ホルン吹きの少女 作:衝角
じめっとした汗が朱莉の背を流れた。
終業式が終わり、夏休みが始まる。多くの生徒の足取りが軽くなる中、彼女の足取りは重い。
暑さがそうさせているのか、はたまた長らく引きずっているトランペットソロに由来する部の停滞した雰囲気がそうさせているのか、もう朱莉自身が判断し切れなくなっている。
府大会は7月末であるから、もう時間はない。それがわからない滝や幹部陣ではないはずだ。
(そろそろ、何か節目となるようなことが起きる。そんな気がする……いや、起きて欲しい)
むわりとした風の中、ただ朱莉は時を待っていた。
劇的な変化は起こせない。けれど、着実に力はつけておく。
ソロが誰になっても構わないように沢田と協力してホルンパート内はきっちり練習を積み重ね、ともすれば久美子と手を携えて麗奈の泡立つ気持ちを宥め続けた。
「皆さん、少し時間をいただいてもいいですか? 近頃、滝先生と高坂さんについて根も葉もない噂話が広まってると聞いてます。その噂話で集中が切れて練習の質が落ちている。夏休みになって練習時間が増えてもそれでは意味がありません」
少し遅れて音楽室に入ると小笠原が部員を集めて話を始めていた。朱莉は軽く頭を下げて自分の席に座る。
「もう陰でこそこそ言うのはやめましょう。どうしても不満があるならば私が先生に伝えます。……では、今回のオーディションの結果に不満がある人は手を挙げてください」
小笠原が尋ねると同時にかなりの数の手が挙がる。
やはり割合としては3年生と2年生が多かった。
「では……」
小笠原が二の句を継ごうとした時、がららと音楽室の引き戸が開けられる。
部内の誰もが引き戸を注視する。そこにいたのは渦中の滝昇その人だった。
「小笠原さん、なんですか? この挙手は」
「ええと、それは……」
「コンクールの結果に不満がある人です」
あまりの間の悪さに小笠原がまごつく中、滝の目をしっかり見据えて優子は言い放つ。実に並外れた胆力だった。
滝は優子に一瞥をくれただけで壇上に上がっていく。
「来週末の練習予定にホールを借りての練習が1日あることはあらかじめ伝えてありますね。そのホール練の日に希望する人に再オーディションを行います。私と松本先生だけではなく、皆さんの耳で聴いて判断する。そうすれば文句は出ないでしょう?」
再オーディション。
滝の口から放たれた響きは動揺となって部員の間に広がっていた。
皆、一度は考えていたことだが、自分から言い出すにはどうしても角が立つから避けていた。それにあの滝の方から、半ば自分の非を認めるかのような提案をしてくるとは思わなかった驚きがある。
「はい、みなさん静粛に。前回のオーディションに不満があり、もう一度やり直して欲しい人はここで挙手してください。ただし、すぐに決められることではないとも思いますので、後で私に個別で伝えてきても構いません。期限は3日後までとします」
突然現れたやり直しの機会。
ふと朱莉は森本の方に視線を送ってみる。彼女はただ膝に手を置いて真っ直ぐに滝の顔を見据えていた。
「では聞きます。再オーディションを希望する人は挙手してください」
滝の問いかけに森本は動かない。僅かに身じろぎさせただけに留まって。
対して高々と手を挙げたのは香織だった。
席から立ち上がり、凛とした声で彼女は告げる。
「ソロパートの再オーディションを希望します」
香織にとっては最後のチャンス。やはり、それを黙って見送ることなど出来なかったらしい。
実力の上では麗奈の方が上かもしれない。けれども、もし自分が香織と同じ立場に置かれたならば手を挙げていたと朱莉は思う。
たとえ敵わなくとも思うさま抗ってから敗れ去りたい。何もかもを燃やし尽くして終わりたい。自分ならそうしてようやく納得できるような気がした。
(北中ではそれが出来なかった。だから、北宇治ではそう出来たらいいなと願ってる)
香織の真意は朱莉にはわからない。ただ、毅然と手を挙げたその姿は素直にかっこいいと思えた。
1
結局、この後に香織の他に手を挙げる者はいなかった。
完全に香織が部の空気を持っていってしまったこともあるのだろう。ただ、機会があればやり直したいと思う部員は何人かはいるはずだと朱莉は考えている。
それこそ、いま自分の右で吹いている彼女なんかは特に。
再オーディションが告知されたこともあり、ホルンパートは特に個人練に熱が入ってるように思う。
今はパート練が終わり、上級生と1年生に分かれて練習していた。
「まさか再オーディションをするなんて……」
「そうだね」
朱莉の横でララが呟くと、ホルンを隣の机の上に置いて森本が頷く。かなり通しで吹いていたから、そのまま休憩する流れになった。
話題はやはり再オーディションについてで、麗奈と香織のどちらが実際に上手いのだろうと議論になる。
(思えば、わたし中世古先輩の演奏をちゃんと聴いたことないんだ)
そこで朱莉は気づく。
オーディションの時の演奏を知るのが滝と美智恵しかいないこともあり、正確にどちらが上なのかは分からない部員の方が多い気がした。だから、麗奈の演奏が疑われるのだろうか。そう考えると全員で決める今回の形式は好都合な状況ではあった。
「香織先輩たちはともかくとしてさ、美千代ちゃんはさ、再オーディション受けるの?」
「どうだろ、迷ってる。B編成の練習を今までたくさんしてきて、それを捨てるのは勿体無い気がして」
「わかる。なんかもうBで頑張るって決めきっちゃったから今更Aに行けるかもって言われてもね……。ララは再オーディション受けないつもりだよ」
「そっか、そうだよね……」
ララの話を受けて、森本は伸びをしながら言う。
再オーディションが突然の話だったこともある。けれどそれ以前に、森本がちゃんと気持ちを決め切れてないような気が朱莉はしていた。
オーディションでミスをした。
その1点で森本は自分の演奏に対して、Bにいることに対して納得し切れてないような印象がある。
「……受けてみたらいいんじゃない? 再オーディション」
「そう……かな」
「迷うぐらいなら受けてみた方がいいと思うよ。……きっと、受けなかったら後悔するはずだから」
朱莉は静かに笑いかける。
きっと森本は理由を探していたような気がする。朱莉はそう思った。なら、与えてみれば動き始めるはず。
「確かにね……」
少し考え込む森本。やはり思うところはあったらしい。
正直、今までの森本を見ていて朱莉は歯痒かった。
言葉ではいくら取り繕えても視線は雄弁だ。時折、森本の岸辺と加橋を見る視線に羨望が混じっているのが横から見ているとよく分かる。
「……行ってくる。もう一度挑んでみるよ。やっぱり、今のままじゃ終われない」
真剣な面持ちになった森本は宣言すると、すぐに滝のいる職員室の方に歩いていった。
(頑張って森本。応援はしてるから)
自分がかつてオーディションで悔しさを噛み締めたからこそ、後悔してほしくないと朱莉は思う。そう思う相手は麗奈だろうと森本だろうと変わらなかった。
2
再オーディションが告知されてからはあっという間だった。
いっときの停滞が嘘だったように吹部の練習に熱が入る。
もう、再オーディションは麗奈と香織だけの問題ではなく部員の多くを巻き込んでいた。
せっかく入ったAメンバーを譲らせないために、あるいは奪い取るために個々人は必死になって練習に励む。
そうして1週間が瞬く間に過ぎていき、今現在の朱莉はホールの中でBメンバーや他の1年生と一緒に準備をしていた。
「いよいよだね、朱莉ちゃん」
1人で譜面台の準備をしていると葉月に声をかけられる。
「葉月ちゃんか。オーディションは確か受けないんだよね」
「うん。あたしはまだ足りないのが分かってるから。……だから、来年こそは必ずAになる。久美子や緑、朱莉ちゃんと吹くために」
「そっか、お互い頑張ろうね」
葉月は頷いて自分の譜面台を取りに行った。その横顔がいつになく凛々しい気がして朱莉は少し驚く。
自分を含めて皆、オーディションを通して上に行く覚悟を固めたようだ。それがいいことなのか悪いことなのか、今の自分にはわからないけれど。
準備が終わり、ホール練習が始まる。
日程はトランペットソロとホルンとクラリネットのAメンバー再選をやった後はひたすら合奏練習をするような形だった。
「準備が出来たようですね。ならば、再オーディションを始めましょう。まずはトランペットパートの中世古さんと高坂さん。お二人とも壇上に来てください」
滝に促されて香織と麗奈が壇上に上がる。
「まずは中世古さんからお願いします」
「はい」
香織は答えて楽器を構えた。彼女の凛とした声からその真剣さが伺える。
香織がマウスピースに息を吹き入れると柔らかな音色が辺りに響く。
真夜中の月の穏やかな光が原野の地表を薄ぼんやりと照らす様を朱莉は幻視する。
楽譜をなぞるのに必要な技術は完璧で、表現力は文句をつけようもなかった。
「ありがとうございました」
吹き終わった香織が頭を下げると拍手がホールを包む。
(これを乗り越えるのは中々大変だけど、麗奈はどうする?)
朱莉は麗奈の方を見る。香織の演奏を聴いて、彼女は何を思うのだろうか。
「次は高坂さんです」
呼ばれた麗奈が立ち上がり、香織と入れ違いに壇上へと上がっていく。その表情からは何を考えているのかは読み取れない。ただ足取りに迷いはなかった。
そのまま麗奈は壇上に立ちトランペットを構えて前を見据える。
そして、音色が奏でられた瞬間。朱莉は思わず笑みを浮かべてしまった。
(ほんと、変わらない。天を衝くような演奏。中世古先輩の穏やかな銀の月みたいな音じゃなくて、満月を食ってやろうとばかりに煌々と輝こうとしてる姿。……だからこそ、わたしたちは憧れた。並びかけたいって願ったんだ)
半ばうっとりと麗奈を見つめる朱莉に対して部員たちはただひたすら圧倒されていた。
技術的に上手いことはもちろん、なにより訴えかける力が強い。
甘く痺れるような音色が耳朶を焼いた。それだけでもう聴く人は虜になってしまう。
部員の誰もが次の音色を待っていた。
「……ありがとうございました」
麗奈がトランペットを下げて一礼する。それで朱莉は曲が終わったことに気づいた。それだけ引き込む力が強い演奏だった。それこそ聴いたものの自我を作り上げた世界に閉じ込めてしまうほどに。
「では、これよりソロを決定したいと思います。まず、中世古さんが良いと思う人」
滝がそう告げると優子が勢いよく手を叩く。それに応じるように拍手が起こるが、少しまばらだった。
「では、高坂さんが良いと思う人」
続いて、朱莉が拍手をする。辺りを見回すと隣では森本と沢田が、少し先では久美子や葉月が手を叩いていた。
しかし、それでも香織の時に叩かなかった人が皆拍手をした訳ではない。
この後に及んで多くの人が選ぶことを放棄していた。これでは意味がない。滝はあくまでも自分で決めさせるためにこの場を使ったというのに。
「中世古さん、あなたがソロを吹きますか?」
問いかける滝の声にホールがざわめいた。だが、香織は首を横に振る。
「吹かないです」
彼女の大きな瞳の端になにか光るものが見えた。
「吹けないです」
そして麗奈の方に向き直り、彼女をしっかりと見据えて言う。
「ソロは高坂さんが吹いた方が良いと思う」
その言葉を伝えるのに、どれだけ勇気が必要だっただろうかと朱莉は思った。
3年間努力して、あれだけの音色を作り上げてなお届かず、けれども諦め切れなくて。
その現実を受け入れることがどれだけ大変だったのか朱莉には想像がつかない。
「高坂さん、貴女がソロです。中世古さんではなく、貴女がソロを吹く。良いですか?」
滝が問いかけると、麗奈ははっきりと頷く。
その目にはもう迷いはなかった。
「……はい」
「では、高坂さんにお願いします。それでは皆さん。次の再オーディションの準備を始めてください」
そう告げると、滝は壇上から降りていく。香織はじっと麗奈を見つめていたが、やがて静かに目を閉じた。その横顔はとても寂しそうで、朱莉も胸が締め付けられるようだった。
3
トランペットソロのオーディションの後はクラリネットとホルンパートの再オーディションが行われた。
希望者は森本とクラリネットパートの1年生でどちらもAメンバーにはなれず、2年生が意地を見せた形だった。
「すごかったよね、麗奈」
「そうだね」
練習が終わり、ホールを出て楽器を片づけていると久美子が声をかけてくる。
今回、久美子は麗奈をかなり支えていたと朱莉は思う。久美子が麗奈の味方であってくれたことで麗奈は精神的な安定を得られていた。
朱莉は麗奈に対して何かできたかと言われると少し言葉に詰まる。あの願いの押し付けを激励なんて言葉で飾りたくはなかった。
「これからも久美子は麗奈の味方でいてあげてね。ああ見えてわりと愉快な子だからさ」
「もちろん。朱莉ちゃんだって、そうでしょ?」
「わたしは……どうかな。いつか倒したいなとは思う。味方よりかはライバルでありたいかな。ただ憧れるだけではどうにも物足りなくてさ」
楽器ケースを片手に下げながら2人はゆっくりと廊下を歩く。窓の外にはもうすっかり暗くなった空に星が瞬いていた。
「麗奈はさ、トランペットを始めた時からずっと努力してたの。だから、わたしはその努力を無駄にされるところなんて見たくはなかった。努力はきちんと報われるってことが証明されて欲しかった」
2人でずっと吹いてきたから分かる。
中学の時、麗奈がどれだけ練習していたか。
彼女は誰よりも早く来て、誰よりも遅くまで残って楽器を吹き続けていた。
そんな彼女が報われないのはおかしいと思うし、なにより彼女を貶められることは並びかけたいと願い、吹いている朱莉自身を貶められることと同じだった。
「だから、今回は味方した。わたしも気持ちは分かるから」
「そっか……」
久美子は朱莉の言葉を噛み締めるように頷く。
「私も頑張るよ。私だって特別になりたい。麗奈に並びたい」
「なら、久美子もわたしのライバルになるのかな? わたしとしてはあんまり戦いたくないんだけど」
「えー、なんで」
「やだよ、教えてあげない」
ただでさえ秀一を巡る争いで久美子を仮想敵にしているのに部活でも敵になったらたまらない。
久美子とは幼馴染ではあるけれど、単純な関係じゃない。近しいが故に時に欲しいものが食い合ってしまうことがある。今回もきっとそうなのだと朱莉は思った。
「教えてくれてもいいじゃん」
「いやですー。ほら、もう着いたから早く片付けて帰ろ」
朱莉が先に歩いて行くと久美子は慌てて追いかけてくる。
「待ってよ、朱莉ちゃん」
「待たないよ。早く来ないと置いてくから」
「もう……」
久美子は呆れたようにため息を吐くがその表情は決して嫌がってはいない。むしろ楽しそうだ。
きっと自分も似たような表情をしているんだろうなと朱莉は思った。