1
畢竟、自らの幸せというのは自らが決めるものである。
私はこの寒風吹き荒ぶ音ノ木坂の秋、彼女たちと初めて出会ったのだろう。出会っていたということは、ただ単に物理的な接触を、ぶつかりさえすれば、声を交わしさえすれば、体を触りさえすればよいといことでもない。
ただ、そのことすらも私にはわからなかったのである。
出会うというのはすなわち心を通わすということであり、私の心は、誰とも、世界のどこへであってもその羽根を広げたことは一度足りともないのだ。何かを内に、理解しようと努めたことはあったが、それもまた失敗であったことは認めざるを得ない。
そうではあるが、彼女、高坂穂乃果が私にとってのターニングポイント、ルビコン川、天王山、あるいはなんでもよろしいが、特異点であったことは間違いのないことだ。それは他の皆にとってもそうであろうと私は信じている。
であるならば、さだめし己が彼女に対して浮かべる感情や精神というものは温かな慕情であるに違いないと人は思うかもしれない。
それはある側面として正しいが、そうでないところもまた存在するのである。
彼女のようにできなかった私に対しての苛立ちは、茨を包み込む温室のビニールを破りそうになり、彼女に向きかねない。そして、そのことを、彼女は気づいている。
絢瀬絵里への思いというのは全く持って同情であり、そして、同族嫌悪であった。傷を舐め合うということをしか生み出さなかった。彼女を救いたいという心は全くなかったし、高坂穂乃果も持っていなかったに違いない。高坂穂乃果はさておき、私が絢瀬絵里に対して与えたいと思ったものと得たと思ったものはまるで簡単で、単なるハーフミラーである。
自らを写し、相手を隠す鏡。その鏡が写しているのは私であるのに、錯覚を起こすそれに私達は寄りかかっていたのだ。
であるならばこそ私達の関係が死んだような静寂に包み込まれていたことは不思議でもなんでもない。
私達の間に生まれた絆は何物もを生み出すことはせず、ただ二人の傷跡を覆い隠すだけの雪であった。深々と降り積もるその雪は、水を多く含んだ重い雪である。傷は真っ白に塗りつぶされる。見えなくなった傷から流れる血は、褥瘡のように醜く、熱を持っているはずだった。
その雪を取り剥がした彼女。
絢瀬絵里と東條希の二人は雪の彫刻のように固まりきっていた。求めるものもなく、ただ二人あればよいと、それであればあらゆる事は儚く、世事はつつがなく進むのであると勘違いしていた。いずれ、その雪は業火に侵され、傷跡を焼くような痛みが襲うということが、わかっていたというのに。そのことから眼を反らし、そして、諦めていた。
その傷跡を包み込む彼女。
私達の傷跡に対して彼女は何をしたのだろう?
何もできずに震える私を、私達を彼女はどう思っていたのだろう?
あの太陽のように鮮明な瞳をした彼女は、私達をあざけっていたのではないかと思うこともあった。
人を信じるということ自体、信じることはむずかしいものだ。
彼女を信じるということは、何を信じるべきかもわかっていない私にとっては苦痛であり、労苦であり、過去の記憶の中から突出してくる刃のようである。
何を持ってして彼女を信じる根拠とすべきだろうか。
私にとってそれはむずかしい問題であった。
しかしながら人と人の関係というのは、おそらくのところ、いや。
少なくとも私が信じるところによれば、無条件に人を信じるところに始まりがあるのだろう。
そこには打算はもちろん、ある。
打算のないものをこそ信じられないのが私達である。
しかしながら、高坂穂乃果の持つあの真夏の砂浜のような熱気は、それをやすやすとくぐり抜け、あるいは破壊する。
信じられないような豪腕。
あの細やかな身体のどこからあの力が出てくるのだろうと思ったこともある。
だが、それは全く持っておかしなことであった。
彼女は一人ではないのだ。
嫉妬してしまうほどに、彼女は皆に愛されていて、そして、信じられないほどに、何もかもを愛するのであった。
彼女は無欲ではない。
彼女は無私ではない。
求めることをしないことはない。
我欲を露にしないことはない。
しかしながら、彼女はそうでありながらも一方で我欲を捨て去ってはいない。
どころか、彼女は自らの欲望に素直であると言っても良い。
我欲があるゆえにこそ彼女は輝くのである。
彼女は、本気で、いや、正気で世界人類の夢が全て叶えばよいと考えているのだ。
ありとあらゆる我欲を、彼女は肯定し、そして、それに自らの夢を重ね、撚り合わせる。
それができるのだ。
……彼女ほど私利私欲にまみれた俗物は珍しいだろう。
極言してしまえば、彼女がそうした理由は「気に食わない」でしかないのだ。
彼女のことを迷惑だと思っていたのは、なにも当時の絢瀬絵里だけではないことは間違いない。
しかたのないことだ。ありとあらゆる人間に好かれる人間はいないのだ。
あるいはいたとしても、それは人間ではない。ただの化物だ。
そして、アイドルというのはその化物に限りなく近いことを要求されるのだ。
ゆえにアイドルの伝記というのはある意味英雄譚であると言っても良い。
吟遊詩人そのものであるアイドルは自らの輝かしい功績を歌い、騙りあげる。
それが、彼女であり、そして私達である。
青春という名に細工された、張子の虎。
その下には、到底堪えられない地獄が広がっている。
永遠に小石を積み上げるような、身を切る絶望がそこにはある。
それを、これからお見せしよう。
始まるのはただの青春の一幕だが、喜劇であり、そして悲劇でもある。
受け入れるも受けれいないも自分次第。
けれど、私達はもうそれを知っている。
世界は、ただの揺れ流れる川の流れに過ぎないということを。
何をしようとも、それはただそこにあるだけであるということを。
手始めに、私の恥部を、見せたいと思う。
……なんて言っておきながら、実のところこれはただ単なる日記の抜粋なんやけどな。
あ、こらエリチ! 人が書いてるもん横から覗き見なんて、あ、ちょ、まって、そこは見たらアカンって! あー! あー! もう! この、エリチの馬鹿!
(日記はここで途切れている)
2
「まったく、おせっかいやね。エリチは」
散々ラブソングを予選の曲として推挙するために頑張っているエリチ。
その走り去っていく姿を見つめながら、掌に載せた飴を握りしめた。
踵を返し、私は歩き始める。
高架の下を歩く私に、夕日が影をかける。
ビルの硝子にできた夕日が、眼に刺さる。
どうしてこうなってしまったのだろうか。
私が、あんなことを言わなければよかったのだろうか?
なにも言わなければ、ただ今までの曲の練習をしていたに違いない。
私の、ささやかな、本当にささやかな夢。
その夢なんて、別にかなわなくても良かった。
高架を走る電車が世界を揺らす。
髪の毛の右の房を前に持ってくる。先端をいじっていると、過去の記憶が蘇る。
あれはいつだったろう?
幸せな、一点の曇りもない、幸せな日々。
学校に通う前、世界が私と、父と母だけだった時のことを。
父は、母によく似て絹のようになめらかな黒髪をいつも褒めてくれた。
今にして考えると、ひどく夜遅かったのだろう。けれど、私達は夕飯を必ず共にしていた。
昼間、保育園で遊び、仕事帰りで疲れ果てているはずなのに笑みを浮かべる母親に抱きかかえられながら夕日の中を私は家路に着く。大抵が社宅だったろうアパートに住む私達三人の部屋は、何階にあったかはわからない。けれど、私は母親がポケットの中から鍵を取り出すためにいつも、寝てたとしても下ろされたことを覚えている。
私の母親との記憶は、いつも夕日に彩られていた。
家の中はいつも殺風景だった。引っ越しの多い私達の家の家具は、母の嫁入り道具だという化粧台の他には引っ越しのたびに毎回買い揃えていた真新しいものばかりだった。子供心にそれをわかっていたのか、私は物をねだるということはあまりしなかった。けれど、何か、いつも1つぬいぐるみだけは持っていた。それも、いつかの引っ越しで捨ててしまったけれど。その殺風景な部屋、カーテンすら付いていないことがあった部屋で私は母が家事をしている横で遊んでいた。子供向けのテレビ番組を流しているその部屋にいつしか夜が入り込んでくることが私は怖くて、そして父が帰ってくることが近づいていることを同時に感じて嬉しくも思った。
私と母は、大抵父が帰ってくる前にお風呂に入ってしまうのだった。母と共に入る浴槽は、小さかったはずなのに、やはりとても大きかった。私にとっての海には、浴槽との違いがなかった。ただ、行ったことのない海をせがむたびに母は笑って、おそらく苦笑いだったのだろうけれど、私のことを強く抱きしめたのだった。
風呂を上がると私は寝間着に着替え、父の帰りを待つ。
父が帰ってくる時間は、あまり決まっていなかった。待つことができずに、眠ってしまうこともあった。時計の読み方を知らなかった当時の私には、時間を告げるものは母の言葉だけだった。
父が帰ってくる時、一日の終わりの儀式が始まるのだ。
帰ってきた父の大きな、そして低い声が部屋中に響く。寝ぼけたまま、私は母に連れられて玄関で靴を脱いでいる父に近づく。すると、父はひょいと軽く私を抱きかかえ、そして頬ずりをする。夜だからか、少し延びた髭が痒くてむずがる私に、父と母が笑っている。
そのまま私達は居間に行く。玄関の明かりは、それから点くことは翌朝まで、私が夜中に起きてトイレに行く以外にはなかった。それは、小さな子どもにとっての幽霊やあるいは捉えきることのできない世界の外そのもの、切り離された遠くとなる。
私達は遅い夕餉を囲む。
眠ってしまいそうな私は、けれど父と話す機会がこれくらいしかないことをわかっているので、頑張って話を続ける。ご飯を食べたあとでも話を続けたいのに、私の身体はそのときにはもう眠りについてしまうのだ。
耐えられないことを察知した母に隣の寝室に連れてゆかれ、寝床に入る。
母は子守唄を聞かせて、私は意識を落とす。
薄ぼんやりとした視界の中の扉の向こうからは、抑えた会話が聞こえる。
一日は、そうして終わる。
それが永遠につづくのだと、いや、それ以外のものを知らなかった私にとって、学校というのは、世界の外だった。
私にとっての世界は、あの小さなアパートの一室のまま、当時のあの小さな箱庭のまま、歳を重ね、こんなことになってしまったのだ。最後に、三人が揃ったこの部屋を、最後の砦であるかのように守り続けながら。いつかは、世界は元通りになるのだと、信じてもいないことを信じながら。それでいて、穂乃果の手を取り、ここまでやってきた。やってきてしまった。
信じられないような蒙昧だ。凡愚、いや、凡愚以下と言ってもいい。
私が今ここにいるのは奇跡のような偶然に寄り立っているというのに。
私が、両親の言うことに従って高校を、祖母の地元にしていたとしたら。
高校一年生のとき、エリチに声をかけていなかったら。
二年生の後半、生徒会に参加することを断っていたら。
あるいは……穂乃果ちゃんがいなかったら。
私は、自分の想像に怖気が立った。
絶望感が私を襲った。
考えたくない世界。
世界は広がらないで、私とエリチは二人きりで傷を舐め合っていたのだろう。
その終着点が、何か良いものであるとは、到底信じられなかった。
その考え方の変容それ自体が、彼女によってもたらされたものであるということを思い起こさずにはいられない。
私と彼女たちとをつなぐ絆がどこかにあるのだということを、私はどこかで信じることができていないのだろう。夢求の愛なんてものは存在しないのだと、私は父と母の姿から知ってしまった。
親子の愛なんてものは、儚いものなのだと知ってしまった私には何物の愛をも信じることはできない。
いや、信じてはいる。信じてはいるのだ。
けれど、それを求めたくはないのだ。
与えられるものが真実のものだと信じることはできる。
けれど、だからといって、求めることはできないのだ。
彼女たちが私を信じていることは、嬉しいし、何かを返したいと思える。
今までも、少しくらいは彼女たちに何かを返せたんじゃないかと、勘違いかもしれないけれど思っている。
けれど、それと求めることはまったくの別なのだ。
求めることこそが、私にはできない。
愛が欲しいと、泣き叫び、喚く姿が、それが出来ることが私は羨ましい。
そういう意味では、エリチですら羨望の的であった。
家の扉の前に立っていた私は、鞄から鍵を取り出す。
鍵に取り付けた鈴がちりりん、と音を立てる。
高校の修学旅行で行ったフランスで買った、その飾り。
他愛のない会話をしながら、他愛のない話ができることを感じながら、私はそのストラップを買ったのだ。
鍵を差し込み、回す。
夕日に照らされたその白い鈴が、またひとりでに音を鳴らす。
母が、どこにもいないことがなぜか不思議に思えた。
3
「いいでしょ? 一度くらいみんなを招待しても」
そう言って、真姫ちゃんはウィンクをして続けた。
「友達、なんだから」
私は眼を見開いて、その言葉を聞いていた。
そして、エリチのほうに顔を向けると、彼女もまた同じように微笑んでいる。
なんだか恥ずかしくてうろうろと自室の居間の中で、窓を見たり、机を見たり、外を見たり、長々と視線を惑わせた結果、私は、顔を背けて、こうつぶやいた。
「まったく、もう」
少しだけ涙声のようになったが、泣きそうになっているのが恥ずかしく思えて、声の震えを抑えようとする。
けれど、やはり声は震える。
「なんやもう……。そんなん言われたら、うち」
「呼びたくない?」
「そんなわけないやろ!」
エリチの声にとっさに言い返した私は、にんまりと微笑んだ二人を視界に捉えて、また恥ずかしくなる。
赤くなった顔を隠すように下をむくと、二人が楽しげに会話を始める。
私を話の主題に据えて。
「あ、顔隠しちゃった」
「かわいいでしょ」
「そうね。クール系のように見えて、意外と子供っぽいわよね。希って」
「そうなのよ! わかる?」
「わかるわよ」
「実はね、いつもいつもきっちりしているように見えるじゃない? 希って、けどね」
「ちょっと待って! 先にみんなを呼ばない?」
「あ、そうね」
そう言って二人は携帯を操作して、おそらくSNSだろう、キッチンとの間の棚に置いた携帯が振動する音がした。
顔を下に向けたままだった私は、意を決して顔を上げた。
「なあ、エリチ、真姫ちゃん」
「ん、なあに?」
「なに?」
「うち、ほんまに……」
なにを聞こうとしていたのか、言葉に迷った私はまた戸惑った。
うちら、ほんまに友達なんやろか、だなんて。
聞くまでもないことなのに。
けれど、求めているのだろうか?
私が?
与えるばかりだった私が?
何かを求めること自体が罪とすら思っていた私が?
そのくせ、なにも与えることもできず、与えられてばかりだった私が?
求めることを……許されていいのか?
「うち、は……」
そこで口ごもる私に向かって真姫ちゃんがため息を、本当に長い長い溜息をついて言った。
「絵里、この馬鹿の口を割りましょう」ちょっと言葉を切って、「面倒になって来たわ」
「奇遇ね、真姫。私もさすがに堪忍袋の緒が切れそうだわ」エリチは流し目で私を見やる「二年分我慢したんだから」
「え、え?」
二人はお互いに向けていた笑みを私に向ける。
まるで般若のようなその笑みが、私に牙を向く。
真姫ちゃんが楽しそうに言う。「希ぃ、あなたがそうまで口を閉じるというのならこちらも手があるわよ」
エリチが続ける。「希、早いうちに折れたほうが身のためよ?」
「エリチ、真姫……ちゃん? なんか笑い顔が、怖いで?」
「ウフフ、そうかしら? ねえ真姫?」
「アハハ、そんなわけないでしょう? ねえ、の、ぞ、み?」
「せ、せやろか……」
なんだか不可思議な汗を背中にかきながら、私は威圧感を増す二人から気持ち身体を遠ざけて、「そ、そうだ。お茶のおかわりを……」
「そんなのいいわ。希」
「希、あなたの望みを言いなさい」
「さもないと……」
私は身を乗り出して来た二人の顔が、夕日の作る陰で凄みを増していくのを感じる。
「さ、さもないと?」
「わしわし、するわよ?」
真姫ちゃんが両手を、いつもの私のように、目前にかざす。
いや、待て?
あれはおかしいぞ! なんだあの速度と精密さは!? 私の胸の大きさと柔らかさがわかっているかのようなあの動き!
なんということだ!
私はわしわしによって皆の胸を楽しんでいたと思ったのに、いつの間にか凶暴な敵を作り出してしまったとでも言うのか!? その成長速度は、明らかに私の予測を超えている! 追いつけない……追いつけないぞ!
なんたる計略!
なんたる策士!
西木野真姫……! 恐ろしい娘!
「エ、エリチ!」
とっさに助けを求めてエリチに声をかけると、そこにはカメラを目の前に掲げたエリチの姿があった。
「エリチ、なにしとるん!」
「ん? 録画。貴重な希のわしわしシーンだもの。撮らないわけにはいかないでしょう!」
あ、駄目だこいつ。
エリチに見切りを付けた私は、ぱっと眼を真姫ちゃんに向ける。
いつもと違って、血走ったような眼をしている真姫ちゃんに、恐怖すら覚える。
「真姫ちゃんはこんな娘やないやろ!?」
言われてピタリと止まった真姫ちゃんに、一瞬助かったかと思ったのもつかの間。
「……馬鹿ね」そう言って、真姫ちゃんはなお一層の凄みで「希が、私をこんな娘にしたのよ?」と囁いた。
そのエロティックな響きにゾクリと身体を震わせて、私は悲鳴を上げる。
「ひっ、ひぃっ!?」
じりじりと近寄ってくる魔の手に私は目尻に涙さえ浮かべながら後じさり、
「わ、わかった、言うから! 正直に言いますから、わしわしはやめて!」
とそう言うと、二人はあっさりと魔の手を下げた。
「素直でよろしい」 腕組で真姫ちゃんは頷いている。
朗らかにエリチは笑いながら「けど、ちょっと残念ね」
「残念、やないわ! もう!」
そして、なんだか笑いたくなってしまって、私は声を上げて笑い出した。
最初は吹き出したくらいだった二人も、次第に大きな声で笑う。
私は、涙さえ流しながら笑い続けた。
この部屋に笑い声が響くことは初めてだった。
三人で笑っている姿。
後ろの背景がこの部屋で、私も、私以外の人間も笑う日が来るなんて信じられなかった。
私はなにもかもがどうでもよくなった。
信じられなかったことが起きたのだ。
カードはなにも言わないが、たぶんなんとかなる。
馬鹿みたいな確信をして、私は笑いながらそれを口にした。
「うちら……ふふっ、……ともだち、なんやろか」
「アハハハハッ! 馬鹿ね、希!」
「そう、フフッ、そうね! 希は馬鹿だわ!」
二人も笑いを抑えようとしてか、口元に手を当てながら応える。
「はっきり言ってあげないと、この娘はわからないわ。言ってあげましょ?」
「そっ、そうね」
言って、二人は笑い声をきちんと抑える。
「あーおかしかった」
「まったく、笑わせないでよね、希」
「……うちのせいなん?」
ぼそりと言ったその発言はさらりと流されて、二人は言った。
「私、絢瀬絵里とあなたは友達よ。というかそうでなかったらなんだというのよ」
「私も、西木野真姫も友達よ。東條希なんていう、ニブチンの大馬鹿とね」
「もう、さっきから馬鹿馬鹿、もう!」
子供のようにむずがる私を見てか、二人がまた笑い出す。
顔を真っ赤にして私は、
「あーもう、言うんやなかった!」
腕を組んで体全体をそむけながら、私は笑い声を背中に受ける。
ふと、私は1つだけ、今まで全然思い出さなかったことを思い出した。
子供の頃に持っていたぬいぐるみ、そのことを。
あれは、小さい頃にねだった最初で、もしかしたら最後のものだったかもしれない。
珍しく、本当に珍しく連れて行ってもらった旅行のときだった。私は、そのぬいぐるみをねだった理由を覚えていない。けれど、そのぬいぐるみを抱きかかえて寝た旅館での、三人での暑苦しい雑魚寝を覚えている。窓外の川のせせらぎと鈴虫の音色に、まどろんでいく意識を。
私はあのぬいぐるみを、捨てたのではなかった。
忘れたくて、押入れに閉まったこと自体を忘れたのだ。
あのぬいぐるみ。
たぶん、押入れの中で汚いままだろう。
明日になったら、洗ってやろう。
そのとき、不意とインターホンが鳴る。
振り向くと、笑い疲れたのかやっと顔をきりりとさせた二人が、私を見て頷き、言った。
「さあ、行きましょ?」
私は二人に微笑んだ。いや、笑いかけた。
これが、うちの、ではなく私の笑い方。
みんなで笑いたいとき、こうやって笑おう。
これからさき、私は、笑みを与えるのではなく、みんなで笑いたい。
もっともっと、私はがめつくなりたい。
もっともっと、私は欲深くなりたい。
もっともっと、私は俗物になりたい。
「うち、行ってくる」
「ええ、家に来た友達を迎えに」柔らかくエリチが微笑む。
腕を組んで、片方の手で髪の毛をいじる真姫ちゃんが、「早く行きなさいな、そうしないと……」
インターホンが幾度と無く鳴らされる。
「こうなるから」
虚を突かれた私とエリチは、顔を見合わせて少し吹き出した。
「ふふっ。うん…………うち、行ってくる」
「ええ」
「早くしなさい」
私は居間を出て、短い短い廊下に出る。
世界の外。
ぱちりと電灯をつける。
闇が消える。
玄関の鍵を開けて、チェーンを外す。
閉じた世界がきしむ。
ドアノブに手をかけて、回す。
世界が開く。
扉のむこう。
闇の外。
「こんばんはー!!! あっ、希ちゃんだ! やっほー!」
「ほ、穂乃果ちゃん、声、抑えようよ……」
「穂乃果! 近所迷惑ですよ! だいたい穂乃果はいつもいつも……」
「希って羊羹ゼリー大丈夫だっけ? はいコレ」
「あれ~? にこちゃんが渡したあれってなんていうんだっけかにゃ? カシオレ?」
「り、りんちゃん、それを言うならたぶん菓子折りじゃないかな……」
そこには、広い広い世界が、あるに違いない。
のんたんわしわししたい……のんたんわしわししたくない?