彼女にそう言われて、ようやく気づいたんだ。

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教師としての本懐

 

 

 

 黒板に大きく描かれた『祝』と『卒業おめでとう』の文字。その周りに描かれた桜の花びらが、黒板を綺麗に彩る。さらに、空いたスペースには、卒業生の後輩たちからのメッセージも添えられていた。昨日一日かけて描かれた大作は、どうも消すのを躊躇わせる。パシャリと一枚。私用のスマホで写真を撮った。……まだ仕事中だけれども、今日くらいは良いだろう。

 

 窓の外、今日は快晴。雲一つない最高の天気。ここ三階から、下の中庭、そしてその先の校門を見る。校門の脇に立つ桜は満開。卒業生の門出を暖かく祝ってくれている。中庭は、高校生活との最後の別れを惜しむ生徒たちでいっぱいだ。

 

 笑って。泣いて。跳ねて。一緒に写真を撮って。窓越しに見る生徒たちの顔は、今日の空模様のように晴れ渡っていた。振り返ると、誰も座っていない席がズラリ。ついさっきまでワーワーと騒がしかったこの教室もしんと静まり返って、寂しい。積もった日々に想いを馳せる。学ぶ側から教える側になっても、こういう感情は浮かんでくるものだなぁ、と。高校の恩師(あの人)も、こんな気持ちで生徒たちを送り出してきたのだろうか。ふと、そんなことを考えてみる。

 

 再び窓の外を見る。中庭の一角に人だかりができていた。あの中心にいるのは……さては瀬田だな。相変わらず、最初から最後まで規格外の人気者(王子様)だ。もうしばらく、あの人だかりでも観察するか。今日は、どうせ残っている仕事も多くない。

 

 ぼんやりと中庭のお祭りを見ながら、物思いに耽る。クラス担任として迎える初めての卒業式。とりあえずは、三年A組の全員をここから送り出すことができてほっとしていた。もう、悔いは無い。今までだましだましやって来た。けれどこの一年でもう誤魔化しきれないほど、大きな負の感情がぶくぶくと肥え太ってきていた。一生をかけても、高校の恩師(あの人)のように立派な人間にはなれそうもない。

 

「あおげばとうとし わが師の恩」

 

『仰げば尊し』。卒業の日に歌った、思い出の曲をふと口ずさむ。

 

「教えの庭にも はやいくとせ」

 

「恩師のような教師になりたい」、その志を持って母校を出てから七年。この歌にあるような教師像を目指していたはずだった。

 

「思えばいと疾し この年月」

 

 しかし実際は、生徒との対立を恐れ、生徒たちに迎合することで、何とか教師としての体裁を維持している。上司には「生徒から舐められるから直せ」と言われる始末。

 

「「今こそわかれめ」」

 

 ぼそぼそと呟いているだけだった声に重なる、透き通ったソプラノボイス。後ろを振り返った。

 

「いざさらば」

 

 一番の最後を歌い切った彼女は、ニヤニヤとしたり顔で後ろに立っている。

 

「先生、アタシたちのこと寂しくなっちゃった?」

 

「……」

 

 言葉が出てこなかった。急な教え子の登場に驚いたということもある。しかし、何よりも彼女が言ったことを否定もできなかった。

 

「あれ? 図星……だったりする?」

 

「……今井さん。そんなに大人を揶揄う物じゃないですよ」

 

「はーい」

 

 今井リサ。三年A組、出席番号一番。ウェーブのかかった明るめの茶髪に、うぐいす色の虹彩が映えるぱっちりと大きく開いた目。耳にはうさぎを逆さまにしたようなデザインのピアスを着けている。二年の時も担任だったし、まだ副担任をしていた頃も含めたら、一年生の時から知っている。とても印象的な生徒だった。

 

「今井さんは、どうしてここに?」

 

「ちょっと忘れ物しちゃって」

 

 何を忘れたのだろう、そう思っていると、彼女は窓に背を向け隣に立つ。ゆっくりと教室全体を見渡した彼女は、静かな声で言う。

 

「誰も、いない……」

 

 そう言った彼女の表情は、にこやかであるけれど、どこか萎れたように感じられる。

 

「……ええ」

 

 彼女の言葉に相槌を打つ。卒業生である彼女だ。やはり積もる思いがあるのだろう。

 

「ほんの少し前まで、たった数時間前までみんなここに座ってたのに。

 

『リサ、昨日の配信見た?』とか。『数学の課題、今日までってマジ? どうしよう……』とか。他愛もない、小さなことで盛り上がってたのに。

 

 先生来たら焦って席ついて、『出席を取ります。今井リサ』『はいっ!』なーんて……」

 

 最後の方は、言葉尻が震えていて。彼女は、天井を仰ぎ見る。

 

「終わっちゃった……」

 

 消え入るような声で彼女はそう呟くと、しばらく俯いた。こちらも、彼女も、口を開くことはない。沈黙の時間が少し続いた。

 

 しばらくして彼女は顔を上げた。目元が少し赤い。

 

「……先生。今まで、ありがとうございました」

 

 彼女からの、お礼の言葉。

 

「お礼を言われるようなことは、できていません。私は、皆さんの憧れになるような、立派な教師にはなれなかった……」

 

 今まで胸の中に収めておこうと思っていた弱音が、思わず口から溢れていた。それを聞いた彼女が眉を落とす。

 

「……すみません。しんみりとさせてしまいましたね。忘れてください。……改めて、卒業おめでとうございます。では……」

 

 こんな情けない大人の戯言なんて、彼女も聞きたくないだろう。ばつが悪くなって教室を出ようと歩き出した。

 

「そんなことないと思います!」

 

 足を止め後ろを振り返ると、彼女のキッと鋭い目線がこちらを射抜く。こちらは困惑して、彼女に尋ねた。

 

「そんなことない、とは……?」

 

「先生はさ。自分は立派な教師じゃない、って思っているかもしれないけど。アタシはそうは思わないよ」

 

「……なぜです?」

 

「アタシが進路にすごく悩んでいたとき、先生はすごく親身に相談に乗ってくれた。アタシが受ける大学を決めあぐねていたときにも、背中を押してくれた」

 

「そんなの、教師として当然で……」

 

「アタシが今笑えているのは、先生のおかげだよ。先生は自分のことを卑下しているけど、アタシには、そんなの関係ないから」

 

 彼女にそう言われたとき、急に恩師の言葉を思い出した。彼がよく言っていた、教師としての本懐。

 

『俺の生徒には、最後この高校を笑顔で卒業してもらうんだ』

 

 ……そうだ。囚われ過ぎていたんだ。彼のような、生徒に信頼される立派な人間性を持った教師という像に。自分のことしか、見えていなかった。

 

「ああ、そうです。全くその通りだ」

 

 生徒に言われて、初めて気づくとは。……これじゃ、どっちが教わる身だかわからないな。溜まりこんだ負の感情が、サーッと晴れていく。いつの間にか、眼の前の彼女も柔和な表情に変わっている。

 

「先生、やっと笑ったね」

 

「……そんなに酷い顔をしていましたか」

 

「そりゃもう」

 

「面目ない」

 

 二人でしばし笑った。久しぶりに、自然に笑えた気がした。

 

「じゃ、先生。アタシもう行くね」

 

「そういえば、忘れ物をしたのでは?」

 

「あー……。もう、忘れ物は無いから」

 

 一瞬目を逸らして、そう返答した彼女は、タッタッタッと扉の方へ向かう。ウェーブのかかった茶髪が、左右に揺れた。扉の前で立ち止まった彼女は、再びこちらの方を向く。

 

「先生。本当に今まで、ありがとうございました!」

 

 満面の笑みを浮かべて、彼女がそう言った。今度は、こちらも。

 

「卒業おめでとうございます。そして、ありがとう……」

 

 

 


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