25話 最初の選択~目覚める意志~①
「説明してもらおうか! ゼクス・ヴァンダール中将!」
怒号が響き渡った。夕暮れにはまだわずかに早い十六時、ハーケン門先の帝国領の平原。
大門を背にし、リベールの軍人で最も北に立つのは王国軍のトップ、武神として名を轟かせるモルガン将軍。
彼が見据えるのは、わずか五十アージュほど先にある狂気の威容。
何十機もの蒸気機関製戦車と、その後ろに控える何百人もの帝国軍兵士。どんな状況で誰が見ても、それは容易に膝を震わせる。
怒鳴り声を、声が枯れるかというほど張り上げて、モルガンは蒸気戦車に負けじと空気を震わせる。
「何故このような場所に、帝国軍の師団がやって来る!? 締結されたばかりの不戦条約、忘れたとは言わせんぞ!」
モルガンが見据える先、蒸気戦車の前には、幾人かの仕官を脇に控えさせる大柄な軍人が立っている。
「モルガン将軍……説明していただきたいのはむしろこちらの方です!」
居丈高な声量で、むしろやや高めの声色で語るのは、紫の軍服に右目を眼帯で覆った男。
「先日より、帝国南部の街で導力器が働かなくなるという異常現象が続いている状態です! そしてそれは、謎の巨大構造物が貴国の湖上に現れてからという確かな報告が届けられております! これは一体どういうことですかな!?」
リベールがそうであるように、帝国もまた一部ではあるが導力停止現象が生じていた。奇しくも、数週間前、準遊撃士の少年が案じていたこと。
「どういうことも何も、おぬしらが今言った通りだ! 我々も、突如現れた災厄に混乱しきっている状態にある!」
誰にとってもこの事態は予想外に他ならないはずだ。だがその現象の捉え方は違う。立場が違えば、その現象をどう利用するかも違う。
そして無情にも、帝国にとってこの現象は格好の餌だった。手の付けられなかった牛が、自ら炎に焼かれてくれたような。
「どうやらそのようですな。そしてその災厄が帝国領土を侵しているのも事実。ならば、我々がここにいる理由も理解して頂けると思うのですが」
リベール、つまり他国によって自国の領土が侵されている。だから、師団を伴ってここに来た。一体何のつもりで我が国を脅かすのか、と。
浮遊都市がどのような経緯で現れたものかなど、この場では毛ほども考慮されない。国と国が互いの牙を見せつけ合う、おどろおどろしい政的な場では。
「おぬしら……我らの弱みに付け入るつもりか?」
「一応、そのつもりはないと言っておきましょう」
詭弁だ。そのつもりがなければ、こんな所に来ることなどない。
「異常現象に乗じて怪しげな犯罪組織が王国内で跋扈しているとも聞いています。不戦条約を結んだ同盟国として何か力になれないか……帝国政府としては、そのような意向のようです」
「戯言をっ……」
苦虫を噛み潰す、その苦しみはモルガンの後ろに控える仕官にも容易に伝播する。
犯罪組織が王国内に跋扈している、それだけの情報を得ているのなら何故『異常現象の後に結社が現れた』という、順序が逆の真実が主張されるのか。何故、導力停止現象が発生するまで全く音沙汰もなかったのか。何故、事前の連絡もなしに、使いも寄越さずに、かつての百日戦役のように電撃的にこの場に来るのか。
「ならばその戦車はなんだ!? 蒸気によって動く戦車など儂は今まで聞いたことがない! どうしてそんな代物をその状況で都合よく連れてきた!?」
今までの詭弁が建前であることなど、この場にいる誰もが理解しきっている。政治的な交渉が成される場所では、常に本音も漏らすことなく腸が煮えくり返るほどに、建前が語られる。言葉の鎧を着た者たちの薄ら寒い語り合い、それが国同士の交渉の常だ。
だが、仮にそうだとしても目の前の戦車部隊は異常過ぎた。どれだけ綺麗ごとを並べても、破壊兵器が目の前にあればそれは交渉などにはなりえず、正真正銘の脅しに成り下がる。
世界規模で見ても未知の厄災である導力停止現象、それすらこの巨大帝国は利用し、リベールを脅しつける。『この災厄を何とかしたければ、軍の駐留を受け入れろ』。あるいは、『これを口実に貴様らの土地を統治する』なのか。
それだけでない。ゼクスと呼ばれた一軍の将、その背後にひしめく帝国政府、さらにその中の頂点に立つ何者かは、リベールのみならずこの事態を知った全世界の人間に告げたのだ。『導力が停止する、そんな未知の災厄の中でも、我が国は戦車を動かし、一軍を組織し、お前たちを呑み込むことができるのだ』と……。
そしてやはり、帝国はどこまでも白を切る。ゼクス中将は、一瞬の沈黙を経るもやはり何食わぬ顔で言ってのける。
「それは……国家機密と言っておく」
モルガンの精一杯の攻撃にさえも、相手は厚顔無恥のどこ吹く風と言った声色。いや、目線は初めて顕わになっている左眼を塞ぐことで閉じられた。けれど遠くにいるモルガンには、それが所詮意味のない間だとしか伝わらなかった。苦し紛れだったということは伝わらなかった。
軍人は、民ではなく帝国軍人としての虚勢を張る。その本意を無視して、どこまでも強く。
「だが、この戦車があればこそ市民たちの不安も和らげるし、貴国の窮状を救うこともかないましょう! ……どうか、ご理解いただけませんか?」
「くっ…」
物量、談話、虚勢。その全てにおいて今、エレボニア帝国が押している。正義感も人間の情も、ここでは何もかもが助けてはくれない。
モルガンは口を歪む。元々カシウス絡みで遊撃士を嫌っていたが、その実彼の性分は壮烈で謹厳、そして
その堅実な采配や指揮で国軍を担ってきた老将を責めるわけではないが、この時ばかりは誰もがアリシア女王陛下が来られる夢物語を望んだ。リベールの民が心を強く持ち、誇り高くあれる理由の所以たる拠り所の来訪を。
しかし現実として、女王がこの場に現れることはない。知らぬ者もいるが、女王は今王都でその務めを果たしている。そして結社の脅威に備えており、動けない。
結社の脅威、帝国の脅威、導力停止現象の脅威、そして自らの心に潜む脅威。文字通りの四面楚歌だ。
だからこそ、彼女たちはここに来た。自らの役目を果たすために。混迷に極まるリベールを、その籠手を持って支えるために。他国に脅かされる王国を、その翼で持って導くために。
「お気遣い、とても嬉しく思います」
どこまでも清楚でたおやかなその声は、どこか冷然として強烈な色だった。蒸気戦車の音も、平原の風も、モルガン将軍とゼクス中将の
モルガン将軍と仕官は振り向いた。帝国軍人たちは、やって来る一団を見た。あと一刻もすれば世界は夜になる。少しずつ暗く、しかし未だ夕陽と黄昏さえやってこない世界で、真摯な姿勢を表すはずの薄紫の正装は、帝国軍人たちに確かな圧を感じさせた。
顔を見る。短髪、風を含んで踊る朝顔のごとき艶髪と白の美貌は、一見して成長過程にある艶やかな娘の面差し。しかし瞳に宿る光は、そんな『美しい』の一辺倒な印象を与えない。少女ながら人々を導く王という名の、やがて英雄になる者の面差しだ。
そして、その後ろに控えるのは男女、少年少女関わらず、組織という言葉を超越した『仲間』という集団。それぞれ異なる武器を持ち、異なる服装で、異なる覇気を持つ、ただ一つ同じ目的を共有した者たち。
彼らの一歩一歩が、その戦場に新たな緊張の楔を打ち込んだ。
「なっ」
モルガン将軍が呻く。帝国軍との交渉や部下たちへの指示に没頭し、彼らがやって来ることを知らされていなかった老将にとっては予想外の出来事だ。
「姫様……どうしてここにおられるのです!?」
モルガン将軍に近づいてきたクローディア・フォン・アウスレーゼ――クローゼは、悠然と、自分より何倍もの年月を生きた男に
「モルガン将軍。帝国軍との交渉、ご苦労様です。どうかこの場の交渉は私に任せて頂けませんか?」
「で、ですが……」
壮烈で謹厳、固陋かつ愚直。だが彼も、その一言で少女の意図は読み取れた。数日前に立太女の儀を済ませた少女が、この危機に際してやって来た意味が判らないはずはない。
「それに、どうしておぬしらまでいるのだ!?」
少女に向けられていた老将の目線は、エステルとカイト、そしてその後ろの者たちに変わる。
エステルが、初めて老将と出会ったころとは考えられない程しっかりとした声色で言う。
「一応、クローゼの護衛なの」
ヨシュアが、その頼もしさを隠すことなく続けた。
「それと万が一の時には、遊撃士として仲裁させてもらうつもりです」
リベールの人間ばかりだとはいえ、『支える籠手』といのは本来国際的な立場を持つ者たちだ。過去には百日戦役の停戦協定を、七耀教会と共に仲介したこともある。万が一が起こっても、自由に動ける彼らならばこの状況に軍人とは違う切り口を入れられるかもしれない。
だがそれすら、帝国の軍人どもには関係ない。帝国は今、遊撃士を排他しているのだから、多くの軍人にとって遊撃士などと言われても、結局のところリベール側は何も出来ないのだろうと。信用できないものに何を言われようと、精神的な勢いは止まらない。それは過去の自分が証明していると、少女の目の前に立つ老将は苦虫を噛み潰すような表情となる。
自分が矢面に立つことの危険性も考えてくれているのだろう。理解した少女はわずかな笑みを目尻だけに宿す反面、口元は変わらず強く言葉を並べようとする。
「未熟な私に交渉役は務まらないかもしれませんが……いえ」
一度出た言葉を、クローゼは呑み込んだ。そして、自問に自答を重ねる。
何のために私はここにいる? この国を守るためだ。
なら、どんな言葉を彼に放つべきだ? 未熟な自分、それでも頑張って見せる? そんな子供じみた言葉ではない。
少女の目が、老将を見据える。老将は、言葉を待つ事しかできなくなる。
違う、前提から違う。
自分は、未熟な人間などではない。
仲間たちが信頼した自分は。叔父が守り、祖母が推した自分は。エステルが喜び、ヨシュアが讃え、そしてカイトが支えてくれた自分は、未熟な人間ではない。断じて違う。
この場を支配し、帝国との天秤を取り持ち、そして自国の平和を守り抜く。それができる自分だ。
「次期女王たる責を持って、帝国との交渉を成して見せます」
自分は、守るために来たのだ。
守るために。リベールの国民を、大切な家族を、孤児院の子どもたちを、いつでもそばにいた弟分を、守るために。
「私が、交渉役を務めて見せます。下がっていてください、モルガン将軍」
未熟な、ではない。覚悟を持って、前に出て戦って見せる。だから、モルガン将軍に願いや忠告ではなく命令を下す。
老将は言った。
「……判り申した」
目の前にいるのは、過去、王位継承権に悩んでいた少女ではないと悟った。例え経験が浅く自分の何分の一の年月しか生を生きたことがなくとも、そこには間違いなくあの女王陛下の孫娘たる迫力がある。つい一ヶ月ほど前までの少女を変えたものが何か判らぬとも、理屈として少女を戦場の最前線に立たせたくなくとも、老将の心は告げていた。同情ではなく、信頼に足る資質と実力を持つと。
それに、と次期女王の後ろに立つ者たちを見る。
軍人と軍人の交渉では、果てに待つのは水面下の戦争――冷たい戦争のような緊張感か、あるいは表面化した戦争となる未来しか見えない。どちらにせよ、物量も人口も劣るリベール側になす術はない。
今この場には、彼らが必要なのだ。平和を象徴するリベールの翼と、それを守護する国の枠組みにとらわれない平和の使者が。侵略を乗り越え、戦争を回避し、そして『帝国と仮初の手を取り合う』には必要なのだ。
大きくなられましたな、姫様。
その言葉が空気に乗ることはなかった。そんな喜びの言葉すら、目の前の次期女王には不要な気がした。
「しかし、何時牙を剥くか分からぬ軍勢の前です。いざという時は、すぐに門に逃れる準備をして下され」
だから、主君を守るための忠義の心だけを伝えて、老将は身を引いた。
「判りました……ありがとう、モルガン将軍」
その胸の内を理解することができたからか。クローゼは、この場に来て初めて老将に笑顔を向けた。
そして仲間たちを見て、頷く。仲間たちもまた、頷き返す。
動き出す。老将を超え、今リベールで最も北となるその場所へ。
いや、その場所すら超えて、さらに二歩、三歩と踏みしめて止まった。仲間たちを放射状に後ろに控えさせ、小国リベールの次期女王――クローゼは、大国エレボニアの中将と対面する。
口火を切ったのは、クローゼだった。
「お初にお目にかかります。わたくしの名は、クローディア・フォン・アウスレーゼ」
――――
ここは、一種の戦場だった。その戦場で、少女は可憐な声色で場に似合わぬ淑やかな礼を、敵国の兵士に見舞う。
「お初にお目にかかります。わたくしの名は、クローディア・フォン・アウスレーゼ。リベール女王アリシアの孫娘にして、先日時期女王に指名されたものです」
帝国の兵士たちは、彼らにとって認知度の低い王女というお姫様がこの場に現れたことに驚いた。さらに、自分たちが知らぬ間に次期女王という現女王の後継者が生まれていたことにも。
そしてそれは、今この場、帝国を代表する将軍とて同じことだった。
「これはこれは! 挨拶が遅れ、失礼いたした。自分の名はゼクス・ヴァンダール。エレボニア帝国軍、第三師団を任されている者です」
先ほどまで先頭を指揮していた歴戦の将と入れ替わったのは、年端もゆかぬ可憐な娘。その時点でただの小娘でないことなど明らかだったが、それでも次期女王というのは完全な予想外。王国中の導力器が働かなくなるという異常事態により、自国の情報局がそれを掴むよりも早く切られた一つの先手。
適当にあしらう言葉をかけて引かせるつもりだったが、立場の違い一つでそうは行かなくなる。偶然とはいえ、最初の諜報戦では負けてしまった。ゼクス中将は心に活を入れる。
対するクローゼは、先程までモルガン将軍に向け、平原を震わせた所作などどこへやらな、温和な王女となっている。
「貴方が……。エレボニア皇族を守護する武の一門、ヴァンダール家の一柱……御勇名は耳にしております」
「なんの。私など、貴国の知将カシウス・ブライト准将と比べれば」
「ふふ……お互い、立場は違えど良いお話が成せそうで安心しました」
「剣に生きた武骨な一将軍が、華やかで誇り高き王女殿下と談笑など、釣り合いませぬ。しかし、そう仰っていただけるのは帝国軍人として光栄の極みであります」
掴みは上々。剣呑な雰囲気ではなく、さりとて場の空気にも呑まれてはいない。
後ろに控える少年少女たちが密やかに喋る。
「あのオジサン、有名なの?」
エステルの問いには、ヨシュアが答えた。
「『隻眼のゼクス』……帝国でも、五本の指に入る名将だ」
リベール王国軍の何倍もの規模を持つ帝国正規軍、その一軍を任される将軍、確かに五本指に入ると言っても差し支えのない印象。しかし、カイトはそれ以上に違和感を覚える。
「ヴァンダール……」
「なに? どうしたの、カイト」
「いや……『ヴァンダール』……どこかで聞いたことがあるって思って」
視線を交渉の場に戻す。ゼクス中将が、まだ穏やかな顔つきでいる。
「しかし以前、殿下のお姿を写真で拝見したことがあるのですが……お
以前までクローゼは、学園にいるということを始めその生活を隠すために、ウィッグを付けていた。つい今朝がたも付けていたそれは雰囲気を変えるだけでなく、マスコミや市民からの視線の遮るための盾だった。
クローゼは苦笑する。
「恥ずかしながら、立太女の儀を済ませたばかりの身です。身に余る重責に立ち向かうための小娘の決意の表れと……そう、お考え下さい」
そう、小娘の小さな小さな決意の表れ。自分でもそう思っていた、今までは。
けど、今は違う。偽りの仮面を脱ぎ捨て、多くの壁にその本心を持って立ち向かうための。不安を煽る盾の影ではなく、その身と瞳と心に光を当てるための純然たる攻勢だ。
ゼクス中将は、クローゼを視た。わずかな逡巡の後、しみじみと返す。
「いや……その姿も良く似合っていらっしゃる。無礼ながら、その身に宿る意志が溢れるような、以前とは別人のような印象を受けますぞ」
ゼクス中将にとって、これは誇張でもなんでもなく、本当の意味での本心だった。例え自分がどのような理由でリベール国境に訪れていようとも、目の前にいるのは確かな強さを持つ一国の次期女王。であれば、質実剛健を常とする軍人にとって、敬意を表さない理由などなかった。
「改めて……王太女殿下におかれましては誠におめでとうございます」
「ありがとうございます、中将」
クローゼも、直感的にゼクス中将の胸中を理解する。だから彼女もまた、本心で感謝し、ゼクス中将と同じく一礼を捧げた。
例えこの後の交渉がどのような結末になるとしても、目の前の将軍は彼なりの正義を持つ軍人で、自らの忠義を胸にこの場へやって来たのだと理解した。それは並大抵の敵よりもずっと
「しかし……王国中で導力が停止している、未曽有の事態だとお聞きしています。御身は今、その場に立っていてよいものなのか?」
来た。突然の次期女王の来訪という一手、それに抗するための帝国の知将の囁き。
クローゼは毅然と答えた。
「この国の前、ハーケン門の国境線。その場に確かな意志を持って、帝国を代表する貴方が今訪れている。それを迎えないとあっては、リベール王族としての沽券に関わる。ただ、それだけのことです」
「ふむ……どうやら王女殿下には、いらぬ気を使わせてしまったようだ。しかし、体裁の話ではない。今この場に殿下がおられる、その意味を考えて頂きたい」
「危険だ、とおっしゃるのですか? 友好のため駆け付けたと仰られた友の元へ行くのが?」
「そういう意味ではございません。しかし今、女王陛下と同じくその身は貴国の象徴。玉座にて構えられること、それもまた、一つのお役目であります」
「互いに、象徴を擁する国の人間。考えは変わらないようですね」
クローゼは微笑を浮べた。
「わたくしがこの場へ来たのは、貴方がたと同じく、友好のためです。それ以上でも以下でもなく。このゼムリア大陸西部に恒久の平和を造る、無為な戦火を生み出させないために」
ゼクス中将は目元をわずかに細める。笑みを浮かべることはない。
「ふむ……それは少々、心外でありますな。王女殿下もまた、モルガン将軍と同じ様に我々に抗議するおつもりですかな。我々が来たこと、それが断じて貴国が考えているような理由ではないというのに」
どこまでも厚顔無恥な言葉。先ほどまで敬意を表した次期女王に対してもそれは変わらず、いやむしろ敬意を表したからこそここまで面の皮を厚くし、どこまでも神経を逆なでしてくる。
それが政治的戦略だと判っていても仲間たちは多少の憤慨を禁じ得ない。
そしてクローゼは……。
「ええ、それは判っています。痛いほどに」
両手を広げた。ゼクス中将を見た。その後ろに控える仕官を見た。大戦車部隊と、歩兵部隊を見た。
そして胸に両手を当て、顔を俯かせる。
「なに……?」
「痛いほどに判ります。帝国南部の方々も、さぞかし不安な思いをなされていることでしょうから」
顔を上げた。世界は少しずつ、オレンジに染まってきている。
帝国にも、導力停止現象が生じていることは知っている。というより、帝国政府はそれを口実にして機甲師団をこの場へやって来たのだ。
ならばその搦め手を砕くのは、同じ解釈を基にした搦め手に他ならない。
「夜の闇、寒さ、情報の途絶……どれも不安を掻き立てるのに充分すぎるほどのものです。それが、例え一部であっても貴国の街において発生している。同じ苦楽を共にする者同士、判らないはずがありません」
「……」
「それを一刻も早く解決しようと、心を奮わせ行動に起こすことも」
虚実入り混じった言葉の応酬。しかし虚のみではないからこそ、その言葉は誰の心にもすっと入って来る。帝国軍人にも、リベールの民たちにも。
「ですが……考えて頂きたいのです」
クローゼは重ねた。ゼクス中将が予想外の言葉に怯んだ矢先、これでもかというくらいに畳み掛ける。
「このまま貴国の軍隊が我が国に入ってきた場合の問題はどうなるでしょうか?」
過去、帝国軍がその存在を王国民に知らしめた事件。それは百日戦役に他ならない。
「ただでさえ、貴国以上に全土が混乱しきっている状況です」
種が違うとはいえ、今王国に
「そこに他意はないとはいえ、動揺する市民は少なくないはず……」
「貴国の善意が誤解されてしまうのは、わたくし、余りにも忍びないのです」
侵略されるという事実に不安を感じるのではない。国際社会にとって大切な印象、それを傷つけ帝国の善意を他国への悪意と誤解させたくはない。真にゼムリア大陸の平和を願う者として。
善意の言葉は、単なる抗議より何倍も人の心を揺さぶる。今、帝国の知将は、確かに次の言動に迷っている。
「さすが姫様。この程度の問答で揺らがないのは立派だわ」
後ろに控える遊撃士たち、シェラザードが言った。決意は認めても、緊迫感はぬぐえなかった。けれどこうも安定感を持って敵の牙を溶かしていくのは、さすがアリシア女王陛下の孫娘に他ならない。
「そりゃ、あの姉さんですから」
カイトは笑顔を浮かべる。一国の王女である以上に、彼女は百日戦役以降箱入り娘などとは無縁の生活を送ってきた。彼女の今があるのはアリシア女王陛下の薫陶の賜物だが、それ以上に仲間たちとの旅から得た経験が大きい。
今、リベールの白き翼は、煌々とした輝きを備えて目覚めの時を迎えようとしている。
ヨシュアが呟いた。
「でも、安心したよ。隻眼のゼクス……その実力と共に卓見が評される人だ。もともと穏健派な人だし、その人の弱点を上手く突いた」
仲間たちが頼もし気に見つめる先で、クローゼはさらに続ける。
「目下、わたくしたちはこの異常現象を解決させる方法を最優先で模索しております。また件の犯罪組織についても自力で対処できている状況です」
さらに、続ける。
「不戦条約によって培われた友情に無用な亀裂を入れないためにも……どうか、わたくしたちに少しの時間をいただけないでしょうか?」
帝国軍側に緊張が走っているのが判る。十中八九、彼らの目的はリベールへの脅しや侵略に他ならない。それは少なからず非道なことであるが、それ以上に兵士たちは覚悟してここに来たのだろう。あるいは、末端の兵士たちには何かの建前が真実として伝えられているのかもしれない。
だがその目論見は今、辛くも失敗しようとしている。本音と建て前、どちらの意も汲んだ絶妙な言葉遣いと誘導、次期女王という少女のその決意によって。
一軍の将たるゼクス中将でさえ、口をつぐんでいるのだ。
未だリベール側がこの異変を解決する手立ては見つかっていない。それが現実だが、だが少しずつ、状況は好転し始めているのだ。各地の情報網の回復に、クローゼの次期女王への推挙、リシャールを起点として退けた王都襲撃、そしてこの帝国軍の進行。
希望を紡げば、必ず結果はついてくる。翼はきっと、大きく羽ばたく。
クローゼは、もう一度、ゼクス中将へ言葉を放とうとした。
だが、その時。
「残念だが、それはそちらの都合でしかない!」
ゼクス中将の声ではない。
獅子の目覚めの如き咆哮が、平原を一閃となって穿った。
その声は、クローゼの、仲間たちの鼓膜に確かに届いた。その誰にとっても、聞き覚えのある声だった。
「……」
ヨシュアは、無言を貫いた。
「へっ」
エステルは、呆気にとられて間抜けな声を出した。
「まさか……」
シェラザードは、ありえないと、目に映る映像を否定しかけた。
「冗談だろ……」
アガットは、放心したようにその光景を見ていた。
そしてカイトは。ただ、その人物を見ていた。
やや色がありながら、しかし精悍な声。それを、こちらまで聞こえるほど高らかに放ち、後方からゼクス中将に近づく人物。
その彼は、何かしらゼクス中将に進言して、そして一軍の将を後ろに控えさせた。
黄金の軍馬を掲げる黒衣の軍服。その正反対の流れる金髪。男性としては平均的な体躯。端正な顔つきは、真面目な顔をしているなら二枚目と言える相貌をしている。
そして後ろに控える紫の軍服の軍人は、どこかで見た堅物の青年。
変わらず、先輩遊撃士たちが驚いている。驚いているのは、カイトも同様だ。しかし少年の頭の中には同時に、走馬灯のように過去の情景が映し出されていく。
かつて彼と交わした心の数々が、一瞬の閃きを生んでは爆ぜていく。
『一つだけある。今の君が戦える方法が』
『君が僕の故郷をいつか許してくれると信じて、待つとしよう』
『君には言ったと思うが……僕は昔、兵法を学んだことがある』
『敵と正面から戦う剣ではなく、誰かを支え戦況という
『けれど、途中から目的は増えた。……それは、この国を知ること』
『僕の父親は、少々難解な職業をしていてね』
『
『ならば、まずは僕の生き方というものを君に示さなければならないようだ』
数々の言葉が、情景が、心境が。それらがピースとなって、少年の心に填っていく。
「ああ、そういうことなのか」
カイトは確信した、その青年の正体を。不思議すぎるくらい、少しの違和感もなく納得した。
ゼクス中将が立っていたその場に構える、金髪の青年。その目には、どこか朗笑めいた表情を浮かべている。
「お初にお目にかかる、クローディア姫殿下!」
続く、なおも戦慄く苛烈な声量。その場の全ての人間がその存在にひれ伏すような、圧倒的な存在感を告げる雄叫び。
彼は、ずっと生きていたのだ。漂泊の詩人としてだけでなく、そして同時に己が己であるために、成すべきことを成すために。
『その時は、盛大に喧嘩をしようじゃないか。お互い、言葉と生き方と、思想の限りを尽くしてね』
目の前の青年が発した次の言葉は、単純な自己紹介だった。けれど少年の心には、かつて打ち込まれたその『喧嘩』という名の誓約が、青年の声と同時、拡散した。
「エレボニア皇帝ユーゲントが一子、オリヴァルト・ライゼ・アルノールという!!」
黄昏時、宣言と共に夕暮れに映える金の長髪は。
獅子の
かくして獅子は、目覚めの咆哮を上げる……
加えて一つ、連絡事です
作品名:軌跡シリーズ~心の軌跡~
から
『心の軌跡~白き雛鳥~』
へと改題させて頂きました。
少々突然ですが、よろしくお願いします。