前日譚【夏の悲鳴】
いつからか、クーラーの駆動音が夏の象徴と化していた。
窓ガラス越しに眺めるだけの夏は、無味無臭、無音静音、無色透明で色気ない。
薄暗いトレーナー室で掃除をしていると、半開きのブラインド越しに知人を見つけた。
無骨な銀時計を確認する。時刻は11時。4限目開始前の時間帯。移動教室の最中だろうか。
自身の担当ウマ娘でもあるその人は、教科書を両手に抱えながら学友との談笑を楽しんでいた。それを窓ガラス越しに眺めていると、視線に気がついたのか、窓ガラス越しに視線が交差した。
微笑む口元。教科書を片手に寄せると、空いた方で小さく手を振った。それに振り返すと、それぞれの時間に戻ってゆく。
グゥっと強く背伸びをする。
ケチっていた空調も最大にして部屋の湿気臭さを追い払う。気分転換にコーヒーを淹れようと思い立ち、給湯室に行くため身支度を整える。床に置いてた資料を本棚に戻し、半開きにしていたブラインドを全開にする。
すると、窓の外には青空が広がっていた。
ガラス越しの夏はとでも静かで。青はとても涼やかで。
あぁ、そういえば5年前の改修工事の際、学園全体の窓ガラスが防火・防音ガラスに改修されていたんだ。それ以来、窓から伝播する筈の幾つかの情報が遮断されていたのだ。
取手を外し、窓ガラスを引いてみる。すると熱気が顔一面を覆い、亜熱帯特有の蒸気が鼻腔に割り込み全身に緊張感が駆け巡る。
その衝撃で夏の憧憬が空に飛び去り、直射を浴びる無様が残った。
桟に手をつきハハっと笑う。
ジワジワと現実を炙り出す直射、低音を鳴らすクーラーの駆動音。
このまま居ても寒暖差疲労により自律神経も肉体も参ってしまう。
溜息吐いて窓を閉めるその最中。
記憶を掘り起こす、夏の代名詞が割り込んで
【備考】
・感情認識に至るプロセス。
1・実体験→実体験に当てはまる言語を知る=感情認識。
2・言語を知る→実体験を経る=感情認識。
この2種類。
この一連の流れを、【感情のラベリング】と表す。
...人生経験が未熟なうちは1のプロセスが圧倒的に多く、誤認しやすくも有る。
【感情のラベリング__即ち、認識について】
イメージはサンバ。
それも本家ブラジル、リオを思わせる盛大さだ。
酸欠の脳内をシェイクしながら踊り続ける言葉の数々が、耳を介し体内全域に通達される。
耳は呪文を聞き続け、変換されるはリオのサンバ。
元は意味のある文節なのだろう。読解を諦めた身体は睡眠を求め、かろうじて残った理性がノートに鉛筆を走らせる。
曇りガラスの如き青春の1ページは、窓から流れた一陣の風により洗浄されてゆく。
2-Aのクラスには、春一番とも思える南風が教室を疾駆してゆき、眠気に敗北した学徒の背中を優しくさすりながら起こしてゆく。それの報酬か、生徒の髪にも優しく触れ、フワリと持ち上げてはやがて興味を失ったように離れてゆく。
私こと、サイレンススズカの髪も落下運動が行われた。
そして新鮮な物理的刺激により目覚めへと導かれた脳の余白に情報が吸入される。
カリカリと板書しながら器用に音読をこなす先生。ノートを机に置きながら清聴を続ける学徒達。のどかな授業風景の中、サイレンススズカは恥ずかしながら泡沫寝をしていた。...今は何時だろう。
時間を確認する為に袖を捲ると、腕時計は15:05を示していた。
残り15分で終業の合図が響き渡る頃合いだ。
トレセン学園は、基本的に耳カバー以外の装飾品を禁止にしている。腕時計も例外ではないので、先生にバレると非常に厄介だ。女性には似合わない無骨な銀時計を袖にしまっていると、再度、窓際から風が吹いてきた。
「風が強いですね...すみませんが、窓を閉めて貰っても宜しいですか?」
音読を中断し、老齢の声が教室に響く。
窓際の生徒は続々と窓を閉めてゆき、そこかしこで友人を小突いては、今起きたと言わんばかりの生徒がちらほらと。
「___では、授業の再開です。
ここの一文を...そうですね、ネイトアラフィーさん。音読をお願いします」
「え!?あ、はい!」
大欠伸をしていた生徒が名前を呼ばれ、友達の助け舟も経て該当箇所から音読を始める。
時期は高等部2年生の3月。
もう1ヶ月も過ぎれば、最高学年の責任が付随する。
この時期になると、全国の学生同様、トレセン生も進路選択を迫られる。
トレセン生の進路は大きく3つに分けられる。
1つ、選手生活を続ける為、トレセン直属の大学に内部進学するか。
2つ、社会進出を行い勤労に勤しむか。
3つ、一般大学に外部進学するか。
そのうち、サイレンススズカは外部進学を選んだ。
本当なら選手生活を続けたかったが、去年に起きた脚の故障により選手継続する事が困難となった為、断念した。
そこに苦悩や苦難、多くの理由や言葉はあれど、サイレンススズカは進学を選んだ。
なので受験対策の為に苦手な現代文の授業にも向き合わなければならないのだし、眠気なんかに負けられないのだが、いかんせん、苦手なものは苦手だ。
サイレンススズカは授業に置いていかれた経験は無かったが、現代文のテストは決まって成績が中くらいに収まる。
その原因も理解はしている。
サイレンススズカは他者の気持ちを想定する事が苦手だった。
「___はい、ありがとうございます」
老齢の声が響くと、ネイトアラフィーさんが着席してゆく。
先生は教科書を閉じ、黒板の真横に設置された掛時計を眺めると表情を訝しめた。
「...残り5分ほどですか。
それでは、宿題を与えます。
只今読んでくださった“忘却録音"、その一文。
王路美沙代は、なぜ髪を切ってしまったのか。
また、刺殺された玄霧皐月がその意味を理解できなかったのか。
それぞれ理由を説明してください。
以上、次の授業の冒頭で回答を行います。
残り時間は...そうですね、宿題を終わらせる為に費やして結構です」
教室には鉛筆のカリカリとした音が響き、その音もやがて消え、ヒソヒソと談笑に花を咲かせる生徒で溢れた。
その中、サイレンススズカだけは鉛筆を動かすこともできず、授業を終えるチャイムを待つばかりだった。
⭐︎
放課後となり、各々が集団生活から離れてゆく。
未だ選手生活を続ける生徒は更衣室へ赴く。
進学を控えた多くの生徒は勉学に励むため移動を開始している。進学へ舵を切ったサイレンススズカも同様に荷物を纏め、教室を後にした。
放課後は雑踏が迷い込む。
サイレンススズカは人混みが苦手な為、人通りの少ない体育館通路を抜けて教員棟へ向かう。
向かう場所はもちろん、教員棟3階12号。
選手時代にサイレンススズカを担当してくださったトレーナーさんが常駐している場所。
放課後にトレーナー室へ赴く。それこそが、現役引退してから半年間で培われた日常だった。
日常は穏やかで記憶には一才残らない。それほど起伏の少ない証であり、即ち幸福の忘却であった。
しかし、胸奥で不変だろうと信じていた日常は、ひょんな事から崩れてゆく。
それは、春嵐から始まった。
教員棟2階と3階の踊り場に出ると、どこからか風が吹いた。
同時、上階からリズムを刻む足音が聞こえ直前に躍り出る。
半階上を見上げると、見覚えの無いトレセン生が1人。彼女は勢いそのまま駆け降り、ドドドドと一歩二歩三歩四歩。「あれ?」と横切る際にピタッと止まり、グリンと顔が振り向く。しばし目線が交錯して、満面の笑み。
「わぁ!サイレンススズカさんですよね!?」
「え...はい、そうですが...?」
おどろげながら答える。
およそサイレンススズカの記憶に存在しない人。
誰に似てる?と聞かれたら、同室のスペちゃんに雰囲気は似ている。けれど決して見知らぬ彼女だか、どうやら彼女はサイレンススズカを知っているようだ。
「あの...私!あなたのファンなんです!よかったら握手をば...」
勢いとは裏腹におずおずと差し出された手。その手を掴むと明るい花が咲き、強く握られて2回ほど上下に振るわれた。
それにしても顔が近い。距離感も近い。髪の匂いが鼻腔につき、金木犀を思わせる優しい匂いが広がる。不思議と春の鼓動を感じるこの匂い。...サイレンススズカの好きな匂いだ。
ひと通り満足して冷静になったのか、パッと手を離すと一歩後ずさった。
「あわわ!突然話しかけてすみません、サイレンススズカさんのご都合なども考えず!」
「い、いえ大丈夫よ。それより、あなたも何か急いでいたようだけど?」
「あぁ!いっけない!私今から生徒会室に書類提出をしに行くのです!ええっと、時間時間」
何やら忙しなく身体を弄っている。
時間を知りたいのだろうか。
サイレンススズカは自身の左手に装着している、その華奢な細腕には似合わない銀時計を確認する。
「時計ならここに...えっと、今は15時30分ね」
「えぇ!?もうそんな時間ですか!あわわ遅刻したら副会長さんに怒られるし...こうしちゃいられない...!すみません、それではこれにてドロン!
...あ、お時間教えて頂きありがとうございました!」
そして、ドドドドと階段を駆け降りる音が響き、渡り廊下をも走ってゆき、春を追いかけるように風も走ってはサイレンススズカの髪を靡かせていった。
生徒会室に契約資料...という事は、トレーナー契約締結資料の提出だろうか。放課後から下校時刻までの短い時間で受付を済ませないといけないのだから、確かに時間が逼迫している。
私もトレーナー契約を結んだ時は、エアグルーヴに色々と教えて貰いながら書類を提出に漕ぎつけたっけ。
懐かしい思い出に浸っていると、遠くで小さくなってゆく彼女が、思い出したように立ち止まり、振り返った。
「あ、サイレンススズカさーん!トレーナー室に向かうようでしたら、トレーナーさんにもよろしくお伝えください!
私、あなたと同じトレーナーさんに担当して頂くことになったんです!明日からお世話になります!」
そしてまた走り出して、音も遠くなってゆく。
「...え」
春のような温かい子は、最後に嵐を巻き起こして帰って行った。
⭐︎
教員棟3階12号。通称3-12。
トレセン学園に在籍するトレーナーが使用可能な個室が、教員棟3階と4階に連ねられている。
つまるところ、トレーナー室だ。
サイレンススズカを担当してくださったトレーナーさんが、この3-12のトレーナー室を長期利用している。
基本的に同部屋を長期利用する人が多く、サイレンススズカのトレーナーも例に漏れない。
3年前、サイレンススズカがトレーナーとの契約を交わしたのも3-12で、昨日も3-12で別れた。
だから今日も変わらず、トレーナーさんは3-12に居るのだろう。
見慣れた校舎の、見慣れた廊下。慣れた歩幅で歩くと、すぐに3-12に着いた。
樹脂素材の扉を3回ノックする。
中から「どうぞ」と声がするので扉を開くと、奥の執務机でトレーナーさんはデスクトップと睨めっこをしていた。
いつもと変わらない光景。
一歩踏み出すと、優しい香りが鼻腔をついた。
「...失礼します」
「おう、おつかれ様」
トレーナー室は西陽の掛かる空間ゆえに、夕方はブラインドで遮蔽している。両脇に本棚。窓際に執務机。中央に応接間とされてるが、応接する習慣もない故か、円卓のうち3/4程の空間は書物が平積みにされ、残った1/4分という小さいながらも授業机とほぼ同じサイズの領域だけが残り、ここがサイレンススズカの定位置だ。
進学へと舵を切ったサイレンススズカは、放課後になると試験勉強の為、校内の喧騒から外れた教員棟に訪れる。
寮は夜18時を過ぎるまでクーラー禁止なので、他の進学勢は我先にと図書室や自習室に駆け込む。
サイレンススズカは人混みが苦手だ。そんな私を気遣って、トレーナーさんは3-12で自習する事を許してくれている。
教員棟は常識の範疇内で電気代使い放題。それはトレーナー室も例に漏れず、年中無休で空調完備されており、ソファは沈む程柔らかい。この快適な空間で勉学に励めるのは、結構恵まれていると思う。
サイレンススズカが進学を決めてから、それだけの静かな日常を半年ほど過ごしていたが、今日は違った。
今日は柔らかいソファに沈んだ痕跡が残っていた。
「...今さっき、私のファンだという娘に話しかけられました」
その一言で察したように「あぁ、新しい担当だよ」と素っ気ない回答。そうして目線を手元の書物に戻す。
「そう、なのですね...おめでとうございます」
「ん、ありがとう。
スズカにも、後で話す要件と一緒に伝えようとしたんだが、先越されたか」
クーラーの駆動音が聞こえる。PCの排熱音が聞こえる。遠くでトランペットが鳴り出した。サイレンススズカは、強い違和感を体内に覚えた。
ピッと音が聞こえる。トレーナーさんは仕事のキリがついたのか、空調のリモコンを操作した。
ヒンヤリとした風から、ぬるい風に切り替わる。
「___スズカ?立ちっぱなしだけどどうかした?」
「あ、いえ。...なんでもないです」
いつもの定位置に座るべく、応接机の下に荷物を置き、ソファの表面を軽く払ってから身を沈ませた。鞄から試験本を取り出そうとしたが、先に現代文の宿題を消化しようと思い至り、教科書を広げ、該当範囲を頭から読んでるが、教科書の頭から読み返しても新しい発見は得られなく、先ほど同様に提示された宿題を解く事ができなかった。
サイレンススズカは自他共に認める「言葉足らず」だ。
他者の気持ちを推察する項目が大の苦手なので、心情推察が必須スキルとなる現代文は苦手意識も相乗し、集中力が継続し辛い傾向にある。そして書物から沢山の言葉を吸収したせいか、頭中がごちゃごちゃしてきた。
リラックスしよう。一旦教科書から目を離し、背伸びをしてみる。
シンッと、トレーナー室はとても静か。
他者の匂いが存在せず、程よく暗く、PCの駆動音が静音と調和をもたらし、空調の効いた理想的な静寂。
そうである筈の理想は、気付かぬうちに崩れていた。
ソファに背を預けながら、肺いっぱいに呼吸してみる。____無味無臭。
目を開けて、天井を眺める。____無音静音。
それは事実。
なのに、サイレンススズカの脳内は無色透明な思考に戻らない。
それは苦手科目に取り組んで脳内の情報処理が追いつかないからではなく、宿題に取り組むもっと前の段階から、サイレンススズカの脳内はごちゃごちゃしていていた。
それはつまり...鼻腔に残る金木犀の香り。残響する春嵐。
感覚気管からの物理的刺激に起因して、記憶が想起する。
そうして思い出すのは、廊下で出会ったあの娘。
春の暖かさを思わせるあの娘。
名前も知らないあの娘が、明日からトレーナーさんの担当になる。
言葉の内で想像が働き、脳裏にイメージが浮かび上がる。
春のような彼女と、隣に佇むトレーナー。
それは、なんて...
突如「言語化できない感情」が心に溢れた。
そして先程から感じていた強い違和感が肥大してゆき、キュッとするような圧迫感に転じた。
その圧迫感が痛覚を連れてきて、でも出処がどこか分からず、足をさすってみる。
「スズカ、足、どうにかしたのか?」
足を押さえてる事に気がついたのか、執務机に座っているトレーナーさんが声を掛けてくる。
「いえ、大丈夫です。ちょっとキュッとしただけです」
目線が交錯すると何故か心が浮遊し、一瞬で墜落してゆく。
「そうか。脚は大丈夫なのか?」
「ええ。触っても脚は痛くありません。筋がほつれただけかもしれません」
「ん、なら良い。
脚が完治するには年単位かかるんだし、少しでも異常があったら俺か保険医に報告してくれ」
そして手元の資料に視線を戻した。
「はい...ありがとうございます」
墜落した心から圧迫感が再発した。
再発場所からじんわりと違和感が広がってゆく。
出処は脚以外の箇所である事は明瞭で、それは心から発生していた。
キュッとする圧迫感が心を締め付け、それが痛覚である事を再認する。
単発だと思っていた痛みは周期を持ち始め、やがてサイレンススズカの鼓動に合わせて痛みを訴えた。
制服越しに該当箇所を触診するが傷も無く打撲跡も無い。
外傷が無いはずなのに痛むなんておかしい。けれど時間が経つにつれ痛みが流れる事はなく、痛覚は残留しその存在を一等強調する。
痛覚とは、本能からのメーデーだ。
外傷も無く症じる痛覚は、私に何を訴えているのか。
理由がわからず、サイレンススズカは困惑するしかない。
胸の痛みは小さなモノだ。安全ピンの針が肌を食い破った程度の痛みだが、それが継続的に襲いかかると話は別だ。
あまりの不快さに深呼吸を行う事にした。
気道確保の為に胸を逸らし、息を吸い込む。
深く呼吸を行うと、鼻腔に記憶された金木犀の匂いが海馬をくすぐった。
...春は良い季節だと思う。日中も過ごしやすい気温が維持されランニング日和が続く為、サイレンススズカが一番好きな季節だ。
日が長くなり、冬眠していた命が芽吹き、風が柔く、桜が咲き。そして散ってゆく。
道ゆく人々も移ろいでゆく。
春は、転機の季節でもある。
人生の転換点が、春に集中する。
進学も、卒業も、入学も。今日は3月初旬。
明日から、トレーナーさんにも新しい担当ウマ娘がつく。華のような笑顔を持つ、彼女が。
それは...それは___
___瞬間、言語化できない感情が脳内に溢れ出し痛覚を掻き立て未知なる感覚に呑み込れそうになる背中に這い寄るナニかに押され逃げるようにスックとソファから立ち上がる。
「トレーナーさん!...えっと、走ってきます!
...軽く、軽く走ってきます!」
そう宣言してサイレンススズカはジャージに着替えるべく更衣室へ向かう。
「お、おう。また急だな。遅くならないようにな」
トレーナーさんをみつめると、胸の痛みが、またもや。
プイッとそっぽをむき、そのままトレーナー室を出る。
「...行ってきます」
「ん、いってらっしゃい」
扉を締め切る刹那、優しい言葉が聞こえた気がした。
⭐︎⭐︎⭐︎
トレセン学園近郊は山々に囲まれている。
つい10年前、麓に駅が建設され、一帯に学生の興味を引きそうなテナントが立ち並び、一昨年には「新都」と呼ばれるまで発展して、再来年完成予定の総合デパート建設まで進められている。
トレセン学園普通科、レースに携わらない生徒の半数は寮生活からアパート暮らしに切り替えており、下校と同時に新都へ足を運んでいる。
時刻は16時過ぎ。
新都方面は下校する生徒が多いのでランニングには適さない。その上、蛇腹のように隆起が入り組んでいる為坂路トレーニングに最適。下校時間のピークを過ぎた後も歩走道はトレセン生で埋め尽くされるだろう。
新都とは逆方向、郊外側の向かう先は山岳地帯という事もあり、下校する生徒もおらず。隆起の少ないなだらかな地形ということも相乗しトレーニングに使用する現役生もそう多くない。
その中を、サイレンススズカは走る。
風を切り、髪が靡く。
目に入る景色は人工的な構造、人工的な植樹帯。
元は経年劣化が激しかった自動車道だったが、つい3年前に舗装された折にスッキリとした外観に変装した。
また、それに伴い自動車道に側したウマ娘専用走行道も整備され、専走道からスロープを隔て分けた歩行者専用道路。歩専道に等間隔に配置された植栽帯までもが市役所発注の工事により手が加えられ、ここら一帯はより整備された公道と化していた。
それら地表の人工物と対称的な自然風景。
空は紅く、風は至軽風。時々、軟風。
専走道は閑散として、立ち塞がる人もいない。
交通量も少なければ、音も小さい。
聞こえる音といえば、耳を澄ますと拾える枝葉と大気の摩擦音。
それを間隙に塗り潰すほどの音。
激しい呼吸音、周期を刻む足音、加速する鼓動。
サイレンススズカの発する音が、サイレンススズカの体内で反響する。
音とは、つまり生存の証明だ。
サイレンススズカは無闇に騒ぎ立てる事を好まなければ、対人関係から発生する生存証明を進んで行わない。
サイレンススズカの生存証明は、常に自己完結している。
また、サイレンススズカの表現欲求も自己完結している。
サイレンススズカは幼少から走る事が好きだった。身体の臨界点であるランナーズハイを迎えた折に見た景色を、幼少の彼女はあまりにも美しいと感じ、憧憬として胸に焼きついた。
焼きついた憧憬は胸から離れず、背丈が変わっても色褪せず、歳月を重ねるうちにサイレンススズカの根幹に食い込み、胸に宿る星の鼓動に至り、今もこうしてサイレンススズカを走らせ続けている。
サイレンススズカの自己表現と自己欲求。それらは走る事で満たされ、自己補完されていた。
その価値観は性格にも影響してゆき、他者との関わりを重きと感じない性格に仕立て上げた。
他人との意思疎通に困難することはないが、自ら進んで他者との交流を深めるようと思い至らない。
その事について、友人からは定期的に心配され、叱られ、直後は交流を意識するのだが、結局のところ焼け石に水だった。
その性格を俯瞰すれば社会生物的欠点と見られる事実を理解はしている。
友人の助けもあり、焼け石に水ながら少しずつ改善している。けれど決して、完治するには至らないだろう。
胸に宿る星の鼓動が、今もこうしてサイレンススズカを走らせ、憧憬を求め続けているのだから___
一台の自動車が反対車線から顔を出し横切った。
___何を考えてるんだろう。
気がつけば、サイレンススズカは深考をしてた。
サイレンススズカは悩みがあると、一度ランニングに赴き頭をスッキリさせる。
走ると心拍数が増加する。血管が拡張し、交感神経優位に伴う集中力とドーパミン分泌により余計な思考が削ぎ落とされ、焦点が定まる。
無意識ながら知り得ていた副次効果をサイレンススズカは知覚し、それを利用して一種の処世術として活かしていたのだが、今日に限ってはそれが通用しなかった。
現に、胸に宿る星の鼓動...走る際に感じる喜びが、普段よりずっと小さい。
その原因も分かっている。
それはきっと、トレーナー室を飛び出した理由と同じ。
「...どうしてなんだろう」
緩やかに脚を落とし、呼吸を整えながらペースダウンを行う。
いま一度脚を触る。しかし異常はない。
胸を触る。しかし外傷は無い。
けれど確かに痛い。
幸福の上に覆い被さる、この、鼓動と共にやってくるチクリとする痛みは嘘ではない。
また、痛みに起因して鼻腔の残滓が一等強くなり、感覚器官より春を思わせるあの娘を想起させられる。
_____。
まただ。踊り場で出会った、あの春のような彼女を思い出すたび、サイレンススズカの胸中には『言語化できない感情』が溢れ出てしまう。
言語化できないので、既知の単語に当て嵌め輪郭を探る。
それは喜怒哀楽の中ならば、哀に近い感情。
哀の内訳を探るなら『焦り』『不安』に類する感情。
より深く解剖するが、それ以外に該当する単語が思い浮かばない。
今度は置換してみる。
イメージは雲。内で溶け切らない感情が体内をぐるぐると徘徊し、吐くことも消化する事もできずに残留しては胸に戻る。抽象化するなら雲。具現化するならブラインド。西陽を遮光する為にブラインドを落とされる感覚に似ている。
内秘心書を肉付けても、サイレンススズカを蝕む感情に紐つける事はできず、ごちゃごちゃモヤモヤしたままだ。
不思議と、窒息する光景が目に浮かんだ。
食べ物だって咀嚼せず丸呑みすると喉に詰まり窒息するのだし、それは感情も同じで咀嚼できないと心が窒息してゆくのだろうか。なんて想像をしていると気のせいか呼吸が浅く苦しくなってきた。胸を逸らし軌道を確保すると瞬間視界に白が差し込んだ___
「あ...もう、こんなに暗い」
___ふと気がつくと、辺りは真っ暗だ。
歩行者専用道路に等間配置された植栽枡の街灯が灯り、人工灯だけが頼りになるだけの心寂しい時間が始まる。
こんなに暗くなるまで気がつかないなんて、どうにかしてる。
サイレンススズカは携帯電話で時刻を確認しようとしたが、ポケットに携帯電話を入れないまま走り出していたことに今更気がついた。ならばとジャージを捲ると、左手首に装備されていた腕時計は18時30分を指していた。
信じられない。2時間もの間ぼーっとしていただなんて。
「早く帰らないと___」
サイレンススズカは踵を返し、街灯だけを頼りに家路を辿る。
満天の星空と満月に気がつくのは、もう少し後のことだった。
⭐︎⭐︎
トレセン学園に戻る頃にはとっくに19時を回り、門限まで1時間を切っていた。
寮の自室に戻ったが誰もいない。時間的にトレーニングを終えて夜ご飯を食べているのだろう。箪笥から着替えを取り出すと、寮の浴場には向かわず学園のシャワー室に赴く。この時間だとシャワー室には人が居ない。靴を履き替え、寮の敷地を抜けた。
トレセン学園は18時を過ぎると生徒棟のブレーカーは落とされ、教員棟の一部がポツポツと灯る程度となる。
校舎内は昼間の喧騒が嘘のよう。活気ある渡り廊下、行き通りの激しい昇降口、採光を受ける窓。それら記憶内の常識が反相する時間が訪れている。
その中、静けさを打ち消すパチリと軽快な音が響き、教員棟1階東端に在する使用頻度の少ないシャワー室からサイレンススズカが出てきた。
音が響くのでドライヤーは使えなかったが、タオルで髪の水分をよく拭き取ったので、寮に戻ってケアを怠らなければ髪が痛む事はない。それに、早めに戻って食事を摂らないと運動分の肉体ケアができない。
角を曲がり、中央渡り廊下に辿り着く。
廊下一面には月光が差し込んでいた。
窓に切り抜かれた白光が、夜に染みた鍵盤のよう。光景に踏み込むとポロん、と音色が響いてきそうで。一つ、二つ鍵を踏み、昇降口も過ぎ、夜の校舎へ歩き出した。
生徒棟全域に破音が巡る。
端から端に辿り着くと、階段を登り、また新しい鍵を踏む。生徒棟の窓は閉め切られ巨大な密室が続いている。音は密室内で反響し、やがて消滅する。
最初のうちは神秘を覚えた光景も、やがて寂しくなる。
最上階の廊下でハタと立ち止まり、適当な窓を開ける。ヒンヤリした夜風を顔面に受けると、蒸気した頬が晒され、冷却されてゆく。
この感覚は、幾つになっても幸福な時間であると思う。
その幸福を、サイレンススズカは享受しきれずにいた。
理由は変わらない。
サイレンススズカは傷もないのに痛む胸を押さえながら、体内の不調に困惑し続けている。
運動、お風呂、散歩。日常の中で自身を癒す行動を取っていたにも関わらず、サイレンススズカを蝕む胸の痛みが晴れるどころか、日常に挟まる細やかな幸福でさえも雲らせている事実を、何より自身が1番に感じ取れていた。
時間が解決してくれるだろうと踏んでいた原因不明の不調は、放っておくと心に深く食い込んでしまい、これから遭遇するだろう細やかな幸福にも価値を見出せなくなってしまうのだろうか、なんて厭な想像ばかりが掻き立つ。
けれど予感がある。
このまま胸の痛みを放っておくと、全てが今日未満の幸福に陥ってしまう。
今までの人生で、当たり前のように得ていた幸福。
走る度に感じていた星の鼓動を得られない日々。
今日だってこんなに寂しいのに、そんな日々が続くなんて...そんなの...。
サイレンススズカは傷ひとつない患部を押さえながら、静かに這い寄っては背中に纏わりつく未知に危機感を抱く。
...どうすれば治るんだろう。
そうして夜風にあたりながら、何度目かの深考を行う。
ランニングが終わった後、時間を掛けて悩みに悩みあぐね、解決する手段が思い浮かばないのは折り込み済み。
無意識下で諦観さえ感じていた堂々巡りの疑問に今一度向き合う。
___静かな夜空と涼やかな空間に満たされていると、不思議と胸が軽くなり、小風が吹きぬけたようにスッと胸が軽くなる。風は胸を突き抜け、染み付いた痛みを僅かに攫い、覆ったモヤを吹き飛ばした。
そして、言語化できない感情の一端を意識に浮上させ、言葉を結びつける____感情と結びつき、認識に至った言語は、およそ誰にも言えない感情だった。
「どうして、そんなこと...」
自身の胸から溶け出した言葉に、驚きを隠せない。
そうしていると。どこからともなく音が響いてくる。
カツカツ、と周期持った音が廊下の端から響いてくる。その方向に目を向けると、懐中電灯の白光を浴びせられた。
「誰かいるのか?」
顔一面にかかるライトが眩しくて目を細めていたら、電灯が下げられ足元を照らされる。カツカツと近づき、やがてそのシルエットが浮かんでくる。
肩口で揃えられた光沢のある黒髪は、その性格を表すように先端まで綺麗に整えられ、彼女の醸し出す凛とした強さをより一層際立たせていた。
「もう消灯時間を過ぎている。早く寮へ___ん?スズカか」
「エアグルーヴ。久しぶりね」
彼女の名はエアグルーヴ。久しぶりに会う友人は、その剛さと凛とした声色から、元気であることは間違いなかった。
久しぶり、というのも、去年秋にサイレンススズカが脚を故障していた時は献身的に支えてくれたのだが、エアグルーヴは高等部3年生。時期も時期ということで、冬場は中々会える機会が訪れず、気がつけばエアグルーヴは卒業を迎えようとしていた。
友人は、ふふっと小さく笑っている。「どうかしたの?」と聞くと、「ああ、いやなんでもない。久しぶりだな」とシラを切られた。
「今日もランニングに出ていたのか?」
「ええ。少しだけ走りたい気分になったから」
「だろうな。こんなにいい天気なんだから、スズカなら走り出すと思っていたら、これだ」
窓の向こうに見える満月を眺めながら、まったく相変わらずだ、と再度笑う。
出会った時に比べ、エアグルーヴはよく笑うようになっていた。
他人との接触を重きに置かないサイレンススズカが、孤立せずに学園生活を送れていたのは、一重にエアグルーヴのおかげでもある。
エアグルーヴは自身にも他人にも厳しい性格である。それは友人になる以前、無自覚に素行不良を働いていたサイレンススズカに声を掛け、目を走らせ、時には叱ってくれた程だ。
彼女以上に心優しい人を、サイレンススズカは未だに知らない。
「エアグルーヴは、また生徒会の仕事?」
「そうだな。...後輩に生徒会の引き継ぎを行っているのだが、どうも仕事を教える時間が足りなく、幾つかはまだ私が受け持っている。
門限前の巡回もその1つだ。
春前という事もあり、この時期は仕事量と人員と時間が釣り合わん。引き継ぎも、役員の時間から無理に捻出しているのだから、頭から順に教えてゆくとどうしても足りなくてな。全く、問題が山積みだ。...すまない。お喋りがすぎたな」
「ううん良いのよ。私にも手伝える事があったら言ってちょうだい」
「あぁ、気持ちだけ受け取っておく。
スズカは外部進学の為に勉強時間が必要だろうし、エスカレーター式の私達とは難易度がまるで違うからな。時間は有限だ。自分のために使っておけ。
...それで、脚の具合は順調か?」
脚の具合とは、故障からの経過具合についてだろう。
ウマ娘が抜群の治癒能力を保持してるといえど、人体修復には時間を要する。昨秋に付けたギブスが外れたのは今年の1月頃。その頃、エアグルーヴは進路の為に時間を割いていた為、中々経過報告が出来ずにいた。
「えぇ。前のように思いっきりは走れないけど、少しくらいなら走れるわ」
そう聞くと、目に見えて強張っていた顔がほぐれ、すぐ元に戻る。
「そうか、復調の兆しがあるのは朗報だ。
...とはいえ、消灯時間はとっくに過ぎているし、門限も近い。早いところ寮に戻れ」
友人が生徒会副会長に切り替わる。
こうなるとエアグルーヴは秩序の人となる。
「そうね。
もう少ししたら戻るわ」
「...そうじゃない、スズカ。
私も生徒会副会長として発見した以上は、それ相応の対応を取らなければいけないのだ」
友人からの最終警告を受けても尚、サイレンススズカは動こうとしなかった。
夜の廊下に月影が傾く。窓枠から軟風が流れ込み、サイレンススズカの髪をサラサラと。
「やはり、悩み事があるのか?」
凛とした声が沈黙を割いて、エアグルーヴが核心に迫った。
「...どうしてわかったの?」
「普段と雰囲気が違うから、何となくだ。
スズカが左回りもせず、脚を止めてしまうほどの悩みがあるんだろう。聞かせてくれるか?」
「...うん、気持ちはありがたいけど、でも大丈夫」
「はぁ...そんな表情で言われても、まるで説得力がないぞ。進学のことか?...いや、この際他のことでも、なんでも良い。
スズカのことだから、同室のスペシャルウィークにも、誰にも話してないんだろう。
何はともあれ、身の内に収めておくよりは、相談した方が解決の手掛かりになるだろう?
例え解決しなくとも、言葉にするだけで気持ちは案外スッキリするものだ」
心の換気みたいなモノだ。と親友は続けた。
サイレンススズカは迷った。
サイレンススズカの心から漏れ出ては痛みに起因する「言語化できない感情」。
それの一部を融解した事で言葉に出来た「おそよ誰にも言えない感情」
その、自身でさえ理解しきれない感情を誰かに相談しても良いものなのか?と迷いはしたが、他でもないエアグルーヴがそう言った。
例え問題解決に向かわなくても、誰かに話す事でスッキリするのかもしれない。
"心の換気"という未知の価値観が、サイレンススズカの背中を押す。
「...確かに、悩み事があるの。
わたし、上手く言えないかもしれないけど、聞いてくれる?」
「あぁ。何でも話せ」
サイレンススズカは僅かに息を飲み、胸奥に沈めた「およそ誰にも言えない感情」を浮上させ、既知の言葉を当て嵌める。
「今日、トレーナーさんがね、私以外のウマ娘と契約を結んだの」
ポツリポツリと、未だ混乱する自身を宥めるように言葉を紡いだ。
「...エアグルーヴ。
今日、生徒会室にトレーナー契約書を提出した娘が来なかった?」
「あぁ。1人そそっかしいのが来たぞ。
確かに、トレーナー欄にスズカのトレーナー名を記入していたな。
...スズカも既に会っていたのか」
「えぇ。放課後、教員棟3階の踊り場でバッタリと。
方向からして、直前にトレーナー室に寄って、トレーナーさんに捺印を貰っていたのだと思う」
「...その娘から。嫌な事を言われたのか?」
「ううん、そんな事ないの。
あの娘、すごく良い子だったわ。
私のファンと言ってたし、明るくて、声も朗らかで、まるでスペちゃんみたいな娘だったわ」
言いながら、サイレンススズカは昼間に出会った娘を思い出した。
私のファンと言った娘。
金木犀の匂い、咲き誇る笑顔。明快な声。
その人が、明日からトレーナーさんの隣にいる。
それは____それは。
「...だけどね、何でだろう。
あの娘に会ってから、ずっと胸が痛いの。
キュウっとして、切なくて。
何でだろう...明日から、あんな良い娘がトレーナーさんと一緒なんだって考えるとね。...痛いの」
言いながら、サイレンススズカを蝕む感情が一等肥大してゆき、無傷の心が鼓動と共に悲鳴を上げる。
サイレンススズカは自身の胸を抑え、喉元まで競り上がった感情を装飾して、言葉にしてゆく。
「おかしいよね。...私が引退したから、トレーナーさんは、トレーナー業を続ける為、新しいウマ娘と契約して、新しく担当を作るだけなのに。
何も不思議な事じゃないのに。当たり前なのに。それが仕事なのに。
でもね...上手く言葉にできないんだけど、心の奥で、こう思ってたの。
"どうしてトレーナーさんは、私以外のウマ娘と契約を結んじゃうんだろう"って..そう、思っちゃって」
新たに定められた日課、新たに定められた日常。
サイレンススズカは選手生活中に脚を故障した。その後は治療をして、多少は走れるようにはなったが、それだけだ。
サイレンススズカの選手生活は静かに幕を閉じ、同時、トレーナーの役割の一つが終わりを迎えた。
その後もサイレンススズカは療養課程を報告するべく、なんとなくトレーナー室に通いながら進学の為勉強に従事し、契約解除をした後なのに、なんとなくトレーナーとの関係を続けていた。
特に理由はないのだが、強いて言うならば居心地が良かったから。という他ないだろう。
サイレンススズカとトレーナーの関係はそれだけだ。
それだけなのに、胸からは痛みが溢れだし、身体を駆け巡ってはサイレンススズカを悩ませていた。
___だというのに、エアグルーヴの口角が上がっていた。
含み笑いを浮かべながら「なるほどスズカにもようやくか」と呟いている。
「エアグルーヴ...?
今ので、何かわかったの?...私、自分でもうまく説明できたと思わないのだけど」
「あぁ、今の説明で大分は理解した。
...しかし、まぁ、これは重症だ。
...もしやと思って来てみたが、虫の知らせが当たったようだ」
「重症?エアグルーヴ、これって病気なの?」
「病気...というなら病気だな。
今のスズカの症状と当て嵌めるなら、特大の病気だ。
だがメジャーな病気でもあるから、治療方法も確立している。
...かくいう私も、一度罹患した経験があるから、治療方法も知っている」
驚いた。
全く単語にできていないこの感情だけで、エアグルーヴには私の感情が伝播したどころか、彼女自身もその罹患経験があるとのこと。
自身の知り得ない視座に居る友人が、どこまでも頼れるように思えてしまう。
「ねぇエアグルーヴ。この病名ってなんなの?」
「...いや、病名は無い」
「そうなの?
じゃあエアグルーヴはどこでお薬を貰ったの?」
「いや...薬で治るものでも無いのだ、この病気は」
「それじゃあカウンセリングを受けるの?精神科のように」
「そうだな...形としてはそれが1番近いな」
どうしてか言葉を選ぶ素振りのエアグルーヴに、サイレンススズカは怪訝に思っていると、「...少し待ってくれ。作戦を練る」と場違いな単語が聞こえたら、一息の間に七変の表情変化を行い、満足げな溜息をつき、口元が綻んでゆく。
「よし、スズカ。
今すぐトレーナー室に行くぞ」
「えっ...今からって、もう門限に近いのよ?」
腕時計は19時35分を指していた。それをエアグルーヴにも見せるが、そんな事はお構いなしといった風情だ。
「ここから2分でトレーナー室に行き、15分で要件を片付けて、8分で寮に戻れば良い。
時間が惜しい。
歩きながら作戦...もとい、治療方法を教える」
突然の展開に困惑するサイレンススズカにはお構いなしにテキパキと的確な指示を出すエアグルーヴ。
トレーナー室に今から向かう。
そう考えると、胸の痛みが脚を引き、ちょっとだけ___
「その胸の痛み、今日中に治したいとは思わないか?」
___迷いを見透かしたような言葉が、サイレンススズカに届く。
「...治せるの?」
「確証はできない。
けれど挑戦しなければ治らない。
このまま帰ると睡眠の最中でさえも痛み出すし、間違いなく睡眠不足になる筈だ。私がそうだったからな」
「...お願いエアグルーヴ。治療方法を教えてちょうだい」
「あぁ、そのつもりだ。
歩きながら説明する。ついてこい」
踵を返すと、エアグルーヴは迷いなくトレーナー室への最短ルートを辿るため、懐中電灯で闇夜を照らした。
「治療方法を説明する前に、スズカ。
私が卒業する前に再度言っておく。
友人になる前にも伝えた事だがな。人とコミュニケーションは積極的に取るようにしておけ。
この病気は、一時的接触の中で治癒されるものだ」
無様にも罹患した身で言えたことではないがな。と自嘲気味に笑い、閑静な夜の中を静かに歩き出した。
⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
シンと静まった闇夜の中を、一筋の光が照らしてゆく。
巨大な洞窟を思わせる校舎の中に、足音と会話音が響き、やがて教員棟3階12号室前に辿り着いた。
扉をノックする直前。サイレンススズカは、僅かに躊躇ってしまう。
「スズカ」
凛とした声が背中を押し、それで決心がついた。扉を軽くノックする。
「トレーナーさん、私です。あの...入ってもいいですか?」
一度だってした事のない名乗りを上げると、中から「どうぞ」と聞こえたので、取手を開くことにした。
「失礼します」
扉を開け、渡り廊下とトレーナー室の境界に立つ。
顔を上げると、そこにはいつものトレーナー室。
両脇に本棚。窓際に執務机。中央に応接間、そこに積まれた書類やら本やら。いつもと違うのは、あたり一帯が蛍光灯の白色に染め上げられている事だけ。
窓際の執務机でpcと睨めっこしていたトレーナーさんの手が止まり、コチラを見上げた。
「あ、あの___」
「ようやく忘れ物取りに来たか」
「___え?...忘れ物、ですか?」
不意の言葉にキョトンとしてしまう。
そうしていると、トレーナーさんは中央の応接机を指差した。
応接机の一角、サイレンススズカの定位置には開きっぱなしの教科書が置かれ、そこでようやく、放課後の一幕を思い出す。
そうだ。衝動的にランニングに赴いたので、教科書は散らかしっぱなしで、鞄も携帯電話も置きっぱなしだ。
「....すみません。忘れてました」
「いいよ。
こっちはこっちで勝手に教科書開いて青春を思い出してたし。むしろご馳走様といった具合だ」
サイレンススズカは応接机に置かれていた教科書を手に取りパラパラと捲ると、教科書の隙間からB4サイズのルーズリーフが落ちた。
それを拾い上げると、何やらシャーペンの芯で文字が書かれている。
その筆圧は間違いなくトレーナーさんのものだった。
「これ、トレーナーさんのものですか?」
「あぁ、それ。
教科書眺めてたら"宿題"って付箋引かれてたから、それを見ながらルーズリーフに答案を記入していたんだ。
捨ててもいいし、取っといても良いし。次の授業で丸つけしてくれてもいいよ」
現代文では宿題が出されており、次の授業で回答を行うのだ。
ルーズリーフを眺めると、そこには"失恋したので髪を切った"と綴られていた。
回答を見ただけはでは問題提起の場所を思い出せず、教科書を広げ、該当小説をを頭から読んでいると、背後から「スズカ...!」と小声で叱咤され、そこでようやく本来の目的を思い出せた。
教科書をバタンと閉めると、執務机に座るトレーナーさんに向け、先ほど言いかけた言葉を喉元から引っ張りだす。
「あ、あのトレーナーさん!お掃除しに来ました!」
前後の会話と接合しない突然の提案。
トレーナーは目をパチクリとさせる。
「...休日に纏めてやるから要らないけど?」
「え...あ...そうですか」
お互い目を見合わせ、気まずい沈黙が場を支配し、背後で特大のため息が聞こえた後「しょうがない」と聞こえて扉がノックされた。
「生徒会副会長のエアグルーヴだ。夜遅くにすまない。
スズカを来させたのは私の入れ知恵だ。
またスズカが時間を忘れてランニングをしてたらしく、19時を過ぎて無断郊外外出となってしまった。
その反省としてボランティア活動を一任させたく、普段世話になってるトレーナー室の掃除へと任命したのだ。
掃除する物が休日分しかなくとも構わない。20時に寮に帰宅できるギリギリいっぱいここで働かせてほしい」
流れるように入室してきたエアグルーヴが助け舟を出してくれた。
「エ、エアグルーヴ。私、今日は18時過ぎには」
言いかけて、脇を軽く小突かれた。
「どうだろう?
私としても、スズカが外部進学をする事は聞いているし、その難易度の高さも知っている。
休日を潰してのボランティア活動はなるべくさせたくないのだが」
「なるほど、そういう事でしたか。そういう事情ならお願いしようかな。
スズカ、応接机に散らばってる書物の整理をお願い。
ペーパーは纏めて1箇所に。教材は背表紙が見えるように、適当に本棚に戻してくれるだけで構わないから」
「は、はい!」
トレーナーさんから指示を出され、応接机の書物に手をつける。その前にサイレンススズカ自身が広げていた教科書を鞄にしまい、ある程度の空白を作ってから作業に臨む。まずはペーパーと本の入り乱れてる山を上から崩し、どう切り分けようかと頭の中で作業順序を組み立てていると、肩にポンッと手を当てられた
「じゃあスズカ、私は帰るからな。先程言った事を忘れるなよ?」
「あ...うん!作戦通りね」
「...ーーーそうだな。がんばれよ」
何故か苦笑混じりのため息をつかれ、エアグルーヴは「失礼する」と退室していった。
頼まれた通り、まずは書物とペーパーの分別作業をする。
ペーパーは1箇所にまとめ、教材は端から綺麗に纏める。
単一作業をしていると、不思議と視野が狭まってくる。
目に映る景色には掃除対象しか映らず、1箇所片付けて、もう1箇所と目につく。
端から端へ片付けてゆき、まだ片付ける場所を見つけ、移動して行く。
ランニングの要領と似ている。
単一作業をしていると、不思議と時間を感じない。
「スズカもう大丈夫。もう時間だし、早く帰ったほうが良い」
「え?あ...もうですか」
トレーナー室に設置されている掛時計は19時50分を指していた。門限である20時の直前だ。
サイレンススズカはトレーナー室を見渡す。
見違えるほど綺麗になった部屋を見て、胸がスッとするのを感じる。
窓をこじ開け、風が入ってくるような、爽快感。
「...あっ」
サイレンススズカは驚き、自身の胸を触ってみる。
傷一つない胸からは、もう痛みを感じなかった。
「...すごい。エアグルーヴの言ってた通りだわ」
「エアグルーヴ?...なんかさっき、作戦とか言ってたけど、何かあったの?」
「あ...はい。そうなんです」
「なに言われたの?」
「えっと...言っていいのかな?」
「あぁ、無理に言わなくてもいいぞ。
友達同士の会話に踏み入るのはノンデリか」
「あぁ、いえ。そういうわけじゃないです...話したいです」
トレーナー室に来る直前、エアグルーヴから、『胸の痛みに纏わる病症』を聞いた。
エアグルーヴは語った。
"この病気に病名は無い。けれどトレセン生には発生やすく、症例が多い分、治癒方法も確立はしている。
...幾つか治癒方法はあるが、そうだな。...スズカの場合、会話を増やせば自ずと解決するだろう。
まずは会話する為、トレーナー室に掃除でもしに行くぞ。
総括。作戦としては『会話をしろ』『近くに居続けろ』それだけだ"
そうして掃除をして、幾つか会話をしていたら、不思議なことに、あれだけサイレンススズカを蝕んでいた胸の痛みは、どこか遠くへ消えていた。
その不思議な現象を振り返るように言葉を紡ぐ。
「えっと...放課後から、傷も無いのに胸がズキズキしました。
でも鼓動は安定してましたし、病気の心当たりも無くて、困惑してました。
それをエアグルーヴに相談したら、トレーナー室の掃除をすると解決すると言われたので...そうしたら、言われた通りスッキリしました。」
「掃除をすると治る...奇病はおいといて。
最近はランニングに出ても門限前に帰るから意外だと思っていたが、エアグルーヴの入れ知恵だったか。
胸の痛みか...保健室か病院に行ったのか?」
「いいえ。保健室は閉まってましたし、郊外に出るのも億劫だったので、明日にでも行こうかなって。
...でも、エアグルーヴは行かなくて良い。恥をかくだけ。と言ってました」
「恥とな?」
トレーナーさんはハテナの顔を浮かべる。
「私もよくわかりません。
でも、エアグルーヴもこの痛みを経験したと言って、だから必要ない...と」
「経験者の意見ってやつか...軽く事情は聞いておきたい。
何かの早期症状の可能性もある。
スズカの胸の痛みはいつ頃から始まったか。また、当時の状況を話して欲しい」
一転し、トレーナーさんの表情が険しくなり、猛禽類のような鋭い視線を向けてくる。
「えっと...それはちょっと...」
しばし言い淀み、エアグルーヴから聞いた作戦を思い出し、やがて言葉を紡ぐ。
「...上手く伝えられないと思うのですけど...胸が痛かったんです。
胸が痛くなったのは、放課後トレーナー室に入って、知らない人の匂いがしました。
...新しい担当の娘が、私より前に来たんですよね?
...それから、ずっと胸が痛くて。それになんだかソワソワもして。
...トレーナーさんにどうして、他の担当ウマ娘が付いてしまうのだろうって...そう思ったら、胸が痛くなって...」
思い出すと、胸がキュウっと締め付けられた。
傷もなく、痛みもないのに、心が苦しい。
更に言葉を紡ぐ。
「...変、ですよね?
たったそれだけで、今日ずっと胸が痛くて、苦しかったんです。
こんなこと、今までなかったのに。
...それをエアグルーヴに話したら、それは病気みたいなものだから、治した方が良い。
会話をすれば治るから、トレーナー室に居続けろと...そしたら、全部スッキリ治ったんです。
...おかしいですよね?」
キュウっと絞られた心から、自分でもよくわからない感情が込み上げてきて、最後は笑って誤魔化すしかなかった。
その不器用な作り笑いが変だったのか、トレーナーさんは「あぁ、全くおかしいな」と、大きく溜息をつきながら、「どうしようか...」と物憂気に呟いた。
「それで、エアグルーヴはその病名について何か言ってたか?」
「いいえ、病名はわからないと...ただ、トレセン生には発症者が多く、エアグルーヴ自身も罹患経験はあると言ってたので...何か、精神的な病気で、まだ世間一般に浸透してない、とかでしょうか?」
「...それでいいか。野暮だし」
何だか会話が噛み合わないように感じる。
それに、トレーナーさんの様子が若干硬いようにも感じる。
「それで、エアグルーヴ曰く、スズカの胸の痛みってのは、“トレーナー室で会話をすれば治る"って感じか?」
「はい」
「....じゃあ、再発防止のために、トレーナー室には定期的に来るように。...これは、いつも通りか」
「それもそうですね...ふふっ」
「まぁ俺も担当がついてトレーナー室には居られないかもしれないな」
「...そうですね」
「...そこでだ。スズカには兼ねてより頼みたいこと事があったんだ」
「え?...頼み事、ですか?」
「元々、色々と書類をまとめてから話す予定だったんだが。スズカが走りに行って機会を失ってたんだ」
...そういえば、今日トレーナー室に入った時、トレーナーさんが何かを言ってた事気がする。
トレーナーさんは机をガサガサと漁り、一枚のフリックボードをサイレンススズカに差し出した。
「これは...育成計画書?」
印字を読み取ると、そこにはウマ娘の基礎トレーニングとバイタルチェックが記されていた。
「そう。新しい娘と育成契約を結んだは良いけど、性格上かなり張り切るタイプでな。
無理が祟って身体に負荷がかかりすぎるかもしれん。...俺自身の目は、トレーナーとしては特化しているが、選手目線の視座を持ち合わせていない。
スズカには彼女のトレーニングを見て、現役生としての意見をお願いしたい。...いわゆるコーチみたいなものだ。
もちろん在学期間、進学に差し支えない範囲でお願いしたいんだ。
...お願いして良いか?」
___フリックボードを眺める。
羅列されたチェックポイントを読み取ると、文章から何か伝播する...これは、熱。
トレーナーとしての熱意。ウマ娘への理解。レースへの愛。生徒への気遣い。バイタルからメンタルに至る冷静な視座。
それはかつてのサイレンススズカにしてくれた事と同じであり、かつてのサイレンススズカに寄り添い、私に孤独の寂しさを教えてくれた人のまま。
朝、何ら特別ではない日。
サイレンススズカが目覚めた瞬間、全ての思考よりも先に"会いたい..."と思った人のままで___
「...はい。もちろんです!」
「ありがとう。助かるよ。
それじゃあ明日からトレーニング開始だから、16時にトレーナー室集合。それで良いか?」
「はい、大丈夫です」
「基本はスマホでの連絡になるけど、スズカは忘れっぽいからな...腕時計はまだ着けてる?」
「はい、もちろんです」
その左手首に付けられた、女性にしては無骨な腕時計を掲げる。
これはトレーナーさんから頂いた品だ。
ランニングに赴く際、サイレンススズカは携帯端末を忘れてしまいがちだ。
"身の安全の為"と、去年の夏頃にトレーナーさんから腕時計を頂いて以来、日常生活では常に腕時計を付けている。
その特別だった認識は、いつの間にか常識に落とされたいた事を、今ようやく再認識できた。
そうして、こうも感じた。
なぜ、サイレンススズカは、トレーナーさんが遠くに行ってしまうと想像してしまったのだろうか...と。
その衝動にも似た感情を、サイレンススズカは未だ言語に落とし込めない。
けれど理解できない感情が、言語に落とし込めなくとも胸に宿った暖かい感情が、理解できないまま変におかしくって、サイレンススズカは小さく微笑んだ。
「___スズカ、聞いてる?」
「あ...いえ、聞いてました!」
「...一応繰り返すか。
言っておくけど、俺もトレーナー業である以上、あの娘とも会話もするから。そのつもりで」
「...?
それはトレーナーとして、普通のことですよね?」
「そうか。...そうだけど。...難しいな」
何だが変なトレーナーさん。
それがおかしくて見つめていると、トレーナーさんはフイと目を逸らし、「そういう事にしておくよ」と呟いた。
.........
夜の校舎を歩きながら、そっと胸に手を当てる。
イメージは昼下がり。南風が窓に吹き込み、カーテンを靡かせる午後の憧憬。
誰もいない筈の校舎を闊歩し、胸の痛みが喜びに変換されている事を理解する。
トレーナーとの記憶を思い出すと、少しだけ、楽しい気持ちになった。
なんでかわからないが、彼のことを思い出すと、胸が熱くて、きゅうっと、なって、口が綻んじゃう。...私、ちょっと変かも。
トレーナーさんが新しい娘を指導する事実は変わらないのに。トレーナーさんの横には私もいる。
気がついたら隣居る存在と思い出し、1人ぼっちを寂しがれなかったサイレンススズカの色彩は、いつも間にか色付いていた。その事を、今更気がつかされた。
新たに定められた日常は、また新たに定められた予定によって変わりゆく。
校舎を歩くと、程なくして昇降口へ辿り着いた。
影絵めいた世界はシンッと静寂。その中に見覚えのあるシルエット。
「遅かったな。もう門限を過ぎている」
「エアグルーヴ、待っていたの?」
「まぁな。...心配していたのだが、その表情だとうまくいったようだな」
「うん。明日もトレーナーさんと一緒に居られるの。
ありがとうエアグルーヴ」
「なんだ水臭い。私とスズカの仲だろ」
柔らかかった友人は、鬼の形相へと変貌する。
「...大体なスズカ。
出会った時も、ついさっきも言ったが、お前はもっと人と話せ。
普段もボーッとしているくせに、悩みがあると更にぼーっとするからな。
その上悩みを抱え込もうとする」
「うっ...ごめんなさい。エアグルーヴが、いつもに増して厳しい気がするわ」
「厳しくもなる。
残り1週間もしない間に、私は卒業するんだからな。
もう、これ以上私が助けることはできんぞ」
「...えぇ。ありがとうエアグルーヴ」
他人のためによく怒る、誰よりも優しい親友は凛々しく翻り。
「それじゃあな。私は生徒棟を見回ってから家に帰る
...スズカ。その病気の名前に気づいたか?」
「え...あるの? 名前がないんじゃないの?」
親友はいたずらっぽく笑うと「それを教えたら野暮になるな」と微笑み、カツカツと音が響かせ、校舎へ消えていった。
シンッと静かな世界に戻る。
また、1人。
その世界で、風が吹き込み、少しだけ髪が持ち上がる。
どこかの窓が開きっぱなしで、風が吹き抜けたのだろうか。
それは春の芽吹きを感じさせる暖かな風だった。
それは、転機の季節を象徴する風か、或いは煮え切らない関係を動かそうと背を押す風なのか。
少女は、自身の心に芽吹いた感情を未だ識らぬ。
そして、胸に残留した痛覚が何を訴えていたのかも、もはや知る由もない。
また、芽吹いた感情と、既知の言葉を紐付ける事も、もはや自力では不可能だろう。
やぼったい誰かが、その病名を「恋」と断定するまでは。
寮に帰る為、サイレンススズカは昇降口に赴き、外履きに履き替える。
外に出ると、空は満点の景色。青のキャンパスに吹きこぼれた星屑が、月よ立てよ、雲を隠せと燦々と。
視界いっぱい、その景色に吸い込まれ、胸中に言語化できない感情___即ち、衝動が溢れ出し__感情を装飾する暇も与えられないまま、胸に熱を与えられ、星の鼓動が重なり___しかし、サイレンススズカは思いとどまる。
門限は過ぎている。もう帰らないといけない。
___けれど、もう一度吹いた春風に背を押され、そのまま、風に攫われるように、走り出してしまった。
学園全体に訪れる転機とともに、風が誘い込む方へと姿を消した。
一度だけ、暖かな風の中で微笑んで。