。

 その様子をすこし見た後、才羽モモイもまた、意を決して杯を傾けた。

 

 モモイはふと雨音が止んでいることに気が付いた。

 水気がだいぶ抜けた、それでもしっとりとしたままの靴下が、コンクリートの床に落ちている。

 手元には空になった陶器の杯があるけれど、ともに杯を交わした少女がいないから、彼女はあたりを見渡した。

 やはり、気配はない。あるのは雨上がりの少し乾きだした空気と、雨水の名残がぱたぱたと垂れる音だけであった。

 しばらく奥の暗闇をみてから、モモイは靴下と靴を履き直して、日の射してきたらしい、明るみを帯びた外へ歩き出した。

 日の光を浴びてから振り返って見ると、無機質なコンクリートの廃墟だけが視界に映る。

 ただ、やはり杯は手の内にあったから、彼女はもういちど前を見て、それから水たまりをばしゃばしゃと踏んでいった。




クーリエ的なのが書きたいから書いた。

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