モカちゃんかわいいね……

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カフェモカ──エスプレッソにチョコレートシロップとスキムミルクを入れた、所謂アレンジコーヒーの一種。『モカ』は本来モカコーヒーのことで、これがカカオに近い風味を持つことから似せるようにして作られた。ホイップクリームのトッピングに加えてスライスチョコもかかっていて、結構甘い。CiRCLE併設カフェにて。



- As you like.

 

 

 

 淹れたてのコーヒーには香り立つとか芳しいよりは馥郁(ふくいく)たる、というちょっぴり大仰な言葉を当てたくなるのはどうしてだろう。悪魔になぞらえられる黒黒とした色合いと掬い上げられるほのかな酸味のギャップのせいかもしれない。何にせよ美味しい。引っ越しを機に歩き回った甲斐もあったってものだ。せっかくだからじっくり味わいたかったのに、つい一口、もう一口とカップを傾けてしまう。

 将来かくありたい渋いおじさまを眺められるカウンター席なのも乙である。どこのメーカーだろう、サイフォンでのドリップを待つ姿は大変画になっている。額に入れて飾りたい気分だけど、残念ながら絵心はない。まして盗撮なんてもっての外だから、僕は手帳を開いて書き込んだ──バリスタ。エプロンと襟付きの仕事人。ドリップコーヒーを注ぐ様は迷いなく流麗、エスプレッソマシンのレバーを手繰る姿は素早くも粗さはなく、洗練とはこのことかと感心するばかり。羽沢珈琲店にて。

 

 ──名前、というものが好きだった。

 

 美しいものをありのまま心に留めておこうとしても、どうしたって日々の移ろいに流されてしまう。だから、こうしてラベルを付けては大事に胸に仕舞い込む。名前を知れば目に止まりやすくなる。ピントが合って世界の解像度が上がる。よく見えるようになれば、また美しいものが目に留まる──小さい頃からそうしていたらいつの間にか、目にしたものの名前を記して、僕にとってどんな物なのかを書き記す習慣ができていた。日記のようなものでもある。

 さらさらと万年筆を走らせる手帳は最後のページが近づいていた。いい加減に引き出しじゃなくて箱とかに仕舞い場所を変えた方がいいかな。あとで見繕おうと決めながら、魅了の魔法をかけられたコーヒーにまた屈する。うん、適度に冷めて味わいが変わってきたけれど、これはこれで良い。

 感嘆の息が返ってラウンドタイプの大きな眼鏡が曇る。クロスで拭いてからかけ直すと、ちょうど今飲んでる『今日のコーヒー』の説明書きが目に入った。

 産地はコーヒーノキが初めて発見・栽培されたとされるエチオピア。コーヒービーンズの果実感が強く出る浅煎り、少しゆっくり挽いて濃い目に淹れたドリップコーヒー。ヨーロッパ諸国への玄関口であった港町の名前にちなんで──

 

「──モカっていうんだ」

「へ……?」

 

 ルーズリーフにカラフルなペンも駆使して描かれた小さなコルクボード上のそれは、ひとつ向こうの席と席の間に置いてあって。

 ボードの近くでパンケーキを食べてた女の子をまじまじ見つめる形になっていたことに、彼女の不思議そうな声で遅まきながら気づいた。

 さっぱりと短い襟足と眠たげな長い睫毛に届きそうな前髪、どことなく猫のような印象を受ける亜麻色の髪の女の子だ。きょとんとした彼女に小さく頭を下げる。

 

「あぁ、すみません。不躾でした」

「いえいえー、お気になさらず〜」

 

 それきりおしまいかと思ったら、彼女は色の薄い表情でぼんやりと何事か考え込んだ。顔立ちが綺麗だからか、反応が返るまでなんとなく目を離し難い。やがて結論が出たらしく、彼女はふにゃりと微笑んで隣の席をぽんぽん叩いた。

 

「……よかったらお隣、どうですか〜?」

 

 うぅん、社交辞令だろうけど……本を読んでいるわけでも、誰かを待っているわけでもないんだし。固辞するほうが返って失礼かな。

 

「……じゃあ、お邪魔します」

「いらっしゃいませ~」

 

 朗らかにそう言う彼女はテーブルに広げていたパンケーキの大皿と、側にあったラージサイズのマグカップと、アイスの容器と──いや随分食べてるな。ともかく、隣にまで及んでいた諸々をズラして場所を作ってくれた。手帳と万年筆を胸ポケットに、足元に置いていたトートバッグを肩に引っ掛け、カップを音を立てないように移動させてからまた鞄を椅子の下に置き直す。

 

「ありがとうございます」

「いいえー。もしかして、ここには初めてな感じですか〜?」

「ええ、昨日越して来たばかりの新参者でして。……不審でしたかね」

「そんなそんな。同い年くらいの人がおいしそ〜に飲んでたので気になっちゃった感じですね〜」

 

 口ぶりから察するに中高生くらいのお客さんは少ないのか、もしくは彼女がよく来る顔は大体把握してるくらいの常連さんなんだろうか。

 

「そういう意味だと〜、あたしの方こそ不躾でごめんなさい」

「美味しいコーヒーにはしゃいでしまった僕がはしたなかっただけですから……」

 

 朗らかに言って頭を下げる彼女のことが、僕は徐々に気になりつつあった。

 

「失礼、あなたの──」

 

 ──お名前はなんですか?

 そう出かかった言葉を、残りのコーヒーで飲み干した。

 

「──オススメのスイーツなんて、お伺いしても?」

 

 彼女は目を瞬かせると、間をおいてにんまりと口角を吊り上げた。

 

「……ふふ、いいですよ〜。あたし、ここの常連中の常連ですからね〜」

「お、頼もしい」

「そうですなぁ〜……アレルギーとかがなければ、いちごタルトなどいかがでしょ〜。春らしいベリーの味わい、酸味のある今日のコーヒーとペアリングするならこれがイチオシでーす」

「なるほど……すみません、注文いいですか」

 

 ちょうど通りかかった店員さんに「今日のコーヒーと……あ、限定なんだ。このいちごタルトをお願いします」「あたしもコーヒーと〜、ミルフィーユおなしゃーす」と注文する。ふむ、ペアリングってやつは同じ方向性の味じゃなくてもいいんだろうか。流石に人前でスマホを出すのは憚られるし後で調べよう……と思っていると、短髪の可愛らしい店員さんは隣の彼女を窺い窺い、やがておずおず訊ねた。

 

「……お知り合いなの?」

「ナンパしちゃった〜」

「え」

「……」

「……えっ!?」

 

 大きく大きく目を見開いて本当に信じられないって全身で表しながら声を上げた店員さんは、恥ずかしそうに口許を覆うと咳払いをひとつして「す、すみません、ごゆっくりどうぞ! お邪魔はしませんから……!」と去っていった。

 ……いやはや。

 

「何も言ってないんですけどね?」

「悪い人ですね~」

「事実無根ですよ」

 

 両肘をテーブルにつきながら組んだ手指の甲に額を凭れ掛けると、彼女も似たような姿勢で指の上に顎を乗せてにまにま笑っていた。色恋沙汰を匂わせるようなからかい方を辞める気はないみたいだけど……ふーん。もしかして、迂遠なやり取りを楽しめるタイプかな? とりあえず「いや~ん、冷たいですよ~」とおどけてみせる彼女の次の手を待ってみる。

 

「あんなにあつぅく見つめてくれたのに、いけずなんだから~」

「いやいや……綺麗な女の子にナンパされたら、ドキドキして言葉が出なくなって当然じゃないですか」

「わーお、今のはポイント高いですよ~? カードにスタンプ押しておきますね~」

「景品のラインナップは?」

「今なら大サービス、百ポイントでこのお皿をプレゼント~!」

「綺麗ですね、限りなく」

 

 メープルシロップまでパンケーキで拭われたお行儀の良い食後の皿をずずい、と差し出された。後で書き込んでおこう──打てば響く。会話の着地点が見えているのに遠くから突き合う会話が、なんとも楽しい。

 僕は「ポイント温存で」とお皿を軽く弾いた指先を、大袈裟に不貞腐れた顔をする彼女の前に伸ばした。レシートを引き抜く。……三人前くらいの額だけど、まあ、いっか。

 

「これをお支払いしたら、何と引き換えられます?」

「……んふふふ~」

 

 彼女は我が意を得たりとばかりに笑う。

 

「なんと、華も恥じらう美少女による商店街ご案内するサービスがございまーす。……先着一名、早い者勝ちですよ~?」

「ちなみに、それ以下の景品は?」

「あたしにパンを奢る権利をプレゼント~」

「餌付けができるんですか」

「かわいいかわいい女の子が待ちわびて開けるお口に、パンをちぎっては差し出しちぎっては差し出し……百年後、そこにはアダムとイヴの姿が~!」

「過去編が気になりすぎるなぁ」

「…………ぷ、あはは」

「……く、っくく……」

 

 探り探り、相手の反応を見ながらくすぐるみたいに話していたらとうとう耐えきれなくなってきた。ふたりして顔を伏せて震えてるの、はたから見たら怪しそうだな。

 

「……じゃあ、そちらのコーヒー以外は奢ります」

「ポイントはいかがしましょー」

「すぐ引き換えで」

「じゃ、商店街ご案内、および餌付けの贅沢コースですな~」

「盛りだくさんでいいですね。楽しみだ」

 

 お冷を一口。まだタルトが来るまで掛かるかな……あれ、もう来た。さっきの店員さんが、なんだか強張った顔でこちらにやってくる。

 

「おっ、お、お待たせしました! 今日のコーヒーといちごタルト、ミルフィーユですっ! ……ごゆっくり、ごゆっくりどうぞ……!」

「むっつり~」

「うっ……ご、ごゆっくりどうぞ……」

 

 同じことをもう一回繰り返した店員さんは、なんかかなり遠いテーブルまで行ってしまった。

 お隣さんのご友人なんだろうか? 興味は尽きないけど……まあ、『ナンパ』に乗っておいて他の女の子に目移りするのも良くないか。

 

「今はこれを楽しみましょうか。……そういえば、コーヒーのペアリングって何なのかお聞きしても?」

「博識びしょ~じょにおまかせあれ~。ま、受け売りなんですけど──」

 

 引っ越してきて早々、書き残したい『名前』がたくさん増えた。ペアリング、憩いの場、ナンパ、それから──いや。

 彼女との関係に付ける名前は、まだ保留しよう。

 知り合いで終わるのは、ちょっと寂しい。

 

 

 

 

「サンド……とはまた違うんですね」

「パニーニですな〜。イタリアの、フォカッチャとかで挟むー……うん、惣菜パン的な」

「お洒落な名前も形無しですね。……いや、向こうからすれば似たようなものなのかな」

「なんならパニーニって複数形で、ひとつならパニーノって言うらしいですよ〜」

 

 オペラみたいなものだろうか。あれもOpusの複数形が語源だし。

 

 商店街をゆるふわな解説付きであちこち巡って、最後にたどり着いたのはパン屋さんだった。

 やまぶきベーカリー──艶消しされた木製の什器に所狭しと並べられた焼き立てのパン。手書きの値札と簡単な解説、小学生くらいの子が空になった棚に追加を持ってきていたりして、温かな空気。

 どうせ奢るのだからと自分の分も彼女のチョイスに任せて、僕は隣で手帳に書き込んでいた。

 

「それにしても……名前集め、でしたっけ〜? 面白いご趣味ですね~」

 

 片腕に既にパンの山を抱えつつ、もう一方に構えたトングでほうれん草のキッシュをカチカチと威嚇しながら言う。

 

「五年後、十年後に振り返るのが楽しみになりますね〜。実際に見聞きして作る、自分だけの百科事典がここに〜! というわけですな」

「いいとこ偏見コレクションだと思いますけどね」

「良いじゃないですか、それはそれで。新しい常識としてアインシュタインもにっこり〜、ってものですよ。あ、これもオススメで〜す」

「……よしんば僕の食べる量がその山の1割だとしても、既に一日分は超過しているように思うんですが。日保ちするものなんですか?」

「乙女は意外とよく食べるものなんですよ〜。同い年の食べ盛り男子であれば一層〜……!」

「偏見ですよ」

「じゃあ常識ですね〜」

 

 降参。黙って両手を上げると、彼女は満面の笑みで会計に向かった。え、本当にそれ食べ切れるの? 足の早そうなデザート系も多かった気がするけれど。

 唖然として見送ったけれど払うのは僕だ。奥のスペースから店員さん(また同い年くらいの女の子だ)が出てきてしまったので、慌てて追いつく。

 

「あの、すみません割り込みは──」

「僕が払うのに先に行ってどうするんですか」

「いや〜、いつもの癖でついつい。ポイントカードあるんですよ〜、ワンデッキ」

「課金額で競うと破滅しますよ」

「うーむごもっとも」

 

 いけない、雑談に興じてしまった。「すみませんダラダラと。すぐに──」と財布を取り出すも店員さんは愕然として僕らの間に視線を彷徨わせるばかりだった。デジャヴ。

 

「…………ウソ、え……? ……うっそぉ……」

「さーや、こ〜んな美少女を捕まえて失礼じゃないかね〜? ん〜?」

「いやいや意外だって。どこで出会いなんか……あっごめん、先にお会計しちゃうね! えーとみかんメロンパン、日替わりキッシュ、シナモンロール、ペペロンチーノパン……」

 

 おお、さくさく山が崩されて無駄なく袋詰めされていく。カウントとかコツがあるのだろうか。

 すべて詰め終わるや否や素早くレジに入力されていく商品と、それをまったく疑う様子のない隣の彼女。手帳を開いて書き込む──信用。積み重ねるもの。もしかしたらアルバイトとかじゃなくて、家業の手伝いをしてる娘さんとかなのかも。仕事に誠実なことと、通い詰めてそれをずっと見てきたのだろうことがわかる。

 引っ越しばかりの僕には羨ましい関係だ。

 

「ごめんごめん、お待たせしましたー。とりあえずポイントカード貰うねー。……あとで根掘り葉掘り聞いていい? ダメ?」

「も〜、あたしにカレシがいちゃいけませんかね」

「か…………」

 

 リフルシャッフルをしくじったみたいに派手にカードがばらまかれた。

 

「あ〜! マイ努力の結晶〜……」

「天罰では? いくらなんでも悪ノリが過ぎますよ」

「ありゃ、流石にストップですかー」

 

 てへ、とわざわざ口にして自分の頭をコツンと叩く彼女。……やっぱり、ご友人方じゃなくて周りを通して僕をからかって、ついでにラインを探ってたのか。小悪魔だなぁ。

 肩を竦めて軽く笑い飛ばす。

 

「僕は悪い気しませんが、あなたは後々困りそうじゃないですか。ほどほどにしておきましょう」

「いえっさー。さーや、ジョークジョーク〜。えっとね──」

 

 紡がれる釈明がいやにスムーズだった。僕とはさっき会ったばかりであること、面白半分と成り行きで商店街を案内していること、ここがゴール地点であること。しょっちゅうこんなことしてるんだろうか。些か心配になるけれど、日頃の人間関係にまで首を突っ込む気はないので黙っておいた。この『恋人ごっこ』が新鮮で楽しいのは僕も同じだし。

 

「会話のノリが合うみたいでね〜、ついついあたしのお口も滑らかになっちゃっていけませんな。びっくりさせてごめんね」

「本当にびっくりしたよ……あれ、もしかしてあなたのパンもこの中に入ってたりします?」

「ええ。まあ公園かどこかで食べながら分けますので、お気遣いなく」

「……ねえ、ほんとにデートじゃないの?」

「違うってば〜」

 

 身から出た錆とはいえ自分も片棒を担いでるんだから見捨てるのは忍びない。それに、もういい時間だ。パン屋ではまず見たことない金額を支払って「まあまあ」と止めに入った。

 

「彼女が優しいだけですよ。引っ越して来たばかりだと言ったら、張り切って街の魅力を教えて頂けて」

「こうしてお代も頂戴しておりま〜す」

「あ、そういうことだったんだ……じゃ、今後ともやまぶきベーカリーをご贔屓に」

 

 ちゃっかりしている店員さんだった。

 手を振りながら見送られる。公園に向かう道すがら、隣の彼女は三つある袋のひとつを開けるとチョココロネを取り出してふもふも咥え、他を袋ごと押し付けて来た。

 

「たまたまそれに、あたしのオススメセレクションがぜ〜んぶ入ってました〜」

「運が良かったですね。……うん、明日のご飯は困らないな」

「ふふふ、バラエティ豊かな食卓になりますよ〜」

 

 どうせ荷解きに明け暮れてご飯を作る余裕はないし、両親は帰って来られるか怪しい。一日巣篭もりでパンだけ食べる日があってもいいだろう。

 僕の大真面目な計画は冗談だと思われたらしく「味の濃いのから甘いのまでより取り見取りでございま〜す」とご機嫌に続ける。パン好きなのかな。嬉しそうな笑顔で、つられてこっちも食べるのが楽しみになってくる。

 

「コーヒーと合わせるのもオススメですよ〜」

「さっきの……羽沢珈琲店でしたか。あそこで豆も売ってましたね。買っておけばよかったな」

 

 独り言にしては少し大きく、僕は末尾にそう足した。

 一秒。二秒。三歩。四歩。春にしては珍しい雲ひとつない空は段々と、オレンジ、淡い緑、薄い青を経て藍色に傾いていく。

 

「……じゃあ〜」

 

 間延びした話し方は多分、距離を測っている。彼我の距離。自分の世界と他人の世界のジレンマを丁寧に擦り合わせる、優しさの表れ。

 軽やかな足音を立てて僕の前に躍り出た彼女はパンの袋を抱えたまま、振り返り様にふわりふわりとバレエを踊って、ターンの終わりに僕へ微笑んだ。

 

「またあした、なんてどうですか〜……?」

「……はい、喜んで」

 

 

 

 

 次の日も、そのまた次の日も、僕は彼女と行動を共にした。春休みで時間はあるし、家にいたところでやることも家事と勉強くらいしかない。暇に倦んでいるくらいなら新しい土地に馴染むべく歩き回る方が万倍有意義だろう。現地人の案内付きとなれば尚更だ。

 商店街といくつかのチェーンの飲食店以外に、ライブハウスに併設されたお洒落なカフェがあるだとか。最寄りの駅から近いコンビニの場所と、混み合う時間帯とか。行く先でときたま彼女の知人友人に会うも、すっかり勘違いが広まっていて訂正に困ったりだとか。

 そうしてふたりであちこち見て回ったけれど、この関係に友達と名付けるのには若干の抵抗があった。

 名乗っていないのだ。お互いに。

 

「幼馴染がいるんです〜って話、しましたよねー」

 

 河川敷沿いにのんびり歩きながら、羽沢珈琲店でテイクアウトしてから全然冷めてくれないブラックを恐る恐る舐めていた彼女がふいにそう言った。

 

「されましたね、一緒にバンドも組んでいるとも」

「そーそー、かた〜い絆で結ばれた無敵の五人組ですよ」

 

 あの真面目そうな雰囲気だった珈琲店の娘さんも擁するバンドが邦ロック系のサウンドでやっているというのも、なんなら発案がその人というのも面白かった。

 幼馴染──十年来の大親友たち。付き合いが長ければ仲が勝手に深まる訳じゃないはずだ。クラスの離れてしまった仲間のために居場所を作ろうと動き出せるエネルギーは、そのまま努めて培ってきた友愛の証だろう。

 そうすると、他の人でも当て嵌まる『幼馴染』という名前だけで済ませるのは惜しい。

 

「バンド名はあるんですか?」

「ふっふっふー……よくぞ聞いてくださいました〜! いやぁ、スルーされたらどうしようかと〜」

「はいはい」

 

 詰るようなことを言う割に嬉しそうなのがちぐはぐだけど、なんとなく察しは付いていた。

 

 冗談めかした『恋人ごっこ』はいつでも切れる浅い関係だから成立してる。

 

 僕らの関係──繋いだばかりで、握り締めるにはあまりにか細く、ワイヤーのように張るには頼りない、小指にでも結んで切れないように気遣い合う、頼りない糸のようなこれは──

 

 名前を知ると世界の解像度が上がる。

 知らなければ敢えて暈すことができる。

 見えないから一歩近づいて、輪郭をなぞるため手を伸ばし合う。

 らしくないペルソナを被って。

 

 ──名前のない関係なんだ。

 彼女の愛するそれとは違って。

 

「『Afterglow』っていうんです。みんなで屋上に集まって名前を考えてるとき、夕焼けが綺麗だったから」

 

 彼女は傷のない宝石をそっと掬い出すように、音のひとつひとつを丁寧に紡いだ。

 Afterglowって単語には夕焼けだけじゃなく余韻の意味合いがある。試合の勝利とか好きなアーティストのライブとか、楽しかった日々だとか、眩しい瞬間の残照。思い出とは即ち未来へ向かうための希望を指す名前だ。『No "Afterglow"(良いものは決して) ever dies.(なくならない)』。どこまで考えて付けたのかは、分からないけれど。

 

「……音楽のことは疎いですが。友達の孤独を癒やすグループとして、とても良い名前ですね」

「……ふふ。でしょ〜?」

 

 誇らしげにはにかんでコーヒーに唇をつけた。じんわり滲むような熱い溜め息を吐き出すと進路を変え、川辺へ降りていく階段へと向かう。そのまま中腹あたりに腰掛けると、彼女はふにゃりと微笑んで隣の席をぽんぽん叩いた。いつかのように。

 

「……よかったらお隣、どうですか〜?」

「……狭くないですか?」

「デリケートなあたしに花冷えの日和はちょ〜ぴりツラいのです。温めてくださいな〜」

「……僭越ながら」

 

 階段は土手を削って固めた申し訳程度の段差に丸太でツバを付けただけのものだけど、舗装の手間を惜しむ代わりにか三人くらいは詰めて座れそうだった。観念して隣に腰を下ろす。向こうに寄る気はないらしく、早く座れと叩いてた手をそのままついて彼女はコーヒーを楽しみ始めた。

 花冷え──春の暖かさに目を覚ました花が凍えるような寒の戻り。そう言うほど気温が落ちたわけではないけれど、なんとなくセンチメンタルな薄曇り。残念ながら貸してあげられるような上着なんかは僕も身に付けていないから、せめて心寒くないように、少しだけ間を詰めた。

 

「あたしの──」

 

 彼女は、言葉をコーヒーで飲み下した。

 

「──担当してるパート、リードギターなんですよ〜」

「……聞きましたよ。あんまりテクニカルなことしてるイメージは湧きませんけれど」

「も〜、失礼しちゃいますね〜」

 

 コーヒーが流した言葉を追いかけることはしなかった。どことなくほっとしたような顔で話を続ける。彼女のついた手の側に僕の手も落ちる。ほのかな温度が触れる。

 

「これでも華やかなギターボーカルに負けず劣らず、輝く太陽に照り返す月の如き煌めきを〜……!」

「楽器店で試奏とかしませんでしたし、やっぱりイメージしにくいですよ」

「む、致し方ありませんなぁ……」

 

 とつとつと突かれる。爪の甲を、側面を、小指の先で細やかにくすぐり合う。

 傾いていく春の日差しに照る川面を眺めたまま、隣の穏やかさだけを意識する。

 

「覚えてますかー? ライブハウス」

「……どこでしたっけ?」

「忘れちゃったんですか〜? もう一回連れてかなきゃですね〜」

 

 叱るみたいに小指で小指を叩かれる。手を引くのはずるい気がしてされるがまま、僕はくすくす笑ってしまった。

 

「喫茶店が併設されてるところですか」

「ですです。あそこでライブするんです、今度」

 

 声を潜める。夕凪。子供のはしゃぐ遠い声。五時のチャイム。川に喧騒が沈んでいく。僕らだけがぷかりと浮いていた。

 

「五月五日のー……お昼、ちょうど十二時。チケット持って待ってますから」

「……ええ。必ず」

 

 小指が触れて、絡まって、それに見ないふりをするために顔を上げた。

 徐々に暮れて夕焼けになっていく。温かさはそのまま置いて、もう一方の手で指差した。

 

「──グラデーションの水色とオレンジの間、淡い翠が混ざってるの、わかりますか」

「……うっすら、うっすらですけど〜、わかります」

「薄青、って呼ばれる色みたいなんです。波長がどうとか科学的なことは置いておきましょうか。……日本において、緑は青の仲間として扱われてたそうなんです。葉が生い茂ることを青々、って言うのはそのためなんだとか」

 

 手帳は開かなくても諳んじられる。僕の原体験のひとつ。人生に差した光の色。

 押し付けがましいだろうか。どうでもいい、興味のないことだろうか。それでも、彼女に知ってほしくなった。

 

「あの翠を初めて見たとき、勘違いかと思ったんです。目の錯覚か何かだろうって。でも……淡い、優しい夕空に入った差し色が綺麗で、綺麗で綺麗で、通学路に立ち尽くしてしまった幼い頃の自分を、なかったことにするのが嫌だった。だから調べて、確かめて……」

 

 彼女の友人たちが見た空はどんな夕焼けだったのだろう。僕の記憶には燃える西方の紅より、藍から青へ、薄紫に霞んだ白を経て薄青へ、そしてオレンジに染まっていく豊かな彩が強く残っている。

 

「他の色に紛れてしまうはずだった微かな翠が『薄青』としてはっきり見えたとき、世界が綺麗になった気がしたんです。物の名前を集めるのが好きになった、多分きっかけで……僕の、一番好きな色」

 

 わかりやすいものじゃない。こうして聞かせたってピンと来ないかもしれない。それでも……大切な仲間に夕焼けの名前を重ねる彼女には、伝えたくなった。幼馴染との思い出は地元の思い出だ。この街を、心に刻まれた原風景を案内してくれた彼女への返礼として足るものかは自信がないけれど、同じものを返したかった。

 

 ──彼女は、目を見開いて見惚れていた。

 

 きらきらと瞳を輝かせながら空を仰いでいた。頬はほのかに紅潮していた。小指に、きゅっと、力が篭った。

 長い、長い、長い一分間。やがて彼女は、ぽつりと零した。

 

「……ライブ、楽しみにしててくださいね」

「もちろん」

「忘れないでくださいね」

「……ええ。重ねて、もちろん」

 

 温かさに微かな重みが増して。

 日が沈むまでじっと、じっと、そのままでいた。

 

 

 

 

 

 鍵を開ける。返ってくるはずないとわかっていて言うのも虚しいから無言のまま。

 三階建ての真新しい新築は見学の時点だと広々として見えたものだけれど、いざ引っ越すと未開封の段ボールがそこら中に並んでしまい高級感もへったくれもない。無用の長物……いや、収入相応のところに住む方が長い目で見ると得なんだと聞かされた覚えもあるからなんとも言えないか。

 初日に彼女と買ったパンは流石にもう食べ尽くしていて、残るは昨日追加で仕入れた食パン一斤。あと商店街の八百屋で買った野菜の端切れが冷蔵庫にあるくらいだった。適当にシチューでも作るか。親も食べるし。

 

 ──育ちの意味で、僕に故郷はない。

 

 父はITエンジニア。母はフリーのジャーナリスト。幼い頃から転勤がやたら多くてあちこち連れ回され、そのくせ家に帰っても両親はほぼ客先や取材先にいて帰ってこないのが常だった。思い出のない土地を故郷とは呼べない──だから『名前』を書いていた。見聞きしたものを、場所を、人を。同じカテゴリー、同じラベル、同じタグのもとに集約して、失くさないように。上書きされないように。どこまでも連れていけるように。

 あの翠を目にしなかったら今頃、嫌気が差して辞めていたかもね。

 

「……ちょっと多めに作るか。明日は半日いるらしいし」

 

 人参をもう一本。面倒くさいし皮ごとやってしまおう。

 ふたりが出世したり名が上がるに連れて海外の仕事が増えたらしく、現地に向かうのが難しくなったことで引っ越しの頻度は次第に落ち着いた。代わりに、家にいる時間そのものは一層減った。家族の時間を作るためになるべく帰ろうとしてくれるけど、ドタキャンされたり、いないと思ったらいたりして、予定の調整に困る。シチューの量とか。

 金銭的な不自由はない。保護者が必要な学校行事も、まあ頑張って来ようとしてくれてるから不満を覚えたこともない。親に対する恨みや寂しさは少しもなかった。

 ただ、幼馴染とか、故郷とか、蓄積された深い思い出には憧れがある。どうせ切れる縁だと上辺の繋がりしか結んでこなかった僕には、今更望めないものだから。

 ……いや、そうでもないのかな。

 積み上げていけるだろうか。なんにもない自分の上に、思い出とか、大切に感じられるものを。

 

「そういや彼女、シチューにキャベツ入れるとか言ってたっけ」

 

 春になるととりあえずキャベツが出るって聞いたな。ロールキャベツにしたり味噌汁に淹れたり、雑に焼きそばに入れ込んだりする、って。せっかくだ、冷蔵庫に残ってるブロッコリーとアスパラも入れて春野菜シチューと洒落こもう。彼女のオススメで買った食パンは少し密度が高めであるらしく、シチューをつけて食べるのも、チーズと一緒に乗せてグラタンパンへと化けさせても乙だとか。

 

「んー……明日またパン買い足してグラタンパイにするか。今日のところは、普通につけて食べよう」

 

 そのまんま食べても美味しいのが良い食パン、と教えてもらったことだし。彼女みたいに一斤丸ごとは無理そうだから四分の一は浸して、もう半分はそのまま行こう。『どうせならいろんな形で楽しみましょ~』、って朗らかな声が聞こえてくるような気がしてくる。次にあったら他に美味しい食べ方がないか尋ねてみようか。

 明日が、未来が楽しみだなんて初めてだ。

 次はどこへ行こうか。何を見ようか。

 空っぽの身軽な人生だったのに、数日でたくさんのものをもらってしまった。

 僕から伝えられる『名前』はないだろうか。

 返せるものは、ないだろうか。

 

 

 

 

 

 初めて出会ったときと同じ羽沢珈琲店のカウンターで、カップに口を付けながらドアベルに振り返る。足元にはレザーのショートブーツ。裾も丸みを帯びたラウンド型の、可愛らしい印象を受けるコットン地のシャツワンピース。春らしいミントグリーンに染められたその上から白いデニムジャケットを羽織った、カジュアルでいつつも洗練された出で立ちの彼女がふわふわと手を振っていた。

 日増しにお洒落になっていくなぁと感じていたけれど──なんだか妙だ。

 

「はざまーす。いやーすみませんね、お着替えに時間がかかりまして~」

「おはようございます。……素敵な格好ですね」

「んふふ。服を手に手に、褒めてくれるかな~、可愛いって言ってくれるかな~……ってドキドキした甲斐がありましたよ」

「……素材が良いと何を着ても似合うので、ボキャブラリーが追い付かなくて困ります」

「はぐらかしてません~?」

「可愛い女の子を素直に褒められない純情ですよ」

「罪な女ですね~あたし」

 

 どことなく眠たそうなおっとりした表情は変わらない。立ち居振る舞いも変にギクシャクしているわけではない。このやり取りだってこれまでと変わらないはずなのに、確かに居座る奇妙な感じ。

 最後の一口がまだカップの底に溜まったまま置いて、僕はズレた眼鏡を外しクロスで拭きとる。彼女はいつの間にか隣の席に腰を下ろしていて、テーブルに両肘重ねてずいと乗り出した。

 

「そちらもオシャレじゃないですかー。前から思ってましたけど、大学生っぽいオトナな感じですよねー」

「……褒めてるんですか? それは」

「もちですよ~。垢抜けてて素敵ですね」

「……どうも。どうにかそちらに釣り合えていたらいいんですが」

 

 細身のスラックスと冬物のハイネックを適当に合わせて、上下が黒くなったから明るいベージュのテーラードジャケットを羽織ってきただけだ。雑だと思うけれど……いや、本当に雑だったらジャケットでバランス取ったりしなかったな。

 眼鏡をかけ直すと思った以上に彼女の顔が近くて一瞬、鼓動が跳ねる。視界がはっきりしてもまだちらつく違和感と、慣れない気恥ずかしさをどうにか仕舞い込むのが精一杯で。

 

「好きなんですよ、一緒に歩くの」

「……へ?」

「……あ」

 

 言葉選びを間違えた。

 冷めきったコーヒーを飲み干して唇を湿らせ頭を急回転させる。こんな直截的なのはチョンボだろ、誤魔化さないと。

 別にそういう意味じゃなくて。新しい街で新しいものを教えてもらえるのが楽しいから。ひとりで歩いているよりは誰かがいてくれた方が嬉しいってわかったから。ふわふわと曖昧な冗談を交わし合うのが心地いいだけで……ああ、ダメだ。

 嘘を吐きたくない。

 これ以外の言い回しが思いつかない。

 

「……悪いですか」

「…………く、くるしゅーないです」

 

 墜落するみたいに項垂れる間際、向こうも両手で顔を覆うのが見えた。ふたりして顔を伏せて震えてるの、はたから見たら怪しそうだな。

 ……ここにも、違和感。この間までの彼女なら、きっとからかうように返して上手く有耶無耶にしてくれただろうに。

 僕の返し方が下手すぎたと言えばそれまでだけれど……どうか、したのだろうか。

 名前も知らない無題の関係では及びもつかない悩みが、あるのだろうか。

 先日の看板娘さんじゃない、アルバイトらしい店員さんが近くを通りかかった。彼女の分のお冷が置かれ、僕のにもお代わりが注がれる。「……エスプレッソ、ソロを」「……あたしも同じので~」蚊の鳴くような声だった。店員さんはちょっと困った顔をしつつも聞き取れたみたいで事務的な返事と共に去っていく。

 

「……ミルクレープはいいんですか?」

「そうしようかなって思ってましたけど~……あたしの空は羊とわたあめがランデブーですからねー。だらしないままデートに臨んじゃ、乙女の恥じゃないですか~?」

「……いつも通りの、ゆったり穏やかな調子もいいと思いますけれどね」

「……あたしのいつも通り、知ってるんですか?」

 

 柔い糸が静かに張り詰めた。

 確かに僕は、彼女のことを何も知らない。名前も連絡先も。バンドで演奏している姿も、学校で授業を受けている姿も、幼馴染だという友人たちといるときの姿も。

 でも。

 

「知ってます」

 

 断言できる。

 ジョークを交えた会話で距離感を探る飄々とした態度から垣間見える高い社交性。ギター、幼馴染、自分の世界の外周までしか踏み込ませない内向性。博識さ。気まぐれのようで義理堅いところ。パステルカラーとカジュアルさを基調にしたファッションセンス。美味しいものを食べて見開かれる垂れがちの双眸。はにかむとアイラインを濃くする長い睫毛。柔らかな笑い声とパンの香り。

 

「『僕といるときの貴女』のことは、きっと、誰よりも」

 

 外で車が二台三台通る。奥の席でお喋りが盛り上がる。エスプレッソマシンのレバーを倒す音がする。シーリングファンがぐるぐる回る。店員さんが僕らの前にショットグラスを並べて、レシートを立てて、離れていく足音も聞こえなくなる。

 

「……幼馴染がいるんです〜って話、しましたよねー」

 

 顔を覆っていた手を口元へずらして、潜めるようにいつかの再生をする。

 

「されましたね、自慢の親友たちだとも」

「そーそー、かた〜い絆で結ばれた無敵の五人組ですよ」 

 

 へらりと口端を歪ませてエスプレッソを舐めた彼女は苦みか熱さのせいか眉を顰めて、小さな手の中でグラスを弄ぶ。僕は続きを待った。

 

「前に、五人の中でひとりだけクラスが分かれて……寂しがらせたことに気づかなくて、つらい思いさせちゃったことがあったんです」

「……心中は、なんとなく察せます。温かい場所から寒い外に放り出されたら、きっと心細いでしょう」

「ふふ、あたしたちもそうでしたよ~。あったかい春が冬に逆戻り~……五人が四人になっただけでそうなのに、独りになったらどんなに寒いか」

 

 黒い水面に「はー」と息を吐いて暖を取る素振り。

 ……想像は、できる。

 みんなとあだ名で呼び合って、約束もしないで当たり前に明日も遊べると思える日々はどれだけ温かいだろうか。それを失くしたらどれだけ凍えるだろうか。咲いた花が冷えて縮こまるように、彼女はグラスを握り締める。

 

「言葉にしなくても以心伝心して、ぎゅっと集まって、ふんわり安心して。そこにいれば怖くない、寂しくない、みんなの居場所が欲しかったから、あたしたちはバンドを組んだんです。……でも、独りで抱えてる悩みを話してはもらえなくて。バイト先の先輩に相談したりとか、自分なりに考えたりしたんですけど……踏ん切りがつかなくって」

 

 お冷の結露が伝い落ちる。

 

「……あたしは、どうしたらいいんでしょうかね」

 

 背もたれに体重を預けて、彼女は力なく微笑みかけてきた。今度はこちらが手元に目を落とす。一口で飲み干せそうなエスプレッソに、なんてことない高校一年生のガキの顔が映っている。

 

 僕は、知らないけれど。

 きっと普遍的な悩みだ。

 友人──名前と趣味を交わし合い、同じ時間を過ごし、気を許し合える間柄。誰もにありながら、その間に張られた糸の長さ、強さはそれぞれで。見えないそれを手繰り合う中で生じるジレンマ。

 本で知っている。遠巻きに見ていたことがある。一般論くらいは知っている……けれど。

 彼女たちは──

 

「──『他人』であれば」

 

 僕の返せるものは。

 

「踏み込まれたくないラインはあるでしょう。聞きたくない綺麗ごとも、鬱陶しいお為ごかしも、わかっていても手を伸ばせない正解も、きっとあるでしょう。心が受け取れないときが、あるでしょう。そんなときに言葉は意味を持たない。時間が解決するのを待つしかないでしょう」

「……やっぱり、そうですよね~」

「でも、『幼馴染』であれば」

 

 伝えられる名前は。

 

「相手を心から思っていることも、その人の抱える問題の前では如何に無意味なのかも、長い積み重ねの中ですべて承知しているなら。その重みが言葉に意味をもたらすはずと、信じてはいけませんか」

「……それで取り返しのつかない傷をつけちゃうことだって、ありませんか?」

「あるでしょうね。でも、届くのなら言わない手はないでしょう」

 

 僕は身軽だ。言葉にだって何の重みもないだろう。ほら、彼女の眉根が寄って目が細まる。落胆の色が僕を切ってテーブルに落ちていく。

 他人──僕と彼女。ほんの数日ばかり共に過ごしただけの仲。大事なもの、好きなもの嫌いなもの、互いのことなんて上辺しか知らない。『幼馴染』と比べたら遥かに遠いだろう。

 だからこそ、ほんの少しだけ見えるものがある。

 

「そして──あまたの人に当てはまる『幼馴染』じゃなくて、『Afterglow』の五人なら」

「……え?」

 

 顔を上げてくれ。

 届いてくれ。

 何も知らない、話に聞いただけの僕でも思うんだ。

 細やかでもいい。軽くてもいい。他人の言葉だけど、伝わってくれ。

 

「クラスが分かれた友達のために──自分の手ではどうにもならない、社会とか、家族とか、子供の世界の外にある仕組みのせいで離れてしまった友達のために居場所を作れた貴女たちなら。大丈夫です」

「……そうですかね」

「僕は引っ越しばかりで幼馴染なんていませんから、実際のところはわかりませんが。昔から付き合いがあって以心伝心で、寂しがる友達のために動き出せる人たちならきっとなんとかなるんだろうっていう……まあ、偏見です」

 

 あるいは、信じたい。

 僕の取りこぼしてきた、諦めてきた温かさは、擦れ違いのひとつで壊れるものじゃないんだと。

 最後の最後に顔を背けてしまったから説得力も怪しいものだけれど……言うだけ言ったら身勝手にも安心してしまって、つい溜め息が漏れた。眼鏡が曇る。隣でくすくすと、穏やかな笑い声。

 

「じゃあ、大丈夫ですね~」

 

 眼鏡を外してクロスで拭き取る。

 曇りが晴れる。

 

「……言っといてなんですけど、本気ですか?」

「本気ですよ~。アインシュタインもにっこり笑って大賛成です」

「……それならいいんですけどね」

「……ありがとうございます」

 

 無意味に眼鏡を手遊んで、ぼやけた視界の中で柔らかな声だけを聞く。外から春の日が差し込んで明るくなる。少しだけ、頬が熱い。張り切って着込んできたのは失敗だったかな。

 眼鏡をかけて、彼女の顔をまっすぐに見た。

 

「お礼に、あたしの奢りでデザートでもどうですか~?」

 

 麗らかな春の日和が、ふわり、綻んで。

 

「じゃあ──オススメのスイーツなんて、お伺いしても?」

「ふふ、おやつソムリエにお任せあれ~」

 

 穏やかな彼女がエスプレッソに何をペアリングするのか楽しみにしながら、僕は熱くなった顔をお冷で落ち着けた。

 

 

 

 

 

 五月にもなればすっかり暖かくなって、重ね着ができない分少ない選択肢で格好を整えなきゃいけない。ハイカットのスニーカー、アイボリーのスラックスに白いスウェットをタックイン。……これくらいのカジュアルさなら、隣にいてもおかしくないだろうか。対人経験の欠如が今は恨めしい。

 空は霞むような薄曇りで、ぼんやりと和らぐ日差しに目を細めながら歩いた。敷地を遮るカーポールに沿って住宅街を抜け、地下鉄の換気口を塞ぐステンレスの網を踏み越えて、コンビニや個人商店の入ったテナントやオフィスビルの並ぶ大通りを過ぎる。ガードパイプに挟まれた横断歩道を渡って。

 都会だと送ったり飾ったりで需要が多いのだろうか、途中で通りかかった大きな花屋の店先に鉢植えが並んでいた。白、ピンク、それから少し紫──ライラック。ちょうど時期の花だ。ヨーロッパ生まれの落葉花木で、暑さにちょっと弱い。もっと背の高い木のイメージがあったけれど、小さな鉢からでも売ってるものなのか。綺麗な花は僕より小柄な枝先に凛と咲いている。花言葉は──

 

「……あれ」

 

 今日は僕が遅れた方か。時間まではまだあるんだけど……まあ、仕方ないか。

 ライブハウスに併設されたカフェのテラス席、こちらに背を向けて座っている亜麻色の髪の女の子。好みらしいミントグリーンのブラウスの上に白いサロペットを合わせた出で立ちにチョイスの正解を確信しつつ、後ろから声をかける。

 

「こんにちは」

「……おやおや~、女性を待たせて手土産もなしですとな~?」

「すみません、一刻も早くお顔が見たくて」

「んふふ、しょうがないですねー。お隣、どうですか~?」

「お邪魔します」

「いらっしゃいませー」

 

 今更遠慮もあるまい。彼女のブラウンのトートが置かれている椅子の背もたれに黒いショルダーバッグを引っ掛けて座り込む。注文のカウンターは向こうだけど、まあ一旦いいか。彼女の前に飲みかけの紙コップがあるので、お代わりについて行って一緒に頼もう。

 

「調子はどうですか」

「ばっちりでござ~い。本番はあたしの超絶テクをお見せしてしんぜよう」

「大見得切りますね。いいんですか?」

「失敗したら笑ってくださいな~」

「承知しました。笑い飛ばして、そのあとパンでも差し入れます。……お好みは?」

「チョココロネ~」

「……いつも売り切れてるじゃないですか、あれ。他ので勘弁してください」

「しょうがないですね~……あなたのオススメセレクションで手を打ちましょ~」

「責任重大だなぁ」

 

 彼女は猫みたいに目を細めて僕を覗き込む。文字通りお手上げすると春風の揺蕩うみたいにくすくす笑う。雨の淀みはない、自然体な姿に小さな安堵。

 

 ……例の、幼馴染の問題は解決したらしい。

 言葉でぶつかり合って、ちょっと口喧嘩もして、スッキリしたら笑って話し合えたそうだ。僕の言葉がそれほど大きな意味を持ったとは思わない。でも、まったくの無意味でもなかったと、胸を張ってもいいのだろうか。

 とりあえず彼女との日々は、春休みが明けたのもあって少しだけ頻度を落としながらも続いていた。

 

「そういえば、何を飲んでるんですか」

「これですか~? 普通にブラックですけど~……う~ん、羽沢珈琲店と比べちゃうとちょ~っとこう、馥郁たる風味に欠けるところですね〜」

「大仰ですね。そりゃまあ、本格的な喫茶店と比べたらそうでしょうとも」

「お代わりするならもっと甘いのにしようかな~と……あ」

「はい?」

 

 どうしたんだろう。彼女は何かを思い出して目をぱちくりさせると、最後の一口をぐっと飲み干した。それから僕の目をまっすぐに見つめ……すい、っと逸れる。

 

「……あのー、ですね~」

「はい」

「ライブハウスのチケット、渡しますって言ってたじゃないですか~」

「……はい」

 

 なんだか、顔が赤い。

 霞む雲から日が覗いて、心なしか僕も顔が火照る。

 

「こういうの、入り口でどのバンド目当てかって聞かれるんですけど……身内のチケットだと、たまに、たま~にですけどー……誰からもらったのか聞かれることがあって~……」

「……あぁ。そういえば、自己紹介がまだでしたね」

 

 余裕と諧謔たっぷりな飄々とした普段の態度からは想像もつかない、しどろもどろな彼女の様子にちょっと肩の力が抜けていく。

 一緒に出掛けて、コーヒーを飲んで、後の約束をして。そんな日々を何度も繰り返して──これからも続けたいなら、果たすべき儀式がある。

 らしくもなく咳払いなんかして、背筋を正し、それからわざとらしいくらいいつも通りに──『僕といるときの彼女』らしく、テーブルに突っ伏すみたいに身を乗り出して。

 

「あたし、青葉モカっていいます。あなたのお名前は?」

「僕は……──」

 

 名前を告げる。

 書き換えなくちゃ。繋いだばかりで、握り締めるにはあまりにか細く、ワイヤーのように張るには頼りない、小指にでも結んで切れないように気遣い合う、頼りない糸のようなこれに相応しい──いや。

 

 凝った名前じゃなくていい。

 積み重ねたらまた変わるはずだから。

 万年筆じゃなくて鉛筆で、何度でも書き直せるくらいの気軽さでいい。僕らは続いていくのだから。

 

 ちょっと浮ついた心地。今の気分は甘いもの。お喋りしながらふたり連れ立ってカウンターへ向かう。

 

「なに飲む〜?」

「……じゃあ、君と同じので」

「んふふ、おっけ〜い。すみませーん、カフェモカのホットを──」

 


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