2万字ないくらいですので暇な時にでも。
コンプレックス
1 ロリータ
2 カイン
3 メサイア
4 オディプス
イコノクラスム(偶像破壊)
1 ロリータ
本条皆子はかすかな胸の膨らみと、青い尻を持つ少女だった。
義父の私から見てもかのニンフェットの素養を十二分に備えた子供だった。
断っておくが決して私は彼女に自らは爪の垢ほども求めていないのだ。
彼女は再婚した妻の連れ子だった。母親からは経済力の差からか、私と息子に逆らわないようにと言い含められていたようだが、十一歳の彼女はいつも、分かったような、分からないような顔をしてはい、はいと頷いてなだめていた。
慰めていたという風にも見える、母子の逆転したような光景が日常茶飯事だった。
鬱屈とした空気が我が家に漂っていた。息子もびくびくとこちらをうかがう母には甘えられずにいた。それに風穴を開けようと企画したのが、一泊二日の東北への旅行だった。旅行先で旨い物でも食べて遊べば、子供たちの気分だけで素直になると、そんな楽観的な見立てだった。
気まずいだけのレクリエーションを終え、私達は形だけ家族四人でとったホテルの宿へ向かった。
和洋室の窓際、障子と窓ガラスの間の木を編んだ椅子を皆子は興味深げに眺めまわした。
夕食時、皆子が妻と喧嘩した。
「母さんはいつもお作法ばかり気にして、ちっとも楽しませてくれようって気がないじゃない」
「金を出してもらっている身でわがままを言うんじゃありません。ほら、お父さんに謝って」
「いや、私はいいよ」
皆子の方を持つ私を妻は不快そうに眉をひそめて見た。
「そんなら皆子はお父さんと寝なさい」
大型のベッドを二つばかり並べた部屋なのだから、息子はなし崩し的に妻と寝るしかないのだが、そんなことは構わぬ様子だった。
風呂に入りベッドに寝ようとした時、
「お父様」
と皆子は薄手のバスローブを羽織ったきりでベッドに乗ってきた。妻は息子を抱えるようにしてそっぽを向いてまどろんでいた。
めまいがした。
ほんの透けてしまいそうなバスローブは目にいたいくらい白く、また皆子の肌も血管が透けそうに青白かった。いつか本で読んだ『永遠の処女』という言葉を思い出した。それほど皆子はベッドインする直前の娼婦のようにあでやかで、自らすり寄る小動物のようにあどけなかった。
「母さんにもおやすみなさいを言いなさい」
皆子はしぶしぶバスローブの裾をからげてベッドの上で母親の方を向いた。その瞬間バスローブがめくれて、綿のパンツからはみ出した青い尻が逸らした視界に入ってきた。
「おやすみなさい、お父様」
皆子は一つくしゃみをすると、スルリとベッドの中を潜って、寝転んだ私の胴にうつぶせに重なった。
驚いたことに私の心臓は穏やかだった。首の下をくすぐるように皆子の穏やかな寝息がした。
「んん」
皆子が寝返りを打つと、それに合わせるように私の体も動いた。営みのように自然な一体感だった。
やがて永遠に続くかのごときささやかな温もりを腹に感じながらも、私は尿意を催してベッドを離れた。
眠れなかった。皆子の興味を示した椅子に座りながら、冷蔵庫にあったビールを開けた。
ふと、大学時代の初恋の相手を思い出していた。妻とは真逆の女性だった。
冴という、凛とした女で肢体が大学生らしく瑞々しく、何より包容力のある女だった。 柔らかく包み込むような抱擁も、自我のしっかりした話し方も、なんの展望もない大学生だった私が縋るのに丁度よかったのだろう。
私がふざけて絡みつくようにハグすると、冴はいつも子犬に舐められたように笑った。
「なあに、怖いことでもあったの」 記憶の中の彼女はそう笑った。
「眠れないの?」
はたと目線を上げてみると、皆子は眠気のせいで体が火照るのか、バスローブをさらにはだけて立っていた。薄い色の下着が覗いてる。
「私も眠れないの。何だか名残惜しくって」
「また来たいかい?」
「ええ。またお父様と同じベッドがいいわ。母さんは布団を巻き取ってしまうもの」 私は初めて皆子の来歴を彼女自身の口からきいた。
「前のお父さんは入院で寝たきりだったのよ。必死に母さんは看病したけど駄目で、イサンももらえなかったのですって。パートして支えたのにこれじゃこっちが病気になっちまうって母さん悔しがっていた。その前はね、タネだけコサエテ出て行ってしまったんですって。だからお父様はお父様だけなの」
子供らしからぬ、それでも半分は意味を分かって使っているのであろう言葉は母親の受け売りなのだろう。
「ふう、喉が渇いた。いただきます」
止める間もなく皆子は缶を手に取ってビールを一口飲んだ。
「皆子、それは大人の飲み物なんだよ」
「知っているわ」
「こら」
「内緒にして下さらない?母さん、うるさくて」
甘えたな感情の延長上なのか、皆子は私の膝の上に座ってきゃいきゃいと笑った。
月並な表現だが、皆子の口から話を聞いたことで、同じベッドで寝るよりもずっと彼女を近くに感じた。
薄いバスローブ越しに押し付けられる、膨らみかけた胸の感触。尾骨の柔らかさ。
ひとしきり笑った後皆子は
「ああ、おかしい」 と言った。
「何がおかしいんだい」
「母さんのこと」
「お母さんにそんなことを言ってはいけないよ」
「まるで母さんみたいなこと言うのね」
うんざりした様子で頬を膨らませてから皆子は続けた。
「今度こそメギツネにとられないようにする、って息巻いていたのに、お父様は私といる
んだもの」
子供相手にむきになるからね、と皆子はうきうきした声で言う。
実際それは普段から子供のように甘えてくる母親への、意趣返しの意味もあっただろう。
私の方が大人だぞ、と。そういえば妻はバスローブの下にズボンを履いていた。
「お父様、私好きな子がいるの」 不意に皆子は顔を伏せた。
「その子と林間学校でね、部屋を行き来しようって約束して」
「いいじゃないか。隅に置けないな」
子供同士の逢引きを思って苦笑いする私を裏切り、皆子は
「だから下着を見てほしいの」
とませた子供の口調のまま笑った。
思わずビールを取り落しそうになる。
「その時用の、今日お父様に見てもらおうと思ってきて来たの」
「皆子、下着は人に見せる者じゃないんだよ。レディなら隠さなくちゃ」
「うん。だからお父様になの。お父様だし、男の人だし」
熱っぽく語る皆子に、あまり抵抗を示すと妻が起きる可能性があると思い至り、私は根負けした。
「じゃあ、お父さんにだけだぞ」
「約束する」
パッと顔を上げて皆子は躊躇いなく私の膝から降りた。
「ふん。ふんふんふん」
鼻歌交じりに十一歳の娘が、ガラス窓の前でバスローブをストリップする。それを止めようともせず、ただただ幻想を享受する。ストンと彼女はバスローブを床に落とし、自然体でそこに立っていた。
「はい、どう?」
薄いレモンイエローのレース地の上下が、青白い体を彩っていた。レースも控えめで大人のような絢爛さは望むべくもないが、まだ幼い彼女にはよく似合っていた。 薄暗い照明の下、つるつるした生地が光る。
「きれいだよ。これならカレシ君もメロメロだ。だから早く服を着なさい」 今更大人ぶって注意すると
「やった」
と皆子は嬉々としてバスローブを羽織った。
しかしまだ物足りなさそうに、皆子はこちらを見ている。
「寝るんじゃないのかい?」
「まだ無理よ。一時間も経ってないもの」
「もう夜更かしができるのか」
私は苦笑したが、時計はまだ十一時だった。
「よし、じゃあ父さんと散歩に行こうか」
「どこまで?」
「そんなに遠くじゃないぞ。そこのコンビニまでだ」
「はあい」
皆子はこそこそと、まるで隠し事が楽しくてたまらない風に昼間のシャツを着、上にニットを被った。これで下着は透けなくなる。他の誰にも。
「お父様。早く」
「分かってる」
道中、万が一にもはぐれないようにと手を繋ぐ。まだ骨ばった指が私の掌を滑り、絡められる。
外はもう秋の深まる頃で、ちらほらと雪が積もっていた。
「雪、触って良い?」
「いいけど、どうしてそんなことを聞くんだい」
「母さんは嫌がるから」
「ふうん」
妻への気持ちは、つい夕方頃までなら神経質なあいつらしいと思うところだったが、今や何の感慨も起こらなかった。
「デザートは駄目だぞ。お母さんたちにばれちゃうから、飲み物だけだ」
「ふふ」
本当に楽しそうに笑って、皆子はココアを手に取る。まだほんの十一歳なのだ。
「あったかい」
「お父さんのと交換するかい?」
からかい交じりにコーヒーを勧めると、
「やだあ」
と皆子は一口だけ飲んだ。
「大人の味だからね」
「大人の味はみんな苦いのね。つまらない」
拗ねた皆子が手を放しぴょんぴょんと道路の縁を跳ねる。
「危ないぞ」
「平気よ」
「世の中は危険なことだらけなんだ」
「平気よ」
もう一度、今度は心細そうに皆子は呟いた。
「何だ、怖くなったか?」
「ちょっぴし」
素直に白状する娘を抱き上げくるくると回す。
きゃーっと笑って皆子は私に抱きついてきた。
その瞬間の彼女は、いくら年月が経っても私の胸の中にだけある。
「お父様。私お父様の子よね?」
「もちろん」
「良かった。他の人なんて、絶対嫌だもの」
私たちは指切りげんまんをした。子供のようにたわいない、しかし確固たる意味のあるものだった。
ホテルに帰ってから皆子はすぐに
「またお散歩しましょうね——」 と寝入ってしまった。
翌日も、母子はピリピリとしていたけれど、皆子はあの夜以来、ふとした瞬間私に目配せをするようになった。
私が皆子以外の肩を持った時、少しテストの点が悪かった時。
「――また私を、連れ出してね」
その約束通り、たびたび私は皆子をドライブに連れ出してやるようになった。
最も印象深かったのは、大学の寮に入れなくてふてくされた皆子を、海辺まで連れて行った時だった。
その時の皆子は口も利かず、私の後をついてきて車に乗った。
「何の曲をかけてほしい」「私、着くまで寝てるわ」
宣言通り皆子は泣き寝入りするように、何の不満も言わずかといって礼も言わずシートに体を沈ませていた。
「着いたぞ」
いたずら心が湧いて、急に起きた皆子に海を見せたくなった。
皆子は十一歳の時と変わらず目を輝かせた。
「お父様。海、入ってもいい?」 皆子はスカートの裾をたくし上げ、裸足で海へざぶざぶと進んでいく。
その時、たくし上げた裾から、はっきりとしたレモンイエローの布地が覗いた。
「ほんとはね、今日自棄になって泊まりに行こうかと思ったの」
「じゃあ、思ったより遠くに来てしまったかな」
「違うの。連れ出してくれたから、あんまり母さんと喧嘩をこじらせても馬鹿馬鹿しいって」
「そうだな。親子喧嘩ほど馬鹿馬鹿しいものはないよ」
「それ、自分のこと言ってるの?」
「そうかもな」
高校卒業とともに家を出た息子のことを思いながら、私は舌を巻いた。
「でももうあいつは出て行ったんだ。喧嘩も何もあるか」
「知ってるよ。毎日ポスト見てがっかりしてるの」
「そうか。知ってたか」
けれど仲たがいの原因は分かっていないのだろう。きっとこれから先分かるとも思えない。
「皆子」
「はあい」
呼べば彼女はすぐに駆け戻ってくる。私のすぐそばに、今でも子供のように抱き着いてくる。
感慨深く、私は皆子を抱きしめ返した。
2 カイン
姉は厭な女だった。男所帯の父子家庭だった我が家に突然再婚話が出てきただけでも複雑だったのに、姉として扱うべき子供が出来たのが心底厭だった。大して年も違わない、赤の他人の何が姉弟か。
姉は秘密を持ちたがる子供だった。
「数、これはお父様たちには内緒ね」
そう言って、何でもない駄菓子を手渡してきた。
それらはありがたく受け取ったけれど、根底にある嫌悪感まではぬぐい切れなかった。決して悪い姉ではなかった。遅くに出来た姉弟であることも手伝って、喧嘩もほとんど無かったし、口論になってもお互い手は出さなかった。
強いて言うならば、その穏やかさが嫌いだったのだ。浮世離れした、ふわふわした笑顔が、人形のようで厭だった。
その説明できない厭さは、中学三年生の冬にはっきりとした。
姉の下着に、白く濁りねばねばとした液体がこびりついていたのだ。その下着は父の前に風呂に入った姉が脱いだはずのもので、洗濯機に入っているのが常だった。それが隠されるように、洗濯物の山に埋もれていた。しかもそれが四回五回と続いた。姉は勘づいているはずだった。そうでなければ自分の下着がしょっちゅう妙なタイミングで洗濯から返ってくることに説明がつかないからだ。
姉は父を許していたのだ。その日初めて母の手料理を残した。
父も、そんな父と所帯を持つ母も許せなかった。
後から、母はそのことを知らないと分かるまでは。
母は余裕のない人だった。洗濯物も多少娘の下着が不自然な汚され方をしても気が付かない程度には。いや、薄っすら何かを感じていたのかもしれない。その上で家庭という枠組みを守ろうと、俺を塾に送ったり様々に手を尽くしてくれた。それは感謝している。おかげで俺は高校を卒業したら首都圏の大学の寮に入ることを許される成績を納められたのだから。
あの家に母を置き去りにする罪悪感よりも、あの家に居続ける苦痛の方が大きかった。
「おめでとう、数」
元気でねと見送りに来たのは姉だけだった。母は寝込み、父は実家の片付けの忙しい時期だった。
「姉貴は覚えてるか?高二の夏のこと」
「なんだっけ?」
姉はへらへらと笑った。
高校二年の夏だった。俺は当時の彼女と通学路を歩いていた。手を繋ぎ、いざそれ以上となると距離を詰められない。そんな中、家が近づいて俺が彼女にキスをしようとした時だった。
電信柱の向こうに姉の姿があった。
当時の彼女は一つ上の先輩に失恋したところを、何とか頼み込んで付き合ったところだった。
「先輩……」
彼女が呟いた。
その男は、姉に執拗に言い寄っているようだった。
姉は父を許していた。その男のことも許したのだろう。
姉は困ったように笑いながら男の口づけを受け入れた。最初は躊躇いがちに、徐々にエスカレートして。
「ごめん」
彼女は泣きながら俺の手を振り払い走っていった。噂によれば男はいわゆる手の多い奴で、彼女もまた、お付き合いではなくという条件で、後腐れなく関係を持って捨てられたらしい。
姉は言った。
「あったね。そう言えば」
「あったねじゃねえよ!どうすんだよ、俺の初恋と思い出!」 俺は忘れていた。姉がどれだけ浮世離れした人間かを。
「いいよ」
「は?」
「どうしたら取り返してあげられる?」
どうしたら取り返せる?そんなこと俺が一番聞きたいよ。俺は言った。
「知らねえよ」
背を向けて家を出る。
「返事、待ってるからね。私、何でもするから」その声を振り払うように駅まで走った。
家を離れても姉からの年賀状は届き続けた。しかし姉の名前を見るたび思い出すのは汚れたショーツとブラジャーだった。
ある元旦の夜夢を見た。中学校に入りたての頃の夢だ。俺は歯磨きに洗面所にいた。
姉は一つしか年が変わらないからか、俺が出ていくのを待たずに服を脱ぎ始めていた。
髪留めから始まって、スカート、シャツを脱ぎ、まっさらな下着姿の姉は美しかった。この世のものとは思えぬくらい。
すっきりと贅肉のない胴体、綺麗にへこんだ臍、滑らかでありながら曲線を描く太もも。申し訳程度にしか発達していない青々とした乳房と、決して手の入っていないながら均整の取れた陰毛。それらの下地となる白いきめ細やかな肌。
そうだ、あの時も俺は。
目が覚めると俺は夢精していた。最悪の初夢だった。
その年初め自分から姉に電話した。
「決まったよ。姉貴にしてほしいこと」
「何?出来ることならいいけど」
「出来るよ。あの時だってそのいやらしさで全部壊したんだろ。この淫蕩がよ。だから
、客取れ」
「客?」
不思議そうな姉に怒りが沸騰する。
「体売れって言ってんだよ!その面なんだからいくらでも店の面接受かるだろ!」 自分の口から出たとは思えない卑猥な要求に、姉は
「分かった」 と即答した。
「待っ」
「丁度バイト探してたし、いいよ」
受かったら電話するから。と電話が切れた。
情けないことに俺は、その言葉を聞いて興奮していた。
「今日はどんな客取ったんだよ」
「数、その話好きだね」
数週間後、本当に連絡が来てから、仕事の内容を聞くのが日課の憂さ晴らしになっていた。
当然だ。
脂ぎった、金でしか性を手に入れられない男たちに憎い女が搾取されるのだ。気が付けばプライドも何も捨てて、毎日俺はその報告を心待ちにしていた。
「バッグとか興味ないよね。おかげでお金溜まってきたから送るよ。大学生、お金かかるでしょ?」
「死んでも要らない」
俺だってそんな稼ぎを必要とせずともアルバイトで稼いでいる。
「そっか。お父様、そろそろだって」
早く会いに行ってあげてね、とこちらの気も知らず電話が切られた。
父に会うのは三年ぶりだった。
「くそ親父」
病院の待合で申し訳程度に買ってきた花を握りつぶしながら呪う。
病室に通される。
「よう、久しぶり」
「やっと来てくれたか、数史」
「姉貴に言われたんだよ、良かったな。孝行な娘がいて」
「そうだなあ」
皮肉にも気付かず親父は笑った。
「最近も昼は何かと都合がいいらしくてなあ、よく見舞いに来てくれるよ。」
「へえ、あんたの前でも羽振り良いんだ」
「当然さね」
親子の間にそんな隠し事が必要か?と親父は好々爺のように笑った。
「必要だね。だから姉貴はあんたに言ってないんだ」
確実に言い忘れているだけであろうことを、わざわざ言う。
「あいつが金持ってんのも、昼暇なのも、俺が夜体売らせてるからだよ」
「あれは私のものだ」
老人の目がらんらんと光る。
「そうさ。あんたが育てた通りのイカレ女に育ってあんたに還元してるのさ。どうだよ
、てめえの女が他の野郎に平気で体を許してるてる気分は」
「くそったれ!」
俺は笑いながら病室を後にした。なぜだかとても泣きたくなった。それも唾を吐きかけてやりたい父の胸で。
帰ると姉が味噌汁を作って待っていた。
「どうして」
「母さんが様子が最近おかしいから見に行けって」
「誰のせいだと思ってんだよ」
「私だよね」
的外れに姉は謝る。
「ずっと喧嘩してたのに、無理にお見舞い行かせたからだよね。ごめん」 ちょっと待ってて、と姉は手際よく料理を進めていく。
不覚にもそれは家庭の味に飢えている大学生には、少し追い出すのを待ってやってもいいかと思うほどの手さばきだった。
よく見れば布団もベランダに干してあり、至れり尽くせりだった。
そうだ。こんな風に姉は、子供離れした子供だった。まだ同じ大学生だというのに。
「いただきます」
「……いただきます」
手を合わせる仕草も、ふんわりとした作り物のような温かさも昔のままで、もしかしたら本当は、彼女に泣きつきたかったのかもしれないとすら思った。
そうだ。何もかもを許してしまえる彼女に抱きしめられて。
「姉貴。俺に抱かせてくれよ」
「それは駄目」
「連れ子同士は」
「そうなんだけど、私はお姉ちゃんだから」
天使のようなほほえみで、姉は俺の伸ばした手を振り払った。
その後の生活は地獄だった。俺は俺の劣情を知っている相手と一つ屋根の下、母の許しが出る二週間後まで寝食を共にしたのだった。
「何で出ていかねーの」
「母さんが不安そうだから」 相変わらずの返事だった。 姉は下着の趣味は変わっていなかった。レース地のパステルカラーの下着が、俺のトランクスと一緒に近所のコインランドリーの中を回っている。
姉はよく俺の好物を作ってくれた。ありふれたハンバーグからねぎの炒め物まで、そんなことをよく覚えているものだと思った。
「ねえ数」
「何」
ぶっきらぼうに答えると、
「仕事辞めちゃった。いつまで休むか分からない子は雇えないって」 姉は相変わらず自分に向けられる劣情に無頓着だった。
「どうでもいいよ」「許してくれた?」
「良い良い」
「良かった」
姉弟仲良くないとね、と姉は缶酎ハイを少し飲んだ。
それに俺にはある種の見立てがあった。
本当にいざとなったら、姉は何も拒みはしないだろうという。
それが実行に移されるまでそう日はかからなかった。
姉はその日も俺の前で着替えていた。ワンエルディーケーの賃貸なのだから当然だが。
その何も変わっていない全身を見た時、劣情に火が付いた。
「姉貴」「何?」
「風呂入りたいんだけど」
「さっき私入るって言ったじゃない」
「一緒に」「なんだ」
思い詰めた顔するから何かと思った。
姉はにこやかに風呂場に入っていく。それを慌てて追いかけた。
泡がてらてらと全身を光らせる。
「皆子」
「姉貴、でしょ」
「抱かせてくれよ。親父には許したんだろ」
「ああ」
そういうこと、と姉貴は静かに笑い飛ばした。
「何にもないよ。あの人とは。要らなくなった下着だから放っておいただけ」
だってどうでもいいじゃない。下着が汚れようが誰と何しようが、何の意味もない。
「だからお姉ちゃん、意味が出来ちゃう数とだけはできないの」 下着だけならまだしもね。と姉は笑った。
俺は全身をこわばらせたまま、姉が出ていくまで身動きが取れなかった。
3 メサイア
本条さんと出会ったのは、大学のサークルの飲み会だった。新入部員歓迎会の席が、たまたま隣だったのだ。
サークルは文芸部と漫画サークルを合わせたようなもので、小規模ながら居心地が良かった。 先輩が
「奢りは今回だけだからな!じゃんじゃん飲めよ」 とはしゃいでいた。
内向的趣味の新入部員たちは盛り上がるどころではなく、もそもそとつまみを食いながら緊張で酔わないようピリピリしていた。
「このサークルで飲み会があるなんて、ちょっと意外ですよね」 隣の席にいた本条さんが言った。
「えっと君は」
「本条皆子です」
「新藤、です。意外ですよね」
急に話しかけられ、思わずオウム返しに言うと、本条さんは「乾杯」とグラスを傾けた。
不思議なリズムで生きている人だった。聞けばこのサークルにも勧誘を断れず連れてこられたらしい。アウトドア派のサークルと違い勧誘もしつこくないのにだ。
「私、断るの苦手なんですよ」
「ああ、町のビラ配りとか」
「はい。この間も店員さんに負けてお野菜多く買っちゃって。実家暮らしだとこういう時困りますよね」
「余計なもの買うなって言われたり?」
「本当、一人暮らしの人が羨ましいです」
「僕、一人暮らしなんですよ」
言ってから、何か誘っているようだと恥じ入ったが、本条さんは「すごい!」と目を
輝かせるだけだった。「一人暮らしってどんな風なんですか?」 自分で振った話題なのに、鼻白んで
「どうって、普通ですよ?テキトーに朝起きて寝るまで一人なだけ」 とそっけなく返してしまうほどだった。
「憧れます。お部屋、どんな風なんですか?料理も自分で?」
「部屋はゴミだらけだし料理もコンビニばっかりだし、実家の方が良い暮らししてましたね」
「確かに、実家は楽かも」
「でも門限はありません。いくら寝坊しても何もいわれないし」 いつの間にか僕は、無邪気に聞いてくる彼女を、子供のように羨ましがらせたいという妙な快感を覚えていた。
「バイトも気ままにできて、好きなもんだけ変えますよ。大学はノーパソだけあれば何とでもなるでしょ?」
「良いですね」
いよいよ熱を込めて本条さんは「一人暮らしかあ」と呟いた。
僕は満足して、つい口を滑らした。
「何なら今度うちに来ますか?」
しまった、初対面の女子相手にそんな軽口を言えるタイプではないのに、しかも部屋が汚いと言った後で。
「良いんですか?」
しかし本条さんは興味深そうだった。
「良いですよ。何なら一人暮らしの参考にして下さい」
自分でも何を言っているのか分からなかったが、本条さんは嬉しそうだった。
「どんな部屋に住みたいんですか?」
「フローリングで、窓が大きいのが良いです。実家もそうだったので。それに日光が入ってくると季節感がありませんか?」
「同じ時間でも季節によって早い遅いありますよね」
「私日の落ちた時間の、近くの家や街頭の明かりが好きなんです」
「ロマンチックですね」
「いえ、ただ私みたいに家に一人の人がいるのかなあって」
「一人なんですか?実家暮らしなのに」
「はい。みんな家の外で忙しくしているので」 大きな黒い目が、淋しそうに見えた。
「今日帰っても、一人ですか」 喉が渇いていた。
「一人です」
「僕と来ませんか。二人でこの後、もう一回飲みましょう。つまみ系なら作り置きがあ
るんです」
アルコールが全身を麻痺させていた。ややあって
「本当にご迷惑じゃありませんか?」 と本条さんは承諾した。
無計画に女子を部屋に誘ったため、あろうことか近所の公園でしばらく待ってもらって、僕は本条さんを部屋に招き入れた。
見ると本条さんは缶酎ハイを二三本買って待っていた。
「お邪魔するのに手ぶらでしたから。新藤さんも甘めのお酒飲んでましたよね」
「ありがとうございます」 部屋に入ると彼女は「わあっ」
と子供が友達の家に来た時のように、きょろきょろ部屋を見回した。
「大きいクッションですね」
「人を駄目にするやつです。後発品だから安物だけど」
「いいなあ、私の部屋に置いたら床が埋まっちゃいます」
「座りますか?」
「良いんですか?ぜひ」
本条さんはクッションに座ると、動物のようにクッションを捏ねたり肌触りを確かめていた。
「改めまして、乾杯」
「いただきます」
言ってから本条さんは缶酎ハイを開ける。
その丁寧さと安酒のミスマッチさが、ことさら彼女を幼く見せた。
その後は二人で好きなものの話をした。サークルは最近の流行りものばかりだったとか、もう少し平成後半の作品が好きだとか。
「結構レトロ派なんですね。女子ってこう、グラフィックとか綺麗な最近のものが好きなのだとばかり」
「ノリが好きなんです。コテコテのちょっと古いノリ」
「関西のノリ、みたいなものですか?」
「はい。下らない本命じゃない小ギャグに酌を割いたりする緩い感じの」
「確かに、最近は漫画の一コマ、セリフの一個でも伏線って言いますよね
」
「そういう全力でこっちも見なくちゃいけないのって疲れません?」
「娯楽ですからね。多少意味がない方が気楽です」
「面白いんですけどね」
意外にも話が合ったためか僕らは結構な長話をしたと思う。
最初の淡い期待は消え、むしろ同好の士としての予感が芽生えていた。
「本条さんっていうのも堅苦しいですね」
「どうしましょう。苗字を呼び捨て、とか」
「ですね」
敬語はすぐに抜けきらず僕らはげらげら笑い合った。
僕らはそのうち遊園地などにも二人連れで行くようになった。
遊園地でキャラクターと写真を撮る彼女。映画館でパンフレットと立て看板と写真を撮る彼女。僕のフォルダはすぐに彼女との思い出でいっぱいになった。
もちろん付き合っているわけではない。そういうのを口にするの今時ではないし、男女間にすぐ恋愛を持ち込むのも最近ではない。
そうは思いつつも、眠る前フォルダを見返す僕はうぶな学生でしかなかった。 本条さんの家の話を聞いたこともあるが、浮かない返事だった。
対して僕は今まで以上に実家に連絡を取らなくなった。頑固な父と穏やかな母の元ではいつまでたっても一皮むけないと知っていたからだ。
まず行く服屋を変えた。大学の講義も示し合わせて取っている物以外は、それまで避けてきた小難しそうな物もとるようになった。
そんな僕を本条は「努力家なんだね」 と言った。
別に同じ大学なのだから、偏差値で言えば彼女の方が高い可能性も大いにあるが、見栄を張りたかった。
誰かに見栄を張って空しくならなかったのはこれが初めてだった。
サークルの男友達からは下世話な質問を受けることもあったが。
しかし一向に僕らの関係はクリーンな友達同士のままである。
初めて彼女が僕の部屋に泊まった時、僕は冗談でなく小躍りした。
僕だけじゃない。
「友達の家にお泊りって初めて」
とお菓子をたらふく持ってきた彼女と一晩中遊びつくした。 少し昔の映画を見た。彼女の持ってきた、ガンマンの映画。
「なあ、この映画いつの?」
「実は最近の。原作はもっと昔なんだけどね」
僕の選んだのは、それなりに有名な劇団の舞台をDVD にしたものだった。
「こういうのも見るんだね。通っぽい」
「ほとんどギャグだけどね」
二人で買ってきたお菓子を、どっちの味がいいか議論した。
「そっちは甘すぎて量を食べられないよ」
「食べ過ぎてもなんじゃない」
「こんなもの食べるのにカロリー計算するなんて邪道だろ」 とにかくずっと笑っていたように思う。
僕がソファで、彼女が来客用の蒲団で寝る前、本条は嘆息した。
「ここが一番、 安心する」
僕の部屋はもう一人暮らしというよりも、二人の巣だった。
彼女は好きな映画のポスターやらを持ち込んでいたし、ゼミのグループ発表の原稿はこの部屋にあった。
朝目が覚めて、二人でもぞもぞと這い出す瞬間の朝日。夜寝る直前の呼吸まで笑い声の名残の残る空気。
そんな毎日も、他人にはいかがわしい関係性ありきに見られたのか、友人たちには様々に口出しをされた。
「お前本条と付き合ってんだろ」
「そういうんじゃないよ」
「そうじゃねえって。あの女ヤバイ噂ばっかりじゃねえか」
「噂だろ」
「じゃあ一つでも知ってんのかよ」
知らない。僕は無意識にシャットアウトしていた。
「あいつ、頼まれたら断らねえらしいぜ」
いいのかよ、と友人は心底不思議そうだった。
断らない。
初対面の日、『私断るの苦手で』と言った困った笑顔が思い出された。
「断れないだけかもしれないだろ」
「そんなわけないだろ」
「何が分かるんだよ」
「新藤こそどうしたんだよ。断れないって、だとしたら事件じゃねえか」 おかしいだろ、と続ける友人を振り切って本条を探した。
やめさせなければならない。
そんなことになっているのも気が付かない自分を馬鹿だと思った。
「お前新藤か」
ヤンキーのような見た目の男だった。
「最近皆子に付きまとってるらしいな。ちょっと調子乗ってんじゃねえのか」
「そっちこそ、断れないのを利用してるだけだろ」
「はあ?」
男は背後でペットボトルを飲んでいた皆子を僕の目の前に引っ張り出した。
皆子は驚いていた。
「新藤、急にどうしたの?」
僕と男が会っていることではなく、目の前のケンカに驚いているようだった。
「皆子、俺といるの嫌か?」
「何、もう」
「じゃあ新藤は?」
「だから本当に何よ」
男は一発僕を殴ると満足して帰って行った。
「本条」
「嫌じゃないよ。って言っても、新藤はもう嫌になっちゃったよね。ごめんね、痛い思いさせて」
「僕は君を助けようとして」
パクパクと僕は口を動かしたが言葉が出なかった。
「え?私困ってないけど……何か問題あった?その、埋め合わせならするからさ」 その夜僕は皆子と関係を持ち、翌朝携帯電話の記録を全て消した。
4 オディプス
皆子は厄介な娘だった。融通の利かない機械のようなところがあった。
小学生の頃、クラスメイトに暴力をふるったこともある。
「なんでそんなことしたの」
「もしやられたらやり返しなさいって言ったじゃない」
それは舐められないように抵抗しろという意味であって、加害者になるほど仕返しをしろという意味ではない。
当然友達も少なくて、いつもクラスで浮いていた。しかし機械的に『学校は勉強するものだ』と思っているのか、本人もさして問題視せず、三者面談でも悪い評価を受けたことはない。
言われるがままなのだ、何もかも。
主体性というより、考える頭がないのか、考えるのが面倒だからなのか。
何にせよ、一つ命令するにしても気を使わないといけない子供だった。
「だってそう言ったじゃない」 それが皆子の口癖だった。
誰かの言ったことなら免罪符になるというような口ぶりで、責任も感じていなかった。
そのことで一度大喧嘩をしたことがある。しかし彼女の考えは一貫して
「どうして今更人に言われたことの意味を考えなくちゃいけないのか分からない」 というものだった。
小学生の頃は親の言うことを聞く。例えちょっとやそっと理不尽を感じたとしても、後々それで良かったと分かる程度の理不尽しか小学生にはないだろう。
それが中学生になっても高校生になっても、人の言われたことを嫌々聞き続けるのだ。 私は賛成してませんけど聞いておきますよ、と言いつつも、態度ではさして反抗しないから後から持ち出されると質が悪い。
「そんなに嫌ならちゃんと言いなさい」
「言ったじゃない」
こんなやり取りが日常茶飯事だった。
ルールに疑問を持たないのは生活態度としては立派だったが、暗黙の了解とされることには愚鈍と言って良かった。
「あんた、もうみんな衣替えしてるんじゃないの」
「他人の服なんて見てないわよ」
「合わせなさい」
「期間中に冬服に変えればいいんでしょう」
どうしてこうも頑ななのか。頑ななのではなく、それ以上のことを考えていないだけなのだろうけれど。 かと思えば、気まぐれで携帯電話も持たずふらふらと出かけもする。ちゃんとどこに行くか教えるという約束なのに。
「だってそんな気分になっちゃったから」
もっとしっかり考えろと言いたくもなる。けれど彼女の頭の中は既にいっぱいなのだ。 皆子は一人遊びの好きな子供だった。
というより団体行動が苦手なのだ。一人遊びの内容で頭が埋まっていて、他人の声がたびたび届かなくなることがあった。
「今日こんな本を読んでね、それからブランコをずっと漕いでいたの」
「ずっと?」
眉を顰めると
「代わってって言われたら代わったわよ」 と的外れな言い訳をする。
「ブランコだけ漕いで何が楽しいのかね」
「漕いでるだけじゃないわ。昨日読んだ本を思い返したり、次に読む本を考えたり、忙しいんだから」
「ずっと一人じゃない」
「そうよ」
何ともコミュニケーションの取れない子供だろうか。だから私は、再婚するにあたり、子供のことはよくすり合わせた。
「うちの子は他の子と遊ぶのが下手で」
「大丈夫、一緒に暮らしていれば互いの間合いも分かってきますから」
結果としてその言葉は本当だった。喧嘩もせず、新しくできた弟に干渉しないという形ではあったけれど。
皆子なりの歩み寄りなのか、こっそり小遣いで買ったお菓子を分け与えていたらしい。
それもタイミングか理由かが不自然だったのだろう。あまり功を奏していなかった。
「母さん、あのね」
いくつになっても思春期の距離感というものを理解しない皆子は、はたから見ればママっ子・パパっ子だった。
アルバイトを始めようという時、高校の部活を見学する時。いつもいつも相談してきた。
正直に言って鬱陶しかった。何か言えばそれで後押しになってしまいかねないというのもあるが、いつまでも中身が成長しない娘に認知的不協和を感じた。
いくら背が伸びたとて、話す内容が幼稚園児の頃から変わらないのだ。成長など感じられない。
「それもあの子らしさなんじゃないか」
夫はそういったが、その皆子らしさが社会に出る上で邪魔っけなのは間違いなかった。 皆子はアルバイト先でも空気を読めなかったらしい。アルバイト先の店長の計らいで、余計なトラブルが起きる前にとクビになった。女の子ばかりの職場で、たった一か月の出来事だった。
毎晩、明日こそは大人らしく口を利くのではないかと考えては、口だけは達者なのを思った。
「母さん、私ディベートの授業で褒められたのよ」
嬉しそうに報告するが、それも親子喧嘩で培われた口八丁でしかない。いつもはまともに会話にも入れないのだ。
決して人見知りではないのだが、テンポがズレて会話に向かないのだ。
「みんな聞き取るより早く喋るから困っちゃう」
「ちゃんと耳を澄ましていなさい」
「澄ましてても音みたいに聞こえるだけなの」
一丁前にため息を吐いて皆子は、次々と移り変わるグループチャットの会話を眺めていた。
子供というのは巣立っていくものなのではなかったか。
いつからかそんな憂鬱に悩まされるようになった。
皆子は変わらない。無邪気ながらも無責任に、しかも本人なりに苦労して生きている。
これでは責めようもないではないか。
だから
「将来やりたいことはないの」
と聞いた時、
「福祉系とかもいいなあ。人の役に立ってるって気がするじゃない」 皆子からこんな返事があった時は本当に驚いた。
自分のことで手一杯なのに、いや手一杯だからこそか、やりがいを他人頼りで生きていこうという姿勢に頭を抱えるほかなかった。
「あんたのやりたいことはないの」
「ないかな」
面倒臭そうにレポートを書きながら皆子は言った。
「仕事ってみんなやりたくないんでしょう?」
「それでも何かやりがいを見つけるものよ。その方が仕事にも張り合いが出るでしょう」
「アルバイト何時間かだけでくたくたなのに、仕事でずっと全力を出したら倒れちゃうわ
」
やりがいと真剣さの違いも彼女は分かっていなかった。
皆子はペース配分や目標設定も苦手なのだ。
テスト前に全力を出し過ぎてやる気をなくす、点数も怒られずいつも通りに解けている範囲ならば気にしない。
自己ベストというのに拘らない性格も災いしてか、いつも点数はそれなりだった。
自己ベストというのは、趣味でもなんでも登山に似ているものだ。やり切った時に達成感があると信じて突き進む。そう思うと、皆子には達成感を持つ感覚が薄いのかも知れなかった。
昔皆子には難しい問題をわざと解かせたことがある。
「どう、出来た、って思うでしょ?」
「やっと終わった。ねえ、遊んでいいでしょう?」
達成感がないというのは、ゴールが無いのにも似ている。
私の子育てのように。子育ては幸い皆子が『一定の年になれば働くものだ』というルールを守ろうとしているため終わりが見えているが、人生に達成感がないというのはどんな気分なのだろう。
「テスト終わったら行事でまたテスト。ずうっと試されてるみたい」 いつか皆子はそう零していた。
ずっと採点に怯える人生。誰かに見張られているような、自分の中にある法律。
いつだったか、試合の点数を、先生が間違って高くつけていた時、皆子はしつこく示したという。死後本当に地獄があるとでも信じているかのような。あるいは良いことをすれば良いことがあると信じているような。チームメイトからすれば迷惑でしかなかっただろう。
娘のそんな鼻つまみものっぷりに、それでも母らしい同情を寄せられていたのは皆子が高校生に上がるまでだった。
皆子が高校一年生の頃、月に一度家族で集まることはあっても、私と夫は離婚していた。
だからというわけではないが、私にも好い人というものがあった。
その人とは今は繋がりはない。
ある日、その人を家に招いてお茶をしようと約束していた。
皆子は部活があるはずだったが、たまたま顧問が休みを取って、私より皆子が早く帰ると連絡があった。
私は何と言うか考えながら家路を急いでいた。
丁度家の前の電信柱まで来た時、その好い人が皆子の腰を抱いているのが見えた。
「母の知り合いなんですか?」
「いや、ただの仕事の付き合いだよ」 その後はよく聞こえなかった。
二人は男に連れ込まれる形で家に入っていった。私は家の近くのファミレスで夜まで冷めたコーヒーを飲んでいた。
家に帰ると、皆子が洗濯機を回していた。
「これから警察に行くから」
「あの人は」
「断り切れなかったの。力、すごく強いし、さっき帰って行ったから今から通報するね」 大変なことになったね、と皆子の目が助けを求めるように訴えていた。
反対にその体には何の傷もなかった。涙が止まり声も落ち着いているのを見れば、きっとその心にも傷一つないのだろう。
こんな母親を鬼というだろう。しかし私はあの日から、得体のしれない娘が恐ろしくて仕方ないのだ。
イコノクラスム(偶像破壊)
川瀬陽こと私はその日、一家心中未遂事件の公判に向かっていた。
私の所属する三流雑誌ではこのような地方まで足を延ばさないとネタが掴めないのだ。
もっとも上司からは
「こんな部署でやる気満タンじゃもたないよ」 と心配されたが、職業意識はある。
事件の概要は、以下の通り。
一、 一家は家に火を放ち心中を図った。
二、 たまたま逃げおおせた令嬢が助けを求め事件が発覚した。
三、 どうして彼女が逃げおおせたのか、それに意味はあるのかは不明。
こうしてみると一家心中に失敗しただけにも思えるが、不可解な点がある。令嬢は一家心中の計画を知らず、帰省していたところを炎に見舞われたらしい。
令嬢と言っているのは、もう離婚したはずとはいえ養父がそれなりの資産家だったからである。
弁護士の質問が始まり、令嬢は気丈にも答えていく。一見ドライにも見えるが、被害者が被害を自分のものとして受け止めるのは容易いことではない。むしろ切り離す。他人事のように。
「それではご家族についておっしゃられたいことはありますか?」
「はい」
令嬢は伏せていた目を上げた。丸っこい、人好きのする目だった。
「母は炎の扱いには十分慣れていました。実家ではいつも美味しい料理を振舞ってくれて、何かを焦がしたところを見たことがありませんでした。なぜこんなことになったのか分かりません。母の不倫相手を私が寝取ったという噂もありますが誤解です。母はあの時も私を守ってくれました。確執などない家でした。父ともどうして別れたのか分からないほど円満でした。
父はよく家族を見ていました。時たま私の衣服に執着していたのは確かですが、それも要らなくなった服です。お天道様に顔向けできない関係など一切ございません。
弟は素直で正直な良い子でした。時折感情的になることもありましたが、まだ大学生の時分を逸脱するものではありません」 涙ながらに彼女は訴えた。
「少々よろしいでしょうか」
公判が終わった後、私は本条皆子に名刺を差し出した。
「私こういうものでして、こういった悲劇がもう起きないように、今回の事件を記事にして残したくて」
冷や水を浴びせられる覚悟で言うと彼女は、
「素晴らしいですね」
と名刺を受け取りお辞儀をした。
私たちはカフェで向かい合っていた。
「公判でおっしゃっていたことは真実なんですね」
「はい」
「それぞれエピソードを交えてお願いできますか?」
「構いません」
彼女は紅茶を一口飲むと母親を思い出すように目を細めた。
「母は父との離婚が成立する前から時々男の人と会っていました。
「それ自体は別にどうとも思いませんけれど。
「現に離婚していますしね。
「たまたま、母のお相手の方と私の帰宅時間がバッティングしたことがあったんです。
「誘われました。
「あんなに野卑な誘いはありませんでした。失礼、余計なことでした。
「断り切れませんでした。お茶だけでもというからには、母のお相手を見ておきたかったですし。
「母は控えめに言って縁に恵まれた方ではありませんでしたから。
「母が最初に関係を持ったのが私の実の父です。
「その後はあっさり。ええ。妊娠が分かれば誰だって逃げ出したくなりますよね。
「母は逃げられませんでしたが。
「どうして母が私を生む気になったのかは分かりませんが、また育てる気になったのかも分かりませんが、そうして私は生まれたのです。
「私の男性関係も、元はと言えば迂闊さは母親譲りなんでしょうね。
「母は結局私のことを怪物だと思ったのでしょうか。
「帰省した夜、廊下で会ったんですよ。
「母は私を見て『疫病神』と言いました。
「当然ですね。
「お相手を奪ったようなものですから。
「父とどうして別れたのか分らないと言いましたね。
「あれはそうしてそれまで続いていたのに別れたのかという意味です。
「とっくの昔に父の恋人は私になっていました。しかしそれを見て見ぬふりをして、私たち家族は成り立っていました。
「それがどうして、ねえ。
「母は私によくしてくれました。
「それなりに女子の人間関係をやり過ごしてきた母には対処の仕様がなかったであろう私を、丁寧に育ててくれました。
「おかげで今、雑貨屋の店員として食べていけているんですから。
「小言の多い母でした。
「神経質というより、常に慌てている人でした。
「何か失敗するとどうしようって悩んじゃうんです。
「どうしようもないのにね。
「今回もきっとそんな風に思い詰めてしまったに違いありません」 私はメモを取る手を止めた。
「お母さまについては分かりました。では、お父さまはどんな方でしたか?」 本条皆子はううん、と唸って小首をかしげた。
「父は家族をよく見ていてくれる人でした。とてもおおらかで、私も母と口論になって行き詰った時はよく頼ったものです。
「そういう風に頼ってしまったのが良くなかったのでしょうか。
「父は段々私を女として見るようになっていきました。
「舐めるように見られるのは日常茶飯事で、最後には私の捨てる前の下着で自分を慰めるところを目撃してしまったんです。
「私も子供の頃は本当のお父さんのように慕っていましたからとても衝撃的でした。
「ああ、父も男の人なんだって。
「父は元々ロリータコンプレックスのケのある方ではありませんでした。 母と結婚記念日に出かけているのを知っていますから、断言できます。
「祖父母に私と弟を預けて、翌朝迎えに来ました。
「祖父母は父を育てただけあって、厳格でしたが優しい人でした。
「よくおやつを出してもらって、おもちゃを買ってもらって
「私達も結婚記念日を心待ちにしているほどでした。
「父は成績には厳しくありませんでしたが、母とは違う意味で礼儀に厳しい人でした。「母が頭を下げてやり過ごす礼儀なら、父は人に見られて恥ずかしくないようにという方でした。
「どうしてそんな二人が結婚したのかも不思議ですが、きっと足りないものに轢かれたのでしょうね。
「母はか弱く見えて支えたくなり。
「父は頼りがいがあって着いて行きたくなった。
「しかしそのストレスのせいか父は越えてはいけない一線を越えてしまいました。
「母への裏切りです。
「私ですか?
「私にとっては犬にぼろの靴下を破かれたようなものでした。
「母は知っていたのでしょうか。
「一度上げた生活水準は下げられないと言いますよね。
「母は父のいない生活に耐えられなくなっていたのかもしれません。
「分かれている以上金銭ではありませんよ。
「心の安定です。
「寄り添ってくれる誰かがいる。
「口論になったら肩を持ってくれる人が家庭にいるだけで、自由に発言できますから。
「私にしても父がガス抜きしてくれなかったら。
「だから疲れたのでしょうね」私はいかめしい顔を作った。
「お辛いであろうことまでありがとうございます。弟さんのことも構いませんか?」
「ええ。弟にはかわいそうなことをしました」
本条皆子は、本心から言っているように見えた。
「あの子には迷惑のかけ通しでしたからね。私なりに仲良くなりたくてお姉ちゃんぶっていたこともありましたけど、空振りでした。
「それでも母とは仲良くしてくれて、反抗期も無くて可愛い弟でした。血がつながっていないのが惜しいほどに。
「私を諦めないで怒っている数少ない知り合いでもあります。「私はこんなのだから、いろんな人に言われちゃうんですよ。
「『あー、そりゃアンタはねえ』とか。
「でもあの子はあの子の基準で怒ってくれた。
「私にちゃんとさせようとしました。
「母とはまた違う意味で。母は私を心配してでしたが、弟は私を個人として見て怒っているようで嬉しかった。
「なのにあんなことになってしまって。
「本当に事故だったんですよ。
「弟の思い人の、さらに片思いの相手と私がキスしてしまうなんて。
「同級生同士なら苦い青春の思い出になるのに。
「弟はしばらく落ち込んで、私を色狂いかのように見ていました。
「悲しいことです。
「私はただ、熱烈にアプローチしてくれたクラスメイトを断り切れなかっただけなのに。
「そういう意味では、あのクラスメイトも弟も同じなんでしょうね。
「クラスメイトも、次の日振ったはずの後輩女子に詰め寄られて恋どころじゃなくなっちゃったんです。
「私のことは振ったのに、あんな女とはって。
「傷つく物言いですけど、私ですからね。言いたくもなりますよ。
「他にも申し訳ないことはあります。
「あの子が父親の死に目に会えなかったのは私のせいでもありますから。
「いえ、絶対に父の過ちなのですけれど、放っておいたのは私ですから。これも、母に自分の責任を考えろって言われてから分かったことなんですがね。
「父のしたことを弟は知ってしまっていたようなんです。
「ただでさえ父親の愛情を半分持っていっていた姉が、今度は家庭内で性的な環境を作り出しているなんて。
「高校を出てすぐ家を出ざるを得なかったのも、父親に最期会えなかったのも仕方ないのでしょう。
「母とは被害者同士で、まだ結託できたのかな。でも、同性の親と合わないって辛いですよね。
「本当は父に会いたくて、早まっちゃったのかもしれません」
「事細かにありがとうございます。最後に更に不躾な質問よろしいでしょうか?」
「私個人の恥でしかないのでしょうが、どうぞ」そこまで聞いて私は隠していた手札を出す。
「今回の一家心中に貴女の異性関係の奔放さは関係あると思いますか?噂によると、近所でも有名でご家族のことまでインターネットでは出回っていますよね?貴女に袖にされた男性のリベンジポルノなのではないですか?また、それらが男性からの一方的な要求だったというのは本当ですか?」
「あら、そんな人のこと」
本条皆子は、道端の石にもすらもっと優しいであろう視線で窓の外を見た。
窓の外には、黒目がちな彼女をじろじろと眺める男性の姿がある。
「何の痛痒もありませんでしたが、あの人達は違ったのでしょうかね。だとすれば、家族
には悪いことをしました」
その後もこまごまと質問を繰り返し、次に会う予定を約束してから私達は別れた。
「家族愛溢れる記事にしてくださいね」
「ええ。必ず」
私は記事の内容変更の旨を上司に連絡する。
見出しは、『生き残った令嬢。一家心中の真の狙いはその抹殺か』。