なんとなく夜の街を散歩してみたくなった。
眠りすぎたのだろうか、真夜中に目が覚めた。
私はよく眠るので、珍しいことだ。
のそのそとベッドから這い出すと、かすかな頭痛がした。
水が飲みたくなった。
家族を起こさないように、そっと階段を降り、キッチンへ。
冷蔵庫を開くと、そこには何もなかった。
ほとんどからになった卵のパックが一つあるだけだ。
私は首を振った。
水道水をコップに注ごうかと思ったが、やめた。
去年の冬、地下水からPCBが検出されたニュースを見た。
それ以来、水道水を飲む気にはなれなかった。
水道水と地下水は違うとわかっていてもだ。
私は、ほんの少し潔癖症なのだ。
キッチンテーブルの片隅に小銭があった。
握ってみると、230円あった。
妹が置いたのだろう。
妹は少しずぼらで、よくポケットに入っている小銭をこうしていたるところに置いていく癖がある。
その癖に、それが無くなっていると怒るのだが……後で返しておけばいいだろう。
私は、小銭を握りしめて、外へ出た。
深夜の街の空気は肌寒かった。
だが、周囲は思ったよりも明るい。
街灯や自販機や、24時間営業のコンビニの看板。
そういったものの光が、夜の暗さを軽減している。
へぇ、こういう感じなんだな、深夜の街って。
私はつぶやいた。
眠ると、めったに目が覚めないから、深夜の光景を見たことがなかったのだ。
少し新鮮な気持ちを感じ、散歩がてらに歩いた。
コンビニエンスストアを通り過ぎ、その少し先にある公園の自販機へ向かう。
コンビニで水を買ってもよかったのだが、少し余分に歩きたかったのだ。
人気のない公園にたどり着き、そのすぐ入り口にある自販機の前に立つ。
ミネラルウォーターのボタンを押した。
ガコンッという音がして、ペットボトルの天然水が落ちてきた。
私はそれを取り出そうとして、自販機のすぐそばにある物体に気づいた。
地面に落ちているそれは、猫だった。
小さな猫。
とても美しい毛並みをした白い猫だった。
それは眠っているように見えた。
「こんなところで眠ってるなんて」
自販機の発する熱で、少し暖かいからだろうか?
私は、そっと手を伸ばし、その猫の背中に触れてみた。
毛が、妙にざらっとしていた。
違和感があった。
「え、嘘、だよね?」
呟きながら、もう少し深く指先で猫に触れる。
毛並みの奥の皮膚が、冷たく固まっているように感じられた。
それはおそらく、死んでいる。
どういう理由で、猫がそんなところで死んでいるのかはわからない。
だってそれは、自販機の足元なのだ。
しかし、いずれにせよそれは死んでいる。
死んだ猫の毛は、私が知っている猫の毛とは全然違っていた。
毛先から脂分のようなものが抜け落ちてしまっているようだった。
死んだら、こんな風になるのか、と思った。
私の髪も、死んだらこんな風にぱさぱさになるのだろうか?
なぜか、その猫の遺体に触れることを止められなかった。
私は何かに魅入られたように、そっと指を触れ続けた。
不意に、猫を哀れに思う気持ちがこみあげてきた。
このまま自販機のすぐそばに横たわらせておくよりも、せめて草むらにでも移動させてあげよう。
そう思い、猫を持ち上げる。
腹部を表にして持ち上げた瞬間だ。
「あっ」
思わず声が漏れた。
猫の腹部が、切り開かれていたからだ。
それは鋭利な刃物で、きれいに切り開かれていた。
殺人?
いや、猫なのだから、人ではないが。
いずれにせよ、この小さな生き物は、殺されたのだ。
それは確かだった。
猫の腹部が自動的にぱっくりと裂けるなんて現象、聞いたこともない。
どうしよう。
私は、戸惑った。
戸惑ってから、その猫を、そのまま地面の上に戻した。
急激な気持ち悪さがこみあげてきた。
手に持っていたペットボトルの水で、手を洗った。
それから、走って家に戻った。
・
「お姉ちゃん?」
扉を開けると、妹がいた。
「遥ちゃん、どうしたの?」
私は思わず問いかける。
だって、真夜中なのだ。
どうして真夜中に、妹が起きているのだろう。
「それは私のセリフだよ」
妹の遥ちゃんが、口を尖らせた。
「物音がして、目が覚めたらお姉ちゃんいないんだもの」
「あぁ、ごめんねぇ」
私はつぶやく。
妹と私は同じ部屋にいる。
私が妹を起こしてしまったのだ。
「それよりさ、本当にどうしたの、こんな夜中に」
「なんか、目が覚めちゃってさ」
「珍しいね」
「うん」
「どこ行ってたの?」
「ちょいとコンビニに」
なぜか、とっさに嘘をついた。
「ふぅん」
妹は気のない返事をした。
「さ、ねよ?」
「うん」
二人で部屋に戻る。
二段ベッドの下のベッドにもぐりこみ、目を閉じる。
夢の中に落ちていく途中で、あぁ結局水を飲んでいないなぁとふと思った。
・
その日、私は夢を見た。
夢を見るのは、珍しかった。
夢の中に、妹が出てきた。
夢の中では、私と妹は現実と正反対の行動をしていた。
私がぐっすりとベッドに横たわり眠っていて、逆に妹が眠れずに起き上がった。
彼女は、私を起こさないように静かに、ベッドの階段を下りた。
そして、ドアを開けて、外へと出ていった。
私はその間、ベッドから起き上がることができなかった。
まるでベッドに縫い付けられたような感覚。
意識だけは妙にさえていたので、私はいろんな空想をした。
実は私が気づいていないだけど、遥ちゃんは、毎晩真夜中に目を覚ましているのだ、という空想をした。
彼女は、スクールアイドルの人気者になったことで、ストレスを抱えていて、それで夜中に目を覚ましてしまうのだ。
いつしか、なんとなく深夜に散歩をすることが習慣になってしまう。
眠ってばかりの姉の代わりに、彼女は起きてばかりいるのだ。
この空想は、リアルだった。
私が空想と思っているだけで、実は本当なのかもしれない。
私は、深い眠りに落ちながら、かすかに遥ちゃんが部屋を出ていく気配を毎晩感じていて、それでこんな夢を見ているのかもしれない。
だったら、遥ちゃんがかわいそうだな、慰めてあげたいな、私はお姉ちゃんなんだから。
そんなことを考えているうちに、1時間ぐらいが経っただろうか。
玄関のドアが開く音が聞こえた。
妹が帰ってきたのだ。
ガサゴソという音が聞こえ、水を出す音が聞こえた。
妙に念入りに手を洗っているように感じられた。
やがて、妹が部屋に入ってきた。
彼女は眠っている私の前で立ち止まり、じっと私を見つめる。
そして、自分のベッドへともぐりこんだ。
遥ちゃん、何をしてきたの?
問いかけようとしたが、唇が動かなかった。
・
朝目が覚めた時、妙な心地よさがあった。
あんなにのどが渇いた状態で眠りに落ちたというのに。
むしろ、のどが渇いたままで眠るほうが睡眠が深くなるのだろうか?
「ん。んぅ」
伸びをすると、ベッドの上から妹が声をかけてきた。
「お姉ちゃん、早いね」
「うん、なんかねぇ、妙にすっきりと目が覚めちゃって。ごめんね? また起こしちゃったね」
「ううん、別にいいよ」
「そっか」
私は、ベッドから起き上がり、静かに部屋を出た。
一階に降りていき、キッチンに立つ。
自分と妹の食事を作るのは、私の役目だ。
少し手間だけど、嫌だと思ったことは一度もない。
むしろ、スクールアイドルを頑張っている妹を手助けできて、誇らしいとすら思っている。
「さぁて、何を作ろうかな」
つぶやいて、冷蔵庫を開ける。
何もなかった。
ここに至り、昨日の夜見た時も、何も入っていなかったことを思い出した。
「しまったなぁ」
私はため息をついた。
「しょうがないか」
結局、近くのコンビニに、二人分の弁当を買いに行った。
「珍しいことのトリプルコンボだね」
妹が、朝食の食卓で呟いた。
「トリプル?」
「お姉ちゃんが、真夜中に目が覚めたこと、真夜中に外に出ていったこと、食材を忘れたこと」
指を折る。
「まぁ、たまにはね」
「ふぅん」
・
その日の放課後、もう一度、公園に寄ってみた。
昨日の夜の自販機へと、向かう。
少し勇気が必要だったが、あの猫の遺体がどうなったのかを、確かめたくなったのだ。
いつもは起きることのない真夜中に見た、異様な光景。
それはまるで夢の延長戦のように感じられた。
あれは、現実の出来事だったのだろうか?
どちらかといえば、夢であったほうがいいような気がした。
小さな生き物が殺されていただなんて、夢であるほうがいい。
だが、そこには死体があった。
昨日と同じように、自販機の足元に、小さな猫がぐったりと横たわっている。
私は、ため息をついた。
猫は昨日と同じように、美しい毛並みを見せつけるかのように私に背を向けて、地面に張り付いていた。
だが、その毛並みは触ると生気が抜けてぱさぱさで、腹には大きな切り裂かれた跡があるのだ。
と、私はふと思った。
昨日私はこの猫の遺体を持ち上げた。
そして、切り裂かれた腹を見た。
あれは本当だったのだろうか?
私は、本当に動物の遺体を素手で持ち上げたのか?
それに、慌てて地面に落とした遺体は、どちらを向いていただろうか?
猫の遺体は、昨日発見した時と、同じ方向で同じ姿勢で横たわっているようにも見えた。
確かめて、みようか?
私は、首を振った。
もう一度触るなんて、できっこない。
昨日の夜は、どうかしていたのだ。
ウジ虫が湧いているかもしれないものを、触るだなんて。
私は、また逃げるようにその場を離れた。
・
「ん、うくっ」
ひどくのどが渇いていた。
のどがカラカラだ。
せき込むようにして、目が覚めた。
「またかぁ」
ため息をつく。
昨日の夜に引き続き、今夜も真夜中に目が覚めてしまった。
時計を見る。
午前2時だ。
私は首を振った。
どうにもおかしい。
いつもは、一度眠ったら絶対に目が覚めないのに。
そういえば、妹はどうしているだろうか。
昨日は私の物音で起こしてしまった。
彼女は、今夜はぐっすりと眠っているだろうか?
私は、そっと二段ベッドの階段を上る。
音をたてないように、上のベッドで眠っている妹の顔を覗き込んだ。
妹の寝顔は美しかった。
まるで陶器で作られた人形のようだ。
呼吸をしていなかったら、それは本当に人形に見えるだろう。
私は、その場からしばらく動けなかった。
じっと妹の寝顔を、見つめ続ける。
どれぐらい、時が経っただろうか。
ほんの少しの時間だったのかもしれないし、10分以上が経過したのかもしれない。
午前2時において、時間の経過は凍り付いているような気がした。
私は妹のベッドから降り、部屋を出た。
また妹は、キッチンテーブルの隅に小銭を置いていた。
私はそれを握りしめ、昨日と同じように、外に出た。
深夜の街の光景は、昨日と全く同じに見えた。
時間が繰り返しているかのようだ。
昨日と同じように、コンビニを通り過ぎ、公園へと向かった。
なぜか、もう一度あの猫の死体を見たくなった。
「あっ」
自販機の足元の死体は、なくなっていた。
そこにあったはずのものが、もう今はなかった。
「放課後に見に行ったときは、あったのに」
私はつぶやいた。
公園の管理業者が処分したのだろうか。
私は、昨日の夜、猫をもちあげた時と同じポーズをしてみた。
それは、小さな猫だった。
そしてとても軽かった。
同じポーズをすると、私の掌にその猫の質量だけがなかった。
私はもう、あの猫が本当に腹を裂かれて死んでいたのか、確かめるすべをなくしてしまった。
「お姉ちゃん、何をしているの?」
「え?」
突然に声をかけられ、振り向くと、妹がいた。
怪訝な顔をして、私の後ろに立っていた。
「遥ちゃん、どうしてここに?」
「どうしてもなにもないよ」
妹は戸惑うように言った。
「二日も連続で、真夜中に家を出るなんて」
「あぁ、ごめんねぇ」
「それに、その」
「なぁに?」
「さっき、じっと私のこと見てたよね?」
「あ」
妹が、つぶやいた。
「ちょっと、怖かったよ」
起きていたのか。
私は、苦笑いした。
「ごめんねぇ、別に怖がらせるつもりはなかったんだ」
「うん、それはそうだろうけど」
「ただちょっとさ、今夜も起こしちゃったかなって、心配になって」
「それで、ずぅっと私を見ていたの? 電気もつけずに?」
「はは、それは遥ちゃんが可愛いから」
「もぅ、お姉ちゃん」
いつものような、たわいもない会話だ。
私は、笑った。
二人並んで、夜の街の帰路を歩く。
不思議な気分だった。
夜の街の静寂は、まるで私たちを飲み込んでしまいそうだけど、私たちは確かにここにいる。
血が通い、呼吸ができる、生きた生物として。
私はそのことを確かめたくなった。
「ねぇ、遥ちゃん」
「ん、なぁに?」
「手をつないでもいいかな?」
「え、うん、いいよ?」
「ありがとう」
妹の手を取る。
夜の気温に冷やされて冷たかったけれど、そこには確かな、生きている熱があった。
「私ってさ、よく眠ってばかりいるじゃない」
「うん、そうだね」
遥ちゃんが相槌を打つ。
「あれってさ、ほとんど夢も見ないんだぜ」
「え、そうなの?」
「うん。目を閉じて、眠りに落ちるとね、もう何もないんだ。時間移動しちゃうみたいに、ひょいっと朝になっちゃう」
「へぇ」
「でもさ、さっき急に思ったよ」
「なにを?」
「もしかして、覚えていないだけで、たくさん夢を見てるのかもしれないって」
「あはは、それはそうかもしれないね」
「うん」
ひと呼吸おいて、私は訊ねてみた。
「死んでいるのも、夢を見ているのと同じかなぁ?」
「え、なにそれ」
「ん? なんとなく」
「えぇ、お姉ちゃん、夜中にそんなこと言われると怖いよぉ」
「あははは」
後はもう、もっと他愛のない会話になっていった。
私たちは、家に着くまでずっと手をつないでいた。
ベッドに再び潜り込み、眠りに落ちるとき、私は思った。
夢の中では、どんなことでも起こりうる。
そこでは、猫を殺したのは私かもしれないし、もしかしたら遥ちゃんなのかもしれない。
私は、猫の柔らかい腹を切り裂いて、ゆっくりとそれを殺していく様を想像したが、手にどんなナイフを持っているのか、よくわからなかった。