池の水面に桃の鏡像が映っていた。覗き込もうかと一瞬考え、やめた。たぶん、見たくないものまで見える。
後ろからやってきた矢翠は、はしゃぐように池のそばにしゃがみ込んだ。
柴の屋敷からしばらく歩いた山裾に、ぽっかりと開いた空間がある。小川とすらいえないような細い水流が山から流れ込んでそこに小さな池を作っているのだ。桃が小さい頃はよく散歩に来た。近年でも、夏になると避暑を兼ねて気紛れに訪れたりする場所だ。
今はまだ、吹き抜ける風が肌寒い。しかし他に行く当てを思いつかなかった。風に包まれながら、池に手を浸す矢翠の後姿を桃は黙って見ていた。波紋を立てる水面も、冬枯れを乗り越え緑色に色づき始めた木々も、どこか寒々として躰の芯まで冷えていく気がする。
「桃様とこうして歩くのも随分と久しぶりな気がします」
「ついこの間まで一緒に旅をしていたのにな。物見遊山とはいかないが、もう少し出歩いても良かったか」
「使命のある旅でしたから仕方ありません。それに今日、こうしてお誘いいただきました」
「気が利かないんだ、私は。人を誘ったりするのも向かん」
「存じています。桃様らしくて私は良いと思いますが」
矢翠が振り返って微笑んだ。物心ついた時から、桃に向けられる矢翠の笑みはまったく変わらなかった。穏やかに包み込むような笑み。桃が甘えた時も反発した時も、矢翠はそうやって笑いながらただ受け入れてくれた。
これから先も恐らく変わらないのだろう。未来の光景が脳裏に浮かぶような気がして、桃は目を閉じた。
「冷えるな、まだ」
「そうですね。ここは山からの水が冷気を運んできますから。初夏に来ると、とても心地の良い場所ですけれども」
「最後にお前と来たのはいつだったかな」
「もう何年も前ですよ。懐かしい」
「確か夏だった気がする」
「はい。二人で涼みに来たんです。桃様が、暑い暑いというので」
「本当はそんなに暑くなかった。出かける口実を探していたのさ」
屋敷では、祖父がどこぞの女を孕ませ引き取ってきた子だと思われていた。女中達の視線は池を撫でる風よりずっと冷たく、祖父と矢翠を除いた屋敷の全てが桃にはずっと窮屈だった。その祖父もいつ頃からか寡黙で重苦しい気配を備えるようになって、いよいよ矢翠しか話相手のいなかった頃に屋敷を飛び出したくなったのだ。
浅ましさから生まれた子供だと、露骨に言われたこともある。剣を振るうようになると蔑みは一層深くなり、辻斬りを斬った辺りで触れてはいけない存在になった。まったく変わらなかったのは矢翠だけだ。
剣を振ろうが人を斬ろうが矢翠は変わらずそばにいる。だから、過ちすらも変えることはできないだろう。
胸の内に暗澹たるものがある。どうしようもなかった。人を斬りすぎたのだ。鬼の族長が正しい剣と、そして魅志磨がただ命を消すと評した剣に任せて人を斬ってきた。それが本当に正しかったのかは誰にもわからない。今更、どうにもならなかった。
斬るべきだと思った相手には、必ず剣を向けてきたのだ。
「なぜ、申を殺した?」
矢翠の表情は何も変わらなかった。聞くまでもないことを問われた、という不可解さすらそこにはない。
「そうすると決まっていましたから」
「それはお祖父様や猿のご当主の都合だろう。一族の妨げになりかねない男を消す。あるいは、寵愛する次男のために長男を消す。くだらないが、人間らしい理屈だと思う。しかしお前には当てはまらないものだ。なぜ、そうした?」
矢翠が困ったように微笑んだ。
「桃様のためにもそうするべきだと、ご当主様が仰ったからです。猿の一族が柴の一族を越え、権力を握れば、必ず桃様は困窮すると。そんなお姿は見たくありませんから」
いつ何時でも笑っている。その笑顔の裏にあるものを桃は考えたことがなかった。祖父はそれを知っていたのだろう。
人としての欠落のようなものがあり、そこを他の何かで歪に埋めてしまっている。いや、祖父自身がそう仕組んだのか。
「申の傷口を見た。尋常な技ではないな、あれは」
「雉の一族の暗器術です。私の生家の技でもあります」
「お前、雉の一族の出なのか?」
「幼い頃に乞われて柴の家に奉公に来ました。任されたのは、私よりも幼い女の子でしたが」
「私のための隠密だったということか?」
「さて、ご当主様のお考えはわかりません。ただ、一目見て私がお支えする人は桃様しかいないと思いました。女中であれ、隠密であれ」
「お前がいてくれたことは救いだった。女中としての、お前が」
「桃様の傍らにあれたことは、私にとっても幸せでした」
一切の衒いなく矢翠はそう言い切り、また微笑みを浮かべた。
その笑みに欺瞞はない。桃のことだけを第一に考え、桃のために人を殺したのだ。
自分のために人を殺したならそれで良かった。欲望のために動き、悔恨を抱いているならばそれは変哲のない人の在り方だ。
他人のために人を殺し、欠片の痛痒すら覚えていないのならば、それはもう人ではなかった。
「虚しいな、矢翠」
腰に手をやった。延寿国村。静かに、鯉口を切った。
「剣は、虚しいものかもしれない。生まれて初めてそう思うよ。お前のためにしてやれることが、私にはもう他に思いつかないんだ」
「桃様から頂けるものであれば、それがなんであれ私は幸せです」
「死であってもか?」
「死であっても、です。桃様が私のことを真剣に考えて、与えてくださるものですから」
「昔からそうだな。お前は、私のやることにあれこれ口を出しながらも本当に止めたことは一度もなかった」
「汗を掻くからと裸で鍛錬をしようとした時は本気で止めましたよ?桃様は、その辺りの慎みが足りませんでしたから」
「そんなこともあった。昔のことだな、矢翠。随分、昔のことだ」
「はい。桃様が、まだ私よりも小さかった頃です」
「そうだな。私は、お前の背を追い越した」
矢翠が嬉しそうに笑った。
鞘を払った。延寿国村が、木漏れ日を受けて煌めいた。
どう刀を遣えば目の前の命を消せるのかが、考えるまでもなく頭に浮かんでくる。容易いことだった。巻藁よりも簡単に、矢翠の命は消えてしまう。
「私は悪なのでしょうね。桃様の剣はいつも、悪い人を斬りますから」
「そんなことはない。私はただ、斬るしか能がないだけなんだ」
「邪を払う桃。それが桃様の由来だと、ご当主様に聞いたことがあります。その剣はきっと、桃様の名前の通りに振るわれるのでしょう。そうあってほしいと、私は思います」
「それがお前の、最期の願いか」
「はい」
「わかった」
正眼に構えた。矢翠が少しだけ足場を移動した。池を血で汚さぬ場所。逃げるでも抗うでもなく、ただそんな些細なことを考えているのが矢翠らしかった。
従者であり、友であり、姉だった。邪悪ななにかに利用された、悲しい人でもあった。生きていれば、それがずっと続くだろう。祖父か、ほかの有力氏族か、あるいは朝廷か。誰かがその想いの歪な純粋さに目を付ける。
桃にできることは一つしかなかった。風が凪いだ。水音と水面に反射する硬質な日差しだけが、空間に揺らぎを生み出している。
無意識だった。気付いた時、延寿国村は鞘に納まり、矢翠だったものを受け止めていた。何かを塗り潰すように、血の匂いが広まり始めた。
再び吹き始めた風が冷たかった。陽の光。せせらぎ。初春の、どこか空々しい光景をその風が通り抜ける。
腕の中に、まだ温もりがあった。体温か、それとも血の温かさなのか。わからないまま、桃はその消えていく温度を抱きしめていた。
◇
「お祖父様、入ってもよろしいですか?」
「桃か。しばし待て。朝廷へ、書状を認めている」
戸の向こうから聞こえた返答に頷き、桃は柱に背を預けて外を見た。雲のない夜だった。繊月は高く佇み、庭からは去り時を逃した鶫の鳴き声が隙間を縫うように耳に届く。
女中達も既に皆仕事を終えて帰宅していて、屋敷からは生活の音がしなかった。最近の祖父は住み込みも許していない。ここしばらく、屋敷で寝泊まりしていたのは矢翠だけだった。
風が冷たいのか、よくわからなかった。温度は低いだろう。ただ、冷たいとは感じなかった。
しばらく待ってから、戸を開いた。祖父が桃を見上げた。行燈の灯に横顔を照らされながら、机に向かっている。手元の書状には、何の文字も書かれていなかった。
「入れとは言っていない」
「朝まで待たされるのでは、と思いまして」
「ならば、朝まで待て」
「しばらく前に頼まれたものでしてね。できるだけ早く済ませてしまいたかった。これを渡しにきたのですよ」
懐から、書状を一枚取り出した。荷に押し込んで、そのままになっていた書状だ。
「それは?」
「魅志磨から託されたものですよ。鬼の族長から、お祖父様へ宛てた書状だとか。色々と考えましたがやはりお祖父様に届けるべきかと思い」
「捨てろ。朝廷にあらぬ疑心を抱かせるだけだ」
「読まずとも良いのですか?」
「いらぬ。それより」
祖父が鼻をひくひくと動かし、眉をひそめた。
「血が匂うな」
「でしょうね。矢翠を斬りましたから」
「矢翠か。惨いことを。あれは、心の底からお主のことだけを想っていた」
「知っています。だからこそ、お祖父様のような人に付け込まれたのでしょう」
「何を言っている、桃」
「さあ。ただ、延寿国村を振るう相手だけを求めているのかもしれません」
「それが私か。お主は、剣に飲まれたか」
「なにかに飲まれたのはお祖父様の方ではないですか」
祖父が真っ直ぐに桃を見つめた。桃は延寿国村を帯から引き抜き、隣に置いて静かに腰を降ろした。祖父の目が一瞬だけ刀の柄を追うように動き、桃はそれに応じるように祖父の体躯を目で追った。
数年前と比べれば、悲しいほどに痩せている。肉体も活力も静かに朽ちてゆく中で、その目だけが不穏な光を失いきれずにいた。どこまでも昏い光だ。
「何を考えている」
「おわかりでしょう?お祖父様を、斬りにきました」
「なぜ私を斬る」
「邪悪であるゆえ」
「私は果島の地を守った。鬼の一族の武力など何の当てにもならぬほどに、朝廷はその力を肥大させたのだ。もはや生き残る道は恭順しかない。そのために手を汚すことが、悪か?」
「お祖父様の言うことは、きっと正しいのでしょうね。果島の地が無用な血を流さないためには、お祖父様の行いが必要だったのでしょう」
「では」
「よいのです、もう。私も理屈で剣を執ろうとは思いません。斬るべきだと感じたものは、斬ろうと思います。それに、お祖父様は果島の地にとって必要な存在であっても、あくまでも悪を成す者としてのことでしょう」
「善悪が、至上の価値か?」
「私の剣にとっては」
「私を斬ることは朝廷に侵攻の口実を与えることだぞ。果島の地は焦土となる」
「鬼の一族はすでにそうなりました。申も、戌童殿も、矢翠も」
「小さいな、桃。お主の視野は小さく狭い」
「見ようと思わないだけですよ。目を逸らしているお祖父様とは違う」
「私が目を逸らしているだと?」
「朝廷の隠密は助けに来ませんよ」
祖父の躰が揺れた。それは動揺というよりも、聞きたくないことを言い聞かされている幼子のようだった。
時間を稼げば朝廷が助けに来ると、祖父は本気で思っていたのだろうか。確かに、街の中にそれらしき者達の影が見える。恐らくは屋敷の周辺にも見張りを立てているだろう。
しかしそれは、決して護衛ではなかった。祖父と朝廷の間でどのようなやり取りがあったのかは知らないが、あれは監視のための人員だ。連中は、柴の領地で何かが起きるのをただ待っている。場合によっては、自分達の手で事を起こすことも厭わないだろう。
行燈の灯が小さな音を立てた。風の吹く夜だった。屋敷の中にも、どこからともなく寒風が吹き込んでいる。
「私に何かあれば」
「下手人を始末して果島の地を制圧すればいい。朝廷の考えなどそんなものでしょう。助けになど来ません。むしろ、お祖父様が消えるのを心待ちにしているのではないですか」
「そんな筈はない」
「私が矢翠を斬ったことも既に連中の知るところだと思います。それでもなお、ここには誰も現れていない。身内を斬り殺すような女とお祖父様を一緒にする理由などそうはありません」
「朝廷は、私がお主に斬り殺されるのを待っているというのか」
「鬼の一族が消え、犬の一族はその力を半減させた。猿と雉には武力も、それを扱う力もないでしょう。今、朝廷にとって邪魔な氏族は仮にも臣下である柴の一族、つまりお祖父様と私だけです」
「私は、死ぬのか?」
「死にます。仮に私が斬らずとも、遠からず誰かの手で死ぬでしょう」
「そうか。死ぬか」
祖父が小さく頷き、目を閉じた。あまり衝撃を受けているようではなかった。頭のどこかでは、朝廷の考えぐらい見抜いていたのだろう。しかし心が信じていなかったのだ。それは、朝廷の施した洗脳ともいえた。
瞳を閉じたままの顔から、陰が薄らいでいるのを桃は感じた。祖父だった。記憶の果てに僅かに残っている、まだまともだった頃の祖父の顔。
目前に迫った死が、何かを引き戻したのか。今更という言葉すら、虚しかった。
「お主ならば、私を朝廷の隠密から守れる」
「申が生きていれば、そういう選択もあったかもしれません」
「猿の長男か。私が、矢翠に命じて殺させた男だ」
「果島の地の未来のためにも必要な男だった、と思います。お祖父様が保身を捨て、果島の地のことだけを考えていれば、申を殺すことはなかったでしょう」
「そうだな。あれは、朝廷もなにも関係なかった。ただ優秀だから殺した。私の立場を脅かすと思ったからだ」
申が祖父を脅かすことなどなかっただろう。申の目はただ外に向いていた。果島の地を飛び出し、ひたすらに商いをすることだけを考えていた。
柴の家の権勢に抵触するぐらいなら、それを避けるために多少の損でも許容した筈だ。
上手く活かせば柴の家にとって有意義な男にもなっただろう。しかし、祖父は幼稚な理屈を矢翠に吹き込んで申を殺した。
「桃」
「はい」
「私は、狂っていたか?」
「狂っていました。朝廷とは、それほど恐ろしいものなのですか?」
祖父が閉じたままだった目を開いた。瞳の奥底に、はっとするほど深い光がある。知性と諦念の光だった。
「恭順してから表面上は優しかった。その優しさが毒なのだと、気付くのが遅すぎたな。しばらくすると、私に果島の地を捨てさせ、朝廷に心服させようとしてきた。悪辣なやり方でな」
「優しかったのでしょう?」
「私にはだ。果島の地の者達、とりわけ鬼の一族に関しては口にするのも憚れるほどの言葉を、平気で発していた。私はそれらに相槌を打ち、
語っている間、祖父の瞳は不自然なほどに静止していた。今この場ではなく過去に向けられた視線からは僅かのさざなみさえ読み取れない。心が擦り切れている、と思った。
「鬼の族長とは会ったな?」
「はい」
「友だった。二人でいれば何事も為せると思った時期もあった。しかし対立を演じる上で、朝廷に出向くのは私一人でなければならなかったのだ。自分の心が存外強くないことを、あの時知った」
「悪意を、受け止めきれなかったのですね」
「いつかの酒宴で、鬼の姫を捕らえたらば一際苦痛と辱めを与えよう、と言った者がいた。服を剥ぎ、市中に晒し、閨で欲望の限りを尽くそうとな。私はその言葉にも頷き、佞言を口にした」
それ以上、祖父は話を続けようとはしなかった。
その時に何かが壊れた。いや、朝廷が意図して壊したのだろう。祖父は朝廷に阿り、自身の立場を守ることに腐心した。
そうすることで鬼の一族、とりわけ母に起こる悲劇を避けようとしたのだろうか。今となってはわからない。狂った祖父は、鬼の一族の族滅をさえ計画したのだ。それも、桃に手を下させる形で。
鶫の声が一瞬途切れた。祖父が顔を上げ桃を、それから延寿国村を見た。視線の中に、やり切れなくなるような暖かさがあった。
「お主がその剣を購いたいと願い出てきた時、私ははっとした。延寿国村。よく似ていると思ったものだ。お主の母の差料が、来国行だった」
「なぜか、惹かれました。お祖父様に物を乞うたのはあれが最初で最後です」
「安くはなかったが、買い与えた。その時の私はまだ正気だったのだろう。いつか自分を斬ってくれる剣を、ちゃんと拵えていたのだ」
「この剣がなければ、恐らく私は死んでいたと思います」
「済まぬな。母だけでなく、父までその剣で斬らせることになった」
「私に父母はいなかったと思い定めます。私はたぶん、桃から生まれたのだろうと」
「桃から生まれたか。それは良い」
祖父がくつくつと笑った。祖父であり、父である人。桃はゆっくりと立ち上がり、延寿国村を帯に差して鯉口を切った。
「私は今、正気だな?」
「恐らくは。しかし一時的なものでしょう。命の危機が去れば、また朝廷の呪縛がお祖父様を苛むと思います」
「だろうな。だがそれでも良い、今だけでもまともならば。最期の指示を与える。従うかどうかはお主が判断しろ」
「聞きましょう」
「朝廷の隠密が屋敷を見張っている。私の護衛という約定だったが、恐らく反故にされるだろう。私が死んだ時にこそ踏み込んでくる筈だ」
「街の方では幾人か見かけましたが、そうですか、やはり屋敷の周りにも」
「剣腕ではお主が圧倒するであろう。しかし連中は夜目が利く。暗闇の中で多勢に襲われればお主とて不覚を取るかもしれぬ」
祖父が立ち上がり、部屋の隅にあった箪笥の下段を開けた。取り出したものを畳へ置く。
「行燈などに使う油だ。これで屋敷に火を放て。光さえあればお主が後れを取ることはあるまい。ここを切り抜けたら西にひた駆けろ」
「よいのですか、屋敷を燃やしても?」
「構わぬ。守るほど価値のあるものは、もうない」
「わかりました」
抜いた。延寿国村。行燈とも、外からうっすらと差し込む月とも違う光を纏っているように見えた。構えるほどのこともない。祖父はただ、眩しそうに眼を細めながら延寿国村を見ていた。
「似ているが、やはり違う。当たり前だが、来国行ではないのだな」
桃は頷いて、それから一つのことに思い当たった。
祖父は、来国行に斬られるつもりだったのかもしれない。狂った自分を止めてくれる剣。その役目を、来国行に求めていたのか。
それは荒唐無稽で、決して叶うことのない願いだったろう。しかし、願うことは自由だ。咎めるなどできる筈もなかった。
願いごと斬り捨てるのが、桃にできるただ一つのことだろう。
切っ先を横に向けた。左一文字。桃が究め続けた剣。目の前にある何もかもを、斬ってきた剣。
「お別れです、お祖父様」
「見事に、斬れ」
「はい」
延寿国村が迸った。祖父が何かを呟いた。女の名前のように、桃には聞こえた。祖父の躰が前のめりに倒れ、畳に横たわった。
それですべてが終わりだった。すべてが過去になった。祖父だったものと、祖父の屋敷だったもの。子であり、孫でもあった自分。何もかもが現在を消失し、過去にその身を置き去りにした。
血を払い、延寿国村を鞘に納めた。それから油を撒く。祖父の部屋を出て、廊下にも、居間にも、客間や桃の自室にも撒いた。祖父の部屋に戻り、まだ灯り続けている行燈を蹴倒した。火はゆっくりと畳を舐め、祖父の遺体に取り付いた。
懐から書状を取り出した。鬼の族長から祖父へ送られたもの。いや、そういうことになっていたものだ。
開く。目に飛び込んでくるのは、桃とよく似た筆跡の文字だった。女の文字。
今までの経緯を詳らかにしながら祖父の裏切りを糾弾し、それでも祖父とともに生きることを望む。そんな内容が、女の文字で綴られている。
もしも、何よりも速く魅志磨がこの書状を届けていれば。一瞬だけ浮かんだ馬鹿げた考えを、桃は書状と一緒に炎に投げ込んだ。
もう一つ、炎に投げ込んだ。書状と共に仕舞い込んでいた、閉じられたままの薬包。矢翠が桃のために用意した、子を成せなくなる毒だった。それらは形を歪め、一瞬だけ火柱の嵩を増してから、やがて消えていった。
炎が敷居を乗り越え、廊下にまで広がった。月明りを飲み込みかねないほどに、火が辺りを照らしている。鶫の声はもう聞こえなかった。
屋敷を抜けたら舟を探そう、と思った。それで川を降れば、いつかは海に出るだろう。その先はなにも考えなかった。
複数の気配が屋敷に飛び込んできた。桃は延寿国村を抜き放ち、廊下へと踏み出した。こちらに向かってくるいくつかの影が、炎に照らし出されている。正眼に構えた。
切っ先が、焔を照り返していた。
これにて完結です
お付き合い頂きありがとうございました