指先に銀河をのせて   作:夜のイロ

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完結しました。
ここまでご愛読ありがとうございました……!


指先に銀河をのせて

 

『郁代ちゃんへ

 

 このお手紙をひらいたということは、私はもう日本を旅立ったあとなのでしょうか。郁代ちゃんがどういう気持ちでこれをよんでくれているのか、私にはあまりそうぞうできません。

 色々と書きたいことはあるんですが、まずはお別れのことばがお手紙になってしまったことについて、あやまらせてください。ちょくせつ言わなきゃいけないっていうのはわかってるんですけど、やっぱりつらくて。だからこんな形になっちゃってごめんなさい。

 でも、これが私にとっても郁代ちゃんにとっても、いちばん良い方法なんじゃないかなとも思っています。誰にも聞かれずに、二人だけのお話ができるからです。

 とはいっても、なにからお話しすればいいのかすごくなやみました。思い出話も、伝えたいこともたくさんありすぎて、どう文章にまとめればいいのか、私の脳みそじゃ思いつかないからです。それに、なんとかぜんぶ書けたとしても、だらだらとつまらないお手紙になっちゃうと思います。

 なので、一つだけ。

 まだ郁代ちゃんにお話しできていなかったことを、ここに書かせていただきます。私たちが初めて出会った日のことについてです。

 あのころの私は、学校にふっきして、まだ二週間も経っていませんでした。クラスの子たちはすでになかよしグループで固まってて、あとから入ってきた私はとうぜん独りぼっちでした。

 べつに友だちなんていなくてもいいと思っていたんですが、それでもだれかに話しかけて欲しくて。なので、学校にギターを持ってくるようになりました。会話のきっかけになればと考えたんです。まあ……見向きもされなかったんですけどね。

 けっきょく、自分のやってることが無意味だってわかって落ちこんで。同時に、これから目が見えなくなるのに、ギターなんかやってても仕方ないのかなとも思ったりして。引退しなきゃいけないのかなとも考えて。

 でも逆に、そう考えたらすこしくらい思い切ったことをやってみたくなったんです。

 だから、放課後の校舎でギターをひいてやろうって思ったんです。

 あこがれだった文化祭ライブにはどうせ出られないだろうから、せめて学校の中でギターをひいて、ちょっとでもユメを叶えた気分になりたかったんです。

 

 そして、その思いつきが私と郁代ちゃんを出会わせてくれました。

 

 話しかけられたとき、私はすっごい、すっごいビックリしました。

 ばしょ的にも、時間的にも、まさか人がくるなんて思いもしませんでしたから。しかも、すごくかわいくて、私とは正反対の明るいふんいきの子だったから、よけいにドキドキしちゃって。つい逃げ出しちゃいました。

 不完全ねんしょうって感じでスッキリしなかったので、次の日にリベンジしました。さすがにあの子も二日れんぞくではこないだろうって思ってましたけど、二日れんぞくできました。またビックリです。

 いったいこの子はなんなんだろうってフシギに感じました。けど、話してみたらとってもやさしい人で。それに私のギターをたくさんほめてくれて、上手だって言ってくれて。ついついニヤケちゃいました。いままで家族以外の人とこんなに話したことなかったから、きんちょうしたけど、とてもうれしくて。人と話すのが楽しいと感じたのはあのときが初めてでした。

 そのあとはギターケースのこととか、先生に怒られたりとかで色々たいへんな目にあいましたが。いまはいい思い出です。

 

 

 

 あの日から、郁代ちゃんと出会ってから、私の世界は大きくかわりました。

 大げさじゃないですよ。本当にかわったんです。

 ギターをもういちど、がんばりたくなりました。友だちが欲しいと思うようになりました。楽しいことが好きになりました。だれかといっしょにいても苦しくならなくなりました。

 いまにして思えば、事故にあってからの私はこれまで以上にひくつなインキャになっちゃって、なにもかもこわくて仕方ありませんでした。だけど、郁代ちゃんはそんな私にもえんりょなく近づいて、ほほえんでくれて、やさしく手を引いてくれました。まっくらだった私の世界を、まぶしく、やわらかく照らしてくれたんです。

 郁代ちゃんは、私の人生を救ってくれたヒーローでした。

 あこがれてました。ずっと好きでした。

 近くにいるだけで幸せでした。

 叶うはずのない恋だと思ってたから、ずっと心の中に気持ちをとじこめてたけど、両想いだとわかったときは天にものぼりそうな気分でした。

 だから、私は決めたんです。郁代ちゃんのためにがんばろうって。悲しい未来を受け入れるんじゃなくて、大好きな人の顔をこれからも見ていくために、勇気を出してみようって。

 けっかてきに、長いあいだお別れになっちゃうのはとってもさみしいけど、でもきっとこの先、いっぱいの幸せが待ってるって私は信じてます。だって、いままでたくさんつらいことや、苦しいことがあったんです。そのぶん、ちゃんとしたハッピーエンドがあるはずなんです。そういうふうにこの宇宙はできているんだと思います。

 なので、だいじょうぶです。私はがんばれます。

 郁代ちゃんもだいじょうぶだって信じてください。

 

 

 

 みじかくまとめるつもりでしたが、長くなっちゃいましたね。すみません。そろそろこれでおわりにします。

 ムスビのことばも色々なやみましたが、最後はやっぱり「ありがとう」って言っておしまいにしたいです。それがいちばんスッキリするからです。

 

 なので、郁代ちゃん。

 

 あの日、私を見つけてくれてありがとう。

 話しかけてくれてありがとう。

 友だちになってくれてありがとう。

 たくさんあそびにさそってくれてありがとう。

 いっしょにギターをひいてくれてありがとう。

 私を好きになってくれてありがとう。

 本当に、本当にありがとう。

 あなたに出会えてよかった。

 あなたを好きになってよかったです。

 数年後、かならず会いにいきます。

 すこしのあいだ待っててください。

 元気でいてください。ケガも病気もしないで、ずっとけんこうでいてください。つねに笑顔で、だけどたまに私のことを思い出して、ほんのすこしだけ泣いて、そしたらまた笑ってください。

 あなたの彼女の、いちばん最初のわがままです。

 

 

 ここまでよんでくれてありがとう。

 大好きです。

 大好きです。

 大好きです。

 

 

後藤 ひとり』

 

 

 

 

 

 

指先に銀河をのせて

 

 

 

 

 

 

 実際のところ、好きか嫌いかで言えば「わからない」が一番しっくりくる。

 

「……(あつ)

 

 高一のころから使いつづけているレスポールは、背中のギターケースの中でまるで遊びつかれた園児のように静かに眠っていて。そのずっしりとした肩への食い込みを「よいしょ」と喜多は優しく背負い直すことで、痛みを打ち消した。それからこめかみの汗を腕で拭う。

 人生で二十回目の夏がきていた。八月である。下北沢は樹木が少ないくせに、やたらとセミたちがじわじわやかましいのが不思議だ。

 十九歳となり、女子高生から女子大生へと進化を遂げた喜多は、夏休み初日という世界で一番幸せな日をスタジオ練習に費やすことに決めていた。向かう先は当然、スターリーだ。

 つまり、日常となんら変わりない。高校生の延長線上を喜多は歩いていた。

 しかし、それでいいと彼女は思う。変わる必要などないのだ。自分はギタリストで、ギターを弾くために生きている。

 

「──おはようございまーす!」

 

 スターリーの入口扉を開き、中に元気よくあいさつを送った。階段をおりていくとパタパタと音が近づいてきて、

 

「おっ、喜多ちゃんはやい! リョウより先だよ」

 喜多と同じく女子大生と化した虹夏が顔を出した。彼女は今年で二年生だ。

「えへ、そうなるようにはやめに家を出ましたので」

「やる気だねえ。頼もしいよ」

 喜多はケースをテーブルの上によっこらと置いて、

「はい、やる気まんまんです。次はおっきいハコで演れるんですから!」

 

 次のライブは来週で、渋谷。しかもそれなりに知名度のある会場だ。キャパシティも過去最大の広さを誇っている。

 当然、易々と出演の機会が得られたわけではなかった。地道にコツコツとライブやSNSでファンを増やしてきた努力の賜物だ。

 虹夏は喜多の気合いに少し頼りなく眉を下げて、

 

「すごいなあ。あたしはどうしても緊張が勝っちゃってさ……変に力んじゃったり、逆に力が入らなかったりで参ってるのに」

 

 気持ちはわからなくもない。規模のでかいステージは一気にファン層を拡大できる分、プレッシャーも相応にでかいものである。

 だが喜多は、

 

「私だって緊張してますよ。でも、先輩たちがいるからなんとかなるって思ってます」

 同調しつつも、相変わらずの能天気をみせた。

 虹夏は苦笑で返し、

「あたしにはあんまり期待しないでよ〜? 頼るならリョウにしてね?」

 それに喜多は満面の笑みで返す。

「はいっ、しっかり伊地知先輩のことも頼らせていただきますね!」

 

 言うようになったな、という顔で虹夏は今度こそちゃんと笑った。

 扉が開く音が聞こえた。二人は同時に顔を上げ、階段を見上げる。女子高生からフリーターに変貌を遂げたリョウが姿を現した。

 

「あ、先輩。おはようございます!」

「おはよ──あれ、今日は私が最後なの?」

 意外そうな声と目線をリョウが送ってきた。

 虹夏が、

「そうだよー。罰ゲームはなにがいい?」

「いや、べつに遅刻はしてないじゃん。──よいしょ」

 どかり、とリョウのベースがテーブルに置かれる。椅子を引いて、そのまま彼女自身もどかり、と背もたれにかかった。

「暑い。虹夏、アイスは?」

「ないよそんなの。それより、全員そろったんだからさっさと練習やるよ」

「来たばっかじゃやる気出ない。先にアイス食べたい」

「ほら、移動だ移動。スタジオいくよ〜」

 虹夏はシカトして歩き出す。

 厳しいリーダーに見切りをつけたリョウは、今度は後輩をターゲットに定め、

「郁代ぉ……買ってきてくれない……?」

 喜多は困った顔をしてみせた。

「無視だよ喜多ちゃん。無視。これ以上、コイツを甘やかしちゃダメなんだから」

 虹夏が戻ってあいだに入ってきた。リョウを指さしながら、

「いい? 人は甘えて生きていくとこうなるの。進学も就職もせずに、のんべんだらりと生きていくことになるの。こういうのを『成れの果て』って言うんだよ。見習っちゃいけない姿だから反面教師にしてね? わかった?」

 喜多はもう一度、困った顔をした。本人の前で「はい」とは言えない。

「アイス……」

 リョウはまだ粘っている。虹夏もすかさず、

「無視だからね!」

 

 はやく練習に入りたいなと喜多は思う。

 だがその願いも虚しく、十分もゴタゴタがつづいた。

 結果的にリョウの甘えが勝ち、虹夏が折れることになった。「ああもう、わかったよ!」とぷりぷり言いながら彼女は家からアイスキャンディーを三人分持ってきてくれて、練習前にごちそうになった。リョウの甘ったれ根性を大切に育ててきたのは、他ならぬ虹夏だろうと喜多は確信する。

 ようやくスタジオに入ると、さっきまでのふざけた空気も多少はなりを潜め、みな真剣な表情になった。喜多もバンドマンの顔になり、シールドをアンプに挿し、レスポールにも同じように接続してからアンプのスイッチを入れた。軽く鳴らす。音のコンディションは上々だ。

 リョウが、

 

「郁代もだいぶ様になってきたよね」

「え? ……えへへ。そうですか?」

「なんかもう、ちゃんとギタリストって感じ。どこに出しても恥ずかしくないね、これなら」

 

 思いがけずお褒めの言葉をもらい、喜多は素直に照れた。「ありがとうございます」と返してから、またすぐにギターに集中を注ぐ。喜多の意識はあっという間に音楽に飲まれていく。

 しばらくすると虹夏が声を張り、

 

「──よし、じゃあ通しでリハやろっか!」

 

 それから喜多はマイクの前に立った。音響チェックを済ませ、ギターを構える。右手の指先にはひとりからもらったトライアングル型のピンクのピック。左手はネックを握っている。

 一つ咳ばらい。口の中がカサつく。心臓が少しだけはやい。やはり本番を意識するとどうしても体は正直で、緊張や不安に反応してしまう。

 だが、なにも問題はない。

 自分の後ろにはつねに先輩たちがいる。ピックを通して、ひとりともつながっている。

 そしてなにより、この手にはずっと使いつづけてきた頼れる相棒がいるのだ。

 喜多はレスポールを見下ろす。彼女にとって、ギターはもう自分の一部だった。「好き」とか「嫌い」とかで言い表すには難しいものがある。だから「わからない」という答えが、自分の中で一番正解に近いのだった。

 きっと、それでいいんだと思う。それが一番しっくりくるのだ。

 虹夏のドラムスティックの音がする。喜多はネックをつよくにぎった。

 

 さあ、はじまるよ──そして相棒に呼びかけた。

 

 直後にドラムが鳴り響く。ベースが低くうなる。喜多も弦を勢いよくかき鳴らした。

 レスポールが笑うように鳴いた気がした。

 

 

 

 ※

 

 

 

 喜多が二十歳になるころ、結束バンドはインディーズとして着実に「成功」の軌道に乗り始めていた。

 ファンが増え、SNSのフォロワーや動画投稿サイトの登録者はどちらも三千人を超えた。

 ライブは大きめのハコでも頻繁に演れるようになった。

 自主制作で初のミニアルバムをリリースし、これもなかなかの反響だった。

 レーベルからも声がかかった。かなり小さな事務所ではあるが「音楽性の尊重と自由」を約束してくれ、虹夏が代表となって契約した。これにより資金面でなかなか実行に移せなかったセカンドミニアルバムの制作や関東エリア限定のミニツアーも実現可能になった。

 上手くいっていると喜多は思う。現実は順調に動いてきている。

 それでも強いて失敗を挙げるとすれば、喜多が翌年の成人式に出られなかったことだ。まさかのライブの日とバッティングしていたのである。

 そんなもの普通は数ヶ月前から気づくはずだろうに、喜多が日にちを勘違いしていたせいで、一週間前にやっとこさ判明したのだった。

 

「──あなたって子はっ! なんでそういう大事なことをちゃんと確認しておかないのっ! 着付けもヘアメイクも予約してたのに!」

 

 もちろん母は仁王像の形相になり、雷撃を落とされた喜多は干上がったナメクジのようにしおしおとしょぼくれた。

 結果として、直前になって先輩二人や会場側に迷惑をかけるくらいなら、ライブのほうを優先しなさいということで、喜多はそれに大人しく従った。娘の晴れ姿を待ち望んでいた両親には申し訳ないことをしたと思う。

 そんなわけで、しばらくは母の機嫌を損ねないように、遊びや練習を極力控えて親孝行に努めていた喜多だが、ちょっと嬉しいこともあった。成人式後のある日、電話があったのだ。

 さっつーだった。卒業式の日以来である。

 

『──ダブルブッキングしたんだって? 喜多ママさんから聞いたよ。まじ笑える』

 出ると、のっけからまじ笑われてしまった。「久しぶり」より先に相手をからかってくるあたり、変わりないみたいで安心する。

「もうっ、その話はやめてよね。私、すごく反省したんだから」

『でもな〜、親の立場になって考えたらすんごいショックだろうね。大切な娘が人生の節目のイベントより、ライブイベントに行ったりしたらさ、』

「わかったからっ。これからはちゃんとします、再発防止に努めますっ。だからもう言わないでっ」

 喜多の必死な反応にケタケタと満足げに笑う声が聞こえた。

『はいはい。そんならよろしい』

 さっつーは話題を変える口調になり、

『──そんで、最近はどうなの? 上手くやってる? バンドとか日常生活とか』

「うん……やれてるよ」

『そりゃよかった』

「さっつーは? 最近どう?」

『ぼちぼちかな。あ、最近中古でバイク買った』

「へえぇ……!」

 

 そんな雑談がしばらくつづいたあと、ふたたび成人式の話題になる。

 

『──そうそう、成人式で面白いことあってさ』

「え、なに?」

『青山先輩って覚えてる? ウチらが一年のときにいた人』

「ああー、うん。覚えてる」

 最初に喜多に告白してきた相手だった。忘れるわけがない。色々と苦労させられた元凶でもあるのだ。

『その人がさ、なぜかギター持って会場にいてさ。喜多のこと探してたんだよね。「喜多はいるかっ。オレのギターを聴いてくれ!」っつって』

「ど、どういうことっ?」

『喜多、高二のころ文化祭ライブやったじゃん? あのとき、青山先輩もあの場にいたみたいでさ。で、そのときに喜多の告白を聞いたらしくて。後藤とやらに負けてられんって自分もギター始めて、成人式で披露するつもりだったんだと。元水泳部のやつが言ってた』

「え、ええっ……?」

 

 おそろしい。もしも成人式にいっていたら、大勢の前で大して親しくもない相手からギターを聴かされていたかもしれないのか。いや、おそらく聴かされるだけでは済まないだろう。話を聞くかぎり、そのままプロポーズまがいのことをされた可能性もある。

 

『まあ結局、喜多がいないってわかって凹んで帰ってったけどね。元秀華高の女子たちから「喜多さんには後藤さんがいるからダメですよ」って総スカン食らってたし。あれは笑った』

「あっ、」

 喜多はそれを聞いて、思わず声を上げた。

『ん、どした?』

「あ、ううん……なんでもっ」

 

 答えながら、喜多は口元がゆるむのを感じた。

 嬉しいと思った。

 みんながひとりのことを覚えてくれていた。忘れないでくれていた。あの日のライブは単なる思い出ではなく、みんなの記憶に残った意味のあるものになっていたのだ。

 自分のやったことは、ちゃんと正しい結果になっていたのだ。

 よかった──安堵がため息となって出て、少しだけ目頭が熱くなる。

 

『──やば、もうこんな時間。ごめん、そろそろバイトあるから。また電話するわ』

 気がつけば三十分以上も話していた。喜多も夕飯の支度を手伝わないといけないのでうなずいた。

「うん、またねっ」

『いつごろかけていい?』

「いつでもいいわよ。あ、でも十一時過ぎはお母さんから怒られちゃうから、それよりはやくがいいかな」

『おーけ。じゃ』

「うん」

 しかしまだ通話は途切れず、

「さっつー?」

『…………あのさ、』

「うん?」

『ちゃんと幸せになりなよ?』

 唐突だった。

「えっ?」

『ウチはもう、そう言ってやるくらいしかできないからさ。喜多には後藤がいるしね』

 どういう意味なのか。喜多は首を傾げつつも、

「……うん、ありがと」

 それだけ伝えた。

 さっつーはスピーカーの向こうで「ふっ」と笑い、

『そんじゃあねっ。──鈍感バカ喜多!』

 

 あかんべー、とでも付け加えてきそうなクソガキ発言を最後に、にぎやかに通話をぶった切った。

 

 

 

 ※

 

 

 

 季節はめぐっていく。

 その年の夏が訪れたとき、喜多は二十二歳になっていた。

 世間一般的にはこの歳はもう立派な大人ではあるが、喜多の行動はやはり高校生と同じだった。学校が終われば、練習のためにスターリーに向かう。彼女はその道の上をずっと歩みつづけている。

 ガワばっかり成長してしまったものだと思う。タバコも酒も試してみたが、どうにも好きになれなかった。中身はいつまでも甘ったるいジュースやスイーツばかり好んでいる。

 喜多は下北沢行きの電車の窓から外を見ていた。八月になって、以前よりもずいぶん日がのびてきていた。この時間でもまだまだ空は明るくて、太陽も白々と輝いている。こうしてぼんやりしていると、一日というのは思いのほか長く感じるのに、一年が過ぎていくのはあっという間なのが喜多には不思議に思えた。

 

 ひとりがアメリカにいってから四年の月日が流れた。

 

 その間、さまざまなことがあった。

 結束バンドはいまや、インディーズで『シクハック』や『シデロス』という一流バンドにも決して引けを取らない一線級の人気を博している。スターリーも以前より客足が大幅に伸び、バイトの子も増えてにぎやかになった。

 虹夏は広告代理店のクリエイティブ職に就き、働きながら月に二回あるライブやスタジオ練習にもしっかり顔を出している。

 リョウは変わらず自由だが、フリーランスでモデルをやりながらバンド活動に専念している。

 喜多も内定をもらって、来年から一般企業に勤めることになった。

 それと、さっつーがバイト先の人と婚約した。

 お気に入りだったケーキ屋がつぶれた。

 オリンピックが開催された。

 総理大臣が何度も替わった。

 日常は日に異に顔を変えていく。ささいなことでもいつの間にか変わってしまう。

 だけど、ひとりはまだ帰ってこない。一番変わってほしいことはいつまでも無言で固まったままだった。

 臨床試験の結果も喜多にはわからなかった。治療が成功して、ひとりが視力を取り戻したのか。上手くいかず、いまも苦しい思いをしているのか。学術雑誌や試験をおこなった病院のウェブサイトをのぞいてみても、個人情報保護のためか色々と記述があいまいで、どうにも判別できなかった。

 しかし、喜多はなにも心配いらないと自分に言い聞かせていた。だって、ひとりが言っていたのだ。この先、いっぱいの幸せが待っているのだと。ちゃんとしたハッピーエンドがあるのだと。そういうふうにこの宇宙はできているんだと──。

 ひとりが手紙に残した言葉はどれもやさしかった。

 そのやさしさを喜多はいつまでも、どこまでも信じている。

 ただ──同時にそれが例えようもなく寂しくて、恋しかった。

 電車がとまった。ドアが開き、下北沢のホームから熱風が流れ込んでくる。喜多はギターケースを背負い直して歩き出す。階段を下って改札を出た。

 セミが鳴いていた。アブラゼミとツクツクボウシが対バンしている。そんなものはさておき、少し空が曇ってきていた。さっき車窓から見たときは青空が見えていたのだが。

 もしや夕立でもくるのかと思う。喜多はスマホを取り出した。雨雲レーダーをチェックしようとした。

 と、そこで気づく。

 

「ロイン?」

 

 ロインである。画面に新着通知がポップされていた。十五分ほど前に結束バンドのグループロインに送られてきたものだった。

 すぐに開く。虹夏が発言していた。

 

『ごめん、これから急に仕事入っちゃって! 申し訳ないけど今日のスタ連は中止で! 埋め合わせはまた追って連絡するね! ほんとごめん!』

 その下にリョウの返信。

『り』

 

「え、どうしよう」

 

 喜多も「了解です。がんばってください!」と陽気に返しつつ、眉をしならせる。これから数時間の身の振り方を考えなければならなかった。家に帰ってもやることがないし、どこかで時間をつぶそうと思うが、あまりお金もない。

 しばし思案してから、ひとまず喜多は足を送り出した。せっかく来たのだから、なにかここで来た意味を見つけてから帰ろうかと思った。

 歩く。

 本多劇場前を、白い煙がもくもく上がる居酒屋の前を、下北沢一番街を、猫が口論し合う名もなき路地を、喜多はあてどなく歩き回る。

 自分はなにをしているんだろうと思わなくもない。

 雨が降りそうなのだから、それをいい訳にして帰ってしまってもいい気がするのに、なにかをここで見つけたいと思っている。なにかが見つけられそうな予感がある。

 喜多の耳にはいつしかヒグラシの声が響いていた。他の別種のセミ共に邪魔されながらも、必死に甲高く鳴き叫ぶ声が喜多の鼓膜を揺さぶっていた。

 

 ──ふと、記憶がさかのぼっていく。

 

 西日に染まった真っ赤な校舎の姿が喜多の脳裏をよぎる。ヒグラシの声を聴きながら六時になりかけの時計塔を見上げた高校生の自分が、急いで校舎の中に入っていく。階段を勢いよく駆け上がっていく。教室に入っていく。安堵した様子で空っぽのギターケースを背負い込み、そのまま走り去ろうとしている、

 そのときだった。

 

「…………ギター?」

 

 喜多の意識は突如、現実に引き戻された。思わず足を止めて、耳をすました。

 ヒグラシと、カラスと、レトロな原チャリのセルモーター音と、夏休みを喜ぶ子供たちの奇声と、自販機の吐き出し音と、自分の呼吸に混じって、

 いまにも周りの音にかき消されてしまいそうなか細い音量だけど、たしかにギターの音がしていた。

 喜多は音のする方向へ首を向けた。住宅街のほうだった。

 予感がある。

 つま先の向きを変え、足を進めた。車が二台も通れそうにない道を喜多は歩いていく。

 どうせ人ちがいだと冷静な自分は言う。そんなわけないのだと。この街でギターを持ち歩いてるヤツなんて珍しくない。大勢いる。きっと一休みがてら、その辺で軽く弾いているだけに決まってる。

 喜多もそう思う。

 なのに、予感がある。この音に聴き覚えがあると感覚が伝えている。その感覚が喜多をまた安っぽい少女に戻してしまう。

 音が近くなってくる。ちょうど公園が見えてきた。広くもなく、狭くもなく、遊具がちょいと寂しいという点を除けば、なんの変哲もない公園だ。

 そこのベンチの周りに喜多は人影を見つけた。

 まず、小学校低学年くらいの女の子が三人いる。彼女らは背中を丸めてうんこ座りをして、ベンチに座っている一人の女を子分のように囲んで見守っている。

 親分らしき女はどう見ても大人で、ベンチに座りながら脚を組み、エレクトリックギターを細い指で軽やかに弾いていた。青いジーンズ、白いTシャツの上には暑苦しいミリタリー色の革ジャンを羽織り、さらりと伸びた薄桃色の長い髪は後ろで一つに束ねられている。黒いキャップは目深にかぶられ、その下にはさらにサングラスまでかけられていて、目元は完全に見えない。

 それでも喜多にはわかった。

 あのサングラスの下には、綺麗なターコイズの瞳がある。丸くてかわいい目があるはずだ。

 喜多は公園に入ろうとした。その前に、小学生の一人が女に声をかけた。それを皮切りに質問攻めが始まる。女は少しだけ驚いた様子で手を止め、彼女らに顔を向けた。それからゆったりとした口調で、一つずつ問いに答えていく。

 

 

 ねえ。おねえさんは、なんでギターを弾いてるの?

 お、お姉さんはね、ギタリストだからだよ。

 ギタリスト?

 あ、うん。お姉さんはギターが大好きで、ギターを弾くために生まれてきたんだよ。

 なんでここで弾いてるの? ブドウカンで弾けばいいのに。

 えっと、お姉さんはいま、武道館よりもここで弾きたいんだ。

 なんで?

 ここが……この街が、お姉さんにとって大切な場所だからだよ。忘れられない思い出があって、大好きな人たちがいる場所なんだ。

 その人たちに会いにいかないの?

 ……う、うん。まだちょっと勇気が出なくてね。だから自分を落ち着かせるために、この公園でギターを弾いてるんだ。

 こわい人たちなの?

 ううん、ちがうよ。みんないい人たち。

 どんな人たち?

 うんとね、一人はすごく優しくて、明るくて、頼もしい先輩で。一人はちょっと変わってるけど、私に初めてあだ名をつけてくれた面白い先輩で。もう一人は……お姉さんが世界で一番好きな人なんだ。

 へえー。

 

 

 そこで女の子の一人が喜多の存在に気づいた。目が合う。不審者を見るような目つきで睨んでくる。そして、残りの二人に小声でなにかを伝えると、女の子たちは三人同時に立ち上がった。それから喜多の横をすり抜けて、逃げるように去っていった。

 少女たちを目で追っていた女も、それで公園の外で立ち尽くす喜多に気がついたようだった。「あっ」という形に口を開いていた。

 喜多は体重を感じない足取りで、公園に入っていく。

 

「…………っ、」

 

 言葉が出ない。声がどうしても出なかった。

 なにからなにまでデタラメに思えた。

 彼女がここにいることも、ギターの音に導かれて出会えたことも、真夏に革ジャンを着ていることも、サングラスが死ぬほど似合っていないことも、どれもが荒唐無稽でリアリティがなかった。

 だけど、信じたくてたまらなかった。

 喜多はなんとか喉から声を引っ張り上げて、

 

「──ひとりちゃん、よね……っ?」

「あの……はい」

 

 女はうなずいた。正体を明かすようにキャップをはずし、サングラスを取った。

 ひとりのやさしげな顔が現れた。

 左目は眼帯がつけられているが、右目は変わらない綺麗なターコイズを湛えていた。

 

「あっ、ご、ご無沙汰しちゃって……」

 ひとりは軽くそう言いながら頭を下げた。

 数秒の沈黙、

 それから彼女は眼帯をさわり始め、

「──あの。目のことなんですが、」

 さっそく切り出した。

「やっぱり、ダメでした」

「えっ……」

 喜多の呼吸が止まった。一緒に心臓も止まったかと思った。

 ひとりはつづけて、

「左目はもう、神経がダメみたいで。どうやっても治らないらしくて。今後の医療の発展に期待するしかない、と」

「そ、それは……っ」

「でも、」

 ひとりは顔を上げた。まだ数メートルは離れている喜多の顔を裸眼でしっかり焦点に合わせていた。柔らかいほほえみだった。

「右目は──見えるようになりました。ちゃんと」

 喜多は極限まで目を見開いた。

「ほっ、本当……? ほんとに……本当……?」

「は、はい。事故前より少し視力は落ちましたけど……それでも一応、成功したみたい、です」

「あ……じゃ、じゃあ……っ」

 

 その言葉をたしかめるように、喜多はゆっくり横歩きをして、ひとりの正面から体をズラしてみる。ひとりは微笑しながら、その動きを目で追っていた。

 

「見えてますよ。郁代ちゃんがカニみたいに動いてます」

「あ──は、はは……っ、は、は……っ」

 

 喜多は脱力するように笑った。表情筋が弛緩して、笑いがこみ上げてくる。なのに、どんどん目に涙がたまってくる。

 いつ日本に帰ってきたのか。向こうでどんな生活をしていたのか。ギターはまた再開したのか。その格好はなんなのか。

 たくさん訊くべきこと、確認したいことがあるのに、ポロポロと涙があふれて止まらなかった。

 しかし、まだ喜多は泣いた気にはなっていなかった。どうしても言いたいことがある。鼻をすすり、ひとりに静々と歩み寄った。ひとりは小さく腕をのばしてくる。そこに喜多は体を預けていく。二人は数年ぶりにお互いの体温をたしかめ合った。

 喜多は洟と涙を飲み込みながら、

 ひとりの耳元で、

 

「……私ね、ずっと待ってたよ」

「は、はい。ありがとう、ございます……」

「ちゃんと帰ってくるって……信じて待ってた」

「はい……っ」

「ひとりちゃん──」

 喜多は息を吸い込んだ。つよく、つよく抱きしめた。

「がんばったね。お疲れさま……っ、おかえりなさい……っ」

「……っ、う、うん……っ」

 ひとりもつよく抱きしめ返し、

 震える声で、なんとか一言。

「──ただいま」

 

 周りはうすい闇に染まり始めている。

 ぶ厚い雲は風に流されて消えていた。隠されていた星座が顔をのぞかせ、月も出てきた。ヒグラシはまだ歌っている。

 大人になった少女たちは、大人とは思えないほどみっともなく涙を垂れ流し、情けないほどメソメソと泣きじゃくっている。嬉しそうにほほをゆるませ、泣きながら器用に笑っている。

 呆れるように鳴くヒグラシ。

 そんな二人をぼんやりと照らす、丸くて白い月。

 

 

 

 ※

 

 

 

 ひとりが帰ってきた。六月末ごろには彼女は帰国していたらしい。

 その間に連絡もせずになにをしていたのかと、厄介な彼女を演じてみたくなった喜多は、後日ぷりぷり問いただしてみると、

 

『すっすみません……病院に試験の報告したりとか、保険の見直しとかで色々バタバタしてて……あと、直接会ってびっくりさせたかったので……ふへへへ……』

 

 怒る気など毛頭なかったが、これを聞いた喜多はちょっと怒った。「そんなサプライズ要らないからっ。はやく連絡入れてよね、もうっ。おバカ」と言ってやった。「ごめんなさい」と返された。

 まあ、でもべつによかった。

 ひとりがアメリカナイズされてサプライズを好むようになっていようが、電話しているときにちょくちょく英単語を挟んできて「英語できますよ」アピールをしてこようが、喜多には瑣末な問題だった。

 

 ようやく終わったのだ。

 

 喜多を悩ませてきた不安や恐怖たちは、ひとりと再会できた月夜の日にすべて溶けた。日常が帰ってきた。なによりもそのことが本当に嬉しくて安心できた。もう自分の心を惑わてくるものはなにもないのだと思った。

 そんな折に、

 

『──郁代ちゃん、よかったら明日の夜、うちに来ませんか……? 家族出かけちゃうので、二人きりになれるかと……』

 

 惑わされた。

 八月も終わりの時期に、ひとりから電話があった。なんてこったと喜多は思う。きっと『お誘い』にちがいなかった。

 喜多は「十秒待って!」とあわてて返し、その間に頭皮を揉んで、色々と考えた。悶々と考えた。変なことばかり考えた。そして十秒なんてとっくにオーバーして、一分近く経過していたころ。ひとりがスピーカーから不安げに『イヤですか……?』と小動物めいた声を出してきたのをキッカケに、

 喜多は覚悟を受け入れ、清純をえいやと投げ捨て、少し噛みながら答えた。

 

「い、いくゅ」

 

 

 

 

 後藤家に来るのはこれが二回目となるが、中に上がらせてもらうのは初めてだ。インターホンを押すとバタバタと忙しない音が近づいてきて、ドアが開いた。

 ひとりがにゅっきり隙間から首をのばして、

 

「あっ、い、いらっしゃいませ……! ど、どうぞ」

「う、うん。お邪魔します……」

 

 靴を脱いでいそいそと上がる。ひとりが前を歩いているので、その後ろを喜多はついていく。二階の彼女の自室に案内された。

 

「わあ、和室!」

 

 意外にも畳敷きだった彼女の部屋は綺麗だった。ただ、掃除されているから綺麗というよりは、こざっぱりしていて無駄なものがあまりないからだと感じる。のび太の部屋のほうがまだ面白みがあると喜多は思う。

 しかし、ちゃんと彼女を感じられるアイテムはあって、

 

「ギター、二本あるのね」

 

 部屋の端っこでスタンドに立てかけられているのは二本の黒いギター。一方は、ひとりがいままで使っていた少し古めのレスポール。もう一方は、彼女が公園で弾いていた新しめのギターだ。

 

「あ、はい。新しいのはアメリカにいたときに買ったんです。ヤマハのパシフィカです」

「へえー。かっこいい」

「へへ……弾いてみます?」

 

 いいの? ──と、喜多は歯の裏まで言葉が出かけたが、寸前で止めた。せっかくのお家デートなのだ。ギターをかき鳴らすより、もっとロマンチックなことがしたい。

 じゃあ、そのロマンチックなこととは──考えると、喜多は全身の体温が上がってくるのを感じた。一人でかぶりを振る。

 そのときひとりが、

 

「あの──郁代ちゃん。そろそろ、」

 言いながら、なんと電気を消してきた。一気に明かりが消えて、視界が封じられる。

「ひゃっ!?」

「始まりますよ」

「え、ええっ!?」

 

 喜多は肩を縮ませながら声を上げた。ウソでしょ、と心の中で叫んだ。こんなムードもへったくれもなく、いきなりおっぱじめる気なのか。それとも、これが世の恋人たちの常識なのか。

 とはいえ、これはいくらなんでも困ってしまう。

 

「ま、ままっ待ってっ! わ、私、まだその……色々と準備が……!」

 

 命乞いのような情けない声、

 それを、「ドカンッ」と外から謎の大爆音が塗りつぶしてきた。

 今度は声も出さず、喜多は文字どおり飛び上がった。戦争でも始まったかと反射的に窓に近づいて外を見ると、

 

「あっ、」

 

 正体はすぐにわかった。喜多の見つめる先には、光の点が下から上に向かっていくのが見えた。それはヘビのように細かくくねりながら尾を引いて上がっていき、ある一点で消滅したかと思うと、

 天空で大きく花開いた。赤い花弁がキラキラと咲き乱れ、数秒して残響が降り注いでくる。

 

「花火……」

「は、はい。綺麗ですよね」

 ひとりがとなりに来て言った。

 喜多はようやく合点がいった顔で、

「──もしかして、今日って花火大会?」

「あ、はい。そうですよ。毎年、この日にあるんです。私の部屋からよく見えるので、郁代ちゃんと二人で、って思って……へへ……」

「……い、」

 喜多は言葉をため、

「言ってよもうっ! び、びっくりしたじゃない!!」

「え、えっ?」

 

 びっくりしたのはこっちだとばかりに、ひとりは目を丸くして見てきた。

 どうやら、これもひとりなりのサプライズだったようだが、演出があまりにひどい。こんなの勘違いして当然だと喜多は憤慨する。乙女心をもてあそばれたのだ。実に遺憾である。無自覚なのがさらにタチが悪い。

 しばらくそれで喜多は勝手にプンスカしていたが、下手くそな動物の顔の花火が打ち上がって面白かったのと、ひとりがアイスを持ってきてくれたのですぐに機嫌は直った。

 

「──あの、郁代ちゃん」

「うん?」

 連発花火がバチバチと打ち上がっているとき、ひとりがふいに呼びかけてきた。喜多は棒アイスをかじりながら横を見る。花火に照らされた彼女の顔がこちらを向いている。

「い、郁代ちゃんは……その、将来のこととか考えてますか……?」

「え、将来? うーん、まあ一応ね」

 

 内定はもらっているし、貯金もちゃんとしている。バンドだってこれからもつづけていくつもりだ。それがひとりの問いに対する答えになっているかはわからないが、無計画で生きているわけではないと思う。

 ひとりは「そうですか」と言いながら、

 

「さすがですね。偉いです」

「えへへ。そういうひとりちゃんは──」

 止まる。安易にこれを訊き返すのはよくないかもしれない。ひとりの左目を見ながら喜多は思った。

 ──ところがひとりは、

「はい。私も……考えてますよ」

「え、あ、そうなの?」

 こくん、とうなずく。

 すると、ひとりはなぜかモジモジし始めた。なにか言いたげな様子で、しきりに上目で喜多を見ている。

 

「どうしたの?」

「あ──えと、」

 ひとりはややうつむきがちになり、

「あの、私っ、」

「え──」

 なにを思ったか、ひとりはおもむろに喜多の手をつかんできた。両手で大事に左手をにぎりしめながら、

「……き、綺麗な手ですね!」

「へ?」

 急になにを言い出すのか。がんばって言った感のあるセリフに喜多は照れもせずに、首を傾げるだけである。

 それでもひとりはめげない様子で、

「ぎ、銀河一の手です。最高ですっ。ずっと、この手をにぎっていられたらいいのに……!」

「えっと……」

「あっ、手だけじゃないです。お顔も綺麗で、性格もよくて、とにかく色んなところが素晴らしくて……!」

「ひとりちゃん……?」

「あっ、あの、私っ、あのっ……!」

 

 花火が上がった。真っ暗な部屋が一瞬だけ花火の色に染め上げられる。

 ひとりの必死で、真剣な表情が照らされる。

 喜多はその表情を見たことがあった。彼女から、友だちになって欲しいと言われたときと同じだった。

 

「──わ、私っ、根暗で、コミュ障でっ、ひ、卑屈だしっ、片目が見えてないし、いいとこなんて、ぜんぜんないですけどっ。けど、それでも……っ」

 ひとりは言う。

「それでも……こんな私で、私なんかでよかったら──け、けけ、け、けっこん……して……!」

「────っ」

 

 特大の花火が空を照らす。心臓が弾けた音が花火の音にかき消される。

 ひとりの言うとおりだと思った。

 心の底からそう思う。彼女は正しかった。

 ちゃんと、ハッピーエンドはあったのだ。幸せは自分たちを待っててくれていたのだ。

 喜多は顔を下に向けた。目を閉じる。いつまでもひとりの言葉が耳の中で反響している。幸せな音がする。涙が出そうだった。

 

「あ、の……すみません……私っ、きゅ、急にこんな……迷惑でしたよね……」

 

 黙ったままでいると、ひとりが自信をなくした声色になってしまった。涙が引っ込み、クスリと笑いが口の中で生まれた。この子は本当に変わらない。なにもかも、あの日と一緒だ。

 喜多は顔を上げた。

 

「ひとりちゃん──」

 ひとりも顔を上げる。不安な表情が自分を見据えている。

 いいよ、と喜多は思う。今日があの日の再現なら──自分が言うセリフはもう決まっている。

「ねえ、私からも言わせてくれる……?」

「えっ……」

「ひとりちゃん、」

 だから、喜多は言った。

「──私と、結婚してくれますか……?」

「…………っ!」

 ひとりは、

「ぁ…………あっ、の…………っ」

 目を潤ませ、肩を震わせ、そして、

「はいっ…………!」

 

 力づよくうなずいた。何度も、何度もうなずいた。

 少しだけ泣く。

 それから彼女はその場にひざまづき、ポケットに手を突っ込む。たくさん練習してきたかのような手つきで小さな四角いケースを丁寧に取り出しながら、映画のワンシーンのように差し出してきた。

 涙ながらにひとりは、

 

「こっ、これを……どうか、受け取って欲しいです」

 

 喜多の鼓動は暴れ出している。花火の音がそのまま自分の心臓の音に聴こえた。おそるおそる手をのばし、そのケースを受け取った。ひとりの目を見る。彼女は小さくあごを引いた。

 それを合図に、喜多はゆっくりとケースの蓋を開いた。

 

「あ……っ」

 

 喜多は、全身が温かいものに包まれていくのを感じた。言葉が喉に引っかかって、なにも言えなかった。

 ひとりは喜多の様子を見て、かすかにほほえみ、

 

「それは、私からの最大の『絆』です」

 

 喜多の瞳には指輪が映っている。中央の宝石は決して大きくはなく、周りもシンプルな細工なものだ。けれど、その小さな小さな光の粒は、喜多がこれまで見てきたどんな宝物よりも美しかった。

 それは喜多の誕生石。四月の宝石、ダイヤモンドだった。

 

 

 

 ※

 

 

 

 九月になってもまだまだセミは働き者である。電車をおりると一気に求愛の叫びが聴こえてきた。

 

「──あ、あの、郁代ちゃん。本当にいいんですか……?」

 

 下北沢の改札を抜けると、いよいよ緊張が頂点に達してきた。ひとりはすがるように喜多に声を送る。前を歩いていた喜多は「なにが?」という顔をして、

 

「え、なにが?」

 実際に言ってきた。

「いや、だって……」

「もうっ、大丈夫よ。伊地知先輩が言ってたじゃない。日本に帰ってきて、またバンドやりたくなったら、それ着てスターリーに来てねって。遠慮しなくていいのよ」

 言いながら喜多はひとりの服を小さく指さした。ひとりが着ているのは結束バンドTシャツだ。ちなみに喜多もおそろいで着てくれている。

「でも……よくよく考えたら、バンド内恋愛はマズイんじゃないかと思って」

 喜多は「なにをいまさら」という顔をして、

「なによいまさら。そんなの、もう先輩たちも知ってるじゃない。大丈夫、大丈夫」

「えー、でも……うー……」

「ほら、着いたわよ」

 喜多が足を止めて、ひとりも止まる。

 たどり着いたのは当然、スターリーだ。心臓がぶるんと震えてエンジンがかかる。逃げ出したくなってきた。

「はーい、逃げないの!」

 しかし、それを見越した喜多がひとりの両肩をつかんでくる。

「にっ、逃げてないよ……」

「じゃあ、なんで走り出す姿勢になってるの?」

「うう」

「もう。本当に大丈夫だから。私がいるから。ね?」

 

 そんな言い方されると、そんな笑顔を見せられると、ひとりももう逃げ出す気にはなれない。「うん」と力なくうなずき、喜多に腕をまわされながら階段下まで連行される。

 さあ、いよいよ扉の前だ。

 

「す、すっごい緊張してます、私」

 

 そんなの言わなくても喜多には伝わってるだろうに、わざわざひとりは自分を実況した。

 喜多も笑って、

 

「うん。運命の瞬間って感じね」

 

 運命──。

 たしかにそうかもしれないなとひとりは思う。

 これから先、きっとここで色々なことが起きていくのだろう。たくさん苦労していくこともあるだろう。

 だが、いまの自分ならどんなことでもへっちゃらな気もする。全部、乗り越えていけると思う。

 いや、それは少し正しくない。

 いまの『自分たち』ならどんなことでもへっちゃらだ。乗り越えていけるはずだ。

 ひとりは背筋を正した。息を吸って、吐いて、胸に気合いを詰め込んだ。

 

 

 ここから『始まる』のではない。

 ここから『始めていく』のだ。

 

 

 失ってきたものをこれから二人で、四人で取り戻しにいこう。

 ひとりはドアノブをつよくにぎった。その手を喜多の手が重ねてくる。二人で顔を見合わせる。なにも言葉はない。必要ない。同時に力をこめ、扉がガチャリと開いた。

 すると喜多が先に入っていって、

 

「ほら、いこ!」

 

 中からひとりに手をのばしてきた。左手だった。

 その薬指には一粒の光が輝いている。ひとりにはそれが銀河に輝く一等の星に見えた。

 ひとりも手をのばし、

 

「──うんっ」

 

 指先に銀河一の手をのせながら、運命の一歩を送り出した。

 

 

 

 

指先に銀河をのせて

夜のイロ

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