浮遊都市リベル=アーク、中枢塔。初層からまたしばらく上った先にある、第二層の台座のある踊り場。
二人の男が、拳を持って語り合っている。
「てめぇ、ジン! いつの間にそこまでの
サングラスの細身の男の踵落とし、巨漢の男の膝を打つ。
「確かにアンタは天才だ」
よろけながらも対の脚で地からの勢いを得た巨漢の男の掌底が、細身の男の胸を打つ。
「だが、その才能ゆえに積み重ねが欠ける! だから、今の俺の拳が届く!」
掌底もしかし致命傷にはならず、身を翻した細身の男がすぐさま向かってきた。視界の下からのアッパーカット。辛くも巨漢の鼻先を燻らせる。
「……クハッ、まだてめえが格下だっていうような口ぶりじゃねえか」
「黙れ、ヴァルター!」
巨漢は一度引き、しかしすぐさま突進。龍閃脚の閃きが、確かに細身の男をよろめかせる。
ジン・ヴァセックと《痩せ狼》ヴァルター、この二人の戦いは熾烈を極めた。
方や、経験豊富なA級遊撃士。方や、闇の世界で殺人に身をやつした孤高の執行者。
今までの単なる戦いであったなら、ヴァルターがそれほど苦労することなくジンを殺していたかもしてない。
だが、今のジンは今までのジンではない。旅を経て、もともと遊撃士として大成していた錬武に、さらなる覚悟が加わったのだ。
戦いの前、ヴァルターはジンに伝えた。両者の師父である泰斗流師範、故リュウガ・ロウランのことを。
『ジジイは俺に言ったのさ。素質も才能も、てめえのほうが俺より上だとな』
『そして爺はより才能のあるほうに泰斗流を継がせるつもりでいた』
ジンにとっての衝撃的な事実は、本当なのかと確認せずにはいられない。
『俺があんたよりも格上なんて冗談もいいとこだろう。それに師父が、キリカの気持ちを無視してそんなことを』
そして師父が倒れることとなった、その顛末も。
『納得いくわけがないよなぁ!? だから俺は、てめえとの勝負で継承者を決めるよう要求した』
『そんなこと、俺は一言も……』
『聞いていないだろうな! ジジイが俺の要求を突っぱねやがって、代わりにジジイを俺が死合うことになったんだからな!』
『……そして俺が立ち会うこととなって、アンタは師父に勝った』
『そうだ。そしてしばらく大陸を放浪して、俺は《身喰らう蛇》に身を投じた』
兄弟子の、その真相を知った。今、このエステルの旅についてきた理由の一つが解消された。
そして、もう一つ。ここからは帝国でも決意したあの誓い。自分と師の真実を届け、不甲斐ない兄に活を入れる。
『ヴァルター、アンタは勘違いをしている。師父はあの時……病にかかっていたんだ』
『……何だと』
『悪性腫瘍、だったそうだ。俺もキリカに聴かされて初めて知ったが』
それが、師の真実。仮にヴァルターに勝ったとしても、その命は長くなかったのだ。
ではなぜ、師は死の間際にその選択をしたのか。
『道を外したアンタを正す、俺に武の至境の一端を見せる。それ以上に、武術化としての性を一番弟子との戦いの中で全うしたい。それが、師父がアンタと死合った理由だ』
後進を育てることや、武の世界を世に広めること。そういったこと以上に一人の武人として求めるものは、己が武の至境に立つことに他ならないだろう。他者を押しのけ、自ら乗りのために全てを捧げる。その傲慢が、武術家の求めるものに他ならない。
そして今、ジンもまた、己の決意という傲慢のためにヴァルターを踏み台とする。
『ヴァルター、構えろ。先生とアンタから学び、遊撃士家業で磨いた全てをこの拳に載せる! 修羅となり闇に落ちた、
『……は、ずいぶんと吹くじゃねえか。だったら俺は、結社で磨いた秘技のすべてを拳に込めてやる。泰斗の全てを葬るためになぁ!』
何年も会わなかった兄弟弟子は、拳を交えた。お互いの全てを泰斗という生き様に乗せて。
そうして今、徐々に均衡は崩れようとしていた。どちらにとっても予想外の弟弟子の優勢という形で。
「ククッ、ずいぶんと容赦がなくなったじゃねえか、ジン」
「そうだ。多くの者と支え合ってここまで来た。たとえ一人でも、この背には仲間の手が添えられている。殺人拳を選び、活人拳を捨てたアンタにはない力だ!」
「しゃらくせぇ!」
再び、ヴァルターから大きな殺気が生まれる。
踊り場にたどり着き、言葉を交わし、そして拳を交え始めてからそれなりの時間がたった。お互いに後先のことなど考えない全力だ、既に疲労しきっている。今二人を奮わせているのは、決意と意地に他ならない。
そして殺気を放つヴァルターは、まだ気合という名の力を残していた。それはジンにとって緊張以上に、高揚故の汗をかかせる。
師であるリュウガがそうであったように、ジンが先ほど自覚したように。ヴァルターもまた、己の野望という傲慢を秘めていた。
幾度か拳を突き合わせるうち、もうあらゆるものがどうでもよくなる。泰斗をつぶすことも、リベールの異変を解決することも、目の前の兄弟弟子を屠ることも。
今はただ、一人の武術家として、目の前の対等な武人を超えるために。
「さぁ……決着をつけようぜぇ、ジンッ!!」
「望むところだ、ヴァルタァァ!!」
両者、一度離れた。踊り場の端と端に立って、それぞれの氣を高める。
「ぉぉぉおおお!!」
「はぁぁぁああ!!」
ジンの、氣を練り上げ全身に纏う攻防一帯の突進。
ヴァルターの、氣を拳に収束させて穿つ極の殺人拳。
泰山玄武靠。アルティメットブロー。
意志も気合も覚悟も矜持も、何もかもが関係なく。
ただ力と力だけが、己の傲慢のために衝突した。
────
無数の投げナイフが、雨あられとなってカイトに迫る。
「避けて!」
クローゼの必死の指示を聞いて、カイトは己の脚に限界まで力を込めた。死だとかなんだとか言葉が脳に行き届く前に、本能が脚を回転させる。
右耳を切り裂かれた。左二の腕を赤く染めた。両のスニーカーの踵を撫でた。カイトは何とかナイフの雨の中を脱出する。
「なめるな!」
すぐに双銃に火を吹かした。十アージュ遠くにいるブルブランへ、最大威力の弾丸を叩き込む。
「甘いよ、少年よ」
ナイフと同じく雨あられとなって迫りくる弾丸。怪盗紳士はなんの感慨もなく、その全てを避けて見せた。そうして跳んだ先には、クローゼがいる。
「──!」
ステッキの一閃を、クローゼの細剣が迎え撃った。突き、払い、袈裟斬り。どれも清冽を秘めているが、それでも怪盗紳士を払いのけるには至らない。
数度の打ち合い、そしてクローゼの細剣が弾かれる。手放さなかったものの両脇が開き、腹部ががら空き、ブルブランの口元が歪んだ。
「させないよ!」
転瞬、場を移せばオリビエの青い波が拡散している。ブルーインパクトの長い槍が少女と怪盗の間に割って入る。
「ナイス、オリビエさん!」
近づいてきたカイトが、ブルブランに向けて蹴りと正拳突きを繰り返した。
だがしかし、やはりそう簡単に事は進まない。
「なめるな、か。それはこちらの台詞だ」
カイトの体術をすべていなし、その背に蹴りを叩き込む。カイトは倒され、地面を転がる。
「ぐっ」
「その程度で騎士を気取ると? 笑わせてくれる」
気取っているわけではなく、そちらが勝手に決めつけたのだが。そう思う間も入れずに、ブルブランの手元が閃いた。未だ体勢を立て直しているカイトには見えず、クローゼとオリビエがその危機を察する。
「後ろだ、カイト君!」
「な──」
ナイフが迫る。カイトは咄嗟に左へ避けたが、それも意味をなさなかった。ナイフはカイトの体ではなく、太陽の下に作られた少年の影に突き刺さったのだから。
「影縫い……!」
カイトは着地して膝を曲げたままの恰好で制止する。こうなると何もできない、いや──
「カイト君、今助ける!」
オリビエが動いた。詩人は今カイトの正面にいて、影縫いの原因たるナイフは少年に隠れて見えない。だが動いて視界に収めれば、自身の腕前なら導力銃でナイフを弾くことも可能だ。
だが、そんな可能性は怪盗紳士にとっても判り切っていること。
「それはさせない。彼には我が美を高めるための礎になってもらう」
ブルブランがオリビエに迫った。オリビエは仕官学院としてそれなりの体術もできるが、所詮はそれなりだ。ブルブランの奇想天外な動きにはついていけない。
「くっ」
「オリビエさん!」
「だめだ姫殿下、貴女はカイト君を──」
「それもさせない」
オリビエの銃を弾くことで攻撃をさせず、かつ鳩尾への一撃で呻かせた。その後翡翠の塔で見せたように、大した反動も見せずにクローゼへの十アージュもの距離を跳躍して詰める。
再びの長柄武器での攻防。クローゼの攻撃は弾かれ、そしてクローゼ自身も転ばされた。
ブルブラン自身のこだわりなのか、どうしても殺意を持って攻撃してくるはカイト、オリビエ、クローゼの順らしい。特にクローゼは王立学園地下での言動からか、生きたまま閉じ込めていたいような雰囲気でもある。
だからといって、危険がないわけがないが。
すぐさま起き上がったクローゼは、しかし細剣を持つ右腕をブルブランに捕まれた。状況を解決しようと動かした左手も、ステッキに牽制される。
「こうなるのは二度目ですね、姫君」
「……」
「まあ、邪魔者のせいでこの逢瀬が一瞬なのが悲しいですが」
復活したオリビエが、銃弾を何とかブルブランへ向ける。それによってブルブランは再びオリビエに向かった。
身の毛がよだつ瞬間に吐けないため息を吐きつつも、クローゼは改めて戦場を俯瞰した。
ブルブランとの戦いは、ずっとこの連続だった。三人とも適正・実力ともに高いアーツ使いではあるが、それを理解しているブルブランに絶妙な隙を殺されるために、初級以上のアーツを放てないでいる。そしてナイフの投擲やステッキによる閃撃で、二人程度の連携では足止め程度にしかならない。そして現状が物語っているように、三人全員での連携は取れていなかった。
今も、ブルブランは絶えずオリビエとクローゼに目を配っている。状況を打開するためのアーツも、二人しかいない現状では駆動以上の事はできないだろう。
どうする、どうする、と国の象徴である二人は逡巡した。
エステルやヨシュアのような攻撃手がいない以上、ジリ貧の戦いとなるのは覚悟していたが、それでも予想以上に手応えがない。このままではまずい。
そう思った、その時。
オリビエとクローゼはおろか、ブルブランも油断していた空間から突然の情報が入る。
「なに……?」
「カイト!?」
オリビエの目線を見てブルブランが殺気をカイトへ。それを見て、クローゼも振り返る。
影縫いをされて以降一人取り残されていたカイトは今、翡翠の波を収束させていた。
ブルブランが殺気を向ける──それよりも圧倒的に早く、発生したエアストライクがカイトの後ろへと回り、影に刺さっていたナイフを吹き飛ばした。
効果範囲の広い風属性アーツとはいえ、見えない背後に向け的確にアーツを誘導するという荒業をやってのけるカイト。
「っとと!」
影縫いの効力が消えて一瞬よろめくも、カイトはすぐさまブルブランと対面して弾丸を放つ。
「くっ」
予想外の動きと攻勢に、今度はブルブランが驚く番だった。咄嗟のところで弾丸を避け、それでもステッキを振りかぶるが空を切る。カイトは体を回転させ、ブルブランの体を蹴りで押し返した。
ブルブランが後退し、その隙にオリビエとクローゼが合流する。カイトと共にオリビエを挟むように、再び陣を取った。
「……なるほど、さすがにこの場に来る以上、ただの未熟な少年とはいかないわけか」
怪盗紳士は強い。しかし翡翠の塔の頃と比べても、カイトは確かに成長していた。それをブルブランも肌で感じている。
だからこそ、ブルブランもまた自分の美への道を塞ぐカイトへ、怒りに似た執着を顕わにする。
「しかし姫のために戦場を駆け巡り、そして未熟さ故にその命を散らし、姫の涙の糧となる。それが物語の騎士だ」
殺気が一段階、膨れ上がった。
「そんな君に相応しい、最後を送ろう」
芸事を披露する紳士の優しい声色。しかしそれに三人が、冷や汗をかく。
「くっ……」
「なんて殺気……」
「仮にも執行者、その名前は伊達じゃないね……」
油断ならない敵であることに変わりはない。しかもジンに対するヴァルターほどではないが、それでも自分たちに対する激情がある。一瞬の油断は致命傷となりえる。
そして殺気と共に身のこなしの質を一段階上げたブルブランにとって、今のカイトたちは隙だらけだった。
瞬間、ブルブランが消えオリビエの眼前に現れた。
「──!」
当然、オリビエは来るであろう衝撃に身構える。カイトはそれを阻止しようと脚を動かし、クローゼはブルブランの間の手から逃れるために体を引く。
しかし一瞬の隙を突いたそのオリビエへの攻撃は行われなかった。何も来ないオリビエはたたらを踏み、クローゼはそのまま逃れ、そしてカイトは自分ののみに殺気が収束したのを悟った。
今の動きは牽制だ、そう思った時にはもう遅かった。
マントを翻して体を反転、瞬時にナイフが投げられる。オリビエとブルブランに近づこうとして駆けていたカイト、その右足に着地と同時にナイフが突き刺さる。
「ぐっ!?」
バランスを崩され、転びかける。何とか大勢を戻そうとして、視界が前を向いた時には遅かった。
ブルブランのステッキがカイトの両腕を打ち据え、そして何も持たない左手がカイトの胸倉を鷲掴んでいた。
オリビエとブルブランの声が響いたのは同時だった。
「カイト君っ!」
「さあ、美しく散るがいい!!」
そこまで大柄には見えない怪盗紳士の埒外な膂力によって、カイトは地に踏ん張りって抵抗する間もなく宙に飛ばされた。かすかに視界に映るオリビエは、琥珀の波を纏っているのだけが見えた。
体の回転が緩やかになって地に衝突し、そして転がりが収まるころには自分の視界が暗闇に染まる。
「って、なんだこれ!?」
続けて、反響する自分の声で、自分が狭い空間の中に閉じ込められたのが理解できた。
『デス・マジック。それが騎士たる君への餞だ』
暗闇の向こうでくぐもった怪盗紳士の声が聞こえた。
一方で、ブラブランの攻勢についていくことができなかったクローゼは見ていた。カイトがブルブランが生み出す花弁から出現した巨大な棺に飲まれたことを。そして怪盗紳士が振っていたステッキが、瞬きしたそのわずか一瞬で巨大な両刃の細身の剣に変化したことを。
クローゼは今、何もできなかった。アーツを組むことも、自分が盾になることもままならない。
ただ琥珀の波を収束させたオリビエと、剣を振りかぶるブルブランと、少年が閉じ込められた棺を見ることしかできない。
「止めて……!」
「では──さらばだっ!」
何もかもが空しく、声が響くだけ。走馬灯のような瞬間に、一秒が引き延ばされていく。
油断も手加減もない、本当に人間を殺すための所作だった。それによって投げられた剣は一直線に棺へと向かい、突き刺さり──
瞬間、棺から琥珀の輝きが迸る。
「なに……?」
ブルブランは仮面の向こうで目を細める。オリビエのアースガードだ。本当に間一髪のタイミングで少年に放たれた防護壁は、放たれた剣の尖端が深々木製の棺に突き刺さるだけで終わる。
息をほぅっと吐きたいクローゼは、しかしその暇もなくブルブランに細剣を繰り出そうとする。まだ油断はできず、しかしブルブランがステッキを手放したチャンスでもある。
そして油断をする暇がないのは、咄嗟のアーツ駆動で先ほど受けた鈍痛によろめくオリビエも判っていた。
「まだだ、カイト君! 彼が来る前に、その棺から脱出を──!」
ステッキは棺に突き刺さったまま。対象者に襲い掛かる
当然、その判断ができない執行者ではない。ブルブランは即座に棺へと歩を進める。
そこへ割って入ったのはクローゼ。
「させません!」
先ほど引いてしまった自分を嫌いになりつつも、それでも今度は弟を救うために果敢に前へと出る。
もう足手まといは嫌だった。ここまで来て、まだ自分はアーツによる補助も剣による前衛も果たせていない。
武器を持たないブルブランは、さすがに今度ばかりはクローゼの剣戟に対して回避に徹する。
それでもブルブランの動きを止めた時間は三秒だった。
「しばしのお別れです、姫君」
嘲笑うような声を鼓膜に残し、ブルブランはクローゼの攻撃圏から脱した。ようやく立ち直ったオリビエの銃弾も、難なく交わされた。ブルブランの魔の手が、少年が閉じ込められている棺に刺さる剣に近づく。
ブルブランはニヤリと口角を引き上げる。クローゼはこれから起こる最悪の事態に顔を青くさせる。
棺から、水面のような薄青のきらめきが迸ったのは、ブルブランが剣の柄に手を駆けようとした、まさにその時だった。
『させるかよ、変態紳士』
突如として棺が破裂。内部から鉄球のように爆散する無数の水塊とともに、棺の木片それ自体が対人地雷のように飛び散った。それはブルブランも例外なく包み込み、初めて執行者に明確な痛手を負わせる。
「くっ……!」
木片と同じく水圧で弾け飛んだ剣を回収するため、咄嗟にブルブランが離れた。
オリビエもクローゼも、目の前のその光景を驚くあまり棺があったその場所を凝視する。
そこにいたのは全身ずぶ濡れ、口から血が混じった唾を吐きだしたカイトだ。
「カイト……!」
「ずいぶん、無茶したねぇ」
皇子と王女が急いで少年に近づく。
「そりゃ、多少は無茶しますよ。そうじゃないと死んじゃいますから」
そう毒を吐く少年は、まだ体をよろめかす。クローゼは、ブルブランを警戒しつつもカイトを癒すためにその身に青の波を纏わせた。
少年は視界が暗闇になった時には、すでにその身に水属性の波を纏わせていた。棺に閉じ込められる直前、オリビエが纏っていた琥珀の波。そのアーツの正体など、アースガードであるとしか考えられなかった。
なら、これから自分は何かしらの手段で攻撃を受けることに違いないと予想。爆発か、火あぶりか、それとも剣戟か。いずれにせよ、早急にこの暗闇から脱出しなければいけないことには変わらない。
「だから、ブルーアセンションを使った」
ブルーアセンション。水属性の上級攻撃魔法。大量の水を一か所に収束させ対象を包み込み、一気に拡散させ陰圧と水流で包み込んだ対象を攻撃する。カイトはこれを
結果、棺の中で溢れかえった水塊が棺を内部から押しのけ、仕舞いにはそれ自身が外部への小規模な爆散攻撃となったのだ。結果、自ら魔法の対象になったカイトは少なくないダメージを受けたが。
「ごめんなさいカイト。付いてきたのに、迷惑しかかけられなくて……」
クローゼの波が収束し、カイトが負ったダメージが癒されていく。その傍ら、クローゼはただ謝ることしかできなかった。
だが、謝られた当のカイトは訳が判らないという反応を返した。
「え、なんで?」
「だって、私足止めもほとんどできていなくて……」
「いや、死ななかったのは姉さんのおかげだよ。あと一秒あの変態がオレの所に来るのが早かったら、もう腹ごと全部切り裂かれてた」
自分の体が癒されていくのを感じる。荒すぎる脱出方法のせいで呼吸が痛いぐらい肋骨もひび割れたみたいだし、血を吐いているから腹部臓器もダメージを受けているのだろう。だが水属性を得意とするクローゼの回復魔法なら、全快とまではいかなくとも動きに支障がない程度には回復する。それもまた、クローゼのおかげだ。
「だからありがとう、姉さん」
「……カイト」
「いい感じの姉弟愛じゃないか」
回復魔法が余さず発動しきり、カイトの体が癒された。ブルーアセンションの水滴は残って小さなくしゃみをしつつも、カイトは改めて双銃を敵に向け構えた。オリビエとクローゼもまた、意識を切り替える。
ブルブランもまた、ブルーアセンションによる水流と木片の攻撃を受けた。執行者の身のこなしは単調な銃撃や剣戟ならいともたやすく避けてしまうが、不意打ちの爆散攻撃はさすがに回避のしようがないようだ。少なくない水に晒され、仮面は剥げずとも白服には少なくない打撃の痕が見える。
一瞬の沈黙の後の怪盗紳士は、煩わしそうな声色を顕わにした。
「ふむ、やはりさすがに一人だけに対する攻撃では隙を生じさせてしまうか」
そして、ステッキだった剣を戻さぬまま。一流の剣士のような雰囲気を醸し出す。
「やはり、一斉に相手をすべきではあるな」
そう言ってこちらを見る怪盗紳士の殺気は、旧校舎地下や翡翠の塔の時と一線を画している。対峙しているだけで肺腑が締め付けられるような感覚に襲われる。これが、執行者の本気。
「……」
カイトは無言を貫く。
怪盗紳士もまた沈黙している。ヴァルターやレンのように殲滅を得意とするわけではなさそうだが、後の先でも狙うつもりか。いずれにせよ、今の三人にはブルブランのカウンターを一人で防ぐだけの力はない。
やはり、この怪盗紳士を任すのは並大抵の力量ではできない。啖呵を切ったときは本当に自信満々だったが、あれはもともと一人での時間稼ぎを想定してのことだ。半ば自己犠牲気味に言ったことではあったが、こうして三人で戦うことになった以上は時間稼ぎとは言っていられない。ましてや大切な姉と簡単に死なれては困る友が一緒に戦っている。自己犠牲など到底考えられなくなった。
だが、このブルブランは翡翠の塔で、ケビンを加えた四人を相手に優位に立ち回ってもいたのだ。クローゼの迷いがないとはいえ、オリビエの決意が強いとはいえ、カイト自身が少しでも成長したとはいえ、単純計算で未だ怪盗紳士の実力に追い付いていないのも事実。
勝つためには、このままではいけないのだ。クローゼとオリビエが蒸気戦車の交渉の場で自らの生き様を掲げ道を切り開いたように、カイトはこの戦場で自らの生き様を掲げ、怪盗紳士というこの強大な壁を乗り越えなければならない。
約束したのだ、仲間たちと。全員で生きて、また会おうと。
「なら、オレも変わらなきゃ」
決意を。生き様を、戦いと得物という《器》で示す。
カイトの一言に、クローゼとオリビエが片目を向ける。
二人が見守る中、少年は殺気を生まずとも右手の銃をブルブランに向けた。
「変態紳士」
「何かね、少年」
決意はもう、固まっている。けれど、そのためには、怪盗紳士の攻撃全てを自分に向けなければいけない。今までの遊び人めいたそれではない、本気の攻撃を。
これは、そのための挑発だ。
「お前はオレが、オレたちが倒してやる。正面切って」
「受けようではないか、少年」
執行者は全員、矜持や意志を持っている。ヴァルターを除けば、戦いはあくまで手段でしかないのだ。
だから不意打ちや容赦のない奇襲といった、ただ戦闘に勝つそれだけの手を封じた。こちらの準備が整うのを待つという儀礼的な手順を踏ませるために。
怪盗紳士の確約を得て、少年は後ろを向いた。そこにいるのは、少年に最も信頼以外の感情をぶつけた二人。
「カイト……」
「カイト君……」
二人とて、カイトがこの戦いに臨む覚悟は判っていた。だからこそ、怪盗紳士への挑発を止めようとはしなかった。
それでも、少年に対する心配の感情は伝わってきた。それはそうだ。ティータを除けば仲間内でも最年少。本来であれば誰かの監督を受けなければいけない準遊撃士。実力も先輩たちと比べれば劣るのは明らかだ。
だが、カイトには確信があった。今自分が考えている逆転の一手は、目の前にいる大切な姉といけ好かない友と一緒なら、必ず怪盗紳士の領域に届きうることを。
カイトは言った。
「姉さん、オリビエさん、ごめん。ちょっと、集中しすぎて話ができなくなりそうだ」
それは警告と願いだった。
これから、自分はまともな会話ができなくなる。できるのは心と心での会話だけだという警告。
だから、今までの弱くて強い自分を信じてくれという願い。
カイトの言葉に最初に反応したのはクローゼ。
「そのくらい、大丈夫。カイトがそうだったように、私もずっと貴方の家族だった。考えることくらい、分かる」
間髪を入れずにオリビエが。
「僕はそこまでの親愛の情とは言えないが……それでも、君を信頼する等身大の仲間であるつもりだ。最大限のサポートをさせてもらうよ」
カイトにとっても、最も信頼以外の感情をぶつけた二人。二人にとっても、カイトは信頼以外の多くの想いを抱く人間だ。
多くの道程と想いを経てきた。この三人が互いを信じることに、今更迷いなんてものはなかった。
「ありがとう、二人とも」
少年は最大限の笑顔を浮かべて、そして二人に背を向ける。
「それじゃあ行ってくる」
そして、改めて怪盗紳士を見据えた。
三人の会話を聞くだけでいた怪盗紳士もまた、改めてその剣先をカイトに向ける。
「待ちわびたよ、少年。君を砕き、姫の絶望という美を拝むことのできる、この瞬間を」
カイトは前へと歩いた。ブルブランとの距離は十分にあるものの、しかし前へ出ることでクローゼとオリビエからも離れる。
「さあ、見せてくれたまえ。君の全力──君の希望を!」
姉と友が見守る先で、少年と怪盗紳士は対峙した。
少年は戦場で、場違いにも呼吸を整える。
(落ち着け……オレならできる)
緊張で水による震えも忘れ、汗が出る。
思い浮かべるのは、先ほども反芻した言葉。
決意を。生き様を、戦いと得物という《器》で示す。
決意とは何か、生き様とは何か、自分の戦い方とは何なのか。
思い出すのは、四輪の塔攻略前のグランセル空港での一幕。オリビエは言っていた。『若者よ、世の礎たれ』と。
帝国における何かの格言だろう。少なくともリベールやゼムリア大陸全体で認知されているものではなさそうだった。それでも、その言葉だけがどこか鮮烈な《色》を放っていたことだけは印象に残っていた。
《世》と《礎》の意味合いは、その言葉を受け取る人によって千差万別なのだろう。オリビエはクローゼやカイトとの交渉の中で示したそれを銃という戦い方によって成そうとしている。
なら自分は。自分は今まで双銃によって『大切な人を守る』ことをなそうとしていた。そして帝国を旅して思った、『出会った全ての人を守りたい』と。
ずっと、それを成し遂げるための強さを、自分の強さを探していた。この旅が忘れられないものであると、そう気づいたあの時から。
そして、ある時気づいた。自分の強さの可能性に。
気づかされたのは、殲滅天使レンの言葉だった。
『さすがにアーツが得意と言っても、レーヴェほどじゃないのね』
執行者に劣勢を強いられ、混迷の大地に己の無力さを痛感し、帝国の脅威に立ち向かい、希望の翼に乗っても、気づいた可能性を求め続けた。
自分の目指す強さは、これだったのかもしれない。
オリビエのように、その応用を発展させた魔法ではない。
クローゼのように、一つの属性の魔法を極めるわけでもない。
シェラザードのように、経験に裏打ちされたアーツ主体の遊撃士のような強さでもない。
遊撃士であって、遊撃士にはない強さ。銀色の意志がこの未熟な準遊撃士に刻み込んだ、才能と武力の行き着く先。魔法における理と修羅。
「……行くぞ、変態紳士」
呟いた言葉は、誰の耳にも届くことはない。それでも、正面から睨み合う怪盗紳士には口の動きが見て取れる。
そしてカイト以外の全員が目を見張った。少年が他者全員と離れた先で瞑目したかと思えば、瞬時に体を凄烈な翡翠の煌めきが包み込んだからだ。
「カイト……?」
「何を……」
「気でも狂ったか」
怪盗紳士が口を開く。この実力差で、この状況でアーツ詠唱に集中するのは明らかに自殺行為。
だが、アーツを組み翡翠の波を纏う少年の仕草や表情に迷いは全く見られなかった。銃でも体術でもなくアーツ。これが少年の答えだった。
だから、怪盗紳士は動いた。アーツ駆動という隙だらけの、それでも確かな攻勢を見せた少年の希望を正面から摘み取るために。
どんな足掻きを見せてくれるかと思ったが、ただの大規模アーツに頼るだけの攻撃。それも先ほど《オレたち》と言ったように、前へと出ながら後ろの二人に頼り切るだけのもの。何のことはない、今までと変わらない仲間同士の連携、ただそれだけだった。
興が醒めた。そう感じたブルブランは、何の干渉もなしに無数のナイフを少年に向け投擲した。剣などを使うまでもなかった。
オリビエとクローゼは動かず、また動けない。確固たる殺意が込められた幾多のナイフが、少年の全身に迫る。
そして──少年は動いた。ナイフを躱すべく、跳躍した。
その場の誰もが、怪盗紳士すらも驚愕に駆られる。
着地した少年はナイフをすべて躱し切り、そしてブルブランに向け駆けてながら双銃に火を吹かせる。
ブルブランは思わず、今までよりわずかに動揺した姿勢で辛くも回避した。
ブルブランが驚くのも無理はなかった。カイトの動きそれ自体は今までと変わっていない。だが。
「……まさか」
怪盗紳士は呻き、自ら攻勢に切り替える少年を迎え撃つ。
爛々とした輝きを金の瞳に携えた少年が、未だ煌めく翡翠の尾を引いて一歩を踏み出した。