夏の暑い日差しを抜けて喫茶店の扉を開けると、キンキンに冷えたエアコンの風が、いらっしゃいませの声よりも早く俺の元へと届いた。高熱でうなされている寝苦しい夜、ふと誰かが額のタオルを取り換えてくれたときのような、爽やかな涼気が全身に染みわたる。最近のエアコンは省エネ機能だかAI搭載だかなんだかで、人間と環境に優しい温度に勝手に変えてくるらしいが、年代物のエアコンはそんなまどろっこしいこともせず、18度びたびたのままイソップ寓話の北風みたいに寒風をびゅうびゅう吹き付けていた。手前の席で薄手のカーディガンを羽織りながら縮こまっているお客さんには悪いが、やっぱり夏はこうじゃないとね、と心の中でうんうん頷く。
レジに立っていた顔見知りの店主に「奥空いてますか」と声をかけると「空いてると思うよ」とのこと。平日の午後ならさすがに大丈夫だろうと高をくくっていたが、いざ直前になると心配でそわそわしていたので、とりあえず一安心。左にはカウンター席、右手にはテーブル席が立ち並ぶ細長い店内を、奥へ奥へと進んでゆく。
ちょうど突き当りの左手にある扉を開けて、こぢんまりとしたスペースにある二人掛けのテーブル席に腰を下ろした。壁も厚くなく、人の頭より上はスモークガラスで仕切られているだけなので、プライバシーが完全に守られているというわけではないが、それでもこの喫茶店唯一の個室席だった。
運ばれてきた水をぐびぐび飲んでいると、机上のスマホに「ついたよー」というメッセージ。はしたないが、座ったまま扉を開けて、隙間からひょこっと顔を出して手を振った。こちらの姿に気づいたのか、店の入口で不思議そうに辺りを見回していた待ち人の目がまん丸に見開かれる。そのまま、まるで美術館にでもいるかのように、あちこちへ忙しなく目を動かしながらこちらへと歩いてきた。
「お疲れ様です氷川先輩。ここ、座ってください」
「なにこの席!? もしかして特別な席だったりする?」
「いや、全然。こんなところにあるし、案内もなにもないせいで常連客以外は座らないんですけど。……ま、知る人ぞ知るスポットってやつですね」
聞いた話だと、昔は喫煙スペースだったとか。完全禁煙に移行して必要なくなったので、テーブルを置くだけおいてそのまま個室として活用しているらしい。
「なるほどねー。よく来るんだ、このお店」
「親戚がやってるってだけなんですけどね」
なんか頼みましょうと声をかけて、メニューを氷川先輩に手渡す。目をきらきらと輝かせた彼女は、ぺらぺらとページを捲り捲り、ぱたんと閉じて考え込んだ。
「あ、俺おごりますよ」
「ほんと!? じゃあこのプリンアラモードと、ホットケーキと……」
「すいません。情けない男で申し訳ないんですが一品でお願いします」
「じょーだんじょーだん。……ならこのメロンの器のプリンアラモードで!」
「それ一番高いやつー……いいでしょう。それ、15分位かかるんでドリンクかなんか頼んだ方が口寂しくなくていいですよ」
「なんかおすすめとかある?」
「無難なのはクリームソーダとかですかね。ザ喫茶店って感じで」
「じゃあそれでいいかなー」
店内を駆け回っている店員さんを捕まえて注文を伝える。ほどなくして、透き通るような青色のクリームソーダとコーヒーが到着。青い海にぽつんと浮かぶバニラアイスをスプーンでぱくりと食べた氷川先輩は、くぅ~と声をあげてアイスクリーム頭痛を楽しんでいた。残ったわずかなアイスの生き残りたちも、ぐるぐるとかき回されソーダの中へと沈んでゆく。青い海にどぼんと飛び込む乳白色の群れ。それらはやがて溶け合い、グラスの中は、陸の上を滑る波の、あの白い泡まじりの濁った青に占められた。
そうして氷川先輩がクリームソーダを一通り楽しんだのを見計らってから、意を決して、俺は本題をゆっくりと切り出した。
「改めて今日はありがとうございます。忙しい中来ていただいて……」
「パスパレの活動がない日は案外暇だよ。それに、大事な話って聞いたときにはるんっ♪ てしたしね。早く聞きたいな~」
「あのですね。実は最近、ちょっと気になっていることがありまして」
「うん」
「それも、つぐみに関してのことなんですけど……」
「うんうん」
「もしかしたら……あいつ、俺のことが好きなのかもしれないです」
「うん?」
何言ってるんだこいつみたいな顔が眼前に現れた。
「好きっていっても、友情的なアレじゃなくて、恋愛的な意味ですよ! 最近、なんか様子がおかしいなって思ってて、そうなのかなって……」
突然、クリームソーダをしゅごーと猛烈な勢いで吸い上げる氷川先輩。ぐんぐんと水位が下がって四角い氷たちが露出し始める。そんなに急いで飲んだらすぐになくなっちゃいますよ……って、いやもうこれ帰ろうとしてない!?
「ちょっと待った! 男一匹、ここに真剣に話をしにきたんですよ! それに俺のおごりのプリンアラモードが来るまではここにいてもらいますからね」
「うわ~」
「うわ~とはなんですかうわ~とは、大事な話ですよマジで!」
「あたしに聞きたいことってそれ?」
「はい。氷川先輩はどう思います?」
「ただの勘違いじゃない?」
「え゛っ!?」
あまりの衝撃で喉の一番奥深くからでかい声が出てしまった。慌てて声のボリュームを落として追及する。
「ホントに!? 真面目に考えました!?」
「ん~。どうだろ」
「この前、駅前で勝手にミニライブやりだしたの白鷺先輩にチクりますよ」
「……しょうがないなぁ」
氷川先輩は、しぶしぶといった感じで腕を組んで考え始めた。そして、ぼそりと呟くように一言。
「……分かんない」
「分かんないってことあります!? あなた天才なんでしょう!?」
「真剣に考えたよ。でも、つぐちゃんの心なんて分かんないって」
「別に完璧に当てることはできなくても、行動や様子からなんとなく分かるでしょ! 国語の問題と同じですよ!」
「いや、分かんないよ」
声のトーンががくんと落ちた。若干ツッコミのノリだった浮ついた気持ちを正して、こちらもちゃんと話を聞く態勢を作る。
「あたしは、あたしと一緒にいるときのつぐちゃんのことしか知らない。キミといるときのつぐちゃんがどんな態度なのかは知らないし、だから、キミに対するつぐちゃんの気持ちも分からない」
「……それはそうなんでしょうけど」
思わぬ答えにしゅんと縮こまる。そんな俺をみかねてか、氷川先輩の声色が柔らかいものに変わった。
「……キミの問題はあたしには解決できないと思うけど、でも、話を聞くだけならできるよ。話しているうちに考えがまとまることもあるんじゃない?」
そのまま「でしょ?」と可愛く首をかしげる。なんだかんだいっていい人だ。
「まずは状況を整理してみようか。好きなのかも! って思うってことは、相応の根拠があるわけだよね? まずそれから話してもらってもいい?」
「それが……近頃、つぐみとよく目が合うんです」
「うん」
「ここ一、二か月くらいですかね、なんかやたらと多いんですよ。試しにネットで検索してみたら『目が合うのは脈アリのサイン!』って紹介されてて、もしかしたらそうなのかなって……」
「うーん。ただ単につぐちゃんが人の目を見て喋ってるだけじゃないかな~」
「いやいや。しかもですよ。目が合った後、あいつ笑うんです! 注文を伝えたときとか。コーヒーを持ってきてくれるときとか。読んでる本からふと顔を上げたときとかに、ふふっと!」
「……それ、つぐちゃんのお店に行った人なら全員経験してると思うよ」
「え゛っ!?」
強烈な一撃に椅子から転げ落ちそうになった。そんな馬鹿な。かろうじて踏みとどまった俺の代わりに、向かいのグラスに入った氷がカランとずり落ちる。
「そうだとしても、俺への回数が一番多いですって」
「え~?」
「そこまで疑うなら、後でお店に行って検証しましょう。受けて立ちますよ」
「絶対変わんないと思うけどな~。つぐちゃん、接客中はいっつもニコニコしてるし」
互いに主張を譲らず平行線のまま。これ以上言葉を交わしても無駄だろう。とりあえずこの件は後回し。
だが、もちろん俺もアホじゃない。ここまで言うからにはそれなりの理由があるのである。
「証拠はこれだけじゃないですよ……実はこの前、つぐみとデートに行ったんです」
「へ~」
「先週の土曜の夜、つぐみの店で商店街のミーティングがあったんですよ、閉店後に。そこに俺も雑用係として駆り出されてたんですね」
正直、店に行く口実が出来てうきうきだったのだが、これは言わないでもいいだろう。
「資料配ったり、椅子を用意したり、配膳したり……。仕事量もそんなにあるわけじゃないんで、大半はつぐみとダベってましたね。それで、ちょうど話題が入浴剤になったんですよ」
コーヒーで口を湿らせつつ、話を続ける。
「今うちで、お中元で送られてきた入浴剤を使ってるんですけど、そこから俺もすっかりハマっちゃって、なんかおすすめのある? って聞いたんです」
「あー。つぐちゃん好きだもんね」
「ですです。そしたら、『私は最近手作りしてるよ』みたいな話になって、え~手作りとか不可能じゃないの流れになり、だったら教えてあげるよという結末を迎えて……」
「迎えて?」
「その次の日に、つぐみと二人きりでデートに行ってしまいました……」
「顔がもうふにゃふにゃじゃん」
氷川先輩がじとっと視線を突き刺してきたので、とりあえず顔を締め付けた。のろけ話を聞かせたいわけじゃない。
「さすがにこれは俺のこと好きですよね?」
「うーん。つぐちゃんって、困ってる人を見たら放っておけないタイプだからな~」
「え゛っ!?」
「それに、ただ買い物しただけでしょ? その後どっか行ったの?」
「……いや。必要な物買って、最寄りですぐ解散しました」
「じゃあデートじゃないじゃん」
「そんな! でもつぐみと二人きりでお出かけなんてスーパーレアイベントですよ!」
「そうかな? 性別の違いはあるけど、おねーちゃんなんか月一くらいでつぐちゃんとお出かけしてるよ」
「え゛っ!?!? 知らなかった……」
「逆に知ってたら怖いよ」
やれやれと首を振る氷川先輩。全ては哀れな男の勘違いだったのだろうか。二人で買い物したのも、つぐみにとっては単なる人助けで……普通のことで……。こっちはめちゃくちゃ緊張して夜も眠れなかったってのに。
「まぁでも、少なくとも好意はあるんじゃない? それが恋愛感情かどうかはともかくさ」
「そんなことはさすがに分かってますよ! でも、このごろ何かいつもと違う反応が多くて……」
自分自身の言葉が信じられなくなってきて、尻すぼみに声が小さくなり、二の句も継げられなくなってしまう。二人の間に沈黙が漂いだす。やっと仕事にありつけた店内BGMが、その空隙を漫然と埋める。
店員さんがやってきて、テーブルの中央にプリンアラモードを置いた。ドリンクも飲み終えて寂しくなった机上に、山盛りのフルーツを乗せた輪切りのメロンがどーんと現れる。リンゴ、キウイ、パイナップル、バナナ……。細長くカットされ器に差し込まれている様は、まるで生け花のようにも見える。
「これ、陶器なんだね。一瞬ホントのメロンかと思っちゃった」
「よくできてますよね。遠くからの写真だと勘違いする人も多いらしいですよ」
器の側面をコンコンと叩いてみせた氷川先輩は、フォークをもって、まずはフルーツの山を取り崩しにかかった。やることもなくて、その解体作業をぼんやりと見守る。
工事は順調に進み、予定通りにプリンへとたどり着いた。フォークが置かれる。しばらくの間食べ物に夢中だった氷川先輩の口がコミュニケーションをとるために動き出す。
「……さっきも言ったけど、あたしは、あたしの知っている範囲で推測することしかできないからね。キミの言っている笑顔だって、あたしの想像してる笑顔とは全く違うかもしれない。お出かけだって……結局、当日のつぐちゃんの様子はキミしか知らないわけだし」
「じゃあ、俺に対するつぐみの気持ちは俺にしか分からないってことですか?」
「もう少し詳しく言えば、解明するための手がかりをキミだけが持っているってカンジかな。……あたしに分からないって事実は揺るがないし、細かい定義はどうでもいいんだけど」
そう言って、ぱくりとプリンを一口。また一口。そしてもう一口。
食べている姿をじっと見ているのも悪いかなと思い壁の模様を眺めていると、さくっという音が聞こえた。おそらく、プリンの底が抜けシリアルの地下帝国に入った音だろう。氷川先輩は、これから掘る地盤がどんなものなのかを確かめるように、そのシリアルをシャベルでつんつん
「つぐちゃん自身が、誰かに気持ちを伝えてることはあるかもしれないよね。ちょうどいまキミがあたしに話してくれてるみたいにさ」
「氷川先輩も、つぐみの相談に乗ったりとかするんですか?」
「あたしが会長だったころは多かったかなー。大学生になってからはあんまし。むしろ今のつぐちゃんのことなら、おねーちゃんの方が詳しいかもね」
「……いま電話で聞いたら怒られますかね?」
「あー……」
氷川先輩が、手の中でスプーンをくるくると回した。
「怒りはしないだろうけど、今朝、外出するって言ってたし出れないかもねー。っていうか、おねーちゃんに連絡する手段あるんだ」
「商店街のお祭りに出てもらったときに少しやりとりをしたぐらいなんですけど……冷静になってみるとめちゃくちゃ迷惑ですよねこれ」
「そりゃあ困りはするだろうけど、真剣な話だし、聞きたいならしょうがないんじゃない? あたしの名前出していいよ」
氷川先輩に特大の感謝をしてから、アプリを起動して氷川と検索する。一年も前の業務連絡の下に経緯をつらつら並べ、電話で相談させてくださいと送った。
返信を待つ間、追加でなにかオーダーしとこうと思った矢先、テーブルにうつ伏せになっていたスマホがもぞもぞと動きだした。
「早っ! もう家に帰ったのかな? それで、なんて?」
「俺もビックリしました。ええと……いまかけてきて欲しいそうです」
「んん? ……よかったじゃん?」
「ちょっと連絡してきますね」
「いってらっしゃーい」と見送られて店の外に出る。文明の利器の恩恵にあずかっていたせいで忘れていたのだが、夏真っ盛りだった。太陽は嫌味なくらい元気で、久々に練習を見に来たOBのようにコンクリートを叱咤激励し、当のコンクリートも仕方なしに辺りの空気をしごいている。そうして体育会系の三人が頑張って作り上げたのが、このはた迷惑な自然のサウナというわけだ。
せめて日陰でと思い、軒下の細長いスペースに入ってから電話をかけると、3コールもしないうちに氷川さんが出た。
「はい。氷川です」
「お久しぶりです。すみません、突然連絡してしまって。今、外出中ですか?」
「ええ。ですが、待ち合わせ場所に早く着いてしまったところで……時間には余裕がありますし、短時間であれば構いません」
氷川さんの話しぶりはまるで最善手を打ち続けるAIのようだった。以前話したときは、商店街のお祭りとはいえギャラも出るような仕事としての会話だったし、意識してこんな話し方をしているのかなと思っていたが、どうやらこれが彼女の基本スタイルらしい。弓道部に所属していたんだっけ。毅然とした立ち姿から正確に的を射抜いてゆくさまが目に浮かぶようだ。
しかし、そんな張りつめた弦のような声色が不意にふっと緩んだ。
「それに、その……いつも日菜がご迷惑をかけているようですし」
「いえいえ! むしろ、助けられることが多いですよ。今日だって相談にのってもらってますし」
「それならばよいのですが……日菜から聞く話はどれも破天荒なものばかりで……」
「確かに、退屈はしないですね」
どちらからともなく苦笑が重なる。もしかすると、つい緊張が滲んでしまったこちらを慮って、空気を和らげようとしてくれたのかもしれない。凛としたかっこよさと、それをさらに引き立たせる優しさの隠し味……。氷川妹が、口を開けばおねーちゃんおねーちゃんと言うわけだ。
「それで……話っていうのも、つぐみについてのことなんですけど……」
こう改まって話始めてみると恥ずかしさもあるのだが、人を呼んでおいてごまかすわけにもいかないので、腹を括る。
「氷川さんは、つぐみと会話することも多いと思うんですが、その中で、俺に関する話って出たことあります?」
「……一、二度なら覚えがあります」
「そのとき、俺に対する印象とかって、あいつなんか言ってました? 氷川さんの推測でもいいんですけど」
「印象、ですか……」
沈思黙考、というような凪が訪れた。めちゃめちゃ心が痛む……。面倒くさい質問を投げてしまったのもそうだが、この人の思考のリソースと時間を奪っているという事実にすごく悶々とする。
「少なくとも」と言いかけた氷川さんが、また一旦立ち止まる。戸惑いの表れた声色に、慎重に言葉を選んでいる様子が伝わってくる。
「……嫌っているという感じはしなかったと思います。そもそも、羽沢さんが誰かを嫌悪しているところをみたことがないのですが」
「ですよね……ありがとうございます。あともう一つだけ。……つぐみから恋愛の話とかって聞いたことあります?」
「申し訳ないのですが、もし羽沢さんから聞いていたとしても、その話を他人にする気はあまり……。かなりデリケートな話題ですし」
ド正論に頷くしかなかった。そりゃそうだよな……たとえ過去に恋愛相談を受けていたとしても、氷川さんはそれをほいほいと言いふらすような人じゃない。逆に言えば、俺とのこの会話をつぐみに話すこともないわけだが。……それにしても、この怪しい質問を深堀りして聞き返さないあたり、ちゃんと線引きができているというか、こちらとしては本当にありがたかった。
せめてもの誠意として、電話越しにでも深々とお辞儀をして感謝を伝えると、今度は氷川さんの方から質問が飛んできた。
「関係のない話にはなってしまうのですが、いま日菜といる喫茶店の名前を教えていただけますか?」
「えっ? ……はい。あの、商店街の近くの“おうとう”って店ですね」
「なるほど……。ありがとうございます」
はてなマークを浮かべつつ答え、失礼しますと交し合ってから電話を切った。氷川さんが親身に相談にのってくれ、その人間性の素晴らしさも垣間見えたわけなのだが、収穫としてはゼロである。ため息……を寸前で飲み込んで席へと戻った。
「どうだった?」
「状況は変わらずですね」
「なぁんだ」
氷川先輩はもうプリンアラモードを食べ終えて、今度は看板メニューの分厚いホットケーキと対峙していた。フォークでぐさっと突き刺し、大きな口でがぶり。う~ん、と顔をとろけさせている。よし、食レポは問題なさそうだな。
二段あるうちの一段目を平らげた氷川先輩は、一旦休憩とばかりにこれまた追加で頼んだらしいキャベツ青じそキウイジュース(俺は好き)をずずずと啜ってから、こちらをじっと見つめてきた。
「そもそもさ~。つぐちゃんがキミのことを好きかどうかはともかく、キミはどうしたいわけ? 両想いだったら、つぐちゃんと付き合いたいってこと?」
「……大筋はそうですね」
「大筋ぃ~?」
「ごめんなさい嘘です付き合いたいです」
「よろしい」
ごまかしは通用しなかった。その観察眼は他のところで使ったほうがいいのでは?
「それも仕方ないかぁ。つぐちゃん可愛いもんね~」
「そうなんですよ。あいつと知り合ってからもう十年くらい経ちますけど、会うたびに魅力が増してるというか、看板娘は日々進化中というか」
身を乗り出す俺。ずり、と椅子を引き下げる氷川先輩。
「さっき言った商店街のミーティングがあった日とか! なんかすげえ髪型が……頭のこのへんにこう……リボンの編み込みがされてて、店に入ってニコってされたとき、口から心臓でかけましたもん」
耳の横のあたりを指でねじねじしながら熱弁していると、不意に氷川先輩が「ん?」と怪訝な表情を浮かべる。
「それ、先週の土曜の話だよね?」
「はい。俺がつぐみとデート……もといお出かけした前の日ですね」
「ふ~ん」
そう答えた氷川先輩だが、それでもまだ何か引っかかっているらしい。え、怖い。時系列トリックとか隠されてたりします? 間違いなくあれは先週の土曜だったよな、うん。ぽわんぽわんと脳裏に蘇るミーティングの景色。……いや、記憶の中でさえついついつぐみに目がいってしまう。あれはとてつもない破壊力を秘めていた。
「……まぁいいや。付き合いたいってことは、告白とかするんでしょ?」
「そうなる……んでしょうか」
「そうする以外になくない? 付き合う方法って」
告白——そのたった四文字に、全身がぶわっと粟だつのを感じた。それは、触れてはならぬ古代文明の秘宝のような、強大な力と凶悪な呪いとに満ちた禁断の言葉で、口にするだに恐ろしかった。
「でも……断られたりして気まずくなるくらいなら、いっそこのままの方が……」
「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない――じゃないけど、これから高校を卒業して環境も変わっていくんだから、何もしなければ遠ざかっていくだけだと思うよ」
「気持ちは分かるけどさ」と言いつつ、氷川先輩が淡々と現実を並べてゆく。
「キミとつぐちゃんの接点って、現状だと商店街の繋がりだけでしょ? この先つぐちゃんがお店に居続けるのかどうかも分からないわけだし」
「でも、付き合いたいってのは俺だけの願望かもしれなくて、あいつの気持ちが分からないうちは、迷惑なだけかもしれなくて――」
その時、たぶん今日初めて、氷川先輩が会話中に俺から目をそらした。その視線の先には、動かぬ扉しかない。人が通るまで瀟洒な執事のようにじっと佇んでいる扉――。しかし、彼女の瞳がそれを映していないことは確実だった。
「――あたしは、伝えるよ。その気持ちが相手にとって迷惑かもしれないと思っても。だって、好きなんだもん。好きで、振り向いてほしくて、変えたいだもん」
若草色の虹彩が仄かに震えたのが見えた。
「もちろん、自分の気持ちを押しつけるだけじゃなくて、相手の気持ちも考えてあげなきゃいけないんだけどね。でも、自分自身の気持ちだって、大切な人の気持ちと同じくらい大事だよ」
そこまで言ってからこちらに向き直った氷川先輩は、仮面を取り換えたかのように明るい顔になっていた。
「ほんとにつぐちゃんがキミのことを好きなら、話は簡単なんだけどね。もっと他にないの? 手を繋いだとか、ちゅーしたとか」
「あるわけないでしょ!」
「ホントに~?」
「そんなことがあったらもうすぐさま告白してますよそれこそ!」
氷川先輩の妄言につられて思わず熱くなってしまった顔をごまかすようにまくしたてる。
「スキンシップをとるとか、二人きりでのデートに行ければ好意があるって聞きましたけど、そんなイベントが発生するのって告白後じゃないかと思うんですよ。好きな気持ちが明確に表れる行為ってもはや、好きな気持ちの相互確認が終わってからじゃないと起こりえないわけじゃないですか。だからもうこれ現実がバグってますって」
「明確な線引きなんてないんじゃないの? どこまで許容できるかなんて人それぞれだし」
「じゃあいつ告白したらいいんですか俺は!?」
「……さぁ?」
「お願いですなんかるんっと告白大作戦みたいなやつないんですか!?」
手を合わせてみっともなく縋り付くが、氷川先輩に「あるわけないじゃん」と一掃される。無念……。討ち死にした武士のごとく椅子にもたれて死んだ顔をしていると、突然、素っ頓狂な声が聞こえた。声の方に目を向ければ、スマホを片手に持った氷川先輩が、被害者の残したダイイングメッセージと睨めっこする探偵のような表情をしている。
「……ごめん。ちょっと席外すね?」
「えっ……はい、どうぞどうぞ」
申し訳なさそうに眉を下げた氷川先輩が席を立つ。横切るときにちらりと画面が見えてしまったのだが、誰かから連絡がきていたらしい。彼女は、どちらかといえば返信を後回しにする――というか、目の前の楽しいことを優先するタイプだから、こうして二人でいるときに誰かから連絡があって抜けるというのは珍しかった。仕事に関するものだろうか? それとも家族? そこまで考えてから、益体もないと思考を打ち切る。
今のうちにとおかわりのコーヒーをもらって、適当にSNSでも眺めていると、氷川先輩が帰ってきた。正確に計っていたわけではないが、大体十分くらいだろうか。それでも、彼女の首元には汗の滴が光っていて、座るなり「あつすぎ~」と机に突っ伏してくる。
とりあえずは放置だなとコーヒーを飲んでいると、むんず、と机に圧しつけられていた顔がこちらを向いていた。何か言いたげな上目遣い。はいはいと嘆息して手うちわでしばらく仰いでやると、満足したらしく姿勢を正した。
「……どこまで話したっけ」
「告白までどうアプローチしていけばいいのかってとこですね」
「そこか~。……まぁ、なるようになるんじゃない?」
「なんか急にテンション下がってません……?」
両手で頬杖をつきながらストローに口をつけてキャベツ青じそキウイジュースをちゅうちゅう吸っている氷川先輩。さては飽きたな? だがもう少しだけ付き合ってもらおう。
「頼り切るつもりはないんですが、手助けとか……してもらえたり?」
「どんな?」
「こう……つぐみの様子を探る……とか」
自分で言ってて姑息だとは思うが、しかし打てる手はすべて打っておきたい。
「結局、あたしたちがどう頑張ろうと二人の問題じゃない?」
「そうなんですけど……氷川先輩も嫌じゃないですか? もし俺たちが両想いだったとして、すれ違う悲劇を見るの」
「いい気分はしないけど……そうなるしかなかったって思うかな」
すらりと伸びた指が役目を終えたストローの先をぶちっとつぶした。
「一応さ、キミには、永遠に相手からの告白を待つって選択肢もあるじゃん? これだと、自分の身勝手な感情を押し付けて相手を傷つけることは比較的ないわけだよね。相手に恋愛感情がないと告白してこないわけだし」
「はい」
「ただ、これだと一つだけフォローできないパターンがあるんだよ。それがキミの言った、お互い両想いなのに言い出せなかったパターン。要は、それが怖いんでしょ?」
「でもさ」と氷川先輩が続ける。
「自分の好きな気持ちを押さえつけて、終ぞ伝えきれなかった二人を、あたしたちが無理やり繋げたとして――その後上手くいくのかな? その後幸せになれるのかな?」
胸をずどんと撃ち抜かれた気がした。恋が分からなくて、相手がどう思っているのかが怖くて、はやくゴールにたどり着きたくて、その先にあるものを全然考えていなかった。
「正直、あたしがつぐちゃんにかまをかければ、好きな人がいるのか、そしてそれが誰なのかぐらいすぐ分かるよ。だけど、そうしないほうがいいかなって思う。キミたちは――苦しむべきだよ、きっと」
氷川先輩はそう言い切って「あたしも恋愛なんかしたことないけどね」と苦笑で締めくくった。
「苦しめってのがアレですが。俺のやるべきことは見えてきた気がします」
「あはは。まぁ服選びくらいなら付き合ってあげられるからさ。……この後ヒマ? 早速行ってみる?」
立ち上がりつつ次の目的地を提案する氷川先輩に待ったをかけた。
「待ってください! 忘れたとは言わせませんよあの勝負のこと」
「え? 勝負なんかしてたっけ」
「してましたよ! 俺に向けられるつぐみの笑顔の回数の話です! 休日のこの時間なら大体あいつ居ますし、行きましょう!」
目と目が合ったら勝負! とばかりにかち合った視線が、しかし冷ややかにそれとなく外された。
「いや~今日はいないと思うし、やめといたほうがいいんじゃない?」
「なんでそんなこと分かるんですか」
「カンだけど」
「カンて。あてにならないですよそんなの」
「もういいから行くよほら。せっかくだし池袋行こうよ、プラネタリウムも見たいしさ」
暑さも構わず店外へ躍り出た氷川先輩。わたわたとお会計を済ませた俺は、すでに電柱一本分小さくなったその後ろ姿を、ひーこら言いながら追いかけはじめた。