そして七深は孤独になった。

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第1話

 

 

 美術室の扉を開けた七深を待ち受けていたのは、日ごろめったにみないような、月ノ森生にあるまじきお祭り騒ぎだった。もっとも、クラスメイト達のにぎやかな声は扉越しにも聞えていたから、すごい盛り上がってるなぁとは思っていたのだが、壁というベールを剥がされ露わになったこの喧噪のほどは、はじめてゲームセンターに遊びに行ったときの衝撃を思い出させるような騒々しさだった。

 

 一歩足を踏み入れれば、人いきれで暖められたぬるい風が顔面にぶわりと吹き付けてくる。

 だが、七深にとって、その生暖かい風は決して不快ではなかった。むしろ、クラスメイトたちの熱狂のその断片を味わった七深の目は、お気に入りのアロマを嗅いだ時のように柔和に細まっていた。いいなぁと思う。そこには、七深が求めてやまぬ青春の芳香が、学生というアロマディフューザーの力で教室いっぱいに広がっていたのである。

 

 ただ、いくらお祭り騒ぎだとはいえ、そこはお嬢様学校の生徒であるから、教卓の上に飛び乗って暴れているとか、殴り合いの乱闘になっているとか、机と椅子をバリケードにして先生を待ち構えているとか、そんな不良高校のようにはなっていない。精々、普段のお喋りに興奮のスパイスがほんの少し加えられ、時折、ポップコーンが弾けるように大きな声がこだまする程度である。しかし、そんなささやかな盛り上がり方であっても、普段の大人しい月ノ森生の姿に鑑みれば十分に羽目を外しているといってよかった。もし、厳しいと噂の新理事長がここを通りかかったならば、強烈な叱責が待っているだろう。「月ノ森生としての自覚を持ちなさい」と口酸っぱく言われるはずだ。

 

 七深は、焼け石に水だとは思いつつ、音が漏れぬよう念入りに扉を閉じてから、当然の成り行きで、賑やかな声のする方へと目を向けた。騒ぎの震源地は、教室の前方――黒板の前に蟠る一群である。教壇の上から落ちたら失格とばかりにひしめき合っているその女生徒たちの群れは、黒板の中央に貼られている一枚の小さなプリントを仰ぎ見ながら、それぞれが思い思いの感情に身を浸していた。

 

 水面にふつふつと湧き出る水泡のように、彼女らの顔にさっと浮かぶ喜怒哀楽……。七深は、春先のニュースでよく見る、入試の合格発表の映像を思い出した。自分の番号を見つけ抱き合って喜ぶ親子。がっくりと項垂れる学ランの男子。信じられないとばかりに口を覆う少女……。張り出された掲示を前に受験生たちが織りなす、興奮と悲嘆と驚愕とがない交ぜになったあの目まぐるしい渦巻きと、いま目の前に広がっている女学生たちの感情の氾濫は、感情の振れ幅においては、まさに瓜二つといってよかった。

 

 人生がかかった合格発表と同じくらいに、彼女たちを熱狂させるもの。七深が立っている場所からでは、皆の視線を一手に引き受けるそのプリントに何が書かれているのかは見えそうもない。かろうじて読みとれるのは、それが文書でなく、文字を閉じ込めたたくさんの長方形が半円状に広がっている図だ、ということだけである。

 

 しかし、見えずとも、七深にはそのプリントの正体がすでに分かっていた。それこそ、教室に入る前から、今朝の時点で分かっていた。

 その正体――それは、美術室の座席表だった。今日は二年にあがってから初めての美術の授業で、生徒たちが一学期の間に座るべき座席が発表されているのである。

 

 扉が開いて、また新たに二人の生徒が入って来た。同じ部活に所属し、始終行動を共にしているその二人は、教室内の喧噪にすぐに気がついて、砂浜を走るカップルのように仲良く手を取り合いながら黒板の方へと駆けてゆく。

 

 その後も、次々と生徒がやって来ては同じように黒板前へと引き寄せられ、座席表周辺の人だかりはみるみるうちに膨れ上がっていった。素直に着席している生徒はほんの数人で、ほとんどの生徒が、いくら見ても見飽きない名画を見るように、その白いプリントに身体を縫い付けられその場から動けないでいた。中には、教壇から押し出されまいとして、膨張する群衆と押し合いへし合いしている生徒もいる。入試の合格発表というより、もはや、ハリウッドスターが到着した空港ロビーの方が近しいかもしれない。

 

 一方で七深はといえば、座席表に群がるでもなく、かといってさっさと席を確認して座るでもなく、美術室に入って来たときのまま、扉の横でじっとこの殷賑を眺めやっていた。

 

 相も変わらず人でごった返している黒板前では、熟達した花火師たちによる花火大会が催されている。中空に間断なく打ち上げられている、色とりどりの感情の花火……。勢いよく爆ぜるその花々たちのどれひとつとして同じ色、同じ模様のものはない。七深は、ポリクロモスの120色鉛筆の缶を初めて開いた時に相見えたような、圧倒的な色彩の乱舞に軽い眩暈すら感じた。花火の光に照らされた夜空が刹那の間ぱっと明るむのと同じように、くすんだ日常が、その極彩色の花々によって鮮やかに彩られていた。

 

 七深はただ見ていた。日常のキャンバスにさも簡単そうに描かれた、生々しい青春の絵画を。

 ――いや、正確にいえば、このときの七深には見ることしかできなかったのだ。

 

 それは、新しいクラスで七深に友達がおらず、あのお祭りに参加しても誰にも相手にされないだろう、ということではない。

 確かに、七深は人づきあいが苦手である。そのことは自分でもよく分かっている。ただ、人付き合いが苦手だとはいっても、月ノ森に長く在籍しているだけあって知人自体は多いし、人気者の透子とバンドを組んでいるということもあって、クラス内での立ち位置はちゃんとあった。別に、学校で誰とも話さないひきこもりちゃんではない。あの人ごみに飛び込んだとしても話す相手はいるし、無難にその場をやり過ごすことぐらいはできる。クラスメイト達と同じように、自らの座席で一喜一憂することができる。あの色とりどりの感情を宿すことができる。

 

 でも、どんなに同じ感情を真似てみても、同じ動作を真似てみても、いつも何か違った。七深の喜びとクラスメイトの喜びはどこかズレていた。その一切が同じ色であるはずなのに。七深は決してみんなの輪の中には入れなかった――。

 

 

 やがて、授業のチャイムが鳴り美術の先生が入って来ると、黒板前の一団はすぐに注意を受け、蜘蛛の子を散らすようにそれぞれの座るべき席へと戻っていった。

 教壇の上を堂々と横切る先生の影からひょこっと顔を出したのは、教室の鍵閉めで遅れたつくしである。座席表で自分の席を確認したつくしは、そのままの足で七深のもとへぱたぱたと駆け寄って来た。

 

「やった! 席隣だったね。」

 

 にこりと笑ってそう囁くつくしに、七深も小さくピースを返した。

 

 つくしを先頭に、生徒たちの後ろをぐるりと回って席へと向かう。教卓の前方あたりを中心として半円状に配された座席は、さながら指揮者を軸に扇状に広がったオーケストラのようだった。机はなく、その代わりに三脚型のイーゼルが置いてある。寄りかかるべき机を失った生徒たちは、イーゼルを前にして所在なさげに椅子にもたれている。

 

 二人の席は窓際にあった。空いた二席のうちの一つに、つくしが座る。残りが七深の席である。

席は確かに隣同士ではあったが、座席が、半円状に広がっている特殊な配置となっている関係で、実際に七深が座ったのはつくしの斜め前で、半円の一番内側、ちょうど最前列となる場所だった。よほど体をねじらない限りは、つくしの影すら見れやしない。もし逆だったならば、絵筆を手にして懸命に奮闘するつくしの姿を見ることができたのに、と七深は残念に思った。

 

 二人の着席を確認した先生が、ぱんと手を叩いて注意を促す。

 

「今から挨拶をしますが、イーゼルがあるので起立は必要ありません。……では、日直の方お願いします」

 

 日直の号令がかかる。挨拶がすんで、授業が始まった。

 

 授業は、一学期の初めということもあり、一年間のカリキュラムの説明や授業の導入が主なようだった。一学期の授業スケジュールが黒板に大書され、デッサンから油絵へと進む道程が示される。続けて、実践だけでなく、学期の後半には座学や筆記試験もちゃんとあるだとか、評価基準は絵の巧拙だけではないだとか、そういった類の話がつらつらと並べられてゆく。

 

「みなさんにはこれから油彩画に挑戦してもらうわけですが、そのためにまず、こちらの油彩画セットを購入していただきます」

 

 先生がカラーの注文書を高々と掲げた。

 

「強制ではないですが、基本的には全員に購入してもらうことになると思います。お姉さんが過去使っていたものを貰ったり、オークションサイトで買ったりするのはおすすめしません。絵の具の残量が少なかったり、筆が痛んでいたりしますから」

 

 そこまで言ってから、先生は、生徒を端から端まで見渡した。

 

「まぁ、美術部に所属している人や、家に山ほど画材があるという人は買わなくても大丈夫です。自分のお小遣いで買うという人はいないでしょうから、ご家族と相談して決めてください」

 

 家に山ほど画材がある、というところで七深は反射的に自宅のアトリエを想起していた。あそこには、新品の絵具や筆がまだ残っているはずで、油彩画セットを買う必要はなかった。だが、たとえお小遣いをはたいてでもそれを購入しようと、すでに七深は決めていた。

 

 スーパーの特売チラシみたいな注文書が回されると、続けて、七深も使っていた、黒と黄のチェック柄が特徴的なスケッチブックがダンボールから取り出され、美術係の手で各人に配られた。名前を書くようにと指示が飛ぶ。七深も、他の生徒と同じように、この時期に欠かせないネームペンを取り出して裏表紙に名前を書いてゆく。

 

 室内は、しばらくの間、つるつるした紙の上をネームペンが滑走するキュッキュッという小気味良い音に占められた。

 

 名前を書き入れた七深は、己を囲うように設置された無数のスピーカーの中で、一つだけ違う音を発しているスピーカーがあるのに気がついた。七深の隣から――といっても、つくしとは反対側の隣から――紙とシャーペンとが擦れ合う、ノコギリで木材を切る時のような音が聞こえてきたのである。

 

 隣の席の様子を自らの肩越しにちらりと盗み見てみる。そこに座っているのは、今年初めて同じクラスになった女生徒だった。名前は、確か……大井さん。銀縁のシンプルな眼鏡をかけ、長すぎない髪をオールバックのポニーテールでまとめた、いかにもお嬢様学校然とした真面目そうな人だ。自己紹介で生徒会に入る予定と言っていたような気がする。

 

 大井さんはスケッチブックを膝上に載せ、それを下敷きにして、メモ帳にシャーペンを走らせていた。黒板と手元とを頻繁に往復する目線から、板書された内容を写しているのだろう。つくしなどとはまた違った種類の真面目さである。横にこういう人がいると、なんだか自然と背筋が伸びてしまう。

 

 先生は初めと同じように手を叩いて、生徒たちの視線を集めた。こほんと咳ばらいを一つして、子供向けの絵画教室よろしく、まずは描いてみましょうと言葉を継ぐ。

 

「デッサンについては、1年生の時にも少し触れましたね? 今日は絵を描く感覚を取り戻してもらえればと思います」

 

 今日はこのままデッサンに挑戦するらしい。題材は己の手のひら。ポーズは自由。絵の出来も成績評価に入れないので、気を楽にして描いてほしいとのことだった。

 

 生徒たちの間に、どことなく白けた空気が伝播してゆく。七深にとっては意外なことなのだが、大体の高校生は、座学以外を嫌がるのである。ただ座って先生の話を漫然と聞くよりも、体を動かしたり、楽器に触ったり、工作したりする方が刺激があって面白い気がするのだが、彼女たち曰く、普段と違うことに取り組むのは面倒くさいらしかった。今回に限っては、下手な絵を描いたとしても成績には響かないが、筆を放り出すようであれば授業態度は減点されてしまうだろう。みんなそのことは良く分かっていて、寝足りない朝、目を擦りながらしぶしぶ布団から出るときのような、ゆるやかな怠惰と共に、スケッチブックをイーゼルにかけ、ペンを片手に自分の手をしげしげと眺めだした。授業時間残り30分。少なくともこの間は、彼女らは画家でいる必要がある。そしてそれは、七深も例外ではない。

 

 絵を描くということ――かつては愛し、そして遠ざけるようになった行為――。

 コンクールで最優秀賞をとったときのことは今でも克明に覚えている。とめどなく降り注ぐ嫉妬や羨望のまなざし。作品が完成するたびに互いに見せ合い、気ままに批評を交わしていた友人からの拒絶。審査員に七深の父の知り合いがいたのだという根も葉もない噂。当てつけのような称賛。扉の向こうで囁かれる陰口。

 

 七深の生みだした絵は、まるで感染症のウイルスみたいに、七深もあずかり知らぬところで他人の心に入り込み、何らかの症状を発現させていた。様々な感情が七深に向けられた。そしてそのどれもが、あなたは私と違うと語っていた。

 

 気がついたときにはもう、七深は特別な世界に追いやられていた。普通ではない者の住まう、孤独な世界に。

 

 こんなはずじゃなかった。絵は――芸術は、人と人とを結ぶ懸け橋になってくれるはずだった。だって、父がそうだった。父の彫った作品の周りには、いつも人の笑顔で溢れていた。

 まるまると太った木彫りの猫……長い舌をだらんと垂らした犬の首像……手のひらサイズのデフォルメされた動物たち……。父の手によるそれらの作品は、美術館で批評家たちに遠巻きに検分されるのではなくて、お店の入り口に座ったり、どこかの家のインテリアになったり、子供たちの手に収まったりと、常に日常の中にあった。家の応接間で父の手から作品を渡された人の、あの弾けるような笑顔。父の芸術は人に寄り添う芸術だった。何でもない日常に小さな羽飾りをつけてあげる芸術だった。初めて筆を握った時から、七深は、父のような作品を創りたいと思っていた。

 

 ……でも、ダメだった。七深の芸術は、七深の伸ばした手は、普通ではなかった。近づくものは次第にいなくなっていった。

 

 もし、私にこの才能とやらがなければ! 

 七深は、自らに備わった天稟を恨まずにはいられなかった。これさえなければ、友人たちと今も良好な関係を続けられていたはずだった。みんなが離れていくこともないはずだった。私が、普通の絵さえ描ければ、きっと、絵が自分と他人とを繋いでくれるはずだった。大好きな絵を通して、友人と笑いあえるはずだった。だけど、そうはならなかった。

 

 入賞作品の展示期間が終わった後、七深は、返却された己の絵とアトリエでひとり向き合った。

その絵は、七深そのものだった。鏡と対峙するような心持ちでその自刻像を見たとき、七深はぞっとした。最優秀賞を獲った絵を描く際に参考にしたフィンセント・ファン・ゴッホは、拳銃による自殺で亡くなっていた。このまま絵を描き続ければ、早晩、自分もそうなるかもしれない――。七深は、普通ではないものが辿る末路を、その目に確かに映したのである。

 

 それから七深は、描いた絵を全てアトリエの奥に葬った。描くこともやめた。筆をとる必要があれば、線を歪ませ、遠くのものと近くのものをない交ぜにした、めちゃくちゃな絵を作るようにした。そうしていれば、美術の時間は普通でいられた。

 

 だけど、遥か昔にそうして死んでしまった絵を、救ってくれた人がいた。モニカのみんなは、この普通じゃない絵を受け入れてくれた。七深の才能を知っても、離れないでいてくれた。

 

 だから、今の七深は、もう描くことを恐れなかった。すごい作品を描こうなどとは思わない。ただ、自分の絵に、自分が描くものに対して真摯でありたい。思うままに描く勇気を、今はちゃんと持っている。

 

 鉛筆を握ったまま、白いスケッチブックに手をかざす。指先は、ライブ前の観客のように、開演を今か今かと待ちかねている。この手を描こう、と七深は思った。手は、己自身を模写するためにゆったりと踊りだした。

 

 

「――ななみちゃん!」

 

 肩を叩かれ、はっとして振り返ると、心配そうに眉を下げたつくしの顔が目の前にあった。真冬の寒い日に、外から帰ってきて暖かいストーブの前に座った時のように、失われていた身体の感覚が、じわりじわりと戻って来る。我に返った七深の耳がチャイムの残響を捉えた。目の端にも、帰り支度を済ませ席を立つ生徒の姿が見える。あまりにも絵に集中していたために、授業の終了にすら気が付かなかったのである。

 つくしが、ぐいっと首を伸ばして七深の背にある絵を見た。目を見開き、えっ、と驚きの声を上げる。七深は慌てて人差し指を口元に立て、静かにとジェスチャーをした。七深の事情を思い出したのか、つくしも、声を抑え込みごめんねというポーズをする。

 

 ふと、七深は、つくしが抱え持っているスケッチブックの束に違和感を覚えた。

 

「あれ? つーちゃんは鍵を開けなきゃだよね?」

「……あ! そうだ、私行かなきゃ!」

 

 つくしは、いつもの癖で周りの人のスケッチブックを集め、美術準備室に置いてくるという役目を率先して請け負ったのだが、教室の鍵を持っている以上、いの一番に教室へと向かわなければならないのだった。スケッチブックを投げ捨てるわけにもいかず、その場であわあわとするつくしに、七深は、私が持っていくよと声をかける。感謝の言葉と三冊のスケッチブックを受け取り、怒られない程度の早歩きで美術室を出ていくつくしを、頑張ってねーと見送る。

 

 一息つく。準備室に行こうとして、隣の生徒――大井さんが、まだスケッチブックを片付けていないことに気づいた。かなり集中している様子で、眼前の紙を、立ち合い直前の力士のように睨みつけている。

 

「あの……大井さん。良ければ、スケッチブック持っていくけど」

 

 おそるおそる声をかけると、真剣な顔つきがふやけたように緩んだ。

 

「ごめんね! 気付かなくて。……広町さん、だよね? ありがとう」

「いえいえ~。これからよろしくね~」

 

 大井さんがスケッチブックに手を伸ばして――力加減を間違えたのか、イーゼルごとばたりと倒してしまった。他のイーゼルにあたってドミノ倒しになることはなかったものの、存外大きな音が響く。

 準備室の奥にいる先生から「大丈夫ですか」と声がかかった。「すみません! 大丈夫です!」と大井さんが答えて、イーゼルを起き上がらせる。その間に、七深はイーゼルから滑り落ちたスケッチブックを拾った。ちょうど絵の描かれた方が上になっているせいで、その気がなくとも、大井さんの描いた手のひらが目に入ってしまう。お世辞にも上手とは言えない絵である。

 大井さんも絵を見られたことは察したようで、気恥ずかしそうに苦笑いを浮かべた。七深は何も言わず、スケッチブックを閉じて抱え直した。

 

 そうこうしているうちに、次の時間に美術室を使うクラスの生徒が入ってきた。時計を見ると、授業終了からもう五分も経っている。七深は、急いで準備室へと向かった。

 

 

 翌週の授業では、先生による軽い導入が行われた後、すぐにデッサンに取り掛かることになった。モチーフは、教室の中央に位置する丸机の上に置かれた果物である。かろうじて椅子ではないと言えるくらい小さなその丸机には、青い卓布を下敷きに、リンゴ、バナナ、マスカットの信号機コンビが載っていた。やや離されたこれらの果物の、どれか一つを選んでデッサンするのが、今日と次回の授業内容である。

 出来上がったものは成績評価にも使われるとのことで、生徒達も、先日とは違って真面目な顔つきになっていた。

 

 三つの果物を一瞥した七深は、ふむふむと思案したのち、バナナを描くことに決めた。清涼飲料水を買うと期間限定でついてくる、果物いぬキーホルダーが昨日やっと集まったところで、最後に手に入ったそれがまさにバナナだったのである。三日月のようなバナナの円弧をハンモックに、優雅に寛いでいる犬のキーホルダーは、集め終わったという達成感も相まって、全七種類の中でも特にお気に入りだった。

 

 バナナは、果物の一番端、丸机の角にぎりぎり触れないくらいの位置に横たえられていた。描くものはバナナだけとはいえ、陰影をつけなければいけないから、不自然にならぬよう少しは机を描く必要がある。

 この位置関係だと、机の端まで描写しないといけないだろうか、というよりもむしろ、バナナを描くだけではどうにも味気ない。デッサンは着色が無い分、構図を工夫する必要がある。せっかくなら、丸机の大きい弧とバナナの小さい弧とを対比させて、空間的にはズレつつ、形は一致しているというこの奇妙な調和を主題としてみたいなと七深は感じた。

 

 だとすれば、二つの弧の比率を間違えるわけにはいかない。

 できるならばデスケルを使いたいが、今はないし、皆が持っていない道具を使うつもりも無かった。代わりに、直観力を養うためにと言われて母に教わった方法――鉛筆をたて、片目を瞑り比率を測る方法を試してみる。

 

 モチーフと正対すれば、不要な物象はこの世からすぐさま消え失せた。あるのは、白い壁と描くべきものだけ。

 入り方が一番大事だ。まずは、輪郭を鮮明に彫り出してくれるFの鉛筆から。統一感を失わぬよう気を配りながら、一つ一つの居場所を決めてゆく。机の弧の最もせり出しているところ。バナナのヘタの頂点と、しゃちほこの尾のようにピンと反り立つ先端。結論は、すぐには出さない。全体を見ながら、少しずつ同時並行で進めてゆく。

 感覚的には謎解きゲームに近いのだと思う。各所に残した輪郭の手がかりを慎重に結びながら、ひとつの答え――完成図を目指してゆく道のりは、次々と謎を解いてゆき、その集まった証拠たちが繋がってある一つの大きな謎の答えに辿り着く、謎解きゲームのあの流れとよく似ていた。

 

 十五分ほどで、シルエット取りと陰影のエリア分けが終わった。ここからは、全体の印象を気にしながら、調子をのせて描き込んでいかねばならない。筆箱から2Hの鉛筆をとると、当の鉛筆くんは見事なキノコヘアーを黒々と光らせていて、削る必要があった。

 

 鉛筆を整える場所は教室の前方に設えられていて、カッターも借りられるとのことだった。七深は席を立ち、イーゼルの木々をよけてその方へ歩いていった。

 故意に見るつもりはないのだが、イーゼルに身体が当たらないようにすると、自然と視線がイーゼルへ――そして、そこにかかっているスケッチブックへと向いてしまう。まさか目を閉じるわけにもいかず、七深の記憶のフォルダには、クラスメイトの絵がどんどん保存されていった。

 

 鉛筆の毛先を慎重にカットしながら、何とはなしに絵を描く生徒達を眺めていると、七深は、この座席配置が、極めて明晰な秩序によって整然と並べられていることに気が付いた。脳内にあるクラスメイトの絵と座席を照合してみる。……間違いない。

 席順に隠されたひとつの法則――。それは、席と絵の巧拙との対応だった。年輪のように、複数の半円が重ねられたこの座席の、一番内側の席に絵の上手い人たちが集められていたのである。それだけではない。絵の上手い人の両脇には、必ず、クラスの平均よりも絵の下手な人たちが座っていた。

 

 たかが座席といえども、先生が作成してきたからにはキチンと考えられているのだな、と七深は感心した。上手い人を内側にというのは、自身の絵を覗き見られる位置にいる生徒をなるべく絵の上手い人、見られてもメンタルに影響のない人にしようという配慮だろう。また、上手い人の隣に下手な人を置くというのは、困ったとき、近くの人が見本になるようにという意図だろう。こうした座席にしておけば、初歩的な事柄は真似て勝手に覚えてくれる。

 

 削り終えて席に戻るとき、隣に座る大井さんの絵がちらと目に入った。

 彼女のモチーフはリンゴだった。といっても、ほとんど描けておらず、自信なげな線が新雪の上で駄々をこねているだけで、リンゴの円形を描くところでもう挫折している。細かい弧から出発して、石橋を叩いて渡った旅路から帰って来たころには、円は歪み、出発点と終着点の帳尻が合わなくなっている。最初から輪郭を描きだすのではなくて、まずは簡単な図形でシルエットを掴んだ方がいい――心に浮かんだそんな助言を、喉元で押しとどめた。自分の特異性をひけらかすことはしたくないし、大井さんと、そこまでの関係を築けているわけでもない。

 

 それでも、何か力になりたかった。もしかすると、同じクラスになったつくしの影響かもしれない。

 

 スケッチブックをめくる。新しいページに、卵のような楕円を大雑把に書き入れる。底辺――地面と接するところに横線を引いて、重心を明確にする。こまかい起伏は追わずに、簡略化した線だけで形をとってゆく。意識を隣に向ける。多分、見てくれている。

 へたは、今は仮置きで良い。遥か彼方を飛ぶかもめじみたYの字の上に、斜めに筒をのせた。大まかな位置を決めさえすれば、あとはどうにでもなる。

 リンゴの中を十字で四等分する。これで陰と日向とが分かりやすくなる。先に、下半分に影をつける。タッチはなるべく直線的に。一本道を往復するように。光が左上から当たっているから、第四象限は最も濃くする。上半分はヘタの周りだけ濃度を高めて、あとは薄墨の濃さ。なんとなくだがリンゴの形が浮かび上がってきた。隣の席の進捗を窺いながら、ゆっくりと書き進める。

 

 チャイムが鳴りだした。大井さんはまだ描いている。つくしを送り出して、自分のスケッチブックは置いたまま、周りの生徒のを集めて大井さんを待つ。次の授業まであと三分のところで、ようやく先生に声をかけられるまで、大井さんは描き続けていた。

 

 

 一週間後、生徒たちは、またこの美術室に集まった。

 果物のデッサンは今日の授業終了時に集めることになっているので、部屋の中には、新年度早々、試験前の緊迫感が漂っていた。もしここで完成できなかった場合は放課後の時間を使って作業してもよいとのことだが、期限を守れなかったということで減点になるそうだ。成績はともかく、放課後の時間を美術の授業に費やしたい生徒は誰もいないだろう。特に、部活動をやっている生徒なんかはその代表格で、この大事な時期に部活を休むわけにはいかないと、締め切り直前の漫画家もかくやというような筆振りを見せていた。

 

 授業開始から十分ほど経ったところで大井さんの手がピタリと止まった。

 彼女の絵は今どうなっているだろう。初めのころは七深のコントロール下にあったが、ここまで進んでしまうと見当もつかない。まるで、目隠しをつけたまま通学路を歩いているようだ。玄関のドア、見知った交差点、駅の改札。壁伝いに歩いてゆけば、ある程度のところまでは進めるかもしれない。しかし、一度手がかりを見失ってしまえば、もう元のルートには戻れない。大井さんの絵は、コンクールで入賞するような名画になっているかもしれないし、子供の落書きになっているかもしれなかった。

 

 七深にできることはもう何もなかった。デッサンは引き算の美でもある。ここで七深が何かを追加してしまえば、大井さんも真似てしまうかもしれない。初心者は陰影を描き込みがちだから、何を描こうか迷うくらいなら手をつけない方がいい。

 

 こうして生徒たちが描いている間、先生は、生徒の席を巡回して、都度細かい助言をしていた。先週は悩んでいる生徒や手が止まった生徒に対して散発的に声をかけていたが、今日は提出日ということだからなのか、ひとりひとりに順番にコメントをして回っている。

 

 とうとう大井さんの番になった。

 

「よくできていると思います」

 

 大井さんの隣に立った先生は、開口一番にそう褒めた。

 

「リンゴのサイズ感が画面と合致していて、陰影もパリッとしているので、どこに置かれたどんなリンゴか、というのが伝わってきます。ただ……陰影をつけるときに色のムラができてしまっているので、もう少し鉛筆を寝かせて繊細に描写するとより良い仕上がりになると思います」

 

 先生は、自ら鉛筆を持って見本を示した。大井さんは大きく頷きながら、先生の手先を脳裏に焼き付けようと凝視している。

 高評価を貰えたようでよかった、と胸をなでおろしたのもつかの間、次は七深の番であった。先生と目が合って、小さく会釈をする。絵をちらと見た先生は、おや、と首を傾げた。

 

「広町さんは、バナナをモチーフにしていると記憶していたのですが」

「ええと……。最初はバナナを描いていたんですけど、なんかちょっと違うなと思って」

「……そうですか。中々面白い構図だなと思っていたので、残念です」

 

 先生はそう言って、隣のつくしの絵を見に行った。ふいに、こちらの講評の様子を気にしていたらしい大井さんと視線が交錯する。何か意思が込められている瞳……。気にはなったものの、七深はそのまま自分の作業へと戻った。

 

 

 提出は、授業終了五分前だった。美術係が全員のスケッチブックを回収していく。基準を揃えるために今回はこうした形で一斉に集めるのだろう。

 

「これにて授業は終了です。今週末からゴールデンウィークに入りますが、皆さんにひとつ課題を出したいと思います。次の授業までに、油絵の題材となる風景を見つけてきてください。インターネットなどの画像ではダメです。あなたの身近にある風景で、描きたいと思う風景を探してください。美術室で写真等を確認するのは認めませんので、余裕のある人、記憶に自信の無い人は、見本用に是非スケッチをしてみてください」

 

 先生がそう言い終わると、ちょうどチャイムが鳴りだした。号令がかけられ授業が終わる。

 

 さて、今日はつーちゃんと一緒に帰れるかな、とつくしの方へ意識を向けた矢先、リードをぐいっと引っ張るかのように、後方から七深を引き止めた声があった。

 振り返ると、声の主は大井さんだった。

 

「あ……広町さん。この後、ちょっと時間貰ってもいい……かな?」

 

 この後は昼休みなので、予定らしい予定といえばモニカのみんなとお弁当を食べるくらいしかなかった。10分程度なら遅れて行ったとしても支障はない。

 

「うん、私でよければ~。でも、できればあんまり人気のないところで話したいかなーって」

「それなら、芸術棟の反対側の踊り場はどう? ここからそんなに遠くないし、遠回りで帰るついでにって感じで」

「おっけ~。じゃあ、もう行っちゃおう」

 

 荷物をまとめながら、つくしにちらと目線をやる。こちらの話が聞こえていたのだろう。事情は分かったとばかりにつくしが小さな頷きを返してくる。

 

 大井さんと二人で教室を出た。教室に向かう生徒の流れとは逆方向、音楽室や書道室などが集まるこの特別棟の端の方へと歩いてゆく。

 

 静寂に包まれた、人気のない廊下――。放課後になればまた違うのだろうが、お昼時にわざわざこの特別棟にきている生徒もおらず、眼前の廊下は、古びたアーケード街のような佇まいを持していた。廊下の向こうまで何の障害もなく見渡すことができる。

 

 天井から吊り下げられた四面ランプの光も甚だ弱く、その黄ばんだ光はほとんど感じられない。代わりの光源といえば、左の壁に立ち並んでいるアーチ状の細長い窓ガラスから差し入った太陽の光で、薄暗い廊下には、その太陽光によって白いカーテンが何重にもかけられていた。目を眇めながらその眩い紗幕をくぐるうちに、二人は廊下の端に辿り着く。

 

 階段を先に降りた大井さんが立ち止まったのに合わせて、七深も歩みを止めた。膝を曲げ、片方の足を最後の一段に乗せたまま壁に背中を預けようとして、後ろに回していた手が、ふいに金属の手すりに触れた。

 ひんやりとしたその手すりの感触……。しかし、七深の熱が伝播して、その冷たさは、手のひらにちょこんと乗った雪のように、瞬く間に溶けてしまった。もう雪が残ってよい時季ではなかった。今日の最高気温が18度だから、今は大体、16度くらいだろうか。

 

「それで……七深さん。話したいことというか、一方的なお願いで申し訳ないんだけど……」

 

 大井さんがおずおずと話を切り出す。銀縁の丸メガネの中で、ここから出せと喚く囚人のようにきょろきょろと動き回っていたその目が、とうとう覚悟をきめて、七深の目と向かい合った。

 

「美術の時間に、私を助けてほしいの! もちろん、手取り足取り教えてもらおうってわけじゃなくて、困った時に相談させてほしいというか……。私、美術があんまり得意じゃなくて」

「いや~、そんなそんな。私だって、人に教えられるほどの腕前じゃないよ~」

「そう……かな? 後ろで見た限りだと、すごく上手だったし……」

「うーん……。でも、それならきっと、美術部の人に教えてもらった方がいいんじゃないかな。このクラスにも二人いるんだし、他にももっと上手い人はいるよ」

「私も最初、美術部の人にアドバイスをもらおうと思ったんだけど……、同じことを考えている人がいっぱいいて……」

 

 話を聞くうちに、段々と状況がつかめてきた。美術の授業を思い返してみると、確かに、美術部の生徒の周りが騒がしかったような気がする。無駄な私語でない助言などは容認されているので、さながら、お悩み相談室みたいになっていたのだろう。

 大井さんからすれば、席が近いうえにフリーの身である七深は、助言を乞うにはこれ以上ない人物というわけだ。

 

 空間一杯に膨らんだバルーンのようなその沈黙は、七深の言葉の針を待っていた。大井さんの唇が、二の句を継げようと動いて、しかし果たさずにきゅっと窄まった。これ以上の説得は逆効果だと思ったのだろうか。あとは七深の心に任せるとばかりに、黙したまま、縋るような目つきでこちらを見ている。

 

 かつて、友人から突き放された時の記憶――。あの底冷えするような感覚が七深の返答を詰まらせていた。

 

 ……でも、モニカは違った。

 大井さんはどうだろう。私の特別を知っても、離れないでいてくれるだろうか。

 

「——いいよ。私のできる範囲で……だけど」

「ほんと!? ありがとう、広町さん」

 

 顔を綻ばせる大井さんに、「大したことじゃないよ~」と微笑み返してから、忘れるわけにはいかない、大切な一つの条件を付け加えておく。

 

「私からもお願いがあって……。私が大井さんに絵を教えていることは、なるべく秘密にしておいてほしいんだ。そんなに上手いわけじゃないし、恥ずかしいから」

「分かった。なら、これは二人だけの秘密ってことで」

 

 

 ……教室へと帰る道すがら、早速、大井さんから相談を持ち掛けられる。

 

「先生は、ゴールデンウィーク中に油絵の題材を見つけろって言ってたけど、広町さんは、どういう題材がいいと思う?」

 

 「そうだなぁ……」と思考による沈黙の間を埋めるように呟いて、両親に教えられたことや、初学者向けの教本に書かれていたことを思い出してみる。何を描くべきなのという問いの答えは、大方、一つに収斂される。すなわち、当人が描きたいものを描くべきだという、非の打ちどころのない結論である。

 ただ、大井さんの欲している答えは、多分これじゃない。

 

「描きたいものを描くのが一番だけど……。あえて言うなら、静物――つまり、動きのないもので、尚且つ、大きなもの一つだけを題材にするのがおすすめかな~」

 

 「なるほど」と頷いた大井さんは、いつの間にやらシャーペンとメモ帳を取り出していた。これは下手なことを言えないぞ、と気を引き締めて、慎重に言葉を繋いでゆく。

 

「動きのあるものを描くのが難しそうなのは、なんとなく想像つくと思う。大きなものを勧めるのは、キャンバスに落とし込んだときに、モノが縮小して輪郭が大雑把になるからかな。ダンゴムシを描こうと思うと、足の一本一本とか、触覚とかを描かなきゃいけなくて、描き込みの精度もそうだけど、何より見る力が要求されちゃう」

 

 自身の思考の整理と、大井さんのメモ取りのために一呼吸おく。

 

「沢山のモチーフを画面に入れようとすると、構図が難しくなるから、一つの主題をどーんと真ん中に置いちゃおう。一年生のときの初回授業で、先生が大まかな授業方針を示してて……確か、感性を豊かにし心豊かな生活を創造していく、だったかな? 日常生活と美術との関わり合いに焦点が当てられてたから、なるべく身近な……生活に密接に関連するようなものを選べば評価も高い……と広町は予想します~」

「よくそんなこと覚えてるね……本当に美術の先生みたい」

「いやいや、偶然だよ~。それで、今何か思い当たるものはある?」

「ごめん……ないかも……」

 

 項垂れる大井さんを、まだ一週間もあるから大丈夫、と慰めているうちに教室に着いた。「家でじっくり考えてみるね」と意気込む彼女にエールを送ってから、モニカのみんなと合流するために、トンボ返りで再度教室を飛び出す。大井さんが素敵な題材と出会えるといいな、と七深は思った。

 

 

 五月に入り、ゴールデンウィークもあっという間に過ぎて、生徒たちはまだ夢心地の浮ついた表情のまま美術室に集っていた。

 まず配られたのは油絵セット。三種の筆、12色の絵具、ペインティングナイフ、パレット、油壷、ペインティングオイル、クリーナーが詰め込まれたスタンダードなものだ。道具について一通りの説明があり、続けて、美術準備室の中からP8号——A3よりもやや太ったくらいの白いキャンバスを順に取るようにと指示が飛んだ。

 

 なかなかに大きいサイズを選んだものだ。小規模のコンクールでは応募規格を8号以内にするところも多いから、中型と大型の分かれ目となるようなサイズで、決して小さくはない。五月の間に描き切って、残りは座学というスケジュールになっているのだが、かなりテキパキ進めていかないと終わらないだろう。

 今日の目標は、着色の基準となる下絵の描き込みと、手早い人は第一層の下塗りもということだった。

 

 新品のキャンバスを前に、何を描こうかと考えていると、早速、右肩をちょんちょんとつつかれた。

 

「広町さん。それで……題材のことなんだけど」

 

 修学旅行の消灯時間後に交わされるようなささやき声で話しかけてきた大井さんの手元には、彼女がいつも持ち歩いているメモ帳のある一ページが開かれていた。

 覗き込むようにして見てみれば、その無地の空き地のど真ん中には、堂々とした一本の立派な大木がそそり立っていた。これは、下から見た姿をスケッチしたのだろうか。木の根はなく、画面右下から突然現れた太い幹が、先細りしながら左上へと一心に背伸びをしている。天へ馳せ参じようとする幹は、しかし、到底届かぬままに画面中央あたりで息絶え、その先端部から、最後の悪あがきといわんばかりに四方八方に枝枝を広げていた。実際は少し低いところから生えている枝もあるのだろうが、幹の遠近感はしっかりしているのに、枝については奥のものと手前のものがごっちゃになっているので、枝の全てが先端から生えているように見えてしまう。枝の間には消しゴムで引きずったような染みが点在しており、恐らくはそれが葉っぱなのだろうと察せられた。

 

「家の庭にある木でね。ちょうど今ぐらいのこの木が好きなんだ。ずっと一緒にいるうちに、いつの間にか愛着が湧いちゃって……」

 

 それは、どうやら彼女にとってお気に入りの木らしかった。ならば、これを題材にするのがモチベーション的にもいいだろう。絵の出来はともかく、シルエットの単純さ、色味の単調さ、画面の占有感、生活との関連……どれも、七深の選考基準をクリアしている。

 

 指で輪っかを作って示すと、大井さんは安堵を顔に表し、自身のキャンバスへと向き直った。メモ帳に描かれた木は不格好ではあったが、あくまで下書きの段階であれば、あれをそのままキャンバスに写し取れれば問題はない。不安は残るものの、七深が依頼されたのはあくまで質問に優先的に対応することだ。これ以上はお節介になってしまう。

 

 後ろ髪を引かれる思いのまま、大井さんから目を離そうとした寸前、彼女の向こうにある窓からの景色が目の端に留まった。これから自分は、この景色を何度も見ることになるだろうという直感が七深の中を掠めていった。

 

 

 五月の気温も段々と上がって、高校生くらいの年齢だったお昼の気温も、お酒を飲んで良いくらいまでになった。先週までは比較的静かに進行していたこの美術の授業も、作業が本格化してくるにつれ、色の調合をしきりに確認したり、ため息のようなものが漏れたり、オイルが零れて隣の生徒にかかったりと、流石に騒がしくなってくる。

 

 大井さんの進捗は芳しくない。下書きに手間取って、今日の最初にも少しいじっていた。授業時間の半分くらいでようやくパレットを取り出して着色に取り掛かろうかという具合である。

 すると突然、先生が、大井さんの前で何かを思い出したかのように立ち止まった。

 

「大井さん。今日提出していただいた油絵の題名についてなのですが、あれはどういった意図でつけたタイトルなのですか?」

「はい。ええと……」

 

 先週の授業の最後、今回描く油絵の題名を来週までに考えてくるようにという宿題が出て、今日の授業の最初に、題名を用紙に書き入れて提出する時間があったのだった。

 大井さんはまごつきながらも何とか答える。

 

「その……“木”だな、と思いまして。シンプルな題名の方が分かりやすくて親切かな……と」

「そうですか……。シンプルな題名にも良さはありますが、このままだと、あなたが何を描きたいのか、何を伝えたいのかが伝わりません。題名も絵を形作る大切な要素です。そこには、あなたの思いをきちんとこめてほしい。だから、一週間の猶予を与えたわけです。あなたの名前だってそうでしょう? ご両親が、あなたのために考え抜いてつけてくれたはずです」

「はい……すみません」

 

 落ち込む大井さんに、先生がなおも追い打ちをかける。

 

「それと、あなたはかなり進行が遅れているので注意してください。今月は、放課後にも美術室を開けていますから、ルールを守っていただければ放課後に作業することも可能です。ぜひ検討してください」

 

 そこまでを淡々と言い連ねて、先生は他の生徒の元へと足を向けた。残された大井さんは、うつむいたまま、木の幹を塗るためにパレットに出していたバーントシェンナをペインティングナイフでぐるぐるとかき混ぜていた。氾濫した泥水が道路に溢れ出すように、踊り狂う滑らかなぺインティングナイフのその足もとが、次第に茶色の絵具に浸されてゆく。

 しかし、授業終了までにその茶色がパレットを飛び越えることはついぞ無かった。

 

 

 放課後、七深はモニカのみんなと合流するために正門近くの待ち合わせ場所まで顔を出してから、くるりと方向転換して校舎の中へと戻った。今日の練習に遅れて参加する、ということを誰かに伝えたかっただけなのに、随分と時間がかかってしまった。瑠唯や透子、ましろは別クラスなので、その行方が分からないのは当然だが、同じクラスのつくしまでもが担任の手伝いで見当たらないとは、完全に想定外だった。こういう時、校内で携帯電話が使えない不便さを身に染みて感じる。

 

 すばやく上履きに履き替えて、叱られない程度の速足でずんずん進む。授業終了から少し過ぎて、特に予定のない生徒が下校し終えたタイミングなのもあってか、校舎内は閑散としていた。

 だが、生命の気配のない都会でも、ブロックの裏にダンゴムシが、側溝にアリの群れが、壁の隙間にヤモリが貼りついているように、放課後の生徒達は、七深には見えぬ校舎の裏側の世界で人知れず躍動していた。家庭科室から聞こえる、歯をカチカチ鳴らすような金属音――恐らくはホイッパーとボウルとのつばぜり合いの音。「いにしへの――」と調子の乗った太い読み声。鍵盤を先頭に音階を昇降してゆく女学生たちの唱和。滑らかな床とシューズとが擦れ合う、キュッキュッという気持ちの良い音。

 

 校舎のそこら中に秘密基地が点在し、生徒たちはそこで、今まさに我が世の春を謳歌していた。たった一人、七深だけを取り残して――。いや、取り残したのではない。七深は、自らこの場にとどまったのだ。

 

 今までにも、部活に入るチャンスは何度かあった。高等部に上がるときもそう。月ノ森には高等部にしかない部活もあるから、進級して新しい部活に入り直す人も多い。だけど、七深は、目前に迫ったその踏切線を前に立ち止まってしまった。怖くて、跳べなかった。

 自分の特別を周囲に悟られないようにするなら、本気を出してはいけない。だから、勝負が介在する部活には入れなかった。実力を隠したまま、負けて泣きじゃくるチームメイトに寄り添う度胸は七深にはない。かといって、スイーツ研究会など、勝ち負けはないが簡単に技術が露呈するような部活も候補から外れてしまう。

 

 悩んだ末に、七深はある意味で何もしない部活――ホラー研究会に入ったのだった。

 七深の所属するホラー研究会は、月ノ森の中でも最もゆるい部活といっても過言ではなく、活動も自由で、大半が幽霊部員だ。今は卒業してしまった先代の部長がやり手だったらしく、活動実態はないのに部室まであるのだが、新しい理事長による鶴の一声で明日消え去ったとしても不思議ではない。七深の異端さがバレるリスクはないが、リターンも皆無。つまり、ほとんど部活に入らなかったも同然だった。

 

 もし、ほんの少しの勇気があれば。そんな虚しい空想を遊ばせているうちに、目的地に着いた。扉を開く。天然精油のヘアオイルみたいな美術室独特の匂いに包まれる。窓側――いつも授業で座る辺りには、予想通り、大井さんがいた。こちらの姿に驚いた顔の彼女と、軽く会釈を交わす。教卓の上にある入退室記録ノートに名前と時間を書き入れてから、イーゼルと椅子と自分のキャンバスとを取って、大井さんの横にセットした。

 

 「全然進んでなくて」と笑いかけると、口角を上げたままに縫い留めておく針が知らぬ間に取れてしまったかのような、曖昧な表情が返ってきた。

 会話らしい会話もないまま、黙々と作業を進めてゆく。大井さんと会話が弾むような間柄でもないが、そもそも、遅れている分を取り戻すためにやっているのだから、これがあるべき姿だった。周りに活動中の部活もなくて、美術室は静まり返っている。古びた時計が時を刻む音、吐息の音、風が窓ガラスを叩く音。……筆がキャンバスを滑る音は、未だ聞こえない。

 

 少なくとも、七深が来てから今まで、大井さんの手が動くことはなかった。

 相談を受けたものの責任として、流石にアドバイスしたほうがいいだろうか。躊躇いながら様子を窺っていると、大井さんとばったり目が合った。

 

「……ごめん。何となく気が付いてると思うんだけど、全然描けなくて。絵具の混ぜ方も分からないし、どこから塗りはじめようかなってずっと迷ってて……」

「広町的には、空から描きはじめるのがいいかな~って思うよ。絵具の混ぜ方は……一緒にやってみようか」

 

 一層目に塗るべき不透明色よりのコバルトブルーヒューと、混色用のパーマネントホワイトをパレットに出す。薄い色から濃い色へと混ぜてゆくのがコツだ。欲しい色になるまで、ペインティングナイフで少しずつ色を調合する。油壷のオイルに筆先を浸し、たっぷりと絵具を含ませれば、あとは豪快に塗るだけだ。

 

 七深も、大井さんを先導するようにして、情報の授業で何度も目にしたウィンドウズの初期壁紙みたいな鮮やかな空色で、真っ白なキャンバスを満たしてゆく。おっかなびっくりといった感じで、始めは慎重に筆を運んでいた大井さんも、この広大な空白を前にいつしか吹っ切れて、壁にペンキを塗りつけるような大胆さを見せるようになる。ムラなく塗らなくてもいい。絵具が広がって色味が変わるのも空に必要なグラデーションだ。

 

 油絵は乾かさないと塗り重ねられないから、取りあえず一層目を進めておかないと取り返しのつかないことになってしまう。空を塗り終えたら、間髪入れずに木の幹へ。

 

 よし、塗るぞ、とバーントシェンナを取り出した大井さんを慌てて諫める。実際に描いてみれば分かるのだが、茶色らしい茶色で塗った木の幹は、かなりチープな仕上がりになってしまう。それにこれは一層目だから、尚更暗い色で塗った方がいい。暗いところから明るいところを彫り出すのは簡単だが、逆は極めて困難だ。

 

 この色がいいよ、と教えるのは簡単だが、あまりにすらすら知識を披露するのもはばかられるし、彼女の成長にも繋がらない……。良いアイデアを探していると、ふと、油絵セットに同梱されている混色ガイドが目に入った。

 これだ。この混色ガイドの使い方が理解できれば、たとえ七深がいないときでも、好きな色を自分の手で作れるようになるはずだ。

 これを使ってみようよと提案して、二人で混色ガイドを開いてみる。

 

「たとえば……大井さん、なにか作りたい色はある?」

「作りたい色? ピンクとか……かな」

 

 ガイドと睨めっこしながら、星座早見盤みたいに円盤をくるくると回して、作りたい色を窓に表示させる。指示に従いながら、ああでもないこうでもないと試行錯誤してとりあえずできたのは、肌寒くなってきた晩夏にプールから上がってきたときの、あの青紫の唇みたいな色だった。七深も使ったのは初めてだから、中々どうして綺麗な色にならない。いくらガイドの手順に沿っても、望んだ色は作れなかった。

 

 最終的には七深がズルをして、色彩表とは若干分量を変えて絵具を混ぜた。

 パーマネントホワイトに、舞台幕でよく見るような深紅のローズマリーを混ぜてゆけば、パレットの上には、たちまち完熟前の艶やかな桃が出来上がった。

 その鮮やかで優しい色に、どちらからともなく「おぉ~」という感嘆が漏れる。揃って小さく拍手をして、顔を見合わせて、こんな小さな喜びに二人で笑いあった。

 

「今日は、来てくれてありがとう。私が先生に言われたこと、聞こえてたよね?」

「……うん。でも、私も一緒に作業する人がいたらいいなぁと思ってたから、お互い様だよ」

「なら、よかった」

 

 安心したように頬を緩めた大井さんは、七深から視線を外して中空に目をやった。

 

「私のつけた題名はね……『木』だったんだ。もちろん、適当に決めたわけじゃなくて、もっと候補はあったんだけど、直前で恥ずかしくなっちゃって……」

 

 確かに、相当シンプルな名前だねと七深は苦笑いした。名付けに困って、モノの名前それ自体を題名にするのはあるあるだが、それにしても短すぎる。

 

「あなたの名前も両親が考えてつけたものでしょうって……、小学生の頃の授業を思い出したな。自分の名前の由来を調べようってやつ。広町さんもやった?」

 

 うん、と七深は頷いた。己の名の由来……。父が考えた名前……。

 

 それは、無意識に、唇からするりと零れ落ちた。

 

「七色……なんだって、私の名前。どこまでも深い虹の色――。だから、七深」

「……素敵な名前だね。広町さんにすごく似合ってる」

 

 その言葉に、七深はうまく答えることができなかった。

 

 父が教えてくれた。『どんな人とも、どんなモノとも……何にだって深く繋がることができるように』つけた名前だと。その七色で、どんな人とでも仲良くなってほしいと。どんなことにも挑戦してほしいと。

 

 ――でも。

 

『広町さんはいいな。なんでもできるもんね』

『普通そんなことできないって……やっぱり私達と違うね』

 

 深い七色――どんな色にでもなれてしまう色。

 

 こんなにも的確に七深を表した言葉はなかった。そうだ。その七色で、七深はどんな色にでもなれてしまった。どんなことでもこなせてしまった。そしてまさにそれこそが、七深の異端たる所以だった。

 

 人には出来ることと出来ないことがあって、それぞれの色があって……。それが、普通なのだ。七色を持ち、どんな色にでも変化できてしまうというのは、普通じゃない化け物だ。化け物がいくら普通に溶け込もうとして、自分を調整して紛れ込んでも、人狼ゲームみたいにいつかはバレてしまう。

 雑誌に載っている人気映画の公開日を全部覚えても。話題のドラマランキングを端から端まで完走しても。見よう見まねで普通を演じて、みんなの輪の中で共に泣いてみても。いつもどこか違った。いつも他人とズレていた。みんなのいる世界は、ずっとずっと遠くにあった。どんなに精巧に色を混ぜたとしても、それは同じ色ではなかった。七深の色は、混ぜ物だったから。

 

 だから、普通になるためには、己の七色を削ってゆくしかなかった。何でもできる特別な女の子から、辛いものとおまけ集めが好きな、ただの女の子になるしかなかった。絵画の腕を削って。学力を削って。記憶力を削って。運動も、フランス語も、音感も削って。七色から単色へ。

 

 そうしてやっと、七深を受け入れてくれる場所が出来た。モニカのみんなの前では、少しだけ自由に色が出せた。自分を許してあげられた。ただの女の子から、ちょっと変わったところのある普通の女の子になれた。

 両親から貰った大切な名前。その名前が好きだからこそ辛かった。その通りに生きられない自分が恨めしかった。それでも……孤独な七色は、イヤだった。

 

 ……芳しくない七深の反応に、しかし大井さんは何かに気づいた様子もない。

 時刻ははや夕方になっていた。窓際の二人の絵は、窓から入って来る茜色の大きな筆に重ね塗られて、透き通るようなその二つの青空も、今や褪せた夕焼けに変わっていた。

 

 

「ごめんみんな! 遅くなっちゃった」

 

 七深が自宅のアトリエに着いた頃にはもう日も暮れかかっていて、モニカの面々も楽器を置いたまま、それぞれ寛いでいた。

 

「ななみ、おそーい。もしかしてサボりか~?」

「もう、説明したでしょ。ななみちゃんはクラスメイトに頼まれて残ったって」

「ジョーダンジョーダン、ふーすけもそんな睨むなよな~」

 

 つくしが庇ってくれるのは嬉しかったが、だいぶ話が盛られていた。成り行きを直接明かしていない七深のせいといえばそうなのだが、さもヒーローかのように扱われるのは少しこそばゆい。

 

「大井さんにアドバイスを頼まれたのはホントだけど、私も作業が遅れてるから行っただけだよ~」

「……ん? 大井? もしかしてそいつ、眼鏡かけてたりする?」

「うん。銀色のフレームで、ポニーテールで……」

「あ! あたし知ってるかも。去年同じクラスだったんだよね~。あたしらの学年に、大井って二人いるけど、名前がちょっと珍しい方でしょ……なんだっけ、()っさくじゃなくて、あ()()()でもなくて……。ちょ、ななみ! タンマタンマ、ここ、ここまできてるから!」

 

 口を開いた七深の眼前に、すかさずバツ印を突きつける透子。クイズ番組の制限時間ぎりぎりで適当な答えを連呼するタレントみたいに、次から次へと名前の候補を出すが、逆にどんどん答えから遠ざかっている。もう無理じゃない? という空気が漂い始めたころ、その暴走列車を止めたのは意外なことに瑠唯だった。

 

「人の名前で遊ぶのは、感心しないわ」

「遊んでるわけじゃねーし!」

 

 透子がいーっと歯を突き出して威嚇するも、どこ吹く風といった様子の瑠唯に「あれ?」とつくしが疑問を投げかける。

 

「るいさんって、大井さんと一緒のクラスになったことないよね。知り合い?」

「ええ。今年からだけど生徒会に入っているから、よく知っているわ。真面目で、勤勉で、一度理事長先生にも褒められていたことがあったわね」

 

 真面目で勤勉……大井さんにこそつけられるべき形容だ。座学ではいつも積極的に挙手をして答えているし、小テストでも満点以外を見たことがない。彼女が苦手なのは芸術系、それも特に美術だけだ。このままいけば指定校推薦も視野に入るような成績だろうから、上手に絵を描きたいという思いよりも、評定を落とすわけにいかないという思いの方が強いのかもしれない。もし、私の才能のほんのちょっとでも分けてあげられたなら……。それが出来ない以上、せめてできることはしてあげたいな、と七深は思った。

 

 

 ……翌週の授業で周りの生徒の進捗を見て、一か月でひとつの油絵を完成させるというのは、かなり酷な課題なのだと改めて感じた。クラスメイトたちも、完成度と速度とに巧妙に折り合いをつけながら進めている。

 一方、大井さんはその性格もあってか、中々次のステップに行けない。完璧主義ということでもないのだろうが、妥協ができないから、念入りに準備してからでないと取り掛かれない。そしてようやく始めたとしても、一つの工程にかなりの時間がかかってしまう。

 

 向かいの生徒なんて、青の彩度を落とすために黒を混ぜたものの、分量を間違えて出来たドブネズミ色のまま川を塗っているから、春の麗らかな川がまるで洪水のときのような川面の色になってしまっている。

 ほかにも、まるで形が歪んでいたり、色を取り違えたりと、なんだかんだでみんな適当だ。

 

 稚拙な美術館を巡る先生も、技術面に対して批難することはほとんどない。時折発せられる助言も、軌道修正を要求するものでなく、どうしていいか分からず戸惑う生徒に道を示す性質のものだ。

 初回の授業で採点基準は絵の巧拙だけではないと言っていたし、生徒のレベル感は分かっているのだろう。単純な技術だけでなく、授業態度やアイデア力も評価の対象になっているはずだ。

 

 何はともあれ、完成させなければ評価についていくら頭を捻っても何の意味もない。

 

 大井さんの絵は……放課後の時からそう変わらない。空や幹や葉っぱなどの一層目をじっくりと作っている。でも、ここからさらに二層目三層目と塗り重ねて、陰影や質感を作っていかねばならない。彼女のペースはこの教室で最も遅い。

 いっそのこと、一から十までを自分が……と七深は考えて、すぐに打ち消した。

 大井さんが七深の指示通りに描けばレベルの高い絵が完成するだろうが、その光景を先生が見たら、自主性はないと見做されてもおかしくない。

 

 結局、七深には、混色についてのアドバイスと、道具の扱い方を教えることくらいしかできなかった。

 大井さんと目が合う……。その目が、放課後の七深の予定を聞いている気がする。もちろん行くよ、と七深は小さな笑みで答えた。

 

 

 練習に遅れて参加することをつくしに伝達してから、美術室を目指す。ゆったりと歩く七深を、大量のビニール袋を手に手にぶら下げた生徒たちが意気揚々と追い抜いていった。何の部活だろう――。その後ろ姿は廊下の先の、そのまたさらに向こうへとどんどん小さくなってゆく。

 見送った七深の瞳には、しかし、横に並んだ刹那に彼女たちの口元に見えた真っ白な三日月が、残像のように張り付いていた。

 

 美術室にはまだ誰もいなかった。いつもの位置にイーゼルを立てていると、大井さんが入ってくる。マラソン大会の後みたいな表情……しかし、息は微塵たりとも切れていない。

 

 席に着いた二人は、言葉少なに作業を進めていった。

 自分の絵の進行も遅れているからというのは、先週までは半ば建前のようなところがあったが、大井さんの心配ばかりしているうちに、気が付けば本当に期限が危うくなってきた。

 

 七深の題材は“ここからの景色”だった。ここからというのは、つまり美術室のこと。大井さんの様子を見るために振り向けば必ず視界に入る、窓の向こうにある五月の中庭の景色――七深が書いているものは、まさにその景色だった。

 

 花壇には、春からのガーデニングシーズンに大はしゃぎの園芸部が植え付けた多彩な花々が咲いている。淡い黄色のキンギョソウ……こぼれるように咲くネモフィラ……気高い紫のベルフラワー……。そして、花壇に囲われた中央に突然にょっきっと顔を出して、スカイツリーみたいに周りを睥睨しながら堂々と胸を張っている、青々とした広葉樹。

 

 この中庭は、七深たちがいつも昼食をとっている場所だった。空いていれば透子が真っ先に確保するガゼボも、上から見るとターコイズブル―の指輪みたいで、描くのが楽しい。

 

 この景色を選んで結果的によかったなと七深は思った。元々、この景色を描きたくて選んだわけではない。依頼を受けたときから自分の絵は二の次で、窓からの景色を題材にしたのも、大井さんのためだった。

 

 後ろの景色を題材に選択しておけば、題材を確認する行為がイコール振り向くこととなる。何の用件もないのに後ろばかりみていれば変だが、理由があれば問題ない。

 七深は、大井さんをずっと見守るために、こうすることで合法的に彼女を眺める権利を得たのだった。

 

 事物を順々に描いていって、仕上げに、可憐なピンクのペチュニアを花壇の端に付け加えようとして……やめた。なぜだが、それを描かない方が良い気がした。

 

 

 ……二層目ができた。ふうと一息ついて、縮こまっていた肩をほぐす。とりあえずの色は置けたから、あとはこれをベースに描き込んでいくだけだ。

 

 視線を感じて振り向くと、大井さんがこちらを――正確には、七深の絵を見ていた。パレットに配された何色かの絵具は、チューブから出たときのまま手つかずでへばりついている。アドバイスを乞われたものとして――それ以上に、友達のために、七深は覚悟を決めた。

 

「大井さん。もしかして、描くのが……怖い?」

 

 眉がおびえたように震えたのが見えた。歪んだ唇から、「うん」とか細い声が漏れた。

 

「失敗するのが……怖いんだ。私の次の一筆は、たぶん、必ず失敗する。ここまで何とか描いてきたのに全部を台無しにしてしまう。それが、どうしようもなく怖くて、手が震えるの」

 

 大井さんが目を瞑った。外界を拒絶するように堅固に閉ざされたそのまぶたの裏には、きっと、壮麗な一本の木が生えているのだろうと思った。

 

「失敗しても、いいよ」

 

 七深の言葉に、「え」と大井さんが顔を上げる。

 

「油絵のいいところは、描き直せるところだと思う。透明水彩なんかだと、乾いたら修正の仕様がないけど、油絵なら削り取ったり剥離剤を使ったりできる。それにね、一度描き終えたキャンバスを、再利用することだってあるんだよ。上からまた下地を塗れば、新しい絵だって描ける――。そんなことができるくらい、油絵はやり直せる。だから、失敗したとしても、また何度だって描き直せばいいんだよ」

「でも……間に合わないかもしれない。それに、完成しちゃったら、もう直すことなんてできない」

「そんなことないよ」

 

 七深は決然と否定した。

 

「絵が完成して、提出して、それでも直したくなったら……二人で、夜の学校に忍び込もうよ。そこで夜中、満足するまで描き直そうよ。先生の評価が終わったとしても、大井さんが直したいなら、何度だって手伝うよ。だから、大井さんは、自由に描きたいように描いていいんだよ」

 

 最後に「本気だからね」と付け加えると、じっと話を聞いていた大井さんが、ふっと表情を和らげた。

 

「そうだね、失敗してもいいんだよね。何度だってやり直せば――」

 

 太陽を直視するときのように、すっと眇められたその瞳――。諦めのような、でも、立ち止まったことによって何か大切なものに気づいたかのような、たわんだ唇――。

 

 様々な感情が入り混じって、それでも確かに大井さんは笑っていた。感情の航海の果てに、彼女は笑顔へとたどり着いた。そしてその表情は、間違いなく七深が生んだものだった!

 

 吐く息が震えたのが分かった。吸った息がはちみつのように甘く蕩けていた。

 

 自分にも、誰かを救うことができた! 油絵を描いてきたことが、私の特別が、彼女を助けた!

 特別が相手を突き刺して傷つけることもなく、相手を怯えさせることもなく、自分のできることと、相手のできないこととが、凹凸が組み合わさるようにぴったりと重なり、互いを補い合うこと。これこそが普通だった!

 

 七深は幸福になった。世界は黄金色に輝いていた。

 

 しかしその幸福は、次の瞬間、無惨にも崩れ去った。

 

「すごいな、広町さんは。……才能のある人は、才能のない人の気持ちまで分かっちゃうんだね。私以上に、私のことを理解できちゃうんだね。私とは全然違う……。なんだか少し、ずるい気もするな――」

 

 心臓がどくんと波打った。するどい痛みを感じて、ぐっと胸元を抑える。

 

 また、同じだ。

 自分とは違うと決めつけて、宇宙人をみるかのような目で私を見る。私の物言いを、全部特別な含蓄があるように受け取る。私との競争を拒否する。私の言動を指摘しなくなる。私を邪魔しないようにと遠ざかってゆく。

 

 なんでだろう。どうしてだろう。私なんて、なんてことはないただの普通の女子高生だよ。ずるいことなんて何もないよ。みんなと違うところなんてどこにもないよ。私だって間違えることもあるよ。みんなと同じように、テストの点で勝負してテスト返却の日に笑いあいたいよ。私の作品も、ダメなところがいっぱいあるよ。私もみんなと同じところに入れてよ。

 

 灰色のノイズが世界にヒビを入れる。思わず逃げ出しそうになる。七深は、苦しみを必死に隠した。せめて大井さんの作品を完成させるまでは、私の特別が必要だった。

 

 やがて、大井さんのキャンバスには立派な木が現れた。初夏にふさわしい、緑をふんだんに蓄えた大きな木。これで提出したとしても平均点くらいはもらえるだろう。満足げな顔をして横に座っている大井さんが、七深には、遠く、遠く感じられた――。

 

 

 ……喉に何かがべっとりと貼りついているような、強烈な違和感を覚えて七深は目を覚ました。起き上がって試しに幾度か咳ばらいをしてみたが、ざりざりとした奇妙な感触がしつこく喉に残っている。喉を酷使した覚えもないのに、ヘンだ。嫌な予感がした。

 

 とりあえず洗面所に行って口をゆすぎ、うがいをしていると、寝起きの母があくびと共に入ってきた。「どうしたの?」と聞かれて症状を答えれば、すぐにソファーへと強制連行され、体温計を渡される。

 可愛らしい機種名の体温計をわきに挟んで待つこと30秒。ぴぴぴと声を上げた体温計を抜きだして結果を確認しようとしたその瞬間、後ろから伸びてきた母の手が、獲物を横取りする鷹のようにひょいっと体温計を奪い取ってしまった。

 体温の表示を見た母は、「あ~!」と抗議の声を上げた七深に、しーっと人差し指を立ててこう言った。今日は休みなさい、と。

 

 七深はそれはもう反抗期の少女のように抵抗した。今日は五月最後の美術の授業で、油絵の提出日だ。絶対に休むわけにはいかなかった。約束したのだ、相談にはいつでも乗ると。

 

 月ノ森に電話しようとスマホを手に取る母と決死の攻防戦を繰り広げているうちに父も起きてきて、流石に二対一では分が悪かった。それに、段々とめまいや熱感が募ってきて、なにより自分の身体がついてこなかった。

 

 ベッドで横になりながら、クラスのグループから大井さんのアカウントを探し出して、謝罪とアドバイスを贈ろうとして、すぐに意味がないと気づいた。もう彼女は学校についている時間だ。学校にいる間、彼女が携帯電話を触っている所を見たことがない。

 

 どうか上手くいきますように。どうか素晴らしい絵が描けますように。先週の放課後の段階でかなりの出来ばえだったのだ。手を加えなかったとしても、それなりの絵になるはずだった。薄闇の部屋の中、七深はただ祈った。

 

 

 次の日には体調もだいぶ良くなって、一日静養してから、七深はようやく学校へ行くことを許された。五月最終日。爛々と光る太陽に、生暖かい空気。道行く人の服装も、長袖のシャツや薄手のアウターなどラフなものが多かった。六月に入れば七深たちも夏服に着替えねばならない。

 

 教室に入ると、二日ぶりに会うクラスメイトたちから「大丈夫?」と声をかけられた。へーきだよと笑って返して、席について。となりのクラスからも、ましろと透子が様子を見に来た。つくしも加わって、四人でたわいもない話を交わす。だがその間も、七深の心は会話の表面を上滑りしていた。

 

 大井さんの姿は教室にはない。カバンはあるから、大方なにか用事があって席を外しているらしい。

 

 ……絵はどうなっただろうか。納得のいくものに仕上がっただろうか。

 

 ホームルームのために前の扉から先生が姿を見せる。少し遅れて、大井さんも席に戻ってくる。二つ右の列の、三つ後ろの席。七深は右後ろを振り向いた。大井さんを見た。目が合った。七深は、なにか表情を作ろうとして――。しかし大井さんは、すぐに目を伏せてしまった。号令とともに、七深は捻れた首を戻して立ち上がった。

 

 授業が終わってすぐに、校内放送で職員室に呼びだされた。待っていたのは美術の先生。この前の美術を欠席して提出できなかった油絵を、今日の放課後で完成させて持ってこいということだった。練習のない日でよかった。分かりましたと答えてから、道具を手に美術室へと向かう。

 

 森閑とした美術室で、一人作業を進めてゆく。花壇の日の当たる場所には明るい黄緑を。暗い場所には濃い緑を。草もひとつひとつが見分けられるよう、筆先を縦にしたまま、とんとんと優しく叩いて、波を重ねるみたいに連ねてゆく。遠くの花びらは筆先でちょんちょんと、近くの花びらはふんわりと。木の細かな明暗も忘れない。幹の日の当たる部分には白を乗せて、葉の上方にはうすくレモン色を乗せて――。

 

 題材は頭に入っているから、もう後ろを見る必要はなかった。じっと絵と相対して、イメージ通りになるよう描き込む。それでも七深は、いつもと変わらずそこに大井さんがいて、自分は彼女を見つめ続けているような気がした。当然だ。だってこれは、この一か月七深が繰り返し目にした、後方の風景だったから。

 

「ななみちゃん?」

 

 呼びかけられて顔を上げれば、不思議そうな顔をしたつくしが、キャンバスの向こうに立っていた。

 

「あ、つーちゃん。美術室に用事?」

「うん。油絵をとりにきたの」

 

 そう言って、つくしは美術準備室からキャンバスを取り出してきた。

 

「持ち帰らない場合は学校で処分しちゃうんだって。わたしは、せっかくだし持って帰ろうかなって。ななみちゃんこそどうしたの?」

 

 ことのあらましを説明すると、なるほどね、とつくしもしみじみ頷いた。その手元から、一枚の小さな紙がひらりと落ちる。両手がふさがっているつくしの代わりに、地に落ちたその紙を拾うと、それは題名を提出した時の用紙だった。中央にはタイトルが、そして右端には、6という数字と簡単な講評が書かれていた。成績だ、と七深は瞬時に察した。

 

「ごめん。見るつもりはなかったんだけど……」

「私が落としたんだし、しょうがないよ。拾ってくれてありがとう」

 

 キャンバスを胸の前に抱えながら、つくしが美術室を出て行った。階段で降りる時が心配な姿勢である。

 

 ……もう絵はほとんど完成していた。だが七深は、最後の一筆を描き入れぬまま、ずっと待っていた。

 

 扉がすべる音がした。大井さんだ。

 互いに言葉はなかった。胸の内で渦巻く思いは、何一つ形にならなかった。

 

 大井さんが準備室に入る。キャンバスを持ってくる。その端っこにセロハンテープで題名と成績が書かれたあの用紙がくっついている。

 

「……どうしてだろうね」

 

 呟くように、大井さんは言った。その表情にさざ波が走った。

 

「伝えたいものは、描くべきものは、全部、ここにあるのに。私には、それがはっきりと見えているのに。どうして私には、それを伝えることができないんだろうね」

 

 唇は初期微動のように震えていた、そこから発された声は、すでに張り裂けていた。

 

「見えている輪郭のままに、見えている色のままに描くことが、どうしてできないんだろう。そのまま写し取ることがどうしてできないんだろう。昔からずっとそうだった。私の絵はいつも伝わらなかった。いくら直しても結局は同じなんだ! 伝えたいものがあっても、私にはそれを、キャンバスの上で腐らせることしかできないんだ!」

 

 大井さんの手からキャンバスがこぼれ落ちた。

 仰向けに倒れたその絵は――酷い有様だった。

 

 木の幹は以前見た時と変わらないが、葉っぱの茂っている部分に、湿疹みたいな、赤黒い斑点が無数についている。多分、混色を間違えて変な色を作ってしまったのだろう。そしてその色を塗ってみて、まだ乾かぬうちに塗り重ねようとしてしまったのだろう。化膿した傷口のようなその滴りに、大井さんの焦りが色濃く表れている。直そうとして、でも、状況は悪くなる一方で……。かさぶたを無理に剥がして悪化してしまったのだ。

 

 成績は4点。赤点ギリギリ。講評には、「どうすれば相手に伝わるのか、考えるのが大事です」と書かれている。

 

「ごめんね。広町さん。あんなに教えてもらったのにね。私の絵は、誰にも伝わらなかった。私の心の中にある景色を……みんなには見せられなかった」

 

 

 キャンバスの前でしゃがみ込み、嗚咽する大井さん。

 先生……クラスメイト……。()()()その横を冷淡に通り過ぎてゆく。見るべきものは何もないとばかりに、そこにある一本の木に目もくれず、足早に去って行く。 

 

 でもね――。

 

『広町さんはいいな。なんでもできるもんね』

『普通そんなことできないって……やっぱり私達と違うね』

 

 私は、きっと、みんなと同じじゃないから。普通じゃないから。

 

『どんな人とも、どんなモノとも……何にだって深く繋がることができるように』

 

 私は、七深だから。

 

『すごいな、広町さんは。……才能のある人は、才能のない人の気持ちまで分かっちゃうんだね』

 

 私のこの七色は、どんなところにだって届くから。

 

 だからね。

 

 誰にも伝えることができずに、ひとり泣いているあなたの、その心の奥、深い深い底の、その先で――

 

 

 ――私には、見えたよ。

 

 

 孤独の果てに立つ、美しい――”葉桜”が。

 

 

 イーゼルから自分のキャンバスを下ろす。大井さんのキャンバスを拾って、代わりにセットする。パレットを軽く拭き、手が汚れるのもかまわず裏返した。普段絵具を置いている表面とは少し材質が違うが、絵具がのるならなんでもいい。

 

 目を閉じる。描くべきものは今やもうこの世のどこにもなく、見本は何もない。母が大量にストックしているコリンスキーの筆も、いつも使っているAシリーズのペインティングナイフもない。

 今ある絵具もぜんぶ廉価版で、下塗りもしてなくて、先生がもうすぐ様子を見に来るはずだから時間もなくて。

 

 でも、私なら。

 

 目を開く。先穂が二、三本に枝分かれしている豚毛の筆の、持ち手ではなくその根元をぐっと持つ。絵具の粘り気に負けないように、繊細な操作ができるように支え持つ。

 若々しい葉叢の間に残る赤黒いまだら、大井さんの失敗。大丈夫だ。だって、花を支える茎は、花柄はこんな色だ。花弁が散る前なんかは特に色が濃くなるから、むしろこれでいい。輪郭をととのえてやれば絶対に蘇る。

 新緑のビリジャンにイエローオーカーとホワイトを少々。筆の先にまで意識を行き渡らせて、傷口に絆創膏を貼るように、点在する赤黒い花柄を葉っぱで包んでゆく。大井さんは最後の工程として花柄をつけたがそれは間違いだ。花柄も葉っぱも同じところから生えているのだから同時に、混ぜて塗らないといけない。その順序を間違えてしまったから、彼女の花柄は浮いて、宙ぶらりんになってしまった。

 キャンバスに塗りつけた絵具を乾かす余裕はない。だから、ウェットインウェットで描くしかない。乾く前に塗り重ねるから、絵具の層が混ざってにじんでしまうが、逆にそれを生かしてしまえばいい。

 散らばった赤い宝石たちを、糸を通してネックレスをつくるように細い枝でつなぎとめてゆく。その接合部ははんだ付けみたいに、色と色とがじゅわっと溶けて混ざりあい、自然にきれいなグラデーションになる。

 

 そして最後にほんの少し、口紅を塗るように、勇気づけるように淡い桜色をのせた。

 

 大井さんが息をのんだのが、背中越しに分かった。

 

 春にはみんなを楽しませ、全力で咲き誇って、でも、花が散った後にはもう誰も立ち止まらずに通り過ぎてしまうその木。彼女だけに見えていたその木は――。

 

 ――ああ、こんなにも美しい。

 

 

 ……ゆっくりと振り返る。うずくまったままの大井さんは、目を見開いて、手の甲で涙の跡を拭って、とびきりの笑顔を見せた。七深もたくさんの想いを込めてはにかみ返す。

 

 大井さんに手を貸そうとして、ふと、七深は己の手のひらが目に入った。色とりどりの絵具で七色に汚れたその手のひら――。

 

 私は、普通にはなれないだろう。私は、永遠に孤独なのだろう。

 

 それでも七深は、その手を――その孤独な七色を、そっと差し伸べた。

 

 

 


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