事務所に戻ると、グレシアは安楽椅子に身を投げ出すように座った。
しばらく空けていたせいか、ただでさえ掃除の行き届かない事務所の中は、すっとテーブルをなでると指にざらざらとしたものがつくほど埃っぽくなっていた。
「アウグスト君……掃除は、明日でいいよ。君も疲れただろう」
「馬車の中で寝ていたから、もう大丈夫ですよ。雑巾あります?」
「……体力が回復するのが早いな、本当に」
グレシアはその辺に落ちていた布切れを俺に渡すと、さっと応接室を出て行った。少しして戻ってきたが、そのときの彼女の手には加熱の巻物とティーポットがあった。
彼女は巻物の上にティーポットを載せてお湯を沸かしながら、薬棚から数種類のハーブを掴み取る。ポットに入れると、シナモンと薄荷を混ぜ合わせたかのような奇妙な香りが事務所に充満した。
そのまま彼女が一人で飲むのかと思っていたが、ティーカップとソーサーは二つずつ用意されていた。おまけに、テーブルの真ん中には苺ジャムの瓶と、焼き菓子の載った皿が置いてある。
彼女はお茶を注ぐと、掃除を続ける俺に手招きした。
「私特製の、適当ハーブティーを淹れたよ。一休みしよう」
「でもそれって、死体保存用のハーブですよね。人体に害とかないんでしょうか」
「適量なら大丈夫だよ」
「さっきは適
……まあ、せっかく彼女が淹れてくれたのだから飲もう。そう思いながら彼女の向かいに座り、ソーサーを左手で持ってカップに口をつける。妙な匂いだが、まずくはなかった。
グレシアもお茶をすすって喉を湿らせると、かちゃりと音を立ててカップをソーサーに置く。
「今回の仕事……まずは、君に謝らないといけないね。私が案件の危険性を見誤って、危うく君を失うところだった」
「結果論でしょう。まさかカティアが戦争を始めるために堂々と目の前で交渉相手を殺すなんて予想できませんし」
「それを抜きにしても、よく調査されていない迷宮に長居する判断はよくなかった。流石に欲をかきすぎた。反省しないとね」
珍しく落ち込んでいる。知識や情報を武器にする彼女にとって、ほとんど調査されていない未知の迷宮というのは、行くべき場所ではないだろう。
そこへ潜るという判断をした理由には確かに疑問が残るが、俺は雰囲気を柔らかくするため、笑いながら言った。
「まあシノエさんからはお金が貰えたんですし、良かったじゃないですか。それに俺は死ぬのが仕事みたいなものですから、そこは気にしなくても……」
「だから軽々しく、死ぬと言うのはやめてくれないかな」
だが選んだ言葉は逆効果だったらしく、彼女はぽつりと言った。
「今回も結局捨て身の作戦を取ってもらったけど、私は、アウグスト君のことを替えの利く護衛だと思っているわけじゃない。傷ついたら心配もするし、死んだら悲しいんだ」
彼女が目を伏せると、白いまつ毛が頬に影を落とした。俺は気まずく思いながらも言葉を選ぶ。
「別に俺も死にたいとか死んでも構わないと思っているわけじゃないんですが……もしそうなっても、まあ代わりはいるくらいさ、くらいの気持ちのほうがいいのではと」
「いい気配りだね。全然嬉しくないってところが玉に瑕だけど」
「ええっ」
「全く、はっきり言わないと分からないんだから……」
膨れながら、グレシアは彼女は匙でジャムをすくい取り、うっぷんを晴らすかのようにこれでもかと焼き菓子に塗りたくっていく。
その様子を見ていると腹が減ってきたので、俺も手を伸ばして焼き菓子を取った。
ジャムを塗ろうと瓶のほうを見ると、ちょうどジャムを塗り終えたグレシアが、ぱくっと匙をくわえてしまったところだった。
グレシアは俺がジャムを取ろうとしていたことに気づき、後ろの棚を指さす。
「この匙はもう舐めちゃったから、新しく出したらいい」
「匙を舐めるなんて、行儀が悪いですよ」
呆れながらテーブルを回り込んで棚に近づいたそのとき、俺は平積みにされている本の隙間から何かの書類がはみ出していることに気が付いた。
いつもなら特に気にすることはないのだが、その文面の中に【アウグスト・アーベライン】──俺の名前が入っていたので、何となしに見てしまう。
『アウグスト・アーベラインが弊校に負う残債18万5000ダリルについて、期限までの利息込みの額でグレシア・ノードレット氏へ譲渡する。 ライベル騎士師範学校長』
その文章を読んで、俺は背中に冷や汗が伝うのを感じた。
「あの……ひょっとして、俺の借金を買ったんですか?」
お茶をかき混ぜながら、にひひ、とグレシアは笑う。
「気づいた? 大会の後、師範学校のほうに手紙を送って、契約したんだ。もっとも、ギルド長への等級料支払いもあるから結構資金繰りは苦しかったんだけど」
「それで、ですか」
「ああ、臭水の精製法で埋め合わせようと思ったんだけど、ああいう情報を損せずに売るには時間がかかる。だから後回しにしてルメニの死体回収で埋め合わせようと思ったんだ」
だが収入のあてにしていたルメニ地方での死体回収の仕事はうまくいかなかった。だから、シノエの提案に乗り、危険を承知で稼ぎにいかざるを得なかったのだろう。
ようやく合点がいった。……が、心配なのはそこからだ。
「これ、利息の欄が空欄になってますけど」
「いやあ、余分にお金を払ったら、読みやすいようにって向こうが要らなそうな数字を消してくれたんだよね」
グレシアは法的に俺の債権者になり、しかも債権譲渡の際に、契約の更新もできるようにした。つまり、彼女の好きなように利息を設定できるのだ。
俺は恐る恐る訊いた。
「……グレシアさん。ちなみにどういう数字を入れる予定なんでしょうか?」
「ふっふっふ。どうしよっかなー」
グレシアは楽しそうに匙を回しながら答える。
悪夢だ。彼女が口にする数字次第で、俺の人生は何十年単位で狂う。頭を抱え、俺はため息をついた。
「ひょっとして俺を必死で救出しようとしてたのって、これのためですか……」
グレシアがヴィカスを説得し、俺の救出のために探索を続けさせた話は、ハレーザー市への帰り道で聞いていた。
あのときは俺を助けようとしてくれていたのだと胸を打たれたが、何のことはない。俺が死ねば、せっかく大金をはたいて買った債権は紙くずとなる。だからこそグレシアは必死に俺を救出しようとしたのではないか。
そう思っていると、グレシアは笑みを引っ込めた。
「君は、本当に失礼な奴だな。確かに君の借金を買ったし、助けようともしたけれど、金のためだけじゃない……ちょっと来てくれる?」
「?」
怪訝に思いながら俺が近づいて身をかがめると、彼女は手のひらで俺の両目を隠した。
「一体何の……」
つもり、と言いかけたとき、柔らかい感触が唇を襲った。あまりにも前触れのないキスだったので、そうと悟るのに時間がかかった。
俺が口づけの甘さに驚いていると、彼女は唇を離し、目隠しをやめた。
「証明だよ。金のために助けたわけじゃないってことのね」
彼女はにこりと笑い、話を続ける。
「だいたい、私がたとえどんな利息を設定しようが、一発で借金を無くす方法だってあるんだ。そう悲観的になることはないさ」
「どういう、方法ですか?」
「ええっと……何だったかな」
ぼうっとした頭のまま訊くと、記憶力の良い彼女にしては珍しく、言葉に詰まる。そのとき事務所のドアを誰かが開ける音がした。グレシアはこれ幸いとばかりに急いでお茶を飲み干し、乱暴にソーサーに置く。
「おっと、もう次のお客さんだ。お喋りは後にしよう」
そして何事もなかったかのように、入って来た依頼人に応対しようと立ち上がる。
彼女の唇は、濡れた鳥の羽根が肌をそっと撫でていったような感触をまだ俺の唇に残していた。
市の慣習法では、夫婦財産は共有のものとして扱われるため、債権者と債務者が結婚した場合、債権は相殺され消滅します。
最後まで読んでいただきありがとうございました。ネタバレまみれなので後書きは活動報告に載せます。