君が、春を連れてくる。

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薫風

 春。それは始まりの季節。新たな出会いを重ね新たなコミュニティを築いていく、そんな季節。そんな中、大学デビューに失敗した俺はひとり図書館で本を読んでいた。

 本当は全部、うまく行くはずだったんだ。そのために髪も染めて、眉毛も剃って、服も全部買い替えて、話し方も練習して。今までの自分から変わろうって、本気で努力したのに。

 結局、何も変わらなかった。俺は誰とも目を合わせられなかった。俺は誰とも話せなかった。人が怖い。視線が怖い。何もかもが怖い。ただ、この地獄が早く終わるように俯いて時が過ぎるのを待った。気づけば周りは新しい友人ができた学生たちで溢れ、俺はいつのまにか上手に息を吸えなくなっていた。

 そんな眩しすぎる世界からどうにか目を逸らしたくて、俺は逃げるようにこの図書館に入り浸るようになった。失敗体験のフラッシュバックを阻止するために、無理やり頭に情報を詰め込むだけの作業をするために。正直、内容は一切頭に入らない。あくまでそれは、気を逸らすための読書だった。

 

「おや、こんなところに儚い感性を持つ子猫ちゃんがいただなんて。やはり運命はいつも新鮮な出会いを私にプレゼントしてくれる」

「えっ……え……?」

「照れなくていいんだよ。君も好きなんだろう? シェイクスピアが」

「あ、あの……俺は……その……」

 

 ……そう。この図書館が俺の唯一の逃げ場だったのに。その逃げ場すら、神様は奪ってくるのだなと感じた。

 てか、この本、シェイクスピアさんのやつだったんだ。それすらもわからずに読んでたな、俺。でも隣に座ってきたこの子はシェイクスピアさんのことが好きで、でも俺はシェイクスピアさんに全く興味がなくて。

 一体、俺はどうしたらいいのだろう。頭がぐるぐると回り、視界がぐらぐらと揺れる。ああ、これだからダメなんだ。誰かに話しかけられるといつもこうなって、結局俺は誰とも上手に会話ができないんだ。

 それは今も同じで。急に話しかけてきてくれた男の子の質問にうまく答えられず、会話に詰まってしまっている。ああ、きっとまたこのまま気持ち悪がられて終わってしまうんだろうな。俺の人生は、いつだってそうだったから。

 

「フフ……わかるよ。実にわかるさ。シェイクスピアの儚さは、到底言葉で表しきれないからね。思わず言葉に詰まってしまうほどの素晴らしさ……ああ、なんて儚いんだ……!」

「あ、え、ハイ……」

 

 ……なんだか想像の斜め上の捉え方をされたようだ。どうやら彼の中では、俺はシェイクスピアさん大好き人間としてカテゴライズされている気がする。

 どうにか訂正したいけど、でも訂正したら迷惑かなあ。期待を裏切ってしまうかなあ。せっかくシェイクスピア繋がりで話しかけてくれたんだし、そのままシェイクスピア好きで通した方がいいかな。いやでも、自分を偽る方が後々苦しいしなあ。

 ああ、やっぱりこれだから誰かと話すのは苦手だ。ちょっと会話するだけなのに余計なことばかり考えて、それだけで頭がパンクしそうになる。

 

「あの……す、すみません……俺、シェイクスピアさん……あんま、詳しくなくて」

「そう……だったのかい?」

 

 うわ絶対今余計なこと言っちゃったなあ!!! 今すぐこの窓から飛び降りて死にたい!!! せっかくできた人と話すチャンスなのに何やってんだよ俺!!! 

 明らかな失言に心の中で死にたくなるほど後悔するが、時は巻き戻せない。俺がこうなってしまう前に失敗した過去をやり直せる懐中時計を、誰か俺に恵んで欲しかった。

 

「勘違いをしてしまってすまない。シェイクスピアの本を読んでいる子猫ちゃんは、普段あまり見かけなくてね……つい嬉しくなって話しかけてしまったよ」

「そうだったのに……期待させて、ごめんなさい」

「構わないよ、シェイクスピアに興味を持ってくれたことが私は嬉しいのさ」

 

 それでも、この人は優しかった。俺みたいな根暗にも笑顔を向けてくれる、まるで太陽みたいに温かくて優しい人だった。もうちょっとだけ早くこんな人に出会えてたら、俺も変わってたのかなあ、なんて夢想に浸ってみる。

 ぽわぽわと夢の世界に旅立ちそうになった俺だが、「せっかくできた縁だ。少し話さないかい?」という彼の誘いで目が覚める。どうやら、俺を喫茶店に誘ってくれるらしい。

 ここで話しすぎるとみんなの迷惑になってしまうからね、とカッコイイポーズを決めながら話す彼を見て、どこまでもよくできた人だなあ、と尊敬してしまった。そもそも、一人でただ本を読んでる俺に話しかけてくれた時点で、すごく勇気ある人なんだけど。俺には絶対無理だなあ。

 ああでも、嬉しいな。俺、夢だったんだよなあ。友達と、喫茶店に行くの。いや彼とは出会って一日目だし友達じゃないだろ驕るな俺。

 

「ふむ……なるほど。君は大学で友達作りに失敗してしまったんだね」

「ほんと、情けない限りなんですけど。いくら髪は明るくできても、性格までは明るくできなかったっていうか……はい……」

 

 ああ……どうしよう。ついつい今までの経緯を全部話してしまった。あまりにも彼が話しやすいものだから、気づいたらベラベラと自分語りを並べてしまっていた。

 大丈夫かな、キモがられてないかな。多分キモがられてるよな嫌すぎるな。俺はいつもこうだ。俺はいつもこうして自分を曝け出しすぎて自滅する。誰も俺を愛さない。

 それでも、彼は優しく話を聞いてくれた。こんなんずる過ぎるよ。多分この人世界中の人間虜にできるよ。ていうかしてそう。

 そんなくだらないことでまた頭が埋め尽くされていた俺だったが、彼が突然口にしたある言葉でその思考は全て吹っ飛ぶ。

 

「つまり、君の話を要約すると君は友人がいなくて困っているんだろう? それならば、私が最初の友人になろうじゃないか!」

「いや、出会って一日目なんで、それは、流石に……」

「おや、本当にいいのかい? この瀬田薫と友人になれるなんて、滅多にないチャンスだよ?」

 

 どこから湧き出てくるんだろう、その自己肯定感。本当に羨ましい限りだ。この人はつくづく俺にないものばかり持っている人だと感じた。

 そういえば、名前はセタカオルくんって言うんだなあ、綺麗な名前だなあ。いや、こんな細かいとこまで聞いてたらキモいって思われるかな。急に名前呼んだら殺されたりしないかな。ああやだな、俺、こういう時だけ耳が良くなるのやだな……

 でも、せっかくできたこの繋がりを、今日という一日を無駄にはしたくなかった。俺はゆっくり、ゆっくり首を縦に振る。

 

「フフ、決まりだね。君のアカウントは……この友也、という名前のアカウントで合っているかい?」

「ああ、はい。本名が西村友也(にしむらともや)なんで……多分それで合ってます」

「友也か……とても儚い名前だね」

 

 儚い名前ってなんだろう? という疑問は抱きつつも、恐る恐るメッセージアプリを交換する。初めて俺のメッセージアプリに家族以外のアカウントが追加される音がした。

 気づけば、日も暮れていて。俺たちは、それぞれの帰路につくことになる。俺は、声を振り絞ってまたね、と叫んだ。こんな大声を出したのは、いつぶりだろうか。まだ、心臓がバクバクしている。

 

「改めて、私は瀬田薫さ。四ツ葉女子大学の一年で、ハロー、ハッピーワールド! というバンドでギターをしているよ。これからよろしく頼むよ、友也」

 

 そう言ってかっこよくお辞儀をすると、瀬田くんは颯爽と街の中へ消えていった。今度会う時のためにシェイクスピアのこと、ちょっと調べておこうかな……なんて、ちょっと能天気なことを考えてみたり。

 ああ、今日この図書館に来てよかったな。ああ、今日この図書館でシェイクスピアを読んでよかったな。そのおかげでずっと憧れていた男の子の友達ができたんだから。

 それにしても、瀬田くんって四ツ葉女子だったんだ……結構近くだし、なんなら同い年だな……って……四ツ葉女子? 四ツ葉……女子? 

 ──エッ瀬田くんって女の子!? 

 

 〜

 

 俺はただでさえ人と話すのが苦手だが、女の子と話すのはそれの比にならないぐらい苦手だ。多分世界で一番苦手だ。だって、女の子って何考えてるかわからないし何言われてるかわからないしいつのまにか嫌われていつのまにか無視されていつのまにか笑いものにされてるし。

 苦しかったあの頃の記憶が蘇る。ああ、こんな記憶今すぐに消してしまいたい。消せないから、今もこんなに苦しんでるんだよな。

 いや、わかってるんだ。瀬田くんはそんなことをするような人ではないことぐらい。わかっているけど、どうしても不安になってしまう。

 まず、少しでも俺が少しでもヘマをしたら瀬田くんは即座に俺のことをゴミムシ以下だと認知するだろう。仮に瀬田くんがこんなゴミムシ以下の俺を許してくれたとて、世間はそれを許さない。俺は犯罪者である。即死刑である。

 何より女の子だってわかった瞬間から馴れ馴れしくしてくる人間とか世界一キモいし……俺はそうはなりたくない。というかなれない。逆に女の子だとわかってから俺は瀬田くんのことが怖くなってしまった。

 

「友也……? 何もそんなに距離を取らなくても、私はどこにも行かないよ。ほら、こっちへおいで」

「だ、だだだだだだ、大丈夫、ですデス」

「本当に大丈夫かい……?」

 

 せっかく瀬田くんが遊びに誘ってくれたにも関わらず、KONOZAMAである。半径二メートルは離れてないと心が死にそうになる自分が、本当に情けない。

 瀬田くんはそんな俺をひどく心配してくれているようで、時々こちらを気遣うように目線を向けてくれる。その優しい目を見るたび俺は申し訳なくてたまらなかった。

 そのまま歩くこと、数分。信号機に捕まり、俺たちは立ち止まることに。そんな時、俺の頭に何かが触れる。

 

「友也の髪は、こうして光に当たるとお日様みたいで儚いね」

「ギャ────ッ!」

 

 あまりにも急激な出来事により、俺は思わず大きな声を出してその場に倒れ込んでしまった。瀬田くんも小学生もおばさんもお兄さんもワンコもみんなして俺の方を怪訝そうな顔で見ている。死にたい。

 でもまさか、いきなり髪を触られるなんて思ってもなかったから。まるで少女漫画のイケメンみたく自然に触れてくるものだから、思わずデカい声が出てしまう。

 普段使わない喉の筋肉を使ったからか、喉がジンジン痛い。本当に自分がカッコ悪すぎて、消えたくなる。

 

「すまない……いきなり触れて、びっくりさせてしまったね」

「ご、ごめんなさい……! 瀬田くんは、何も、悪くなくて……ハイ……ただ、俺が女性と話すのが、その、すごく、苦手、なだけでして……本当に申し訳ないです」

「そうだったのかい? それは申し訳ないことをしてしまったね……」

 

 あーあ! また気を遣わせるようなことを口にしてしまった! 本当に嫌だ。ただでさえ瀬田くんは俺に優しくしてくれるのに、それ以上の配慮を求めようとするとか図々しいにも程がある。

 こんな弱点ぐらい努力でなんとかすればいい話だ。それぐらいの努力もできないから、俺はこうしてまた人に迷惑をかけてしまう。ああ、だめだだめだ。本当に、カッコ悪い。

 

「その、善処、します……」

「無理しなくて大丈夫さ。友也は友也のままでいいんだよ」

 

 ああ、やっぱり瀬田くんは優しい。その優しさに触れると、申し訳なさで頭が爆発しそうにもなり、こんな自分が肯定された気にもなって嬉しくなってしまう。ああほんと、俺はつくづくダメ人間だ。

 ああ、俺、なんか、ずっと瀬田くんに甘えてばっかだな。遊びの誘い、場所決め、スケジューリング、そもそもメッセージのやり取り自体だって。何をするにも瀬田くんが先導してくれるし、俺はそれに従って金魚のフンみたいについて行ってるだけだ。

 それなのにも関わらず、瀬田くんはいつでも俺の意思を尊重してくれる。今だってそうだ、俺のわがままに対してこんなにも真摯に優しい言葉をかけてくれている。それが情けない。

 ああ、せっかく初めて出来た友達なのにな。瀬田くんがあまりにも人間として完成されすぎているのに対し、俺はあまりにも不甲斐なさすぎる。

 だめだ、だめだ。またぐるぐる思考に陥ってしまう。瀬田くんと出会ってからコレはやめようって決めたのに、気を抜いたらいつもこうだ。

 

「……友也」

「……なん、でしょうか」

「オタマジャクシにクチバシがついていることを、君は知っているかい?」

 

 ……が。そのグルグル思考は突然始まった瀬田くんの豆知識コーナーで遮られる。

 オタマジャクシって、あのオタマジャクシのことかな。今、それと俺の女性恐怖症になんの関係が……? いやでも、瀬田くんのことだし何か意図があるのかもしれないと思い、俺は耳を傾ける。

 

「その小さいクチバシの中には細かい歯もあるようでね。それを使って、川や池の苔や藻をやすりのよう削り取って食べているらしいよ」

「そ、そうなんですね……すごいな……」

「話は以上さ」

「……え?」

 

 俺は何か、哲学的な話をされるのかと思った。瀬田くんは、シェイクスピアの他にもゲーテやニーチェのような哲学者が好きだから。

 でも、瀬田くんの話はただオタマジャクシにクチバシがあることを話しただけで終わった。えっと、じゃあ、瀬田くんはただ、オタマジャクシの豆知識を披露したかっただけ? たしかにタメにはなったけど、それだけ? 

 そっか、それだけ……か。それだけでも、いいのか。案外、そんな感じでも、大丈夫なのかな。

 

「えっと……じゃあ、これは知ってますか? 薔薇って、花束に包む本数によって意味が変わるんですよ。一本だったら一目惚れ、三本だったら告白、九十九本だったらずっと好きだった、って意味らしいんです。なんだか、とってもロマンチックですよ……ね」

「ああ、とても儚いね。ところで友也、どうして固まって……」

「今から首を掻き切ります。ホームセンターでナイフ買ってきますね」

 

 そう言ってホームセンターに走ろうとする俺を止める瀬田くん。どうか、こんな馬鹿な俺を止めないでほしい。

 だって、薔薇の花言葉とかどう考えても知り合って二週間程度の女の子の友達に振る話題じゃないだろ。あまりにもキモすぎる。

 そうだよいくら俺が花言葉好きだからって今ひけらかすタイミングじゃないじゃん! てか花言葉好きな根暗って何!? 渡す相手もいないのに詳しくなってバカみたいだなあ! 死んだ方がいいなあ! 

 

「……ふふっ、あははっ」

「友也、なぜ笑うんだい……? いいかい、まだ早まってはいけないよ、君には明るい未来があるのだから……!」

「いえ……もう大丈夫です。なんだか、久しぶりに心の底から楽しいって思えたような気がして、つい笑っちゃいました」

 

 ……うん、本当に。こんな風に心の底から笑ったのは、いつぶりだろう。久しぶりすぎて、顔が筋肉痛になってしまいそうだ。

 でも、それでいいんだ。それがいいんだ。こんな気持ちを思い出せたことが、何より嬉しいのだから。

 ああ、やっぱり瀬田くんは太陽みたいな人だ。じめっとした日陰もぱあ、と照らす、眩しい眩しい太陽。

 そんな太陽に照らされて、ようやく俺も息をできた気がする。太陽がないところでは、花は育たないから。いや自分のこと花に例えるのキモいなやめよう。

 本当に、瀬田くんはすごい。目線がうまく合わせられない俺の目線を読み取って、確実に目線を合わせてくれるし。

 本当に、瀬田くんはすごい。俺の弱いところを見透かして、そこに絆創膏を貼るように優しく寄り添ってくれるから。

 本当に、瀬田くんはすごい。こんな俺でも、俺のままでいいんだって思わせてくれるんだから。

 願うことなら、ずっとこの人の温かさに照らされていたいな、と感じた日のことだった。

 

 〜

 

 一昨日は、かなり勇気を出した。俺から瀬田くんを誘うのは、初めてのことだったから。震える手でメッセージを送った。明後日、一緒に水族館に行きませんか、と。

 あの日から、俺たちはたくさん二人で遊ぶようになった。おしゃれなカフェに遊園地、たまに映画を観たり、ちょっと早いけど海にも出かけたりもしたな。ゴールデンウィークなんか、三分の一ぐらいは瀬田くんと過ごしたんじゃないかなあ。

 返事が来ない間、ずっと心臓がバクバクしていた。俺から瀬田くんを誘うことが今までなかったのもあるし、そもそも俺から誰かを誘うことが今までなかったのもある。

 鬱陶しかったらどうしよう、気持ち悪かったらどうしよう、それだけに思考が支配され、何も手につかない。気晴らしに瀬田くんからもらったシェイクスピアの本を読んでいた瞬間だった。

「よろこんで」その五文字が俺はひどく嬉しかった。嬉しくて、思わずベッドの上で小躍りしてしまった。我ながら単純だなあ、と笑ってしまう。

 やってきた当日。瀬田くんは袖に透け感のある黒い長袖のワンピースを着てその紫色の髪を下ろしていた。普段と印象は違えど、すごく似合っているから、正直ドキドキしてしまう。緊張しなくてもいいよ、と瀬田くんは笑ってくれるけど、ただでさえこんなんだから普段の二、三倍は気が動転してしまう。

 何度出かけても瀬田くんの姿を見る度緊張してしまう俺の反応を見るのを、瀬田くんは最近の楽しみにしているようだ。心臓に悪いから、本当にやめて欲しいんだけど。

 

「ところで、友也はいつもどこで洋服を買っているんだい?」

「通販……ですかね。人と目を合わせずに服を買えるので……ただ、たまにサイズを間違えてブカブカの服を買っちゃうことがたまにあります」

「フフ、友也らしいね。そうだ、それなら今度二人で買い物に行かないかい? 一人で行くのが怖くても、二人で行くなら怖くないだろう?」

「そう、ですね。瀬田くんのおすすめの店、知りたいです」

 

 そんなたわいもない会話をしながら、二人で水族館を見て回る。水槽の前でツーショットを撮ったら、しれっと瀬田くんがその写真をバンドメンバーに送っていたらしい。メッセージ越しにめちゃめちゃ冷やかされていて恥ずかしかった。

 それを見せてくる瀬田くんも、なんだか嬉しそうで。自分たちが冷やかされてる様子を平気で見せてくるあたり、やっぱり瀬田くんはメンタルが鋼でできているのかもしれない。

 この水族館は、レストランも美味しかった。泳いでる魚を見ながら刺身を食べるなんて経験、なかなかしないだろう。瀬田くんにも分けてあげようとしたら、瀬田くんはどうやら生魚が苦手みたいで。意外だなあ、と思った。

 こうして瀬田くんのいろんな一面を知れるのは、正直嬉しい。願わくば、これからもずっとこうして一緒に過ごしていたいなあ、なんて思ってしまう。

 ああ、本当に俺って馬鹿だなあ。カクレクマノミの水槽をキラキラした目で見つめる瀬田くんを、俺は見つめている。

 いつからだろうか、俺は周りの景色よりも瀬田くんを目で追うようになっていた。瀬田くんと景色を共有するために一緒に遊びに行っているのに、気づけば景色の中で微笑む瀬田くんをこの目に収めたくて出掛けるようになった。

 できることなら、この水槽の中を、君とずっと漂ってたいな。楽しそうに水槽を泳ぐ君を、ずっと隣で見ていたいな。でも、君は笑ってこう言うんだ。友也も一緒に泳がないかい、って。俺はそんな君に誘われて、一緒に水槽を駆け回る。知らない景色を、一緒に観に行くんだ。……なんて、空想に耽ってしまうほどには俺は重症みたいで。

 幸せは、甘い毒のようなものだ。少し触れるだけで脳みそを麻痺させて、狂わせて。気づけば幸せがもっと欲しくなって、つい、欲張ってしまう。

 今だってそうだ。俺は瀬田くんと友達になれただけで十分幸せなのに、それ以上を求めようとしているんだ。

 ああ、人間って本当に醜いなあ。どこまでも欲深くて、どこまでも傲慢で、どこまでも臆病だ。この醜い感情を、フィルターにかけて綺麗に出力できる術は、俺にはない。その感情を君に伝える勇気すら、俺にはない。俺も君みたいに綺麗だったら、うまく伝えられたのかもだけど。

 

「……瀬田くんは、俺といて楽しいですか?」

 

 醜さを押し込んだ当たり障りのない言葉しか、俺の口から出てこない。そうだ。俺はもう十分満たされているんだ。決して、それ以上を求めては、いけないんだ。

 

「ああ、もちろんさ。友也と一緒にいる時間は、私にとってかけがえのない時間だからね」

 

 だけど、やっぱり君はずるい人だ。どこまでも優く甘い言葉で、君を求めたくさせてくる。君は、いつだってこうして俺に甘い毒を盛るんだ。それを無意識にやってしまうのが、瀬田くんが天性の人たらしたる証拠だろう。

 ああ、やっぱり嫌だなあ。今目の前にいる君を、他の誰にも手渡したくない。身の丈に合わない高望みなんてするタイプじゃなかったのに、俺がこうなるのは、俺にこうさせるのは、世界でただひとり、君だけなんだろう。

 なんてカッコよく語ってみたけど、やっぱり勇気は出ない。内心ではカッコよく語れても、結局行動に移せなきゃ、意味ないんだよなあ。

 ああ、嫌だ。やっぱり、俺はあの時のまんまだ。でも、そんな俺でもいいんだって、俺は俺のままでもいいんだって、そう思わせてくれたのは紛れもない君だから。

 正直、こんな俺が君と釣り合うわけがない。釣り合ったら世界のバランスが崩れていることを疑うレベルには釣り合っていない。

 それでも、君の隣に立ちたいと願ってしまったから。君の隣にいたいと願ってしまったから。

 

「……薫」

「……友也?」

「これからもずっと、俺の隣にいてください」

 

 回りくどい俺らしい、回りくどい告白だ。でも、この気持ちが少しでも、ほんの少しでも君に伝わっていて欲しくて。

 声が震える。手が震える。また、頭がぐちゃぐちゃになって、よくない考えが頭をぐるぐると駆け巡る。それすらも、君に伝わってほしいと願った。

 

「……ああ、よろこんで」

 

 君は、俺の手を優しく握ってそう言った。回りくどい俺とは違う、まっすぐな返事。それが、君らしいなと思った。

 触れ合う手は、形を変える。君の手は、俺と同じくらい大きいのに、俺よりも細くて柔らかくて、少し間違えたら壊してしまいそうで怖かった。これから、この手に何度も触れることになるのだと思うと、嬉しくなるのと同時に緊張してしまう。

 

「俺は、君みたいに綺麗じゃないけど。好きって気持ちに、嘘は……ない、から。だから、その」

 

 やっぱり俺は、どうしようもない人間だ。だって、自己肯定感は低いのに自己愛だけは大きいし。普通に割と嫉妬するし、束縛しそうなタイプだし。君みたいに綺麗な好きではないかもしれない。そう、言おうとした。

 その瞬間、何か唇に柔らかいものが触れる。それによって言葉は遮られ、俺の頭は真っ白になる。

 

「君は、綺麗だよ」




 ──ああ、君は本当にずるい人だ。その言葉ひとつで、また俺は君に恋をするのだから。

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