この作品はまえがき、あとがき含めてひとつの作品となりますので、ぜひ全編通して楽しんでいただければ幸いです。
「待ってくれ」
「少し、話をしないかい?」
「思えば、昔からこうして二人でバスを待っていたっけ」
「君は遠くに行くのが好きだったね。そんな君に連れられて、私もいろんな場所を旅した」
「どれもかけがえのない、大切な思い出さ」
「あの時は無理矢理連れ回してごめん? ふふっ、構わないさ。君が連れていってくれる世界は、どこも新鮮で、楽しくて、とても儚い場所だった」
「覚えているかい? あの遊園地を。君は、迷子になってしまった私を必死に探してくれていたね。君が見つけてくれた時、私はすごく嬉しかったよ」
「大きな図書館にも、遊びに行ったね。いろんな本があることが嬉しくて走り回ってしまった君が、職員さんに怒られてしょんぼりしていた顔は、今でも思い出せるよ」
「ああ、すまない。決してからかっているわけではないんだよ。ただ、君と思い出話ができるのが嬉しくて」
「日が落ちてくると、少し冷えるね」
「君は大丈夫かい? 君が凍えているのなら、私がこのブレザーを君にかけてあげよう」
「男が羽女の制服着るのはおかしいだろ、って? フフ、着てみたら案外君にも似合うかもしれないよ」
「ところで、君は今、どんなものに儚さを感じているのかな。なに、ちょっとしたアンケートさ。この前教えてもらったはずなのだけど、忘れてしまって……王子様失格だね」
「恥ずかしいから言えない? 恥ずかしがることなんてないさ。君の心を豊かにしてくれるモノは、どんなモノだとしてもきっと儚く素晴らしいものに違いないからね!」
「今日の私は、ちゃんと笑えているかな」
「……よかった」
「君も変わらないね。ずっとずっと、儚くて美しい君のままだ。こんな日々が、ずっと続けばいいのにね」
「相変わらずキザだね? フフ、そうだよ。やはり、君と過ごすこの儚い時間は出来る限り美しい言葉で彩りたいからね」
「私はね、最近いろんな舞台の客演として子猫ちゃんたちを笑顔にしているんだ。この前なんて、キャットウォークの舞台にも出たんだよ?」
「フフ、驚いたかい? 君はこのことを知らないだろうから、きっとびっくりしてくれると思ってね」
「大丈夫、ここにいる誰もがそのことを知るはずがないさ。これは、一年後の未来の話だから」
「……君は、過去に戻りたいと思ったことはあるかい?」
「突然の質問で驚かせてしまったね。それじゃあ、質問の仕方を変えようか」
「もし過去に戻れるとしたら、君は何がしたい?」
「過去を上書きする技術ができたとしたら、君は誰に会いたい?」
「……私は、君に会いたい」
「だから、会いに来たんだ。一年後の秋から」
「手のひらに収まるくらいの過去を、一年の中のたった一日を、君と過ごしに来た」
「だから、今君の目の前にいるのは高校生の瀬田薫じゃないよ。君の目の前にいるのは、高校生の瀬田薫のフリをした大学生の私。ふふっ、君よりも少しだけお姉さんだね」
「大学生になった私も、とても儚いんだよ。君に見せてあげられたらよかったのだけど、君に馴染み深いのはこの私だろうから」
「今はそれも、意味がないのだけれど」
「たとえ話をしようか。今、私がここでこの道路に向かって倒れてみたとしよう。きっと、そのまま大怪我をしてしまうだろうね。コンクリートに頭を打ちつけて、赤い血が溢れて。そこを車が通って、私の身体はぐちゃぐちゃに引きちぎれる。少し……グロテスクだね。嫌な想像をさせてしまったかな」
「安心してくれ。何も、変わらないから」
「私が役者を辞めると宣言しても、気づけば次の日も舞台に立っている。家にあるハサミでばっさりと髪を切っても、朝起きて歯を磨けば鏡には長い髪が映っている。逃げるようにブロードウェイに飛び立ったとしても、私はまたこの場所に縛り付けられている」
「何をしても、無かったことになってしまうんだ。まるでストーリーテラーが雲の上から私を見ているかのようにね」
「……これが舞台なら、どんなにひどい悲劇だろうか」
「過去は変えられない。どうしたって、変わらないんだ。それに気づいたのが、少し遅すぎたみたいだね」
「時というものは、それぞれの人間によって、それぞれの速さで走るものなのだよ。シェイクスピアの言葉さ。どうして、私と君の時の速さは、すれ違ってしまったのだろう。いつから、私は、私たちは、こうなってしまったのだろうね」
「今日は、君と私のラストシーンを演じに来たんだ。バス停で迎えるクライマックスだなんて、実にロマンチックだろう?」
「……きっと、これから私は裁かれるだろう。こうして君と話をするまで、随分と時間をかけすぎてしまったから」
「だから、最期にあの日言えなかった返事をさせてほしいんだ」
「私は君が好きだよ」
「どんな君も好きだよ」
「君の幸せをいつだって願っているよ」
「君の笑顔が、世界で一番大好きなんだ」
「だからどうか、このバスに乗らないで」
「あと少しだけ、私のそばにいて」
「ずっと、私のそばにいて」
「愛してる」
「九月一日ってさ、一年の中で一番子供の自殺率が高いんだって」
高校三年生の九月一日、そんな言葉を遺して君は死んだ。まだ少しペトリコールの匂いが残る、夏と秋の境目のような日だった。
死因は自殺だった。夕陽が差すワンルームの中、制服姿で首を吊っていた。多分、私と君が最期に話したあのバス停から帰った後のことだったのだろう。私の言葉が、いつのまにか君を追い詰めていたのだろうか。それとも別の何かが君を追い詰めていたのだろうか。私には、何もわからなかった。
君は私の王子様だった。私にとっての太陽のような人だった。初めて出会った小学生の頃からずっとずっと眩しくて、まっすぐで、とても温かい人だった。
クラスのみんなと話せない私を連れ出して、手を差し伸べてくれたのも君だった。演劇の世界に飛び込む勇気がなかった私の背中を押してくれたのも君だった。王子様として羽ばたく私を支えてくれたのも君だった。
私はこんなにも君に救われたというのに、私は君に対して何の力にもなれなかった。それがひどく悔しかった。どうして君の痛みに気づけなかったのだろう、どうして君のSOSに気づけなかったのだろう。あの時、あの瞬間、あの場所で、こうしていれば。ありもしないifを想像して、ため息をつくばかり。
私は何も変わっていない。どんな喜劇を演じようとしても、そこにいるのは無力な「私」と逝ってしまった「君」。覆せない事実が、取り返しのつかない今を突きつける。
君の葬式には行けなかった。灰になってしまった君を、見たくなかったから。我ながらひどいわがままだと思う。どこかで、君が生きていると信じたかった。あの優しい声で、もう一度名前を呼んでほしかった。私よりも少しだけ大きなその角ばった手で、もう一度触れて欲しかった。
……君を忘れられないまま、春が来た。君の学校の卒業写真に、君はいなかった。君と同じ学校の子猫ちゃんが、申し訳なさそうにそう教えてくれた。
大丈夫、君は何も悪くないよ。私は子猫ちゃんにそう笑ってみせる。悪いのは私だ。一番そばにいながら、君を救えなかった私だ。
君が生きていたら、その黒い学ランの胸元に、綺麗な花が咲いていたのだろうか。卒業証書を嬉しそうに抱く君の笑顔は、きっと眩しいのだろうな。それこそ、千聖と、私と、君とで三人で集まって、記念写真でも撮れたら、さぞ楽しかっただろう。
……新しい春が来ても、私が君に囚われていると知ったら、君は笑うかい? 返事はない。来るはずがない。みんな前を向いている中、私は平気なフリをしてずっと後ろを見つめている。君を、見つめている。
君のいない春が来た。おかしいな、君は私が行こうとしていた大学の近くの大学を受験する、と言っていただろう? どうして、そこに君がいないんだろう。どうして、私だけがここにいるんだろう。
……少しでも長く薫と一緒にいたいから、近くの大学。そう言って笑ってくれたあの夏が、忘れられない。あの日から、ずっと、ずっと、私を救ってくれた君が私を巣食っている。
君のいない夏が来た。君が見たいと言っていた水着を着て、ハロハピで海に行った。そこに君はいない。
きっと、今までの私は自分の水着姿を君に見せるのが恥ずかしかったのだろうな。そんな恥など捨てて、君に見せられればよかったのに。もし今君がここにいたら、どんな感想を手渡してくれるのだろう。気に入ってくれたのなら、嬉しいな。
君のいない秋が来た。君が死んだ秋だ。だんだんと冷えていく空気が、消えていく君の体温のようで嫌だった。
あの日から、夕焼けを見ると胸の辺りがぞわぞわして苦しくなるようになった。少しずつ夜が混じっていくあの色に、君を重ねてしまうから。残酷なほどに綺麗な空が、残酷なほどに擦り切れた君の姿に影を落とす様子を、嫌でも思い出してしまうから。
君は、君は確かにそこにいるはずなのに。君と過ごしたあの夕暮れの日は、そこにあるはずなのに。どこにもない。君の記憶が。どこを探しても、誰に尋ねても、何も見つからないんだ。
君に、会いたいよ。
そんな祈りが通じたのだろうか。今の私のような人々を救うとある技術が発明された、というニュースが私の元に舞い降りてきた。
それは、過去を上書きする技術。ちょうど手のひらに収まるぐらいの過去を、上書きできる技術。
そのニュースを聞いた時、最初に浮かんだのは君の顔だった。忘れることのない、大好きな顔だった。私は、上書きについて何度も何度も調べた。あの秋に戻れる手段を、何度も何度も調べた。
……過去の、高校生の「瀬田薫」を上書きすることによって、今の私を、大学生の「瀬田薫」を裏切ることが怖かった。けれど、それよりも私は、君に会いたかった。君に伝えたかった。君と話したかった。
調べて、分かったことは二つ。私が上書きできるのは、手のひらに収まるぐらいの過去。過去の中にある一日だけ。つまり、君が死んだ九月一日を私は上書きすることになるだろう。
もう一つは、上書きには時間切れがある。どれくらい経ったら時間切れになるのか、まだわからなかった。当たり前だ。過去を上書きをした人の言葉は、現在には残っていないから。少しだけ、嫌な予感はする。けれど、私はどうしても君を諦めきれなかった。
あの秋に戻れば、君ともう一度新しい秋を迎えられるだろうか。いや、迎えるんだ。私は決意する。君には、悲劇ではなく喜劇が似合うことを、私が一番知っているから。
〜
……目覚めた頃には、もう朝だった。何も変わらない、私の部屋。でも、ひとつだけ違う点があった。ハンガーにかけてある、灰色のブレザーが今の私が何者であるかを知らせてくれる。
私は髪を結って、ブレザーを羽織る。半年ぶりに袖を通したそれは、異様なほど体に馴染んだ。それもそのはずだろう。今の私は、紛れもない高校生なのだから。
だが、このまま高校に行くわけではない。私が行くべき場所は、他にある。君に会いに行かなくてはならない。
覚えている、この秋の日を。君は、まだ家を出ていない。「薫はもう準備した? 俺はまだ布団。ぶっちゃけ二度寝したい」これが、君が私にくれた最後のSNSのメッセージ。なんてことない、日常会話。けれど、そこにどんな意味が込められていたのか当時の私はわからなかった。でも、今なら少しだけわかる。そこに、どんな祈りが込められていたか。
君の苗字が書かれたプレート。見慣れた黒い鉄製のドア。インターホンを鳴らす。そこには、君がいた。
「おはよう、ねぼすけさん」
会いたくてたまらなかった、君がいた。君は目をこすりながら「俺はねぼすけさんじゃない」「今日はちゃんと起きて準備だって終わったし」と口にする。こうして少しだけ子供っぽい反論をするのは、君しかいない。私の目の前にいるのは、君なんだ。
「フフ、けれど君はいつも布団から出るまで時間がかかるだろう?」
話したくてたまらなかった、君なんだ。そりゃそうだけど、と不貞腐れるその頬も、全部全部覚えている。
「さあ、そんなねぼすけな君を布団の外の世界に誘うためにこの瀬田薫が目覚めのハグをしようじゃないか……!」
触れたくてたまらなかった、君なんだ。私より少しだけ大きな身体にぎゅう、と抱きつくと、しぶしぶ抱きしめ返してくれる優しいところも、まるで変わっていない。
ああ、いるんだ。あの秋に置きざりにしてしまった、君がそこにいるんだ。少し顔を上げればいろんなものが込み上げてきてしまいそうで、少しの間君の胸に顔を埋めたまま動けなかった。
いきなり頬をつつかれて、顔を上げる。何しに来たの? そう言わんばかりの顔で、君は私の頬をひたすらにつついてくる。
……君に、会いたかったから。その言葉を飲み込んで、私はポーズを取って見せる。呆れたように笑うその笑顔は、私が焦がれてやまなかった、大好きな君の笑顔だった。
君が、生きている。目の前にいる。こうして、言葉を交わし合える。それが、どんなに嬉しくて、どんなにかけがえのないことだったのだろう。今はただ、君がいる幸せを噛み締める。この幸せが、未来に繋がることを願いながら。
いや、繋げるんだ。私が、この手で。
「今から私と遊園地に行かないかい? 子猫ちゃん」
君は、昔から遊園地が好きだった。高いところが苦手な私とは違って、君は高いところが大好きで。観覧車やジェットコースターに、楽しそうに乗っていた様子が今でも思い出せる。
昔から、君は飛んでいってしまった私の風船を見かねて自分の風船を渡してくれるような優しい人だった。遊園地にも、君との思い出がたくさん詰まっている。
君は目を丸くして驚いていた。それもそうだろう、夏休みが終わってすぐ、始業式の朝に幼馴染が家に押しかけて遊園地に行こうと誘ってくるのだから。
君は少し考え込んだあと、スクールバッグを部屋の向こうに放り投げた。代わりに持ってきたのは、青のショルダーバッグ。君と遊びに行く時のトレードマークだ。
「フフ、決まりだね」
私たちは、制服のまま学校とは逆方向の電車に乗って、夢が詰まったワンダーランドへと向かう。苦しい気持ちも悲しい気持ちも全部忘れさせてくれるような幸せに溢れた国に向かう。
隣に立つ君は、少しだけ複雑そうな顔をしていた。君はとても真面目な人だ。学校をサボる、という行動に少しだけ抵抗があるのだろう。それは私も、なのだけど。
君のそんな生真面目な性格が、君を追い込んだのだろうか。わからない。いや、今更そんなことを考えなくてもいいか。君の未来は、私が変えてみせるのだから。
「見たまえ! このカチューシャ、君にピッタリじゃないか?」
二人一緒に、平日の遊園地を巡る。夏休みが終わったからだろうか、人はいない。もちろん、制服姿の人なんてどこにもいない。
そんな、ちょっとだけズルい夢の時間を君と過ごす。なに、君が隣にいてくれるのならどんな時間だって夢のように楽しいけれど。
それぞれに似合いそうなカチューシャを選んで、一緒につけたり。売店で売っているチュロスを、二人で半分こしたり。お化け屋敷で震える私の手を握ってくれた時の君の手は、とても温かかった。
メリーゴーランドがくるくる回る。キラキラと光る屋根の下を、君と一緒にくるくる回る。わざとのけぞった君が馬から落ちそうになった時は少しヒヤヒヤしたけれど。
夜になると、たくさんのイルミネーションによってライトアップされた園内をパレードが巡る。マスコットに向かって笑顔で手を振る君の姿が、どんなライトアップよりも眩しかった。
今日最後に乗ったのは、観覧車。よほど遊園地で過ごすのが楽しかったのだろうか、君は幸せそうだ。
君は口にする。薫のおかげで幸せだよ。このまま、死んじゃってもいいくらい。
その時、思い出した。君が死んでしまった理由を。今ここで楽しそうに笑っている君が、あの日首を吊って死んでしまったことを。
君は、どうして苦しんでいたんだろう?
私は、尋ねられなかった。君の心の奥に踏み込むには、少しだけ勇気が足りなかった。けれど、今日の儚い出来事が彼の心の傷を少しでも埋められたら、そう祈ることしかできなかった。
頂上に近づいた途端、空に風船が打ち上げられる。すごく、綺麗だった。いろんな色の風船が、ふわふわと飛んでいく。カラフルに染まっていく空の色が、すごくロマンチックだった。
「また来よう」君は笑ってそう言った。その横顔をなぜかうまく見つめられなくて。ひどく綺麗なその笑顔を、まっすぐ見つめられなかった。
「そうだね」私は頷く。十五分間ほどの空の旅は、終わりを迎える。
二人でエントランスに戻る。そこには、風船が売ってあった。どうやらこの風船をそこにあるフェンスに結べば、幸せになれるという。私は君を誘って、二人で風船を結んだ。
私は、自分の瞳と同じ赤の風船。君は、ショルダーバッグと同じ青の風船。飛んでしまわないように、強く結びつける。
さあ、帰ろう。私たちのいる未来へ帰ろう。この電車に乗れば、きっと、私たちはまた出会える。
ふと振り返ると、風船が空を飛んでいた。おかしい、風船の打ち上げは終わったはずなのに。きっと、誰かが結んだ風船が飛んでいってしまったのだろうね。
……なぜか青い色をしたその風船に、妙な胸騒ぎを覚えたけれど。きっと大丈夫だろうと、二人で電車に乗って、家に帰った。
幸せな気持ちで布団に入った。君と過ごす未来を夢見て布団に入った。途端、けたたましく響く着信音。君のお母さんからだった。
「君が、死んでしまった」その言葉を聞いて、私は慌てて君の家に向かう。そこには君がいた。ショルダーバッグを背負った君がいた。
綺麗にテーブルに置かれたカチューシャ。一緒に撮った記念写真。全部大切に飾ってあるのに、肝心の君は、もうそれに触れることはできない。
さっきまであったはずの君の体温は、全部消えている。繋いだ手の温もりが、全部消えている。
君の名前を叫ぶ。君の返事はない。いくら涙を溢しても、君の胸元が少し濡れるだけ。奇跡は、起こってくれないのだろうか。願いが、届いてくれないのだろうか。
冷たい君に触れ続けていると、警察の人がやってきた。調査のためと言われ、私はそのまま家に帰されてしまった。食事も喉を通らない。死んでしまった君がよぎって、眠ることすらできない。いや、違う。君はもう、食べることも寝ることもできない。どうして、私は同じ悲しみを二回も繰り返してしまったのだろう。
次こそは。次こそは。君にこんな悲しい最期を迎えさせるわけにはいかない。頭の中で君の名前を呼んだ。何度も何度も呼んだ。君が返事をしてくれるまで、何度も。
君よ、戻れ、戻れ、戻れ、戻れ。
〜
次目覚めた時には、三回目の九月一日の朝だった。
私は、どうすればよかったのだろう。とにかく、表面上の幸せで君の苦しみを救うのは難しいだろう。もっと君の心の奥底に触れないといけないことがわかった。
君の心の奥底は、どんな色をしていたのだろう。計り知れないほどの苦しみを、そこに抱え込んでいたのだろうか。私は、今も君を何も知らないままで。それぐらい、君は本心を悟らせない人だった。
……きっとそれも、君の優しさなのだろう。君は昔から、痛いほど優しい人だ。
これから私は、その優しさを踏みにじることになる。胸が、ズキンと痛む。けれど、君と過ごす未来のためには必要な痛みだった。
私はもう一度君の家を訪ねる。今度は図書館に彼を連れて行った。心理学の本を一緒に読んで、君の心に触れてみようとした。
優しい君の笑顔が歪に変わった。自分がしてしまったことの重大さに気づく。それ以上、何もできなかった。
その日の夜、君はまた死んでしまった。私のせいだ。私が、君を追い詰めてしまった。私は願う。戻れ、戻れ、戻れ、戻れ。
四回目の九月一日が来た。今度は映画を一緒に見に行った。胸が苦しくなるシーンなど一切ない、優しくて温かい映画。君のように、優しくて温かい映画。
スクリーンの中で動物たちが楽しそうに過ごす中、君は私を見つめていた。私も君を見つめていた。映画の内容は、あまり覚えていない。
君は死んだ。何度見ても君の死体には慣れない。慣れたくなんかない。早く元気な君に会いたい。君を元気にしたい。私は願う。戻れ、戻れ、戻れ、戻れ。
五回目の九月一日が来た。六回目の九月一日が来た。七回、八回、九回。君の体温が消えていく。
私が何をしても、私がどんな言葉をかけても、君は死んでしまう。それがまるで決められた脚本かのように、君は命を絶ってしまう。
それならば、日付が変わるまで一緒にいればいいのでは、と思ったこともあった。だが、二十三時を切ると途端に猛烈な眠気に襲われる。次の朝、私は君の死体と共に目が覚めた。……言葉が出なかった。
冷たい君に触れるだけで、指先から凍てついてしまいそうだ。「眠り姫のようだ」なんてジョークも、笑えなくなる。
力無く投げ出された手のひらは、たしかに私の手のひらを包んでいたものだ。少しだけ、指先を折り曲げてみる。すぐに元に戻ってしまった。当たり前だ。
ワンルームに、月の光が差す。君は綺麗だね。月が綺麗だね。死んでしまってもいいくらい、綺麗だ。今日は眠りすぎてしまって、ごめんね。もっと早起きして、君とモーニングを一緒に食べられたらよかったな。
……さあ、あの日に戻ろう。君に会いに行こう。戻れ、戻れ、戻れ、戻れ。
十、二十、三十。記憶に動かなくなった君が積み上がっていく。ごめんね。私は、君の王子様になるには少し頼りなかったかな。本当は君の手を取っていつまでも踊っていたいのだけれど、その資格が私にはなかったのかもしれないね。
でも、好きだよ。君のことが大好きだよ。君と言葉を交わすたびに、君の手に触れるたび、君の優しさに包まれるたび、君のことが大好きになるんだ。
伝えられない言葉が積もっていく。君の死体が積もっていく。少しバランスを崩してしまえば、そのまま潰れてしまいそうだ。
四十、五十、六十。君と過ごすのは楽しいな。君はいつも、私が知らなかった儚さを教えてくれる。私の手を引いて、こっちだよって笑ってくれたあの日から、君はかっこよくて眩しい私の王子様だ。ずっと、ずっと。
私の願いは、重かった? 私の想いは、重かった? 君に聞いたら、きっと困ってしまうだろうね。大丈夫、ずっと胸の内に秘めておくよ。何もかも打ち明けてしまったら、儚さもなくなってしまうから。
七十、八十、九十。ずっとこんな日々が続けばいいのに。君と過ごす毎日は、いつだって儚い。私は何のために何を上書きしていたのだろう。だんだん、わからなくなる。私は何かを忘れている気がする。君と交わした最後のやり取りすら、今は思い出せない。
いつもと変わらない、いつもの九月一日を繰り返す。結末の変わらない舞台を君と演じ続ける。今日も、そうして君と過ごすつもりだった。「薫、顔色悪いよ」君が、そう口にしなければ。
君は、私を家に招いてくれた。君がこれしかなくてごめん、と申し訳なさそうに出してくれたぬるい水が、美味しかった。
大丈夫? 君は訪ねる。大丈夫さ。私は答える。君は何か考え込んでいるようだった。君が何かを考えている様子は、久しぶりに見た気がする。思えば、私は君の真剣な顔をあまり見たことがなかった。
私は、そんなに元気がなさそうに見えるかな。率直な疑問をぶつけた。君は呆れたように笑った。そのまま私は君のベッドに無理やり寝かされてしまった。
君のまっすぐな瞳が私をとらえる。ただ、息を呑む。君の顔が、少しずつ近づいてくる。心臓の鼓動がうるさい。君はあと少しで鼻先が触れてしまいそうな距離で私に笑ったあと。
コツン、と軽いデコピンをした。
ほんのりとした痛みで目が冴える。君はいたずらっぽく笑っていた。無邪気なその笑顔が、ひどく眩しかった。
「ぐっすり寝ろよ、ねぼすけさん」
君の大きな手のひらが、私の頭を優しく撫でた。君は、そう言って部屋を出て行ってしまう。私は君のベッドに寝かされたままだ。慌てて追いかけようとしたが、身体がうまく起き上がらない。
そのまま、意識がだんだん薄れていく。ああ、このままでは、君がまた、死んでしまう。君を失うのはもう嫌だった。戻れ、戻れ、戻れ、戻れ。君の元へ。君に会いに。君を救いに。
お願い、行かないで。私のそばにいて。大好きなんだ。君のことが。手を伸ばす。その手は届かない。視界がぼやけていく。音がぼやけていく。クラスのみんなと話せない私を連れ出して、手を差し伸べてくれた君がぼやけていく。演劇の世界に飛び込む勇気がなかった私の背中を押してくれた君がぼやけていく。王子様として羽ばたく私を支えてくれた君がぼやけていく。君が、ぼやけていく。
お願い、置いて行かないで。私も連れて行って。恋をしたんだ。君ともっと一緒にいたいんだ。一緒に幸せになりたいんだ。春も、夏も、秋も、冬も、まだ知らない季節がたくさんあるんだ。君と、新しい季節を迎えたいんだ。
おぼろげに、君の声が聞こえた気がした。その声は、ひどく優しかった。
〜
「俺さ、最近朝起きれなくなっちゃって」
夕暮れのいつものバス停。この街から少しだけ遠い君の家に向かうためのバスが来るまでの時間。こうやってベンチに腰掛けてたわいもない話をする。それが、私と君の毎日。かけがえのない毎日。
日陰に照らされる君は、笑ってこう言った。優しいトーンと軽やかな口調。ハの字に下がった眉。変わらない君だった。
君のその言葉に対して、私は起きれなくたって大丈夫だよ。私が起こしに行くさ、なんて返したような気がする。君は喜んでくれると思った。それに私も嬉しかった。朝一番に君におはようを告げられることが、すごく素敵なことだと思った。
「薫の家遠いし、大変だろうから、いいよ」
君の笑顔が歪んだ。細められたまぶたの奥はひどく冷えていた。
「気、遣わせたよな、ごめん」
君は目を伏せる。優しい眼差しが、痛々しかった。
「あ、でも朝のメッセージは送って欲しいかも。薫からメッセージ来たらさ、一日頑張れる自信ある!」
君は太陽のように笑った。その笑顔が見たくて、私は君にメッセージを送るようになった。気づけば、朝の時間にちょっとしたメッセージをやり取りすることが私たちのルーティーンになっていった。
おはよう、儚い朝だね! メッセージを送る。な、そんまま消えちゃえばいいのに! 君からメッセージが返ってくる。ああ、本当に君は朝が苦手なんだね。ふふっ、そんなところも儚いね。
君にもっと喜んで欲しくて、試しに自分の写真を撮って送ってみた。太陽が増えて眩しい〜、というメッセージがサングラスのスタンプと一緒に返ってきた。楽しいな。
「……花っていいよなあ。花になりてえ〜、俺も」
君はたまに、夢想的な発言をすることがある。その目は、どこを見つめているのだろう。あえて聞くことはしなかった。君が見つめている世界は、君だけのものだと思っていたから。
君が花になったら、儚いブーケにして君にプレゼントしよう! 私は薔薇を差し出すポーズを取ってみせる。俺が花本体なのにどうやって俺にプレゼントするつもり? 鼻先をちょん、と指で押される。少しくすぐったかった。
「たまに思うんだ。こんな優しい世界に、俺がいていいのかなって」
夏と秋が混ざり合う夕暮れ時、君はぽつりとつぶやいた。今までの君からは聞いたことがないような言葉だった。私はすぐさま否定する。君がいてくれるから、世界は優しくなれるのだと。大袈裟だな、と君は笑う。大袈裟でもなんでもなくて、君といる優しい世界が私は好きだよ。そう言ったら君はもっと笑った。少しだけ、泣きそうな顔で。
「俺、薫と出会えてよかったよ。なんもない俺の人生だけどさ、薫がいてくれたから笑ってられたんだ」
今まで聞いた中で、一番優しい声だった。
「だからさ、薫は世界で一番幸せになるんだぞ〜。俺の分まで、絶対に!」
今まで触れてもらった中で、一番優しい触れ方だった。
「愛してる」
今まで貰った言葉の中で、一番優しい言葉だった。
柔らかくはにかむその横顔が、夕焼けと混ざってきらめく。私を見つめる眼差しは、とても温かい。君と目が合う。心臓がトクン、と高鳴ったことを、今でも覚えている。
そうだ。私はずっと、君に返事をしたかった。返事をする前に、君はバスに乗って行ってしまった。もう二度と会えない場所へ逝ってしまった。ああ、全部思い出した。結局私は、君に何も伝えられなかったんだ。君に貰った時間を、君に貰った好きを、君に貰った優しさを、何も返せなかった。手のひらから溢れてしまうほどの愛を、君はずっと手渡してくれていたのに。
私も、ずっとずっと、伝えたかった。君が、私にとってどれだけ大切な人なのかを。たとえ、その言葉で結末が変わらなくても、君に伝えたかった。君がどんな地獄にいるのか、私にはわからない。わからないけれど、私は君が大好きなんだって。
気づけば、私はバス停に立っていた。私が最期に君と会話を交わしたあのバス停だ。九月一日のあのバス停に、立っている。
君がいる。夕暮れの君がいる。君が、私を見つめている。優しくて、寂しい眼差しが私を見つめている。きっと、これが最期だ。私はもう、時間切れになってしまったんだ。最期に、君の顔が見られて良かった。
時間切れの文字が私の頭を塗りつぶす。全てが、上書きされていく。君と過ごした日々も、君にもらった言葉も、君の温もりも、全部。全部。
だから、全てが上書きされてなかったことになってしまう前に私も伝えたいと思った。君への想いを、言えなかった愛の言葉を。
「それじゃ薫、また明日!」
──九月某日。あるバス停のベンチにて。
「待ってくれ」
「少し、話をしないかい?」
「思えば、昔からこうして二人でバスを待っていたっけ」
「君は遠くに行くのが好きだったね。そんな君に連れられて、私もいろんな場所を旅した」
「どれもかけがえのない、大切な思い出さ」
「あの時は無理矢理連れ回してごめん? ふふっ、構わないさ。君が連れていってくれる世界は、どこも新鮮で、楽しくて、とても儚い場所だった」
「覚えているかい? あの遊園地を。君は、迷子になってしまった私を必死に探してくれていたね。君が見つけてくれた時、私はすごく嬉しかったよ」
「大きな図書館にも、遊びに行ったね。いろんな本があることが嬉しくて走り回ってしまった君が、職員さんに怒られてしょんぼりしていた顔は、今でも思い出せるよ」
「ああ、すまない。決してからかっているわけではないんだ。ただ、君と思い出話ができるのが嬉しくて」
「日が落ちてくると、少し冷えるね」
「君は大丈夫かい? 君が凍えているのなら、私がこのブレザーを君にかけてあげよう」
「男が羽女の制服着るのはおかしいだろ、って? フフ、着てみたら案外君にも似合うかもしれないよ」
「ところで、君は今、どんなものに儚さを感じているのかな。なに、ちょっとしたアンケートさ。この前教えてもらったはずなのだけど、忘れてしまって……王子様失格だね」
「恥ずかしいから言えない? 恥ずかしがることなんてないさ。君の心を豊かにしてくれるモノは、どんなモノだとしてもきっと儚く素晴らしいものに違いないからね!」
「今日の私は、ちゃんと笑えているかな」
「……よかった」
「君も変わらないね。ずっとずっと、儚くて美しい君のままだ。こんな日々が、ずっと続けばいいのにね」
「相変わらずキザだね? フフ、そうだよ。やはり、君と過ごすこの儚い時間は出来る限り美しい言葉で彩りたいからね」
「私はね、最近いろんな舞台の客演として子猫ちゃんたちを笑顔にしているんだ。この前なんて、キャットウォークの舞台にも出たんだよ?」
「フフ、驚いたかい? 君はこのことを知らないだろうから、きっとびっくりしてくれると思ってね」
「大丈夫、ここにいる誰もがそのことを知るはずがないさ。これは、一年後の未来の話だから」
「……君は、過去に戻りたいと思ったことはあるかい?」
「突然の質問で驚かせてしまったね。それじゃあ、質問の仕方を変えようか」
「もし過去に戻れるとしたら、君は何がしたい?」
「過去を上書きする技術ができたとしたら、君は誰に会いたい?」
「……私は、君に会いたい」
「だから、会いに来たんだ。一年後の秋から」
「手のひらに収まるくらいの過去を、一年の中のたった一日を、君と過ごしに来た」
「だから、今君の目の前にいるのは高校生の瀬田薫じゃないよ。君の目の前にいるのは、高校生の瀬田薫のフリをした大学生の私。ふふっ、君よりも少しだけお姉さんだね」
「大学生になった私も、とても儚いんだよ。君に見せてあげられたらよかったのだけど、君に馴染み深いのはこの私だろうから」
「今はそれも、意味がないのだけれど」
「たとえ話をしようか。今、私がここでこの道路に向かって倒れてみたとしよう。きっと、そのまま大怪我をしてしまうだろうね。コンクリートに頭を打ちつけて、赤い血が溢れて。そこを車が通って、私の身体はぐちゃぐちゃに引きちぎれる。少し……グロテスクだね。嫌な想像をさせてしまったかな」
「安心してくれ。何も、変わらないから」
「私が役者を辞めると宣言しても、気づけば次の日も舞台に立っている。家にあるハサミでばっさりと髪を切っても、朝起きて歯を磨けば鏡には長い髪が映っている。逃げるようにブロードウェイに飛び立ったとしても、私はまたこの場所に縛り付けられている」
「何をしても、無かったことになってしまうんだ。まるでストーリーテラーが雲の上から私を見ているかのようにね」
「……これが舞台なら、どんなにひどい悲劇だろうか」
「過去は変えられない。どうしたって、変わらないんだ。それに気づいたのが、少し遅すぎたみたいだね」
「時というものは、それぞれの人間によって、それぞれの速さで走るものなのだよ。シェイクスピアの言葉さ。どうして、私と君の時の速さは、すれ違ってしまったのだろう。いつから、私は、私たちは、こうなってしまったのだろうね」
「今日は、君と私のラストシーンを演じに来たんだ。バス停で迎えるクライマックスだなんて、実にロマンチックだろう?」
「……きっと、これから私は裁かれるだろう。こうして君と話をするまで、随分と時間をかけすぎてしまったから」
「だから、最期にあの日言えなかった返事をさせてほしいんだ」
「私は君が好きだよ」
「どんな君も好きだよ」
「君の幸せをいつだって願っているよ」
「君の笑顔が、世界で一番大好きなんだ」
「だからどうか、このバスに乗らないで」
「あと少しだけ、私のそばにいて」
「ずっと、私のそばにいて」
「愛してるああ、また明日」