暴虐の風が降り注ぐ。灰白の大槍が天使を穿つ。螺旋の理が巨いなる存在を破壊する。幾多の幻影が世界を蹂躙する。
浮遊都市の中心、根源区画の中で、《天使》と人間たちが壮絶な戦いを繰り広げている。
異形の天使にもはや自我はない。自らに害を加えようとする人間を排除するのみ。
神槍イナンナ。神々しいまでの細長い白槍が根源区画の壁を穿つ。
禍星シャバト。ミニチュアの太陽が全てを吹き飛ばしていく。
コキュートス。戦術オーブメントで再現するものより大規模な氷河が、全てを優しい死の世界へと誘う。
蛇突アグオブ。蛇だった尾による突進、そして薙ぎ払いが破壊された瓦礫を蹂躙していく。
世界を破壊せんと動く異形の天使だが、機械のようにしか動かない天使のそれを躱すのは不可能ではなかった。常に天災を避けるための疾走は避けられないが、息を切らしながらも人間たちは天使を見据え続ける。
もう、人間たちに恐怖はなかった。世界を害する天使を人として止めるべく、守りなど考えずに天使の一点を攻撃し続けていく。
ヨシュアの、レーヴェの大剣を駆使して放つ断骨剣が、長い銀の腕を切り裂いた。
エステルの、長年共にしてきた棍による桜花無双撃の連続突きと払いが、天使の胴体を揺らす。
カイトの、並戦駆動の末放たれたグランシュトロームが、何度も何度も天使の体を刻む。
ケビンのデスパニッシャー、不良神父らしからぬ灰白の大槍が、天使を串刺しの檻に閉じ込めた。
大規模な攻撃を行う度、天使の苦悶は強まっていった。傷は広げられても、ワイスマンの自我が保たれていた内は、何の痛痒も与えられなかった。
だが、今は違う。天使は目に見えて暴走しており、圧倒的な攻撃は見境なく空間を揺るがし、天使自身にすらその攻撃の余波を与えている。
何十回と繰り広げられた必死の攻防の末、暴走に暴走を重ねた天使はついにその体が融解し始める。
ここぞとばかりに、人間たちは最後の力を振り絞った。これで倒れなかった時のことなど、考えなかった。
ケビンの三度目のデスパニッシャーが、天使の胴体で蠢く目を全て貫く。
カイトのラグナブラスト、巨大な稲妻の大蛇が天使を絡めとって金翠色の煌めきを拡散させた。
放電の余波が煙を生み出し、鼻につく匂いが周囲を取り巻く。
異形の天使の尾と二対の腕が溶け切れて、誇張でなく蛾の形に近づく。
エステルが疾駆する。父親譲りの覇気を滲ませて、天使の周りに円陣を描くように駆け回り、振り向きざまに何度も何度も突進を重ねる。
太極輪、螺旋の真髄を体現した剣聖の娘の奥義。何の特別な力もない少女の信念が、至宝の力を体現した天使の体をことごとく揺さぶっていく。
ヨシュアの姿が消えた。レーヴェの想いを黒金の大剣に乗せ、自らの幻影と共に数えきれないほどの強襲を重ねる。自らの弱さを振り払うかのように。
異形の天使の羽が、次々ともがれていった。レーヴェの大剣──外の理の残滓が辛うじて保たれていたことも幸いした。
『グオオオオオオオオオッ!!』
はっきりと、懊悩の所作だと判る震えと末期の咆哮。
それを境に、天使の猛攻が止まった。仲間たちもまた油断しなくとも激しすぎるほどの動きを止めて、身悶えする異形の天使を見る。
『グオオオおおお……ああ……』
天使は、見る見る間に
「か……勝てたの?」
「そう、みたいやね」
エステルとケビンが、疲労混じりに呟いた。今までの戦いによる勝利とは違う、不自然すぎる静寂が広がっている。
天使だった銀の
「そ、そんなっ」
カイトと、そして泣き叫びたい衝動を必死に抑えてきたヨシュアは何も言えずにいた。何も言えずに、ワイスマンが狼狽する様を見ることしかできなかった。
「輝く環が……き、消えてしまっただとっ」
完全ワイスマンの敗北だった。しかし白面はこれ以上ないほどの焦りを脂漏が浮く顔に乗せ、少年少女たちなど目もくれずに狂乱するのみ。
「そんな馬鹿なあああっ!!」
あれだけ憎々し気に敵対していた人間たちを見ることもなく、ワイスマンは瓦礫の地面に躓きながら杖を掲げた。中枢塔頂上で発したのと同種の金色の光。次の瞬間には、ワイスマンはその空間から消えていた。
無言で驚くケビンと、これ以上ない怒りをぶちまけるカイト。
「あの外道野郎! 逃げやがった!」
だが、それ以上に仲間たちには気がかりがあった。史上最低の人間など思考に浮かべる価値もない、それ以上に気にかけなければいけない大切な仲間がいる。
ヨシュアが間を置かずに叫んだ。
「レーヴェェ!!」
激闘を共にし、輝く環の絶対障壁をその身と引き換えに貫いて見せたレーヴェ。エステルは、ヨシュアは、カイトは、彼の下へ一目散に駆けていく。
輝く環の黄金の光輝も消え去り、わずかな導力の灯のみが照らす静寂に包まれた根源区画。激戦の跡が、実態を知らぬ暗黒時代を想起させるほどの荒廃した風景を生み出している。
その瓦礫の山に横たわるようにして、レーヴェは沈黙していた。
彼を象徴していた象牙色のコートは赤黒い血で染まっている。腕はひしゃげ、脚は凍り、腹部には虚空が。
その瞳孔が広がらず、しっかりと光が灯されているのが信じられないほどの有様だった。
「っ……レーヴェ、しっかりしてっ! すぐに手当てをするから……!」
当然、ヨシュアは黙っていることができなかった。彼は戦術オーブメントを駆動させようとするが、これ以上ない動揺を前にどうしても青の波が吹き荒れようとしては霧散していく。
もどかしいヨシュアは、もう一人の少年を頼ろうとした。
「カイトッ!」
「……その、必要はない」
迷いながらもヨシュアの言葉に従おうとしたカイト。茶髪の少年を制したのは、他でもない剣帝だった。
「判る……はずだ。助かる、傷ではないことを……」
「嫌だ……そんなの嫌だ……」
ヨシュアは膝をついて嗚咽交じりのかすれ声を続け、カイトは立ったまま拳を握りしめる。
理性では、誰もが判っている。これほどの傷を受けては、今意識があること自体が途方もない奇跡のようなものだと。すでに一度死の淵から蘇るという無茶をしている以上、
「レーヴェまで、姉さんみたいに! そんなの酷すぎるよぉ!」
ヨシュアの慟哭に、カイトはただただ何も言えなかった。
結果がどうあれ、レーヴェがいたからワイスマンを倒せたとは言え、レーヴェをこの状況に連れて行ったのは自分だ。これ以上ないほどの罪悪感が少年を飲み込もうとする。
だが。
「感謝、する……カイト……レグメント……」
「……なんで」
「おかげで、最後の……挨拶ができるから、な……」
レーヴェ自身、こうなることを半ば覚悟しての出陣だった。そしてレーヴェは大切な弟と、弟の大切な人たちを守ることができた。
執行者となって、ありとあらゆるゼムリア大陸の闇に身を投じてきたレーヴェ。数えきれない犯罪行為もまた犯してきた。
それでもレーヴェはカイトのおかげで、たった一つのしかしかけがえのない贖罪を果たすことができた。だから、レーヴェはカイトに礼を告げたのだ。
迷いの果てに、カイトは感謝の気持ちを受け取る。
「うん……」
涙ぐんで、腕で雫を拭う。
ヨシュアでなくても、伝えたい言葉はたくさんあった。それでもいろんな感情が渦巻いて、ただ一言と頷きしか返すことができなかった。
見るも無残な、自分がこの状況まで導いた青年。
それでも、カイトは目を離すことをしなかった。目に焼き付けなければならないと思った。次代を切り開き王国を救った、英雄の最後の姿を。
少しずつ穏やかになっていく声は、再びヨシュアに向けられる。
「フフ、そんな顔をするな……幼いころのような、泣き虫に戻ったみたいだぞ……」
「そうだよ! 僕は弱くて……甘ったれで……まだまだレーヴェが必要なんだっ」
ヨシュアは未だ震えている。たった一人の肉親の最後を、未だ笑顔で送ることなどできるわけがない。
「だから……お願いだから……」
涙と鼻水で、もはやヨシュアの顔は美少年とは程遠いものとなる。静寂の中、嗚咽を繰り返す。
柔らかな笑顔で、レーヴェは嘆息した。
「やれやれ……なあ……ヨシュア」
大切な人が遠く旅立つ時、残されたものの喪失感は計り知れない。それでも人は生きるなければならない。健やかな日常へと戻っていくこと。それが恐らく、旅立つ者へのこれ以上ない
まだまだ、気をかけてやらなければいけない弟だった。弟がこの悲しみを胸に、それでも生と死が支配する健やかな日常へと戻っていくために、兄はもう一つ言葉を紡いだ。
「納得できないのなら……お前は俺たちのようにはなるな……」
カリンは、ヨシュアを守るために死んだ。それは二人の執行者を生み出した。
レーヴェは、ヨシュアたちを守るために死にゆこうとしている。このままでは恐らく、一人の絶望を抱える人間をこの世に生み出すこととなる。
だから。
「大切な者を守るために……死ぬのではなく……」
大切な人を守って、そして誰もが笑顔となれる未来を築くために。
人の間にあって大きな力を発揮できる。その人間の可能性を、体現するために。
「守るために……生きろ……」
言葉は、ヨシュアの心に強烈な楔を打ち込む。
「エステル・ブライト……頼みがあ、る……」
「うん……なに?」
ずっと黙っていたエステルが、精一杯の笑顔で相槌。
「こいつは強いよう、で……芯が脆いところがある……」
「うん」
闇の世界で最もヨシュアを支えてきたのがレーヴェなら、光の世界で最もヨシュアと共に歩んできたのはエステルだった。
「全ての呪縛、が解けた今、本当……の意味で……強くなる必要が、あるだろう……」
「うん」
ワイスマンの呪縛だけではない。闇の世界との訣別。そしてレーヴェという存在とも訣別しなければならない。
「だから頼む」
「判ってる」
「これからもこいつを……」
レーヴェと、そしてカリンの代わりに。
「俺たちの弟を、支えてやってくれ」
「うん」
言われなくてもそのつもりだった。今までずっと、そうして来たから。
でも言わなければならない。
「今ここで、ちゃんと約束する」
「ああ」
「だから……どうか安心して」
「すまない……」
修羅となり、世界の全てを敵に回して、ただ一つの真実追い求めてきた。自分の愛する人の死を受け入れられなくて、愛する人の大切な弟の不幸を受け入れられなかったから。
でも、今、弟は大切な仲間たちに囲まれている。
太陽の少女が、大切な弟を支えると約束してくれた。
もう、苦しみは感じなかった。
「しかしやっと判ったぞ。あの時、カリンが何故、微笑むように逝ったのか」
眠くなる。世界が、大切な弟とその仲間たちが遠のいていく。
「こんなにも……満たされた……」
青年の瞼が少しずつ閉じられていった。
「気持ち……だったん……だな……」
そして、その時は訪れる。
エステルも、カイトも、溢れ出る雫を遮らず、目の前の光景を見届けることしかできない。
「……レーヴェ?」
ヨシュアは、一瞬何が起こったのかが理解できなかった。
「じょ、冗談はやめてよ……ちゃんと聞こえてるんだよね?」
青年だったものは、安らかな顔をして、もはや何も言うことはない。
「だってそうだろ!? やっとまた会えたのに!」
亡骸は、何も言う必要がない。
「やっとまた……笑顔で話せるようになったのに!」
理解してしまった。でも信じられず、感情が行き所を失い、そして溢れ出す。
「頼むから返事してよおおお!!!」
痛々しいまでの悲鳴。
カイトは、目の前で両親の死を見届けることはできなかった。
大切な人の無残な死に様は、見届けるべきなのか、見ないほうがいいのか。どちらがいいのかなど、到底判りようがない。ただ現実だけが痛々しい。
王国を救うことができても、こんなにも悲しくて胸が張り裂けそうになる。
誰も、何も言うことができなかった。かける言葉が見つからず、また自身も何も考えられない。
静寂を破ることができるのは、いつだって仲間たち。
「──おーい!」
少年少女でも、ましてや青年でもなかった。エステルとカイトが振り返ると、ユリア大尉を先頭として、中枢塔頂上に駆けつけてくれた仲間たちがこの場にやってきたのが見てとれた。
「よかった、無事だったのね!」
「……凄まじい有様だな」
ジンとシェラザードが呟く。この場に来たばかりの者にとっては、この戦場よりもひどい瓦礫の山々は目を疑うような光景だろう。
そして仲間たちは、少年少女に近づくことでやっと彼らの状況を理解する。
目につかないわけがなかった。カイトとエステルの奥で跪き、顔を見せないヨシュア。その視線の先で、今までの覇気が嘘のように穏やかな顔をして眠る青年に。
アガットが言った。
「……野郎は……」
エステルが、悲痛な面持ちで頷いた。
「うん……」
ティータが涙を浮かべる
「そ、そんな……」
誰にとっても、強烈な印象を与えた男だった。恐らくこの先、忘れることなど絶対にできない。
突然の青年の訃報に、一時仲間たちは押し黙るしかなかった。
沈黙の後、オリビエが聞いてきた。
「あの男……ワイスマンと、輝く環はどうしたんだい?」
輝く環はワイスマンに取り込まれた後、融合が解かれても未だ根源区画にはその姿を現してはいなかった。そしてワイスマンは、慌てながら逃げて行った。
そのことを伝えると、ミュラー渋面を作って苦々しく告げた。
「それはまずいな……」
「え?」
カイトのぼんやりとした声と、そしてリベールでなかなか経験することのない地響きが始まったのは同時だった。
悲しみを引きずりながらも、エステルは少しずつ狼狽を強めていく。
ミュラーが言った。
「出発前、ラッセル博士が言っていた。『もし輝く環が消失するようなことがあれば、すぐ戻ってくるように』と」
ミュラーと同じ時に出発したユリアも焦った表情を作る。
「博士の心配が現実になったな。『浮遊都市のエネルギー源である輝く環がもしもなくなってしまったら、都市は崩壊してしまうだろう』とのことだ」
巨大すぎる都市だ。一度行き渡った導力がすぐに枯れるということはないだろうが、それでもすぐにアルセイユに戻って脱出すべきなのは確かだった。
ユリアとミュラーが指揮を執った。
「それではみんな、これより撤退を開始する!」
「昇降機近くに転移用のゲートがあった! それを使って中枢塔より脱出するぞ!」
目まぐるしい状況の変化に、皆思う所がないわけがない。しかし命がなければ、何かを思うことさえ叶わない。仲間ちはすぐさま行動を開始した。
カイトもまた後列となって、疲労で動かなくなりそうな体に鞭打つ。やっとの思いで走り出して、すぐさま後ろの義姉弟の足音がしないことに気が付いた。
「二人とも……」
見れば、まだヨシュアは立てないでいる。
「ヨシュア……その、辛いとは思うけど、早く行かなくちゃ……」
想いの強さを考えなければ、誰もが等しく辛いのだ。しかし、ヨシュアは変わらず動こうとしない。
「ごめん、頼むから先に言って……僕のことは気にしなくていいから……」
それは、まるでこのままレーヴェと運命を共にするとでも言うような宣言だった。
カイトは他人だが、だからこそヨシュアのその発言を取り消そうとする。だが少年が動き出す前に、ヨシュアを突き動かすに最もふさわしい少女が、ヨシュアの胸倉を掴む。
「ヨシュア、いい加減にして!」
そして、無理やりに立たせ、力の限り彼の頬を叩いた。
「レーヴェが言ったこと、全然判ってないじゃない! 『守るために生きろ』って。そう言われたんじゃないの!?」
「あ……」
死にゆく兄が、弟へ託した最後の想い。それは例え傷だらけの少年に怒りをぶちまけてでも、目を覚まさせなければならないもの。
「あたしは忘れない! ヨシュアを支えるってこの人と約束したことを!」
再び胸倉を掴んだ。顔を埋めて、心からの想いを伝える。
「絶対に忘れないんだからぁ!!」
様子を見ていたカイトは、ヨシュアの瞳に涙とは別の光が宿ったことに気づいた。
「エステル……ごめん。本当に僕は弱虫だな」
最後に短くレーヴェの前でしゃがみこんで、姿勢を楽にさせ、そして先ほどまで自身が使っていたケルンバイターを手にした。
「預かっておくよ。ハーメルに、姉さんにちゃんと届けるからさ」
立ち上がった。今度は自分の意志で。
「ヨシュア……」
「エステル……カイトもごめん。急ごう」
「ああ!」
もはや三人は振り返らず、仲間たちが先に行く出口を目指す。
どんどん強くなる地響きの中、根源区画における少年少女の最後の想いが宙を舞った。
さよなら、レーヴェ……と。
────
転移用のゲートを用いたことで、仲間たちは一瞬で中枢塔の入り口まで戻ってくることができた。この状況下では《レールハイロゥ》も動いておらず、一同は地下のゲートを使い工業区画・居住区画を経由してアルセイユへ戻ることとなる。
「カイト、大丈夫!?」
「うん、姉さん……いや、さすがに疲れた。少ししんどいよ」
ユリアとミュラーが一同を先導する中、仲間たちは急いで地下通路を踏破していく。疲労であったり、傷の多さであったり、脱出時の順番であったり。そうした理由で、どうしてもエステル、ヨシュア、カイトは後列にならざるを得なかった。
最後尾をヨシュア、その前をエステル、さらにカイト、そして後ろ四番目をケビン。そんな中、クローゼが狼狽した様子でこちらの歩調に合わせてくる。
「手を貸すから、早く……」
「姉さんこそ、早く前に行かないと。こんな状況で自己犠牲なんてする暇ないから」
やいのやいのと、義姉弟は言い合いを続けた。それが遮られたのは、もう一組の義姉弟の声が聞こえたから。
「ヨシュア!? どこか怪我してたの!?」
「いや……ちょっと、眩暈がしただけさ……」
見れば、ヨシュアが膝をつきうずくまっている。その傍にはエステルがいて、当たり前ながら心配そうだ。カイトとクローゼもまた、ヨシュアの下へ近づいた。
「ヨシュア、大丈夫!?」
「ヨシュアさん!」
「二人とも……だめだよ、早く行かないと……」
「オレに犠牲をやめろって言ったのはヨシュアだろ!」
時間がない。焦るカイトは兎にも角にもわめき散らす。
それを意に介さず、エステルは未だ心配の表情を隠せなかった。
「眩暈って……どうしていきなり……」
疲労があるのは当たり前だが、それでも少女が見ていた先ほどの倒れ方は異常だったのだ。
「たぶん、聖痕が消滅した後遺症やろうね」
助け舟を出したのは、後列の四人の様子に気づいた不良神父だった。ケビンは近づいてくると、口を捲し立てて説明してくれる。彼も相当に焦っているのだ。
「何しろ意識の根っこに巣くってた代物や。それを取り除いたら何らかの形で揺れ戻しがおこる。眩暈、頭痛、吐き気……しばらくの間は悩まされるやろ」
予期せぬ不幸に、エステルは項垂れた。教授という呪縛からやっと解き放たれたというのに、まだまだ自分の大切な人には苦難が訪れるというのか。
「いいんだ、エステル」
だが当のヨシュアは、むしろ晴れ晴れとしている。蒼白した顔面に脂汗、それでも笑みを浮かべて立ち上がった。
「全部覚悟したうえで、ケビンさんにお願いしたんだから」
ヨシュアがそう言ったところで、前方からアガットの怒号が聴こえる。
「おい、何してやがる! 急がねえと本当に置いてくぞ!」
地響きもいよいよ走りに支障をきたてきてる。ぼんやりしてはいられない。
カイトが言った。
「もう走れるな、ヨシュア?」
「ああ、もう大丈夫だよ」
「なら、早く行くよ!」
「急ぐで!」
クローゼを先に行かせ、カイトが走り出し、ケビンも続いた。後ろから少年少女二人が意を決して出発の合図を出すのも聞こえた。
だが、まだ女神はこちらに振り向いてくれない。
大きな空間の、橋のような通路に差し掛かった時、それは起きた。
一際大きな衝撃と、大岩が全てを粉砕するような大音響。
これにはさすがに、先頭を走る仲間たちも気づいた。同じようにカイトが振り向くと、絶望的な状況が広がっていた。
橋が崩落している。そして、その向こう側には取り残されたエステルとヨシュアがいた。
「嘘……」
クローゼが口を抑え、カイトは憎々し気に呟いた。
「さっきからの揺れで……脆かった部分が崩れたのかよっ」
崩落した橋の手前までカイトは近づいた。仲間たちも同様に、血相を抱えて戻ってくる。
「だ、大丈夫か!?」
とケビンが言えば、エステルとヨシュアの名をそれぞれクローゼとジョゼットが叫ぶ。ティータもまた、二人のことを泣きそうになりながら叫んだ。
アガットが地団太を踏む。
「チッ、なんてこった……他に通り道はねえのかよ!?」
仲間たち全員の総意だが、現状何もできなかった。地下通路は基本的に一本道だ。何かの理由があって通れなくなれば、その地下通路は意味を失くすも同然だ。他の方法も探しても、時間が限られたこの状況でできることがどうしても見つからない。
悔しそうに唸る仲間たち、エステルとヨシュアは作ったような笑顔で叫んだ。
「えっと……あたしたちにかまわずに、みんな先に脱出してよ」
「僕たちは何とかして脱出の方法を見つけますから」
穏やかな声色は、その二人の心境をありありと理解することができた。
「馬鹿言うんじゃないわよぉ!!」
シェラザードが叫んだ。
「ここでアンタたちを置いていったら、先生にどう顔向けすればいいの!? いいから何か方法を考えるわよ!」
誰も欠けることなく、アルセイユに戻る。ましてや、誰にとっても忘れることのできない青年を一人置いて行ってしまったのだ。これ以上人が欠けることは、絶対に許さない。
「シェラ姉……」
「すみません……」
エステルとヨシュアは、ただただ頭を下げた。仲間たちは、どうにか状況を打破しようと策を練る。
現実として、この距離をジャンプして飛び越すなんて芸当は不可能だった。渡るために橋か何かを作るなんてのも笑い話にすらならない。例え絶望的でも、思い当たるのは別の道を使って脱出すること。
この地下道に限って言えば一本道だが、浮遊都市にはエステルたちが踏破した地下道以外にもいくつもの地下道が存在している可能性がある。そうした道さえ見つけることができれば、状況はまだ改善できるかもしれなかった。
そこで、カプア一家の次男キールが一つの希望を思い出した。
「そういや、中枢塔の手前で別の地下ゲートを見つけたぞ。《カルマーレ》に通じた、緊急避難通路と書いてあったような……」
「そ、それって本当!?」
思わず詰め寄ったカイトには、大男の長男ドルンが答える。
「ああ、確かにあった。そこに、お前さんたちの飛行船があるんじゃねえのか?」
ドンピシャだ。
カイトは大声で橋の向こうの二人に伝える。
「エステル、ヨシュア! もう他にできることもない! そっちからアルセイユに戻るんだ!」
「うん!」
「判ったよ!」
クローゼが、悲痛な面持ちで叫ぶ。
「待っています……アルセイユで!」
仲間たちは、自分たちも死なないために急いで走り出した。取り残された二人の様子に後ろ髪をひかれつつ、それでも全員でアルセイユへ戻るために必死で走る。
不安を何とか閉じ込めて、大切な人を隣にして、仲間たちは工業区画へ辿り着く。グロリアスが停泊していた区画なのでまさかとは思ったが、さすがにこの揺れの中ではあちらも早々に脱出しているようだった。
工業区画から居住区画へ。ここでカプア一家の三人と別れた。かつて王国を震撼させ、しかし窮地を共にした憎めない空賊団に、一同は再会を約束して再び走る。
居住区画から公園区画へ。ここに辿り着くころには、もう全員息も絶え絶えだった。
予想外の揺れに慌てふためくクルーたち。後方甲板では、今か今かと仲間たちを待っていたラッセル博士が急かしてくる。
「やっと来たか……! すぐに出発するぞ、皆早く乗るんじゃ!」
アルセイユは何とか、飛行可能な所まで機能を回復させることができたらしい。
一同は雪崩のように艦内に乗り込み、ブリッジへ。艦長たるユリアは艦長席へと座り、クルーへ的確な指示を出し……しかしかつてないほど険しい表情となった。
まだ、エステルとヨシュアが来ていない。
「ユリアさん、待ってください! 二人は必ず来ます!」
その悲痛な願いに、ユリアは無言を貫く。彼女もまた、苦しんでいるのだ。
一分、二分。皆が無言となって、固唾を呑んで祈る。
そして、三分。さらに大きな揺れが起こり、アルセイユがわずかに前へ傾いた。
もう、限界だった。
「アルセイユ、発進せよ!!」
幼い少女たちの制止も聞かず、ユリアは指示を出す。クルーも悲しげに、しかしすぐさま動き、アルセイユは空を飛び始める。
「ちょっと、待ってくれよ! まだ二人が……!」
カイトの焦りも、もはや意味をなさなかった。
シェラザードが、ケビンが項垂れる。
「そ、そんな……」
「間に合わへんかったか……」
アルセイユはすぐさま公園区画から飛び出した。その直後だ。これまでにないほど大きな音がして、浮遊都市リベル=アークが崩壊を始めたのは。
アガットとティータは、未だ目の前の現実を信じることはできなかった。
「嘘だろ……」
「や、やだ……そんなのやだああっ!」
安全域を出たアルセイユは、途中カプア一家の山猫号と合流した。二匹の獣は空を舞い、一生かけても、何億ミラを積んでも拝むことができないであろう、都市崩壊という非現実的な景色を目に焼き付けてくる。
クローゼは、まだ諦めたくはなかった。ユリアも同じ想いだが、多くの命を預かる彼女は現実的な選択をする他なかった。
「ユリアさん、お願いします! 避難通路の方向から考えて、エステルさんたちは北西の端にいる筈です! どうかアルセイユをそこへ!」
「申し訳ありません……! いくら殿下の命令でも、それは従いかねます」
崩壊する浮遊都市、人の程度の石片から一軒家ほどの大岩まで、いくつもの瓦礫が大音響を空に響かせる。大量の水は飛沫をあげて霧となり、瀑布のように全てを濡らす雨となる。
ミュラーとラッセル博士は、どこまでも冷静に努めた。
「アルセイユの推力も完全には戻っていない。再び都市に近づけば間違いなく崩壊に巻き込まれる。……そうですな、ラッセル博士?」
「……その通りじゃ」
感情のままに動けば、ここにいる全員が空に命を散らすことになる。
崩壊する都市を眺める。この場にいない二人がどのような状況にいるのか、考えるに考えれず、オリビエとジンはいつもの余裕の欠片もない。
「はは……参ったな。場を和まそうと思っても頭が真っ白だよ……」
「ああ……俺もだ」
ナイアルとドロシー。遊撃士のなり立ての頃から二人の活躍を追い、応援していた通信社の二人組もまた、ただただ嘆くしかできなかった
「あいつら……これからだってのに、こんなことになっちまって……」
「エステルちゃん、ヨシュア君……」
オリビエが言うように、誰も前向きな言葉を紡ぐことができなかった。ワイスマンを退け、結社を退け、導力停止現象という未曽有の事態を防ぐことができたのに。
防ぐことができたのは、彼らのおかげなのだ。例え自分たち全員が事件解決に関わっていようと、あの二人がいなければただの拙い力に過ぎなかった。一つ一つの力を合わせ、大きな希望に変えることなどできはしなかったのだ。
けれど今、勝利の凱旋をすべきアルセイユの中に、二人の姿はない。
二人のいない平和など、意味がない。
「あれー?」
悲壮感が漂う艦内で、ただ一人呑気な声をあげたのはドロシーだった。
「ねぇねぇ、ナイアルさん」
「ドロシー、こんな時くらい……大人しくしてろっての」
彼女と接点が多いカイトではないが、エステルから聞かされてもいた。彼女は、少々空気を読めない性格なのだとも。
どうして、こんな時に。そう聞こうとしてカイトは彼女の次の言葉に耳を疑った。
「いえその……なんだがジーク君が嬉しそうに飛んで行ったなーって」
「え?」
嬉しそう?
仲間たちは全員、ドロシーが見つめる先を注視した。彼女ほど眼がいい人間はそう多くいなかったが、それでも注意深く見れば確かに雲が混じる青空に異物──ジークの影が混じって見えた。
ジークは見る見る間にアルセイユから離れる。その先で、一度止まってある一点で旋回している。
そして、希望は再び花開く。
「ああ!」
カイトが叫んだ。他の者たちも一斉に、まさかの出来事に先ほどとは違う表情で言葉を失った。
雲の切れ間から、青でも白でもない存在が現れる。翡翠が煌めいたような皮膚と鱗。巨きな翼が乱気流を生み出しては雲を掻き消す。御伽噺に出て来るような神々しい存在。
それは、正しく龍だった。
「あれは、レグナートか!?」
アガットが狼狽えた。カイトとジンを除くクルー全員に見覚えがある。ボース地方を震撼させ、しかし最後には自我を取り戻し人間たちへ意味深な言葉を残した崇高な存在だ。
そして。
「見て! エステルに……ヨシュアもいるわ!!」
シェラザードが歓喜した。古代龍レグナートの背には、小さな人の影があった。小さいが、それでも仲間たちには判る。太陽の少女と、月の少年が乗っている。何故か乗っているもう一人の人影、カシウスの存在にも気づいたが、もう仲間たちはそんなことはどうでもよくなっていた。
カイトが、待ちきれないというように言った。
「みんな、甲板へ出よう! エステルたちに……会いに行こう!」
早く、この歓喜の瞬間を祝うために。
仲間たちは、一斉にブリッジを後にした。浮遊都市が出現し、導力停止現象が生じた時と同じように一心不乱に。しかしあの時とは違い、誰もが顔に焦りでなく満面の笑顔を浮かべていた。
前方甲板へ出る。太陽の眩しさに一瞬だけ目がくらみ、疲労で膝が折れそうになっても、それでも仲間たちはブリッジの柵に前のめりとなる。そうして見渡す空はどこまでも青かった。
近づくレグナート。カシウスは飄々とした笑顔で片目を瞑り、憎らしいほどの手軽さでこちらを見てくる。
そしてエステルとヨシュアは、手を振っていた。大きく大きく、何度も何度も。
仲間たちは歓喜した。誰もが笑顔になった。
ティータとクローゼは、エステルたちと同じように大きく何度も手を振った。
ジンとアガットは、後輩の無事に喜びをあらわに、しかし彼ららしく不敵な笑みを浮かべていた。
オリビエは、どこから持ってきたか薔薇を手にしている。ケビンはにこやかに親指を立て、陽気な神父らしく二人の名前を叫んで祝福した。
シェラザードは、泣いていた。準遊撃士の試験を始め、様々な場所で面倒を見て、そして成長した二人の行く先。泣けないはずがなかった。
そして、カイトは。空を見上げていた。涙を抑えられず、目を見開いて、この光景を忘れないようにと心に刻んで。ただただ、空を見上げていた。
見上げた空は、どこまでも透き通っている。太陽は眩しく、龍の翼を輝かせる。その翼が羽ばたき、リベールの英雄が、空にどこまでも続く軌跡を描いていた。
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輝く環は解き放たれた。
けれど、これは始まりに過ぎない。
古の盟約は解き放たれ、大陸は、世界は新たな激動の時代を迎えるだろう。
一度回り始めた運命の歯車は、最後の結末まで止まることはあり得ない。
しかし、その役目を担うのは自分たちではない。
別の時間に、別の場所で、別の者たちが担うことになるだろう。
その時、何かのためにもう一度武器を取る者がいるかもしれない。
非情な運命に振り回され、絶望する者もいるかもしれない。
けれど今はただ、かみしめるといい。自分たちが取り戻した、王国の平和を。
かけがえのない仲間たちとともに。
かけがえのない、大切な者の隣で。
第五章、終了。
しかし、心の軌跡~白き雛鳥~はまだまだ終わりません。
次章、『intermission①~巣立ちの時~』
第29話『軌跡の先~心と空~』