66.異変
それは何事もない、いつも通りの朝だった。
昨夜は珍しく眠気に襲われそのまま寝てしまったのだが、
筋繊維を伸ばし、関節をほぐし、最低限のコンディションを整える。このまま山でも一周しようと言いたいところだが、今日は事情が異なっていた。
「……水」
水が、欲しかった。
別に喉が渇いていた訳では無い。ただ、気分が悪い。こんなことは幻想郷に来てから_否、人間時代でもこんなことはなかった。そのせいだろう。この状況に耐性がなく、宿儺は焦りを見せた。
いつになくおぼつかない足取りで、台所へ向かう。普段はなんともないような距離も、今日はやけに遠く感じる。だが今は、とりあえず水を飲む。水を飲んで、心を落ち着ける。
何の変哲もないただの水。だが水というのは不思議な液体で、そこには人を落ち着かせる力がある。飲めば内側から清められるような感覚になる。
宿儺も、その力を求めた。頼りの水を汲み、体に流し込んだ。
「シゅゥ__ッ」
水に当てられ、再び湿気を得た空気を大きく吐き出す。
肉体は相変わらずだるいが、心の方は幾らか落ち着いた。
そして落ち着いたことで、気づいた……もとい気づけた。違和感の正体を。
「穢れの流れが……止まっているな」
植物の、大気の、あらゆる穢れの流れが止まっている。それは普段無意識に、血液のように流れている宿儺の内側のものも同じくだった。
血液の流れが止まれば、脳に血液が行かなくなって頭が働かなくなる。宿儺にとっては、まさしく穢れは血液だ。故に当然、止まれば気分も悪くなる。
最初の謎は解けた。だが、それ以上の謎を_『異変』を、解決しなければならなくなった。
「これを異変と呼ばずに、なんと呼べと言うのだ」
普通であれば、こんなことはあり得ない。穢れの流れは、それ即ち情報の流れ。自然に止まるということはない。情報が流れない世界は停滞し、時が止まったようになる。あらゆる変化は遠ざけられ、何かを信じることも恐れることもない。早い話”何も無い世界”。その日の記憶を失い、きっかけ次第で思い出せたとしても、また忘れ。運命すらも決まらない。
「俺ならできないことはないが…そんなことをする理由も、した覚えもない」
これは、”変化しない異変”。
これを解決するには、元を叩くしかない。ここまで強力なものではさしもの博麗霊夢でも対処不可能……穢れの流れが見えないのだから、そもそも気づきもしない筈だが。
「俺が、やるしかないな」
初の異変解決。本来ならあちこち調べ回り、犯人を地道に探すのだろうが、宿儺は既に目星がついていた。こんなことができるのは、自己をを除けば一人だけ。
──それは宿儺を友と称し、宿儺が最も友好的に接した相手。
「一体どこに居る……磐永阿梨夜……!」
かくして、宿儺は異変解決へと乗り出したのだった。
「──やっぱり、
「教えろ八意。お前は何を知っている?」
困った時は旧知を頼る。それが幻想郷における宿儺の生き方だった。
宿儺はあまり0から何かを考えるのは苦手な方だ。ありあわせの環境と、自身の有する知識と経験を組み合わせてどうこうする。手本さえあればできる。
故に、八意には0を1にしてほしい。そのために来た。
それに、八意は磐永阿梨夜を知っている。今回の聞き相手としてはもってこいだと思った。
「知ってるわよ。何しろこの事態は私が仕向けたんだから」
まさかこの事態の黒幕の方が先に見つかるとは思ってもみなかったが。
「……いつか、お前ともやり合おうと思っていたが、それはどうやら今らしいな」
「あら、勝つ気? 普段通りならともかく、今の貴方じゃ無理よ。頭の方も弱ってるのかしら?」
流れるように罵倒が飛んでくるのは俺の前だけだと信じたいところだ。が、実際問題今の宿儺では八意には勝てない。元々本調子でもしんどい相手なのだから、それ未満の状態では勝てないのが必至。それを見極められないほど、宿儺も馬鹿ではない。
「……そんな弱っている俺に、お前が一体何をしたのか教えろ」
「ちょっと説明が難しいのだけれど、ちゃんとついてこれる?」
そう前置いて、八意永琳は今回の件について話しだした。ついてこれるかと聞かれたが、どうせ止まる気も無いのだろう。
「月の都は貴方の結界のお陰で、基本的に外部からの穢れを遮断している。でも、あそこに住む神々も力を維持するには最低限の情報が必要。だから彼らは地上と月の間に連絡通路を通して情報を得ているのだけど……今回問題が起きたのはその連絡通路なの」
「……続けろ」
「顔色悪いわよ。本当に大丈夫?」
「構うな、続けろ」
「はいはい。強情ね、まったく…… 連絡通路には仕掛けがあるの。穢れを浄化し、必要な情報だけ取り出す仕掛けが。でもそれが外から流れてきた大量の穢れを処理できなくてパンクしたのよ」
「それで、その処置のために一時的に穢れの流れを止めた訳か」
「月の都としても不本意だったわ。あれほどの穢れが流れ込んでくるなんて思ってなかったもの」
やれやれだわ、とでも言わんばかりの呆れ顔を見せてくる。
「磐永の力を借りようとするとは、随分切羽詰まっているのだな」
「どうも外の世界で大規模な情勢変化があったみたいで、それは流石に手出しできないと判断された結果よ。仕掛けを
「防波堤代わりか。気に食わんが、理にかなってはいるな」
「だから月の都が落ち着くまでは暫くこのまま。気分は悪いでしょうけど、我慢してね」
「……待て。穢れの問題というのであれば、あいつではなく俺を頼ればよかっただろう」
「勿論それも提案されたわ。対処療法にしかならないから私が下ろしたけど」
「それとも一生閉じ込められたい?」と聞かれたが、そんなのはまあ御免だ。流石八意と言うべきか、よく分かっている。
「しかし、よく磐永が首を縦に振ったな。あいつの月人嫌いは相当だぞ?」
「仕掛けを助ける為に仕方なく従った形よ。本人にとっても苦渋の決断だったらしいわ」
「彼奴も災難だな」
とはいえ、大方の話も見えてきた。穢れを嫌う月の都の連中にとって死活問題となる、地上からの穢れの流入。その対処_もとい仕掛けの再起動の時間を稼ぐため、磐永阿梨夜に協力を仰いだ.といったところか。
とはいえ、腑に落ちない点がある。磐永阿梨夜との交渉に引き出された、仕掛けについてだ。
「彼奴が何の意味もなく力を使う訳が無い。その仕掛けというのは一体何なんだ」
信用。「友が無意味に力を利用することはない」というところから来る、信用。
彼女は自分の力をひらけかす者ではない。それどころか使うことすら、余程の理由がない限りはしないタチだ。
「そんな彼奴がその仕掛けの為に力を使った__教えろ、八意思兼!」
今この瞬間、宿儺の身に流れるのは穢れではない。友を、最友をいいように扱ったことに対する怒り、だろうか。それは宿儺自身にも分かっていない。ただ、己を突き動かすこの気持ちに、激情に従う。それが一番、正しく思えただけだ。
「──ユイマン・浅間」
「.維.縵?」
聞き覚えのある名前だった。その名前の主に覚えがあるという訳では無い。引っ掛かりを覚えたのは、その名の意味する事柄の方だ。
『維縵』。それは月の都ができるよりも昔に、宿儺がよく通っていた国の名前だ。地獄との間にあるその場所は、神々の世界で穢れを回収するのに丁度良かったので覚えている。
「かつての維縵国の王女であるユイマンこそ、月の都との連絡通路に設置された仕掛け……穢れを浄化する能力を持った彼女を、月の都は記憶改竄し洗脳。今になって、そのツケが回ってきた訳よ」
──大量の情報でパンクしたと聞いていたが、今まさにその片鱗を味わった気がした。
人の心がちょっとずつ、明確に現れてくるすっくん