蘭がパイロキネシスに目覚める話です。

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「日常と非日常は連続している。確かに日常から非日常を覗くと怖ろしく思えるし、逆に非日常から日常を覗くと馬鹿馬鹿しく思えたりする。しかしそれは別のものではない。同じものなのだ。世界はいつも、何があろうと変わらず運行している。個人の脳が自分に都合よく日常だ、非日常だと線を引いているに過ぎないのだ。いつ何が起ころうと当り前だし、何も起きなくても当り前だ。なるようになっているだけだ。この世に不思議な事など何もないのだ」
(京極夏彦『姑獲鳥の夏』より)




迦楼羅の唱

 

 

 

 みんなとクラスが分かれたとき、あたしの五臓六腑は凍りついた。

 いつまでも明けない極夜の毎日。教室に響く笑い声も、すれ違うクラスメイトたちも、朝と自分を隔てる暗闇と大差ない。

 篝火が欲しかった。

 暗闇を引き裂いて夜明けまで連れて行ってくれる火が。

 青空を傾ける夕焼けの向こうへと踏み込むための火が。

 温かい、火が──

 

 

 

 

 

 ──()()()()()(とも)った。

 

「おぉー……!」

 

 大袈裟に感嘆の声が上がって、ちょっとむず痒い。

 孤独と喑晦に日が差してから一年経って進級まで間もない春、今日は風も強くないし過ごしやすい気温だから、って元気溌剌なひまりや巴に屋上まで連れていかれたいつもの通りの昼休み。

 ペールグレーに霞んだ空の下で、あたしは緩く開いた手指の先に真っ赤な火を点していた。

 文字通りに。

 

「蘭、パイロキネシストになっちゃったんだね〜」

 

 透き通るような薄い色の髪をさらめかせて、モカが穏やかに笑った。馬鹿げた話を信じて貰えたのが嬉しいやら恥ずかしいやらで、小さく「うん」と頷く。

 

 ──あたしは、発火能力者(パイロキネシスト)になってしまった。

 

 指先に咲いているマッチを擦ったくらいの小さな火は普通のそれと違って本当に赤い。薔薇か椿か紅梅か、火っていうよりはそういう形の花みたいだなって、薄ぼんやり思う。

 だからかな、幼馴染のみんなには打ち明ける気になれた。

 

「あったか〜い」

「みんなしてすること……?」

 

 怖がるどころか暖房にされて、ちょっと拍子抜けだけど。囲んで手を翳されて、むしろみんながあたしに火をつけてるみたいな恰好だ。

 

「うーん、しかしカッケーな……」

「……どーも」

「それ熱くないの?」

「全然」

「マシュマロ焼ける〜?」

「……たぶん? まだやってないや」

「あっじゃあじゃあ! これさっき買ってきた肉まん! 蘭、温めて!」

「ひまりちゃん……」

 

 思いつくまま垂れ流しで頂戴したコメントの果てに便利に使われそうな流れになって、真面目なつぐみが苦笑する。温めるなら火っていうか電子レンジの領分じゃない?

 ……まあ、いっか。ひまりがわくわくした顔でビニール袋をまさぐって中の肉まんを差し出してくるから、あたしは渋々でも指先を近づけるしかないのだ。

 

「……なんかじみ〜な絵面だねー」

「こら」

 

 モカが余計なことを言って巴にぺし、っと叩かれてるのを尻目に数秒。「熱くない?」「え? 全然へーき!」じゃあ弱火すぎるのかな、見た目に変化が無くて焦れったい。指先の火が揺らめいて、頬を膨らませて拗ねるみたいに少しだけ大きくなった。

 この火はあたしのフラストレーションに応じて威力を変える。ひまりのことまで燃やしたいわけじゃないからあんまり強くならなくていいんだけど、コンロのツマミは付いてないから上手いこと薪を焚べて調節しなきゃいけないのが、超能力の割に面倒くさいところだった。

 みんなして固唾を飲んで見守ることしばらく。

 

「……こんなもんでどう?」

「いざ実食……!」

 

 ひまりが両手で行儀良く持った肉まんにかぶりつく。「あむっ」……ちょっと露骨なくらい意外そうに目をぱちくり瞬かせた。ふもふも言いながら口の中のものを飲み込んだ彼女の顔がぱっと晴れる。

 

「おいしい! ちょうどいい温度だし!」

「ほんと……?」

「うん! ほら、食べればわかるよ!」

「……あむ」

 

 指先の火を消して、ひまりが口をつけてない側面に歯を立てた。常温よりちょっとマシくらいの皮と思いのほか熱々な具のギャップに面食らう。確かに、冷凍の肉まんを火傷しない塩梅で温めるとこんなものかもしれない。

 

「……おいしい」

「でしょ?」

「……焦げ目すらつかないくらい短時間だと、あんまり意味なかった気もするけど」

「いやいや〜、超能力だし、中だけあっためるように都合よく使えただけかもよ〜?」

 

 いつの間にか取り出していたチョコクロワッサンを食べながらモカがふにゃふにゃ微笑んだ。隣の巴もお弁当を出しながら訳知り顔で頷いてる。

 

「能力の応用とか、バトル漫画の定番だもんな! ただ燃やすだけが火じゃねえ……!」

「温める、焦がす、溶かす、あるいは概念的なー……こう〜……あれそれ〜!」

「どれ」

「リアリティより使い手の性格出る感じだよな、こういうの」

 

 そういうものかな。すっかりお披露目もおしまいのムードの中、つぐみが「ああ、だから」と手を打つ。

 

「蘭ちゃんの火は優しいんだね」

 

 にこにこしてるつぐみの顔が眩しくて、あたしは目を逸らした。

 もう一度指先に火をつける。赤はさっきよりしぼんで、やっぱりちっぽけだった。

 

 

 

 

 

 ──夢を見てる。

 

『らんちゃん! いっしょにいこ!』

 

 ずっと昔の思い出だ。華やかな髪色。柔らかくて温かい、小さなお日さまみたいな手。明るく弾ける声。まだ幼いひまりに手を引かれて遊具に──

 

 あれ。

 

 滑り台だっけ。

 ジャングルジムだっけ。

 砦だっけ。

 

 違う、どれでも合ってるんだ。みんなと出会った公園には滑り台があった。小学校にジャングルジム。巴のお父さんが車を出してくれて行ったアスレチックには砦があって。

 

 夢は記憶が混ざる。違う絵柄のパズルを無理やり嵌めて、溶接して、継ぎ目はセピアに焦げついて、過去も今も未来もぐちゃぐちゃの曖昧にして。

 

 あたしを引っ張る手を見る。大きく、細く、少し皺のある節くれ立った手。おかしなことは特にない。引かれるあたしの手も、見慣れたもので。

 

 ……あれ?

 

 夜道。

 サイレン。

 あたし、どこに、連れてかれて──

 

 

 

 

 

「モカちゃん、実は古い小説がマイブームでしてな〜」

 

 下校中、隣を歩く幼馴染の声に一層意識が朦朧とする。

 生活リズムは崩してないんだけど、このところ妙に寝起きが悪い。六限をなんとか凌いで教室を出ようとしたときに足をもつれさせたのを、ちょうど迎えに来たモカに見られてしまった。ライブの予定とか話し合う予定だったからみんなが部活や生徒会を終えるまで待ってようと思ってたのに、帰れ休めって口々に言われて帰途についたところだった。

 

「……どういう風の吹き回しなの」

「なんとこの美少女モカちゃん、文学少女な側面まで兼ね備えておりま~す」

「……春は」

「揚げ物~」

「……お昼にコロッケパン食べてたね、文学少女」

 

 花より団子でよくもまあ。

 ……監視役がこれだから、こっちは眠くてしょうがない。わかりやすく心配されるよりは気楽だけど。

 欠伸を噛み殺す。視界の隅を横切った小さな葉に火花が散ってくるくる流れていった。つい目で追っちゃうのは怖がりすぎなのかな。

 吐いた溜め息はモカのせいにしよう。彼女をじとっと睨め付ける。

 

「……ギターの練習は?」

「ふふ〜、あたしは白鳥だよ? 優雅に見せかけて、実は努力もきちんとしてますとも」

「はいはい」

 

 わかってるわかってる。信じてない風に流してあげながら「それで?」と続きを促した。

 

「なに読んでるの」

「『華氏451度』とか『ファイアスターター』とかー、『火刑法廷』とか」

「どういうラインナップ……」

「そりゃもちろんー……しゅぼっ」

「……残念」

「ありゃ、モカちゃんマッチはシケってましたか〜」

 

 指パッチンするモカの指に火はつかなかった。パイロキネシスが題材の小説を読んだところであたしの能力が移ることはなかったらしい。

 

「……ていうか、『ファイアスターター』以外はもう発火能力関係なくない?」

「あれま。蘭も読むんだねー、あんなの」

「あんなのって……いや、図書室にあったから、なんとなく」

「ふ〜ん」

「……なに。モカだってあたしと一緒でしょ」

「そうだね~、蘭の歌詞をよりふかぁく理解すべく読解力向上に努める、あたしの涙ぐまし〜い努力と、いっしょいっしょ」

「……大袈裟すぎて同意しづらいんだけど」

 

 だいたい、それ嘘でしょ。

 

 ──あたしが小説を読み始めたのは発火能力(パイロキネシス)について調べるためだ。

 

 降って湧いた能力。身に余るファンタジー。気の持ちようで変わるかどうかもわかんないけど、これがどういうものなのかは把握しておこうと思って……そうだ、パイロキネシスに目覚めた直後くらいから色々読み始めていた。

 ラインナップがまったく同じなのはどういうことやら。

 

「一番好きなのは『火刑法廷』だったなぁ。本格ミステリと怪奇小説の融合、すごいよね〜」

「……あれ、オチはどう受け取ってもいい、ってタイプで合ってる?」

「そーそー。ま、あたしは魔女の企みの話として読んだけど」

 

『火刑法廷』は海外のミステリー小説だ。事件の渦中にいるのは弁護士マーク。彼の伯父が死んだことを皮切りに起きる二つの不可解を追いかける、って内容。エピローグがふたつあって、どっちを信じるかで事件の真相ががらりと変わる、っていうすごい仕掛けがある。

 面白かったけど、海外小説なんか初めてだったから読みにくかったし話も噛み砕くのが大変で、しばらくはお腹いっぱい。

 モカがにまにま笑ってあたしの顔を覗き込む。

 

「魔法とか不思議とか、あったっていいじゃんね〜?」

「……そうだね」

 

 からかってるようで、今度はきっと本心だった。モカは考え方が柔軟だ。大抵のことはありのまま飲み干してしまえる大らかさが彼女にはある。あたしに突然生えてきた超能力をすんなり受け入れてくれたのもそういうところで、彼女の大きな美点だと思う……口にはしないけど。

 あたしは、不器用だ。

 

「いていいよね、別に」

 

 そう思えないから物証集めに本を開いたくせに、あたしは小さく呟いて返した。

 爪先に落ちてきた桜の花びらに一瞬だけ火がついて、茶色く焦がした。

 

 不安。焦燥。恐怖。あたしのパイロキネシスは感情の燐を擦って種火を作る。それをどこかに移して、いくつもいくつも巻き込んで、ようやく大きな炎になる。あたし独りじゃボヤがせいぜいなのは間違いなくラッキーなことのはずなのに、どこか燻りを感じている自分がいた。

 いつの間にか、モカと別れて玄関の前だった。開けるのに一瞬、体が強張る。

 

 ──なんで?

 

 指先から炎が漏れて鍵穴に滑り込む。じ、と音が立ったような気がした途端、痛みが走った。

 

「いッ……」

 

 手が跳ねた勢いで引き戸が開いた。……鍵、壊した? いやまさか。

 戸は熱を持ってるわけじゃなさそうだった。あたしが焼いたわけじゃない、みたい。

 鍵を取り出して慎重に差し込み、努めてゆっくり回す。錠を開ける手応えが返ってくるはずなのに、音も引っ掛かりもなく一周してしまった。

 もともと壊れてた……のかな。

 じゃあ、それなら、あたしのせいじゃない。

 

「ふー……フーッ……」

 

 寒い。

 歯が鳴る。

 早く、帰ろう。家に入ろう。そう思うのに、ほんの一息だけ力を入れる程度の簡単なことが、できない。真冬に外で立ち往生して凍死とか、バカみたいじゃん。

 早く、帰って。帰ってよ。いなくなってよ。

 

 一戸建ての前で身を抱き締める。腕の隙間から赤い火が漏れる。火の粉を吐き出す。瞼を伝うガソリンに引火する。

 

 ()()()()()()──

 

 火が、クリーム色の家に、触れて、

 

「……え」

 

 ──夢を見てた。

 

 目を覚ましてから、それに気付いた。

 居間でテーブルに突っ伏していた。あたしは制服から着替えもせずに本を読もうとして、そのまま眠気に負けたようだった。『ファイアスターター』にページを押さえてた左手が挟まっている。右腕は枕にされて、すっかり痺れていた。

 

「……痺れてたら、そりゃ鍵の手応えもないよね」

 

 栞紐を挟み直して立つ。玄関を出て鍵を戸に差し込み、努めてゆっくり回した。半周もしたところで押し上げるような感覚、それからカチャンと音がした。逆に回しても同じで壊れた様子はない。

 指にも、火傷なんかない。

 

「……どこから」

 

 夢だったんだろう。

 

 

 

 

 

 その晩も夢を見た。子供の頃の思い出と最近見た景色が混ざった斑模様の夢。次の晩も、また次の晩も、そのまた次も。

 火は段々と大きくなっていく。指先に点るくらいだったのが手のひらに浮かぶまでに。何を薪にしてるのかは、見当つかないけど。

 毎晩やたらめったら明晰な夢を見るせいか、それともよく眠れてないからそんな夢ばっかり見るのか、鶏が先か卵が先かはわかんないけど、あたしの寝不足が一向に解消されていないことは事実だった。

 

「……ただいま」

 

 鍵の壊れていない引き戸を開ける。三月になってすっかり日も伸びたけど、バンドのことで遅くなると父さんはいい顔しない。……早く帰れば喜ぶ顔をするわけでもないけど。

 

「……あれ、お客さんだ」

 

 玄関の明かりもつけず暗いままローファーを脱ごうとしてたから、見慣れない靴があることに気づくまで少しかかった。

 うちに来る人は結構多くて、白状するとあたしは把握できてないんだけど、足下だけで誰だかわからないときは大抵うちの門下生だ。作品の相談にでも来てるのかな。

 ……美竹流。華道の家元。家の大きさは名前の大きさで、特に芸術の世界におけるそれは誇りに置き換えてもいい。門戸を叩くのも熱心な人ばかりだ。家に上がってまで相談っていうのも時折あることだった。

 

 ただ華道家の元に生まれただけのあたしより、ずっとまっすぐ華道に向き合う人たちだから。

 

 稽古を遠ざけて、新しく幼馴染たちとのバンド活動を趣味にして、あたしはあたしだ、なんていう父さんへの反発はもちろん心の底から思っていることだけど……そうなれない後ろめたさも少しだけ、ないわけじゃなくて。

 

「……あたしより、やる気のある誰かを引き立てた方が」

 

 その先を溢す前に廊下の向こうで襖が開いた。

 あたしよりふた回りくらい歳上に見える女性が、中──たぶん父さん──に礼をして出てくるところだった。上品にまとめた髪は、黒染めかな、どことなく青みを帯びてしっとりした色だ。服装も年相応のシックなもの。目尻より眉間の方が深い顔付きは厳しさが際立っていて、家格の高いマダム、って感じ。

 なんとなく見覚えがあったんだけど、記憶を探る前に視線が下がった。

 左腕に、ギプス。

 

「──あら、蘭さん」

「あ……」

 

 貼り付けたみたいな大人らしい笑みを向けられた。こっちもじろじろ不躾だったからまごついてしまう。

 

「今晩は。お邪魔しています」

「……こんばんは。その……お加減は」

 

 名前すら思い出せないのに、あたしの口は誰何より先にそう言いだした。いきなり怪我の話とか無神経でしょ、それより街路の桜のこと、植え込みの躑躅のこと、いくらでも話題なんかあるのに。

 下手な話題振りを女性はおっとり受け止めて「ふふ、お気遣いなく」と微笑んだ。その頬皺に、眼差しに、無性に眩々する。

 

 見覚えがある。

 

 燥ぐ。

 点る。

 熾火が目を覚ます。

 導火線を迫り来る。

 

 知ってる。

 この()()を、あたしは知ってる──!

 

 

 

 

 

 バチンと音がして、赤く──

 

 

 

 

 

 ──白く、明かりがついた。

 

「お怪我をされているのです、暗いままではいけない」

「……まあ、ありがとうございます。では」

 

 女性は靴を履くと父さんに頭を下げて、あたしにも目礼をして去っていった。彼女の目に浮かんだ微かな侮蔑の色は、思えばなんてことない、ギターを持っていると稀に年配の人から向けられる不理解のそれだった。

 なのに、彼女が居なくなって数十秒経っても心臓はどくどく叫んでいて。体の内側にガソリンが送られて熱が増していくのに、手足の末端は冬へ遡っていく。

 父さんが溜め息を吐くのを、どこか遠く聞いていた。

 

「……お前は、もう平気なのか」

「……え?」

 

 だから、気遣わしげな声音の意味を掴めなかった。

 忘れたふりを、できなかった。

 

「彼女の家が焼けたのに出くわしてから、随分憔悴していたが……まだ本調子ではないか」

 

 ──家が、焼けた。

 

 ──髪を結い上げたその(うなじ)に種火を仕込んだ。

 

 ──あんたも失くしかければいいって、願った。

 

 ──大事なものを失くす怖さを思い知ればいい、って。

 

「……あたしが」

「蘭……? どうした、蘭ッ!」

 

 足に力が入らない。

 割れそうな頭から火花が止まらない。

 熱い。

 熱い。

 あつ、い──

 

 ──あたしは、発火能力者(パイロキネシスト)になってしまった。

 

 彼女の家を憎悪が焼いた、その日から。

 

 

 

 

 

 ──夢を見てる。

 

『……ああ、帰ったか』

『貴女は……お久しぶりですね。覚えておられますか──』

 

 お歯黒の皮肉が覗く能面に囲まれるから、小さい頃から家の会合が苦手だった。商店街で日頃接する気持ちのいい大人たちと比べたら薄気味悪く思えて、歳を減るにつれてそういう場所から足が遠のいていったけど。

 ひと月くらい前かな。雪は降らないけど桜も咲かない、まだ真冬って言って差し支えない頃。バンドの練習を終えて帰ったあたしを出迎えて、あの女性は能面の笑みで名乗った。さっぱり思い出せなかったけれど、黙り込んでしまったのはそれだけが理由じゃない。

 

 ──あぁ、華道の人だ。

 

 一年ギターに触れて、下手なりにライブなんかもして、段々とまともに弾けるようになってきた頃合いで。決意表明も込めた一房の赤いメッシュと同じ色のギターに誇りすら感じられるようになっていたのに。

 

『……こんばんは』

 

 咄嗟に背中のギグバッグを身に隠そうとした。

 隠すべきだと思ってしまった。

 幼馴染との大切な繫がりを。

 今の、自分の誇りを。

 

『まあ……それは、なんでしょうか。習い事?』

『……いえ。趣味です。……大切な』

 

 一言で済ませることを許せなくてそう付け加えた反骨心を、女性は気にも留めず『あら、そうなの』と受け流した。

 

『いいですわね。遊べるのなんて今の内ですもの』

 

 きっと、他意なんてなかったんだ。

 彼女にとって格式や学問から離れたものは取るに足らない遊びで、学生の本分や高尚な趣味──それこそ『美竹』の華道なんかに比べたら、モラトリアムの慰めでしかない。

 言葉の端に一滴滲んだ蔑みはむしろ、あたしの立場からしたら甘んじて受け入れるべきもののはずで。

 

『いつか美竹先生の跡をお継ぎになるのでしょう? ()()()は早いうちに終えられている方が、先生も安心なされるわね。多様な経験が花に活きるとも云われますし……ねぇ』

『……いえ』

 

 こういう手合に睨みつけたり態度に出すのは幼稚だ。でも、目を逸らすのはそれに輪を掛けて惨めだって気づいたのは、俯いた後だった。

 あたしと違って先がないのに趣味に耽ってて暇なんだね、高尚なのは華道であってあんたじゃない、そう吐きつけてやりたいのに。幼馴染との繫がりを笑われて怒りが熾きるのに。あたしは後先考えず喚き立てることすらできなかった。

 

 思えばこの日も、彼女は帰るところだった。稽古の後に少し残っていたみたいで手荷物を持っている。外は日が落ちている。『失礼いたしました。それでは』と微笑んで横を過ぎた彼女の上品に結い上げた頸を、つい、目で追う。

 

 ──夢を見てる。

 

 ──夢だから、思い出せる。

 

 血が滲みそうなほど握っていた拳が解けていた。

 緩く開いた手指の先に真っ赤な火を点していた。

 それを投げるように彼女に向けた。

 

 

 ──あんただって。

 ──大事なもの、失くしかければいいんだ。

 

 

 その晩だった。家になんとなく居づらい気持ちになって、部屋着に学校指定のコートを羽織って外に出た。散歩のついでにコンビニにでも行こうと思って、少し遠くまで歩いた。

 通ってた小学校まであと五十メートル。通り沿いには公園。滑り台に幼い自分を幻視する。懐かしさのまま足を進めた。コンビニが近い。街灯も側。クリーム色の家が明かりに薄く照らされて、暖色が真夜中の住宅街では浮かんで見えた。

 なんとなく、目をやって──

 

 赤い、火花。

 

『え──』

 

 家と家の間を小さな光が、ちらりと落ちていって──あっという間に燃え上がった。

 鼻の奥に焦げ付く匂い。何か弾ける音。窓が開いて煙が溢れた。

 

 ──助けて! 火事が──

 

 狭い隙間が明るくなった。風が流れ込んで煌々と激しさを増す。不穏が轟いて、悲鳴が響めいて、足音が蠢いて──気づけば、閑静な住宅街は蜂の巣を突いたような騒ぎが始まっていて。

 

 ──通報は誰か──

 ──すげえ、マジで燃えて──

 ──道空けて、道空けて! どいて──

 

 けたたましく劈くサイレン。煙る空に霞む月。鋭角の夜を赤く、赤く、炎が踏み躙っている。

 あたしは野次馬の外側で、照らされた表札に釘付けになっていた。

 夕方、あの女性が名乗っていた姓だった。

 

『あたしが、あんなこと、思ったから……?』

 

 駆けつけた消防車から飛び出した救急隊員が煙と炎の中へ突っ込んでいく。

 あたしは自分の髪を、黒に混じる赤いひと房をくしゃりと掴んだ。

 膝が笑って近くの塀に凭れかかる。胸が軋む。痛みが熱を持つ。

 目と鼻の先で勢いを増す炎は、家を、誰かの暮らした日々を無に帰そうとしている。

 

『あた、しが……』

 

 ほんの僅か、子供の意地をコケにされただけだった。たとえ人生の夜を照らす篝火に砂をかけられたような気分でも、鼻で笑い飛ばしてやれば済むことだった。

 壊して開け放たれたドアから住人が担ぎ出される。服が焦げて、額と肩から血を流して、ぐったりと運ばれる女性。

 

 あの人だった。

 垂れ下がる左腕が、ひしゃげていた。

 

『お、ぇ……ッ』

 

 ぐちゃぐちゃに溶けた夕食を戻した。茶色いビーフシチュー。瓦礫。青黒い痣。煤混じりの痰。喉が酸に焼ける。肉の端切れ。血。目眩。鼻の奥から饐えた臭いが這い上がる。ついた膝に唇の端から数滴垂れる。

 

『ゲ、ほ、ォおえっ……え、ぇほっ……』

 

 死んでほしいはずない。

 誰かを傷つけたいわけもない。

 

 なのに、あたしは、この苦しみを確かに、(ねが)った。

 

 凍っていた五臓六腑が溶け出す。

 熱を帯びてどろどろになる。

 蛹を成して、火花を上げて、罅が入って。

 

 ──あたしは、発火能力者(パイロキネシスト)になってしまった。

 

「──蘭!」

 

 腕を掴まれた。

 

「蘭、蘭……起きられるか」

 

 大きく、細く、少し皺のある節くれ立った手。父さんだった。散々吐いて歩くこともままならないあたしを、火事の現場から連れ帰ってくれて──いや、あれは、夢で。

 ……ここ、あたしの部屋だ。

 ベッドに寝かされていることにすら、気づくまで時間を要した。

 明かりなのは同じでも、LEDライトの白は炎と似ても似つかない。揺らぎのひとつもなく本棚を、勉強机を、ギターを、パーソナルスペースの隅々まではっきりと照らしている。眩しさに、重い腕を持ち上げて顔を隠した。

 

 夢を、見てた。

 瞼の裏に焼き付いた夢。

 軽はずみな憎悪があの人の家を燃やした、罪の夢。

 

「ごめ、なさ……ごめんなさい……」

「……居合わせただけだ。お前は、何も悪くない」

「だって、あたしが、こうして」

「お前のせいじゃない。あの火災はただの不始末で──」

「そんなはずないッ!」

 

 叫んだ。

 父さんを振り払った腕が熱い。

 気づけばあたしは、家族にすら癇癪を向けていた。

 手のひらに浮かべて突きつけた恥知らずの炎が黒ずんでいく。父さんの顔を照らすことすらできない、暗い、血色の火。

 

「あたしが焼いたんだ! 大事なものバカにされた気がしたからって逆恨みして! ……どんなに」

 

 みんなに見せたときは花みたいだと思った。薔薇か椿か紅梅か──こんな花、あってたまるもんか。

 つぐみが見たら、なんて言うかな。

 

「どんなに腹が立ったって、傷つけていいはずないのに……!」

 

 あたしの心を映す炎の、あんまりな、穢さに。

 

「人の不幸なんか……願っていいはず、ないのに……」

 

 視界が滲む。鼻先に炎を突きつけられてるはずなのに父さんは何も言わない。どころか身動ぎもしなかった。真っ向からあたしを見据えて──やがて、粛然と。

 

「これ以上、お前に届けられる言葉はない。そこまで追い詰めた一端には美竹流のことも大きいだろう。……不甲斐ない父親で、すまない」

「……あたしは」

「指図する気はないが、通すべき筋があると思うなら、そうするといい」

 

 父さんが背を向けて、部屋を出ていく。

 

「明日から春休みだろう。閉じ籠もるも外へ出るも」

 

 好きにしなさい。

 

 そう言って。

 

 

 

 

 

 父さんと母さんには部屋に入らないよう伝えて、あたしは部屋にいた。

 いつまでも火が消えない。壁に。天井に。カーテンの向こうに。瞼の裏に。暗闇に。鳩尾の奥に。ときには体の裡で渦巻く炎が悪さしたのか、皮膚を破って漏れていた。熱を持った体が落ち着かなくて何度も水を浴びたけど、爪を立てたような傷が残っていて痛みに顔を顰める。

 何日経ったかな。やがて全身が炎に包まれて、あたしは動くこともままならなくなった。

 痛い。

 熱い。

 眩しい。

 蛇が手足を締め上げて喰らい付く。諸共焼いて鳥が啄む。血の池に沈められて藻掻く。

 罰だ。幼い悪意で誰かを痛めつけた罪の贖い。

 夢か現実かもわからない。煙たい頭の中に充満する焦げ臭さ。

 もう、誰も焼きたくない。

 あたしが燃えて死ねばいい。

 そうすれば、もう、怖くなくなる──

 

 

「──まったくもー、蘭はしょうがないんだから」

 

 

 ──空が、白んだ。

 

「蘭おはよ! みんなでお見舞いに来たよ」

「……ひまり?」

 

 赤黒い炎を、優しい日色が払った。

 薄く開けてドアから顔だけひょっこり覗かせたひまりが、明け仄かな微笑みで手を振っていた。

 

「……なんで。来ないでって言って──」

「アタシらはんなこと言われてねーっての」

「蘭、お加減どう〜?」

「おはよ蘭ちゃん。押しかけちゃってごめんね」

「巴、モカ……つぐみも」

 

 電気をつけたひまりの後に続いてみんなも踏み入ってくる。炎の中の黒が揺れて小さくなっていく。視界を満たしていた火がみんなを避けて、額が微かに熱を持つくらいに縮こまった。

 つぐみがどうにか起き上がったあたしの、たぶん前髪にでも点ってるだろう火を見て一層心配そうにする。

 ……心配してるのは、こっちだ。

 

「ちょっと待っててね、温かいもの用意して──」

「帰って」

 

 みんなの顔を見れない。見たら最後、行き場なく黙りこくってる陰湿な炎が餌を求める気がして。

 俯いて、背を丸めて、情けない態度で絞り出した。

 

「……帰ってよ。うざったいな」

 

 頭が熱い。

 

「頼んでもないのに押しかけてきて、うるさいし迷惑」

 

 毛布と薄い掛け布団に覆われた膝を抱える。その爪先にちっぽけな焦げ跡がつく。

 

「危ないってわかんないわけ? こんな癇癪ばっかりのやつが火持ってるんだよ」

 

 頬に点る。肺に燻る。声が焼ける。火を体の中に押し留めて、爆発しそうな体をぎゅっと抑える。

 

「早く……今すぐ、どっか行って──」

「──ぐちぐちうるせえ!」

 

 胸ぐら掴まれて顔を上げさせられた。

 巴と目が合った──気がした途端、ぐんと振り上げた額を叩きつけられる。

 

「いッ──」

「痛えか。ビビったか。それともムカついたかよ」

 

 いつも明朗快活な巴らしくない、淡々とした声だった。

 鼻先が触れ合う距離で瞳に射竦められる。

 

「ウゼえと思うなら、アタシを焼いてみろ」

「あ──」

 

 ()()()()()()

 

「……だめ、だめ、やだ」

 

 眼底が痛む。視界が明滅する。

 恐れが形を成して巴の髪に引火する。

 どこかで弾ける音がする。

 ジリジリ、バチバチ、火花が散って──

 

「イヤ────!」

 

 ()()()()()()

 

「きゃああああああああっ!?」

 

 絹裂く悲鳴が耳に刺さった。何が起きたのかもわからない内に明かりが消える。

 部屋のそこかしこに小さく点っていた火も同時に消えて、明るさに慣れていた目が寄る辺を失った。

 暗転する瞬間、巴に、後ろにいたみんなに、炎が飛ぶのが見えていた。

 

「……もう」

 

 あたしは結局、こんな人間なのかな。

 気に食わないものに八つ当たりで死んじゃえばいいって思うような。大事な幼馴染にだって癇癪をぶつけられるような、最低な──

 

「もう、殺して──」

「だーれがお前なんかに燃やされるか」

「あだっ……え?」

 

 ぱ、と明るくなった。

 巴が呆れ顔でチョップを構えてる。そのすぐ後ろ……あまり広くない部屋の、何歩も歩けば手を取れそうなくらい近くで、しゃがみ込んだつぐみをモカとひまりがおしくらまんじゅうみたいに抱き締めていた。

 

「つぐ大丈夫ー? よ~しよ~し」

「すごい雷だったね……よしよし、安心してつぐ。私たちがいるからねー……!」

 

 ……さっきの悲鳴、つぐみだったんだ。

 青い顔で震えている彼女の足下にはコンビニのビニール袋が落ちていた。双子のスポドリが転んでカップスープの箱が下敷きにされて、冷えピタもどさくさに紛れて逃げ出している。

 その近くにはいつの間にか手元から無くなっていたティッシュ箱も放り出されていて、自然、部屋のそこかしこへ視線が向かった。今着てるのとは違う血で汚れたTシャツが投げ捨ててあった。転がってるペットボトル、机の上にはいつ食べたのか記憶にない食器類。スタンドに立てたギターは数日触ってないせいで埃が積もっている。

 

「……汚い部屋」

 

 酷い有様だった。何がって、これをおかしいと感じてなかったあたしの精神状態が。

 巴が「まったくだ」と笑いながら、シャツの襟からやっと手を離した。

 

「──こんなシケた面構えしたやつが、何を燃やせるってんだ」

「……でも、それは」

「も〜、強情だな〜蘭ったら」

 

 つぐみをひまりに任せて、モカがちょこちょこ駆け寄ってくる。

 

「ぎゅー」

「ん……ちょっと、痛い」

「おしおきで〜す」

 

 モカの体温が、優しい。あたしの内側に篭った熱と溶け合って、徐々に、解きほぐされていく。

 

「……蘭、覚えてる?」

 

 クラスが分かれちゃった、すぐ後のこと。彼女は春の柔風(やわかぜ)みたいに囁く。

 

「いつも屋上にいたよね。体調不良って誤魔化してたんだっけー……も〜、ワルいコなんだから〜」

「……それが、何?」

「あたしたちと離れ離れになって、蘭パパとも折り合いつかなくて……それでも、誰かと喧嘩とかはしなかったね。誤魔化すだけで、ひとりで抱えて」

 

 モカに描き出される、いつかの日々。

 隣にあった陽だまりが無くなって、憂鬱な影の中で息も吸えずもがいていた。

 

「つらかったよね。苦しかったよね。ヤだったよね。カリカリしてたし、爆発しそうな気持ちを抑え込んで……それでも、誰にもぶつけなかったね」

「……だって、誰かに当たるのなんか、お門違いでしょ」

「わかってても耐えられない人も、耐えようとすらしない人もいるもん。蘭は優しいね」

「……そんなことない、あたしは結局……」

「だいじょーぶ」

 

 いつまでも明けない極夜の毎日。教室に響く笑い声も、すれ違うクラスメイトたちも、朝と自分を隔てる暗闇と大差ない。

 篝火が欲しかった。

 暗闇を引き裂いて夜明けまで連れて行ってくれる火が。

 青空を傾ける夕焼けの向こうへと踏み込むための火が。

 温かい、火が──

 

「今度はもう、独りにしないからね」

 

 ──胸の奥に、(とも)った。

 

「……モカ」

「ん〜?」

「……ごめん」

「あたしも、ずっとひとりで悩ませてごめんね。ふふ、おあいこだったね〜」

「……巴も。ごめん」

「おう、それ聞けりゃよしだ!」

「……うん。ひまり、つぐみも──」

 

 ごめん、って言おうとしたら外がゴロゴロ鳴って光って「ひやぁぃっ!?」とつぐみが縮こまる。……もしかして天気悪いのかな。

 モカがどいてくれた。つぐみのもとへ行こうとして、ふと思いつく。

 両手で掬うみたいにして、小さな、小さな火を浮かべた。澄んだ紅の火。

 ……超能力だし、あたしに都合よく従ってよ。

 手を合わせると薄く膨らんで、あたしの体を包むように広がった。

 

「つぐみ」

「……ぇ、わっ、どうしたの蘭ちゃん……!?」

 

 そっと抱き締めた。

 つぐみもあたしの火を知ってるはずだ。雷を呼ぶ前にみんなを焼きかけたのも見てたはず。それでも大人しく収まってくれるのが気恥ずかしい。

 

「……怖い気持ちとか、不安とか、ヤなことだけ、あたしの火で焼けないかなって。……どう?」

 

 顔を見るのは照れくさいから、もっと密着して耳元に寄せながら思いつきを説明した。つぐみは腕の中でむずむず身動ぎすると、面映そうな赤らんだ声が返ってくる。

 

「蘭ちゃんの火は、やっぱり優しいね」

「……ごめんね。心配して来てくれたのに、あんな」

「ううん」

 

 あたしの背に腕を回される。

 じんわりと炎が返ってくる。

 冷え切っていた指先まで熱が戻ってくる。

 みんなが、いてくれる──

 

「あたしのこと忘れてない!? ちょっとー!?」

「んぐぅ……」

「うぅっ……ひまりちゃん、ちょっと苦しい……」

 

 ひまりが飛びついて来た。重いベースを担当してるからか力が強くて普通に痛くて火花が散るけど……みんなには向かわなくて、パチパチ、華やかに飾って消える。

 焼きたくなかったんだ。

 ずっと、あたしは、誰のことも。

 あの女性のことだって、もしかしたら、ほんとは。

 

「……ひまり、熱くない?」

「え? 全然へーき! 外ちょっと肌寒かったから、こうしてるとあったかいよ!」

 

 一層力を込めて抱き締められた。痛くて息苦しいけど、温かいのはあたしも同じで。

 

「つぐとひーちゃんばっかずる〜い! あたしもあったまるー」

「おいおい、一応病み上がりなんじゃ……ま、これが一番効くか。アタシも混ぜろ!」

「わっ、ちょ──」

 

 モカと巴も飛び込んできて、ぎゅうぎゅう押し合って固まって、温度がひとつになっていって。

 雨の降る春の午後、日が沈むまでそうして暖を取っていた。

 

 

 

 

 ──夢を見てる。

 

 桜が散る公園に、みんなが手を引いて連れてってくれた。

 真新しい羽丘の制服がまだぎこちなくて肩を上げにくい。こんなんでギター弾けるかな。なんとか構えて奏で歌う。喉を開けて声の曇りを泣き晴らす。弦の上を滑る指と、ライトを浴びる額が熱い。

 お店屋さんごっこしてたモカが振り向いて穏やかに笑いながらパンを差し出す。あたしはお金を払おうとして、握りしめていたそれを差し出した。

 薔薇だっけ。

 椿だっけ。

 紅梅だっけ。

 きれいな、あかいお花──

 

 

 

 

 

「──蘭、らーんー」

「ん……」

 

 ぺち、と頬に触れる手がひんやり、冷たい。

 

「……あれ、ライブしてて……」

「まーだだよ〜」

「かくれんぼ……?」

 

 モカがふわふわ笑って、つぐみがツッコミを入れていた。膝の上にはギター……なんで座ってんだろ。顔を上げると薄いクマを目の下に蓄えて不健康なツラしたあたしが、ライブ衣装に身を包んでいた。

 大きな鏡が置かれた綺麗な化粧台。荷物置きのロッカーに、お菓子と喉飴が置かれた長机。バンド組んでからずっとお世話になってるハコの控え室だ。

 ケータリングを摘まんでいたひまりと巴が「あっ、おはよー」「大丈夫か?」とテーブルを立った。

 

「だいぶクマ薄くなったね! まだちょっと不安だけど……」

「もう少し寝とくか? トリだし、ギリギリまではなんとか待てるぞ?」

「あー……」

 

 ──そうだ、ライブやろうって話になったんだっけ。

 

 みんなに泣きついた後、雷雨の中を帰らせるわけにいかないからって泊まってもらって。散らかってたあたしの部屋を片付けて空けたスペースに布団を敷いて雑魚寝しながら、これからのことを話し合った。

 

『火、ちぃちゃくなったね〜』

『うん。まあもとから、みんなの前だとマッチ擦ったくらいにしかならなかったけど』

 

 両手の器にぽっと灯る、蕾みたいな赤い火。豆球くらいの明かりでしかないそれをモカが唇を尖らせて「ふ〜」と吹き消そうとする。くすぐったそうに揺れるけど消えないそれが、あたしはまだ、ちょっとだけ恐ろしかった。

 

『蘭、やっぱりその火って怖い?』

『……炭の中で、熾火がいつまでも光ってるようなもんだし。そりゃまあ』

 

 夢見の悪さの根源。あの人の家を焼いた、命まで奪いかけた火が、あたしの眠ってる間に暴れ出すかもしれない恐怖。

 みんなはあたしのせいじゃないって言ってくれるし、多少冷静になれた今なら、あたしがパイロキネシスに目覚めて火事を起こしたんじゃなくてその逆──酷い火事を見たせいで余計な才能が花開いたんだって、納得できなくはない。あたしが蒔いたと思った種火は、見間違いか何かだったのかもしれない。真相は結局わからない。

 でもどちらにせよ、この火はフラストレーションが溜まれば爆発してしまうような、到底制御できそうにないものなのは確かだった。

 

『食べ物の好き嫌いとかならともかくさ。練習にだって人の命がかかるなら……できれば、さっさと手放したいよ』

 

 そんなことを話すとみんな神妙に受け止めてくれるんだけど、訊ねてきた当人だけ様子が違った。

 

『オキビ……?』

『ひまり、マジかよ……』

『ひーちゃんは果たして来年、無事高校生になれるのか〜……次回作にご期待ください』

『打ち切られてる!? や、ちょっと待って、わかるわかる大丈夫……あれでしょ、妖怪が出てきたときに一緒にボワって出るアレ!』

『鬼火じゃね?』

『鬼火じゃないかな』

『鬼火だねぇ』

『チョンボ!』

『……ふ、ふふっ……』

 

 おかしくって、つい手を閉じて笑っちゃった。火は消えずに薄く広がって、淡いオレンジ色で仄かに染める。この瞬間、部屋で一番赤いのは火じゃなくて端に寄せたレスポールだった。

 

『も〜! ……うーんでも、蘭が笑ってくれるならいいかな……』

『わははー』

『モカは悪意ない!?』

 

 他愛ないお喋りと、登っては沈む空の赤と、バンド。この先の未来を照らす温かさは胸にある。

 なら──篝火(しるべ)は、もういらない。

 

『ねえ』

『ん〜?』

『そういう、お伽噺とかフィクションだとさ。超能力を手放すのってどういう展開のとき?』

『あ~……そうだなぁ』

 

 漫画とかに詳しいのは主にモカだ。彼女から勧められる形で次に巴、ひまり、って来て、あたしとつぐみはどっこい。なんとなく定番の展開くらいはわかるけど……最近見たそういうの、『ファイアスターター』くらいだし。

 有識者たちからの返事は早かった。

 

『定番なのは最終回かな〜? 最終決戦終わった後に時間が飛んでー、大人になった主人公がモノローグで語るわけですよ。不思議な力は子供時代の終わりと共に消えてしまったー……とか』

『その最終決戦で使い切るパターンもあるよな。オレの力、今ここで限界を超えろ! ヤツを倒すために! つって、ほんとに限界超えて二度と使えなくなる』

『いろいろあるんだね……!』

 

 つぐみがちょっとワクワクした顔で言う。そういうのに割ける時間があんまりないだけで、彼女もサブカルチャーは好きな方みたいだった。『ほかにはあるの? 定番からちょっとズレてるのとかは……』とせがまれるままに、何故かひまりが意気込んであれこれ挙げ始める。巴も好きな漫画のシーンなんかセリフ付きで出していって、しばらく。

 途中から寝てるんじゃないかと思ってたモカが呟いた。

 

『ふ〜む……天才漫画家モカ・アオバ……閃きました』

『……なんですか、アオバセンセー』

 

 とりあえず乗ってあげる。モカは得意げにエアペン回しをしながら『初歩的なことじゃよ〜ワトランくん』と嘯いた。

 

『この手の話で、能力を手放す展開はざ〜っくり分けて2パターンだよね〜。ずばり、出し切るかー、壊れるか』

『壊すのは……たぶんそれ、あたしが死ぬやつじゃない?』

『うん、だから今回はナーシ。出し切る方向でいきましょ〜』

 

 絵図が描かれる。

 

()()()()の主人公──ランには悩みが、家庭の事情が、そして始めたばっかりの趣味までおありです』

『蘭が主人公! いいじゃん!』

『…………まあ、続けて』

『ある日、とある事件からパイロキネシスに目覚めてしま〜う……炎がテーマだ。じゃあ〜、解決も炎になぞらえるのが筋じゃない?』

 

 タメをたっぷり置いて、彼女は幼馴染のみんなを──ううん。

 ドラマーを。

 ベーシストを。

 キーボーディストを。

 ギターボーカルを──ひとりひとり見つめて。

 いたずらっぽく『にひっ』と笑う。

 

『この物語の結末は──』

 

 

 

「──『アツ〜いライブで完全燃焼』、だもんね」

 

 セーハしたDコードをゆったりとストローク。それからもう一度、今度は力強く振り下ろす。

 スライドさせた指先が熱い。

 どくどく高鳴る心臓が熱い。

 体に宿る赤い炎が──熱い。

 

「出番、もうすぐでしょ。寝てらんない」

「……〜〜っ、じゃあせめてお化粧! 蘭べっぴんさんなんだから、クマ残したまんまステージに出るなんてダメですー!」

「えぇ……? ひまり、化粧とかできるの?」

「バカにしすぎじゃない!? できるよ女子だよ私は!」

「いや、あたしできないから……いつの間に覚えたの、そんなの」

「…………」

「え、ちょっと、なになになに、なんで抑えて」

「お化粧ッ、実行!」

「ひっ」

 

 鬼みたいな形相で肩を掴まれて化粧台の前に押し込まれたあたしを、鏡の中で呆れ笑いするみんなは助けてくれそうにない。

 モカがニマニマ言う。

 

「『いつも通り』だもん。肩の力ぐだ〜んと抜いちゃお。ね?」

「……うん」

 

 燻りを、深々吐き出して。

 

「……ひまり。お願いしていいかな」

「うん! おねーさんに任せなさいっ!」

 

 あたしの方が誕生日早いんだけど、なんて軽口を返しながら目を閉じる。

 前髪の左に一房入れた赤いメッシュがメラメラ揺れた、気がした。

 

 

 

 

 MCは簡潔に。名前以上の紹介は演奏で。ハイハットのくすんだフォーカウントから、モカの重く鋭いコードリフが黒いキャビネットを吼えさせる。

 

 孤独と喑晦の中でノートに綴った始まりの詩を──弱いあたしを焼き尽くすために、歌いだす。

 

 ……あの火災の原因が、あたしじゃないなら。

 泣くのも謝るのも罪悪感を和らげるための自己満足でしかない。あたしの超能力のせいでごめんなさいとか、焼け石に水どころか火に油だ。証明できないんだから。

 あたしが本当に背負うべき間違いは、ギターを背に隠して俯いたこと。

 背負う謂れもない罪悪感で自分を苛んで、それから目を背けたこと。

 

 ──中途半端でいることの後ろめたさ。

 みんなとの絆を誇れなかったことが、禊ぐべき罪。

 

 人の不幸なんか願っちゃいけない。嘲りに腹が立つなら真っ向から立ち向かうべきだったんだ。「あたしは本気なんだ」って、確かな芯をもって、言葉と態度でもって、毅然と。

 このライブは、そんなあたしになるための第一歩だ。

 

 ──歌声を吹き込むマイクのグリルが焼け付く。

 

 パワーコードの間にちょっとした合いの手のフレーズを挟む。一歩前に出て大袈裟なパフォーマンスで弾くモカが横からあたしを覗き込んだ。Aメロの折り返し、挑発するように細めた眼差しが重なり合うオクターブユニゾン。

 もう一年近くやってきたんだ。歌いながら手元に目を落とすことも段々となくなって、少なくともこの曲に限っては前だけを向いていられるようになった。

 

 ──スタンドを伝って徐々に燃え広がる。

 

 背中から照らされて色づく、あの夜とは似ても似つかない闇の中。お客さんの顔は案外はっきりわかる。最前列の子は去年のクラスメイトだし、いつもこのハコに来る常連さんや先に出番の終わったバンドの子も顔を輝かせてる。

 でも、まだ足りない。

 

 ──ステージが赤熱していく。

 

 間奏に入る瞬間、目配せをするや否やマイクの向こうへ飛び出してバーに蹴りを入れた。ブーツの踵を引っ掛けたまま、少し絞っていたギターボリュームを跳ね上げる。

 

 ──ギターに引火する。

 

「あぁ──」

 

 声帯が移る。喉から手元へ。

 まだ拙くても全身全霊の、指先から溢れる歌に任せたギターソロ。

 

 やりきれ。

 出し切れ。

 鬱屈が、不安が、後ろめたさが、情けなさが──あたしの弱さが発火するまで熱く、灼き尽くせ!

 

 ぐんと滑らせる左手が摩擦で炎を帯びる。

 ピックが弦を切り裂くたび火花が爆ぜる。

 唇の端から、ピックを握る第一関節から炎が滲む。

 この炎はあたしの気持ちだ。あたしのものだ。

 なら、あたしの、言うことを聞け──!

 

「あぁ──ァ──ぁぁぁああああッ!」

 

 抑えられない叫びと張り裂けそうなチョーキングが重なる。リズムはドラムの律動に沿って。コードワークはベースの推進力に飛び乗って。オルガンの風を背中に受けて。リードギターと背中合わせで。

 無我夢中で指が回る。

 思い通りに音が鳴る。

 

 ──白熱する。

 

 ターンアラウンドと共にマイクの前へ戻り、ラスサビを全力でぶちまけた。勢いのままアウトロに飛び込んで。

 

 ──夢を見てる、みたい。

 

 火が消えて──違う。何もかも燃やし尽くして、高まり切った熱だけが渦巻いている。

 

 轟く歓声の中、ギターから波が溢れていた。

 気づけばあたしの火は、音に乗ってこのハコをいっぱいに満たしていた。

 

 体がなくなっちゃったみたいだ。ぺろりと舌舐めずりするモカの裏メロも、ひまりが勢い任せに差し込んだスラップも、堪えきれず飛び跳ねるつぐみのオルガンコードも、巴の暴れだしそうなタム回しもわかるのに。

 痛みも熱さも忘れて。

 黒ずみも紅も透明になって。

 

 ──どこまでが夢だっけ。

 

 アンサンブルがはしゃぎだす。モカの粗削りなタッピングに精一杯早回ししたペンタでどつき返す。ひまりが寂しがったようにハイポジションへ駆け込んで。つぐみがそっと場所を空けると、巴がフラムで受け止めて一斉に走り出す。

 BPMが加速していく。もう何弾いてるのかもわかんないくらいめちゃくちゃにかき鳴らす。

 

 今を全速力で駆け抜ける。

 高々と誇りを掲げ鳴らす。

 セントエルモの火が灯る。

 

 まだ中級者に片足突っ込んだくらい、未熟なあたしたちの全霊が迸る。過熱の果てに形を捻じ曲げて終わらないアウトロ、長くない持ち時間を一曲で使い切るソロ回しの殴り合い、誰も彼も飛び跳ねて拳を突き上げて、そこの娘なんか泣いてるし、湧いて沸いて噴き上がる歓声は悲鳴を通り越して爆笑すら混じりだして、振り上げたギターの先から火花が散って、照明のひとつを撃ち抜き──

 

「あっ」

 

 ──スプリンクラーが起動した。

 

「きゃああああっ! 楽器、楽器濡れちゃうっ! ていうかステージにスプリンクラー付いてたの!?」

「まあ出火するとしたらまずアンプとかー、電源とかだろうしね〜……へぷちっ」

「も、モカちゃんっ、早くこっち、袖に」

「あーっはっはっはっは! Afterglowサイキョー!」

「巴ちゃん!」

 

 頭からずぶ濡れだ。

 風邪ひくかな。

 楽器もメンテ出さないと。

 前髪がおでこに貼り付く。

 雫が鼻先から滴る。

 

「あー……」

 

 冴える。

 鎮まる。

 目を閉じる。

 綺麗さっぱり烏有に帰して、空っぽになった胸の内に浮かんだのは、ひとつだけ。

 

「やり、きっ……た──」

 

 

 

 

 

 ──夢を見てた、気がする。

 

 

 

 

 

「──ひーちゃ──演技ヘタ──」

「まあまあ────しても──」

 

 揺られてる。

 

「……あれ」

「だって見えるわけじゃないし──あ、蘭起きた!?」

 

 薄い汗の匂いに混ざって、なんとなく覚えのあるシャンプーの香り。細いのにちょっと大きくて、熱い……巴の、背中?

 

「……どこ、ここ」

「おーす蘭。帰り道」

「ごめんね蘭ちゃん、勝手に着替えさせて……」

「……いい、けど……ライブ、やってて……?」

「もう終わったよ」

 

 朗らかな声が髪の向こうから響く。ゆったりした歩調が心地よくて、まだゆらゆら揺蕩う微睡みから抜け出せない。

 

「……どこまで、ゆめだっけ」

「まだおねむですかな〜? 寝ぼけてる〜」

「……うっさい、ばか……」

「新学期前に景気づけのライブやろうね〜、って言い出したの蘭だったじゃーん。忘れちゃうなんて、あたしは遊びのオンナだったのね、よよよ〜……」

「……景気づけ」

 

 あれ。

 みんながお泊りに来てくれて。それまで、確か、寝込んでて。

 その前は──あれ?

 

「それより蘭、お腹空いてない? さっき買った肉まん、まだ余ってるよ!」

 

 ひまりに明るく声をかけられて、線香の煙みたいな薄靄の思考はすぅと立ち消えた。

 包みを剥いて「はい! あーんっ」と笑顔で差し出されたそれに、あたしは素直に齧り付いた。

 付けた唇はなんともないけど、具はしっかり温かい。

 

「……できたて?」

「え? ううん、CiRCLE出る前に買ったからちょっと冷めてるかも……」

「ちょうどいいんじゃね? 出来立てだと舌火傷するだろ」

「でも今日ちょっと肌寒いし、どうせなら……」

「まーまー。肌寒さなら、これで解決だよ〜?」

「んむ……」

 

 巴ごと抱き締めるみたいに腕を伸ばして、モカがあたしの頬を両手で押さえる。一瞬ひんやりしてたけどあっという間に温まっていく。

 

「お、あったかあったかー。寒空で凍えたあたしの心も癒やされるよ〜」

「もう四月も近いぞ……」

「人肌恋しい乙女ですからなーモカちゃんは。蘭の不思議なパイロキネシスでホカホカだ〜い」

「……なにそれ」

 

 とろける微睡みが瞼をそっと下ろそうとする。

 揺らめいていた違和感も温かさに沈んでいく。

 まだ眠たい。消える蝋燭の火が最後に大きく照るように、呟きだけぽつんと残して──

 

「──パイロキネシスなんて、あるわけないじゃん」

 

 

 

 

 

 

 


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