「つまり、この定理はここに使われるわけで――」
声が無駄にいい教師の言葉を右から左へ流しながら、講義室の外を眺める。
――桜が咲いている。
別段珍しいことではない。
今は2月の終わり、というか2月にしては暖かい。
なんなら3月と言っても過言ではないので、桜が咲いていることに何らおかしいところはない。
日本では桜は国花だし、そこら中に植えてある、だから別に珍しいことは無い。
なんでそんなことを思ったかといえば、今まで意識して桜を見なかったからだと結論はつく。
小さいころから外遊びに興味を持たず、ずっと家にいたような人間の俺だから、外の景色なんて知らない。
「…散るの早そ」
3月の序盤に咲いている満開の桜は、大体2週間内位で散るらしい。
4月には入学式も控えていて、親たちはこぞって満開の桜の木の下、愛すべき我が子の写真を撮りたいだろうに。
「桜、ね」
桜が似合う人間が一人、俺の頭によぎった。
しかし、いやいやと頭を振って考えを落とす。
あれは桜というか、花を持てば画になりそうだなという考えは置いておく。
「それじゃあ、今日の講義はここまで。課題は専用ページにアップしておくので、来週までに提出しておくように」
桜が似合う、もう会えないだろう人間を想像していたら講義が終わっていた。
課題はさっき終わらせた、来週まで持たすんだったらもうちょっと難しいやつの方がいい。
「3限は…」
自分のページで時間割をチェック。
確か3限の連絡欄に今日は休講とか書いてあったような…
「そう、だよな」
やはり3限はないようだ。
帰ろう。
「ただいまー」
返答はない。
この部屋に住んでから、誰のことも入れたことがない領域。
生活感はなくていい、最低限の家具さえあればいい、1DKの家。
大学に進学して3年、将来を見据えて一人暮らしを始めた。
親は快く背中を押してくれた上、買い替えて使わなくなった家具をいくつか分けてもらった。
そんな殺風景の部屋にバッグを投げ置き、ベッドに身を沈める。
「風呂…は起きたらで…飯はまぁ、いい…」
柔らかな布団に包まれているうちに、だんだんと意識が遠のいていく。
「おやすみ…」
誰に聞かせるもなく、呟いて意識を落とした。
何時間経っただろうか。
けたたましく鳴る携帯の音で目を覚ました。
俺はアラームをかけて昼寝するタイプではないので、これはアラームではなく、何かの通知音。
連続で鳴るものは、電話を掛けられているときに限る。
しかもこれはメッセージアプリではなく、俺の携帯番号に直接書けている。
「誰だ…こんな時間に…」
現在時刻は午後4時、帰ってきたのは午後1時ぐらいなので大体3時間の昼寝だ。
「…ぁい、もしもし?」
『…っ、もしもし、ソラ君』
「…倉田?」
倉田ましろ。
俺が高校1年、彼女が中学1年の頃に、家が近所ということと、通学路が大体一緒、ということで知り合い、親の仕事の関係上引っ越して、疎遠になった女の子。
確かに携帯の番号は教えた上、俺はそれを変えてないから掛かってくるのもわからなくない。
「珍しい、というか初めてだな、倉田が電話かけてくるの」
『うん…その、ソラ君に、会いたくなっちゃって…』
そんな事言う子だったかな?と少し昔を思い返す。
引っ込み思案な子だったような、自分の意見を言うような子ではなかったような、そんなイメージがある。
「会う、ねぇ」
『その、この前たまたま、ソラ君のお母さんに会って…』
…ん?お母さんに会った?
俺の家と俺の実家…親が今現在住んでいる家はそこまで離れていないが、倉田家とは離れていたはずだ。
倉田の家も引っ越したのか?
『えっと、私ね。高校、月ノ森で。その、近く、なったんだ』
「…悪いな、その家には俺はもういないんだ」
『え…でも、お母さん、そこに入っていって…』
大きな勘違いだ。
倉田家はまた、伏見家の近くに引っ越したんだ。
しかも、通ってる高校が月ノ森と来た、それはこの辺に越してくるはずだ。
俺が言いたいのはそうではないが、まぁ置いておく。
「え、じゃあまた近いのか?」
『うん…えへへ』
「どうした?」
『また、一緒にいられるなぁって』
「…俺は一人暮らししてるんだけどな」
ワクワクを消すようで申し訳ないが、俺はその家には住んでない。
『…じゃあ、今から行ってもいい?』
「え?いや、それは良いけど…場所分かるか?」
『ソラ君のお母さん、教えてくれたよ』
「…まぁいいか、倉田なら」
なにか危害を加えることもしないだろう。
『えへへ、楽しみだな。ソラ君のお家』
「…あんま期待すんなよ、男の一人暮らしの部屋なんて」
電話を切って、一息。
片付け位、しとくか。
呼び鈴が鳴った。
モニターで確認すれば、数年前の記憶と姿はあまり変わらない彼女が立っていた。
「ちょっと待ってて」
インターホン越しにそう伝え、玄関まで行って鍵を開ける。
扉を少し開けてやると、彼女と目が合う。
そして、ドアの隙間からするっと入ってきて。
「ソラ君!」
「うおっ…お疲れ」
抱き着いてきた。
「えへへ、久しぶりだね!」
「4年とかかな、とりあえず荷物降ろしな、なんか重そうだし」
「うん…その、ソラ君。今日、泊っても、良い?」
「…え?」
確かに仲はいいと思ってる。
俺が何もしない保証がどこにあるというんだ。
というか危機感がない、この子。
「…一応聞くけど、許可とかは?」
「取ってきたよ。ソラ君のお父さんお母さんもいいって言ってた」
「…そっか」
親公認ならしょうがない。
「じゃあ…そうだな。ここの部屋自由に使って」
「え?」
「男女一緒の部屋はまずいだろ。着替えとかどうするつもりだ?」
「そ、っか…そう、だよね」
…なんか悪いこと言ったかな。
「…さみしくなったら、こっち来な」
「…うん!」
目に見えて笑顔になった。
しかし良い笑顔だ。
「さて、と。買い出し行ってこようかな」
「…ご飯、作ってるの?」
「まぁ、たまにはね。客人にコンビニ弁当食わすわけにもいかんでしょ」
ちゃんと自炊もできる、少なくとも最低限生きるぐらいには。
「…留守番、出来る?」
「お部屋、入ってもいい?」
「あぁ、弄らなきゃ好きにしていいぞ。じゃ」
大人しいあの子だ。
何か裏があるとかなければ、何もされないだろう。
そう思いながら、家を出た。
伏見空くん。
私の憧れの人。
そんな人の家に、今私だけいる。
ソラ君はご飯の買い出しに行ってて、もともと一人暮らしだって言うソラ君の家には私一人。
一応ソラ君の部屋も物色していいって許可は取ったけど、どうしよう。
「…いいって、言われたもんね。お邪魔しまーす…」
ソラ君の部屋は、簡素だった。
ベッドと、無造作に置いてあるバッグ。
勉強机と、いっぱい資料があるファイル。
それだけ。
リビング…ダイニングって言うんだっけ。
ソファが置いてあって、机があって、それだけ。
テレビとか、そういうのはない。
「ベッド、とか」
変にいじらなきゃいいって言われただけだし、座るくらいなら…。
ベッドに座ると、少しだけ金属が軋んだ音がした。
「…寂しい部屋」
もっと、ぬいぐるみとか置いたら、にぎやかになって楽しいのにな、なんて思いながら、体を倒す。
「…あったかい」
もしかして、さっきまで寝てたのかな。
なんだか、今の季節のおひさまみたいで。
「…すぅ…」
そのまま、温かさに身を委ねた。
次に起きた時、ソラ君が笑顔でこっちを見てた時は、さすがに恥ずかしかったけど。
帰ってきたら、倉田が俺のベッドで寝てた。
揺するのもちょっと憚られる、ハラスメントが怖い。
とか思ってたら、倉田の目がちょっとづつ開く。
覚醒しきってない青い目を見つめながら、「おはよう」と言ってやれば、白い肌がみるみるうちに赤く染まる。
「い、いつから見てたの…?」
「寝言で俺の名前を呼んだ時から」
「分からないよ…」
あどけない寝顔晒してるんだもの、よくもまぁ男の家でそんな無防備に。
「倉田、俺でよかったな」
「…ソラ君、なんで「倉田」なの?」
「…今更呼び方変えるのも、なんか変だしさ」
「呼んでよ、ましろって」
呼んでくれないの?と期待のまなざしを向けられてる気がする。
「あー…ましろ?」
「なぁに?」
「…なんか、恥ずかしいな」
「えへへ、ソラ君が恥ずかしがってるところ、初めて見た」
年下の女の子にそんなとこ見せられるか。
「よし、飯にすんぞー。今日はタケノコの煮込みだー」
「タケノコ…」
「苦手か?」
「その、食べたこと、なくて」
「んじゃ、甘めな味付けにするか」
煮込みにした理由は、特にない。
安かったからタケノコの切り身を買って、唯一教えてもらったやつが煮込みだったからで。
「味染みまで10分ほどお待ちをってね、さて、どうしようか」
「…なんか、お兄ちゃんみたい」
「年的にはそんなもんだろ、少し近い気もしなくもないけど」
「…ソラお兄ちゃん」
良くない、よくないこの子。
「…いきなりどうした」
「えへへ、お兄ちゃんみたいって思ったら、言ってみたくなっちゃって」
「まぁいいか、悪い気しないし」
味染み待ちに思うことでは絶対ないけど。
春って出会いの季節なんだなぁって。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「明日、お花見行かない?」
「じゃ、近くの桜咲いてるとこ行くか」
お兄ちゃんって呼ばれるのも、悪くないなって思った。