四季における一つの区切りでもあり、そして新たな始まりの足音が背後で鳴り響く三月の末。
目に映る色からは、一面の白が気温の上昇と共に消え去り、新しく桃色の花びらが降り積もり始めてくる季節。
横を向けば、新たな生活に胸躍らせる年下の子たちがあたしを追い越してはまた次と通り過ぎていく。
前を向けば、死んだ目をしたくしゃくしゃのスーツ姿の会社員が駅に向かって歩いている。こちらが春の風物詩かと言われればそうじゃなく、あえて言うならお国柄と称されるのだが、あたしには関係のないこと。
あたしはある時から春が嫌いになった。
春なんて嫌いだ。
梅雨入り直前の濡れたコンクリートの匂いが妙に鼻に残っていつまでも居座るからだ。
春なんて嫌いだ。
会う人会う人が初対面として顔を合わせてくるからだ。
春なんて嫌いだ。
もう二度と、振り返ってはならないと無理やり背中を押されるからだ。
理由を考えれば湯水のように幾らでも湧いてくる。
そうして春の暖かな日差しを一心に浴びさせれながらも、家に帰った。
「元気?」
「少なくともあたしは元気だよ。」
気さくに話しかけてくるようなアイツにあたしは少しぶっきらぼうに答える。
アイツとの出会いのきっかけは何だっただろうか。知らない間に横にいて、気付いた時には自分でも驚くくらいに仲良くなっていた。
どうやら、それは向こうも同じだったようで、その内あたしたちは違う学校なのに途中まで一緒に学校も行くようになった。
無遠慮な言葉の殴り合いもしたし互いの嫌な面も見合った。喧嘩なんてもちろんした。だけどなにか違った。どこまでも青々しい青春みたいな付き合いをしても胸の奥でモヤモヤした欲求なのか焦燥が突っかかったままだった。
正直、それでもいいかなと思っていた。
当時の私はこれ以上の事はきっとないんだなと思っていたし、このモヤモヤもきっとその日の気分のちょっとした違いなんだろうって勝手に処理もできていたし。
『僕はね、そんな君だからこそ、好きになったんだよ。』
アイツは、どこまでも真っすぐだった。そのくせにそう言ってあたしに微笑みかけるその顔は、男の子特有の力強い頼れるイメージのあるものなんかからは程遠い。
こころをよく太陽に例えることがあるが、アイツはありふれた言葉になるかもしれないけど、月みたいだった。夜空に浮かんでいる満ち欠けしながらも、確実にそこにある。それでいて、澄み渡っている。
そんなアイツの瞳が微笑みと共にあたしに言葉を突き付けてから、ようやくこの焦燥の正体が恋だって気付いた。
一度言われて気付かされてしまえば、もう止まらなかった。
アイツと一緒にいてみたいとか、病的な白さとまでは言うつもりはないけど、アイツの高級な陶器みたいに白い肌に触れてみたいとも思ってしまったりもした。
丸々と満ちてしまえば愛おしく、欠けてしまえばどこか暗く美しい。
どこか同じ人なのかも、疑わしく感じるような、そんな友人。
恋は盲目とはよく聞くけれども、まさか自分の身をもって思い知ることになるなんてあたし自身思っても見なかった。
けど、盲目も悪くないと思えるような時間だった。
いつの事だったか、ある日の夜。
一人暮らしのあたしの家にアイツが来て一緒にご飯を食べたときのことだ。
その日は両親が3日ほど空けることが決まっており、アイツをあたしが呼んでみたことがきっかけだったかな。
アイツと一緒に夜遅くまで一緒にいてみようなんて考えてみて、ご飯を食べた後長々と中身のない時間を共に過ごしていた。
『寝る前は温かい飲み物を飲むってあるじゃん。』
「あるね。」
『あれって効果あると思う?』
そんな時間を過ごしていた中、本当に何気ない疑問だっただろう。アイツはあたしにそんなことを聞いてきたことがあった。
「あるんじゃない?」
『あれさ、白湯とかがいいとかよく見るけど、他の飲料でもいいのかな。』
「うーん…どうだろ。やったことがないから分からないけど。」
こういうのはきっとあたしよりも花音さんとかが詳しく知ってそうだとは思ったけど、アイツはイタズラを思いついた子供みたいな顔であたしの前にあるものをどさり置いてきた。
「…なにこれ。」
『ホットレモンの原液。』
「うんそうじゃなくて。」
アイツが取り出したのは、市販のホットレモンの原液のボトル。
何がどうしたいのかその時は分からずに、首を傾げていると、アイツはさらに言葉を重ねてきた。
『ただお湯飲んで目瞑ったらよく寝れるなんてのも、つまらないと思ってね。』
「…まぁ、飲むなら味のある方がいいけど。」
『だから、こうなった。』
アイツは一つの照明を終えたような達成感たっぷりの笑みでそれを持ってきた理由を終えてきた。…やっぱり聞いた所で理解には時間がかかる。
とはいえ、こころの提案からの実行に比べればだいぶマイルドではあるのでそれほど時間はかからない。
まぁ理解は出来たけれど、どうしても看過できない部分というか、引っかかることがあった。
「…飲んだらどうするの?」
『寝るけど。』
「うん、だよね。」
「寝る場所は?」
それを聞くと、アイツはさっきまでの顔を崩し、ポカンとした顔で数秒間固まっていた。
「…考えてなかった?」
そう聞けば、アイツは黙ったままゆっくりと首を縦に動かした。
「アンタって意外と子供っぽいところあるんだ。」
『…がっかりした?』
「ううん?むしろ安心した。」
「あたしが好きになった人は、しっかり年相応の男の子なんだなって、思えたから。」
幻滅なんてするものか。だってあたしが好きになったのは月でもあってたった一人の人間なんだって再確認できたから。
そうして初恋の味のするエッセンスを体内に加えた。
…意外とおいしかったのは今でも覚えている。
「じゃ、どうしよっか。」
『何がさ。』
「寝る場所。」
そうして互いにホットレモンを飲み終わり、話を戻せばアイツは天を仰いでまた黙りこくった。
「さっきはさ、アンタが提案してきたじゃん。」
『…そうだね。』
「今度はこっちから提案していい?」
アイツは少し言葉に詰まりながらも、何するの?と返答した。
「あたしの部屋で、寝てみる?」
今度はあたしがイタズラするように聞いてみた。
『…からかってるね。』
「そう思う?」
『そりゃあね。こっちも色々したからその仕返しみたいな感じ?』
「最初に仕掛けたのはそっちでしょ。今更尻込みされても困っちゃうから。」
「で、どうする?」
『…ベランダで寝るとかは?』
「アンタが不審者扱いで通報されることになるけど。」
『…居間の床は?』
「折角ホットレモン飲んだのにそれでよく寝れる?」
アイツがどうにかして避けようとしてくるアイツからの反証を一つ一つ潰していく。
そうして、自分から捻り出せるものがなくなったのか長い間唸り、
『…お言葉に甘えさせてもらいます。』
あたしは半月のまま雲に隠れていながらも輝き浮かんでいるようなアイツの困った顔と共に、了承の言葉を引き出した。
そうして、月が一番高い場所に上った所に行く程夜が更けてきたころにあたし達は眠りに落ちた。
…残念だけど、不純なことはしてないよ。とはいえ、男女がただ同じ部屋で、別々に敷かれた布団で一夜を過ごしただけ。ただ言えるのは、その日は検証結果としては当てにできない結果だったってことだけ。
『また今度、飲んでみようよ。』
『それで効果があれば御の字だろうし、これで君がよく眠れるのならそれでいいから。』
そんな顔から火が出るようなこっ恥ずかしい言葉をくれてその日の検証は終わった。
そうして、互いの両親のいない時があれば、どちらかの家に行っては他愛のない話やその日テレビでやっていた映画をだらだらと見たり、夜中の公園で一緒にブランコを漕いだり。
幸せの絶頂と呼ぶには、程遠くぬるいような、他愛のない幸福をだらだらと続けた。
その中でも、最初のホットレモンはいつの間にかに自分たちの習慣になっていた。それに気づいたときは、あたしもだいぶ毒されたんだなって思いながらも、満更でもなかった。そんな幸せを積み重ねがら、あたしはアイツの色んなことを知っていった。
丸々と満ちて輝いていてもその面が同じことはなく、本当に月の満ち欠けみたいにコロコロと変わっていく。
そんな一面を何個も、何個も知っていって。
これからもあたしの知らない一面を知っていく。
ずっとこんな時間が続いて、変わらないものなんだとすごく勝手だったけど思っていた。
『僕、もうすぐ死ぬんだ。』
そんなあっさりとした言葉で水をかけられなければ。
どうしてとかそんな理由聞こうにも、突然の事だったからか喉から先に声が出てくれなかった。
そうして納得も折り合いも自分につけるよりも先に、春風の匂いと一緒にアイツは跡形もなく言葉通り本当にいなくなった。
あたしの恋する乙女でいられた時間は一方的な通告を言い渡され突然終わりを迎えた。
こんな終わり方があってたまるか、なんて叫んだところでそれに答える存在はどこにもいない。
どれだけアイツの姿をまた見ようにも、もうその姿は自分の記憶の中でしか見ることが出来なくなった。
寂しいだとか辛いだとか、そんな言葉で表せるならどれだけ楽なんだろうか。
春の暖かな日差しはそんなあたしの心に無遠慮に生暖かい指を入れるように照ってく。
アイツは最後に『こんなひどい男の事なんて忘れてくれ』だとか『君の周りには、僕の事も忘れさせてくれるくらい眩しい日常が待っているはずだから』
なんてことを言って、あたしに何の言葉を言わせずにアイツはあたしの前から消えていった。
こんなに夢中にさせておいて、それはないでしょ。
愛しているとか、好きだよとかそんな言葉を吐いておいて、最後の最後に吐く言葉が僕のことを忘れてくれなんてそんなひどいことがあって良いわけないでしょ。
そう言って一発殴ってやろうにも、アイツはもうどこにもいてなんてくれない。
アイツの言ったとおり、忘れてやれればよかったのに。
私だってそうしようと思ったことは何度もある。だけど、どうしたってできなかった。
耳をふさいでも、眼を瞑っていても、何をしたって、あたしの中のアイツは出て行ってくれない。
アイツの微笑んだ顔も、純粋無垢な子供みたいに無邪気に笑った顔も、アイツの嫌だったところも、好きだったことも。
全部あたしの大事な思い出なんだ。
そこまで考えてようやく、あたしは自分の考えていた以上にアイツに心の底から惹かれていたんだって思わされた。そのことに感謝をしようにも、恨み言を吐こうにも、返ってくるのはアイツの映ったいつかの写真の微笑みに跳ね返った自分のどうしようもないかつて恋だったものの残骸だけ。
アイツに会って、こんな思いを全部投げ付けてやりたい。
自分のどうしようもなく空いた穴に、アイツとの思い出を詰めたい。
どうあったって伽藍洞の心を埋めるような突起はあたしの前に現われることも起きることも、微笑んでくれることもない。
私にはアイツの事を忘れることなんて絶対に出来っこなかった。
くよくよするあたしをあいつはなんて言うだろう。
幻滅するだろうか、それとも励ますのだろうか、肯定してくれるだろうか。
きっと、吹っ切れる事なんてない。
だけど、笑顔じゃないままハロハピにいるのも嫌だ。
なによりもそんなあたしはアイツの好きだって言ってくれたあたしじゃない。
アイツがいなくなってから、もう一年になる。
次の春風の香りはもうあたしのすぐ背後にある。
だから、あたしはアイツの事を湖面に沈めて、また当たり前のように昇ってくる暖かな日の光を浴びることにする。
見上げた空は既に薄明るく、夜に丸々と輝いて見えていた月は透明度を増してぼんやりと薄く光るほどまでに落ちてきている。
天使に連れられて遠くに溶ける月に、未練のない冷めたサヨナラはあたしには言えない。
どこまでも醜い執着のまたねを、夜明けの透明度の高い薄い月に毎夜口にする。
あたしは今日も、アイツと飲んだ青春の名残を飲み干して、アイツの匂いの残る布団に包まった。
陋習(ろうしゅう)意味 悪い習慣 卑しい習慣
相も変わらず読めた文章ではございませんでしたが、読んでいただきありがとうございました。