季節外れの寒さと氷雨。暗く重い雲空に気分も陰る。
こんな日に限って思い出してしまう。あの輝いていた日々、CRYCHICでの日々。懐かしく、戻りたい忌まわしい記憶。そして、最愛の人を亡くした私自身の愚かさを思い知らされる。
私には2つ年が上の兄がいた。兄は私と違って努力を努力と思わず、ただ平然と修練を重ねる。何事にもひたむきに、全てにおいて全力で、そんな兄を私は敬愛していた。でも同時に、妬み恨みうざったらしく思っていた。
いまからちょうど2年前。今日のように厚い黒雲に空が覆われ、気が滅入るほど雨が打ち付けていた日のことだった。
私はお兄様の部屋を尋ねた。先日、彼女、高松燈と出会ったこと。彼女の歌詞に触れて、私も睦以外の誰かと音を重ねたいと思えるようになったこと。初めて感じる感情で、浮き足立ってお兄様に伝えようとした。今思えばこの出会いが悪夢の始まりだったのかもしれない。
扉を2回ノックして返事を待つ。いつもなら十数秒待てばなにかしら返事をしてくれるお兄様の返事がない。もう一度ノックをしてみる。今度は少し強めに、お兄様と名前を呼んで。また十数秒、時を改めようと振り返った瞬間、お兄様は扉を開いてくれた。今日は学術書に集中していたらしい。何処の馬の骨が書いたか分からない不確かな情報よりも価値が低い私に嫌気がさした。お兄様に対して私以上の価値を示せるその文章に劣等感を覚えた。
何も言わず、扉の前で立ちつくす私をお兄様は出迎えてくれた。机には読みかけの学術書がふせられていて、硝子棚には勲章やトロフィーの数々が飾られている。久しぶりに入ったお兄様の自室で少し緊張していた私の手を引き、昔のようにベッドの上で話を聞いてくれた。燈の話、誰かと音を重ねるためにバンドを組みたいという話、お兄様は全てを聞いてくれた。初めは不安だったけれど、お兄様の激励の言葉で勇気が湧いた。
数日後、お母様とお父様に呼び止められた。数週間後に迫ったピアノコンクール、必ずトップになれと釘を刺される。私と同い年だったお兄様はこのコンクールでトップを飾るまでは無名だった。お母様とお父様の言う家のため、というのはまだよく分からない。でも、私はお兄様の為に必ずと誓いを立てた。
コンクール本番。正装に身を包んだ私は緊張していた。身体は熱い。でも、指先が冷たい。お兄様が背負った重圧はきっと比べ物にならない。控え室を出て、舞台袖に立つ。前の人の演奏の終わりが近づくにつれ、呼吸が早くなり、目の前が朧気になる。緊張と不安とが身体を覆い、私が私じゃ無くなっていくようで、消えそうになる。
前奏者が終わり、私の名前が呼ばれる直前、目眩がした。足がもつれて倒れそうになった時、後ろに壁があった。そこにはいるはずの無いお兄様。何故と問いかけると妹の私を心配して、とはにかみながら口にした。
お兄様から貰った勇気を胸に舞台へ上がる。ピアノを前に、背には大衆。怖くなんてない、そんな言葉は必要ない。私は私らしく、ベストを尽くして演奏するだけ。
結果、最優秀賞どころか入賞すらならず。私の名前は無名のまま、お兄様との誓いを破る結果になった。
泣いた。悔やんだ。嫌悪した。部屋のものを壁に投げつける。何かにあたって、私の悪を擦り付ける。そんなことをしても意味が無いと理解しているはずなのに、泣いて喚いて夜が明けて、部屋は破壊された物だらけになっていた。
それからお母様とお父様は私に関心を寄せなくなった。お兄様の劣化版、出来損ないの人間である私に期待するだけ無駄。きっとそう判断したから。家の使用人でさえ小声で話す。兄は優秀、妹は平凡どころか恥晒し。私の家のはずなのに、私の居場所はなくなっていった。
お兄様だけは違った。未だ続けるバンド、CRYCHICを応援してくれる。私を私として見てくれる。私の、私だけのお兄様。愛してやまないお兄様。口から出る甘い言葉に擦り寄って、私は私を弱くする。この時、ほんの少しでも私を許さずにいられたら。後悔は止むことがない。
初めてのライブ。お兄様は来てくれた。コンクール会場と比べ物にならないほど小さなステージ。最前列とまでは行かずとも、2列目3列目にお兄様はいた。隣にはなんどか挨拶を交わしたお兄様の御学友。そして、入口付近に佇む私の両親。
演奏をやりきった。燈と私で作ったたった一つの春日陰。居場所のない燈と私とで作った、人間にさせて欲しいと懇願する曲。コンクールの時には聞こえなかった拍手喝采。初めてのライブを大成功に収めた私達は泣き、身体を重ね喜んだ。
ライブ後、SNSでの評価も上々。お兄様からも初めてのライブでは及第点どころか満点を貰った。
嬉々として甘味を頬張るのを邪魔する着信。皆に断りを入れて席を立つ。相手はお母様。対応が送れたことへの謝罪を入れ、要件を問う。返事は簡単で、呆れを通り越して何も思わない。私はお兄様の劣化版。実の母から聞いた言葉は私を殺すのは簡単だった。
何も思わない。価値がなく、ただそこにいる木偶の坊。血の繋がった親から価値がないと言われ、使用人には蔑まれる。ただ1人、お兄様を除いて私は人間以下のナニカに成り下がる。
CRYCHICを終わらせた。睦は事情を知っているようだったけれど、何も言わず肯定の意。燈の涙が瞼に焼き付く。あなたは何も悪くは無い。悪いのは私。無力で、無価値な私が悪い。彼女を慰める言葉さえも、人間ではない私の口から出すことは出来なかった。
道具箱に戻るとお兄様がいた。私を慰めてくださった。その言葉は私には届かなくなっていた。人形に情けはいらない。欲するのは命令と失敗に対する罰。
お兄様は諦めなかった。毎日、朝昼夕と場所も構わず私を慰める。だからか、私は口にしてしまった。
憐れむ言葉はいらない。二度と私の前に現れないで。
毒と共に腕が引っ張られた。乾いた音が鳴り響き、お兄様の右頬が赤くなる。
謝罪を残してお兄様は道具箱を後にした。私が最後に耳にしたお兄様の声、お兄様の姿。
落ち着いて、お兄様の部屋を訪れた。先程の謝罪と、お兄様への感謝。いつも通り扉をノックする。返答は無い。再度、再再度と繰り返しても返答は無い。恐る恐る扉を押すと、鍵が空いていた。
暗い部屋でお兄様の名を読んでも返事は無い。暗闇に目が慣れてきた頃、変な場所に椅子の足が見えた。壁伝いに電気のスイッチを探し、ONにする。
声を失った。部屋の中央に位置する椅子。その上には天井から首を吊るお兄様の姿。後退り、座り込み、そのあとやっと声が出た。
お兄、様
悲鳴なんてものは無い。涙なんてものは無い。私がお兄様を死に追いやった。たった一つの事実があるのみ。
通夜、葬式、私は出席できなかった。お兄様の部屋で、お兄様に包まれて、ただそこにいた。
あぁお兄様。私の愛するお兄様。出来損ないの妹は最後まで出来損ないでした。あなたならきっとこんな私を許してくださるでしょう。私もまたあなたを愛することでしょう。ただ、私は私を殺し続けるでしょう。悪夢の始まった、季節外れの氷雨が降る度に。
同じ部屋、同じ日、同じ時間に豊川祥子の死体が発見。死因は首吊りによる窒息。状況証拠から自殺と断定