十四歳になる頃には、僕はそこらを彷徨いている木っ端竜を、鼻歌交じりに狩れるようになっていた。
最近では、少し遠出をしないと獲物が見当たらないことさえある。
あいつら、木っ端のくせに無駄に知恵が回るのだ。城の近場は「死地」だと理解し、僕の気配を感じただけで蜘蛛の子を散らすように逃げ出す始末。
いくら影の国といえど、本来ならドラゴンは生態系の頂点に君臨する最強種のはずだ。
けれど、その上に僕がいて、さらにその遥か高みに師匠がいる。
所詮、今の僕らにとって奴らはただの「木っ端トカゲ」でしかなかった。
元の世界に戻る?
そんなこと、とっくの昔に諦めた。いや、興味がなくなったと言うべきか。
自分の手を見る。
竜の炉心を宿し、『創造』の起源によって魔獣の如く作り変えられたこの肉体。
こんな力をあちらの世界に持ち帰ったところで、持て余して生き辛いだけだ。物理的にも、社会的にも。
それに……夜の相手だってそうだ。
師匠クラスでなければ、僕を受け止めることなど不可能だ。
普通の人間の女性では、僕の愛撫一回で壊れて死んでしまうだろう。
何より、大好きな師匠のもとを離れる理由がない。
ならば、外の世界に帰る理由など、塵ほども存在しないのだ。
荒野に衝撃波が走る。
逃げる赤い影。追う僕。
かつては視界に捉えることすら叶わなかった師匠の背中が、今ははっきりと見えている。
地面を縮める純粋な身体能力による歩法『縮地』。
それに加え、足裏で魔力を爆裂させて強制的にベクトルを加速させる『瞬動術』。
二つの超高速機動を併用することで、僕は師匠の神速に食らいついていた。
「──逃がすかッ!」
師匠が直角に曲がる。僕は壁のような空気を魔力で踏み砕き、強引に軌道を修正してショートカットする。
距離、ゼロ。
僕は師匠の細い手首を掴み、その勢いのまま彼女の身体を抱きすくめた。
土煙が舞う中、二つの影が急停止する。
「……っ、ち。捕まったか」
腕の中で、スカサハ師匠が悔しげに、けれど嬉しそうに吐息を漏らす。
その顔には、成長した獲物を見る狩人の歓喜があった。
「はい、捕まえましたよ、師匠!」
僕は逃げられないように、その腰を強く抱き寄せる。
竜の力と男の膂力。もう、力比べでも容易には負けない。
「約束、覚えてますよね?捕まえたら言うことを聞いてもらう……」
僕は彼女の耳元で、獰猛に囁いた。
「また『三日三晩』、覚悟してくださいね? ……寝かせるつもりなんて、ありませんから」
スカサハは一瞬、頬を朱に染め、それから諦めたように、妖艶に微笑んだ。
「……ふん。生意気なオスになったものだ。良いだろう。その慢心、私の技量でどこまで持つか……閨でたっぷりと試してやる」
◇◇◇
十五歳。
この影の国でスカサハ師匠に拾われてから、十年という大きな節目を迎えた。
五年も竜の肉を食らい、死闘を繰り広げてきたのだ。
さぞかし立派な、筋骨隆々の戦士になっているだろう──という僕の淡い期待は、鏡に映る自分自身によって裏切られていた。
そこに映っているのは、岩をも砕く剛腕を誇る大男……ではなく。
師匠であるスカサハと同じ、無駄な脂肪を極限まで削ぎ落とし、しなやかな筋肉を薄い皮膚の下に隠した、中性的な美青年だった。
いや、青年というよりは、少年と少女の狭間にいるような妖艶さすらある。
「……はてな?」
水鏡の前で、僕は首を傾げた。
竜の炉心を持ち、規格外の身体能力があるのに、なぜ見た目がこうも「美しく」なってしまったのか。上腕二頭筋はどこへ行った?
そんな僕の疑問に対し、師匠は事もなげに、その残酷な理由を告げた。
「不思議そうな顔をしているな、織姫。だが、それは必然の結果だ」
「必然? 栄養失調とかじゃなくて?」
「違うな。お前の『名』が、肉体の完成形を縛っているのだ」
彼女は僕の顔を指先でなぞりながら、魔術の講義をするように淡々と説明を始めた。
「まず、お前の姓である『境』。これは境界、あわい、中庸を意味する。この時点で、お前の属性は極端な『陽』にも『陰』にも固定されず、その狭間で揺らぐ性質を帯びている」
彼女の指が、僕の唇に触れる。
「そして、極めつけが『織姫』という名だ。音こそシキだが、その字面は『織りなす姫』。星の伝承にある女神の名だ。お前の肉体は、その名前に引っ張られ、限りなく女性に近いしなやかさと美しさを獲得するよう定義されたというわけだ」
師匠はクスクスと楽しげに笑った。
「感謝するのだな。お前の魂が、確固たる『男』でなかったなら……お前は女として生まれて来ていただろうよ」
「な、なんてことだ……」
僕は愕然とした
かつて僕自身が「言霊は重要だ」と熱弁したブーメランが、まさかこんな形で返ってくるとは。
『境』という揺らぎの中で、『織姫』という概念を注ぎ込まれた結果、僕は師匠とお揃いのような、美しくも危険な細身の魔槍のような肉体を手に入れたのだった。
◇◇◇
十五歳の誕生日。
そのプレゼントは、師匠との、普段の十倍はあろうかという濃密で激しい情事の夜だった。
互いの魂を擦り合わせ、魔力を注ぎ込み、存在の全てを確かめ合うような嵐の時間。
けれども、それだけでは終わらない。
夜明けと共に、僕たちは城の外へと出ていた。
荒涼とした風が吹き抜ける荒野で、僕と師匠は対峙していた。
僕の装備は、この十年で確立したスタイルの完成形。
左手には、魔術制御の要である『ドルイドの指輪』と『杖』。
右手には、竜をも屠る必殺の『朱槍』。
魔術師と戦士、その両方の性質を極限まで高め、僕は静かに呼吸を整える。
対する師匠の姿は、いつもの軽装ではなかった。
顔を覆うように、薄い黒のヴェールを身に着けている。
そしてその両手には、二本の魔槍が握られていた。
「…………」
その立ち姿から放たれるプレッシャーは、尋常ではなかった。
普段の師匠の強さが、鼻で笑えるほどの別次元。
空気が軋み、空間そのものが彼女の魔力に悲鳴を上げている。濃く、重く、そして残酷なまでに美しい「死の女王」の姿がそこにあった。
言葉は不要だった。
肌で感じる殺気が、何よりも雄弁に語っている。
──スカサハは、己を殺せる者をひたすらに待ち続けている。
不老不死の呪いに近い加護の中で、永劫の時を生きる彼女が唯一望むもの。それは、自身を上回る強者による、確かなる死と安息。
彼女は今日、僕という育て上げた「最高傑作」に、その可能性を見出したのだ。
(ああ……師匠。貴女は本当に……)
僕の胸の奥、竜の炉心がドクンと高鳴った。
恐怖はない。あるのは、彼女への深い愛と、それに応えんとする戦士としての闘志だけ。
愛しているからこそ、彼女の願いを叶えるために全力を尽くす。
殺したいほど愛してる、なんて生温い言葉じゃない。
愛しているから、殺し合うのだ。
僕は杖を構え、槍の切っ先を愛しき師へと向けた。
彼女のベールの奥の瞳が、歓喜に細められたのが分かった。
だから僕は今日、師匠との、全力の『殺し愛い』を始める。
疾風の如く突っ込んでくる師匠に対し、僕は一歩も退かずに祝詞を紡いだ。
それは魔術の詠唱ではない。僕の魂の在り処、その『起源』からの命令だ。
「我が記憶に刻まれし力、我が声に応えて門を開け。来たれ我が城、影の城……。
瞬間、世界が裏返る。
其れは門であり、其れは城であり、其れは国であった。
それは、それは、それは、其れは──。
かつて幼き日、絶望の淵にいた僕を救い上げ、育ててくれた場所。
境織姫の記憶に焼き付いている、「影の国」そのものの再現だった。
だが、その性質は似て非なるもの。
スカサハの統べる「影の城」は、彼女の認めぬ者を決して許さぬ断絶の城。
影の国に命を有したまま立ち入ることを拒み、その身を瞬時に亡き者とする、死と孤高の絶対領域。
対して、僕が創造した「影の城」は――。
空間を塗り替えたその城は、領域内の対象に多大なる「幸運」と「祝福」を与える。
なぜなら、僕にとっての影の国とは、死にゆく場所ではなく、生きるための力をくれた場所だったからだ。
故に、影の城に愛された者は、力なき身であろうとも強大な敵を打ち倒す運命を得る。
生と死。
属性の違いが、同じ「影の城」という概念を用いながらも、決定的に異なる加護を授ける二つの影の国を生み出していた。
「な──ッ!?」
迫りくる師匠の顔が、驚愕に歪む。
彼女の放つ「死」の圧力が、僕の展開した「生」の祝福によって相殺され、霧散していく。
弱者が強者を挫くための城。
凡人が英雄に至るための門。
僕が積み上げてきた十年間の感謝と愛が、形となって最強の女王に牙を剥く。
これこそが、僕の創造せし宝具──境 織姫だけの『影の国』だ!
◇◇◇
絶対的な死を齎す、女王の影の国。
力なき者に祝福を齎す、僕の影の国。
相反する二つの領域が衝突し、世界が悲鳴を上げた。
天は裂け、地は焼け焦げ、神話の再演の如き死闘が展開される。
その決着は、一瞬の交錯の中にあった。
勝敗を分けたのは、積み上げた武威でも、領域による加護でもない。
ましてや、天運や祝福でも、互いの意地ですらなかった。
ただ、その瞬間の「選択」のみ。
「──はぁッ!!」
スカサハが繰り出した『貫き穿つ死翔の槍』。
神速の一撃を、僕は右手の『朱槍』を跳ね上げることで紙一重に捌く。火花が散り、切っ先が頬を掠める。
だが、女王の攻撃は終わらない。双槍の二撃目。
追撃の『刺し穿つ死棘の槍』が心臓を狙って奔る。
僕は左手の『賢者の杖』を盾にするのではなく、軌道を逸らすためのガイドとして使い、身体を捻ってこれを躱した。
互いの主武装が虚空を突き、身体が密着するゼロ距離。
師匠の胸元がガラ空きになる。
だが、僕の両手も武器で塞がっている──はずだった。
残されていたのだ。
杖を握る左手、その薬指に光る『賢者の指輪』が。
「……ッ!!」
僕は杖を握り込んだまま、その拳に魔力を収束させた。
指輪が媒介となり、ルーン文字が瞬時に刻まれる。
力の加護を上乗せした、渾身の拳。
踏み込みの衝撃を腰へ、背中へ、そして拳へと伝える中国武術の極意、発勁。
生身の打撃音とは信じ難い重低音が響く。
薬指の指輪を煌めかせたその一撃は、吸い込まれるようにスカサハの胸──その無防備な心臓の上へと打ち込まれた。
スカサハの動きが止まる。
彼女の放った神殺しの二槍は、僕の槍と杖によって完全に軌道を逸らされ、虚空を突いていた。
そして、彼女の心臓──不死たる彼女の唯一の急所とも言える場所には、僕の左の拳が、深々と打ち込まれていた。
物理的な破壊力ではない。
「発勁」と呼ばれる力の浸透勁。そして、指輪に刻まれた『力』のルーンによる一点突破の衝撃が、彼女の体内を駆け巡り、動きを強制的に停止させたのだ。
一瞬の静寂。
荒れ狂っていた風が止み、僕が喚び出した『影の城』の門が、役割を終えて光の粒子となって霧散していく。
スカサハは、胸に突き立てられた僕の拳を、呆然と見下ろした。
そして、その拳にある「左手の薬指」に輝く指輪を見て……カハッ、と短く息を吐き、膝から崩れ落ちた。
「……ぐ、ぅ……ッ」
彼女は片膝を地面につき、片手で打たれた胸を押さえる。
苦痛に顔を歪めているのではない。
その表情にあるのは、信じられないものを見た驚きと、そして……何年ぶりかも分からぬ「敗北」を噛み締めるような、恍惚とした笑みだった。
「……見事、だ……織姫」
彼女は顔を上げ、勝ち誇るでもなく、ただ静かに佇む僕を見つめた。
「槍技で私を凌ぎ、魔術で私の目を欺き……最後に届いたのが、武具ですらない……お前自身の『拳』とはな」
彼女は震える手で、僕の左手を取った。
そして、薬指に嵌められた賢者の指輪──あの日、彼女が授け、今や僕の強さの象徴となったそれを、愛おしそうに指でなぞる。
「しかも、左手の薬指……。『誓い』の指に刻まれたルーンで、私の心臓を撃ち抜くか。……ふふ、洒落が効きすぎているぞ、この色男め」
彼女はゆっくりと立ち上がる。ダメージはあるはずだが、その立ち姿は変わらず凛として美しい。
だが、その纏う空気は以前のような鋭利な刃のそれではない。
完全に心を許し、全てを委ねた「伴侶」に向ける柔らかなものだった。
「私の負けだ。武において一本取られ、策において上を行かれ……そして、心臓まで物理的に撃ち抜かれては、抗いようもない」
彼女は二振りの槍を粒子に変えて消滅させると、両手を広げ、無防備な胸元をさらけ出した。
「約束通り、好きにするがいい。私の命も、影の国も、そしてこの身も……今この瞬間から、全てはお前のものだ。……さあ、どうする? 勝者の権利を、行使してくれ」
僕は迷わなかった。
その場で師匠を抱き寄せ、開かれたその唇を奪った。
「んっ……!?」
驚きに目を見開く師匠。しかしすぐに、彼女はとろけるように瞼を閉じ、僕の背中に腕を回してくる。
それは、服従ではなく、愛の交歓。
長い、長い口づけの後、僕は紅潮した彼女の顔を見つめて告げた。
「戦士として殺されるのは、諦めてください」
「……織姫?」
「その代わり──女としては一生、殺し尽くしてあげますから。覚悟してくださいね?」
僕の言葉に、彼女は一瞬きょとんとし、やがて花が咲くように破顔した。
「……ははっ。死ぬまで抱き潰す、ということか。それはまた、随分と気の長い『殺害予告』だな」
「ええ。貴女が音を上げるまで、何度でも」
僕は彼女の額に自身の額を当て、誓いの言葉を紡ぐ。
「愛しています、スカサハ」
「ああ……私もだ。愛しているぞ、私の愛しき竜よ」
二人の影が重なり、影の国に新たな契約が結ばれたのだった。