原神のナヒーダが何百年も昔のスメールで学者と親愛を深める事もあったんだろうな的ストーリーです。
スメール本編の途中までの設定と幾つかの捏造設定が重ねられておりゲーム内とは矛盾があるかもしれません。

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クラクサナリデビと失われた追憶

 砂漠から乾燥した空気が届くのだろう。

 スメールシティから西に遠ざかった草原は快適な温度を保っており、熱くじっとりした陽光も木漏れ日へと隠れれば柔らかく心地がよい。

 川下からは涼し気な風がスメールローズの華やかな香りを運んで、眠る学者の鼻先をそっと撫でていった。

 生論派でありフィールドワークに慣れた学者だとしても、うたた寝をしてしまうのはしょうがなかったであろう。

 

「目が覚めたのかしら?」

「……あ、ぇえと…………クラクサナリデビ様!?」

 

 しかし、眠っている頭が草神の膝の上となると飛び起きたのもまたしょうがなかった。

 幼い少女の姿をした草神はとても可愛らしいが、理知的で落ち着いた微笑は酷く大人びている。

 気恥ずかしい気持ちで見つめ返すと、自分が子供のように思えてしまう。

 事実、彼女が生誕し俗世の七執政が一柱として仮初ながらもスメールを統治してから、百年以上も月日が経っている。

 他国の七神と比べて若い神といえども、二十歳を幾つか越えたばかりの学者など子供と変わりない。

 ましてや膝上で居眠りをしているのならば言い訳のしようがなかった。

 

「残念ね。あなたの寝顔を見ているのはとても楽しいのだけれど」

「面目ありません……」

「謝らないで。こうしていられるのも貴方のおかげなのだから」

 

 クラクサナリデビは永い間、スラサタンナ聖処に幽棲――いや監禁に等しい扱いを受けていた。

 スメールに無垢の神として生まれ落ち、教令院に連れられてからの百余年ずっと外界へと出ることはなかった。

 アーカーシャ端末の安定した運用。

 先代のマハールッカデヴァータを望む偏った思想。

 知識を重視する余り、苗木のごとき神を侮った教令院の風潮。

 幾つかの要因が彼女を揺り籠へと閉じ込めていた。

 そこで生論派の医療に優れた学者は、慣習として草神の健康管理を司っていたのだった。

 意味するものは教令院の内包する傲慢の現れだろう。

 マハールッカデヴァータであれば必要ないが、幼いクラクサナリデビは何が起きるかわからないと。

 アーカーシャ端末を長期的に機能させるためのメンテナンス作業のように考えていたのかもしれない。

 だが一つの誤算があった。

 当代の学者はその境遇を見過ごせず、頑迷な教令院を熱心に説得し凝り固まった智をほどくように根回しを行ったのだ。

 政治的な争い、信仰の不一致、草神を知らぬ民への啓蒙。

 多数の問題はあったが、こうして何もせずに外界を満喫する時間を月に一度は作れるようになった。

 今日の巡遊は十度目で、一度目から丁度一年が経っている。

 賢者らも少しずつだが態度を軟化させており、クラクサナリデビを神として民衆へ知らしめ信を奉るための出御と決めたようだった。

 

「それでも恥ずかしいのです」

「あら、お互い様と言うところね」

「それは……いえ、比べるようなものではございません」

 

 一年前、初めて許されたのはスラサタンナ聖処から数十歩までの距離だった。

 昼下がりの眼下に広がるスメールシティの街並みは賑やかで、高所であっても喧噪が届いてくる。

 ヤダザハ池には船遊びをしている親子の姿。南西を遠く望めばキングデシェレト霊廟の威容が朧気ながらも目に映る。

 スメールシティの住民ならば毎日見るだろう何でもない日常の風景。

 でもそれは彼女にとって百年振りの生身で見た世界だ。

 幼い神の瞳からはとめどなく透明の滴が零れ落ちていて、儚い横顔が滲んで見えた。

 下がり控えることが学者のできたことだった。

 

「誰も見ていないのならば、恥を感じるのは自分だけのこと。それとも私にも見せられないのかしら?」

「……けれどあまりお力を使われては」

「皆が幻を見ていて、気づかなければ何も起きていないの同じ。あなたに種明かしをされたら困っちゃうけれど」

「絶対にありえません」

「じゃあいいじゃない。ほら」

 

 手招きをされて彼女の横へと腰を下ろす。

 また膝枕とはいかなかったがとても近い。それは親愛な家族の間。或いは恋人のように体温が伝わってきそうな近さ。

 とてもじゃないが、遠くで護衛している三十人団の戦士達には見せられないだろう。

 草神の力によって、適度な距離を保ち控えている幻が映っているので大きな心配はなかったが。

 もっとも、くちがさない学者には神に取り入った不愉快な若造扱いされているので今更のことだ。

 

「このようにお傍にいられるなど……とても光栄です」

「もうっ硬いわね。あなたの頭を使えば璃月にある鉱石だって割ってしまいそう」

「はははっ、一度だけ璃月へ行った事はありますが水晶はとても硬かったです。

 でもクラクサナリデビ様がお望みならば無い知恵を絞り、割って差し上げます。

 できるならば――装飾品として加工して贈り物に…………だなんて」

「……私には人の感情を理解できていない部分はあるけれど、そういう時は言明にはっきりと伝えるべきなのはわかるわ」

「す、すみません。で、で、ではっ! お誕生日おめでとうございますっ!」

 

 タイミングを見計らっていたのだろう。

 早口で突き出されたものは、小さな箱にリボンが飾られているものだった。

 思いがけず、本当にそう来るとは考えてもいなかったと、彼女は驚きで瞳を見開いた。

 スメールは未だマハールッカデヴァータの喪失を悲しんでおり、クラクサナリデビを祝う花神誕祭が広まるのは後世のこと。

 記念日を言祝ぎ慶する事を知っていても、それが自身を対象とする可能性それ自体に思い当たらなかったのだ。

 

「まあ……プレゼントなのね……開けてもいいかしら?」

「はい。どうぞお開けください」

 

 箱の中には小さな手の平と同じくらいの大きさの葉の形をした髪飾り。

 彼女の瞳と同じ色をしたそれは葉脈の一本一本まで精緻に彫り込んであり、まるで枝木から生えているかのように瑞々しい。

 

「水晶ではなくエメラルドを加工して作りました。

 職人に頼んだ品で手ずからとはいきませんでしたが、その……お気に召して頂けたら」

 

 学者が鼓動を揺らしながら見れば、彼女は大切な新芽をこぼさないとでも言うように胸元へと抱きしめた。

 

「嬉しい……贈り物を貰うのは、こんなにも胸がいっぱいで……とても……とても嬉しいものなのね……ありがとう……―――――……」

「はっ、はいっ! こちらこそ喜んでもらえたならば幸いで、はい幸せですっ!」

 

 礼と共に名を呼ばれた学者は、舞い上がったような気持ちで声を上げてしまう。

 直後に声が周りへと届かないかと自省するくらいに大きい声だった。

 

「つけてくれるかしら」

「はいっ!」

 

 手渡されて、尖った右耳辺りの一房を束ねようとする。

 一瞬だけ髪へ触れる事に躊躇しつつ留めれば、白銀に飾られた翠玉がよく映えて綺麗だった。

 このために誂えたというのもあり、草神の衣装ともよく似合っていた。

 

「とてもお似合いです」

「ありがとう。本当に嬉しいの……」

 

 くるりと一回りして学者へと見せる様子はいつになく子供っぽかった。

 身も心も軽やかに、踊りたくなるほどに嬉しいと、伝わってくるようだ。

 彼女の触れたことのない一面が見れて、言葉にできない喜びがこみ上げてくる。

 

「まあ……何故泣いているの?」

「し、失礼しました……つい感極まってしまって……」

 

 差し伸べられた手をそっと両手で包み込む。

 それは不敬であったかもしれないが、以前もあったことだ。

 思い返すのはクラクサナリデビの傍へとまみえた幾つかの記憶。

 初めて拝見した草神は、スラサタンナ聖処の装置で静謐に座していた。

 視線はこちらを見るというよりはただ向いているだけ。

 きっと今までの学者と同じく、事務的に診察を果たすためにきたと考えたのだろう。

 名ばかりの健康診断、そもそも医学が進んではいても人が神の玉体に詳しくあろうはずもない。

 百年続いただけの形骸化された慣習にしか過ぎないもの。

 

「クラクサナリデビ様は寂しくはありませんか?」

「……不思議な質問ね。そんな事を聞いてくるのはあなたが初めてよ」

「実は私は寂しがりやでして……ここは少々冷たく思います」

「私はスメールの民の皆々とアーカーシャを通じて繋がっているから、寂しいとは感じないわ」

「大変失礼を致しました。神の御心を計ろうなどご無礼を言いました。どうかご容赦を」

「許します。私を慮ろうとするあなたの献身が嬉しい」

 

 お互いに形式的な物言いだったが、感情の見えない透明な表情にわずかながらの笑みが浮かぶ。

 学者は知らないだろう。こんな短い会話すら四年ぶりに行ったものだなんて。

 こうして幾つかの月をまたいでも、診察と言う名の歓談は続いていた。

 クラクサナリデビはアーカーシャを通じて人間の事を多少はわかっているつもりではあったが

 無意識の言葉や複雑な感情は、端末からは伝わらず伝えきれないものだと知った。

 人は自分自身をわかってはいないし神もまた同じだと。

 知識の神は未だ不完全である証左とも言えた。

 

「面白いわね。私も近くで聞いてみたいわ」

「っ……それは外に出たいと言う事ですか……?」

「あっ……」

 

 だから四回目の交流で聞きようにとってはそう受け取れる言葉が発せられたのは迂闊だっただろう。

 学者の他愛ない日常や、決死の論文が教授にあっさり穴をつかれて凹んだ事、酒を飲んで仲間と討論したが途中から奇想空想話になった事など。

 とても楽しそうで、それは端末では決して得れないもので、不意に漏れた言葉に偽りは含まれてなかった。

 

「……違うわ。あなたの話が面白いと感じただけよ」

「しかし……」

「いいの。私は民の望むままにただ在るだけで、あなたの思うような事ではないの」

 

 頑なな様子に、それは教令院の方針でしかないとは口を挟めなかった。

 民の望みはまた違うだろうと。

 自身もマハールッカデヴァータを信仰しているが、同時にクラクサナリデビも信仰している。

 それは親愛や思慕の念かもしれないが、同じように人々には今の草神を愛してほしかった。

 教令院の賢者達のように神を神と思わず、道具のように扱ってほしくない。

 スメールは草神からの恩寵を受けて発展したのだから、その恩返しをするべきではないかと。

 きっと、その日に彼は生まれ変わったのだ。

 知識を積み重ね求めるスメールの学者としてではない、人間としての新たな道標が生まれたのだ。

 ほんのわずかでもいいから彼女の力になってさしあげたいと、強くそう心に誓った。

 

「私が外へ……?」

「はい、ほんの目と鼻の先までですが約束を取り付けました。賢者様達も承知しております」

「でも……どうして……」

「それが人々の望みだからです」

 

 教令院の試験よりも何倍も何十倍も難題だった高度な政治的問題の解決には、数か月ほどの時間が必要だった。

 クラクサナリデビの散歩とすら言えない外出の予定は、彼女にとって青天の霹靂に違いない。

 何よりもそれが信じられないのだろう。彼女は扉からずっと遠いまま立ちすくみ動けなかった。

 学者の伸ばした手はずっとそのままで、待ちぼうけをしていた。

 手が引かれることはなく、焦れることもなく、ただただ彼女を待ち続けた。

 長い時間をかけて、恐る恐ると指先が近づいてきて、摘まむように触れてくる。

 怖がらせる事のないように、優しく緩やかにそっと握り返して、聖処の扉を開いたのだ。

 その歩みは人生最良の幸福だった。彼女もそうあってほしいと想っていた。

 

「幸せ過ぎて心が言う事を聞きませんでした。このまま時間が止まってしまえばどれだけ幸せか」

「そうね。幸せが永遠に続いて……こうしてあなたとお話したり風を感じたり草木を愛でていたいわ。

 でも、あなたは私に仕える以前に学者なのだから。私に構っているだけで本懐を無くしちゃダメよ」

「ははは、気づかれましたか。私の論文による労苦はまだまだ終わらないようです」

 

 だから、幸せで、幸福で、目の前の幼い神が愛おしくて、気づいてしまった。

 

「申し訳ございません。……一つだけご無礼を許してくれますか?」

「あら……あなたが私にお願いをするのは初めてね。私に叶えれるものならば」

「失礼を致します……」

 

 学者は膝をつき、彼女をゆっくりと抱きしめた。

 

「本当にありがとうございます。とても、とても幸せでした……私の幸福は貴女と共にあったのです」

「え……?」

「ここは暖かく穏やかで私の理想です。だからこそここは現実ではなくて……私の夢なのですね」

 

 終わりを告げた言の葉によって。

 瞬きをする間もなく、穏やかな陽光も、芳しい花の香りも、豊かな草花も、何もかもが消え去った。

 在るのは暗く汚れて不潔な、光も差さない石壁に囲まれた牢獄の中。

 幸せも幸福もここにはないと思い知らされる絶望の石室。

 

「どうして……!?」

 

 悲鳴を上げる彼女に申し訳なかった。

 みるみるうちに学者の眼窩は落ち窪んでいき、かさついた肌はまるで老人のよう。

 学衣ではない粗末な布切れを纏った身体は痩せこけていて、骨に皮がへばりついた今にも生を手放しそうな無残な姿だった。

 

「私は失敗しました。何も為せず、希望という釣り餌を貴方にただ見せつけただけの愚か者でした」

「違う! あなたは……! あなただけは私を……!」

 

 学者が草神と出会ったのは夢ではない。

 わずかな時間ながら、交流も現実であったことだ。

 クラクサナリデビがテイワットへ生まれ落ちて百余年。初めて心を通わせた人であったろう。

 けれども彼女を解放するには力不足だった。

 若く未熟な学者には権力など欠片も無く、資産で他人を働かせる事も人々から支持されるカリスマも持ち得ない。

 武力によって基盤をひっくり返すなどもってのほか。

 知識と医学に優れていても、スメールの在り方を変えうる要素の全てが欠乏していた。

 もしも数十年、いや五十年をかけて権力の掌握までこじつけたならば話は違ったかもしれない。

 だが待てるはずもなく、そうはならなかった。

 賢者となるための積み重ねは道筋そのものが彼女を救う事に反していて、情熱も想いもいずれ摩耗によって擦り切れることだろう。

 

「ダメよ……こんな……こんなところで……! 戻って!」

 

 彼女の瞳から大粒の涙が零れ、元素力が学者の頬を撫でて数秒だけ艶めくが、またひび割れた土へと戻った。

 草神の権能を持ってしても黄泉路は遥か前に通り過ぎてしまっている。

 夢を見ていられないくらいに、身体はもう終わりつつあった。

 

「あれから一年経ったのでしょう。貴女のおかげで生き長らえましたがここまでのようです」 

 

 正規の手続きを経ずに事を成そうとする者の結論はみな同じようなもの。

 進退窮まった末の行いは友人のマハマトラを騙し抱き込んで、人知れず彼女を拐かす事だった。

 急遽の準備から急がせて引っ張るように彼女を運び入れた荷物へと隠した。

 それはクラクサナリデビが重要視されていなかったこと、百年の平和による杜撰な警備、学者の身分とマハマトラの証印の信用。

 何よりも彼女の信頼を得ていたこと。今の学者でも連れ出すための要因は揃っていた。

 駄獣と共に西へ出奔し、隠れながらも半日以上かけてヴィッシュダ辺土を南へ通り過ぎる。

 

「見てくださいますか」

「あ……わぁっ……」

 

 隠れた荷物から這い出ると、夕暮れのスメールはオレンジ色に染まっていて熱せられた砂漠の空気で夕日がぼんやりと歪んで見えた。

 熱帯雨林特有の湿度はじっとりと熱く重く、高所にはシダ科の樹冠が幾つも折り重なって緑の足場ができている。

 巨大な樹木は人を百人集めても背は足らず、坂の下の湖へと剥き出しになった太い根が力強く伸びていた。

 何百年も変わらない壮大な風景を端末越しではない生身で見渡して、彼女は瞳を輝かせた。

 

「綺麗ですね……」

「ええ、ええ……! とても美しいわ! ああっ……」

 

 翠玉の瞳を潤ませながらも、子供のようにはしゃぐ姿に胸が熱くなる。

 こんなにも喜んでもらえるならばもっと早く行動すべきだったと思う。

 スメールに未練はない。

 彼女には一時的に抜け出すと説明していたが戻る気はなかった。

 砂漠を渡り他国へと逃げるつもりだ。

 草神である彼女はスメールと民を愛している。けれど一方的に愛を収奪する奴らに彼女は必要ない。

 きっと彼女を戻りたくはないはずだ。そうではなくてもいつかわかってくれるだろう。

 暗い気持ちを隠しながら歩く学者を待ち受けていたものは、決められた演目の結末。

 

「何故……だ……」

 

 気づけば囲まれていた。

 雇われたエルマイト旅団の五十人近い傭兵、当代の大マハマトラと熟練の部下たち、調教されたリシュボラン虎まで数匹いた。

 中心には直属の上司でもあった憤怒する賢者の姿。

 結局のところ学者には政治的才能が無い程度には、逃亡者としての才もなかったのだろう。

 早々に発覚した逃亡は回り込まれ包囲されて、逃げるなど不可能に思えた。

 

「貴様を買い被っておったわっ! クラクサナリデビを略取しようなど血迷ったか!」

「違う! 彼女は解放されるべきなのだ!」

「意味の通らぬことを! 問答は無用! ひっ捕らえて儂の元へ連れてこい! 神は決して傷つけるな!」

「ま、待って……どうしてこんなことにっ……!?」

 

 彼女もまた世界への憧憬で目を曇らせていたのだろう。

 仮に抜け出し帰ってこれたとしても、発覚すればその罪は全て学者へと降りかかる。

 それは軽いものではない事など誰にでもわかる。

 草神である彼女にとって、自身が外を見るだけの事と民が傷つく事は決して秤にはかけられない。

 冷静であれば急かされても出るはずはなかったのだ。

 

(マハールッカデヴァータ様であれば全てがうまくいったのだ……!)

 

 百年前の賢者が残した落胆の言葉が胸の奥をきしませる。

 期せずしてその未熟さを証明したようで。

 けれど失敗は取り返せるのだ。彼を助ける事など簡単だ。だって自分は神なのだから。

 数十の刃と牙が学者を引き裂かんと押し寄せてくる直前に。

 

「引き返しなさい! 彼を傷つけるのは私が許しません!」

 

 クラクサナリデビの突き出した両手から深く濃い翠玉の光が広がっていき、傭兵の群れが地から飛び上がる無数の草元素に吹き飛ばされた。

 緑の種があらゆる草木から生え出ては破裂し、マハマトラ達を打ち倒した。

 元素の幻が傭兵と虎を惑わせ同士討ちさせて、緑の蔓が幾人も締め上げては宙へと足止めをする。

 難を逃れていた賢者は茫然と驚愕で腰を抜かしながら、必死の後ずさり。

 凡人では魔神には叶わない。百年の安寧は神が神たる由縁すら忘却していた。

 

「お、おおっ……これがクラクサナリデビ様の権能……」

「大丈夫……あなたは私が守るから」

 

 頼もしい姿に学者は喜色を上げた。

 その力は凄まじい。きっと三十人団とエルマイト旅団の総勢を持ってしても彼女には叶わないだろう。

 元素の爆発によって悲鳴を上げて吹き飛ぶ旅団兵。

 虎に襲い掛かられ必死に牙を食い止めるマハマトラ。

 胴と首を蔓で繋がれ窒息しつつある傭兵。

 てんでばらばらに降って湧いた災禍から逃げ惑うばかり。もはや戦いの体を成していない。まさに一方的な蹂躙――!

 

「て、て、手加減をっ……! 彼らが死んでしまいます!」

「くっ、うまくいか……ないの!」

 

 誰にとっても誤算。初めて人へと発現させた権能を草神は御しきれていなかった。

 みるみるうちに弱っていく兵士達を見て学者はぞっと心中を震えさせる。

 力と彼女に怯えたのではない。

 逃げるだけならばまだしもクラクサナリデビ本人に民を傷つけさせている事に恐怖した。

 他ならず自分の行いが災を呼び込んでいる。それが裏切りではなくてなんだというのだと。

 その日その時、見定めていたはずの道標はとうに道を外れていて、自分は間違っていたと気づいた。

 

「……ありがとうございました。クラクサナリデビ様。もうよいのです。私は投降を致します」

「えっだって……? このままじゃあなたは……」

「貴女がほんの一時でも心穏やかになってくれればと、そう願っていました……しかしっ……ぐぁぅっ……」

「や、やめなさいっ!」

 

 学者はクラクサナリデビの手をそっと握り優しく下ろそうとして緑光に苛まれる。

 神の目を持たない人は形になっていない元素力にすら耐えられない。

 慌てて力を止めれば、学者は酷く穏やかな顔で賢者の元へと歩いて行った。

 兵士達も虎も傷つき意識を失っているものもいるが、死んでいるものはいないようだった。

 よかったと息を吐く。最悪は免れたと。

 

「賢者様……私が間違っておりました。クラクサナリデビ様を騙し連れ去ろうとしたのです。どうか裁きを」

「わからない……! なんで……どうしてなのっ!」

 

 クラクサナリデビの悲鳴が響き、幕は夕暮れとともに下りていった。

 

 

「責任は誰にとらせるつもりでしょうか」

「責任……? 犯人はもういるではないか」

「厳重に警備していれば防げた事態だろう。なぁマハマトラよ」

「私どもは協力者を免職させております。二度とは起こさせません」

「そもそも奴は生論派でしょう。責任ならば直属が取るべきでは?」

「ふん……あれはクラクサナリデビの力を目の当たりにして未だベッドでうなされているよ。もうダメだな」

「ほう。新たな賢者の任命ですか。荒れますなぁ」

「マハマトラ殿も渦中にいたはずでは?」

「はい。恐ろしい力でした。元素力を持つ相手と戦った経験はありますが比べ物になりません。

 捕まえた犯人などより、クラクサナリデビが異常なく機能するシステムの開発を急ぐべきかと」

「素論派はどう考えている?」

「なんとかなる、というよりはなんとかするしかなかろう。幸い百年は何も起きなかったのじゃ。

 血迷った馬鹿者がいなければ、神も無茶はするまい」

「おい、犯人の事を忘れるなよ」

「極刑を下せばよかろう。本人も裁きを望んでいるようじゃな」

「明論派から一つ提案が。実は開発中の物がありましてアーカーシャを通じて人為的にサティアワダライフに至れる品です。

 引いては世界樹へ到達できる可能性のある装置があります」

「ほほう。人体実験したいと。幸い身寄りもいない男ですし。流石は目の付け所が違いますなぁ」

「人聞きの悪い事を。取るに足らない者に価値ある知識を得れるチャンスを与えているのです。むしろ光栄では?」

「些末事よ。好きにせよ。そ奴は教令院にはいなかった。素論派は早急にシステムの開発に取り掛かれ。他の者も協力するがよい」

 

 

 そうして若い学者は装置の実験という裁きを受けた。

 サティアワダライフへ至る事に成功したが、当然それだけで終わるはずもなく続行される。

 パリプーナライフに段階を進めた所で予定通りに発狂して、グラマパラと呼ばれる存在になっていた。

 いいデータが取れたのだろう。

 賢者と他の学者達は検体を教令院の隠し部屋に入れて、一応は世話をしていた。

 だがそれも一か月、二か月、三か月と重ねる事で杜撰な扱いとなっていた。

 元々が罪人で、死んでも構わないとなればそのようなものだろう。

 食事を介助され、身体を拭かれていた内はよかった。

 段々と扱いは悪くなっていき、狂った本人も食事などに無頓着。

 水か重湯を渡されているだけで、寝たきりとなっていた。

 クラクサナリデビが元素力を封ずる装置へ移設されてから、力の抜け道を探すのに半年かかった。

 その途中、外界への接触を試みようとするうちに気づけば人の夢へと入る力を得ていた。

 皮肉にも実験が行われた事が権能を増す要因になったのだ。

 しかしあくまでも夢は夢。逃がす事も助ける事もできやしない。

 もしも人を操る力でもあればどうにかできただろうが、そのような力は持ち合わせてなかった。

 死にゆく彼を延命し心を糧に夢境を構築して、せめて最期までは夢の中で幸福でいてほしいと願うのが精一杯だった。

 

「あなたは夢から覚める必要はなかったの……」

「伝えたい事があったのです。このようになったのは残念ですが後悔はありますが――

 それは私の失敗なのです。罪は私が引き受けるもので貴女が悔やむものではありません」

「納得できない。私がいなければ……あなたと出会ってなかったら、こんな寂しい所で……」

 

 彼女は口をつぐんだ。死ぬ。亡くなる。終わる。そう言ってしまうのが嫌なのだろう。

 優しく慈愛に満ちた神なのだ。

 

「そうではありません。本当に、本当に幸せだったのです。貴女を想う事で私は満たされていました。

 悲しくさせてしまったのなら申し訳ないです。でも貴女だけには私の幸福を否定しないでほしい」

「勝手だわ……百年間で一人だけ私に話しかけて……外に出そうとして……こんなになってまで幸せだなんて勝手過ぎるわ」

「ええと、言われてみれば……おっしゃる通りですね……?」

 

 泣きながら、でもどこかおかしくなって二人して笑う。

 そう、勝手だった。思いつめていた。もっと多くの事を話すべきだった。

 知識の神である彼女を助けたいのならば、その彼女に相談すれば仲間を増やすこともできたかもしれない。

 一人で暴走したあげくがこのざまだ。血迷ったと賢者に罵倒されたのも当然だったろう。

 やり直せるものならばやり直したいが、後悔よりも大事な話がしたかった。

 

「最後に一つだけ」

「うん……」

 

 瞳が淡く揺れる。幼い返事には震えがあった。

 

「世界樹を探索していた私はあらゆる知識と繋がっていました。過去も現在も未来もなく全てが繋がっていたのです。

 無限の知識の奔流に流されていく中、一つの未来を見ました。それは貴女がスメールの皆から祝われている光景。

 頼もしい金髪の旅人とその仲間とともにスメールへ訪れる厄災と戦っておりました。……突拍子もない話と思いますが信じてくれますか」

「信じるに決まってるわ。あなたは嘘なんて言わない」

 

 暖かな抱擁は言葉よりも強く伝わってくるよう。

 

「ありがとうございます……どれだけ先の未来かはわかりません。

 それでも必ず貴女が報われる時が来るはずです。どうかご自愛ください」

「ええ。ありがとう……あなたのおかげで私は救われたの。実はね……あなたと初めて会った時に寂しいと聞かれてそれがどういう感情かわからなかったの。

 言葉の意味を知っていても想いがわからなかった。けれどあなたが帰った後にもっとお話しがしたいと思った。

 この気持ちがそうなんだってわかったの。―――嬉しい気持ちも寂しい気持ちもあなたが教えてくれたの。だから……だから―――」

 

 気づけば夢から覚めていて、奇妙な装置の中で幼い子供の悲痛な鳴き声が響く。

 それは誰にも届くことなく闇の彼方へと消えていった。

 教令院でとある若い学者の名が在籍名簿から消えていて本人の姿もいなくなっていた。

 草神誘拐の記録もまた記されることはなかった。

 一人の存在が消えたことに気づいたものは何人もいたが、教授賢者が口を揃えて知らぬと言い張ればその噂も消えていった。

 これは歴史には残ることのなかったクラクサナリデビと学者の失われた追憶の物語。

 神と人の知られざる親愛の物語。


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