同作者が他サイトから転載したものです。

分割する予定がいつの間にかこんな具合に。少しずつ読み進めてもらえると幸い。

彼ら彼女らが少しでも可愛く思えたなら嬉しい。

いつかまた何か書いてみたいなあ。

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Rendezvous

 

「ま、マジ? 本当にやるのかい?」

「マジもマジです」

「おーけーおーけー絶対やってやるぞの意思は大いに伝わった。けれどなあ、それに応える必然性が俺には」

「貸し、私にありますよね?」

「貸しだって? はてさて覚えが」

「どの貸しから挙げたらいいですか?」

「……そ、それを言い出したら俺への貸しだって」

「あ、指が滑りましたー」

「お呼びでしょうか?」

「ああはい了解致しました仰せのままに致しますぅー!」

「やったぁ」

「オ、オラリオ最強冒険者の召喚は卑怯なんてレベルじゃないでしょおぉ……」

「交渉成立ということで、早速準備に取り掛かりましょうっ」

「俺は知らないよー。知らない知らない、どうなっても知ーらないっ!」

「差し当たっては、ウラノス様に協力を仰ぐところからお願いしますね?」

「最初のハードルから目を背けたくなるような難易度じゃないか……彼の外出許可取る算段全く出来ないし……というか…………君も大変だな、猛者(おうじゃ)くんよ……」

「…………」

 鎧の代わりに男性用……間違いなく特注であろう給餌服に身を包み、無骨な大剣の代わりにトレイを手にした都市最強の武人は、何も言わず瞑目するばかりだった。

 

× × ×

 

「ヘスティア様ー。ギルドから書状が届いておりますー」

「うえー? 開けたくないよぉ……」

 命さんが受け取った封筒を、舌を出して渋面を作る神様に手渡した。わかりますわかります……税金納税我らの敵……! とかぶつぶつ言ってるリリの隣で封蝋に指を掛ける神様。僕も正直いい予感はしないけど……。

「わ、まーた強制任務(ミッション)だあ……なになにー? うーん…………ん? なんだこれ?」

「神様?」

 首を傾げる神様の頭上から失礼して、書面に目を走らせる。

「えーっと…………オラリオ郊外への派遣任務? しかも……」

「ベル様お一人で!?」

「ベル一人?」

 長い耳をピクリと揺らしたリューさんがすすすと僕の隣に立った。なんだか目付きが鋭い。

「わざわざベル一人を指定してんのか」

「これはまた珍妙な……」

「どういった用向きなのですか?」

 なんだなんだとヴェルフ、命さん、春姫さんも集まってきた。休養日の今朝は、もうそろそろバイトに行かなければならない神様以外はのんびりムード。朝食の片付けも後回しで歓談の真っ最中だった。

「えーっと、都市外でとても希少な薬草の採取? それをベル様に? Lv.5の第一級冒険者にぃ? 専門家が一人同行……しかも明日出発!? しかもしかも内容の割に報酬がいい……な、なーんですかこの胡散臭さしかない強制任務(ミッション)は!」

「確かに解せない。この内容でベル……第一級冒険者を指名する必要性は皆無だ。よほど強力なモンスターが周辺に生息しているのなら話は別だが、それにしたってベル一人を指名する理由がまるで見当たらない。専門家とやらが行くのであればそれで事足りるはず」

「ベル様は護衛、とかでしょうか……?」

「どうでしょうか……何れにしても、薬草や薬学に詳しい人物のいるファミリアこそ相応しいと思うのですが……近しい所ですとミアハ・ファミリアですとか」

「あいつらは無理だろ。なんか団員連中揃いも揃って体調崩してるらしいぞ。最近流行ってる風邪っぽい何かに罹ったとか」

「そ、それは知らなんだ! 見舞いに行かねば……!」

「リリ様、これは本当にギルドからの書状なのでしょうか?」

「封蝋も本物ですし、間違いないとは思うのですが……むむむーぅ……」

「ま、まさかっ! ベルくんとボクを引き剥がそうという誰かの」

「あ、ヘスティア様は黙っていてください」

「なんだとー!?」

 書状を持つ神様を真ん中に一気に騒がしくなる竈門(かまど)の館。姦しい輪の中で僕は、ある既視感に襲われていた。

 前にもこんな風に、一通の書状をきっかけに騒ぎになった事があった。

 その騒ぎからあれやこれやとあって潰れかけたり壊れかけたり死にかけたりと、ちょっともう勘弁で。な経験をしたんだったなあ。

「うぅ…………あ、あれ?」

「ベルくん?」

 手心を加える事なく殺さないというもはや拷問と称して差し支えないボコボコのボコを僕に経験させてくれた都市最強さんの姿を想起した所為で飛び出した冷や汗が、書状のある一節を読んだ途端に引っ込んだ。

「この辺りって……」

「目的地がどうしました?」

「僕が住んでた村の近くだ……」

 リリの驚いた顔が僕を見上げているが、視線を返す余裕はなかった。

「間違いないのですか?」

「はい。僕の暮らしていた村からなら歩きでも一日……馬車や荷車にでも乗れば半日掛からないで到着出来るかなって辺りです」

「その近辺に薬草が生えているという情報に覚えはありますか?」

「うーん…………あ。そういえば昔、この辺りにはお金になる薬草が生えてるんだってお祖父ちゃんに教えてもらったことがあります。実際に二人で採取に行ったりもしました」

「強ち、ベルを謀ろうってもんでもなさそうだな」

「うん……」

 春姫さん、命さん、ヴェルフに言葉を返しながら、やっぱり視線は縫い付けられたまま。

 ギルドからの公式な書状を怪しいなどと言うのもどうかと思うけど、確かに怪しい。依頼内容が真実なのだとしても、何かしら誰かしらの思惑を感じずにいられない。それでも。

「ベルは、どうしたいのですか?」

 僕の懊悩など見透かしているのだろうリューさんが、願望を引き出そうと柔らかな口調で問うてくる。

「……僕は」

「っていうかそれ、強制任務(ミッション)なんだろう? だったら従うしかないじゃないか」

 僕の答えに割って入ったのは、神様。さっぱりした物言いを良く思わなかったのか、顰めっ面を作ったリリが唸る。

「ちょっとヘスティア様ー?」

「まあ? 怪しさ以外何も感じないけど、今のベルくんなら多少の困難に襲われても大丈夫。そうだろう?」

「それはそうかもですけどぉ……」

「だったらっ!」

「わ!」

「里帰り、しちゃいなよ!」

 子供たちが作った輪を無理矢理に飛び出した神様は口の端を高くして、びしーっと僕を指差した。

「……いいんですか?」

「いいも何もない。元気な姿を見せることは育ててくれた村に出来る孝行の一つだ。ここ以外にも帰れる家が君にはあるんだ。大切にしなきゃいけないぜ?」

「家……」

 初めはボロボロの廃教会の隠し部屋。今では広くて暖かなホームに住み、知らない誰かにだって自慢して回りたい、愉快な家族に囲まれている。

 でも、そうか。正直に言えば、あんまり考えたことがなかったな。

 お祖父ちゃんと会えなくなって村を出て。二度とこの村には帰らないんじゃないかな。そう思った日が確かにあった。

 でも。お祖父ちゃんがいなくなってもあの村は僕の産まれた村で、お祖父ちゃんと暮らすことが叶わなくたって、あの家は僕の家なんだ。

 恵まれているんだ、僕は。帰る場所が二つもあるだなんて。

 気付かぬ間に、当たり前の事を見失ないかけていたのかもしれない。

「それに、ベルくんだってすっかりその気なんだろー?」

「わ、わかっちゃいますよね……」

「言っとくけど、ボクが神だからとか関係ないからね。だろ?」

 嘆息混じりの微苦笑を浮かべるリリ。僕の肩を叩いてニッと笑うヴェルフ。うんうんと大きく頷く命さん。モフモフの尻尾を大きく揺らし微笑む春姫さん。目を細め小さく頷くリューさん。

 言葉は無くとも雄弁に語る家族たちに、なんて事ないように胸の内を見透かされ気恥ずかしさを覚えてしまう。皆の視線から逃げるように前を向くと、神様と視線が重なった。

「とにかくっ! 折角の機会なんだ! 村の人々に見せておいで! 今の君を! そして伝えておいで! 君の冒険や君の家族のことを!」

 僕自身も神様もみんなも、この強制任務の裏にある何かしらの思惑を見極められていない。しかし、それでも行くんだと神様が言う。

「絶対裏がありますし、息抜きに里帰りしたらー? なんて気回しをギルドがするとは思えませんが、その気になってしまったのならばしっかり乗せられちゃってください、ベル様っ」

「出掛けるまでに装備は完璧な状態にしておく。安心して行ってこい!」

「留守は自分たちにお任せください!」

「戻ったら旅のお話をたくさん聞かせてくださいまし!」

「どうか無事に帰ってください。ベル」

 みんなも、同じ思いを口にしてくれた。

 不安を後回しにしてくれるだけの何かを貰った僕が返すべき言葉は、単純なそれだけでよかった。

「……はいっ! いってきます!」

 簡素な中にたくさんの思いを詰め込んだ言葉で答えると、頬の強張りがようやく剥がれ落ちたのがわかった。

 

× × ×

 

 薬学に精通している人物を一人同行させる。都市の外で合流。現地へは馬車で向かう。

 強制任務(ミッション)の内容も然ることながら、僕を困惑させたのはこれらの条項であった。

 ギルドに赴き採取すべき薬草の名称や特徴。叶うならば実物を見せてもらうなどして、徒歩での行軍を考えていたのだ。もちろん単独で。

 ふらりと歩いて帰れるような距離ではないとはいえ、今の僕ならば休息を挟みながらでも一日あれば辿り着けるのではと睨んでいた。それだけの行軍ならば鍛錬にもなるし一石二鳥なのになあ。

「どんな人なんだろう……一緒に行く人って……」

 過ぎたことに囚われていても仕方がないと思考を切り替える。ギルドの方で人材を宛行うということはギルドの関係者? それとも何処かのファミリアの冒険者? 性別は? そもそもどうして詳細が記されていないのだろう?

 そこまで考えこれはこれで考え始めたらキリがないと気付くも、なんとかなるさっ、と楽天的になれるような性分ではないので、脳内が忙しなくて仕方がない。お陰様でヴェルフが万全に整えてくれた戦闘衣の下には早速汗が浮かんでいる。そもそもどうして都市の外で合流なんだろう? 都市外の人の手を借りるのだろうか? 明確な期限が設定されていなかったけどいつまでに戻ればいいんだろう?

 考えれば考えるほど今回の強制任務(ミッション)の異質さが浮き彫りになる。ロキ・ファミリアの皆さんやフレイア・ファミリアの皆さんはこんなにもふわりとした強制任務(ミッション)に毎度遣わされていたのだろうか。いやきっと違うよなあ。うーん。

「エイナさんを訪ねた方が良かったかな……ん?」

 自分の冒険全てを支えてくれた姉のような人の笑顔を思い浮かべた所で、一台の馬車が視界に入ってきた。ゆっくり近付いてくるそれを凝視。

「違うか……」

 オラリオの方角からやってきたこと。遠目に見てもわかるくらいとっても品の良い衣装に御者さんが身を包んでいること。二人で乗るには大き過ぎていそうな籠を引いていること。その籠を引くのがなんか貴族の人とかが乗り回していそうな二頭の芦毛の馬であること。

「……うん、絶対違う」

 近付けば近付くほど自分で立てたふんわり検証が真実味を帯びる。だってこんな貴族貴族している馬車に乗る必要などないじゃないか。僕が向かうのはど田舎で、用向きだって言っちゃえば仕事だし。だから。

「お迎えにあがりました、ベル・クラネル様」

「はぇ?」

 目の前で件の馬車が止まったこと。御者さんが僕の前で恭しく一礼をしていること。やっぱりなんかすっごくお上品な馬車であったこと。

 これらは、いとも容易く僕を混乱に陥れた。

「ギルドからの依頼で貴方をお迎えにあがりました。どうぞお乗りになってください」

「え、や、あの」

「どうぞ」

「は、はいぃ……」

 悪意も敵意も圧も雑念もなく仕事に打ち込む眼差しに押し出されるようにして籠の中に滑り込んだ。扉を閉める所作でさえ凛としていて、なんだか萎縮してしまう。

「えと、えっと? えっとえっと…………すーっ……ふぅ……」

 何とかして混乱を傍に置いて、小さく息を吸って控えめに吐き出し、冒険モードのスイッチを強制的に入れる。

 この中に入ってしまった以上ジタバタしても仕方がない。相変わらず怪しさ満点ではあるけど、折角の帰郷なんだ。強制任務(ミッション)であることはもちろん忘れず、可能な限り思い出を詰め込んで帰ろう。春姫さんなんか特に聞きたがっていたし。

 何を隠そう僕自身、久しぶりの帰郷に心を揺さぶられているんだ。

 それは何も、良い方向にばかりではないみたいだけど。

「よしっ……! って、凄い……見た目以上に中が広い……!」

「本当、凄いですよねー」

 それこそ。既に乗車していた先客の存在に直ぐ気がつけないくらい、僕の心はフワ付いていたみたい。

「へ?」

 鞭が二頭の馬を叩く音や、蹄が地面を抉り出す音や、車輪が回り始めた音。重厚感のあるコーラスが、僕に告げた。

「おはようございます、ベルさんっ」

「シ、シルさん……?」

 逃げ場はないぞ、と。

「今朝は過ごし易いお天気になりましたね。このまま快晴を維持してくれるといいですねー」

「あ、はい。そうですね! って! 世間話してる場合じゃないです!」

「ちゃんと座らないと危ないですよ?」

「す、すいません…………だからそうじゃなくてぇ!?」

「ベルさんは今朝も元気ですねー」

 くすくす微笑むシルさんは、若葉色を基調とした豊穣の女主人の制服ではなかった。

 クリーム色とでも言えばいいのだろうフード付きのニットセーターは、ふわりとしたシルエットながらもシルさんの体の細さ……というか、胸部の輪郭をしっかり主張している。白黒チェックのロングスカートは膝の下まで伸びていて、シルさんの脚線美を覆い隠してしまっていたが、足元を見て理由がわかった。

 女の子らしいデザインが際立つ品ではあるが、動き易そうなショートブーツがシルさんの足元を彩っている。それこそ、山道を歩くにはとっても都合の良さそうな一品に見えた。

 私、山道歩きますよ? とでも言いたげな装備だし、シルさんの向かいの席に置かれた大きな鞄は、私、数日帰るつもりありませんから! と叫んでいるようにしか見えない。

 いやめっちゃ準備万端じゃないですかぁ!?

「せ、説明! とりあえず説明を!」

「その前に座ってくださいベルさん。本当に危ないんですから」

「は、はあ……」

「そっちじゃありません」

「へ?」

 自身の隣。人間一人が座るには丁度良さそうなスペースをペシペシと叩くシルさん。

「…………あの」

「ん」

「……えっと」

「んー」

「ですから」

「んーっ」

「…………お邪魔します……」

 頬を膨らませ始めたシルさんにあっさり根負け。着替えや日持ちする食料などを詰め込んだバックパックをシルさんに倣い向かいのベンチに起き、おずおずと腰を下ろした。

「はーっ! 久しぶりのベルさんだー!」

「はおあおおぉあ!?」

 座った途端、腕に抱き付かれた。そういうことしてきそうとは思いつつも、やっぱりそういうことされちゃったら驚いちゃう。僕なんてこんなもんです。

「会いたかった……会いたかったぁ……」

「シ、シルさん!? あのちょっと離し」

「本当にっ! 会いたかったですぅー!」

「え、ええ……?」

 会いたかったと言うシルさんの瞳に、涙らしきものが浮かんでいる。えと、そこまで? 言っても割と最近、豊穣の女主人で顔を合わせているはずなんだけど……。

「はあ……生き返る…………で、なんでしたっけ? 説明でしたっけ?」

「そうですそれですっ」

「んー、端的に言いますと、私がこの状況を作りました。ヘルメス様にお願いして」

「ヘルメス様ぁ……!」

 頑張れ少年! と白い歯を光らせたヘルメス様の幻が対面に見えた気がした。男神様に不敬は許されないと知りながらも一度くらい殴っても咎められずに済むのでは? とか考えてしまう程度には絶賛困り中。たすけて。

「あ、任務の内容は本当というか、重要な案件ですよ? オラリオ内で風邪より辛い、風邪みたいな何かが流行っているのはご存じですか?」

「話程度には聞いています」

 急且つ急速な発熱。しかもなかなか下がらない。下熱後もしばらく続く吐き気に倦怠感に頭痛などなど、歴戦の猛者たる冒険者たちでさえノックダウンしてしまうような病が冬近し故に空気の冷たくなったオラリオを犯しているのは知っていた。

 そういえばヴェルフが言ってたっけ。ミアハ・ファミリアの皆さんも被害に遭っていると。いよいよ他人事なんて言っていられないなこれは。

「どうやら最近発見されたばかりの病らしいんですけど、そんな病にも、特効薬と呼べる物が既に存在しているそうです。その材料というのが……?」

「今回の採取対象……?」

「正解でーす! 見事正解したベルさんには、強めのハグをプレゼントしちゃいまーす!」

「ほ!? ぬぅああああ!?」

 う、腕から! 胴へ!? 上半身しっかり包まれた! 顔近い! ニコニコしてる! 可愛い! すごい胸すごく当たってすごくすごい!

「名前や見た目はもちろん匂いまで目的の薬草の特徴は全て把握しました。つまりですねー」

「つつまつつまりぃ?」

「この旅の最中、私がベルさんのサポーター! ということですっ! ふふー!」

 鼻先が擦れ合いそうな距離で神様たちの仰っている、ドヤ顔とやらを見せるシルさん。いちいち可愛いけどいちいち近くて困るたすけて。

「で、でもどうしてシルさんが……その……り、理由? とか……」

「ベルさんと二人で旅がしたかったからと言ってしまえばそれが全てなんですけど、それに負けないくらい大きな理由がありまして」

「大きな理由?」

「それはですね……」

「それは……?」

「お休みが! 欲しかったからですっ!」

「…………へ?」

 僕の体を解放し、二つの握り拳を作り叫ぶシルさん。今日まで全く見たことのない力強過ぎる姿に、間抜け面を晒すしか出来ない僕であった。

「確かにですよ? 受け入れもしましたし望んですらいました。私はたくさんの人を傷付け、迷惑を掛けてしまった。だからこそ全てを受け入れ、全てを償っていこうと心に決めました。でも! それにしたって! あの日から一日もお休みがないって流石にどうかしてるじゃないですか!?」

「あの日ってまさか……」

「お店に復帰したあの日です! あの日から毎日、日の出前から日付が変わる直前まで働きっぱなしなんです!」

 あの大戦が終結し、オラリオを離れようとしていたシルさんがリューさんに頬を張られたその日から仕事に復帰したと聞いているから……もう一ヶ月以上、あの激務を続けているということ!?

「あれから毎日!?」

「そうなんです! お部屋に戻ってもお風呂入って寝る以外のことほとんどやれてないんですから! 冗談抜きで!」

「ひ、ひええ……」

「最近は流石に落ち着きましたけど、派閥連合の方々が連日連夜打ち上げにいらっしゃるものですからとにかく忙しくて忙しくて!」

「あ、や、あの、す、すいません……?」

 反応に困る文言だったけどやっぱり謝るべきだよねとか考えながら口にした謝罪は尻窄みな疑問系になってしまった。

「それは構わないんです。私としては複雑ですけど、お祝い事ですし? ですけど……私をおちょくってやろうと朝から晩までずーっと居座っていらっしゃる女神様たち! あの方々が大問題なんです! サボる隙間すら与えないようずーっと私を観察しているんです! ニヤニヤしながら! しかも私がお昼の休憩とかに入るや否や、ちょっとお使い行ってきてーとか! 謎アンケート取ってきてーとか! やりたい放題するんですよーっ! お昼ご飯すら食べるなと言うんですかね!? 本当何様なんですかあの人達……!」

「何様って、神様じゃ……」

「そんな事はわかってますっ!」

「すいませんっ……!」

 握り拳をワナワナと震わせ吠えるシルさんとかレア過ぎるしその上怒られるし怖いし。余計な事言わなきゃ良かった……!

「私を揶揄う目的で神様達がやってくる以上私がお店に出るしかないのはわかっていますが、流石にこれはやりすぎです! ミアお母さんを訴えたいまであります!」

「訴えるのはちょっと……」

「…………ということで。纏まったお休みを勝手に頂いちゃいました。てへっ」

「てへっ。じゃなくて! いいんですか!? そんなことしちゃったらミアさんのゲンコツだけじゃ済まないんじゃ……」

「その時はしっかり怒られます。あ、お店の方なら心配いりませんよ? 私の代わりにヘディンさんたちを総動員していますので」

「それ寧ろ心配になるヤツ!」

 シルさんの言い付けならばと懸命になって働こうとするんだろうけど……人材の増加に全然釣り合わないくらい問題の火種が増え過ぎてるまである。シルさん不在の間にミアさんの雷が何度落とされることになるのだろうか。それに応じた師匠(マスター)が比喩抜きで雷を落とし返したり……地獄地獄。想像図の端から端までたっぷり地獄。あまり考えないようにしよう。

「ともかく、もう出発してしまったんですから、楽しんでいきましょう」

「と言われましてもぉ……」

「不安ですか? 不満ですか? ならば回れ右します? 今頃、発狂したヘルンさんが私たちを探して街の中を駆け回っていると思うんですけど、それでも帰りますか?」

「ヘルンさんに伝えてないんですか!?」

「はい。その方がおも……ちょっと怖くてっ」

「いい笑顔で何をー!?」

 豊穣の女主人の制服に身を包み両手に刃物を携えて戦車の如くオラリオ内を激走している姿が容易に想像出来てしまう。というかこの人面白そうって言おうとしたよね!? こわすぎわらえないぜんぜんおもしろくないですほんと。

「それと、オッタルさんやアレンさんたちからベルさんに伝言です」

「で、伝言……?」

「えっと確か……私に不快な思いをさせたり、傷一つでも付けたなら、生まれてきたことを後悔させつつもう殺してと泣き叫びたくなるような責苦を天寿を全うするまで」

「わかりましたもういいです全力で努めさせていただきますよろしくお願いしますっ!」

「話が早くて助かりますっ」

 伝言が脅迫過ぎて冷や汗ドバドバ。やる。あの人達なら本当にやる。この人の為ならば。

 詰んだ。終わった。本当に逃げ場がなくなった。

「ほらほら、いつまでもそんな顔してないで楽しみましょう? 折角の帰郷じゃないですか」

「は、はあ……」

「それにですね、今日からしばらく、私とベルさんを監視する人は誰もいないんです」

「そ、そうなんですか!?」

「私たちに付いて来ないよう何度もお願いしましたので」

「お願いというか厳命では……?」

「細かいことはいいんですっ。だからですね? 特にオラリオに来てからは本当の本当に初めてなんです。誰の目からも離れた場所で、好きなことが出来るのって」

「シルさん……」

「本当に楽しみにしていたんですよ? こうしてベルさんと……大切な人と、二人きりで過ごせる時間を」

「あぅ……!」

 赤らんだ頬を隠さぬまま告げられる真っ直ぐ過ぎる想いの破壊力たるや。間違いなく赤くなってしまっているだろう頬を隠したくとも、しれっと僕の両手はシルさんに掴まれてしまっている為どうすることも出来ない。

「だからですね、少しの間……」

 僕の手を握ったままシルさんが俯いたと思ったら、小窓が閉じられているはずの馬車の中を緩やかな風が駆けぬけ、薄鈍色の髪が揺れ、銀の髪が踊った。

「へ?」

「私のわがままに付き合って。ベル」

「……フ、フレイヤ様……?」

 顔を上げたのはシルさんだけど、シルさんじゃなくて、でもやっぱりシルさんだった。

「こっちの姿で貴方に会うのも一月振りになるわね」

 その微笑みは、あの箱庭の中で何度か見せてくれた、悪戯っ子みたいな笑顔だった。

「え、えと……どうして?」

「私は都市外に放り出されたということになっているのだし、この姿でも問題ないでしょう」

 僕の手を離し、結われた髪を解いて背中に流し、長い脚を組むフレイヤ様。シルさんの時には見せない所作だ。というか、こういう普通の女の子な格好をしているフレイヤ様を初めて見る。新鮮だし、とても可愛らしいと思う。

「折角この姿になったのだから、(シル)の方ではなく(フレイヤ)の方で名前を呼んでくれるかしら。そういう旅にしたいと思うから。もちろん、貴方さえ良ければだけれど」

「それはいいんですけど……でも不味いんじゃ……各地にフレイヤ様が現れたとなると色々と……」

「たまにはいいじゃない。安心して頂戴。貴方の故郷には娘の方で入るから。面倒事を避けるべく衆目の前でも娘の姿でいるつもり」

「はあ…………ってそうじゃなくて……!」

「あら、認めてくれないの? 私は貴方たちに言ったはずよ?」

 女神を辞めたい、って。

「ぁ……!」

 女神の中の女神な尊顔を持つ女性が、二人だけの秘密を共有するみたいに、僕に耳打ちをした。

「だと言うのに、他ならないベルが私を女神扱いするの?」

「そ、そんなつもり……と、というかですよ!? その……御者さんの目もありますし……」

「ああ、あの子のことなら大丈夫。貴方と合流する以前に魅了を施しておいたから」

「何やっちゃってるんですかあぁぁあぁー!?」

「相変わらずコロコロと顔色の変わる子ね」

 至近距離で叫ぶ僕を見やりくすくすと笑っていらっしゃる。全然笑い事じゃないんですけどぉー!?

「だって仕方がないじゃない。女神を辞めたいと言ったって、この身は女神としての在り方と隔絶出来るものではないのだし。それに、こうでもしないと不都合だらけな旅になるでしょう? もう二度と使わないつもりだったけれど、今回は特例中の特例。ダメだったかしら?」

「ダ、ダメに決まってるじゃないですか……!」

「安心して頂戴。この旅が終わったらちゃんと魅了は解くわ。後遺症も残らないようアフターケアも徹底するから」

「だからそういう話じゃ…………もういいです……」

「あら? 呆れてしまった?」

「そうじゃなくて…………上手く言葉にするのが難しいです……」

 やっている事はフレイヤ様なのに、首を傾げあざとさ成分マシマシな懇願をする姿は、今日まで何度も見せられたシルさんのそれだったから。

 二面性とか別の人格とかそういうことじゃない。シルさんはフレイヤ様で、フレイヤ様はシルさん。

 改めて。しかも好ましい形で、突き付けられた。そんな気分だ。

「そう? だったら私の番。これからする質問は、ちゃんと言葉に起こして答えて頂戴?」

「は、はあ……」

「フレイヤとシル。どちらの私が好き?」

「はぁぁあぁ!?」

 と、止まらない! フレイヤ様の猛攻が留まる所を知らない! オラリオの誰よりも戦車してませんかこの人ぉ!?

「答えてくれないのかしら?」

「はぇっ!? そ、そのっ…………どっ、どちらも……僕にとっては」

「そういう堅苦しいのは不要よ」

「んな!?」

「単純に、見た目の好みはどちらかと聞いているの」

「み、見た目!?」

 女神のフレイヤ様と街娘のシルさん。どちらの見た目が僕の好みなのかときた。これ、神様たちがよくよく行っている、恋バナというヤツでの鉄板な話題では!? でもそれを僕に問われても……!

「ああ、ベルの好みが金髪エルフという事は知っているから、気負わず答えて頂戴」

「がああああああ!?」

「それなのに貴方が憧憬を抱いているのは金髪のヒューマン。ベルったら、金髪なら誰でも良かったりするのかしら? それなら私も金髪にしてみようかしら」

「やめてえええええ! 色々言うのやめてくださいいいい!」

「先から叫んでばかりね。ほら、教えて?」

 僕の頬に手を添え首を傾げている。楽しそうに微笑んでいらっしゃるけど……仮にどちらかを選んだとしたら、どちらかの姿で僕に怒ったりとかありそうでとっても怖い。

「…………ひ!」

「ひ?」

「秘密……ですっ……!」

 逃げ場がない中でも逃げを断行してしまった。目の前にいる人物は、子供たちの心をある程度透かして見れる人だと言うにも関わらず。

「……ベル?」

「は、はひ……」

「意気地なし」

「ら、らっへぇ……!」

 頬を抓られた。ちっとも痛くない代わりに、フレイヤ様の視線がとっても痛かった。

「まあいいわ。ベルの反応を具に観察していればわかることなのだし」

「あぅ……」

「それに……どちらの姿でも、私は私。なのでしょう?」

 貴方にとっては。

 そう付け加え、相好を崩した。

 女神を崇拝する誰かではなく。街娘に懸想する誰かでもなく。

 僕にとっての自分は、私たちで一人。

 フレイヤ様は、そう言っている。

「…………そうです。貴方は、貴方です」

 どっちがどうとか、今更考えるわけもない。さっきは秘密なんて口にしたけど、秘密なんて何もない。だって僕の胸の内はもう、醜いくらいに押し付けているんだから。

「ふふ……」

 本当の自分を僕に教えてくれたこの人にだって、僕への秘密なんてきっとない。

「さて。私も少し意地悪だったわね。とにかく楽しみましょう? 何度か言った通り、本当に初めてなんだから」

「旅が、ですか?」

 目を伏せ、首を横に振るフレイヤ様。

「…………フレイヤ様?」

 物憂げな表情を浮かべた事が気になり、覗き込むように様子を伺っていると。

伴侶(オーズ)を探す旅じゃなくて! 騎士(オーズ)と共に旅をすることっ!」

「うわっ!?」

 弾かれたように目を開いて、僕目掛けて飛び込んできた。首に回された二本の細腕がぎゅっと僕を引き寄せ、小窓から差し込む朝の光が産み落とす影が一つだけになる。

「フフフフフフレイヤ様ぁ!?」

「あはは……!」

 困惑する僕の頭を撫でたり、頬に頬を寄せたり、背中を摩ったり、腰に手を回したり。もうやりたい放題である。

 あの大戦以前のフレイヤ様からは想像も付かない奔放な姿は、あの大戦以前のシルさんならば想像が容易な姿だった。

 そんな姿が見れたことが、とても嬉しい。

「ねえベル。私の呼び方を変えてみない? 様付けなんて今更でしょう? 軽めなところで、フレイヤさんとか。あ! フレイヤちゃんなんてどうかしら!?」

「違和感凄まじいですねそれ!?」

「可愛らしいあだ名を付けてくれてもいいのよ? ベルなら大歓迎だから!」

「そんないきなり言われても……と、とりあえず離れてくださいっ……!」

 酷薄な女神の笑みでも、残酷な魔女の嘲笑でもない。今、ここにあるのは。

「もう少し堪能してから!」

 世界に一人きりの可憐な女の子の、無邪気な笑み一つ。

「…………そっか……」

 僕は、この笑顔を救えたんだ。

「楽しい! 早速楽しいわ、ベル!」

 僕を抱き締め離さない女の子にされるがままになりながら。

 僕らしくもなく、そんなことを思っていた。

 

× × ×

 

 天候にも恵まれ、大きなトラブルもなし。

 急に始まった二人旅は、極めて順調に進行した。

 シルさんにとことん揶揄われたり、フレイヤ様にとことん揶揄われたり、シルさんに寝込みを襲われそうになったり、フレイヤ様に寝込みを襲われそうになったり。

 旅程とは離れたところでのバタバタはあったけど、快調も快調。

 そして。

 出立から、二日と半日。

「ベル? お前……ベルじゃないか!?」

 太陽が高い間に、辿り着いた。

「本当だ! ベルだ!」

「ベルーっ!」

「というか女連れてるぞ!?」

「流石あのジジイの孫だなあ!」

 万感の思いを抱え故郷へ足を踏み入れた途端、農具や工具、収穫したばかりだろう野菜や麦を手にする見知った顔にずらりと囲まれて、村の玄関はあっという間に大騒ぎに。

「その…………ただいま……みんな……」

 大半がヒューマン。獣人が何人か。全員知った顔で、暖かな人達。今更照れるような間柄でもない。それなのに妙な気恥ずかしさを覚え、張り上げるつもりだった声も掠れ気味になってしまう。ほんと、何でこんなに緊張しているんだ僕は。

「おかえりー!」

「無事に帰ってくれて何よりだよ……!」

「何照れてんのさー!」

「だって……みんな久しぶりだし……わ、わわわ!」

「ベルー! ほんとにベルだー!」

「ちっと背伸びたんじゃねえかあ!?」

「ガタイも良くなったのお」

「い、痛い! みんな痛いって!」

 ビシバシ叩かれたり引っ張られたりやられたい放題。数ヶ月しか離れていなかったはずなのに、数年振りに帰ってきたかのような歓迎のされ方だ。

「わーお。ベルさん大人気ー」

 僕を囲む輪の外。先に宣言していた通りに街娘の姿で村へと足を踏み入れたシルさんが、嬉しそうに微笑んでいるのが見えた。

「いきなりどうしたんだお前!?」

「聞いてるぞ! お前の活躍!」

「あのヒョロっちかったベルが今じゃリトル・ルーキーなんて呼ばれてるんだって!?」

「バカ! それは古い方! 今はラビットフットだ、ラビットフット!」

「オラリオ最強のフレイヤ・ファミリアを潰したんだって!?」

「しかもしかもあのオッタルってバケモンにタイマンで勝っちまったとか!」

「何そのでっかい尾鰭!? と、とりあえずみんな! 先に僕の話聞いて! えっと……!」

 お祭り騒ぎを無理矢理ぶったぎり、急な帰郷の理由を掻い摘んで説明した。

 主目的が僕の里帰りみたいな雰囲気になってしまっているが、サポーターを名乗る人と二人で立てたプランに則った進行をしている。

 地図を見た結果、薬草の採取ポイントとオラリオのほとんど直線上に僕の村があることが判明したので、まずは村へ向かう。おおよその群生地を把握しているとはいえ直ぐに見つかるとも限らないし、悪天候などのトラブルに巻き込まれる可能性もある。なので、僕の家を拠点とし、必要ならば数度に分けての調査を行う。

 今日は村のみんなに顔見せをし、滞在の許可をもらい、拠点となる僕の家の掃除をするのが主目的。天候次第ではあるけど、本格的な調査は翌日とした。

『真っ直ぐ行って目的達成、そして即帰還。そんなの嫌よ? 旅行をするの、私と貴方は。二人きりで旅行を。もしかして貴方、私を村に置いて一人で薬草を採って来ようとか考えていたのではないかしら? ちょっとベル? どうして汗をかいているの? こっちを見なさいベル。ベル?』

 効率的に行くならその方が……と内心考えていたのだが、当たり前に見通され睨まれ圧を掛けられた。

『どうしてそんなに拘るのかって、少しでも長く、ベルと二人きりで過ごしたいからに決まっているでしょう。こうして隣り合っているだけで私がどれだけ満たされているかわかる? あら? ねえベル? どうして私を直視しようとしないの? 頬が赤いわよ? こっちを見て? ほら、ベル? ふふふ……』

 などなどを経て、僕が強気に出ずらい中で話し合いをした結果。

 一泊以上は必ずする。薬草の採取も二人で行う。という約束を取り付けることで矛を収めていただいた。

 無理矢理な形ではあるし、僕は巻き込まれた側ではあるけど、もう始まってしまった旅ならば、ちゃんと旅らしいこともしておかなければ損だ。

 それに、僕だって本当に久しぶりなんだ。居心地が良いながらも忙しない喧騒から離れ、穏やかで安らぐ時間の流れに身を任せるのは。

 オラリオに戻るということは、戦いっ放しの日常に戻るということ。

 だったら、今くらいはいいだろう。

 閑話休題。

「だからね、今晩から数日間、僕たちの家を拠点として使いたいんだけど……大丈夫かな?」

「お前の家をどう使おうと文句を言う者などおらんよ。好きにしたらいい。お前さんの家はそのままにしてある」

「ほんと!? ありがとう村長さん!」

「ああ…………ほんと、立派になったもんだなあ。あのチビっこが……」

 僕が生まれた時から村を治めている村長さんの変わらない笑顔が胸に沁みる。少し痩せたみたいだけど、元気そうで良かった。

「なあなあ! 堅苦しい話は抜きにしてよ、宴会やろう! 宴会!」

「い、いいよそんなの!」

「んな訳いくか! ベルが無事に帰って来ただけでもめでたいのに有名人になって帰って来たとなっちゃあ祝わずにはいられねーだろ!」

「ベルが嫌がっても勝手にやっちゃうから!」

「だ、だったらせめて夜にして! 家の掃除しなきゃだから!」

「えー?」

「まあ仕方ねえかあ」

「じゃあみんな! ベルを祝う為、さっさと仕事片付けちまおうぜー!」

 おーっ! と叫んで、村のみんなが散っていく……と思ったら。

「っていうか! この女性はどちらさんなんだよベル!」

「めちゃくちゃ別嬪さんじゃねえか!」

「か、かんわいいなあ……!」

 今度はシルさんの周りに人垣を作っていた。

「初めまして、皆さん。シル・フローヴァと申します。少しの間お世話になります」

 気圧される様子など全くなく、和かに自己紹介をするシルさん。あの酒場で働き続けている人なんだ、これくらいで気後れすることもないだろうけれど、とりあえず一安心。

「ね、ねえ! お姉さん! お姉さんっ!」

 大人たちの人垣を無理矢理こじ開けていった村の少女が、シルさんのスカートを掴んでにじり寄った。

「うん? どうしたの?」

「お姉さんは、ベルの恋人なの!?」

 き、来た! 絶対来ると思った! その手の質問! 

 予測出来ていたからこそ、事前に策を講じておいた。

『僕たちは……付き合ってるのかとか……恋人なのかとか……間違いなくそういう質問をされると思うので、しっかり否定してくださいね? 絶対面倒な事になるので……』

『えーっ?』

『お願いしますね!?』

『はーい』

 納得いかないなあを全然隠さないまま、それでも了承してくれた。首を縦に振った以上、約束は守ってくれるだろう。

「ううん。お付き合いとかはしてないよ」

「はあ……」

 安堵のため息と共に小さく拳を握る。お陰様で、当面の面倒事は回避出来そうだ。

「違うのー?」

「なんでえ」

「残念じゃなあ……」

「お前の祖父さんが見たら羨ましいぞそこ変われって泣き叫びそうなくらいの美人さんだってのに」

「確かにお祖父ちゃんは言いそうだけど! 僕とシルさんはそういう関係じゃないよ」

「本当にぃ?」

「ベル、照れてるだけなんじゃない?」

「て、照れてなんかないって!」

「ベルさんの仰る通りです。私たちはそういう関係ではありません」

「そ、そうそう! シルさんはこの旅で」

「えいっ」

「僕のおおおおっ!?」

 サポーターを務めてくれる人なんだ! と言おうとした口から、みんなのことを咎められないくらい大きな声を出してしまった。だって、無理矢理に人垣を突き抜けたシルさんが、僕の腕に絡み付いてくるんですもの。

「私は、ベルさんの奥さんです!」

「んなあぁぁあぁぁあ!?」

「奥さん! なんですっ!」

 大事なことだから二回言いました!? とってもいい笑顔で!? なんでー!?

「ほ、ほんとにー!?」

「その年で嫁をもらうなんてやるなあベル!」

「子供の予定はあるのかい!?」

「ち、ちが…… みんな聞いて! 違うんだって! あの……シ、シルさぁん!?」

「なんです、貴方?」

 だって、これは禁止事項に入っていませんでしたよね?

 とでも言いたげなわるーい笑顔。

 た、確かに! 婚姻済みとか夫婦とかそういうワードは出さなかったけどさあ! そこはもう雰囲気でわかって欲しいというか……!

「か、可愛く首傾げたってダメですっ!」

「何のお話ですかー?」

 そうですよね! シルさんってこういう人でしたよね!

「あ、子供の予定はありますよ? なんだったらこの後……きゃっ」

「ちょっとおおお!?」

 シルさんから飛び出した爆弾発言の連鎖が生み出した衝撃は、しばらく収まることはなかった。

 

× × ×

 

「ここです」

 醜く荒れ果てていた、なんてことはなく。

 半年振りに目にしたその扉は、何も変わっていなかった。鍵なんてものは付いていないから、押すか引くかで誰にでも簡単に開けられてしまう木造りの扉。竈門(かまど)の館での暮らしからは想像も出来ないような安全性の無さ。

 これが、僕の当たり前だったんだなあ。

「ここがベルさんの……」

 村のみんなに長時間囲まれても疲れた素振りを見せて来なかったシルさんの声が、小さくなった気がした。

「……少し埃っぽいかもしれません……」

 断りを入れ、相変わらず立て付けの良くない扉を引く。ぎいっと重たい音。取り込んだ外光に照らされた室内は、僕が最後にこの扉を閉めた日と何も変わっていなかったけれど、やっぱり少し埃っぽい。

「……どうしました?」

 扉を開けたのに踏み込もうとしない僕の様子が気になったのか、覗き込むようにして僕の表情を窺うシルさん。

「……なんか…………よくないですね……」

「え?」

 これは、感傷だ。

 ただの感傷。されど感傷。

 でも。今はそういう時じゃない。

「んっ!」

「べ、ベルさん!?」

 ぱぁん! と響いた乾いた音に目を丸くするシルさんの隣には、両頬に大きな紅葉を作った僕。力加減を間違えて頬を叩いてしまったみたいだ。ちょっとだけ涙が出てしまったのはその証左だろう。

「…………よしっ! ただいま!」

 大股で一歩踏み出して、半年振りに我が家へ帰ってきた。

「ふふ……お邪魔しますっ」

 僕から一歩遅れて部屋に入ったシルさんは、朗らかに微笑んでくれていた。

「わあ……ここがベルさんのお家なんですね!」

 石と木で作られた原始的な家には、村のみんなと伐採した木から作った長机や椅子。食器の殆ども同様。大きいけどぼろっちいベッド。あちこちほつれてしまっているソファ。木張りの床に申し訳程度に敷いている絨毯は安っぽくて埃っぽい。

 相変わらず、何もない。でも。

「落ち着くなあ……」

「何か言いました?」

「い、いえ! その……何もない家ですいません……」

「素朴でいい所じゃないですかー!」

 頑張ってよく言ってくれてるなあと空笑いを溢しながら壁に掛けたランタンに火を付ける。日当たりもイマイチで窓の数も少なく、魔石灯なんて当たり前にないこの家じゃあ、早い時間から火を付けないと暗くなるのが早いから。後で薪を用意しないといけないな。石囲いの暖炉にも仕事してもらわなきゃだから。

「あ……」

 視線が引っ張られた。産まれたての炎のゆらめきに照らされた長机の上へ。

「…………」

 お祖父ちゃんが手作りしてくれた物。行商の人から買った物。

 英雄の冒険譚。魔女と王子の冒険活劇。騎士と姫の愛の物語。道家の喜劇。騎士の忠義の抒情文。他にもたくさん。

 ベル・クラネルの基盤が、変わらずそこにあった。

「あの……」

「…………」

「ベルさん?」

「……え?」

「荷物とかどうしたらいいでしょうか?」

「あ、はい! 荷物はそっちのテーブルに置いてください。そうだ! 洗濯物があるなら家の裏から川に出れるのでそこで洗えます! 問題なければ僕が引き受けますので! とりあえずベッド周りのものはこの後直ぐに洗濯してきます! 飲み水は村の真ん中に井戸があるのでそこを使います。あとで汲んでおきますね! シャワーの時は言ってください! そっちの奥にシャワーがあるんですけど、水も含めて色々と用意がいるので!」

 気を入れた直後にあっさりと感傷に再タッチしてしまった事が恥ずかしかったらしく、自然と早口気味に捲し立ててしまっていた。

「夕方になったら本当にみんなが迎えに来るでしょうから、それまでに布団とかは絶対洗っておかないと。あとは」

「ベルさん」

「はい?」

「ないんですか?」

「何がです?」

「カーテン」

「あ、ああ……そういえば……」

 鍵を開けっ放しでも何も起こらないこういう村で、共に暮らしているのがああいう人達だから気にしたことがなかったけど、なるほど確かに、あって当たり前の物がなかったや。

「えと……気になりますか?」

「うーんやっぱり気になっちゃいますねー。これから子作りをするわけですし?」

「シルさんシルさんシルさーん!?」

「それはその時の流れとして」

「どんな流れ!?」

「気楽にあっちの姿でいるためにも欲しいなあって。裁断しても構わない布はありませんか? あるなら私が作っちゃいます。簡素な物にはなりますけど」

「布ですか? どうだろう……探してみますね」

「お願いします……けどっ! 一先ずはお掃除をしましょう!」

「い、いいですよ! 僕一人で」

「私もお世話になるんです! そんな訳にいきません!」

「ですけど」

「そういうの無しです! とにかくやりましょう! お店で鍛えた私の掃除力を見せて差し上げます!」

 袖捲りをしてやる気満々をアピールしていらっしゃる。これは、僕が折れるまで追い縋ってくるんだろうな。

 いや、違うか。何が違うって、僕が違う。

 一緒に旅を楽しもうというのに、シルさんの旅から自由を奪おうとしている僕が、何もかも違う。

「じゃあ……お願いします。とりあえず、窓全部開けちゃいましょう」

 若干の申し訳なさを覆い隠すだけの高揚と緊張に身を委ね、シルさんと向かい合った。

「ふふ……なんかいいですね、こういうの」

「はい?」

「新婚生活みたいで!」

「はえ!?」

「窓、開けまーすっ!」

 快活に笑い、勢い良く窓を開け放つシルさんに倣い、真っ赤に染まっているだろう頬を隠すことも諦め、僕も袖を捲った。

 

× × ×

 

「ベル! 飲んでるか!?」

「最初の一杯だけだよ……」

「かーっ! お前が飲まんでどうするか!」

「主役が大人しくしてんじゃない!」

「酒樽空にするまで今日は寝かさんからな!」

「か、勘弁して!」

 神様たちの言うあるはらとやらをバチバチに受けている。飲めないということはないし、まだ子供だからちょっとなんて言うつもりもないけれど、体調を万全に保たなければならない以上、みんなに調子を合わせてもいられない。

「わあ、美味しい!」

 何せ、僕の隣で頬を緩めているこの人に何かあったら拷問だから、僕が。二日酔いの影響で肝心な時に何も出来ませんでしたなんてわけにはいかないのだ、絶対に。

「いい飲みっぷりじゃないか! シルちゃんはイケる口だなあ!」

「これでも現役で酒場勤めをしているので」

 ちょっと得意気なシルさんの右手には麦酒がなみなみと注がれたジョッキ。自分なりのペースで飲んでいるご様子だけど、僕が意識してストップを掛けていかないと。

 太い丸太で組まれた焚き火が僕たちを赤く照らす傍で、村のみんなは大騒ぎ。その真ん中は常に僕とシルさん。

 楽しかったことも辛かったことも痛かったことも。あれもこれもそれもどれも話したけれど、まだまだ話せることが出て来る。

 面白い。何だそれおっかないな。よく無事だったな。すごいな。もっと聞かせろ。

 みんながそう言ってくれる。お陰様でまだまだ話が尽きそうにない。しかし、異端児(ゼノス)たちの件など、話してはいけないこともある。一線を越えないようにせねば。

 ちなみに。村の子供達や興味津々な大人たちにせがまれて、出力を抑えに抑えたファイアボルトで丸太に火を点けた。初めて見る魔法に大興奮した子供達が今も、ふぁいあぼるとー! と叫んでいるのが愛らしくて仕方がない。少しの恥ずかしさと引き換えに可愛らしいものが見れたと思えばお釣りが来て尚余る。

「ほらベルさん。もっと飲みましょう?」

「いえ、僕は……」

「そう言って、酒場に来てくれた時も全然飲んでいかれないじゃないですかー」

「だって……」

「そうなのかい?」

「そうなんですよー。ベルさんのお仲間さんは飲んでいかれるのにベルさんだけは全然なんですよ。酔ったベルさんを見たことありません」

「そ、そうでしたっけ?」

「そうですっ。あ。そういえばベルさん?」

「なんでしょう……?」

「随分前に食い逃げをしたあの時は酔っ払っていたんですか?」

「な!?」

 また爆弾しっかり爆弾すっごく爆弾! あ! くすくす笑ってる! 楽しそう! よかったね! うん何もよくないね!

「なんだとお!?」

「食い逃げだあ!?」

「俺たちゃお前をそんな風に育てた覚えはねーぞ!」

「違うんだって! それは誤解……じゃないかもですけど! 知り合って間もなくのことを言ってるなら直ぐに支払いに行きましたよね!? オーナーさん含めて許してくれましたよね!?」

「そうでしたっけ?」

「シルさーん!?」

「俺たちのシルちゃんを困らせやがって!」

「シルちゃんを傷付けるなんて何様のつもりだお前ぇぇぇ!」

「はいはい皆さん落ち着いてくださいねー。今思い出しましたけど、その話はちゃんと解決したんでした」

「な、なんだあ……」

「シルちゃんがそう言うなら……」

 か、完全に戦場を掌握している……! 俺たちのシルちゃんとか言われてる……! 村のアイドルになっちゃってる……!

「それも懐かしい話ですよねー。あの時のベルさんは、駆け出しも駆け出しでしたっけ」

 尚も村のみんなに睨まれている僕に体を寄せ、シルさんが笑う。楽しい。悪戯してやろう。そういうのが透けて見えまくっている。逃げ場、どこ?

「駆け出しってことは、二人はベルがオラリオに着いて直ぐくらいからの仲ってこと?」

「ええ。始まりは私の……一目惚れでした……」

「はうっ!」

 僕の肩にしなだれかかり、とろんと潤んだ上目遣いで僕の寿命を縮めに掛かってくる。この人やっぱり魔女かもぉー!?

「な!」

「一目惚れだぁ!?」

「そうなんです。それから、お仕事に行くのがとっても楽しくなりました。お弁当を作ってベルさんに手渡し始めたのもこの頃からでしたね」

「新妻じゃねえか!」

「羨ましすぎて吐きそう」

「それ単なる飲み過ぎ!」

「続き! 続き聞かせてよシルお姉ちゃん!」

「うんっ。それでね……」

 村の少年に急かされて、シルさんの饒舌が加速する。

 村のみんなに羨ましいと怒られたり、ひゅーひゅーと囃し立てられたり、シルさんに揶揄われたり、気恥ずかしさに僕が身悶えしたり。

 能弁家であるシルさんにばっちり振り回されながらだけど、それでもシルさんの語る少しだけ昔の話の数々は懐かしくも面白くて。村のみんなも笑ってくれている。

 そんな歓談が少しだけ途切れた所で。

「なあベル」

 話の腰を折りに行く自覚があったのか、僕が産まれた日から面倒を見てくれているおじさんが、少し遠慮がちに口を開いた。

「うん?」

「聞かせてくれや。お前さん、こっちに帰って来るつもりはあんのかい?」

「え?」

 村のみんなも気になるみたいで、雑談の調子を落として聞き耳を立てはじめた。僕の隣でちびちびと麦酒を煽っているシルさんも同様に。

「その……今は全然考えてなくて……」

「まだしばらくオラリオにいるってことか?」

「うん……」

「そうなんかあ……ベルが村に帰ってきてくれりゃ活気が出るんだけどなあ……」

「人手も増えるし、実際大助かりよね」

「年配かガキばっかになってきたもんなあ、うちの村」

「足腰やってるジジイばっかで頼りないったら!」

「言うな! 騙し騙しやっとるわ! 褒めろ!」

 しばらくというか、多分この先もずっと。

 それを口にするかどうするかと悩んでいる間に、僕を囲む哄笑の壁が高くなっていく。

 悪意はない。善意がある。死活問題に準ずる打算もある。

 僕の歳の人間が村にとってどれだけ貴重な人材かなんて、この村の一員だった僕に理解できないわけがない。それに……。

「ベルの兄貴分たちも冒険者になるだの漁師になるだの世界を旅してみるだのと、パタパタと村を出ちまったよなあ」

「ベルが出て行ったくらいに立て続けだったっけか」

 そう。村に入ってから数時間経つけれど、僕と近しい年齢のお兄さんやお姉さんの姿をあまり見掛けない。代わりに、老齢の方はたくさん目に付く。

 この村は、人手が足りていない。若い力が圧倒的に不足しているんだ。

「そうだったんだ……」

「お前さんに触発されたんかなあ」

「ちょっと、そういう言い方やめなさいよ」

「ベル? 気にしなくていいんだからね?」

 何かと僕とお祖父ちゃんを気に掛けてくれていたおばさんたちが間に入ってくれた。気遣いへの感謝より、最後に見た姿よりもずっとこけてしまった頬や、くっきりと骨の輪郭が浮いた手の甲などが気になってしまい、気の利いた返事の一つもできなかった。

「ベルさんほどの冒険者が村に戻ってくれれば皆さん大助かり。それはわかります。ですがごめんなさい」

 黙りを決め込む僕の代わりにシルさんが間を埋めてくれた。

「どうしてシルちゃんが謝るんだい?」

「だってベルさんには、オラリオで私と幸せになる予定がありますので!」

「!」

 僕の右腕に、シルさんの左腕が絡み付いた。怒気で赤らんだ声だったり喜色を帯びた黄色い声だったりと、盛り上がる村のみんなを視界に収めた僕は、大層驚いて驚いて……それだけだった。

「……ベルさん?」

 隣を確認しなくても、気遣しげな眼差しが僕に注がれていることがわかる。

 こういうとこ、僕は下手くそだよなあといつも思う。

 浮き沈みとか、誰にだって見抜かれてしまう。というか、見せてしまう。そんなことしたくないのに。

 もう少し大人になれば、僕でも出来るようになるのかな。神様たちの言う、ポーカーフェイスってヤツ。

「……僕も……」

「はい?」

「貰おうかな、麦酒」

「……大丈夫なんですか?」

「もう少しだけなら。おじさん、僕も貰っていい?」

「当ったり前だろう! ほらみんな見ろ見ろ! ベルがイッキするってよ!」

「そ、そんなこと言ってないからね!?」

 少しだけ硬質化した感のあった雰囲気が、祭りの熱気へ再点火。

 そこからはもう酷いものだった。

 本当に麦酒を一気飲みさせられたり。飲み終えた途端に溢れるのも厭わずおかわりを注がれたり。酔っ払ったおじさんたちのケンカに巻き込まれたり。僕とシルさんの子供が見たいと主に年配の女性たちが騒いだり。やっぱり今夜仕込みましょう! とかシルさんがノリノリになっちゃったり。

 誰もが終わりの時を迎えるのを良しとしなかった宴は、参加者のほとんどが寝落ちしてしまった深夜まで収束することはなかった。

 その最中。

 最後まで僕の腕を離そうとしなかった女性が、浮かない表情を誤魔化すように笑みを貼り付けていたことは、僕だけが知っている。

 

× × ×

 

「ふらふらする……」

「わ、私もですぅ……」

 懸命な掃除の末に埃っぽさがすっかり解消された僕の家は、冷たい夜の空気で満たされていた。

「ただいま……」

「ただいまです……」

 真っ直ぐ歩けませーん。と笑顔で告げたシルさんと繋いでいた手を放し、薄手の布を裁断して制作されたシルさん手製のカーテンを下ろし、外光の支配に待ったを掛ける。

「少し冷えちゃいましたね。オラリオより冷えるんだなあ……うう……」

「ですね……」

 暖かそうなセーターの袖口からちょこんと飛び出した手を擦り合わせるシルさん。

 愛らしい小動物みたいだ。

 そう溢しそうになるのを抑え付け、てきぱきと暖炉に薪を置き、そそくさと火打ち金で点火。産声代わりに煙が上がり始め、暖かな光がゆっくりと広がっていく。

「小動物みたいなのはベルさんの方じゃないですか」

「当たり前みたいに心読まないでください……」

「ベルさんがわかりやすいだけです」

 暖炉の前で屈んだシルさんを他所に、昼から部屋干ししていた布団やタオル類を回収する。乾いてくれていて一安心だ。夜の空気に当てられて少し冷たくなってしまったけど、生乾きよりいいだろう。

「ベルさんベルさん」

 僕が布団等を畳み終えるのを待って、ちょいちょいと手招きをするシルさん。

 私の隣、空いちゃってますよ? 一緒に暖まりましょうよ。

 神様じゃない僕にだって、シルさんの心が透けて見えた。

「じゃあ……」

 よいしょと、失礼しますの代わりにわざとらしく呟きながら上着を脱ぎ、本当に寒そうにしている肩に掛けてみた。

「な!?」

 正解の一つだったらしく、目を丸くするシルさんと視線が重なった。

「……えいっ」

「あたっ」

 ぽこんと、軽めのぐーを肩に頂戴した。こんなに直球な照れ隠しを披露するシルさん、めちゃくちゃレアなのでは?

「ヘディンさんの監視の外でベルさんらしからぬ紳士さ……お酒パワー恐るべし……!」

「僕はなんだと思われているんですかね……」

 微苦笑を吐き出しながら膝を降り、暖炉の前でシルさんと横並びになる。

「温かいですね」

「ええ。ベルさんのお陰で」

 目を弓形にしたシルさんが、肩に掛けられた上着をパタパタしてみせる。頬が赤く見えるのは暖炉が生んだ光に照らされているから、だけではなさそうだ。

「はあ……楽しかったなあ……」

「シルさんがあんなにお酒を飲んでるの、初めて見ました」

「酒場ではあまり飲みませんからねー」

「楽しかったなら何よりですけど、ああいう発言、本当に気を付けてくださいね? 小さい子供もいるんですから」

「ああいう発言ってどんな発言ですか? ちゃんと教えてください。なんなら実践形式で私の体に叩き込んでくれてもいいんですよ?」

「絶対わかってて言ってますよね!?」

「わかりませーんっ」

 ふざけた調子で左右にゆらゆらと体を揺らし始めるシルさん。規則正しいリズムで僕に衝突する華奢な肩が。ふわふわと僕を擽る綺麗な髪が。ぬくもりを分けてくれた。

「さっきはどうしたんですか?」

「え?」

「ベルさん、いきなり張り切って飲み出すから何事かと思いましたよ。私も釣られて沢山飲んでしまいましたし」

「ごめんなさい……」

「これっぽっちも怒ってなんかいません。ただ、どうしてかなって」

「……地元の味をあまり知らない、って思って」

「地元の味?」

「それに……僕が飲んだあの一杯を作る為に、今のみんながどれだけの苦労をしているのかも僕は知りません」

 姿勢を崩し、胡座になる。合わせるように隣の人は横座りになり、暖炉に視線を縫われた僕の横顔を見つめているご様子。

「こういう村なので、みんなで助け合わないと生活が回らなくなるんです。それなのにこの村、若い人が少ないじゃないですか」

「言われてみれば……」

「だから、年配のみんなの負担が凄くって」

 お祖父ちゃんがいなくなった時。村のみんなは一頻り悲しんだ後、更に足りなくなった人手をどうしようかと幾度となく相談していたのを覚えている。みんなと同年代のお祖父ちゃん一人の穴でさえ、僕たちの村には致命的な損失になる。

 だからこそ。

「自惚れるわけじゃないんですけど、僕みたいな若い人材ってとても貴重なんです。特に僕は、お祖父ちゃんと会えなくなってから何もすることがなくて、ひたすら畑仕事に打ち込んでいましたから」

 僕までいなくなったのは、村にとっては大打撃だったことだろう。

 お祖父ちゃんを失った頃の僕は、やりたいことなど全くせずに、やらなきゃいけないことしかやっていなかった。お祖父ちゃんがずっとやっていた事だから、僕がやらなきゃいけないんだ。誰に言われるでもなく、自然にそうしていた。

 そこに、村の為になんて考えはない。

 ただ、自分の為。停滞してしまった心を見て見ぬ振りする為。

 寂しがりな僕は、見えもしないお祖父ちゃんの幻影に甘える事でしか日々を繋げなかった。

 自発的にしていたやりたいことなんて、お祖父ちゃんが残してくれた冒険譚に触れるくらいだったろうか。

 そんな僕の姿に思う所はいくらでもあったと思う。それでも、あの日々の僕の働きぶりは、村のみんなを助けるものだったろう。

 しかし。

「けれど僕は、村を飛び出してしまった。オラリオに行って、冒険者になるからって」

 心配されたし反対もされた。それでもいざ出立の日となると、寂しさを滲ませながらも、みんなして快く送り出してくれた。

 きっと、僕に言いたかった言葉の一部を飲み込んだまま。

「だから……」

「ここへ帰ってくる事が、怖かった?」

「……少しだけ」

 それだけです。

 小さく付け足してふぅと息を吐くと、暖炉の炎が大袈裟に揺れた。

 みんなに合わせる顔がないなあ、とか。

 みんなが僕の力を求めてくれるなら、その手を拒むことが出来そうにない、とか。

 村に近付けば近付くほど。考えれば考えるほど、怖かった。

「……少し飲み過ぎちゃったかもしれません。喋り過ぎですよね、ごめんなさい」

「謝ることなんて何一つないです。聞かせてもらえて嬉しいくらいなんですから。ベルさんって、自分の話をあまりしてくれない人ですし」

「そうですか?」

「そうなんです」

 言葉通りの喜色が隣で咲いている。それを直視出来ず、逃げるように暖炉と睨めっこを再開した。

「オラリオでもこの村でも、たくさんの人々に期待されているんですね」

「そうでしょうか……」

「期待されているんですよ、ベルさんは」

「…………」

「ベルさんだって……」

 ふっと風が走り、暖炉の火が揺れた。

「わかっているのでしょう?」

 フレイヤ様が、優しい笑みを湛え、僕の顔を覗き込んでいた。

「……どうでしょうね……」

「動かないで」

「……ぁ……!」

 驚愕と混乱と動揺の混ぜ物はまともな言葉の形にならず、僕の上着がフレイヤ様から滑り落ちた音にさえ掻き消された。

 僕の胸を掻き抱く二本の細腕。背中に押し付けられ形を変えている鼓動の在処。吐息を産み落とす唇はほとんど僕の耳に触れている。

 二人が一つになったと錯覚してしまうくらい強く、それでも優しく。フレイヤ様は、僕を抱き締めた。

「フ、フレイヤ様……!?」

「信頼だったり、友愛だったり、親愛だったり……」

 恋だったり。

 その囁きは、小さな少女が、自分だけの秘密を耳打ちしてくれるみたいで。

「様々な形、様々な呼称。示し方、伝え方も様々だけど、貴方の家族や仲間たちが貴方に抱いているものの根幹は、きっと変わらない」

「あ、あの……」

「貴方が好きなのよ。貴方を支えている人々は。もちろん私も。私の場合、貴方を想う子たちよりもずっと重ためな想いだけど」

 言葉に詰まり何も言えなくなる僕の緊張は、穏やかな軽口と共に頭を撫でてくれた誰かの右手のお陰で少し緩和された。

「……怯えないで。迷わないで。私は……私たちは。走り続けている貴方が……」

 いつかと似ていて、少し違う。けれど確かに覚えのある言葉。

「……今なら違うわね」

「?」

 しかし。覚えのある結びの言葉へ続かない。

「ベル」

「……はい」

 フレイヤ様から解放された体を反転させ、正面からフレイヤ様と向き合う。フレイヤ様は、やっぱり微笑んでくれていた。

「怯えてもいいの」

「え?」

「迷ってもいいの。立ち止まることが必要な時だってある」

 フレイヤ様の左手が、僕の右頬を撫でた。

「大丈夫、大丈夫よ。貴方は、再び走り出すことが出来る男の子だもの」

 今度は右手が、僕の左頬を。

「そういう貴方だから、私はベルに心惹かれたの」

 羞恥に悶えることも、動揺を吐き出すことも叶わない。

「苦しいわよね。困っている誰かを放っておけない貴方には」

 助けを求められたら、助ける。求められなくたって、助けたい。

 助けないという選択肢は、僕にはない。

 それでも、この村の力になるべくオラリオを離れるという選択だけは、どうしても是とすることが出来ない。

 僕は、どうしたらいいんだろう。

「少しの間でいい。今は足を止めなさい。吐き出し方を忘れる前に弱音を吐きなさい。そして考えなさい。また、貴方らしく走り出すために。だから……」

 両の頬が、ぐいっと引き寄せられた。

「今夜くらい、私に甘えておきなさい」

 僕の額が辿り着いたのは、フレイヤ様の肩口。チクチクと額を騒がすニットの感触が心地良い。そのまま背中に両腕が回され、またも僕らは一つになった。

「ベルは、私を抱き締め返すことは出来ない。ならばせめて、私に抱かれていてね」

 ぽんぽんと、小さな赤子をあやすみたいに背中を叩き、撫でてくれた。

 僕が本当に小さかった頃、お祖父ちゃんが僕にしてくれたのと同じように、何度も何度も。

「何か、言いたいことはある?」

「…………いつも……励ましてくれてありがとうございます……」

 本当に今更かもしれないけれど、まず何に置いてもこれだけは伝えねばと、頭の何処かでそう思った。

「それだけでいいの?」

「はい……」

 今は。

 そう付け足してしまいそうになった自分の弱さを、弱い言葉ごと飲み込んで。

「ぁ……!」

「本当に……ありがとうございます……」

 フレイヤ様の背中に、両手を回した。

 僕は、フレイヤ様の想いに応えられない。彼女にとっては残酷なことだとしても、それでも。

 だからこれも、いけないことをしている。如何にも偽善者の僕らしい、甘っちょろくて傍迷惑なエゴ。

 けれど。信頼とか、友愛とか、親愛とかならば、応えていい。違う。

 応えなくてはいけない。

 それがまた、誰かを苦しめることになるのかもしれなくとも。

 恋の不出来と情の不義理を一緒くたにしてしまうのは、僕にはちょっと出来そうにない。

「……相変わらず、不器用な子」

「フレイヤ様だって」

 気取らず、けれど少しだけ萎縮しながら、思ったままを口にしたら。

「その通りね。本当……その通り……」

 一層強く僕を抱き締めて。

「ふふ……あはは……!」

 僕にしか聞こえないくらいの細さで、フレイヤ様は笑った。

 上手く言えないけれど。

 そうして笑ってくれたことが、無性に嬉しく思えた。

 

× × ×

 

 翌朝。

 僕を苛む頭痛を見ないふりをして、朝日が登るよりずっと早く、ソファの上で目を覚ました。

「いってきます……」

 掛け布団の中で穏やかな寝息を立てるフレイヤ様を起こさぬよう顔を洗って歯を磨き、神様のナイフと白幻を握って外に出る。お祖父ちゃんが作ってくれた揺り椅子や遊具の数々に意識を持っていかれそうになるのを堪え、家の裏手から川沿いまで歩く。ここまでくれば騒音であの人の眠りを妨げることはないだろう。

「ふぅ…………よしっ……!」

 両手に装備した獲物を構え、仮想の敵に向けて飛び掛かる。

 対峙するのは、美しい金髪を靡かせ、舞うように闘争へと身を投じる戦の姫ではない。あくまで、今日は。

 僕の前に立ち塞がっているのは、猛者(おうじゃ)の異名を持つ、オラリオ最強の冒険者。

 僕一人ではまともな勝負にもならなかったあの人にいつか、自分一人で。

 遼遠過ぎる目標をこっそり抱えてしまったことは、誰にも話していない。

「っ! くぅ……! はっ!」

 持てる最高の速度で撹乱に掛かるも掴まれ、殴られ、蹴り飛ばされ、何度でも投げ飛ばされる。

 仮想の中なのに僕が優勢に出られる場面が何一つイメージ出来ない。ひたすらボコボコにされるイメージなら容易いのに。

「そりゃ……そう……だよねっ……!」

 僕一人じゃ攻勢どころか無様に跳ね回るばっかりだったし、そうまでしても凌ぐことすら出来なかったんだから当然だ。

 まずは、背中に携えているのに抜く姿勢を一切見せないあの大剣を抜かせる。小目標の一つだ。その為にも。

「切り傷の一つでいいから付ける……!」

 あの人が隙を曝すなどあり得ない。そもそもの力量が違い過ぎる。

 せめて一撃……なんて贅沢は言えない。ほんの先端だけでもいい。土を付けるでも冷や汗をかかせるでもいい。僅かにでもあの人の目の色を変えられる、楔の一閃を……!

 しかし。

「届かない……ふっ……はあっ……!」

 遠過ぎる。高過ぎる。

「っ……!」

 望んだ戦果が上がらない悔しさを噛み砕いては汗と共に飲み干しながら、ひたすらに二刀を振るっていると。

「あ……」

 月と星々に空を譲られた朝日が、マイペースに天へと登り始めていた。

「……綺麗だ……」

 半年振りに故郷で迎えた朝日はオラリオで見るそれとは赴きが違っていて、感嘆に満ちた言葉が自然と飛び出していた。

「ベル」

 自分を呼ぶ声に振り向くと、暖かそうなフードの付いたカーディガンに身を包んだフレイヤ様が佇んでいた。

 ちなみにだが。

 今着ているカーディガンも、昨日着ていたニットも、それらを詰め込んだ大きな鞄も、今回の旅行に際し用意したものらしい。先の大戦で全ての財産を失った以上、入ったばかりの給金を躊躇なく注ぎ込むしかなかったらしく、その結果。

「働きっ放しとはいえ、安月給は安月給。いやー死にませんかこれ? 来月からどうやって生きていきましょうかねーあっはっはー」

 と言えるくらいの財政破綻だとか。シルさんはけらけらと笑っていたけど、何も笑い事じゃない。どうするんですか本当に……。

「おはようございます、フレイヤ様」

「おはよう。どうかしら、オッタルは」

 少し前から僕を見つめていたフレイヤ様は、一段落するのを待って声を掛けてくれたみたい。ありがたい気配りだ。

 それにしても、仮想敵がオッタルさんであることまで見抜かれるとは。

「……強いです。本当に強い。今の僕じゃ顔色を変えることすら不可能です」

「貴方が訓練している間にも更に強くなっているかもしれないわね」

 今のあの子の主戦場は匆々たる酒場だけど。そう付け足してクスクス笑っているけれど、僕たちは知っている。あの人が、自身を高めることを止めるわけがないことを。

 あの人はもっと強くなる。たった一人で、遥か高みへ登り続けて行くのだろう。

「だったら……もっと挑んでいかないと……!」

「まだ続ける?」

「もう少しだけいいですか?」

「ええ。ここで見ていても?」

「大丈夫です」

 顎先を伝う汗を袖口で拭い、僕だけの為にここに立ってくれているオッタルさんを睨む。

「ベル。私に見せて頂戴。私の子を越えんとする、貴方の光輝を」

「はいっ!」

 穏やかな微笑みに全力の肯定で返し、全力で土を蹴った。

 

× × ×

 

 朝の鍛錬を終え、シャワーと着替えを済ませ、川で洗濯まで済ませた僕たちは、朝食をどうしようかという話になった。僕に考えがあるので支度を一任してもらってもいいですかと伺った所、にこやかに頷いてくれたので全権を委ねてもらうことにした。

 ちなみに。

『自分で着たものだもの、私の分は自分で洗濯するわ。何? もしかしてベルったら、私の下着を洗うフリして匂いを嗅いだりまじまじと眺めたりしてみたかった? どうしたの? 顔が赤いわよ?』

 揶揄うのは忘れないながらも、自身の衣類を自分で洗うと言うもんだから顎が外れそうになった。

『娘の方で毎日やっているもの。慣れたものよ』

 遠目で見ていたが、実際手際が良かった……とは正直言えない。そもそも昨日の掃除の時点で手際が良いとはお世辞にも言えない感じではあった……いや、それは良いんだけど……。

 川で洗濯をしている元迷宮都市最大派閥フレイヤ・ファミリアの主神フレイヤ様という絵面の異様さを誰かと共有したくて仕方がない。本人はご機嫌な様子で、鼻歌さえ口ずさんでいたのが更に衝撃打点を高くしていた。

 話を戻す。

 洗濯も終え、手隙になったらしいフレイヤ様にじーっと見つめられながら、昨日入念に掃除をした台所で朝食を作り終え、今。

「いただきます」

「いただきます」

 食欲を擽られる朝餉の香りを囲み、向かい合わせでいただきます。何から手を付けようか迷うフレイヤ様の様子を窺う自分の目がちょっとばかり血走っているのがわかる。

 だって、緊張しているんだもの。

 今でもファミリアのホームで食事当番になった時は上手くいくかとかみんなに喜んでもらえるかとか色々考えてしまう僕が、この状況で平静を保てる訳もないのである。しかも向かいに座るは、下界に存在する至高の品々を味わってきたであろうフレイヤ様。緊張するなという方が無理な話だ。

「じゃあこれから…………ん、美味しい……」

「ほ、ほんとですか!? よかったあ……」

 村へ向かう途中で立ち寄った小さな宿場で購入した鳥肉に、同時に購入した塩と胡椒をぱっぱとかけ、卵や山菜を和えて炒めた手間暇少なめなシンプルな一品は、フレイヤ様のお眼鏡に叶うものであったらしい。一安心。

「えっと……こっちのパンはこの村で作ってる全粒粉パンなんです! オラリオで食べるパンとは舌触りとか違うかと思いますけど美味しいんですよ!」

「そうなの? じゃあ………ん……少し癖があるけれど、美味しい」

「よっし……!」

 幼い頃からこのパンを食べてきた僕には、拳を握るのを隠せない程度には嬉しい瞬間だった。

「ふふ……このジュースも、貴方のお気に入り?」

「はい! 村で育てた林檎を搾ったジュースです! 味には自信があります!」

「得意気になっちゃって……地元の味をあまり知らないと言っていたのはだぁれ?」

「あ、あはは……とりあえず飲んでみてください!」

「……あら本当、美味しい。とても美味しいわ」

「やった……! 後でみんなに報告しないと……! そうだ! 村の林檎でお酒を作ったりもしてるんですよ! 僕もちょっとだけ飲ませてもらったことがありますけど、とっても美味しいですよ! 昨日飲んでもらえたら良かったんだけどなあ! 調査から帰ったら在庫があるか聞いてみますね! あ! 同じ林檎を使ったジャムもあります! それとそのサラダで使ってる野菜はですね……!」

 高揚してしまっている自覚はあるが、どうにも口が止まらない。種類は少ないけれど、僕の村の作物は美味しんだもの。今くらいいいじゃない。

「そう、そうなのね。ふふ……」

 行儀が悪いくらいにうるさい且つ鬱陶しく押してくる僕に嫌な顔一つ見せずに言葉を返してくれるフレイヤ様との朝食は、僕的には大満足なものとなった。

 で。

 朝食の後片付けをフレイヤ様と二人でして、もう少ししたら調査に赴きましょうと話をしたところで、フレイヤ様が席を立った。

「昨日までは叶わなかったけれど、環境が整っているここならば出来るわね」

「と言いますと?」

「今日のお昼は、私がお弁当を作るわ」

「ゔぇ!?」

「私が、お弁当を、作るの」

 決然とした眼差しで再度告げるフレイヤ様。身体が強張ってしまうのもさもありなん。

「貴方が素敵な朝食を用意してくれたのだもの。今度は私の番」

「い、いえいえ! フレイヤ様のお手を煩わせるわけには! そういうのは僕が」

「女神扱い」

「あぅ」

 鼻頭を人差し指でつつかれ仰反ってしまう。僕はどうやら涙目になっているらしいが、不意打ちに驚いたからなのか、それともこの先に待ち受けるだろう苦難を思ってなのか、誰か教えて欲しい。あと助けて欲しい。

「わかってる。貴方も知っての通り、娘の料理はイマイチ。しかし、研鑽は欠かしていない。ミア達にこき使われボロ雑巾みたいな姿で部屋に戻ろうとも最低限以上の自炊はしているもの。貴方が知らない間に私は腕前を上げているのよ。多分」

「躊躇いなく多分って言いましたね!?」

「いいから、私に任せるの。よろしい?」

「でも」

「ベ、ル?」

「は、はいぃ……」

 やる気マシマシ決意固めな眼差しに気圧され頷くしかない弱き者僕。

「となれば……少し待っていて頂戴」

 震える僕を横目に、扉一枚隔てただけのシャワー室へフレイヤ様はそそくさと消えていった。なぜか、旅行鞄を抱えて。

 すると早速聞こえてきた。これは……衣擦れの音……。

「く……ぅぅ……」

 そちらを見ぬようにするも、聞こえて来る生々しい音の数々はとても無視出来たものではなく、行き場のない悶々を抱えてしまうやっぱり弱き者僕。

「何を想像しているのかしらー?」

「違うんですごめんなさい本当に違うんですごめんなさいっ!」

「自白してどうするの。ふふ……」

 扉越しにも僕を揶揄うことを忘れないお人を待つこと数分。

「あ……!」

 膝まで隠す若葉色のスカートの上に、長めのエプロン。名前は知らないけどフリフリしている例のアレが、後ろでお団子に纏められた銀髪を飾っている。

 僕の前に立ったフレイヤ様の身姿には、見覚えがあり過ぎた。

「こっちの姿で制服を着るのは初めてなのだけど、どうかしら?」

 フレイヤ様、豊穣の女主人のお姿、爆誕。の瞬間である。

「え、えと…………お似合いです……すっごく……すっ、素敵です……」

「そう? ありがとう」

 制服に身を包んだフレイヤ様は自信満々と言った表情……の割には少しだけ頬を赤らめている。僕も負けじと赤くなっている自覚がある。

 それにしても、本当に似合っている。フレイヤ様ほど綺麗な人だと何を着ても似合うと言えばそこまでなんだろうけど……。

「やっぱり着慣れていると言いますか……違和感だらけなのに違和感がないと言いますか……」

「含みのある言い方に聞こえるわね」

「そ、そういうことじゃ……! というか、わざわざ着替えなくてもよかったのでは……? エプロンだってありますし……」

「はあ……」

 露骨な溜息が落っこちてきた。き、機嫌を損ねるような事を言ってしまった? やっちゃった? 処される? この人の眷属たちに処されちゃう?

「相変わらず女心の機微がわからない子ね、ベルは」

「ご、ごめんなさい……」

「機能より願望を優先したのよ、私は」

「つまり……?」

「この姿を、ベルに見せたかったの」

 もっと言えば。と付け加えながら、ずずいっと僕の眼前まで踊り出て。

「見せて、褒めてもらいたかった」

 そのまま僕を抱き締めるんじゃないかくらいに大きく、両腕を横に広げた。

「だから今、とっても気分がいいのっ」

 くるりと一回転しながら後ろ手を組み、スカートを翻しながら僕から距離を取ったフレイヤ様は、目を細めて笑っていた。さっきより頬が赤くなっている様子だけれど、負けじと僕も酷い有り様になっているだろうから触れられそうにない。

「なっ、何よりです……はい……」

「……さて。ベルの心に一生消えることのない思い出を一つ刻み込めたことだし」

「はひ!?」

「今度は私の番。期待して待っていて? 村の子たちが近くへ来たら教えてね。(シル)の方になるから」

「はあ……」

 微笑みながら頷いて、昨日宿場で購入していた品を狭いキッチンに広げ始める様を無遠慮に見つめていると。

「胃袋を制する者は……」

 なんかブツブツ言い出した。者は、の後は全く聞き取れなかった。

「あ、あの? フレイヤ様?」

「やってやるわ……!」

 豊穣の女主人の制服に身を包んだフレイヤ様がぐっと拳を握る、という絵面を見た僕は。

「大丈夫かなあ……」

 盛大に空回る予感をひしひしと感じていた。

 

× × ×

 

「フ、フレイヤ様? 今なんかぼんっ! って音がしませんでした? ぼんっ! って!」

「気の所為よ。それよりベル?」

「な、なんですか!?」

「気が散るからあっちを向いていて。何度も言っているでしょう」

「はあ……」

 と仰るものだから、窓の外に視線を向けてみる。あー今日もいい天気だなあ。

 ぼふっ!

「なんですか今の音!?」

 いやいや無理無理ほんと無理! 呑気に日向ぼっことか出来っこない! およそ台所から聞こえてきそうにない音がメドレーで押し寄せてくるんだもん! しかもなんか異臭が発生しているし! か、換気をせねばー!?

「なんでもないと言っているでしょう」

「気弱な大型犬の鳴き声みたいな音聞こえたんですけど!?」

「その辺に野良犬がいるんでしょ」

「家の中にいてたまりますか!」

「難癖付けて女の子の秘密を覗こうだなんて。ベルのえっち」

「大体全部おかしいですよね今の発言!?」

「大きな声出さないで。気が散って……あ」

 何やら失敗をしたらしく、動きが止まるフレイヤ様。何を失敗したのだろうか。致命傷になりかねないものだったりしない? ケガしたとかじゃなくてそこは一安心。というかそもそも今は何を作っているのだろう。あの緑色の塊は何に化けるんだろう。胃薬持って来てないんだけどなあ。

「貴方が私の気を散らすから……!」

 お怒りだ。フレイヤ様が、めちゃおこだ。字余らず。

「す、すいませんっ……!」

「はあ…………その、僕も手伝わなきゃ、みたいなソワソワを少しは隠してくれる?」

「だって……」

「私がやるの。やってみせるんだから……!」

 僕を睨むにも飽きたのか、持ち込んでいたのだろうレシピ本や食材の間を視線が行ったり来たり。この様子じゃあ、頑として譲ってくれそうにない。

「…………」

 懸命な姿を眺めていて、ふと思った。

 神々は不変。よく聞く文句だけど、実際どうなんだろうか。

「しっかり水気を切って……えっと……」

 額に汗さえ浮かべて奮闘しているこの人を見ていると、そう思わずにいられない。

 いや、違うかも。

 もしかすると。懸命な女の子にしか見えないこの姿こそが、この人の根っこの部分……なのかもしれない。

 それを迷いなく是と断じれるほど、この人のことを知っていない。

 だったら。だからこそ。知る為の努力を疎かにしてはいけないだろう。

「……失礼します」

 長机脇の丸椅子を持ってきて、混沌を極めに極めまくっている戦場に成り果てた調理場の前で腰を下ろす。すると直ぐに、冷たい眼差しを頂戴した。

「何のつもり?」

「さっきのお返しです」

 射抜くような視線に内心震え上がりながら、それでも視線を外さずに伝える。

「朝食作ってる時にじーっと見られていたので、そのお返しです。それに、約束もありますし」

「約束?」

「貴方のことを見張っているって」

 ずっと側で見張って、ずっと見守る。そして、ずっと守る。

 僕の誓い。

 僕とこの人の、約束だ。

「どんな時でも、貴方のことを見ているんですから」

 いつまでも抱えて生きるんだから、今だっていつだって、その時だ。

 都合良く文句を利用している感は否めないが、何も嘘じゃないんだ。無理矢理にでも開き直っていこう。

「あ…………」

 作業の手を止め、少し呆けた表情を見せるフレイヤ様。しかし、それも一瞬。

「ストーカー一歩手前の発言じゃない……」

「そ、そんなつもりじゃ……!」

「……ベル」

「はい」

「生意気っ」

「あぅ」

 ぺしっと、人差し指で額を弾かれた。デコピンというヤツだ。フレイヤ様の指先に付いていた何かが額に付着したらしく、後に残るのは痛みではなく、ひんやりとした感触だけ。

「もう…………勝手にしなさい」

「はいっ」

 頬や耳まで甘く熟れた林檎みたいになってしまったフレイヤ様の横顔と、フレイヤ様の努力が形を結実するまでの道程を、フレイヤ様に怒られようとも無遠慮に見守っていると決め、しっかりと座り直した。

「あ……うぅ…………くーっ……フレイヤ様!」

 結局、我慢しきれなくなり口を挟んで、フレイヤ様に散々怒られた末、ちょっとした言い合いにまで発展したけれど、ほとんど共同作業の体になるまであまり時間は掛からなかった。

「私一人でやらないと意味ないのに……」

 納得のいかないフレイヤ様は終始ご機嫌斜めな様子ではあったけど。

「なるほど……これはこれで……ふふ……」

 台所で隣り合って作業をするという行為が存外悪くなかったらしく、嬉々たる表情を時折覗かせてくれたことが、嬉しかった。

 ちなみに。

 フレイヤ様の作ったお弁当は、やっぱりというかなんというか。微妙な仕上がりだった。

「どうしてこうなっちゃうのかしら?」

 どんな神様でも理解し得ないだろう帰結に首を傾げるフレイヤ様に僕が出来たのは苦笑を返すことと、微妙に痛むお腹を摩ることくらいだった。

 

× × ×

 

「あった! ありましたよベルさん!」

 弾けるような声に呼ばれるまま駆け付けると、強制任務(ミッション)に際しギルドから渡された……というか毟り取ったのだろう図鑑を広げるシルさんが瞳を輝かせていた。

「すごい! もう見つけたんですね!」

「はい! これ、間違いないですよね!?」

 土の色が移った白い手袋が指差す先。周囲に広がる緑と趣の違う、深い青に染まった草葉が生えていた。図鑑に写実されているものと照らし合わせ、首を縦に振った。

「みたい……ですね。間違いないかと」

「やったぁ!」

 虫除け目的で被ったバケットハットの下、ニコニコ笑顔のシルさんの頬には汗の玉が少しだけ。早速の成果と穏やかな笑顔に僕の頬も緩む。

 シルさんの希望で……というか、美貌的なあれの効果の結果なのだろう。僕の家ではなく村長さんの家にて一晩を過ごした御者さんと合流し、半日弱を掛けて最初の調査ポイントへと到着した。

 ギルドからの書状に記されていた、群生が確認されているポイントの総数は全部で七ヶ所。これら全てを調査、可能な限りの採取が今回の目的だ。

「幸先いいですね。じゃあ……」

 ごめんね。僕たちの都合で君たちを傷付けてしまって。けれどありがとう。

 下界で僕らと共存共栄をしている彼らへの謝罪と感謝を心中で述べ、一株を除いて可能な限り採取を進める。スコップやナタの類は持ってきていないので白幻で根の方から刈り、ギルドから託された保管用の大箱に詰め込んでいく。

「完了です。他はこの辺りにあるかな……」

「ベルさんベルさん! あの大きな木の根元! 同じ色をした……」

 そこまで言い掛けて、シルさんが停止した。

「シルさん?」

「……やっぱり間違いでした全然気の所為でしたあっちには何もないみたいでーす」

「……シルさん?」

 怪しいというか、怪しめ、と言わんばかりの棒読みっぷり。

「なんですかーベルさーん。私ー真面目にやってますよー? 本当に見つからないんですよー。別にぃー今日だけで目的達成しちゃったら旅行が終わっちゃうから適当やっとこーなんて思ってませんよー? 全然そんなこと考えてないんですからねー」

「全部言っちゃってるじゃないですか……」

 ノリノリで内心を打ち明けてくれるシルさん。わざとらしく唇を尖らせる姿はとても愛らしいんだけども。

「その辺りはちゃんと打ち合わせしたじゃないですか。もしも今日で目標達成出来たとしても今夜は村に泊まる。達成出来なかった場合、進捗と照らし合わせて今後のことは再相談するって」

「そう言ってましたけどぉ……ベルさんの事だから、僕ちょっと行ってきます! とか言ってばびゅーんと全ポイント回って、こんなに採れました! やっぱり今日帰りましょう! ってホクホク顔しちゃう未来が見えちゃってー」

「か、考えてませんよ!」

「本当かなあー?」

「本当に考えてません! というか、その考えは捨てました!」

「捨てた?」

「だって決めたじゃないですか。僕一人じゃなくて、シルさんと一緒に回るんだって」

 その話をした時はフレイヤ様の姿だったし、随分と一方的な話し合いだったような気がするけれど、そんなの既に些事だ。

 この約束は僕たち二人で決めた、僕たちの約束だ。嘘にしちゃいけない。

 そもそも。シルさんと御者さんと共にここまで来ている時点で単独行動という選択肢は潰えている。僕が離れている間に二人がモンスターに襲われでもしたら取返しの付かない事態に発展しかねない。今だって、シルさんも御者さんもフォロー出来る位置を取っているつもりだ。

「……なら、私から離れちゃいやですよ?」

「わかってます。いつだって側にいますから」

「わ、告白されちゃった。きゃっ」

「どうしてそうなるんですか!?」

 僕の言い回しもアレだったかもしれないけどさあ!?

「というかベルさん、楽しそうですよね?」

「あーっと……わかります?」

「わかっちゃいます」

 うん、まあ。この人にはお見通しだよね。だったら、気取らず伝えてしまおう。

「……楽しいし、懐かしいんです」

「あ」

「お祖父ちゃんと一緒にこの辺りで草葉を取って回ったりしたのを思い出して、勝手に楽しくなってました」

 気取らなさ過ぎたかもと思ってしまう程度には子供っぽい言い回しになってしまったもので、何だか変な気恥ずかしさを感じてしまっていけない。

「楽しかったな……」

 けれど、言葉を止められない。

 毎日土と戯れては泥だらけ。お金なんて全然なかった。

 それでも、笑いの絶えなかった日々。

「懐かしいなあ……」

 涙など流れない。感傷が溢れるだけ。

「ベルさん……」

「今する話じゃなかったですね。ごめんなさい」

 苦笑でもダメかなと思ったから、笑顔を貼り付けてみた。どうだろう、上手く出来ていただろうか。

「……よっし! とにかく探しましょう! シルさんが言ってた木の下を確認したら次のポイントに向かいましょうか。どのポイントにします? シルさんが決めてください」

「私がですか? そういうのはベルさん主導の方が良いのかなあと思いますけど」

「シルさんは今、僕のサポーターなんですよね? なら、シルさんにお任せします」

「あ」

「頼りにしてますからね、サポーターさん?」

 わざとらしく、ふざけた調子で。誰よりも頼りになる最初の仲間の顔を思い浮かべながら、言ってみた。

「……はい! 私に任せてくださいっ!」

 被っているバケットハットが跳ねるほどの勢いで立ち上がったシルさんが、周囲の花々を脇役にしてしまう、笑顔の英を咲かせた。

「ぁ……!」

 可愛いと思ってしまった。綺麗だと思ってしまった。悟られても揶揄われてもいいって思ってしまうくらい、見惚れてしまった。

「ベルさんベルさん」

「は、はいっ!?」

「顔が赤いですよー?」

「うぇ!?」

「ふふっ……ほら、続けましょう!」

「……はい!」

「あ、そうだ。ここでサポーターさんから豆知識をご提供します」

「ま、豆知識?」

「私たちが探している薬草なんですけど、えっと……これ!」

 パラパラと図鑑をめくる指が止まった先を横からひょいっと覗き込むと、見覚えのない薬草の模写を指差していた。

「この薬草がどうしたんですか?」

「これ、私たちが探している薬草と見た目が似ていませんか?」

「言われてみればそっくりですね……」

 僕たちが探しているものよりも緑が深く濃いがなるほど、よく似ている。植物にはない概念だろうけれど、兄妹だと言われたら信じられるくらいにはそっくりだ。

「これ、ヨモギって言うらしいんです。極東では結構いろんなところに群生しているらしいですよ」

「そうなんですね。勉強になるなあ」

「ちなみになんですけど、このヨモギの花言葉、幸福、夫婦愛、とかなんだそうです」

「…………」

「ということでベルさん! 夫婦愛を深める旅を続けましょうか!」

「な、何言ってるんです!? そもそも全然別物じゃないですか! 違う花の花言葉の話をされても!」

「二人だけの幸福を探しに行きましょー!」

 私を捕まえてごらんなさーい、と言わんばかりに緑の中を駆け始めた。私から離れたら嫌とか言ったばかりだったのに、一人で何処へ行こうと言うんですかね。

 というか。

 僕を元気付けてくれようとしたんですよね。今までしてくれていたように。

 ありがとう。本当にありがとうございます。

 と、内心では感謝を。

「聞いて!? 探すのはヨモギじゃないですよ!? ちょっとシルさん! シルさーん!」

 外心では。

 これくらいが今の僕たちにはいいんじゃないかな。

 そう思った言葉を発しながら、自由奔放過ぎる人の背中を目指し、僕も駆け出した。

 

× × ×

 

「ただいま戻りましたー」

「お帰りなさいベルさん!」

 家の扉を開けるなり、前掛けをしたシルさんが出迎えてくれた。

「ぅ……」

 見目麗しの良質街娘と評判のシルさんが前掛けをしていて、疲労感に包まれている自分を満面の笑みで出迎えてくれるというこのシチュエーション。

 シルさんが何度か口にしていて、僕自身も、なるほど確かにそれっぽい。そう思う瞬間が何度かあったけれど。

 今この瞬間が、これまでで一番、新婚感に満ちていた……ように思えた。

「何ですか今の圧倒的嫁感は……何気ないやり取り全てがえも言われぬ幸福で満ちている……ふふ……うふふ……んにゅふふへ……」

 シルさんの感慨は僕のそれとは比較出来ないほどのものらしく、両頬を抑えて身を捩っている。頬を抑えた所為で変な声まで出てしまっている始末。

 それはいい。とっても結構なことだと思う、のだけども。

「あの……シルさん?」

「ちょっとなんですかーベルさーん。照れていないでいつもみたいに呼んでくださいよ。お前! とか。僕のお嫁さん! とか!」

「テンション上がり過ぎて記憶と事実の大部分が捻じ曲がってますよ!? あの、真面目な話をしたいんですけど……」

「真面目な話? こほん……聞かせてください」

 ふにゃふにゃほにゃほにゃから一転、きりりとした面差しに早変わり。僕も、ちゃんと言わねばなるまい。

「なんか……匂いませんか? というか、煙くないですか?」

「…………さあ! もう少しで出来上がりです! 今のうちにシャワー浴びられたらどうです!? あ! それとも一緒に浴びます!?」

「聞いて!?」

「しまった! ご飯にするお風呂にするそれとも私ー? な定番のアレをやり損ねました! ということで、私とお風呂に行きましょう! さあ!」

「さあ! じゃないですよ! もう定番も何もないじゃないですか! っていうかなんか変な音してますよ!?」

「あら! いけないいけない!」

 シルさんが慌てて戻った台所は、今朝よろしく混沌を極めていた。あの狭い空間で何が起きているのかわからないが、台所で起こるべきでない何かが発生していることはわかる。

「というか! 帰って来るの早くないですか!? 一秒でも早く私に会いたかったのはわかりますけど!」

「そういう話じゃなくないですか!? そう言われても、今日の仕事は終わりだってみんなが言うから……」

 今日の仕事。僕とシルさんの調査のことを言っているのではない。村のみんなの仕事、である。

 シルさんとの調査を終えて村に戻った僕はというと、村のみんなの手伝いをすることにした。当然、僕自身の意思ではあるのだけど。

『では、勝者である私が、敗者であるベルさんに、あっ! と驚くようなご飯を作って差し上げます! ということで、完成するまでの間この家への立ち入りを禁止します。なんでって、昨日みたいになし崩しに共同作業になったら困るからですよ。あれはあれでとても素敵な体験でしたけど……とにかく! そういうことですのでもう少し汗を流して来てください! 村の皆さんが待っていますよ! ほら、いってらっしゃいっ! わ! 今のとっても奥さんっぽくないですか!? きゃーっ!』

 もうツッコミを入れる気力すら奪われるような言葉の乱れ打ちに敗者である僕は閉口。トボトボとした足取りで、しかし気持ちはやる気満々で、村のみんなの仕事を手伝うべく夕日の下を駆けた。

 シルさんの言っていた勝負とは極めてシンプル。調査の最中、どちらが多く目当ての薬草を集められるかを競い、勝者は今晩の台所番長となる権利を得る、というもの。

『あ、負けた方にはしませんよ? それだと露骨に手を抜かれる気がしますので。どうしてかはわかりませんけど。ね、ベルさん?』

 手を抜くとかサボるってやっぱりいいものじゃないけど、シルさんに華を持たせると考えれば。なんて理屈で自分を肯定させている最中に絶望的な追加条件を突き付けられた僕は、過酷な現実と戦う決意をガチガチに固めた。

 胃袋の安寧と穏やかな食卓を守るべく、これは真剣に戦わねばなるまいと心して挑んだ。しかしまあ、Lv.5のステイタスをそこそこ活かすだけで流石に勝てるでしょ。

『ベルさん! 馬車の辺りにモンスターが!』

『い、今こっち来ちゃダメです! 汗で下着が透け……何言わせてるんですか! ベルさんのえっち! あっち向いててくださいっ!』

『きゃあ! あ、あそこ! モンスターじゃなさそうなんですけど、ものすごく大きな虫がいるんです! 虫苦手なんです! なんとかしてくださーいっ!』

『痛っ! あ、足首捻っちゃったあ……ベ、ベルさぁん……流石に手を借りたいですぅ……』

 なんて考えていた時期が僕にもありました。

 モンスターもいないし下着も透けていないし多分虫苦手でもなさそうだったし足首元気いっぱいだったし。

 この程度などまだ序の口。駆使される手練手管に逐一しっかりばっちり引っ掛かる僕がさぞ面白かったのか、お腹を抱え笑ってばかりだったシルさんにボコボコのボコにされ無事敗北。

 まあいいんだ、それは。本当は良くないんだけど、今はいいんだ。後で泣くから。

「楽しかったですか? みなさんとのお仕事は」

「……楽しかったです」

 そうだ。楽しかった。懐かしかった。またみんなと共に汗を流せて嬉しかった。

 しかし。僕は少し……というかかなり、浮いていた。浮かれていたではない。浮いていた、である。

 何故って、あの頃の比じゃないほどに昇華されたこの身での作業は、効率の良さが段違いになっていたから。

『ベルすっごーい……』

『あの豆チビがこんなにも頼りになるようになるとはなあ』

『百人力ってこういうことを言うんだろうねえ』

 みんな驚きっ放し。僕自身だって似たようなものだった。

 ああ、こうも違うのか、と。

 神の恩恵を得ていない人々の中に入った自分は、圧倒的に異物だった。

 帰って来るのが早いとシルさんに言われたけれどそれはひとえに、地元での久しぶりの農作業に張り切り過ぎた僕が、みんなの仕事の大部分を奪ってしまったからである。

 そんなつもりなんかなかったのに。今の自分なりの当たり前を行使していただけなのに。

『もうベル一人でいいんじゃねえかな』

『わしらロートルも一線を引く時が来たかねえ』

『村の未来は安泰じゃなあ』

 村を支え続けてくれていた年配のみんなは僕を見て大いに笑って喜び、日が落ちてすっかり暗くなってしまった畑を後にして行った。

 その裏表のない笑顔に、裏表のない笑顔で返せていた自信はない。

「その割には、色々お悩みなご様子みたいです」

「……なんでもお見通しですね」

「何度も言っているじゃないですか」

「僕がわかりやすいから、ですよね」

「話、聞きましょうか?」

「……大丈夫です。答えの出ている事なので……」

 答えは決まっている。フレイヤ様には足を止めて考えろと言われたけれど、迷う余地なんて全くない。

 それなのに。

 だから、とか。それでも、とか。

 そういうのが止めどなくて、逃げるように帰って来たんです。

 とは、流石に言えなかった。

「……先にシャワー浴びて来てください。もう直ぐ出来ますから」

「んぅ」

 引っ張り上げたエプロンの裾で僕の頬を拭ってくれた。泥でも付いていたらしく、綺麗な白を黒く汚してしまった。申し訳なさと恥ずかしさで視線が妙に泳いでしまう。

「パパッとすっきりされた方がよろしそうです」

「……そうします」

「私も直ぐに行きますね。お背中流しますので」

「まだ言ってるんですか!? 台所から離れちゃダメですからね!? 離れたら……」

「離れたら?」

「……お! 怒ります!」

「何ですかそれ……わかってますよーだ」

 わざと尖らせた唇で口笛を吹きながら台所に戻って行くのを確認した後、シャワー室へ向かう。湯冷めが怖いけど、夜のうちに洗濯も済ませておかないといけないな。

 何せ、明日僕たちは……。

 

× × ×

 

「ということで、明日のお昼にこちらを発つ。それでいいですね?」

「あ、これはよく出来てる……気がします! ほらベルさん、あーん」

「シルさん?」

「聞いてますよー。いいから、あーん」

「……あ、あーん……」

「はいいいこいいこー。あーん」

 観念して口を開けると、辛うじて卵焼きに見えなくもないけどなんか妙に赤々としている塊を口に運ばれた。気恥ずかしさに頬が赤くなっている自覚はあるが、未知との遭遇に怯える恐怖で青くなってもいる可能性もありけり。

「どうですか!?」

「……シルさんらしい味わいですね……」

 とろっ、というより、どろどろっ、な感じ。甘い仕上がりになりがちな一品なのにやけに辛くない? チャレンジメニュー? みたいな感想が浮かんでしまう。あと、中の方の一部がいやに固い。火を通したら普通、外の方が固くなるものなのでは? 不思議だなあ。

「曖昧な言い方ー。褒めるなりとっても褒めるなりしてくれればいいのに」

「自信満々なのはわかりました……同じ物、シルさんも食べてみてくださいよ」

「食べません」

「ど、どうして?」

「全て、ベルさんの為に作ったからですっ!」

「あ、あぁ……!」

 喉が震える。肩が震える手も震える。再度シャワーを浴びたいくらいに吹き出す冷や汗と脂汗。膝は大爆笑している有様。

 このテーブル上に展開されている全てが僕一人を包囲している? そうか、ここは戦いの野(フォールクヴァンク)の出張所だったのかあ。見える見える、間違いのない死が見えーる。おっと向こうでお祖父ちゃんが笑っているのが見えたぞお? あーこれ走馬灯かもね。あはは。

「くっ……!」

 しかし僕だって、ただひたすらに狩られるばかりの兎じゃない。牙も爪も、見られる程度には役に立つ逃げ足だってあるんだ。

 生きろ。生きなきゃ。生きる為に戦わねば……! 今の僕に出来る生存戦略は……これだ!

「……シルさん」

「なんですかー?」

「僕が……あ、あーんをするので、シルさんも」

「ばっちこいです! あーん!」

 み、見えた! 見えたよ! 一筋の光っ!

「で、では…………あーん……」

「あーんっ。ん? ん、んぅ……」

「どうですか?」

「……ベルさんにあーんをしてもらえた至福が軽く色褪せてしまう程度には……微妙?」

 僕は見逃さなかった。可愛らしく小首を傾げているけれど、飲み込んだ瞬間、かっ! と目が見開かれたのを。

「その……今日作ったのって、持ち込んだレシピを参照していたんですよね? その通りに作ったんですか?」

「もちろんですっ。ただ、私らしいエッセンスを加えたいなあと思って、少しだけ味付けだったりに一手間を」

「それ! それですよシルさん! それがえっと……その……そういうことです!」

「どういうことですか?」

「わかっていて言わせようとしてますよね!?」

「わ、ベルさんなのに鋭い」

 やっぱり! ベルさんに傷付けられたので責任取ってくださいーとか! 悪いと思うなら言うことを一つ聞いてくださいーとか! そういう流れにするつもり満々だったんだ!

「んー結構いい感じに仕上がったと思ったんだけどなあ……」

「僕も大した腕前じゃないので偉そうなことは言えませんけど、応用を効かせるにもまずは基本をしっかり抑えてからでないと」

「そんなことはわかってるんですけどねー」

 口喧しい小姑みたいになりつつある僕の前で不貞腐れた態度を隠さないシルさん。ちょ、ちょっと出しゃばり過ぎたろうか? 不機嫌にさせるつもりはなかったんだけど……こ、こうなったら……!

「……今度、時間を作ってください」

「はい?」

「料理の練習をしましょう。一緒に」

「……はいぃ?」

「さっきも言いましたけど、僕の腕前だってたかが知れています。だから……ほら……折角だし、一緒にって……」

 いけない。不慣れなこと過ぎて、どんどん言葉が小さくなる。

 まるで人の想いを、心を。都合良く利用しているような気分。そんなつもりであろうとなかろうと、客観的に見ればそれらしい事を僕はしてしまっている。

「……ベルさん」

「は、はい……」

「天才ですか?」

「へ?」

「天才過ぎますそのご提案ーっ!」

「ぶへっ!?」

 湧き出た罪悪感との向き合い方を模索中だった僕の頭を、シルさんが抱き締めた。豊かな胸部が僕の顔を埋めんばかりに押し付けられる。というか、鼻は完全に埋まっている。孤児院のフィナ曰く、シルお姉ちゃんマジ着痩せするのだぜ、な感じで襲い掛かる胸囲の脅威が正常な思考も呼吸も遮断してしまう。

「ふぃ! ふぃるふぁん!?」

「約束ですよ!? オラリオに戻ったら早急に時間を作ります! というか週に一回! 少しでいいのでご一緒しましょう! 二人横並びで夫婦道を邁進していきましょうねっ!」

「は!? ふぁなひがほれてまふぅ!?」

「えー? なんですかー? よく聞こえませーん」

「わ、わらとやっへまふほね!?」

「さあ何のことやらー。んふふふー」

 真っ赤になってしまっただろう僕を好き放題に弄ぶのも満足したのか、抱えた僕を解放をしたシルさんはニコニコ笑顔。頬が赤いのを隠すつもりはないらしい。

 こういうの、やりそうでやらなかったんだけどなあ、以前のシルさんは。

「いい約束してもらっちゃったなあ……ふふ……」

「はあ…………あ、そうだ! 講師としてうちの命さんに」

「ベル?」

「はいすいません二人で頑張りませう」

「頑張りましょーっ!」

 いくら僕が女の子の前で別の女の子の名前を出す地雷ムーブをしてしまったからって、シルさんモードのままフレイヤ様モード差し込まれるのめちゃくちゃ心臓に悪いので本当に勘弁して欲しい。

「え、えっと……話を戻します。全てのポイントの調査と要求数以上の薬草が確保出来たので、明日の昼にこの村を発ちます」

「うう……もっと二人きりでいたかったのに……どうしてこんなことに……」

「僕を負かしてやろうとシルさんが大張り切りした結果じゃないですか……」

「そんなぁ……それもこれも私が優秀なサポーター過ぎたが故ですね……」

 よよよと泣き真似をして見せているこの人が持ち掛けた勝負が妙にヒートアップ。そもそも各ポイントが然程離れていなかったことも手伝って、想定よりずっと早い撤収となった。

「村のみんなにも明日のお昼でここを発つからと伝えてあります。お土産用意しとくって笑ってましたよ」

「それはありがたいんですけどぉ……」

「まだ帰りたくありませんか?」

「そこはほら……もーちょっと楽しみたいなあ、の気持ちです」

「だったら楽しいことしましょう。何かありませんか? 楽しいこととか、今のうちにやっておきたいこととか」

「やっておきたいことですか……あり過ぎて困っちゃうなあ……どうしたものでしょう……」

 真剣な表情で腕を組むシルさん。

「じゃあ……まずは……」

 決然とした眼差しのシルさんは、声を大にして、はっきり言い切った。

「子作りで!」

「しませんよ!?」

「ダメ……ですか?」

「か、可愛く言ってもダメですっ!」

「ベルさんのいけずぅ」

「真剣な表情で何を考えているのかと思えば!  そ、そういうのじゃなくてっ! なんかその……ほ、ほら! そういうんじゃなくてぇ!」

「ベルさんはお子様ですねえ……じゃあ、何もしないと約束するので、一緒に寝ましょう。一先ずはそれがやりたいことですかねー」

「ああ、それならいいですよ」

「……意外とあっさり頷くんですね」

「き、緊張はしているんです……けれど、それぞれの姿で……その約束を守ってもらったことがありますし……」

 それに。本当に僕が嫌がることならば、この人はしない。

 打算なんかじゃない。僕なりの、信頼に基づいた帰結だ。

「……ベルさんの信頼を裏切りたくない思いを肉欲が上回ったらどうなっちゃうかわからないかもですよ?」

「に、にくっ!?」

「それに……もう違うんですよ? あの時とも、あの時とも」

「……だからこそ約束を守ってくれる……守って欲しいって……思うんです……」

 人の気持ちを考えるのは難しい。正しく読み解ける人なんていない。神様たちにだってきっと不可能だろう。

 けれど。わからなくても、考えることは出来る。

 僕は、シルさんのことを考えている。きっと、シルさんが思っているよりもずっとずっと考えている。

 シルさんも、僕のことを考えて考えて、考え抜いてくれる。

 僕がこの人を大切に思っているように、この人だって、僕を大切に思ってくれているのだから。

 今の僕たちなら、お互いを傷付け合わず、それでも笑い合える手段の幾つかを手にしていると思うんだ。

「卑怯だなあベルさんは」

「……シルさんには言われたくないです」

「なら私には?」

「フレイヤ様にもです」

「あら、そう?」

「そうですよ……僕も貴方も、卑怯です」

 そして、臆病だ。

「そうね……貴方の言う通り……」

 音も立てずに切り替わる姿にも驚かなくなってきたけれど、この先もずっと慣れることなく驚かされ続けそうだ。目を細めて微笑む、可憐な姿には。

「……昨日もこんなやり取りをしましたね」

「だったわね」

「……はは……」

「ふふ……」

 少しクセのある香りと存在感を放ちまくる彩り豊か過ぎる手料理の上で、僕と彼女の微笑みが交差した。

「……冷める前に食べましょうか」

 鼻先が擽ったくなるような感覚に耐え兼ねて、現実を直視することにした。こっちはこっちで耐えられるのだろうか、僕は。

「……はいっ。あ! このミートボールは自信があるんですよ! ちょっと見た目はアレな感じになっちゃったかもしれませんけど! これは本当に! ちゃんと自分で食べましたから!」

「そうなんですか? じゃあ……?」

「はい! あーん」

「え、えぇ……?」

「ベルさんが逃げな……喜んでくれるように、全部あーんで食べさせてあげますっ」

「逃げないようにって言おうとしました!?」

「気の所為ですっ。いいから、あーん!」

 さらりとシルさんに戻ってさらりと怖い事を言われた。重ねた努力もあられもない姿になってしまった食材たちも無為にする訳にもいかぬと改めて覚悟を決め、離れる事を嫌がりぷるぷると震えている上唇と下唇にしばしのお別れを宣告。

「あ、あーん……ぅ……うぅ……」

「あー! なんですかその顔はー!」

 いろんな意味で、無事に就寝出来るのだろうか、今夜の僕は。

 

× × ×

 

「やっぱり夜は冷えますねー」

 静かに響くソプラノが耳を擽り、吐き出された吐息が僕の鼻先をそろりと撫でた。

「あ、ぅ……」

「聞いてます?」

「き、聞いてます……」

 ダブルサイズのベッドの上に転がる僕の目の前で、髪を下ろしているシルさんが小首を傾げた。

 そう。目の前で。

「ベルさん顔赤ーい」

「だってぇ……」

 だって近い。すっごく近い。同じ掛け布団の中に包まっている為、膝や足は何度も触れ合ってしまっている。顔赤いと指摘されている今もシルさんの足先が僕のふくらはぎ付近を器用に撫でていたりする。これ、神様の間で言われる、せくはらというヤツなのでは!?

「寒いならもう少し暖炉を頼った方が……」

「こっちの方が雰囲気出るので暖炉は一旦お休みさせてあげましょう」

 さっきまで僕たちの体に熱をくれていた暖炉は沈黙し、代わりに僕らを弱々しく照らすのは腰丈くらいの高さの小さなランタンと、カーテンの隙間から差し込む月明かりだけ。

 薄暗い世界の中。一つのベッドの上。それぞれの枕をお供に、至近距離で見つめ合う僕と彼女。

 過去一いけないことをしてしまっている感が半端じゃくて、心臓がめちゃくちゃうるさい。

「そ、その……思ったよりも窮屈じゃないですか? やっぱり僕はソファで」

「ダメです」

「だったらせめて背中合わせにしましょうよ! ね? その方が多少は広々と」

「ダメですっ」

「はぅわ!?」

 何かが絡み付いて、僕の太腿から下の動きに制限をかけた。それどころか。

「一緒に眠るのは大丈夫だってベルさんが言い出したことなのにそういうこと言うんだあ。ベルさんの嘘つきー」

「ひゃぅ……!」

 両腕が、僕の背中に回された。体がぐいっと引き寄せられた際に僕の右肘が、恐らくというか間違いなく、シルさんの胸に触れた。

「あ」

「すすすすすすすいませんすいませんすいませんっ……!」

「ベルさんのえっちー」

「ち、違います違います! そういうつもりは全然……!」

「今更無知でお馬鹿な子供のフリなんてされてもなー」

「本当に事故だったんですよお! と、というかですよ!?」

 数時間前。夕餉の後。

『重ねて言いますが、何もしないのはお約束します。その代わりと言いますかだからこそと言いますか。背中合わせで眠るのは嫌です。向かい合って眠りたいです。それが私のやりたいことなんです。叶えてもらえますよね?』

 再確認したらそう言ってもらえたのに! これはもう、何かしちゃっているでしょう!?

「な、何もしないって約束は……!?」

 意識せずにいられないことが多過ぎて声は裏返る汗が出る目が回る。このまま眠れとか何の冗談でしょうか本当に。

「これくらいじゃあ何かしているうちに入りません。お子様なベルさんにはそうではないみたいですけど」

「……じゃっ、じゃあどうして、シルさんの顔は真っ赤なんですか……?」

「幸せだからですけど?」

「おぅふ……!」

「えへへー」

 少しでも動揺させて流れを変えようとしたのに正面から叩き潰されてしまった。ふにゃふにゃに頬を緩める姿の可愛いこと可愛いこと。言ってる場合かっ。

「ま、ベルさんですし? これ以上は何もしません。多分」

「多分なんですね……」

「嘘です。しません。今、本当に幸せなので。それに……」

 ベルさんに嫌われたくないですし。

 小さな声で付け足して、にこやかな表情を浮かべた。

 多少約束の範疇を越えたことをされたくらいで、今更この人を嫌いになれるわけがないってわかっているでしょうに。

「ベルさんはどうですか?」

「き、緊張してます……」

「そういう話じゃないんですけど……なかなか慣れてくれませんね、ベルさんは」

「……シルさんもですよね?」

「え?」

「出発した日からずっと緊張していましたよね、シルさん」

 それを見抜けたのは、世界で僕だけなんじゃないかと本気で思う。

 ずっと楽しそうで、ずっと僕を振り回していたけれど、ずっと伝わっていた。隠せてはいたんだ。それでも、僕にはわかった。

 絡んだ指。僕の肩に置かれる掌。背中に押しつけられた胸。

 僕に触れた全てが、僕に届けてくれた。

 それすら悟らせまいとばかりに一瞬で平常運転に戻るから触れづらかったけれど、この人がほんの瞬きの間に打ち鳴らしていたリズムは、緊張の奴隷と化してごぉーんごぉーんと早鐘を打つ、僕のリズムとそっくりだったから。

「……そういうの、わかってても言わない方がいいですよ? 繊細なんですから、女の子は」

「す、すいません……」

「緊張していましたよ? ええ、本当に。(フレイヤ)が言っていたじゃないですか。騎士(オーズ)と旅をするだなんて初めてのことなんだと。緊張もしますって。ふふ……」

 枕に沈む頬を更にくしゃくしゃに緩ませながら、シルさんは目を細めた。

「これでも結構頑張っていたんですよ? ただ緊張しているだけじゃダメ。ベルさんは私の願い全て叶えようと身を粉にしてくれる。だったら私は全力で甘えて、全力で楽しみながら、ベルさんのことを全力で楽しませよう。なんて考えていたんですから」

「……お陰様で楽しかったですし、楽しいです」

「ならよかったっ」

 偽らざる本心を伝えたら、変わらず愛らしい笑顔を作る頬の赤みがぐっと増したように見えた。至近距離でその機微を見せ付けられる僕の身にもなって欲しいと声を大にして言いたい。シルさんには何の非もないけれど。

「あーあ。そんな楽しい旅もあとはオラリオに戻るだけ。もう少しでこの旅も終わりですかー」

「順調に行けば三日後の夜までにはオラリオに到着していますね」

「そう思うと全然時間足りないなー。もっともっと遊び倒したかったですー」

「一応ギルドからの任務で来ているんですけどね……」

「細かいことはいいんですっ。でも本当に楽しかったです。ベルさんの起源を知れましたし」

「僕の起源?」

「ここでの生活や、村の皆さんとの関わり方。それに……この本」

 シルさんが身を乗り出し、ナイトテーブルの上に置かれていた絵本を手に取って、僕たちの間に置いた。

「いつもお祖父様が読んでくれていたものですよね?」

「……はい」

 頷きと共に返しながら、シルさんの鼻先に置かれた本の表紙を撫でた。

「これもそうですし、うちにある絵本のほとんどがそうなんですけど、記憶にある逸話を書き起こした、お祖父ちゃんの手作りなんですよ」

「そうなんですか? すっごぉい……」

「毎年、僕の誕生日にくれたんです。僕が寝ている時間を利用してこっそり描き進めていたらしくて」

「素敵な人なんですね、お祖父様は」

「変わった人でしたけどね……」

「ベルさんのお祖父様ですものね、納得です」

「納得されちゃうんだ……」

「僕がオラリオに来たのはー冒険者になってーダンジョンに出会いをー」

「そうです僕は変わり者ですよろしくお願い致します」

「わかれば良いのです」

 ぐうの音も出ない正論パンチの破壊力たるや。確かに、こんな動機で冒険者に名乗りを上げるのなんて僕とお祖父ちゃんくらいなものだろうなあ。

「……僕、憧れていたんです」

「うん?」

 小さな頃から大好きだった、たくさんの冒険譚。それらを彩る英雄たちの勇ましさに心底憧れ、心底格好いいと思った。

 でも。僕の一番最初はその中じゃなくて、手が届く所にいつでもいてくれた。

「お祖父ちゃんは……僕が何よりも憧れた……最初の英雄なんです」

 絵本の世界の外にも英雄はいる。それを教えてくれたのが、僕のお祖父ちゃん。

 強くて。優しくて。格好良い。

 僕を助けてくれた勇ましい姿に。泣いてる僕を包んでくれた大きな優しさに。どんな悲しみも笑い飛ばしてしまう磊落な笑顔に。

 心の底から、憧れたんだ。

「……じゃあ、そんな英雄さんが残してくれたこの絵本は……」

「……宝物です」

 何度も読み聞かせてもらい、何度も読み返した為にセリフのほとんどを丸暗記してしまっている本の表紙を、もう一度撫でた。

「……大切にしなきゃですね」

「ええ……」

 無言の時間が産まれた。僕はひたすら宝物を愛でていて、そんな僕を見つめるだけのシルさん。居心地の良い沈黙だと思った。

「……シルさん」

 そんな静寂に穴を開けることに少しの罪悪感を抱きながら、シルさんと視線を重ねた。

「はい」

「ここを発つ前に、行きたい所があります」

「……一人で行かれますか?」

 何処へ? そう返されるものだとばかり思っていたんだけどな。

「……シルさんはどうしたいですか?」

「私で良ければご一緒したいです」

「良いに決まってます。一緒に行きましょう」

「はい」

 その方が喜んでくれる。可愛い女の子を侍らせおってー生意気なー、とか言われそうな気もするけれど。

「……火、消しますね」

「はい」

 二人の間に収まっていた絵本をナイトテーブルに戻し、ランタンの火を吹き消した。少しだけ夜に慣らされた両目は仄暗い世界にあっても、僕だけを見つめている女性の姿を認めていた。

「シルさん」

「なんでしょう?」

「たくさんあるって言っていましたよね、やっておきたいこと。それ、教えられるだけ教えてください。叶えられるだけ叶えましょう。あんまり斜め上なのは難しいかもですけど」

「…………だったら」

「はい」

「手を繋ぎたいです。今」

「……はい」

 がざごそと布団の中をがむしゃらに進んだ先で見つけた暖かなそれに、しっかりと指を絡ませる。

「明日もこうしたいです」

「しましょう」

「帰るまで、何度もこうしたいです」

「何度でも出来ますよ」

 稚拙な約束を確かめ合うよう、ぎゅっと握り合う。

「頭を撫でて欲しいです」

「はい」

 右手はシルさんの左手との約束を果たすので忙しいので、左手でシルさんのお願いを叶えた。

「ん……うれし…………ふふ……」

 弓形になった瞳が、溢れ出した言葉に負けじとシルさんの内側を伝えてくれた。

「抱っこかおんぶをしてほしいです。お姫様抱っこでも可です」

「それは日が登ってからやりましょう」

「あと、膝枕をして欲しいし、してあげたいです」

「馬車の中だと揺れちゃって大変そうですね」

「嫌ですか?」

「そうではないですけど……タイミングあるかなあ」

「無理矢理作りますので」

「だったら大丈夫ですね」

「オラリオの外でしか作れない思い出、もう少し作りたいです」

「それだったら、僕に考えがあります」

「本当ですか?」

「はい。でも、まだ内緒にしておきます」

「ベルさんの意地悪。じゃあ、楽しみに待ってますね」

「そうしてください」

 初めてかもしれない。シルさんに、内緒なんて言葉を押し付けたのは。

「膝枕もいいけど、腕枕もいいなの気持ちです」

「……失礼します……」

 少し頭を浮かせたシルさんと枕の間に左腕を差し込むと、負荷にはならない重みと、薄鈍色の海が僕の腕を包んだ。

「わあ……ご機嫌ですねこれは……」

「ち、近いなあ……」

「またやりますか、その件」

「もうお腹いっぱいですよ……」

「じゃあ、ゆっくりと消化していきましょうね」

「はい……」

 消化も慣れもまだまだ遠過ぎるなあ。

「まだたくさんあります。やりたいこと」

「少しずつ叶えていきましょう」

「ふふ……楽しみだなあ……」

 小さく弾む声に耳を傾けながら目を瞑る。これだけ距離が近いんだ、暗がりの中でだってしっかり見えるあの笑顔を直視し続けていたら、眠れるものも眠れなくなりそうだし。

「ベル」

 声が変わった。呼称が変わった。雰囲気が変わった。わざわざ目を開けて確かめる必要はなかった。

「……はい」

「ありがとう」

「……こちらこそです……」

 どう致しましては何か違う気がした。こちらこそも何か違う気がしたけど、口にするならこっちがいいと思った。

「おやすみなさい、ベル」

「おやすみなさい、フレイヤ様。シルさん」

 緊張に支配された二つの鼓動がユニゾンする。重なる音色は不格好ながら綺麗で、しかし酷く喧しい。

 それでも。今夜はよく眠れそうだ。

 繋いだ右手や左腕から伝わる暖かさは、そう思わせてくれた。

 

× × ×

 

「っ……わ……!」

 朝。

 目を覚ました僕の視界に飛び込んで来たのは、瀟洒な寝巻き越しにどーんと量感を主張している、フレイヤ様のお胸。大声を上げそうになるのをどうにか堪え、可愛らしい寝顔を曇らせないようそろりそろりと布団を……出られなかった。

「やぁ……もぉすこし……」

 寝言なのかなんなのか、とろけるような甘い声を出したフレイヤ様にぎゅっと抱き寄せられてしまったからだ。

 その間僕に出来たのは、置き物になることだけ。鼻先が擦れ合う距離でフレイヤ様の寝顔を眺める以外の行動は何も取れず。老若男女も神も人も問わず世界の誰からも羨ましがられるだろう至福だというのは理解しているけれど、万が一にも不敬を働くわけにはいかない僕にはちょっとした拷問ですらあった。

「ん……ベル? ぅ……お、はよ……!?」

 彫刻と化している僕が鼻先にいるのはフレイヤ様の想像していた目覚めとは違っていたらしく、起きたてほやほやのフレイヤ様の目が瞬時に見開かれたのがとっても印象的だった。あと……可愛かった。

 今朝は鍛錬を中止し、フレイヤ様が目覚めるなり急ピッチで朝食を用意した。体内の器官のあちこちが安寧を寄越せと喚き散らしていたもので、こうせざるを得なかった。

「私が朝ご飯を用意したいと知っていながら私を置き去りにして勝手をした罰をあげるわ。貴方が全て、私に食べさせて」

 その結果、全力で不貞腐れたフレイヤ様に求められるまま、ひたすらにあーんをすることになった。フレイヤ様に、僕の膝上に座ってもらって。だってそうしてって言うんだもの……。

「どうしたの? そんなに私の唇が気になる? 口移しでもしてみる?」

 よーし今朝もフレイヤ様は絶好調だあ。髪を頬を腕を胸を脇腹を背中を太腿等々を撫でられながらもやりきった僕、よく頑張りました。

 で、現在。

「そこ、大きな石があります。気を付けてください」

「ベルさんは心配性ですねー」

 合流初日に着ていたニットセーターとスカートの組み合わせを再度纏っているシルさんと横並びで、うっすらと残る朝靄の中を歩き、村から少し離れた崖上を目指して歩いている真っ最中。

「以前から知っていましたけど、ベルさんの手って意外と大きいですよねー」

 しっかりと、手を握りあって。

「僕も一応男なので」

「その辺の女の子よりも華奢に見えますもんねーベルさんは。顔立ちも中性的な感じしますし」

「うぅ……」

「あ、気にしてました? 大丈夫ですよ! それもベルさんの個性! 女装をしたらとっても映えそうで素敵じゃないですか!」

「何もよくないですよそれ!」

「今度私がお化粧してあげます! 洋服も貸しますから!」

「それ悪ふざけ越えていじめですからね!?」

「えっ? 下着も私のを借りたい? もー! ベルさんのすけべー!」

「聞いて!?」

 取り止めのない言葉を朝の山々にばら撒きながら進む僕たちの足取りは軽い。鼻歌混じりで繋いだ手を大袈裟に振り回すシルさんは、見るからにご機嫌なご様子。今朝のあれこれが変に尾を引いていなくて一安心だ。

「見えました」

 程なくして、目当ての場所が視界に入った。

「村から近いんですね」

「遠くに作ったら寂しがるかなと思って……」

「ベルさんらしいなあ」

 くすくす微笑むシルさんは、もう僕の腕を振り回していなかった。

「……変わってないなあ……」

 半年以上の期間を経ても、そこは何も変わっていなかった。

 村より少し高い位置にある、特に絶景が拝めるでもない崖の上。

 石と木だけで作ったそれはあまりに不格好。

 今の僕ならば、もう少しだけでも整ったものを作れていたと思う?

 そんな問い掛けを胸に秘めたまま、僕は向き合った。

「……久しぶり。お祖父ちゃん」

 洒落っ気も飾り気もなく、名前すらも記されず、遺骨も何も埋まっていない、お祖父ちゃんの墓標と。

「…………」

 困った。何も言葉が出て来ない。伝えたいことも聞いてほしいこともたくさん……本当にたくさんあるんだけどな。

 言葉に詰まった僕が産んだ沈黙は、それほど長いものではなかったと思う。

「私ははじめましてになります。シル・フローヴァと申します」

 丁寧な挨拶が、山々を風が駆け抜ける音ばかりだった停滞に風穴を開けたから。

「初対面で何をと思われるかもしれませんけれど……どうしても、貴方にお礼が言いたくて」

 繋いでいた手を離し、一歩二歩三歩とお祖父ちゃんに歩み寄るシルさん。

「……貴方のお孫さんは、私の日常を鮮やかに彩ってくれました」

 墓前に白い花を供えながら、言葉を繋ぐ。

「両手じゃ全然抱えきれないくらい、たくさんのものを私にくれました」

 折っていた膝を戻し、背筋を伸ばす。

「何も知らない私に、恋を教えてくれました」

 胸を張り、真っ直ぐに。薄鈍色の瞳は、お祖父ちゃんだけを映しているのがわかる。

「私を……救ってくれました」

 さっきまで僕と繋がっていた右手は、自身の胸元へ寄せられていた。

「全て、貴方から始まっていたのですね」

 僕の位置からじゃ彼女の横顔は見えないけれど、見なくたってわかる。

「ありがとうございます。ベルさんの背中を押してくれて」

 穏やかに微笑んでくれていることくらい、わかるに決まっている。

「本当に……ありがとうございます」

 感謝を重ねる後ろ姿から白い吐息が流れ、僕を掠めて飛び去っていった。そのまま数歩下がった薄鈍色の髪が、僕の横を通り過ぎた。

「えいっ」

「っと……」

 ぐっ、ぐいっ。背中に優しい衝撃が二つ。

「ふふ」

 次は誰の番でしょーか?

 振り返ると、僕の背中を押した柔和な笑顔の持ち主から、言外のメッセージを頂いた。

「…………」

 返事はやめておいた。簡素な感謝の言葉になりそうだったから。そういうのは、もう少しだけ頑張ってからでもいいはず。

「…………僕……さ……」

 穏やかに、けれど忙しなく浮かんでくる情景や感傷たち。それらを脳内処理している最中だのに、僕の口は勝手に言葉を吐き出していた。

「冒険者になれたよ」

 お祖父ちゃんがたくさんのことを僕に教えてくれたから。僕の背中を押してくれたおかげなんだよ。

 お祖父ちゃん言ってたよね。なりたいと言うならガンガンなっちまえと思うけど、お前は冒険者に向いてないかもなあって。

 自分でもそう思う。こうして戦ってきた今でもそれは変わらない。この村で土と戯れている方がずっと似合っていてずっと自然なことなんだって痛感させられたよ。

 立派になったってみんなは言ってくれたけど、昔から僕は臆病で弱っちいまま。ステイタスは上がっても、全然強くなれていないと思っているよ。

 大切な人がたくさん出来た今は、お祖父ちゃんと二人で生きていた頃よりもっと臆病になっているかもしれないね。

 こうしてお祖父ちゃんと見つめ合っている今だって、頭に浮かぶんだ。大切な人たちの顔が。

 みんなを悲しませたくない。笑顔を曇らせたくない。だから怖い。臆病にもなる。

 それでも今日まで頑張れたのは、大切な人たちが傷付くのも泣くのも見たくないから。がむしゃらに走るしかなかったから。

 僕はお祖父ちゃんみたいに強い人じゃないから。それだけで精一杯なんだ。

 僕ね、お祖父ちゃんに憧れてた。お祖父ちゃんみたいに優しくて、強い人になりたかったんだ。

 儂なんか目指してどうするって昔みたいにお祖父ちゃんは笑うんだろうけど、僕が初めて憧れた英雄がお祖父ちゃんだってことは、僕だけの宝物だから。

 だから僕、言い続けるよ。馬鹿だなあってお祖父ちゃんに笑われても。

 僕は、お祖父ちゃんみたいに。

「……強くなりたい」

 いや。いつかきっと、お祖父ちゃんよりも。

「強くなる」

 口にするのはまだ少し恥ずかしいけど。

 自慢の孫なんだぞって、お祖父ちゃんを笑わせてあげられるような。

 大切なもの全て失わないような。守りたいもの全て守れるような。

「英雄に……なりたい」

 だから。

「……頑張ってくるね」

 たくさんの約束を果たして。今の自分にもう少しだけでも胸を張れるようになったら報告に来るよ。土産話をどっさり抱えてさ。

「頑張るから……いっぱい……」

 冷たい山風が僕たちを撫でる。返って来るわけない返事を待つには、ちょっと寒過ぎるかな。

「……暖かくなったらまた会いに来るよ。約束ね」

 名残惜しさを振り切るようお祖父ちゃんに背中を向けると、後ろ手を組んだシルさんの笑顔が僕を迎えてくれた。

「もうよろしいんですか?」

「……はい」

 もっとたくさんの言葉を届けたいし、届けなければならない言葉だってたくさんあるけれど、今はあんまり上手に言葉に起こせそうにもないし。

 またいつか。今日が最後なんかに絶対しない。何があっても生き抜いて、元気な姿を見せに来る。そう約束をした。今はそれだけでいい。

「……行きましょうか。戻ったら村を出る準備を」

「その前に」

「し……は、い……!?」

 シルさんの隣に並んだ途端、正面から抱き締められた。

 相変わらず乗りこなせない動揺や緊張や羞恥。しかし今は、困惑が勝った。

「……どうして?」

「ベルさん、頑張ったから」

「……僕、震えてました?」

「いいえ」

「泣いていました?」

「いいえ」

「そんなに頼りなく映ってました?」

「いいえっ」

 僕に寄せた頬を三度横に振った人の否定の言葉は、朝の寒さを忘れさせてくれそうなくらい暖かった。

「こうしたいと思っただけなんです」

「……お祖父ちゃんに見られてます」

「見せつけちゃいましょう」

「可愛い女の子と抱き合うなんて心底羨ましいそこ代われって怒ってますよ」

「いくらベルさんのお祖父様だってこんなことしてあげるつもりはありませんっ」

「……シルさんにこうしてもらえるのは、僕とリューさんたちだけなんですね」

「そうなんです。選ばし者の特権です。胸を張ってください。なんちゃって」

「はは……」

「もう少しこのまま。もう少しだけ、私の勇気を分けてあげますから」

「勇気?」

「たくさん使っちゃったでしょう? この後また使わなきゃなんですから、補充しないと」

 なるほどと腑に落ちると同時、なんですかそれと変な笑いが溢れ落ちそうになる。それを飲み込んで、シルさんに身を任せる。

「私の勇気は特別製なんですよー? 自分で言うのもなんですが、なかなかどうしてガッツのある女みたいなので、私」

 誰かと誰かの関係が終わりかねないラインの向こうへ何度も飛び込んで、何度も想いを伝えてくれた人だ。僕が知らなくて誰が知っていると言うのか。

「……知ってますよ……」

「んっ……」

 そう返しながら、シルさんの背中に腕を回す。薄く開かれた唇から零れ落ちた甘い響きが、僕の心拍をどっと跳ねさせる。

 またやっている。またも僕は、越えてはならないラインを越えている。

 それでも。きっと言い訳にしかならないのだろうが。

 今この瞬間。過去や理屈や理由を優先させたくない。

 どんな形でもいい。今貰ったものを、今返したい。そう思ったんだ。

 それに。

『いけ! そうだ! 抱けーっ!』

 直ぐそこで。お祖父ちゃんが叫んでいるみたいだし。

「ベルさん、ドキドキしてる」

「当たり前じゃないですか……」

「私だってドキドキしていますよ?」

「わかってます…………言っても、お祖父ちゃんの墓前ですよ? そんな所で何をしてるんだ僕たちは……」

「夫婦円満を見せ付けている?」

「あのー?」

「わかっていますって。はい、おしまいっ」

 パッと僕から距離を取り、あっちこっちに視線を飛ばしながら薄鈍色の髪をくしくしと弄り始めるシルさん。特にサイドの方をくしゃくしゃなくらいに弄っている。

「あ……!」

 それが、僕に押し当てていた頬の赤さを隠したいが為の行いなのだと理解出来た。出来てしまった。

「な、なんですか?」

「…………なんでもないです」

「嘘! 何か言おうとしてました!」

「気の所為ですよ」

「可愛いか超可愛いか結婚してくれか僕の子供を産んでくれって言おうとしてました絶対に!」

「なっ!? し、してましぇんから! そっ! そろそろ行きましょう!」

「あ! 待ってくださいーっ!」

 おふざけみたいな四択の中に正解の一つが紛れ込んでいた所為で裏返る声。

 いや、可愛いでしょう。あんなの超可愛いって思って当然でしょ。あ、二つ入ってた。

「待ってって言ってるじゃないです……かっ!」

「おっ、と……!」

 背中に激突した何かが落っこちないよう反射的に全身を駆動。臀部に触れたりすることなく膝裏に腕を差し込めた僕、よく出来ました。

「やりたいこと、叶えてくれるんですよね?」

「……村に入るまでですよ?」

「わかってますよー。ベルさんは恥ずかしがり屋さんですからねー」

 シルさんのやりたいことの一つ。おんぶ。

 また一つ、叶えてあげられた。

「……照れ隠しでああいうことするシルさんもいだだだだっ!?」

「あーごめんなさーい手が勝手にー」

 頬を抓るという再度の照れ隠しに涙目になる僕。Lv.5になったって痛いものは痛いんです。

「……行きましょうか」

「はいっ。安全運転でお願いしまーす」

「りょ、了解致しましたー」

「それじゃあ、出発進行ーっ!」

「お、おーっ……!」

 照れ隠しが上手でない二人で一つの影を揺らしながら、僕たちは村へと足を向けた。

 大切な人の為に、大切な人が手向けてくれた白い花が、大きく手を振るみたいに揺れているのを背に。

 

× × ×

 

「忘れ物ありませんか?」

「はいっ。問題ないです」

「荷物、もらいます」

 シルさんから手渡された旅行鞄を馬車に載せ、僕の荷物の隣に滑らせる。採取した薬草もある。僕も忘れ物は無し。準備完了だ。

「行っちまうのかあ」

「あっという間だったねえ……」

「もっといてくれたらいいのにー!」

 村の外に停めた馬車の前には、仕事もそっちのけで村のみんなが集まっている。今日でここを発つ僕たちを見送る為に。

「そういうわけにもいかないんだ……」

「ねえベルー。もう行っちゃうのー?」

「うん……」

「やだー! もっとベルと遊びたいー!」

「村に帰って来てよ!」

「帰って来てくれたらあたしたち嬉しい!」

 首を縦に振った瞬間、小さな子供達の大きな声が飛んで来る。打算などない純然で純粋な願いが僕の胸を強く強く打ち付ける。

「今更バタバタ言ってもとは思うが……子供らの言う通り、帰ってきたらどうだい?」

「儂らも若くないし、アテにさせて欲しいというのが正直な所だ」

「打算だけではないぞ? お前さんとまたこの村で共に暮らせるとなったら、これほど嬉しいことはないからね」

「活気付くだろうなあ」

「シルちゃんとここで二人で暮らしたらいいじゃない!」

 矢継ぎ早に、今度は大人たちが僕の意思を揺さぶりに掛かる。僕の成長を見守ってくれていた人たちの切実な願い。聞こえぬふりをしろと言われても無理だ。

「ベルさん」

 困ったように笑うばかりの僕の耳に届く声。心配や同情とも違うような、真っ直ぐな響きに聞こえた。

 背中を押されているんだ。手伝ってくれているんだ。僕が、僕らしく走り出せるように。

「……わかってます」

「ふふ……」

 小さく微笑むこの人から勇気のお裾分けをしてもらっていなければ今頃逃げ出していたか、少しの間だけならとか弱腰な折衷案を提示していたかもしれない。

「……ごめん。まだ……帰れない……」

 それくらい、僕にとっては勇気が必要なことだった。

 家族同然のこの人たちから伸ばされた手を、払い退ける行為は。

「まだ、やらなきゃいけないことがたくさんある。守らなきゃいけない約束もたくさんあるんだ……」

 たくさんの人の笑顔。たくさんの約束。その全てに背中を向けることなど出来ない。

 お祖父ちゃんの前で立てた誓いを果たす為にも。僕はここにいられない。

「だから……本当にごめんなさい……!」

 バッと頭を下げた。お隣さんじゃない誰かが息を呑む音が聞こえた。

「私からも、よろしいでしょうか」

 そのまま地面と睨めっこをしていると、耳に馴染んだ女性の声が静寂に穴を開けた。

「この数日間、大変お世話になりました。楽しい日々を私たちに与えてくださって本当にありがとうございました。そして……ごめんなさいみなさん。私はどうしても、ベルさんを連れ帰らなくてはなりません。正直に言ってしまえば私情もありますが……それ抜きにしてもベルさんは、今のオラリオになくてはならない存在なのです。オラリオの為、延いては下界の全ての為。ベルさんの力が必要になる日が必ず来るんです。ですから……ごめんなさい」

 視界の片隅に、薄鈍色の髪が映り込んだ。僕の背中を押してくれた人が、頭を下げているらしい。なんなら、僕以上に深々と。

「し、シルさ」

「いいから」

 いいんです。そう付け加え、シルさんは言葉を繋いだ。

「皆さんになんと言われようとも私たちはオラリオに戻らなくてはならないのです。本当にごめんなさい……」

「お、おいおい……」

「シルちゃんまで……」

「シルお姉ちゃん……うう……」

 この数日ですっかり村のアイドルになってしまった女の子が頭を下げる姿に、ザワつきの声が瞬く間に膨れ上がる。

「はいはいもうやめやめ!」

 重くなる空気に耐え兼ねたのか、誰かが声を張り上げた。

「やめようやこういうの! ベルはもう立派な冒険者なんだぞ!?」

「冒険者から冒険を取り上げちまってどうすんのって話よね」

「そうそう。寂しいのは本当だけど、ベルがいるべき場所はここじゃないんだろうよ」

「こうなるのはわかってたろうが。景気の悪い顔はやめようや。お互いにさあ」

「それどころか誇るべきだろうが! オラリオだけじゃなくて下界の命運だってベル次第って言われてるんだぜ!?」

「確かにそうじゃなあ」

「ほらほら! ベルもシルちゃんも頭を上げて! 俺たちゃ二人のそんな姿が見たいわけじゃないんだ!」

 言われるがまま顔を上げると、みんなが笑っていた。比喩でもなんでもなく、一人一人が笑顔を見せてくれていた。

「ベル!」

「な、何……?」

「気が向いたらまた顔見せてくれよ! そんくらいでいいんだ!」

「え?」

「だから考え込むな! 悩むな! お前を待ってる連中の元にさっさと帰ってやんな!」

 お祖父ちゃんと一際仲の良かったおじさんが、歯を見せて笑っている。その笑顔に引っ張られるように、村のみんなが大きく口を開け始める。

「そーそー! 村の事なら心配いらないからね!」

「僕たちが大人になったらみんなの分までどーんと働くんだから!」

「そんなに心配しなくていいんだからね、ベル。あたしたちだってまだまだ現役なんだから」

「悪かった! 重荷を背負わせようとしてた! 本当にすまん!」

「そういうのもういいから! あ、でも時々でいいから村に来てくれよ! あんたのファミリアの連中にも会ってみたいし!」

「あーそれ! いつかファミリアの人達も連れてきてくれよ! マジで!」

「いつもベルがお世話になってます! 面倒掛けてごめんなさい! って言わなきゃなんねえからよ!」

「そうじゃなあ……ほっほっほ……」

「シルちゃんもまた遊びに来てくれよ!」

「ベルと一緒にさ! 待ってるからね!」

「何もない村だけど美味いメシくらいなら出せるから!」

「その時はまたお祭りしようね! 約束っ!」

 思い思いの力強い言葉が僕とシルさんの胸に刺さる。様々な感情の波に晒された所為だろうか。僕の目頭が、かあっと熱を帯びているのは。

「ベル」

「村長さん……」

「お前の冒険は、まだ始まったばかりなのだろう?」

「……うん……」

「だったら行きなさい。迷わずに。なあに、安心せい。ベルが思っているよりも強い所なんだから。お前が生きた、この村は」

「知ってるよ……」

「私たちはここで。ベルはオラリオで。それぞれ頑張って生きていこう。またいつか、元気な姿でベルが帰って来る。その日を楽しみに、ここでお前を待っているからね」

「……ありがとう」

「何を言う。私たちこそ、ありがとうだよ」

 皺だらけの頬をくしゃっと歪めて、村長さんが笑う。

「うん……!」

 昔から変わらないその笑顔が、強張った僕の表情筋や心を解きほぐしてくれた。

「はいはい湿っぽいの終わり! じゃあこれ! 村の作物な! ファミリアの人たちと食べておくれ!」

「え!? こ、こんなに!?」

「こっちの袋はパンとか入ってるから! 痛む前にさっさと食べちまうんだよ!」

「多くない!? 食べきれるかな……」

「こっちは酒だ! ベルご所望の果実酒な! ベルに一本シルちゃんに一本、御者のお兄ちゃんにも一本だ! 途中で割ったりするんじゃないぞ!」

「大瓶三本!? こんなに貰えないよ!」

「ベル! ギャーギャーうるさい!」

「黙って持ってけ!」

「俺たちの自己満足に付き合え!」

「空気読め!」

「顔を立てることも出来ないのかガキんちょ!」

「ご、ごめんなさいっ! 持ってく! 持ってくから! ありがとうっ!」

「あ、ありがとうございます……!」

「それでええそれでええ」

 ボロカス言われてしまったうえ勢いに押し切られてしまった。シルさんも流石に驚いたのか、目を白黒させながらあちこちに頭を下げている。

「わたしたちからもプレゼント! これっ!」

 僕たちの前でそれを広げた女の子が、にっと白い歯を見せた。

「これ……!」

「わあ……!」

 僕とシルさんの驚嘆の声が重なった。

 多色多様な布地のパッチワーク。そこに絹や麻。竹や籐。木の実や草葉。彩り豊かな自然素材をこれでもかと使用し繋ぎ合わせ、重なる炎と鐘を見事に形作っている。

 それは紛れもなく、僕らのホームで毎日目にしているそれ。

「ヘスティア・ファミリアのエンブレム! みんなで作ったの!」

 僕たちの旗印だった。

「この前の戦争遊戯(ウォーゲーム)の時、行商から買った新聞に書いてあったのを見た子供らが、これを作りたいって騒いでね」

「流石に多少の入れ知恵はしたけど、最初から最後まで子供らだけで作り上げたんだよ」

「ベルが村に着いてからの着手だから、なかなか大したものじゃない?」

「そうだね……みんな凄いや……」

「えへへー!」

「いい感じに出来てるでしょー!?」

「これも持ってって! はいっ!」

「……ありがとう……」

 眩しい笑顔を浮かべる子供たちに手渡されたそれを、シルさんとの間に広げてまじまじ眺める。

「堪らないですね……」

 シルさんが、僕だけに聞こえるよう囁いた。

「はい……」

 頷く僕の声は、掠れていた。

「えっと……本当にありがとう……何から何まで……」

「お? 泣くか?」

「なっ!?」

「ベルは泣き虫だもんな!」

「ベル全然変わってなーい!」

「な、泣かないよ!? 泣かないけど……嬉しくて……」

「やっぱ泣くじゃん!」

「男の涙なんて誰も得しねーぞー!」

「あたしらには結構需要あるけどね」

「茶々入れんな! つまんねーもの見せるくらいならさっさと行った行った!」

「俺らも仕事戻らなきゃだしよ!」

「ほれ! 御者さん待ってるぞ!」

「オラリオに薬草を届けるのじゃろ?」

「ベルを待ってるヤツらにさっさと顔見せてやんな!」

「う、うん……」

 気圧されるまま、貰ったばかりのお土産を馬車の中に詰め込み、シルさんの手を取り先に馬車へ乗り込んでもらう。子供たちが作ってくれたパッチワークだけは折り畳むわけにもいかず、両手でしっかり持ったまま。あとで額縁か何かに入れようかな。

「えっと……じゃあ僕たち、行くね?」

「おう! 行ってこい!」

「頑張れよ! 村の英雄!」

「え?」

 村の英雄。英雄ときた。

「俺らの誇りー!」

 誇り。僕が。村の英雄で、みんなの誇り。

 分不相応だし、似合いもしない。僕はそんな大層な存在じゃあない。

 それでも、その真っ直ぐな思いと言葉は。

「……じゃあね! みんな!」

 力と、勇気の出る言葉だった。

「いってきます!」

 大きな声で叫んで、銘々の返事を全身で受け止めながら馬車へ飛び込む。お願いしますと御者さんにシルさんが伝えると、穏やかな振動が僕たちを揺らし始めた。

「みんな元気でね! 本当にありがとう!」

「またお会いしましょう! とっても楽しかったです! 今日までありがとうございましたっ!」

 シルさんが落ちないよう体を支えつつ、開け放ったままの馬車の扉から二人で顔を出しみんなに手を振る。いってらっしゃいとかまた来いよとか身体に気を付けろとか、元気の出る言葉の数々に押し出されて速度を上げていく馬車。みんなの姿が見えなくなるのは、あっという間だった。

「……見えなくなっちゃいましたね」

「はい……」

 ぽんぽんと肩を二回叩かれた。中へ戻りましょうの合図だとわかったので、馬車の扉を閉めて二人横並びで座る。極めて自然に、肩と肩がぴったりとくっ付いていた。

「大切な約束がまた増えましたね」

「絶対に守らないといけない約束です……」

 膝の上に乗せた子供たちからのお土産をなぞる手が、少し震えている。知って尚、僕の手は止まらない。

「村の英雄。皆さんの誇り。そう言われていましたね」

「驚きました……」

「ベルさんのことだから、自分はそんな存在じゃない。そう言われるようなことは何も出来ていない。とか思っているんでしょう?」

「…………」

 言葉に詰まる。村の子供たちの思いの結晶をなぞる指が止まる。

「だったら、村のみなさんを嘘吐きにしないようにしなきゃですね」

「!」

「村の英雄。皆さんの誇り。またそう言ってもらえるような凱旋をしましょう。そうしたら、頑固なベルさん自身も納得出来るでしょう?」

「…………そうかもしれません……」

「頑張るしかありませんね」

 お祖父ちゃんに誓った。みんなに約束した。また会いに来ると。

「……僕、頑張ります」

 だったら、やらないと。

 村のみんなに。お祖父ちゃんに。シルさんにだって。

 みんなに見せたい。元気にあの村へ帰って行く僕を。

 今日よりずっと、自分自身に胸を張れるようになった僕の姿を。

「もっと……強くなりたい……」

 強くなる。

 そう付け足した自分の声は、やっぱり掠れ気味だった。

「……また、走り出せましたね」

「え?」

 顔を上げ、僕に肩を寄せる人の方に視線を向けると、鼻先が擦れ合いそうなほど近くで、大輪の笑顔を咲かせていた。

「ベルさんが走るのに疲れた時は、私が身体も心も癒してみせます」

「……シルさん……」

「大丈夫。貴方なら、大丈夫」

 伸びてきた右手が、僕の頭を撫でた。

「どうかそのままのベルさんでいてくださいね」

 小さな子供を諭す母親みたい。

 優しさとか、思いやりとか。僕に届いた暖かな想いに胸を揺さぶられている思考の片隅で、そんなことを思った。

「もしかして、ハグの方がよかったですか?」

「な、何言って……!」

「何言ってるんですかはこっちのセリフですよー。ハグ以上のこと、もう散々したじゃないですかー。もしかしたら妊娠も」

「してないしてないそこまでしてないっ!」

「男の子も女の子も欲しいのでハッスルしちゃいますからね! 私っ!」

「ハッスルしないで!?」

「ふふ……やっとベルさんらしくなった」

「へ?」

「そうやって誰かに揶揄われて、綺麗なお目々をパチクリさせてるくらいの方がいいですよ、ベルさんは」

「わっぷ……!」

 前髪周りを仕切りに掻き回された。視界に飛び込む白い髪の多さに驚く。少し髪が伸びたのかもしれない。

「もしもまたベルさんがあの村へ帰る時は私に声を掛けてください。たとえファミリアの皆さん水要らずの旅行とかでも。絶対ですよ?」

「もちろんです。シルさんはもう、あの村の一部なんですから」

 神様やリリたちは大騒ぎするだろうから説得には大変な苦労が伴うだろうけど、これは譲れないし譲らない。その時は、多少のドタバタくらい楽しんでみせるくらいの気構えでいよう。

「約束ですよ?」

「絶対守りますから」

「ふふ…………嬉しいなあ……」

「嬉しい?」

「次の機会の約束をしてもらえたこと。村の人たちにこんなにも良くしてもらえたこと。また来てねと言ってもらえたこと。ベルさんが愛する人たちを、こんなにも好きになれたこと。嬉しいことだらけでした」

「そう言ってもらえることが僕には嬉しいですよ……これ、お願いします」

「? ベルさん?」

 子供たちからの贈り物をシルさんに預け、御者さんの背中が見えるよう作られている小窓を開けた。

「あの、すいません! お願いがあります! えっと……地図を貸してもらえますか!?」

 狭い隙間を通して渡してくれた地図を見ながら、あーだこーだと御者さんに注文をする。僕のお願いを聞き入れてくれるらしく、にっこりと微笑みながら頷いてくれた。

「よし……」

「えっと……ベルさん?」

「ああ、すいません。ちょっと御者さんにお願いをしていました」

「お願い、ですか?」

「順調に進めば明日のお昼くらいになると思うんですけど、寄り道をして行きましょう。詳細はその……着いてからのお楽しみということで」

「はあ……でも、寄り道? いいんですか?」

「勿論です」

 正直、良くはない。

 これからのダンジョン攻略へ向けての準備。リューさんを加えての連携の確認。危険過ぎる新顔が加わったばかりの異端児(ゼノス)たちのこと。護衛に付いてくれている人たちが強過ぎるとはいえ相変わらず狙われ続けている春姫さんのことなどなど、一週間以上オラリオから離れてしまうには考えなくてはならないことが多過ぎる。

 しかし。

「それに、シルさん言ってたじゃないですか」

「私?」

「オラリオの外でしか作れない思い出をもう少し作りたいって」

 それを教えてほしい。それを叶える。

 そう言ったのは僕。ちゃんと自分なりに考えて、そうしてあげたいと思った。雰囲気に流されたわけじゃない……つもりだ。

 紆余曲折あったし、全てを笑い話にするにはまだ難しい箱庭でのあれこれはあったけれど。今日まで僕を支え、励まし、成長を促してくれたこの人の為に僕が出来る、恩返しの一つだと思うから。

「僕に出来ることで、シルさんの願いを叶えます。だから、もう少しゆっくり帰りましょう」

「…………」

「シルさん?」

「……膝枕も……ですよ?」

「抱っこやお姫様抱っこもまだでしたね」

「……期待しちゃいますよ?」

「応えられるよう頑張ります」

「…………んぅ」

「ほわっ!?」

 シルさんが、膝目掛けて倒れ込んできた。皺にならないよう、子供たちからの贈り物を向かいの席に逃がしてから。

「もう……なんなんですかぁ……」

「な、なん……はいっ!?」

「いつかとおんなじ……私がベルさんをドキドキさせたいのに……私がドキドキさせられちゃってる……」

「ちょおおおお!?」

 何を仰る可愛いお方! 膝の上で! うつ伏せで! 額をぐりぐり押し付けられて! ドキドキしないわけがないじゃないですか! 男の子ですよ僕! その……き、危険なエリア! とっても近いっ!

「よいしょ……」

 動揺しまくる僕の前でショートブーツを脱ぎ、ベンチの上で横になるシルさん。もちろん枕は僕の膝。足を伸ばしきるにはやはり狭いらしく、長いスカートが膝を頂点とした山を形成している。

「しばらくこのままで。いいですよね?」

「は、はい……」

 ドギマギしながら答えると、僕を見上げるシルさんが、赤らんだ頬を綻ばせた。

「…………ねえ、ベル?」

 赤らんだ頬はそのままで、シルさんが姿を変えた。

「貴方の話を聞かせてくれないかしら?」

 少し頭を浮かせて髪を解きながら、フレイヤ様は小首を傾げた。

「僕の?」

「村へ向かうまでは私が話してばかりだったでしょう? だから今度は貴方の番」

 まだ少し乱れていたのか、それとも単なる気まぐれか。僕の前髪に手を伸ばしくしくしと弄りながら、フレイヤ様はそう言った。

「ヘスティアやリュー。貴方から見た貴方の家族のこと。貴方が本当の娘のように可愛がっている竜の娘や、その仲間たち。貴方の想い人のことも。深層に落ちた時の話も。話して大丈夫だと思う範囲でいいから、私がまだ知らない貴方を私に教えて欲しい。安心して。私との逢瀬なのに他の女の名前を出すだなんて、とか言うつもりはないから。あんまり羨ましいエピソードが出てきたら頬を抓るくらいはしてしまうかもしれないけれど」

「も、もうひへまふ……!」

「ふふ……」

 悪戯な笑顔できゅっと頬を抓ったと思えば、可憐な微笑みで傷んだばかりの箇所を優しく撫でてくれる。

 ほんの一瞬でたくさんの表情を見せてくれる人だと、改めて思う。

「いつか、貴方に昔語りをさせた時、貴方は笑っていなかった。そんな余裕もないくらいに貴方を追い込んでしまったから。他ならない、私自身が」

「!」

 いつか。あの箱庭の中、毎夜のようにフレイヤ様の寝室で語らった日々のことだ。

「もうあの時とは違う。貴方を苦しませる為でもなく、貴方にとって都合の良い理解者になる為でもなく、ただ貴方を知りたいの。叶うなら、貴方を支えているもの全てを知りたい。そう思うの」

「フレイヤ様……」

「どうかしら?」

「……話上手な方ではないですけど……」

「それでいいの。貴方の言葉で伝えてくれることが重要なのだから」

「……じゃあ…………頑張ってみます……」

「ありがとう。ベル」

 目を細めて笑うフレイヤ様の笑顔がやけに眩しくて、話題を探すフリをするついでに視線を逸らしてしまった。

「えっと……何から話そうかな……じゃあ」

「その前に、一つお願いがあるの」

「と言いますと?」

「頭を撫でてくれる?」

「……失礼します……」

「んっ……ふふ…………嬉しい……」

 美しい銀の海に指を滑らせた途端、自らの手を僕の手に重ねた女の子の姿は、甘えん坊の子猫みたいだった。

「可愛い……」

「え?」

「へ?」

 可愛いと、あんまりにも自然に口走ってしまった自分。

 その言葉に目を丸くし、赤らんだ頬の熱量をぐんと引き上げる彼女。

 時間が止まったみたいに見つめ合う僕たち。

「……ベル?」

 先に動いたのは、まだ平静を取り戻し切れてはいない、彼女の方。

「な、なんでしょおかぁ……」

「もう一度聞かせて?」

「…………僕がオラリオに来たのは」

「ちょっとベル?」

「お祖父ちゃんの教えで」

「ベルー?」

「話続けますねっ! それで」

「私の話を聞きなさい。こら、もう一度聞かせてと言っているでしょう……私の目を見なさいベル!」

「む、無理ですぅー!」

「言っちゃったー的な感じじゃなくて、ちゃんと言って欲しいの! 旅中、娘の姿では何度か言われているけれど、こっちの姿では一度も言われてないんだから!」

「そんなことなくないですか!?」

「フレイヤ調べだとそうなの! 観念して言いなさい!」

「言えませんーっ!」

「言って!」

「勘弁してくださいっ!」

「わがまま言わないの!」

 瀟洒な馬車が行く。聞けば、何言ってんのこいつら? と頭を痛めてしまうようなやり取りを、大音声で撒き散らしながら。

 きっと誰もがわからない。元、と頭に付くけれど、馬車の中で大声を上げている女性が、天界下界の隅々にまで高名が届く美の女神その人であるだなんて。

 ほら、だって。

「いいから言うの! 私は! 可愛いってベルに言われたいのっ!」

 こんなにも普通で、こんなにも可愛い。

 

× × ×

 

 オラリオを出発した日と同じように、天気は快晴そのものだった。

 帰路に着いた僕たちは、村へ向かう際に通った道から少しだけ外れ、回り道をしながらオラリオを目指した。

 出発初日は特に変化は無し。訪れた宿場にて、部屋は二つ取らない。絶対に同じ部屋で一夜を過ごすと、フレイヤ様が頑なに譲らなかったことくらいだろうか、変化らしい変化は。村へ向かう際に利用した宿場では部屋を分けたというのに。

 楽しむようにころころと姿を変えては僕に迫り、特別何かを求めるでもなかったけれど、とにかく触れ合おうとする彼女に僕は翻弄されっぱなし。フレイヤ様が疲れて眠るまで、たくさん話をして、たくさん揶揄われた。

 翌日。今日。

 変わらず快調な旅が続く中、太陽が一番高い所にある間に、フレイヤ様にだけ伝えていなかった目的地に辿り着けた。

「ベル? ここは?」

 至極真っ当なフレイヤ様からの問い掛け。僕も来るのは初めてなんですけどと前置きをし、答えた。

「ここ、地元じゃ有名な観光地なんです。観光地というか、避暑地みたいなものですけど」

 山中にあるにも関わらず、とても雄大な湖。その湖のほとりには、二階建てながら横に広く伸びている、僕たち田舎者では泊まることなどとても叶わないような大きな旅館がある。中には豪勢なレストランや温泉、エステなどもあるらしい。湖では釣りも出来たり、小舟で湖を一回り、なんてことも可能らしい。

 話として知っていただけで来るのは初めてな僕は、オラリオにある有力派閥の本拠地のどれよりもわかりやすく誰かに魅せる為に作られている宏壮たる佇まいに気圧されてしまった。

 フレイヤ様はそうでもないのか、首を傾げてばかりだったけれど。

「今日はこれ以上進まないで……ここで遊んで行きましょう」

 そう伝えると、ようやく笑顔を作ってくれた。駆け出す勢いそのままに抱き付かれ、抱っこを強制された僕が羞恥と緊張で死にそうになっていたのは……まあいつも通りか。

 これが、フレイヤ様には内緒でこっそり考えていた、寄り道の正体。

 人目に付くからと街娘の姿になった彼女と僕は、まず部屋を取った。

 戦争遊戯(ウォーゲーム)の、ベル・クラネル様!? 

 と、受付の方にめちゃくちゃ驚かれた。途端に熱烈歓迎モード。これからもご贔屓に! 第一級冒険者様ご愛顧と喧伝させて頂いてもよろしいでしょうか!? などなど、気が早いし身に余るし正直困りますどうしような文言をこれでもかと投げ付けられて表情の強張る僕。それを見て笑うシルさんの一声で、当然のように僕と彼女は同室となった。その若さでご結婚まで!? などなど散々勘違いされながら手続きをした。僕らのやり取りを眺めるシルさんの嬉しそうなこと嬉しそうなこと。誤解、解けているといいんだけど。

 仕事だからと遠慮しきりだった御者さんにも一部屋借りて、旅の疲れを癒してもらうことにした。その後は特に御者さんと合流することはなかったけれど、とてもとても楽しんだご様子で、翌日の出発時には何度も感謝を告げられた。振り回しているのはこっちなのに。いい人なのだろうなあ。

 というか。そもそも一泊するにもお値段があれ過ぎて、三部屋借りることなど不可能だった。この旅が終わったらダンジョンにて汗を流しまくる毎日になりそうだ。

 とりあえず、魚釣りでもどうでしょう。釣った魚はホテル側で捌いてくれるそうですよ?

 部屋に荷物を置き、今後どうしようかと相談をした。そこで、僕がやってみたいことも加味した提案をしてみたのだが。

「してみたいです! 魚釣り! 一度もしたことないんです!」

 びっくりするくらいに前のめりな反応を示すものでえらく驚いた。

 ということで。巨大な湖の北東部の一区画へと足を運んだ。そこだけが釣り専用エリアとなっているらしい。僕たち以外の客はおらず、そこそこ広い釣りエリアは僕たちの貸切状態に。木の枝等で自作した釣竿ばかり使っていた僕には信じられないくらい立派な釣竿を二本、タモなどもレンタル。撒き餌や釣り餌は別途購入。係員さんから手解きを受けるなり、誰も気が付きそうにないからいいでしょうと、シルさんからフレイヤ様にチェンジ。勿論フードで顔を隠すのは忘れずに。

「? どうかしたかしら?」

 釣竿を肩に乗せるフレイヤ様という、この先絶対見られそうにない姿に変な笑いを溢しながら、レッツフィッシング。

「あ、来ました!」

 すると早速、僕の竿に当たりが来た。自分の竿そっちのけで僕の様子を凝視するフレイヤ様の前で、まずは一匹確保。サイズは小さめながら、幸先の良いスタートに僕もフレイヤ様もにっこり。

 が。僕たちが笑顔でいられたのは、ここまでだった。

 次の当たりは僕。次の次も僕。次の次の次も僕。釣った魚を保存しておく保冷庫の中にはあっという間に四匹の魚の姿。

「……ベルが近くで釣っているから釣れないのかも」

 眉をへの字に曲げたフレイヤ様がそう仰ったので、フレイヤ様から距離を取って座り直した。

 次の当たりはそれから間もなく。僕の釣竿に。今度の獲物は大きめだった。

「あまり離れないで頂戴。寂しいでしょう」

 本当にフレイヤ様の発言かしらと疑っても止むなしな発言が飛び出す頃には、彼女の御尊顔は不機嫌一色に染まっていた。

 流されるまま、さっきよりずっとフレイヤ様の近くに座り直す。糸が絡まらないよう気を付けながら、フレイヤ様の元へ行ってあげてフレイヤ様の元へ行ってあげてと祈る。

「……釣竿を変えましょう。私のは壊れているかもしれないから」

 フレイヤ様の直ぐ近くで六匹目を釣り上げた僕を見るなり、怒りながら笑っているフレイヤ様にそう言われた。祈りって、届かないものなのだなあ。

「違う餌にした方がいいのかも」

「位置を交換しましょう」

「ここの魚みんな女の子で兎が好きなのよきっとそうそうに決まってる」

「湖全体に魅了を施してやろうかしら」

 物騒な発言が飛び出し始めた頃には僕の釣果は二桁到達。あっという間の出来事でした。

「ふ、フレイヤ様のお誘いを断り続けるあの子たちはなんなんでしょうね……あはは……」

 冷や汗が大瀑布宛らに背筋を急降下していくのを知覚しながら、なんとか盛り立てようと軽口を発してみたのだが。

「私が知りたいわ。それと、貴方にだけは言われたくない」

「おぅふ……!」

 こちらを見ようともせずに一刀両断。切れ味鋭過ぎて呼吸困難になるかと思った。というかなった。

「き、来た!?」

「来ました! 来てますよ! フレイヤ様っ!」

 お隣から発せられる圧力にプルプル震えていると、とうとうその時が来た。立ち上がり、僕の見様見真似で果敢に挑むフレイヤ様! 僕も釣竿を手放し全力で応援の構え!

 頑張れ! フレイヤ様ならいける! っていうか魚くん! もしくは魚ちゃん! 僕とフレイヤ様を助けると思って! どうか!

「や! やった!」

「き、きたあああああ!」

「やったわ! ベ……ル……」

「ああああぁぁぁあぁぁ……」

 ぽちゃん。そんな音が聞こえた時には既に遅し。食い付きが甘かったのか、釣り上げられた小さな獲物がひゅーんと水面へと落っこちた。僕たちは眺めていることしか出来なかった。

「…………」

「…………」

 表情を殺して固まるフレイヤ様。泣きそうな顔して固まる僕。

「…………ベル。釣り竿を置きなさい」

「へ?」

「置くの」

「はいっ」

「餌、やって」

「ははっ」

「ここ、座って」

「畏まりまし……たっ!?」

 望まれるままに動き、フレイヤ様が座っていた所に座ると、フレイヤ様の臀部が僕目掛けて降ってきた。

「ふ、フレイヤ様っ!?」

「ベルうるさい。魚が逃げるでしょう」

「ごめんなさいっ……!」

 笑い方など忘れてしまったと言わんばかりの無表情で湖面を睨み続けるフレイヤ様。ここ数日のフレイヤ様ならば、散々っぱら僕を揶揄って愉しむ状況なのだろうが。

「絶対に釣ってやるんだから……覚悟なさい……!」

 表情そのままに、神意の炎を瞳の中でメラメラと燃え上がらせるフレイヤ様にとって、僕はただの椅子でしかなかったご様子。

 しかし来ない。まあ来ない全然来ないちっとも来ない。何分経ってもウキが沈む様子すらない。

「私、釣り嫌いかも」

「も、もうちょっと頑張りましょうよ! ねっ!?」

 怒りを通り越してヘソを曲げてしまったフレイヤ様をなんとか盛り立てようとあの手のこの手を尽くすこと更に数分。

「あ! 来た! 来ましたよフレイヤ様っ!」

「いいのよ……どうせ逃げられるもの……」

「キャラ変わってません!? ほら! 頑張りましょう! 一緒に!」

「えっ? きゃっ!」

 天の助けキタ! ぐんっと沈んだウキを見るなり膝上を占拠していたフレイヤ様を抱いたまま立ち上がり、いきなり地に足を付けられあたふたしているフレイヤ様と一緒に釣竿を掴んだ。

 降って湧いた好機に全力で飛び付くしかなかったこの時の僕は気が付けなかった。側から見れば。僕が、背後からフレイヤ様を思いっきり抱き締めているようにしか見えなかったことに。

「ベ、ベル!?」

「って重っ!? 間違いなく今日一大きいですよこれ!」

 僕の両腕の中でキョロキョロしているフレイヤ様がひたすら可愛かったけれど言ってる場合じゃなかった。本当に重い。フレイヤ様の細腕だけでは支えきれないのではなかったのではと思うほどの手応えだ。ステイタス任せの大雑把をしてこんなに高そうな釣竿を壊すわけにもいかず、集中力をぐんと高めて挑む。

「しっかり握って、しっかり前見てください! でも焦らず力まず! ウキが沈む方と反対に竿を引きましょう! 最後は一気に! 大切なのはタイミングです!」

「え、ええ!」

「次にウキがぐんと沈んだら一気にいきましょう。まだ……まだまだ…………今っ!」

「っ……!」

 フレイヤ様の背中を全身で支えながら勝負を掛ける。ここで釣れなきゃこの後どうしたらいいって言うんだお通夜ムードだよ僕にどうしろと言うのですかっていうか助けてそろそろ泣くよお願いだからやってきてよお魚さんっ!

「く……ぅぅ……えいっ!」

 気迫満点のフレイヤ様の可愛らしい叫び声に根負けしたのか。それとも僕の哀願が届いたのか。ざばっと音を立て、僕たちを苦しめた張本人がとうとう姿を現した。

「お、大きい! すごい! すごいですよ! フレイヤ様っ!」

 さっきと同じ轍は踏むまいとレンタルしていたタモを使い、黒々とした巨大魚を急いで確保し保冷庫に入ってもらう。いや本当に大きいな。間違いなく今日一番の強敵だった。

「…………た」

「フレイヤ様?」

「やった……! やったわベル!」

「っ! ちょ、おお!?」

 釣竿を手放したフレイヤ様が、振り向くなり僕目掛けて飛び付いてきた。流石に反応が間に合わず、慌てて動かした手が、思いっきりフレイヤ様の臀部を掴んでしまったのだが。

「ねえ見た!? 見てくれた!? あんなに大きい魚を釣ったのよ私たち!」

 大興奮なご様子のフレイヤ様には気付かれなかったらしく一安心。すすすと腕を動かしてしっかりと抱え直す。ついでに、興奮のあまり滑り落ちてしまったフードをフレイヤ様に被せ直しながら。

「ええ! あんなに重かったのに最後まで手を離さなかった! フレイヤ様すごいです!」

「貴方のおかげよ! ありがとうベルっ!」

「はわっ!?」

 フレイヤ様の両足が僕の腰に回され、フレイヤ様の両腕は僕の首に回された。

 これ、僕知ってる。ベルきゅんにしてみたい! って、豊穣の女主人の常連のとある神様が言ってたヤツだから。

 だいしゅきほーるど。ってヤツだ!

「フフフフレイヤ様っ! あ、あぶなっ……ダメですっ!」

「何言ってるかわからないわベル! あはははは……!」

 フレイヤ様の興奮はしばらく冷めることがなく、なんたらほーるどから解放されるまでに暫くの時間を要したのだった。

 

× × ×

 

 緩やかな風に乗り、フードから飛び出した銀の髪が踊る。

「ん……」

 目を細め、口元に穏やかな笑みを湛え、自身の髪を手で抑えるフレイヤ様。

 絵画の世界からそのまま飛び出して来たかのようだ。

 そんなことを思いながら、その姿に見惚れていた。

「風が気持ちがいいわね」

 仰る通り、本当に気持ちが良い。冬が近い割に僕らを揺らす風は温かく、このまま両目を瞑ったら瞬く間に眠りに落ちてしまいそうなくらいだ。

「季節が少し巻き戻ったみたい……ベルはどう? 心地良い?」

 真上から落ちてくるフレイヤ様の言葉と微笑み。更には髪を撫でられていて、僕の手に指を絡ませて来たりもしている。

 いや、まずい。まずいと思うのですよこれ。心臓がどうにかなりそうなくらいドキドキしているのに逃げ場がないだなんて!

「は、はい……」

「その割には表情が硬いわね」

「その……初めてのことだらけで……緊張が……」

「私も、あなたと同じ。とってもドキドキしているの。触って確かめてみる?」

「なっ!?」

「冗談。いきなり動かないの。舟がひっくり返ったらどうするの」

「す、すいませぇん……」

 額を抑えられ、飛び上がろうとしていた身体を寝かされる。仰る通り過ぎる。本当に気を付けねば……!

 何故なら僕は今、小舟の上にて。

 フレイヤ様に、膝枕をしてもらっているのだから。

 釣りを終え、僕たちの釣果とレンタルした竿などを従業員さんに渡した僕たちは、小舟を借りて湖に出てみよう、という話になった。発案はフレイヤ様。

「少し、二人きりになりたいの。よろしい?」

 との事。僕は迷わず頷いた。

 時間制だと言うので、二時間分のレンタル代を先払いし、白い手漕ぎボートに乗り込み出航。

「わあ……すごいなあ……!」

「口、開きっぱなしよ? ふふ……」

 僕のテンションが高いのが愉快なのか、フレイヤ様はご機嫌なご様子だった。僕はというと、なかなかに標高が高い所に出来ている湖というだけでも面白いのに、視界いっぱいに広がる雄大な景色に目を惹かれしまってしょうがなかった。

 しばらく湖のほとりを回って景色を楽しんだ後、今度は湖のど真ん中へと進んだ。

「ベル。膝枕をしましょう。枕は私」

 小舟を進める手を休めた僕にフレイヤ様がそう告げて、今に至る。

「あ、あの……足、辛くないですか? 横になるには狭めですし……」

「平気よ。もし辛くなったら言うから。そうしたら貴方と交代ね」

「膝枕の無限ループだ……」

「何それ。ご褒美?」

 くすくす笑うフレイヤ様の手が僕の頬や額を撫でる。僕の動揺を知って尚好き放題をする様子は如何にもこの人らしいと、変に納得してしまう。

「……今のうちに、ちゃんと言っておくわね」

「はい?」

「さっきは……ごめんなさい」

 フレイヤ様の表情に微かな影の色が浮かんだ。僕を撫でる手も止まっている。

「えと……何の話でしょうか?」

「釣りをしている時……露骨に不機嫌な姿を貴方に見せたから……」

 そう告げる様子は、普段見せる超然とした姿から遥かに逸脱していた。

「貴方が許してくれることまでわかっていて、ああいう振る舞いをしたの」

 僕に視線を向けられることを嫌がるみたい。僕の両目に、掌という名の蓋が降りた。

「女神をやめたいだなんて言っておきながら、気が付いたら女神のような振る舞いをしてしまっているの」

 その蓋は不完全な出来みたいで、隙間から見えてしまった。

「今日だけじゃない。ふとした瞬間にそう感じて、それは違うでしょうと自戒して、結局どうしていいかわからずに一歩引いてしまう私がいるの」

 自分自身に苦しんでいる、女の子の顔が。

「そう……なんですか……」

 中身のない返しをしながら、蓋に閉じ込められている瞳に力を入れる。

 彼女がそんな顔を見せた時、一体誰が彼女を曇らせているものを晴らすのか。

 決まっている。只一人の、彼女の騎士だ。

「……正直に言いますけど……あの時のフレイヤ様は、怖かったです。僕の声にも聞く耳持たずな感じでしたし、言葉も強くて、良くない方のドキドキをしていました」

「そうよね……」

「けれど……実は、少し嬉しかったんですよ」

「う、嬉しい?」

「あ、庇っているとか、おべっか使っているとかではないです」

「なら……どうして?」

 フレイヤ様ならご存じでしょうけどと前置きをして、言葉を繋ぐ。

「僕たち下界の住人って、ちょっとのことで不安定になるんです」

 講じた税金対策も交渉も上手くいかずで想定以上の財災難に直面した時とか。

 自信を持って自らが打った防具に付けた名前が家族たちに不評だった時とか。

 オラリオ流の食事を見様見真似で作ってみたら味がイマイチだった時とか。

 家事で小さな失敗をし、もふもふふさふさの金色の尻尾がしゅんと下を向いた時とか。

 質問者の意図を自分なりに汲んで答えた結果、それがどうやら盛大な空回りだったらしく、ポンコツエルフの汚名を頂戴した時とか。

「不安定になって、不安になって、苛立ちもするんです」

 僕なんて毎日不安定になって、毎日不安になっている。無力で頼りない自分に苛立つことだって当然ある。

「僕たちにとってはそれが当たり前で、でもそれって防ぎようのないことばかりで。上手く付き合っていくしかないんです。今のフレイヤ様がそうしなければならないみたいに」

 僕を覆う蓋に手を乗せ、ゆっくりと外していく。重さは全く感じなかった。

「何日も一緒に過ごしているのに今更何をって感じですけど、フレイヤ様を凄く身近に感じられたと言いますか……寧ろそういう何処にでもある普通のことで怒ったり、思い悩んだりするフレイヤ様が見られたことが、不思議と嬉しかったんです」

「ベル……」

「それと……フレイヤ様はもしかして、自分がわがままな女だと思っていたりしませんか?」

「……そうね……そう思う……」

「この際だからはっきり言わせて頂きますけど、フレイヤ様はわがままです。とってもわがままだと思います」

 フレイヤ様の口にしていた、女神のような振る舞いというものはわかりそうでわからない。僕たち下界だけで生きる者とは何から何まで違い過ぎるから。

 でもそれって、意外と簡単な言葉に置き換えていいんじゃないかなって。

 その一つが、わがまま。なのではないかと思った。

「もちろんわがままにも限度ってありますけど……でも、わがままであることそのものは結構普通と言いますか、当たり前のことなんです。わがままでいいんですよ。特にフレイヤ様はそれでいいんです」

「私が女神だから?」

「違います」

「ならどうして?」

「フレイヤ様は、女の子だから」

 僕に掴まれたままの掌が、ぴくっと震えた。

「これは僕の…………僕が最初に憧れた英雄からの受け売りなんですけど」

「あ……」

「女の子はわがままなくらいでいい。女の子はわがままな方が可愛いんだから。そして、女の子のわがままを叶えてやれるくらい甲斐性のある男になれ。僕はそう教わりました」

 大切な人が、歯を見せて笑いながら教えてくれた、大切なこと。

 ずっと覚えているからね、お祖父ちゃん。

「……ベルは、どう思う?」

「僕もそう思っています」

 あの人の教えだから諾々と頷いているんじゃない。真実その通りだと思うんだ。

 だって、証明されているし。目の前で。

「フレイヤ様は可愛いです。とびきりわがままで、とびきり可愛い女の子です。だから……」

 自信を持って? それじゃあ違うだろう。相手は仮にも元、美の女神様なのだし。じゃあ何を伝えようかと考えを巡らそうとして、やめた。

「そのままのフレイヤ様でいてください」

 思うままを、素直にぶつける。

 結局これしかないと思うから。

「僕は、わがままなフレイヤ様が可愛くて、素敵だと思っています」

 フレイヤ様の掌ごと、僕の掌を自分の胸に乗せる。良い方のドキドキをしていると伝わっているだろうか。

「そんなに思い悩まないでください。それが何? くらいに笑い飛ばしちゃってください。どうしていいかわからないことに直面したら僕を頼ってください。僕じゃ頼りないでしょうけど、力になりますから」

 意識して口角を上げ、ニッと笑ってみせる。少しは頼り甲斐のある男に見えてくれたらいいんだけど。

「あ、そうだ。ちゃんと言っておきます。釣りの最中、上手くいかなくてあの手この手でどうにかしようと頑張るフレイヤ様、可愛かったです。あと、えいっ! って叫んでいたのも可愛かった。そのあと飛び跳ねて喜んでいたのはとっても可愛かったです」

 思うまま伝えまくったらなんか急に恥ずかしさが込み上げてきた。というか、喋り過ぎて自分でも何が言いたいのかわからなくなってきた。大丈夫だよね? 全部とは言わないけど、少しくらいは伝わっているよね? ねっ?

「…………もうっ」

「あたっ!?」

 ぺちっと、掌を叩かれた。痛いよりも驚いたが勝っていたのだが、反射的に痛がってしまった。

「可愛い可愛い言い過ぎよ……」

 真っ赤に頬を染めたフレイヤ様と視線が交差する。あ、あれー? 可愛いと言われたいんだとこの前は言っていたんだけどなあー? わからない……可愛いがわからない……!

「ご、ごめんなさい……?」

「それと……えいっ、からのくだりは忘れ……なくていいから、内緒にしてね?」

「墓場まで持って行きます」

「……本当、私らしくなかったわね。ごめんなさい。そしてありがとう。私を元気付けようとしてくれて。訥弁気味なのは相変わらずだけれど、少しは女の喜ばせ方を理解してきたみたいね」

「お、思ったままを言っただけなんだけどなあ……」

「その貴方らしさが嬉しかったのよ」

「わっぷ……!」

 前髪をくしゃくしゃっと掻き回された。これ知ってる。シルさんの姿でもやっていた、照れ隠しの一つだ。白い髪の向こうに見えたフレイヤ様のはにかむ姿が、それを証明していた。

「まだ時間はあるのだし、もう少しこのままでいましょう」

「そうしましょう。もしも僕が眠ってしまったら、僕の代わりに岸まで漕いでもらってもいいですか?」

「嫌よ。手にマメが出来たらどうするの。飛び起きて貴方が漕ぎなさい」

「あはは……本当にわがままな人だ……!」

「ふふ……」

 陽の光など脇役にしてしまう曇りない笑顔が、僕だけに降り注いだ。直視するにはこんなに眩しいのに、それでも目を逸らすことだけはしたくないと、そう思った。

「貴方が本当に眠ってしまう前に、これだけは間違いなく聞いておきたいのだけど」

「なんです?」

「好き放題揉みしだいた私のお尻の感触はどうだったかしら?」

「っっっっぅぅう!?」

「きゃっ!」

「違うんです違うんですあれは事故であってですね疚しい気持ちは一切な!? わわわっ!」

「ちょ、ちょっとベルっ!」

 フレイヤ様の目が追い付くより早く飛び起きた結果、ぐわんぐわんと揺れに揺れ、あわや転覆寸前になる小舟。僕らを咎める怒声と警笛が遠くで鳴り響く中、気合いと根性的なヤツでなんとか持ち直した。

「ベルさんのばか」

「ごっ、ごめんなさいぃぃぃ……」

 対外仕様でシルさんに姿を変えた彼女と僕は岸に戻るなり、従業員の皆さんにこれでもかと怒られたのであった。

 

× × ×

 

「夜になると一気に冷えますね」

「本当に。上着を変えて正解だったわね」

 木々を揺らす夜風の冷たさに目を細め、襟元をきゅっと握るフレイヤ様。巨大な湖の周囲にあって空気は澄み、少し乾燥している。肌寒いが過ごし易い、冬の匂い漂う良い夜だ。

 髪の色に近い灰色のチェスターコートに身を包んだ彼女と手を繋ぎ、夜の林道を行く。いわゆる、食後のお散歩というヤツだ。

 第一級冒険者である貴方が何をなさっているのですかと控えめながらしっかり怒られた湖畔周遊から戻った僕たちは、少しの休憩を挟み、早めの夕食を摂ることにした。

 湖畔を臨める二階のレストランに通された僕はというと、内観の煌びやかさにひたすら圧倒された。そこまで大きくしなくてもよくない? 落っこちたら大惨事じゃない? と思うほど大きなシャンデリアが煌々と輝く下で食事をするなんて村で暮らしていた頃には考えられなかったし、今は今で場違い感が半端じゃなかった。

「わ! これさっき釣ったお魚なんですか!? すごーい!」

 衆目の中での食事ということで街娘の姿で現れた彼女は、卓上に並べられていく料理の数々に瞳を輝かせていた。完璧過ぎるまであるテーブルマナーを心得ている彼女らしからぬ幼い姿に頬を緩めながら、僕もフォークとナイフを握った。

 女神祭の折にシルさんと訪れた船上レストランは海鮮系が一際目を引いたが、こちらのメインは山の幸、延いては肉料理。心地の良い疲労感に覆われている身体に染み入る品々は一品一品とても美味しかった。もちろん、僕らが一助を担った魚料理も。

 あれだけの量を一度に食べ切るのは不可能なので、テーブルに並ばなかった分は明日の朝食に。それでも余る分は、無理を言って御者さんへ回してもらうことにした。

「注文していない魚料理がドンと出されたら、あの生真面目な横顔も顔色を変えてくれるでしょうね」

 とは、悪戯大好きシルさんの談。こればかりは僕もにっこり頷いて共犯者になることを選び、後のことは旅館の皆さんにお任せした。

「少し歩きませんか?」

 身も心もホックホクになった僕からの提案ににっこりと頷いてくれた彼女の手を、僕から握った。昼は小舟で湖を回ったことだし、今度は林道を歩いてみませんかと続けて提案した。彼女は迷いなく首を縦に振ってくれた。

「オラリオに着くまではなるべくこちらの姿でいたいの」

 旅館から溢れ出す喧騒が遠退き、人の気配が薄れたことを確かめて姿を変えた彼女と、綺麗な石畳で舗装された林道を進む。燭台を模して作られたのだろう魔石灯と月星の輝きが木々の影を伸ばして揺らす。いい雰囲気だと、素直にそう思う。

「ベルは大丈夫? 寒くない?」

「お気遣いありがとうございます。僕は大じょ」

「まあ大変! 私が温めてあげないと!」

「うぶっ!? なんですけどぉっ……!」

 フレイヤ様が、僕の左腕にしがみ付いた。二の腕に押し付けられる柔らかな感触に慣れることなど出来るわけもなく、声は上擦り裏返る。

「どう? 暖かい?」

「あ、暖かいは暖かいです……でも……」

「でも?」

「……わかってて聞いてますよね……」

「剣姫以上、ヘスティア未満、って感じ?」

「ぶほっ!」

「実際どうかしら。剣姫もかなりいいものを持っているみたいだけれど、あの子と私のどちらの方が貴方好み? というか、どちらの方が大きい? 貴方なら知っているのではなくて?」

「ななななっなになっなににっあのあなななぁ……!?」

「そこまで動揺しなくてもいいじゃない……!」

 露骨に狼狽える姿がそんなにも愉快なのか、口元に手を当て笑い始めた。

「少しは慣れたと思ったのに。まだまだね」

「面目ない……のだろうかこれは……」

「もっと堂々と出来るようにならなくては、いつまでも可愛い止まりの男の子のままよ? 格好の良い男になりたいでしょう?」

「それは…………ん?」

「あら?」

 僕もフレイヤ様も、それに気が付いた。

『この度は、当館をご利用頂き誠に……』

 旅館の方角から、丁寧な挨拶が聞こえてきた。付近に人の気配はないまま。多分だけど、魔石で作られた拡声器か何かがあるのだろう。

 ってことは、そろそろか。

「館の方からよね? 今の何かしら?」

 僕の腕を抱いたまま首を傾げ、そのまま僕を見上げてくる。何それ可愛い。

「もうそんな時間になっちゃったんだ……」

「そんな時間?」

「……このまま、行きたい所があります」

「説明はしてくれないの?」

「行けばわかりますとだけ。構いませんか?」

「構わないわ。また私を驚かせてくれようとしているのでしょう?」

「あ、あはは……お見通しですよね……」

「ずっとソワソワしていたもの。で、何をどうするの?」

「えっと……」

 背の高い木々が立ち並ぶ林道の中で全方位に目を向ける。何処だ? 何処が最善だ? 何処ならば……。

「…………あそこかな……」

 うん。あそこならいい感じになりそうだ。結構な距離があるけれど、今の僕ならば苦もなく行けるだろう。それこそ、女性一人を抱えた状態でも。

「何処? というか、何?」

「……そういえば、まだ叶えていないのがありましたね。フレイヤ様のやりたいこと」

「どれかしら?」

「……失礼します!」

「へ? べ、ベル!?」

 腕に絡みつく華奢な身体を引き寄せて、勢いそのままに抱き上げた。両膝の下に左腕を差し込み、右腕で彼女の背中を支える。

 いわゆる、お姫様抱っこ、というアレだ。

「しっかり捕まっててくださいね!」

「ちょっと、何が……わっ……!」

 愛らしい驚嘆の声を聞きながら、全力跳躍全力疾駆。木々の隙間を駆け木の枝を足場にし岩肌を蹴り上へ上へ上へ。

「よしっ!」

 だんっ、と音を立てて着地。フレイヤ様が驚きと衝撃で目を瞑っている間に周囲に意識を巡らせる。人の気配もなければモンスターの気配もない。ここなら大丈夫そうだ。

「お待たせしました! 驚かせてしまってすいません!」

「え、ええ……本当に驚いたわ……」

 ゆっくりとフレイヤ様を下ろす。体に力が入らないのか、笑顔も言葉も動きもぎこちない感じのフレイヤ様は、よろよろと僕の体にもたれかかってしまった。

 旅館からのアナウンスも届かない、小高い丘の上。ここまでは流石に旅館の方々の手も入っていないらしく、手入れも何もされていない。というか間違いなく敷地の外だろう。けれど……うん。旅館も見える。湖もよく見える。ここならいい感じになりそうだ。

 宿泊客と思しき人たちが湖畔に集まり出しているのが見えた。小さな男の子と女の子が今や遅しと二人並んで空を見上げているのがいやに印象的に映る。その子達それぞれの肩に、両親と思しき人々が手を乗せた。ちょっと羨ましくなるくらい、素敵な光景だと思った。

「……今日、ここへ来て良かった」

「どういうこと?」

「運がいいみたいです、僕たち」

「だから何を……うん?」

 フレイヤ様の耳にも聞こえたみたいだ。打ち上がる時に鳴る、独特のあの音が。

「来ますよ!」

 僕の腕の中で僕ばかりを見ていたフレイヤ様の手を握り、横並びになる。

「わ!」

「っ!?」

 タイミングを見計ってくれたようにそれが弾けて、咲き誇った。

「は、花火……?」

 冬の花火。

 目を丸くするフレイヤ様の頬が多色に照らされているのを横目に、僕も空を見上げた。

 赤、青、黄。炎、氷、雷。緑や紫や橙も。女神祭開会の時に見たそれとはまた異なる、火薬と魔術が奏でる色彩のハーモニー。咲いた傍から枯れ落ち、直ぐ様新たな息吹が儚い産声を上げる。湖上に展開されるよう打ち上げられているそれは静かに凪いでいる湖面に反射し、水面と冬の空に全く同じ二輪の花を咲かせるという日々の中に潜む奇跡を僕らに見せてくれた。

 大輪の花火。豪華な宿。綺麗な湖。

 それらを一望出来るここは、当たりスポットだと自画自賛出来るくらいに良い場所だ。僕の目もなかなか捨てたものじゃないかも。

「綺麗……」

 轟く炸裂音の雨の中、静かに呟く彼女の銀色の瞳の中にも花が咲く。咲いては散って、また咲いて。

「……随分昔にお祖父ちゃんとこの辺りに来た時に、ここの花火の音を聞いたことがあったんです。その時は花火を見ることが出来なくて。ここに入館するお金もなかったですし」

 僕と繋がれていない方の手を自身の胸元できゅっと握る仕草に目が吸い寄せられてしまった僕は、何かを誤魔化すみたいに口を動かしていた。

「そうなの……」

「羨ましいな。いつか目の前で見てみたいなあ、って思っていたんです」

 それをお祖父ちゃんにそのまま伝えたら。

『儂と二人でだなんて夢のないこと言うもんじゃあない。隣に立たせるなら可愛い女子(おなご)しかいないだろう。いつか、可愛い女子(おなご)を侍らせて行くがいいさ』

 って、笑ってたっけ。

「小さな頃の夢が、一つ叶いました」

 お祖父ちゃんの願った通り、可愛い女の子と一緒に来たよ。

「実は、今日花火が見れたのは偶然なんです。夏はほぼ全日らしいけど、冬は不定期での開催らしくて」

 リサーチ不足は猛省せねばなるまいが、それを補えるだけの行動を起こせたことは上向きに捉えてもいいだろう。

 例えば、彼女がお花を摘みに行く等で席を外している間。従業員さんにあれこれと確認して回った。今日花火はありますか。あるのならば何時からですか。面倒なお願いかもしれませんけど、僕と同席している彼女には内密にしてほしい。などなど。

 もっと言えば。今日の開催がないのであれば、なんとかして今日開催出来ないものかと、交渉をするつもりですらあった。とんでもなく迷惑な話だと理解していても。結果的にその必要もなかったわけで一安心。

 時間を調整し、レストランの中で食事をしながら見るのもいいかな。なんて考えも過った。けれどそれはなんか違うなと直ぐに方針を改めた。

 もしも花火を見れるならば、二人だけで見たい。その方が、彼女は喜んでくれる。僕だってその方が嬉しい。

「そうだったの……」

 うっとりと目を細め微笑む彼女の横顔は、僕の判断を肯定してくれている。

「素敵ね」

「はいっ」

 眼前に広がる光景に視線を縫い止められた彼女に倣い、僕も正面を向く。既に結構な数が打ち上がっているのに、まだまだ号砲は鳴り止みそうにない。

 彼女の手から力が抜けたのがわかった。手を離したいのかなと思ったけど、そうじゃない。僕の掌を撫で回る彼女の指先が意図を教えてくれたので、手と手を掴むんじゃなく、彼女の指を迎え入れ、指と指とを絡ませあった。

 もうずっとうるさかった鼓動の音が、ずっとずっとうるさくなった。

「良かったの?」

「え?」

「貴方の夢が叶う瞬間に、貴方の隣にいるのが私で」

「もちろんです。それに、僕の夢が叶うのと同時にフレイヤ様の願いも一つ叶うかもしれないのに、そんな風に思うわけないじゃないですか」

「私の願い?」

「オラリオに戻るまでに、オラリオの外でしか作れない思い出をもっと作るんでしょう?」

 きゅっと、僕の指を覆う指に力が篭った。

「素敵な思い出の一つになってくれれば嬉しいです」

「……一つじゃないわ」

「え?」

「この場所で叶った私の願いは、一つなんかじゃない」

 半歩、彼女が僕へと近付いた。

「忘れられない思い出だらけ」

 腕と腕がぶつかる。

「永遠に忘れられない思い出を、両腕じゃ抱えきれないくらいたくさん貰ったの」

 彼女が僕に体重を預ける。

「全部、貴方から貰ったの……」

 銀の髪と微かな重みが、僕の肩に居場所を作った。

「大切にするから」

「……僕も、ずっとずっと大切にします」

「……ありがとう」

 返事代わりに首を横に振り、彼女に負けじと僕の心を掴みに来ている夜空のパレードを見つめる。

「ふふ……」

 誰かの小さな笑い声が、微かに聞こえた。

「ベル。聞いてくれる?」

 まだ終わる気配を見せない夜の祭りに視界を預けたまま、彼女が言葉を重ねる。

「貴方のお陰で、まだ知らなかったこと、たくさん知ることが出来たの」

「私自身のことをこんなにも知りたがっている私がいることを、知ることが出来た」

「私がわからなかった私のことを、貴方がたくさん見つけて、伝えてくれた」

「貴方の大切な人たちをこんなにも大切に思える自分なんて、知らなかった」

「貴方と二人で食事をするだけで心も体もあんなにも満たされるなんて、知らなかった」

「誰より先に貴方におはようと言えて、誰より先に貴方におはようと言ってもらえる。それだけのことがこんなに幸せだなんて、知らなかった」

「貴方と出会えるまでの何億年より、貴方に会えない一日の方が長いだなんて、そんな浮ついたことをカケラでも考えてしまう自分がいるだなんて、知らなかった」

 夜空を彩る輝きも。耳に迫る爆音も。全てが遥か遠くに感じる。

 名前を付けるのが難しい感情に全身が支配されて、何も考えられなくなる。

「私、知らなかったの。二度も終わったのに、こうしてまた……」

 ドン。ドンドンドン。ドン。

 計五発。隠し球全投入な感じの大盤振る舞い。今日一番の轟音の波が僕らを揺らす。今が夜だという事を忘れさせるくらい空が明るくなり、ほんの瞬きの間に夜が帰ってくる。

 だから。彼女の言葉の続きは、聞こえなかった。

 もしかしたら。彼女は何も言わなかったのかもしれない。

「ベル」

 繋いだ手を離し、僕の前に立つ彼女。夜空を染めたショーに送られる万雷の拍手と喝采が、彼女の向こうから聞こえて来た。

「……ベル?」

「……はい」

 銀の髪を揺らし、銀の瞳を潤ませ、赤くなった頬を湛え、僕との距離を埋めた。

「……っ……」

 薄く開かれた唇が何かを紡ごうと震え、しかし止まった。

 そこへ、少し無理矢理気味な笑顔が張り付く瞬間を、僕の目は捉えてしまった。

「…………少し、背が伸びた?」

「……へ?」

「うん……ほら、やっぱり」

 僕の頭頂部を抑えた彼女の手が、彼女の頭上と僕の頭上を水平に行ったり来たりした。

「い、言われてみれば……」

 以前はもう少し、フレイヤ様を見上げていたような気がした。

 僕らの上を行き交う白磁色の手ではなく、首を曲げなくとも重なり合う視線が、それを僕に気付かせてくれた。

「体付きも立派になって、女性のエスコートの腕も一つランクアップ、と言った所ね」

 目を細め、彼女が笑う。

 つい先程。ほんの一瞬僕に見せた逡巡の色を隠し、それでも笑っている。

「今ので打ち止めみたいね。うん、大満足。ありがとうベル。下はまだ混雑しているみたいだし、もう少し人気が引いたら降りましょうか。その後は温泉タイム。混浴でないのが残念だけれど。いいわね?」

 フレイヤ様。フレイヤ様はさっき、何を言おうとしていたのですか?

 本当は、僕に何を伝えたかったんですか?

「そうしましょうか……」

 彼女と同じく、本当に伝えたかった言葉を口に出せないまま、空へ還っていくのが白い煙だけになった虚空を見つめていた。

 

× × ×

 

 つい数時間前まで鼓膜を揺らしていた号砲などなかったみたいな、静かな夜になった。

「はあ……」

 窓際に置かれた丸椅子に腰掛けながら浅く息を吐く。お風呂上がりに纏った館内着の下でこれでもかと火照っていた体はとうに落ち着きを取り戻しているのに、どうにも心は落ち着かない。

 それは、視界を掠めるクイーンサイズのベッドの所為か。

 それとも、館内着ではなく、灰青のルームウェアに身を包んでいる彼女の所為か。

 セットで販売していた物なのか、同色のカーディガンを纏っているが、どうにも肌寒そうに見えてしまう。カーディガンの下はタンクトップだし、下半身を包むのは臀部までしか隠していないショートパンツだし。

「そろそろ休みましょうか」

 僕の気掛かりを知ってか知らずか、先程まで髪を梳かしていた彼女が、今日の終わりを提案した。

 手伝うなんて発想はもちろんなかったし、その様を見つめていることさえ罪深いような気がした僕は、ひたすらに夜空の月星と睨めっこしていた。一度も笑わずいられたのに勝った気はしなかった。

「ですね……」

 曖昧に返し、今夜の寝床をどうするか思考を巡らせる。大きなベッドが目を引くが、大きなソファだってある。これならば……。

「こっちよ」

 掛け布団を捲りながら、僕の逃げ場を塞ぎに掛かってきた。

「……いえ、僕は」

「このサイズなら問題ないでしょう」

 ソファで、とも言わせてくれない。

「お願い」

「…………わかりました……」

 奔放さもなく、揶揄うでもなく、お願い。と言われてしまった。

 ならば従うしか……違う。叶えるしかない。今日の彼女のお願いを叶えられるのは、今日の僕しかいないのだから。

 迷う自分と拒む自分へ無理矢理気味に止めを刺し、ベッドに上がる。

「っ……!」

 ベッドに入る際、彼女の豊かな胸元に深い谷間が生まれているのが目に付いてしまい、慌てて目を逸らしてしまった。

「寒くない?」

「はい……」

 昨夜までの彼女なら絶対に揶揄って来たのに、今夜はそれをしない。

「明かり、全て消しても?」

「大丈夫です」

 彼女がベッド脇にあるスイッチを押すと、シャンデリアや暖炉を模した魔石灯がまとめて役割を奪われた。レースのカーテン越しに差し込む星々の恩恵は、窓に近い僕だけに降り注いでいる。

「すっかり遅くなってしまったわね」

「日付変わってますもんね……」

 部屋の壁に飾られた大きな時計は、日付が変わっていることを指し示している。この旅の最中、どうにも夜更かし気味でいけない。オラリオに戻ったら体内時計を正常に戻すよう意識して努めないと。

「明日の早朝訓練、いつも通りの時間に起きられそう?」

「起きる……起きれる……かな…………が、頑張ります……」

「そう。なら、頑張って」

「はい……」

 沈黙が降りて来た。今夜は体の接触もなく、向かい合っているでもない。僕はただ知らない天井を見つめていて、彼女もそうしていた。

「明日は朝ご飯を終えたら出発よね?」

「はい。御者さんにも伝えてあります」

「なら私も早起きしなくてはダメね。朝のお風呂も堪能したいし」

「必要に迫られたら僕が起こしますから」

「そうして頂戴」

 共有している布団が揺れた。布団の中で体を丸めたらしい。吐息の音が少しだけ遠くになった気がする。僕に背を向けたのだろう。

「おまかせください……」

 僕にしては気取った感じの言葉を返しながら、彼女に背を向ける。ふかふかな布団も枕も意識を刈り取る効果が強いのか、早速眠気が襲い掛かってきた。このまま眠ってしまおう。その方がいいだろう。

「おや」

「少しだけ、迷惑で、面倒な話をさせて」

 おやすみなさいと口にしようとした僕を咎めるみたいなタイミングで、背中越しの言葉が届いた。

「…………聞かせてください」

「これは……今の貴方にとっては迷惑でしかないでしょうから、是が非でも叶えて欲しいだなんて言えないもの。けれど……私が抱えている、一番大きな願いなの。傍迷惑だとしても、それでも貴方に聞いて欲しい」

 閉じかけていた瞼を持ち上げて、カーテンの向こうで佇む月を睨む。今夜は満月だ。

「……私は、貴方に想い人がいることを知っている。一途に、大切に想い続けていることを知っている。一途過ぎる想いが成就してほしいと真剣に思っているの」

「貴方を揶揄って、時々こうして二人きりの時間があって。それで充分だと思っていたの。この旅が終わったら、いつもの私と貴方にちゃんと戻れると思っていたの」

「無理だった。やなの。嫌だなって、そう思ってしまったの」

「こんな贅沢な時の使い方を知ってしまったからかしら。これから先、こんな風に貴方と二人で過ごせることがなくなるのかなと考えたら、もう居ても立っても居られなくて」

「今夜、貴方の隣にいたのが私じゃない誰かだったらと思うと胸が苦しくなるの」

「遠くない未来、貴方と誰かが今夜と同じ光景を見に来るのかなと思うと胸が痛くなるの」

「貴方の恋路を応援することは、もう私には出来ない」

「一度、二度。貴方が私の恋を終わらせてくれた。未練だって残っていない。本当よ?」

「ただ、私は知ってしまったの」

「二度振られても、まだ先があることを」

「傷付くことは怖い。私だって怖い。あんな思いはもうしたくない」

「それでもじっとしていられない。少しでも貴方の側に行きたいの」

「どうしても、貴方の隣がいいの」

 何も言わない。何も言えない。どんな言葉を選べばいいのかわからない僕は、物言わぬ月を眺めるばかり。

「夢みたいな日々の中で、私はまた、そこに辿り着いた」

「また…………貴方を好きになった」

 言葉に詰まり呼吸を乱し、みっともなく口をパクパクしているだけの僕を待たず、彼女は『それ』を口にした。

 フレイヤ様。シルさん。

 この旅の間、彼女はどちらの姿でも『それ』を口にして来なかった。それらしいどころかそれ以上に飛躍した話ならば何度も口にしていたけれど、『それ』だけは、一度も。

 もうわかった。わかっていた。

 花火が終わり、白い煙が揺れる中。彼女が本当に口にしようとしていた言葉の正体は。

「好きなの。私、貴方が好き」

 今、僕に背中を向けている彼女の気持ちがわかってしまった。

 怖いんだ。目を見てなんて言えなくて当然だ。意味のない仮説だけど、僕が彼女の立場なら口にすることさえ出来なかったことだろう。

 どれだけ勇気が必要なことだったろうか。どれだけ怖いことだったろうか。

 三度、想いの丈を伝えることは、どれだけの物を彼女の胸中から奪ったのだろうか。

「誰かから見れば心代わりでも。貴方にとってはロマンスになるように」

「貴方の愛を。恋も。私が満たしたい」

「私の恋も。愛だって。貴方に満たして欲しい」

「貴方に与えるのではなく。与えられるのでもなく。分かち合いたい」

「嬉しいことも楽しいことも。悲しいことや辛いことも」

「貴方のこれからも。私のこれからも」

「いつか、そんな未来に生きてみたい」

「これが……私が抱える、一番大きな願い」

 この人はまた、誰かと誰かの関係が終わり兼ねないラインを飛び越えた。

 優柔不断な僕の代わりに勇気を振り絞って、飛び越えてくれた。

「けれど、想っているだけじゃ叶わないことを私は知っているから」

「貴方がまた走りだしたのだもの。私だって同じ所で留まっているわけにいかない。貴方に置いて行かれてしまうのは嫌だから」

「今度は誰も辱めない。誰も歪めない。もう二度とやり方を間違えない」

「傷付くのも苦しむのも、私だけの傷に……思い出にしてみせるから」

「やっぱり、貴方には迷惑かもしれないけれど……」

「貴方の側で頑張る私を、どうか許して欲しい」

「勝手なことばかり言ってごめんなさい」

「……なんだか感情的になってしまっていけないわね。二度とないかもしれない至福に身を置いているからかしら」

 浮き沈みを繰り返していた彼女の声音が、ぐんっと明るいものになった。

「先に言っておくわね。流されてはダメよ? 同情もダメ。そんなの、貴方も私も苦しむだけ。自分勝手なことをしているのは私。貴方はただ貴方のまま在るだけなのだから、貴方の傷にしてはダメよ。どうせ、今もあれこれと悩んでいるのでしょう?」

「もう少し楽に構えなさい。畢竟、自分勝手なものなのよ。愛も恋も。私の自分勝手でしっぺ返しを喰らうのは私だけでいいのに、私以上に貴方が傷付いてしまってはいけない。そんなのおかしいでしょう?」

「恋愛は尊いもの。けれどありきたりでありふれていて、なんてことないものでもある。その、なんてことないもので不安定になっているの。下界で生きる者はそういうものなのだと教えてくれたのは貴方だったわね」

「その危うさすら楽しみたいと思っているの、今の私は。その権利は、いくら貴方だって奪っていい物ではない」

「今、何も言わずに私の言葉に耳を傾けてくれた。それで充分。貴方は優しいわね」

「……僕は」

「いいの。大丈夫だから。貴方の優しさは私を傷付け、それ以上に私を救ってくれた。いいえ。救い続けてくれているの。今この瞬間も」

「だからその優しさを悪いものだと思わないで。自分で自分を苦しめないで。今の貴方を貴方たらしめている、とても素敵なものなのだから」

「優しい貴方だから、また好きになれた。こんなにも迷惑で勝手な女にさえ変わらず優しいものだから、少し心配になってしまうくらいだけれど」

「ありがとうベル。こんな私の話を心で聞いてくれて」

「たとえどんな結末が待っていようとも、もう明日を不安に思う夜は私には訪れない。貴方のお陰よ」

「とっても素敵よ、貴方」

 小さな笑い声が聞こえた。怖いと口にしたばかりの人の声がどうしてこんなに明るいのだろうか。

「……フレイヤ様」

「うん?」

「今……僕に何が出来ますか?」

 強張る身体に鞭を打って仰向けになる。視線を交わすのは僕も彼女も難しいかもしれないけれど背中を向けたまま問うのもまた違うと考えた、僕なりの折衷案だ。

「そのままの貴方でいて。それと。願いを叶えてなんて言わない。ただ……いつかその時が来たら、私と向き合ってくれる?」

「必ず」

「それで十分。ありがとう」

「……フレイヤ様、僕にお礼を言ってばっかりです」

「今が楽しいのも、未来が待ちきれないのも、全部貴方のお陰だもの。星の数だけ感謝を告げてもまだ言い足りないわ」

「言い尽くせる頃にはお祖父ちゃんになってるか死んでるかもしれませんよ僕……」

「その頃にはまた感謝の数が増えているから結局全ては伝えられそうにないわね」

「堂々巡りですね」

「そうね…………だったら今のうちに、過剰に渡しておこうかしら」

 ぎしっ。ベッドが軋む音が聞こえた。

「ベル」

「は」

 夜の帳の内側に、銀の帳が降りた。

 銀色の髪が、僕の世界を覆い隠す。

 僕から見える世界が、彼女だけになる。

「んっ……」

「い…………」

 彼女は、僕の額に何かを落とした。

 熱くて、柔らかくて、情熱的な何かを。

「ありがとう」

 覆い被さるように僕を包んでいた彼女が背を引く。銀の海が潮位を下げる。

「貴方が好きよ。ベル」

 その海の真ん中に、夜闇でも覆い隠せないほどに頬を紅潮させた彼女がいる。

 穏やかに微笑む彼女が、僕を見つめている。

「……おやすみ、ベル。どうかいい夢を」

 僕の返事を待たず、自身の行いに驚いたかのように目を丸くしてから、彼女は僕の視界から消えて行った。ガサゴソと布が擦れる音が聞こえた。彼女が布団の中に潜ったのだろう。多分だけど、僕に背中を向けている。身動き一つ出来ない僕に真実を確かめることは叶わない。

「……お……やすみな……さい……」

 カタコト気味に言葉を返し、なんとかして彼女に背中を向けた。

「っ……!」

 始まりの想いを聞いた。

 二度も心を切り裂かれてもそれでもと、想いを届けてくれた。

 全てを分かち合いたい。そんな未来を夢見ていると、心を明かしてくれた。

 広い天界にも狭い下界にも一つしかない、小さな恋の始まりを知った。

「はぁ…………もぅ……」

 小さな恋が始まる音は、甘く響く誰かの溜息の音に似ていた。

 

× × ×

 

 一睡も出来なかった。冴えに冴えまくっている目を閉じることは早々に諦め、窓の向こうを睨んだまま夜をやり過ごした。

「いってきます……」

 フレイヤ様も僕と同じく一睡もしていなかったご様子。しかし何やら噓寝を決め込んでいるらしいフレイヤ様に声を掛け、早朝訓練に出た。

「いってらっしゃい……」

 扉を施錠する直前。誰かのそんな声が聞こえた気がした。

 旅館の敷地外まで駆け抜け、二振りの獲物を構えるまでは良かった。しかし、全然身が入らなかった。なんかもうダメダメだった。その所為で、派閥大戦時と負けず劣らずのボコボコをオッタルさんから頂戴して死にかけた。仮想戦闘で命の危機に瀕している僕、何?

 その足で温泉に向かい、為体の反省もそこそこにしてひたすらぼーっとしていた。間抜けに口を開けているだけの置物と化していた。

 そこに待ったを掛けてくれたのが、同じく早朝から温泉を利用しに来た御者さん。昨日の魚料理の件などなどをひたすらに感謝された。たくさんのありがとうございますを頂いて、ようやく僕も通常営業に。

「くぅぅぅぅああぁうあうぐぅうああ……!」

 なるわけもなく。極大のありがとう砲をブチかまされた額を撫でては悶々とする僕、ただの不審者だったよなあ。

「おはよう……ベル……」

 ぐるぐると目を回しふらふらな足取りで部屋に戻ると、フレイヤ様が髪を梳かしていた。僕が不審者している間に朝風呂を済ませていたらしい。

「お、おっ! おは、よう……ござましゅ……」

 噛みまくりなんてもんじゃない。動揺を微塵も隠せないまま挨拶を返す僕の不審者レベル高過ぎて第一級不審者になれたまである。もう頭の中でさえ訳わからない言葉ばかり並ぶようになってしまった。

「べ、ベル? その……もう少ししたら朝食に行きましょうか。そう、朝食に。たくさん食べましょう。食べる子は育つ。うん、本当に」

 そんな状態だったから、フレイヤ様の様子もかなり怪しかったと気が付くまでになかなかの時間を要した。

 その辺りを多少なりとも察せられたのは、朝食の最中。

「…………」

「…………」

 喋らない。僕はもちろん、対外仕様で街娘の姿で大食堂に入った彼女も、全く喋らない。

「あ……!」

「ぅ……!」

 目が合ったらこんな感じ。お互い慌てて逸らして無言がおかえりなさい。

「お、美味しいですね……」

「そうですね……」

 いってきますした言葉も行き場に惑い何処かへ消え失せる。これ、会話かな?

 とっても美味しいとなんだか気不味いが同居する不思議な朝食を済ませた僕らは、目を合わせぬまま事務的なやり取りを積み重ね、得難い思い出をくれた旅館を後にした。

 馬車に乗るなりフレイヤ様へ姿を変えた彼女は、いつもみたいに僕に寄り添うことはしなかった。向かいの席に座ることはなく隣同士なんだけど、物理的な距離が開いていた。

 遠くないですか? とか僕から口にするのはなんか違う気がして、じゃあもっと気の利いた言葉を探さなきゃと躍起になるも笑えるくらい何も浮かばなかった。

 フレイヤ様はフレイヤ様で僕の方も見ようともしない……というか。とっても眠たそうに見えた。欠伸は当たり前。こくりこくりと船を漕ぐ姿も目撃してしまった。眠ってはいない様子だったけれど、いつ落ちてしまってもおかしくない感じだった。

 そんな姿を見たら余計に声を掛け辛くて、どうすることも出来なかった。

 旅程そのものは頗る快調。大きなトラブルも小さなトラブルもないまま、御者さんは寡黙に鞭を打ち続けた。

 お昼を過ぎて暫くすると、多数の行商の方々が利用している小さな交易所に辿り着いた。御者さんと相談し、そこで昼食と休憩を取ることにした。

 お気遣いなくと告げて休憩に入る御者さんと一旦別れて、対外モードのシルさんと二人で簡単な昼食を済ませた。少し割高に感じる食事の最中もほとんど無言。ここまで来ると睡眠不足じゃ片付けられない。ただの空気の奴隷だ。

 こういう時、状況を動かすべく行動を起こさねばならないのは男である僕のはず。というかそう思う。女の子に甘えてばかりじゃいけないだろう。

 けれど、正直何て声を掛けていいかわからない。だから僕は考えた。考えて考えて考え抜いて、ようやく一つ、強引な手段を思い付いた。

「シルさん」

「はい?」

「馬車に戻ったら、少しだけ付き合って貰えませんか?」

「これ……お酒ですか?」

「は、はい……なんか買っちゃいました……」

 僕自身がこんな手段を思い付いたことに驚いているくらいなんだから、シルさんの驚きは端倪すべからざるものだったことだろう。

「……ベルさんったら、背伸びしちゃってー」

「い、言わないでください……」

「まさかのベルさんからのお誘いです。断るわけにいきません。どうせならもう少し多めに買っていきませんか? まだ時間はたくさんあるんですから」

「……はいっ!」

 ようやく目を見て、笑顔を交わし合えた。頑張った方だぞ、僕っ。

「乾杯」

「か、かんぱいです……」

 再びオラリオへ向け歩みを再開する馬車の中。昼食を終えたばかりだと言うのに酒盛りを始めるフレイヤ様と僕。一口目からしっかり苦くて顰めっ面を作ってしまったらしく、無理しちゃってとフレイヤ様に笑われた。 

 そこからはもう、いつもの僕たちだった。

 いつの間にか僕らの肩は触れ合っていて、視線はずっと結ばれていた。

 昨夜からついさっきまでの空回りで浪費してしまった時間を取り戻すが如く、僕たちは喋った。たくさんの言葉を交換しあった。話題提起のほとんどが僕。

 たくさんの話を聞かせて欲しいと、彼女にお願いされていたから。

 お祖父ちゃんとの生活に始まり、神様との出会い。リリ。ヴェルフ。命さん。春姫さん。リューさん。家族たちとの出会い。エイナさんやアイズさん。尊敬している人たちや、共に肩を並べて戦ってくれた人たちのこと。

 少し迷ったけれど、ウィーネのこと……異端児(ゼノス)たちのことも。ダイダロス通りの一件があった当時からフレイヤ様の耳には入っていたと言うし、構わないだろうと判断した。

 僕を支えてくれている、大切な人たちとの出会いを、話せるだけ話した。

 特にフレイヤ様が興味を示したのは、異端児(ゼノス)たちのことと、僕とリューさんが深層に落ちた時の話だった。

 聞けば、以前は異端児(ゼノス)たちにそこまでの興味を抱いていなかったらしいのだけど、今はその対極。気になって気になって仕方がないらしい。

 というか。その興味のほとんどが、ウィーネに向いていた。

「だってそのウィーネという子、ベルのことをパパと呼んだことがあるのでしょう? だったら他人事ではないわ。(シル)がやんやと囃し立てていたけれど、貴方と私の間では子を授かることは出来ないのだし、養子として全力で迎え入れたいくらいよ。今のうちから、貴方のママはヘスティアでも極東から来た狐でもなくこのフレイヤなのよと刷り込んでみようかしら。神と人間とモンスターで一つ屋根の下。それもまた楽しそう……もっと料理の修行をしなければならないわね……ふふふ……」

 と、あんまり冗談に聞こえない冗談を口にしていた。冗談だよね?

「いつか会ってみたい。それは本当。とはいえ、私から出向く訳にもいかないから、地上でその子たちが笑える世界にするという貴方の願いを叶えなさい。そうしたら、私だって大手を振って会いに行けるでしょう? ベルは、私の願いも叶えてくれるのよね?」

 この言葉に、力を貰った。是が非でもやらなくちゃと、身が引き締まる思いだった。

 それから、深層に落ちた時の話。

「深層に落ちたのをいい事にリューとイチャイチャしていたのでしょう? その話を詳しく、とことんまで詳しく聞かせてくれる? え? どうして脇腹を抓っているのかって? さあどうしてかしら。うふふふふ……」

 脇腹から届く鈍い痛みと注がれ続ける冷たい眼差しに怯えながら、思い出すだけでも寒気が走るような体験を伝えたところ。

「貴方、どうして生きているの?」

 と言われてしまった。そりゃそうだよね。

 右腕を切断されて。首の骨を砕かれて。左腕を粉々にされて。ワームウェールに飲み込まれて。アイテムも水も食料もないままリューさんと三十七階層に落っこちて。ペルーダの毒を食らって。闘技場を通るしかなくて。骨の杭突(パイル)でお腹に穴を開けられて。麻酔もしないまま魔法で傷口を焼いて塞いで。リューさんとの連携でイレギュラー過ぎたあの怪物を倒せたけれどダンジョンのど真ん中で二人とも気を失って。

 いやほんと、何で生きているの、僕。君の活動記録は新米冒険者には絶対見せられない! とエイナさんが口を尖らせていた理由が今更分かった気がする。

「あの時はリューに嫉妬した。リューの変化に焦りもした。けれど……その時の経験が、リューの瞳を覆っていた雲を払ってくれた。ありがとう、ベル。リューを救ってくれて、本当にありがとう……」

 酒瓶を手に持ちながらという雰囲気も何もあったものではない状況ながら、フレイヤ様に抱き締められた。

 職場の同僚。家族の一人。知己。親友。大切な人。そんなリューさんの変化が、嬉しい。リューさんの笑顔がまた見られたことが嬉しいのだと、フレイヤ様の澄んだ笑顔は僕にそう言っていた。

「オラリオに帰ったら私とリューはまた喧嘩になるかもしれないから、その時は私たちのことをよろしくね、ベル」

「が、がんばります……」

 フレイヤ様……シルさんに詰め寄るリューさん。それをひらひら躱すシルさんが僕の背中に隠れる。それを見たリューさんはシルさんじゃなくて、何故か僕にお説教を始める。そんな未来が見えた。

 想像するだけで胃が痛むけど、想像するだけで笑えてしまったのも、また本当。

 そんな話をしていると、フレイヤ様が目を閉じて黙り込んでしまった。

「あの、フレイヤ様……?」

「すぅ…………んっ……すぅ……」

「ですよね……」

 僕に体を任せたまま眠ってしまった。丸一日碌に眠らず、少量とはいえお酒まで飲んでいるんだ。眠くもなるか。

「え、えっと……えっとえっと……!」

 ですよねとか呟きながらも盛大に慌てる僕。とりあえずフレイヤ様の手から酒瓶を奪取。横に寝かせようにも馬車だし揺れるし足元ちょっと散らかっちゃっているしで色々具合が悪い。

「……失礼します……」

 フレイヤ様の臀部を僕の膝上に載せた。構図的にはお姫様抱っこ再びな感じ。フレイヤ様を抱いたままよいしょよいしょと上着を脱いですやすや眠る彼女の肩に掛け、馬車の内壁に背中を預けてようやく一息付けた。

「んぅ? ベル……?」

「大丈夫です。ここにいますから」

「……うん……」

「はうっ……!」

 変な声が出そうになった。というか出た。うん、って何? 何だろうね?

 満足気に微笑んで僕の首に二本の腕を回したフレイヤ様をもう一度引き寄せた。この異常なまでの緊張や申し訳なさや動揺とかあれこれ大体全部をアルコールの所為にした。それしか出来ないでしょうこれは……!

「おやすみなさい。フレイヤ様」

 昨夜はちゃんと言えなかったから、今日こそはちゃんと言いたかった。

 肩の力が少し抜けた僕は、腕の中で眠るフレイヤ様の頭部を枕にするという、平時の僕が見たら卒倒して五体投地するまでありそうな蛮行を当たり前のように働いて、目を閉じた。眠りに落ちたのはあっという間だったと思う。

「宿場に着きましたが、今夜は如何なされますか? かなり深い時間になってしまっておりますが……」

 仕事熱心な御者さんに申し訳なさそうに声を掛けられるまで、僕とフレイヤ様はくっついたまま眠り倒していた。いつの間にか馬車の外は真っ暗になっていて、顎が外れそうになった。どれだけ寝たの僕たち。

「べ、ベル!? え、これ……!?」

「ま、待ってください説明させてくださいっ! ここっ、これはですね……えっと……!」

 説明というか釈明をしても、動揺が抑え込めるわけもなく。

 目が覚めたら僕に抱かれていて、鼻先が触れ合いそうな距離に僕がいるという状況は、フレイヤ様でも動揺を禁じ得ないものだったらしい。

「う……うぅ……!」

「……はぁ……」

 昨夜とは違う動揺やドキドキに支配されてしまった僕らは、昨夜とは違う気不味さの中で、それでも同じベッドで、静かに夜を越えた。

 

× × ×

 

「見えて参りました」

「だそうです……」

「ええ」

 小窓の向こうから聞こえた御者さんの声が、僕の腰を上げさせた。目を細め、小窓越しに遠くを見ると、確かに見えた。

 白亜の巨塔。その根本を囲む広大な市壁。

 村を出発して、四日と半日。

「オラリオだ……」

 旅の終わりを、僕の目は捉えた。

「見えるの?」

「僕の目でギリギリって感じです」

「私の目では無理ね。この雨じゃあ尚更」

 馬車の側面、扉に取り付けられた円窓の向こうを眺めるフレイヤ様は、憂鬱そうに呟いた。

 ここまで天気に恵まれた旅になったが、今日は朝から生憎の雨模様。勢いは弱く、ただ静かに降り続ける冬の雨。オラリオ方面の空を見るに、これから晴れてきそうな感じだ。

「到着する頃には上がっていて欲しいですね」

「そうね」

 彼女の隣に座り直すと、すすすっと彼女が僕との距離を埋め、僕の肩に体を預けた。雨が降り続けている円窓の外を見つめるフレイヤ様の指先が僕の手の甲を突いて、指をなぞった。彼女の指先から伝わったメッセージに応えるべく掌を上に向け、彼女の指を迎えに行き、僕の指を絡めた。

「んっ……」

 こうして指と指を絡ませるだけで彼女の頬は上気し、薄く開いた唇からは気色を帯びた吐息が溢れる。

 これだけのこと、と言うには照れもするしとても緊張する。しかしこの旅の最中、彼女の望みに応え続けると決めたのだから、恥ずかしがってなどいられない。

 こうすることが当たり前の二人ではないから、こう出来ることは今だけのことかもしれないのだから。

「誰の目も気にせずに貴方に触れることが出来るのも今日まで。振り返ってみれば、長いようであっという間の旅だった……」

 僕の肩に預けられた頭部が、僕の肩にこつんこつんと衝撃を与えた。そういうの手を繋ぐ以上に恥ずかしいんだけどなと思いながら、彼女の望みを叶えるべく、頭と頭をくっ付けた。

「貴方はどう? いい旅になった?」

「大切な思い出だらけの、大切な旅になりました」

「そう……」

 良かったと、隠すつもりもない呟きが僕の耳を撫でた。フレイヤ様はどうでした? なんて聞き返す野暮だけはすまい。

「……そういえば」

「はい」

「フレイヤ様のままだったわね」

「え?」

「呼び方」

「ああ……」

 旅の初日に言われていたっけ。呼び方を変えてみないか。あだ名でもいいと。

「女神扱いとかそういうことではないのはわかっているけれど、貴方には難しかったかしら?」

「あーっと…………はい……なんか違和感というか……試行錯誤はしてみたんですけど……」

「思えば、貴方がさん付けをしない子なんて片手の指が余るくらいしかいない。そんな貴方にはハードルが高かったみたいね」

「す、すいません……」

「怒ってなどいないとわかるでしょう? その、とりあえず謝る癖は治しなさい? 男を下げるだけよ」

「は、はいっ! すいま」

「ベル?」

「あっ……! む、難しいなあ……」

「何がどう難しいの……おかしな子……」

 くすくす笑うフレイヤ様が、僕との密着をより強めた。

「……実はね? 嬉しかったの」

「聞かせてください」

「貴方が私のことを、フレイヤと呼んでくれたこと」

「え?」

「ベルは私のこと、シルと呼びたがっていると思っていたから」

 きょとん。そんなオノマトペが僕の頭上に可視化されているんじゃないかってくらい、この時の僕は間抜け面を晒していたことだろう。

「貴方にとっての私はやっぱり(シル)だから。(フレイヤ)が出しゃばるのは正しくないことだと思っていたの」

 そんなことないです。いやほんと、全然ないです。そう言おうとして、自分に待ったを掛けた。

 シルさん。

 彼女の真実に触れて尚、彼女をそう呼び続けることに拘っていたのは、他ならぬ僕だった。

 なるほど。そう思わせてしまうのも道理かもしれない。

「フレイヤと呼んでと私から注文を付けておいて何って感じだけど、それでも嬉しかった。オラリオに戻ったらベルからその名で呼ばれることはもうずっとないかもしれないと思ったら余計に。こんな私、おかしい?」

「全然おかしくないです。望んだことが形になったら嬉しいのなんて、誰だってそうじゃないですか」

「ベル……」

「というか、僕の方は呼び方に拘りは……いや待って……そもそも考えたことすらなかったような……でも都市の中ではその姿の貴方に会えないんだから今しか呼べない名前で呼ぶべきと言いますか……フレイヤ様の姿であるときはフレイヤ様なフレイヤ様というか……た、大変です……わけがわからなくなって来た……」

「貴方が混乱してどうするの……」

「えっと…………そ、そう! フレイヤ様の姿の時にフレイヤ様と呼ぶのは当たり前のことです! シルさんの姿の時にシルさんと呼ぶのも当たり前のことなんです!」

「どうして?」

「その……それぞれの姿の時でしか言い辛いことが少しありまして……」

 フレイヤ様がこっちに瞳を向けた。慌てて目を逸らしてしまった。ただでさえ近いのに視線まで重ねられたら大変だから。

 とはいえ、背中に汗が浮くほどドキドキしているけれど、ここは頑張らなきゃいけない所だぞ、僕。

「その……フレイヤ様はシルさん。シルさんはフレイヤ様。僕にとっての貴方は一人。どっちの姿でも何も変わりませんけど、どっちの姿で僕と向き合っているかってことには意味があると思うんです。フレイヤ様だって、フレイヤ様の姿でなければ難しいこと、大なり小なりあるんじゃないですか?」

「……そうね。この姿でなければ出来ないこと、言えないことがある。(シル)の姿でも同様ね」

「僕だってそうです。例えば、酒場の話やいつも作ってくれるお弁当の話や料理の話はシルさんの方が話しやすいですし、ダンジョンでの話やオラリオの情勢とか各ファミリアの話なんかはフレイヤ様の方が話しやすいです」

「ああ、わかるかも」

「ですよね? でもこれって……何の違いもなくて、きっと大したことでもないんですよ」

 僕を見つめていた人に、視線を重ねる。

「今の貴方はフレイヤ様で、今の貴方じゃない貴方はシルさんです。その当たり前を、この先ずっと大事にする。それでいいじゃないですか」

「……なら。これからも私を、フレイヤと呼んでくれる?」

「もちろんです。呼び捨てやあだ名はやっぱり難しいと思うので、様付けになることだけは許して欲しいです……」

「ええ……それでいい……」

「っ……くぅ……!」

 瞳を閉じたフレイヤ様が、自らの頬を僕の頬に押し当てた。

 まずいまずいまずいまずい。すっごく心臓うるさい今直ぐ逃げ出したい大変なことですよこれはええ本当に大変だどうしよう。

「なんだか、私とベルだけの秘密が増えたみたい」

「でっ、ですかねっ……!?」

「それが嬉しい……」

 声が裏返る汗が出る視線が泳ぐ。手汗大丈夫かなとかちょっと的外れな不安が脳裏を過ぎる。

「ねえ」

「はっ! はいっ!?」

「叶えて欲しいお願いがあるの」

 僕の頬に自分を預けたまま、コートの懐からそれを取り出して、僕たちの前に掲げた。

「あ……!」

 蒼の装飾が散りばめられた、銀細工の髪飾り。

 それはかつて、精霊と番であった。けれど今は番を失ってしまった、一人の騎士。

 楽しかったことや苦しかったことの全てを内包した、僕と彼女だけの思い出の結晶だ。

「……ずっと持っていたんですか?」

「私はどうにも抜けている所があるみたいだから、旅先で失くすのが怖くて、付けずに持ち歩いていたの」

「そうだったんですか……」

「酒場で働いている時もずっと懐に忍ばせているのよ? 眠る時も。お風呂に入る時だって」

「お、お風呂に入る時はやめた方がいいんじゃないかなあ……」

「冗談よ」

「冗談かあ……」

「大切にしているのは本当よ?」

「そこが冗談じゃなくて嬉しいです。うん……本当に嬉しいです……」

「ふふ……」

 二人の間で輝く騎士を見つめ、喜色に溢れた玉声をフレイヤ様が溢す。

「はは……」

 僕も、フレイヤ様に手を引かれるように、笑っていた。

「ん……」

 飼い主に甘える猫みたいに頬擦りをされた。ドキドキしていて仕方がないくせに僕は、それに応えるように頬を寄せ返していた。

 きっと、この時のことを思い返したら、何やってたんだ僕って、恥ずかしくて死にそうになるんだろうな。それ言い出したらこの旅ずっとそんなことばっかりだったな。

 でも。何ニヤニヤしてるんだお前。って誰かに言われてしまうくらい、ニコニコしてもしまうんだろう。

「これ、付けてくれる?」

「おまかせください」

 騎士ならこんな言葉がいいかなと、僕にしては気取った言葉を選んで、彼女の指先から銀細工を預かる。馬車の揺れなど気にもせず立ち上がり、彼女の前で恭しく膝を付いたりなんかしてみちゃったりもして。

「そういうの似合わないわね……何をやっているの……ふふ……」

 ふざけた調子で笑う彼女に手を伸ばし、彼女の右耳の少し上。銀の海上に波の綾を作りながら、彼女の願いを叶えた。辿々しい手付きを咎めることもなく、彼女は待っていてくれた。

「終わりました」

「どうかしら?」

「素敵です……とっても……」

「貴方が選んでくれたものだもの。当然でしょう。でも嬉しい……」

 淡く微笑み、付けられたばかりの騎士を撫でる彼女。円窓から差し込んだ光が彼女を護る騎士を照らし、反射光が馬車の中を明るく染めた。いつの間にか雨は上がり、晴れ間が顔を覗かせているみたいだ。

「……晴れたみたいね」

「ええ」

 円窓の外を眺める彼女の視界を塞がないよう腰掛けると直ぐ、彼女の腕が僕の腕を捕まえた。

「このままずっと、二人で旅をしていたい」

「本心なんでしょうけど、大切なことを他にも隠していますよね」

「なぁにそれ?」

「二人旅もいいけれど、みんなに会いたくて仕方がない。そう思っているんでしょう?」

「わかったようなことを言うのね」

「僕も同じ思いですから」

「……お土産、買い忘れちゃった」

「あ……僕もだ……」

「孤児院の子供たちに買って行きたかったのだけれど、土産話で勘弁してもらう他ないわね」

「お店の方はどうするんです?」

「貴方の故郷の子たちからもらったお酒を店のみんなで飲むことに決めてるの。それでミアからの拳骨の回数が減ってくれれば御の字ね」

「殴られるは殴られるんですね……」

「私の代わりに拳骨を引き受けてくれる? 私を守ってくれるのでしょう? 私の騎士(オーズ)は」

「その時は一緒に怒られて、おんなじだけ拳骨を貰いましょう。それがフレイヤ様の騎士のスタンスです」

「意地悪……ふふ……」

 わざとらしく頬を膨らませたと思えば、直ぐに弛緩しニコニコ笑顔。二人並んでミアさんの拳骨の雨を頂戴する様でも想像しているのだろうか。

「……そろそろ、私の旅はおしまいね」

「フレイヤ様?」

 僕の腕を解放し、全身で僕の方に向き直るフレイヤ様。浮かぶ笑顔の中に微塵も寂寥を滲ませず、真っ直ぐに僕を見ていた。

「最後に……いい?」

 少し控えめに、両腕が僕へと伸ばされた。

「……はい」

 その腕を掴みぐっと引き寄せ、そのままフレイヤ様の背中に腕を回した。抵抗はなかった。

「あ……!」

 微かに漏れた驚嘆の声ごと華奢な身体を受け止める。僕の頬に頬を重ねたフレイヤ様が僕の背中に腕を回したのは、それから直ぐ。

「……急な旅に連れ回してごめんなさい」

「いいんです」

「楽しかった?」

「とっても」

「私と一緒で良かった?」

「フレイヤ様と一緒で良かったです」

「何億年先でも一つも零さず語れる日々をくれてありがとう」

「僕の方こそ、ありがとうございます」

「……好きよ、ベル」

 彼女の温もりが頬から離れ、今度は僕の額に降り注いだ。

「貴方が好き」

 僕の額に自身の額を重ね、フレイヤ様は目を閉じた。

「貴方が…………大好き……」

 何も答えられない僕は、こんな僕を包んでくれる温もりを、ただ抱き締めた。

「頑張る貴方と同じ街で、私も頑張って生きていくから…………またいつか、この姿の(フレイヤ)と会いましょう。約束してくれる?」

「約束します。また、絶対に会いましょう」

「……ありがとう」

 開かれた彼女の瞳は少し潤んでいた。しかし、目元を濡らす雫はそこにない。

「はあ…………まさか、この私にここまで言わせる子供が現れるとはね。それも、貴方みたいな可愛い男の子だなんて」

 僕から額を離した彼女は、一転して揶揄ような口調と微笑みで、じーっと僕を見つめた。

「もしもオラリオに訪れる以前の私に伝えることが出来たのなら、何を馬鹿言っているの、なんて首を傾げてしまうかもしれないわね」

「あ、あはは……」

「証明して頂戴ね? 私の男の趣味は間違っていないのだと」

 それって何をどうすればいいのだろう? 当たり前の疑問に囚われた。

「ベル」

「はい」

「なりなさい。英雄に」

 さっきまでとは別人みたいに凛と澄んだ眼差しが、生まれたばかりの疑問を瞬く間に氷解してくれた。

「……なってみせます……」

「よろしい」

 頼りないだろう僕の返答。それでもフレイヤ様は、満足そうに微笑んでくれた。

「……迷った時、困った時、私を頼ってね?」

「はい」

「大規模な遠征に行っている時なんかは流石に我慢するけれど、週に一度は料理の練習をする約束、破っちゃいやよ?」

「はい」

「いつだって、無事に帰って来てね?」

「はい」

「ヘルンにも、優しくしてあげてね?」

「もちろんです」

(シル)をよろしくね、ベル」

「……はい」

 頷く僕を、今度はフレイヤ様が抱き寄せた。

「ベル?」

「はい」

「ありがとう」

「……どういたしまして」

「うん…………ふふ……あはは……!」

 喜びに満ちた静かな笑い声が僕の耳を擽って、僕の腕の中で、微かな風が吹いた。

「……ありがとう、ベルさん」

 僕の体を解放したシルさんの頬は赤く、はにかむ自分を取り繕うこともせず、ただただ僕を見つめていた。

(フレイヤ)のこと、拒まないでくれて」

「そ、そんなことする訳ないじゃないですか!」

「どうして?」

「その……貴方があっての今の僕なんです。貴方は……大切な人なんです!」

「ベルさん……」

「それに……僕は貴方の騎士ですから。貴方の側にずっといるんです。だから……」

 い、いけない。急速に恥ずかしさが込み上げてきた。一から百まで恥ずかしいことしか言っていないな、僕。

「つまり。私の存在無しの人生など考えられない。ということですよね?」

「ん、んん? なんか違う気がしますけど……概ねそんな感じでしょうか……」

「それってつまり……伴侶! やっぱり伴侶じゃないですか!」

「んな!?」

 がばっ! と思いっきり抱き付かれた。

 僕の胸元に頬を擦り付ける甘えん坊な猫みたいな姿が、彼女とぴったり重なった。

「そっかー! この旅でそこまで進んじゃいましたか私たちー!」

「ひっ、飛躍しすぎですよ!?」

「オラリオに戻ったら結婚式をあげましょう! そのまままた馬車に乗ってベルさんの村まで行くんです! ハネムーンは世界一周旅行にしましょうね!」

「聞いて!?」

「ウィーネさんも連れて行きましょうか! 親睦を深める良い機会ですし! 親子三人で新婚旅行とか素敵過ぎますね!」

「だからぁ!?」

「あはは!」

 ああ、僕とシルさんだ。僕とフレイヤ様とはまた違う、僕と彼女だけのリズムだ。

 けれども。リズムは少し違っていても、彼女は何も変わらない。

 明るいシルさん。静かなフレイヤ様。

 太陽と月の対比が頭に浮かんだけど、そうじゃないんだよね。

 太陽と月は、違うものだから。

 僕のことを揶揄うのが好きで。怒るととっても怖くて。怒られると小さな子供かってくらい不機嫌になって。嫉妬深くてわがままで。結構頑固で。隙がないようで抜けているところがあって。寝起きのお行儀が悪めで。お掃除がそんなに上手じゃなくて。手料理のクセが強くて。退屈が大嫌いで。風のように自由気儘で。予想外の出来事には思いの外弱くて。実は結構な甘えん坊さんで。繋いだ手がいつだって暖かい。

 全部同じ。全部、彼女一人の個性。

 シルさんはフレイヤ様。フレイヤ様はシルさん。

 ちょっぴり変わったところのある、けれども普通の、一人の女の子。

 こんな僕を好きだと伝えてくれた、大切なひと。

 想いの行く末はわからない。絶対なことなど何もない。

 彼女の恋を、またも僕の手で終わらせる日が来てしまうのかもしれない。

 それでも、向き合うと誓った。

 目を背けることだけは絶対にしない。

 今の僕に出来ること全てで、今の彼女を守り続ける。

 彼女が今日を笑って終えられるように。

 いつかの僕に出来ること全てで、彼女の未来を守り続ける。

 彼女が明日を不安に思うことないように。

 彼女の想いも。心も。彼女の全てを、僕が守り続ける。

 僕は騎士。彼女の騎士。

 彼女の全てに寄り添い生きるんだ。彼女が僕にそうしてくれるように。

「嗚呼……幸せだなあ……」

「っ……!」

 というか。次に彼女の想いに正面から向き合った時。僕はどうするのだろう。

 色々な可能性があると思う。それでも、結末は一つに決まりきっている……なんて、どうしても思えなくなっている。

 正直に言う。この旅で得た思い出や、交わした言葉と約束に高揚感を刺激されているからなのか。

 今この瞬間の僕には、彼女の気持ちに、文字通りに応える僕しか想像出来なくなっている。

「あつっ……」

 背中に、無視するのは難しい熱が走った。まるで、何かを咎めるみたいに。何処を見てるんだーと怒るみたいに。

 いや、僕だってわかってるよ? それはそうなんだろうけど、でもさあだってさあ……。

「ううう……」

「どうかしましたか?」

「い、いえっ! 何も……あ!」

「ベルさん?」

「こっち!」

「きゃっ!」

 シルさんの体を抱いて立ち上がり、そのまま馬車の扉を開ける。シルさんの身体を抱いたまま馬車の外に半身を乗り出すと、それは直ぐに見えた。

「わあ!」

 僕の腕の中から拡がる驚喜の声。落っこちてしまわぬようしっかり彼女の体を抱いて、僕もその光景に目を細めた。

「すごい……!」

 それは、広大な市壁を撫でるように包み、屹立したバベルに甘えるように寄り添っていた。

「なんて綺麗な虹……!」

 雨上がりの世界が旅の最後にもう一つ、とっておきの思い出を、僕たちにプレゼントしてくれた。

× × ×

 

「どうしよう……」

 僕らの本拠地へ向かう最中、独り言をぶつぶつと溢しながら僕は歩いていた。隣にシルさんはいない。

 オラリオに着くなりギルド本部へ直行した僕たちは、書類だなんだとやるべきを果たし、それぞれの帰路に着いた。

「ベ、ベルくん!? やっと帰って来たぁ……! 心配させて……もぉ……! というか! 出掛ける前に私に一声かけて行くとか相談をするとかそういうの、あってよかったよね? ね!?」

 泣きそうになったり喜んだり怒ったりと忙しないエイナさんに帰還の報告と指定されていた薬草を引き渡し、報酬を頂いた。今回の報酬は僕とシルさんで半分ずつ、という話だったのだけれど。

「私の分の報酬は全て御者さんに渡します。私のわがままでたくさんの迷惑を掛けてしまったので、これくらいはしないと。もちろん魅了の解除とアフターケアもしっかり行いますので。あ、ベルさんはいいんです。寧ろダメです。ベルさんも私に巻き込まれた側なんですし。それに、ベルさんは冒険者なんですから、貰うべき物はちゃんと貰わないと。無償で働く第一級冒険者がいるだなんて噂が広まったら都合良く利用されるだけですよ?」

 頑なな姿勢のシルさんに押されるまま、支払われた報酬を懐に収めた。

「明日にでもお店に来てください。ファミリアの皆さんと一緒に。待っていますね!」

 笑顔で手を張って、シルさんは駆け出して行った。その背中に直ぐ様何人かの影が寄り添った。きっとあの人の眷属たちが敬愛するあの人を迎えに来たのだろう。

「ちゃんとお礼も言えなかったな……」

 有無を言わせてくれないシルさんに押されるばっかりで、楽しい旅をありがとう、的な感謝の言葉を伝えることも出来なかった。彼女は何度も伝えてくれたというのに。改めてという形にはなるけど、その辺は明日にするしかないか。

「……ほんとどうしよう……」

 目下僕が悩み中なのは、ファミリアのみんなに何をどう伝えようかということ。

 実はギルドの方で手配していた薬学に精通している人って、シルさんだったんだ!

「絶対怒られる……いろんな理由で怒られる……」

 怒られる内容の全てを想像するのは難しいけど、烈火のように怒る神様たちの姿は容易に想像出来てしまう。

 しかし、シルさんの存在を伏せてしまう事そのものが間違っている。というか、そうしたくないと思う。

「素直に伝えるしかないかあ……」

 腹を括ろう。というか既に、シルさんと二人での旅行になった事はバレてるだろうし。僕が出発したのと同じ日からシルさんが姿を眩ませたとなれば流石にね。

「よしっ……!」

 出発時よりたくさん増えた荷物を抱えて走り出す。一週間振りに顔を見た知人たちに声を掛けられながら、一目散に我が家を目指す。

 彼女は、ミアさんやアーニャさんたち家族にたっぷり怒られるだろう。拳骨されたりしばらく休みなしになったりと、色々な罰が待っているんだろうな。

 彼女が怒られるのなら、僕も家族に怒られないとだよね。同じだけの拳骨を頂戴するのもいいだろう。そういうスタンスの騎士なので、的なことも口にしたのだし。

 素敵な旅行の最後の一行に、二人してたっぷり怒られたという思い出を綴ろう。

 そうしてようやく、僕と彼女の旅は終わるんだ。

「さて……」

 気が付けば僕らの本拠地、竈門(かまど)の館の前にまで来ていた。

「すーっ…………はぁ…………!」

 不思議と付き纏う緊張を誤魔化すよう大袈裟に吸って、大きく吐きながら、門を開けた。

「ベル様? ベル様ーっ!」

「帰ったか」

「おお! ベル殿っ!」

「一日千秋の思いでお帰りをお待ちしておりました……ベル様……!」

「怪我などなさそうで一安心です」

「おっかえりいいいいいベルくーんっっっ!」

「みんな! ただいまぅぶぅ!?」

 前庭に入るなり、屋敷から飛び出して来た神様のロケット頭突きとみんなの笑顔を頂戴した。一週間と少し離れていただけなのに、とっても久し振りな感じがするなあ。

「あ、危ないですよ神様! 割れ物とかもあるんで本当に危ないです! お土産が割れちゃいますっ!」

「そ、そうかい? それはごめんよ……というかっ! 君はシル某くんと二人旅をしていたんだってぇー!?」

「は、はあ……なんだかそういうことになっていました……」

「全部シル某くんの謀なのはわかっているけれど気に入らないものは気に入らないいぃ……なんて羨ましいことを平然と……ぐぬぬ……!」

「え、えっと……そうだ! みんなに見て欲しいものがあるんです! ちょっと待って……!」

 神様が先頭切って喋るものだから僕に声を掛けるタイミングを逸してしまっているみんなにも待ってもらい、とっても大切なものを、荷物の中から取り出した。

 これだけは、最初にみんなに見せるんだと決めていたんだ。

「えっと…………これっ!」

「これは……!」

「おいおい凄いな!」

「ボクたちのエンブレムじゃないか!」

「そうなんです! 村の子供たちが作ってくれたんです!」

 リリとヴェルフ、エンブレムのデザイン担当の神様が前のめりな反応を示す。

「何と素晴らしい……!」

「ですよね!」

「これはとっても嬉しゅうございますね! ベル様っ!」

「はい! もう嬉しくて嬉しくて……!」

「貴方への思いが込められているのがわかる。私たちからも感謝を伝えたいくらいだ」

「いつかみんなで僕の村に行きましょう! その時にはいっぱいお礼を伝えましょうね!」

 命さん春姫さんリューさんの笑顔が後に続くと、家族たちの笑顔の輪があの子たちが作ってくれた思いの結晶を中心に広がった。今直ぐ村に戻って伝えたいくらいだ。みんなが作ってくれたものが、僕の大切な人みんなを笑顔にしてくれたんだよって。

「今はこのままですけど、後で額縁か何かに入れて飾ろうと思ってます! 何処に飾るのがいいですかね!? 僕の部屋も考えたんですけど、みんなの目に留まるところがいいなって思うから悩んじゃって悩んじゃって!」

「それはボクたちみんなで相談しようぜー! というか……色々と問い質さなければならないことがあったんだけど……なんだか毒気が抜かれちゃったよ……ただ、これだけは聞かせておくれ。なあベルくん」

「はい」

「楽しかったかい?」

「……楽しくて……とっても大切な旅になりました」

「なら良かったっ!」

「……順番おかしくなっちゃったけど……みんな、ただいま!」

「おかえりベル君ーっ!」

「おかえりなさいベル様!」

「おう、おかえり」

「おかえりなさいベル殿!」

「おかえりなさいませ、ベル様……!」

「おかえりなさい。ベル」

 ただいまとおかえりを交換しあって、ようやく胸の中に渦巻いていた緊張が融解した。

「えっと、他にもお土産があるんだ! 村の作物とかお酒とか! 早速中で」

「ベルさーん!」

「ん? し、シルさん!?」

 閉めたばかりの門の外に、少し前に別れたばかりのシルさんがいた。膝に手を置いて荒い呼吸を繰り返す姿からは、少なくない距離を駆けていたことを示している。

「ど、どうしたんですか!?」

「そ、その……やっぱり……今日のうちにみなさんに……伝えておきたいこと……あって……」

「と、とりあえず落ち着いてください……今開けますねっ」

 門を開き、頼りない足取りのシルさんを迎え入れる。さっきまで持っていた荷物全てがなくなっているのは、シルさんの眷属たちが運んでいったからだろう。

「シル某くんー? ボクたちを差し置いて好き勝手しておきながらよくここに顔を出せたものだねぇー?」

「ヘスティア様の言う通りですっ! ヘルメス様たちまで巻き込んで! ドッキリを仕掛けるにしても限度ってあると思うんですけどー!?」

「わ、(わたくし)だってベル様と二人きりであんなことやこんなことを……あぁ……!」

「せめて一言あっても良かったのではないですか、シル」

 神様とリリのシルさんを見る目が怖い。春姫さんはなんかちょっと違うベクトルで怖い。リューさんだけは、とっても複雑そうな表情を作っていた。

「ヴェルフ殿……これが修羅場というものなのでしょうか……?」

「いやまだだ。あの酒場の女が投じる一石次第だ。震えて待て」

 命さんとヴェルフはなんかワクワクしてない!? それはおかしくない!?

「あ、あの……みなさん……」

 胸に手を当て、荒い呼吸を少し整えて。

「申し訳……ありませんでした……!」

「し、シルさん!?」

 深々と、シルさんが頭を下げた。

 これにはみんなも驚いたみたいで、全員が目を丸くしていた。

「勝手なことをしてベルさんを連れ出してしまって、本当にごめんなさい」

「や、やめてくださいシルさん! それは」

「いいんです。全て私のわがままなんですから。ケジメくらい付けさせてください」

「シルさん……」

 整わない呼吸に振り回され体が上下動し続けている中、騎士の髪飾りを付けたシルさんは頭を下げ続けている。身を起こそうと彼女の肩に手を置いても頑なに顔を上げようとしないし。

「本当に、申し訳ありませんでしたっ……!」

「い、いくら頭を下げられたって……」

「そうですそうですっ。そんな……ことで……」

「う、うぅ……」

「シル……」

 シルさんのど直球の謝罪に居た堪れない様子の神様たち。当事者である僕は居心地の悪さというより、申し訳なさで一杯になっていた。

 騙された格好とはいえ、二人旅を了承したのは僕自身なんだ。僕とシルさん同意の下での旅だったのに、シルさんだけが謝っているのは絶対に違う。だったら……!

「ま、一旦落ち着け。全員」

 一緒になって頭を下げようとした僕の行動を読み切っていたみたいなタイミングで、前に出たヴェルフが僕の肩を叩いた。

「ヴェルフ……?」

「納得いかない許せない気に食わないは大いにあるだろうけど、こうして頭を下げに来ている人間をやいのやいのと糾弾したって仕方がない。寧ろここまでやって来た胆力を褒めてやってもいいくらいだろう。なあ?」

「同意です。我々の内心を察していながらお一人でここまでやって来た。我々にとっても見習うべき点です。うん、うんっ」

 ヴェルフが笑って、命さんも笑った。シルさんを庇っているというより、思ったままを口にしてくれているって感じがした。

「た、確かにそうだが……」

「ぐ、ぐぬぬ……」

「わ、(わたくし)は……その……」

「……一度、矛を収めましょうか。でなければまともな会話すらままならないでしょう」

「そうするかあ……」

「リリは納得いってませんし、詳細はちゃーんと報告してもらいますけどねっ!」

「春姫も知りとうございます……!」

 リューさんの言葉をきっかけに、神様たちから立ち昇っていた敵意が薄れていった。実は冷や汗ダラダラ心臓バクバクだったもので、自然と大きな溜息を漏らしてしまった。

「それで、シル某くん? 何だってそんな息を切らしてここまで来たって言うんだい?」

「それなんですけど……ベルさんベルさん」

「は、はい……」

 ちょいちょいと手招きをされるまま近寄ると、耳元に手を添えられた。

「ボクたちの目の前でなーにをイチャイチャしているのかなあ君たちはぁ?」

「お、大きな声で言えないことなんですっ! 実はですね……」

「はい……」

「多分なんですけど……私の下着が一つ……ベルさんの荷物の中に紛れ込んでいるみたいで……」

「ぼ、僕の荷物の中に!?」

 ほんとに!? そんな危険な代物、紛れていたら絶対に気が付くと思うんだけど!?

「どっ、何処かに忘れて来たとかじゃ……!」

「忘れ物の有無はどの宿でも二人でしっかり確認しましたし……後はもうベルさんの荷物に紛れ込んでいるくらいしか……」

「ちょ、ちょっと見てみますね!」

「お願いします」

 大きめのバックパックを開き、頭を突っ込む勢いで中を改める。この中にはないと思うんだけどなあ……。

「あ、そうだ」

 みんなに見られると体裁が悪いというか絶対何か勘違いされるだろうし、どうか荷物の中から出て来ないでくださいお願いしますと願いながら荷物を漁る僕の直ぐ近くで、彼女の声が聞こえた。内緒話のトーンではなかった。

「そういえば、ベルさんに伝え忘れていたことがあるんです」

「なんですか!?」

「ベルさんはご存知ないかもしれません。私も、つい最近まで知らなかったことです」

「と言いますと!?」

「恋は、頑張るもの。みたいですよ?」

「は、はあ……?」

「だから私、頑張っちゃいますから。今、この瞬間から」

「へ、っ……?」

 顔を上げ、彼女の方に向き合ったその瞬間。

「んっ……」

 僕の唇に、彼女の唇が触れた。

「はぁ……」

 僕に触れたばかりの唇から吐き出された切ない吐息が僕を撫でる。冬の冷たい空気とブレンドされて出来上がった薄い霧の向こうでは。

「これは、宣戦布告です」

 ドヤ顔には不釣り合いなくらい頬を赤らめた彼女が、僕だけを見つめていた。

「そもそも、私が額だけで満足する女だと思っていました?」

「し……しっ、し……るさ……?」

「あ、忘れ物の件、気の所為でした。ってことで万事解決ですねー。では私はこれでー」

「へ? や、え、あ、の」

「そうだ! 忘れないでくださいね! 週に一度、私とデートしてくれるってお話! ベルさんから! 私にしてくれた! デートのお話ですっ! とりあえず明日お店に来てください! 日取りの相談をしましょう! ではみなさん! お騒がせ致しました! またお会いしましょう!」

 さっきまで息を切らしていたの何だったのってくらい整った呼吸で、軽快な足取りで僕らのホームから飛び出していくシルさん。暫しその背中を無言で眺めていた僕たち。

「つっ……つ! い! ほ! う! だっ! あの魔女を! オラリオから追放しろーっ!」

 最初に爆発したのは、神様。

「ずるいですずるいですずるいですーっ! というかデート!? ベル様から誘ったぁ!? 本当なんですかベル様ぁー!?」

 リリも大爆発。

「ベ、ベル様と接吻だなんて……なんと羨ましい……どうか(わたくし)もお慰みを……一夜の夢を……! 叶うならば……子種を……どうか……!」

 春姫さんは爆発というか、故障。

「ベル殿が大人の階段を……って! 何を言っているのですか春姫殿ぉ!?」

 命さんは混乱。

「ベル。それはいけない。いやいけなくはない。ただやはりいけない。シル。シル交代しましょうシル。そうしましょうベルシルベル」

 リューさんは、もはやカオス。

「そこまでのあいだになったのか。お前もなかなか隅に置けないなあ、ベル」

 頼りになる兄貴分はニヤニヤと笑いながら僕の肩をバンバン叩く。

 中腰のまま置物と化した僕をみんなが囲う。あれこれ言われているしあれこれされている。それはわかっているんだけど。

 今の僕には、飛び跳ねるように僕らから離れて行く女の子の背中しか見えていない。

「あ……」

 彼女しか見えていない僕にでも、彼女の進む先に。彼女の上空に、それを見つけた。

「あーもーっ! 恥ずかしいーっ!」

 大混乱を引き起こしたわがままな彼女を応援するように。幸多からんと願うように。

「あははは……!」

 小さな子供みたいに笑う一人の女の子を、虹の橋が祝福していた。

 


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