あの日の少年は、私をカフェに誘うぐらいには成長していた。

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大遅刻です。すみませんでした。
イメソンはぱふゅーむのSpring of Lifeです。


 

「アリサさん、でしょうか?」

「え?」

 下の名前で呼ばれるのは、久しぶりだった。改めて聞くと可愛らしい名前なもんだ。自分の名前が市ヶ谷有咲ではなくイチガヤであると認識しはじめていた私は、反応が少し遅れた。

 振り向くと、そこには私よりほんの少しだけ背の高い、亜麻色の髪をした、瞳の大きな少年が立っていた。その髪の色と瞳の大きさと背丈には見覚えがあった。

「……あ、や…?」

 沙綾。

 その二文字は、しかし身体中に駆け巡った緊張の稲光から上手く声にならなかった。代わりに、少年の方が私にもう一歩距離を詰める。

「僕のこと、覚えてます?麦です」

 聞き慣れないイントネーションからのナンパ文句。しかし彼の名乗った名は、しっかりと、私の記憶に焼きついている。

「……麦くん?」

「覚えてくれてたんですねっ、よかったぁ」

 緊張した面持ちはグデンと気の抜けた笑顔に変わって、ほっと胸を撫で下ろすと、私の目を見て、少し控えめな様子で上目遣いをした。

「アリサさん、これからお時間ありますか?」

「えっ、時間?あ、あるけど…」 

 予想だにしてなかった質問に、まるで高校一年生の入学一日目の自己紹介の時のようなどもり方をしてしまった。もうじき四〇なのに、なんでこんな反応しちゃうかな。

 私のふにゃふにゃな返答を聞いた麦くんは、意を決したように息を吸って、頭を下げた。

「これから、お茶しませんか?」

 

 

 どうして私は、友人の息子と二人きりで、それも仕事前にカフェでホットミルクを飲んでいるのだろう。

 麦くんは私の目の前に座り、ホットコーヒーを啜っている。砂糖とミルクも入れずに、よく飲めるな、と感心してしまう。が、彼の味覚以上に感心するべき話題がある。

「…会うのだいたい十何年ぶりぐらい、になるのかな」

「そうですね、だいたい十年です」

 彼は店員が運んできたホットコーヒーを手につけるがすぐに離し、コーヒーシュガーを二袋入れてティースプーンで混ぜる。

「イントネーション、少し関西っぽい」

 私の指摘に、彼はあっと顔を上げて、頬を少し赤らめて俯く。

「すみません、小学校が大阪で、うつった方言がまだ抜けてなくて…」

 麦と沙綾は、旦那の仕事の関係で二年前まで大阪で暮らしていた。多感な小学生の時期に、真新しい環境で生活をしていれば、方言はうつってしまうのだろう。

「これは私の個人的な意見だけど、隠す必要ないと思う」

「え?」

「麦くんが友達も何も無い環境でイチから育っていったっていう証になるんだから。まあ東京じゃ目立っちゃうから、恥ずかしくはなるのもわかるけど」

 生まれてからずっと東京で暮らしている私にとって、方言というものには少し憧れがある。大半の人間が何者にもなれない中で、少なくとも周囲から関西弁を話す人という認識を得ることができる。まあ思春期の彼にとって、この感情を理解するにはまだ早いのだと思う。

「それに、関西弁出てる麦くん、少しかわいかったよ」

 そんな憧れと共に得た年の功で、少年を少しからかってみる。彼は変わらず頬を赤らめてるが、コーヒーを口に含んで口を尖らす。

「かわいいなんて言葉、僕は嬉しくないです」

「そりゃそっか。ごめんね忘れて」

 こういうのもモラハラに当たってしまうのだろうか。自分がされて嫌なことはしない、というのは肝に銘じているが、実際問題それは自分の尺度によってくるので、あまりアテにはできないなと少し反省した。

「…有咲さん、お仕事、はどうですか」

 予想だにしない返しに、私は思わず吹き出しそうになる。マジか、中学生にこんなこと社交辞令みたいなこと聞かれるのか。

「昔と変わらないよ。毎日死にかけてるよ」

「死にかけ?」

「君も働き始めたらわかるよ」

 八時間の労働というのは、人間の精神を擦り減らすのには充分すぎる時間なのだと感じるようになったのは、私が歳を取ったからだろう。就職してから十五年以上経過しようとしてるけど、一向に変わる気配のない日本の労働環境に少し絶望しながらも、このつまらない話題を塗り潰せるカードを切る。

「麦くんはどう、今もドラムやってるの?」

 アンパンマンのドラムを昔から叩いていた彼のことだ、さぞドラムの腕前は上がっているのだろう。しかし、私の質問に、彼は再び俯いて、気まずそうにテーブルの上に置かれた指を鍵盤を叩くように動かす。

「……実は、ドラム、やめようと思ってるんです」

「え、そうなの?」

「はい……ドラムへの好きがわからなくなってきて」

 変声期を迎えてる最中の、脆くてハスキーな声で語り始める。

「僕バンドやってるんです」

 母親と同じ道進み始めてるな、とレスポンスをしようとしたが邪魔になると判断して胸の中で押し殺した。

「そのバンドで、ぼくギターやってて」

「ギター?」

「はい。最初はドラムで入ったんですけど、ドラムを叩けるのがもう一人いて、なし崩しでギターを始めた感じで」

 バンドでの楽器の担当チェンジはそれほど珍しい話ではない。もともと腕利のギタリストだった者が、弾ける人間がいないからとベースを担当して、日本屈指のベーシストになってしまった例もある。

 しかし、麦の場合は、少し事情が込み入ってそうだった。

「昔からドラムやってて、叩くのは今でも楽しいんですけど、なんだかギターを始めたら、ギターもやりたくなってきて」

 悪戯を告白するように、鼻を掻きながらポツポツと答えた。

「不純ですよね…要は飽きたんです。ドラムに」

 開き直ったかのように、少し笑みを浮かべて言い切った。しかし、彼にとっては思い切った発言だったのだろうが、私からすれば、銃を突きつけられて冤罪を告白する被告人のように見えた。

 笑うのなら、そんな泣きそうな目をしなくていいのに。

「確かに、捉え方によっては飽きたって言えるのかも」

 カップが緩くなったことを指先で確認して、限りなくミルクに近づきつつあるホットミルクを飲み干して、私は努めて冷静に、怒りにも似た肯定の言葉を送る。

「でも、ギター好きなんでしょ?」

「はい……本当に、今は好きです」

「ドラムも、好きだった?」

「…はい」

 照れくさそうに、口を尖らせて頷く。

「だったら、不純なんかじゃない。私はそう思う」

 好きに不純なんてない。好きであることは、それはつまり正しいことなのだ。不純かどうかは、ただの見る角度だ。

「そのとき好きなものをやるんだよ。一度好きになったものは、いつまで経っても好きが残るから」

 たとえば恋愛。

 たとえば漫画。

 たとえば風景。

 好きという記憶は、毎秒脳内に入る情報に埋もれてしまうだけで、輝きは衰えないし、いつかまた表舞台に上がってくる。

 今はただ、主役が違うだけ。

「…ライブ、やるの?」

 私の問いに、彼はハッとしたように頷く。

「いつやるの?見に行くよ」

「え、いや、見に行くって、見てもらえるようなもんじゃ」

「いいから、見させて。聞かせて」

 きっと、彼にとって、私は遠い思い出の中の風景の一部に写っているのだろう。だったら私は、あの頃と同じ表情を浮かべて、いつまで経っても母親の友人の冴えない喫煙者でいてやろう。

「麦くんの成長した姿、目に焼き付けたい」

 

 駅の改札前で解散することにした。連絡先の交換を申し込まれたけど、携帯電話を忘れたと嘘をついて、またの機会にと延ばした。理由は、この距離感を飛び越えてはいけないと、どこかで思っていたから。

「じゃあね、頑張れよ、少年」

 いつかは言ってみたかった、漫画で出るような台詞を、心臓をバクバクとさせながら吐き捨ててみて、身を翻す。

「有咲さん」

 地に足つかない、掠れた声で呼ばれる。

 振り返ると、彼はその日で一番真剣な眼差しを私に向けていた。

「有咲さん、僕は……」

 口を開いて、しかし時が止まったように動かなくなり、そして俯いて、鼻で笑って、まだ幼さの残る笑みを浮かべて手を振る。

「なんでもないです」

「何よ、気になるじゃん」

「まだ言わないです。まだ」

 幼く見えていた笑顔は、この数刻の間に、少し大人びて見えた。

 

 

 僕にとって、忘れられない思い出は三つある。

 まず一つは、初めてドラムを叩いた時。正確にはドラムを模したアンパンマンのおもちゃなのだけど。それを叩いた瞬間に鳴った、カンッというブリキの軽薄で確かな音を聞いた瞬間の感動は、忘れられなかった。

 二つ目は、昔近所にあったラーメン屋の醤油ラーメンの味だ。わずか一年しか営業してなくて、僕がそこに行ったのは小学三年生の時、母が事情で家を空けていて、仕事帰りの父に連れられた時に行ったのだ。その醤油ラーメンは、見た目が特別な派手なわけでも、味が刺激的なわけでもなかった。けれど食べると、妙な特別感があった。あれはおそらく、基本夜ご飯に家族で外食に行くことが少ない我が家で数少ない、それも父と二人きりで食べたという特殊な状況下であったから生まれた感想であったのだろう。けれどその醤油ラーメンが忘れられなくて、今でもたまに食べたいと、叶わない願いを持ってしまう。

 三つめは、とある人と過ごした一日だ。昔、まだ小学生になるちょっと前の頃、僕は母の友人だという女性と、わずか一日だけ、一緒に過ごしたことがある。彼女と過ごした一日は、際立って特別なことをしたわけではなかった。せいぜいデリバリーの寿司を頼んで食べたぐらいだ。それでも彼女は、切ない顔を浮かべて僕を見つめては、電子タバコを吸っていた。メンソールの香りが僕につかないように、離れたところから、目を合わせたら沈み込んでしまいそうな瞳で僕を見つめながら。

 僕はその日以来、その人とは会えてなくて、母にその話をするのも、何故だか気が引けて、アリサ、という名前だけを頼りに、僕はその人をずっと、確たる方法もなく、マイペースに探していた。別に会ってどうこうするわけではない。ただ会いたいのだ。そこにマリアナ海溝のような深い理由なんてなくて、強いてあげるとすれば、あの日アリサさんと過ごした日は幻なんかじゃない、確かに存在していた一日なんだと、僕自身に証明したいだけなのかもしれない。

 

 彼女の後ろ姿な目に入った瞬間、幼少期の記憶がそのまま戻ってきた。埃がかぶって曖昧になってしまったワンシーンも、鮮明に、あの頃鼻をついた匂いまでもが甦った。

 声をかけて、振り向いた彼女の姿は、あの頃のままのように感じた。いや、周囲の、それこそ母なんかは、有咲さんを見て老けたね、なんていたずらっ子の様に笑って声をかけるのだろう。しかし幼少期の記憶だけを依代に彼女を見てきた僕からすれば、有咲さんはあの頃のままのように映っていたのだ。

 それはまるで、同窓会で初恋のクラスメイトに出会って、あの頃のままだねなんて甘い言葉をかける男の心理だった。

 

 有咲さんにドラムをやめようか悩んでるなんて話は、はっきり言って見当違いも甚だしいと思った。だって彼女には関係ない、ただの中学生の個人的な悩みごとだったから。けど、このことを誰かに話すなら、それは有咲さんがいいと思ってもいた。

 

「そのとき好きなものをやるんだよ。一度好きになったものは、いつまで経っても好きが残るから」

 

 泣き喚く僕の頭を優しく撫でられたようだった。

 真っ暗だった分岐点の先が晴れて見えてきた。どこに進んでも、終点はわからない。でも帰り道は確かにそこにあるのだ。

 ドラムが好きだったのは本音。でも今は、ギターを弾きたい。かつてドラムに向けてた熱が、ギターに取り憑いている。

 

 ギターを奏で続けて、そして、弾ききって、好きを膨張させてやろう。

 そしてその好きに、もう一つ意味を上乗せしてみよう。

 それは有咲さんへの想い。僕の脳内に燦然と輝き続ける、二十以上も離れた人への好きという想い。これが恋心なのか、憧れなのかはわからない。

 でも彼女は、僕の中での好きの一つだ。これから先、僕はいつまでも有咲さんと過ごした幼少期の思い出と、有咲さんが見にきてるであろう今日のライブを時折思い出しては、溺れる寸前まで浸るのだろう。

 それはとても、良い未来だ。

 

 あの日言えなかったことを、言う日は来るのだろうか。

 いつか来るだろう。ただそれは今じゃないだけだ。

 だって好きは残り続ける。いつまで経っても、僕は有咲さんが好きだから

 僕の背がもっと伸びて、声も低くなって、髪も上手にセットできるようになって、ようやく言ってみよう。

 好きですという、たった一言を。




大遅刻すみませんでした。

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