紫色の閃光が、予言の間を斜めに裂いた。
トムは半歩だけ身を引き、銀色の盾を滑らせるように傾けた。受け流された呪文が棚へ突き刺さり、並んでいた予言の玉が一斉に砕ける。
白い煙が立ち上り、名も知らない誰かの声が、ガラス片の中から短く未来を告げた。
誰も聞いてはいなかった。
「未来から来たわりには、ずいぶん古典的な呪文を使うんだね」
トムが薄く笑った。
デルフィーの白銀の髪が、呪文の余波にあおられる。
「あなたこそ。お父様と同じ魂のくせに、随分と小さくまとまったのね」
「だから君が気に入らないんだ」
二人の杖が同時に振り抜かれた。
紫と赤の光が棚の間で衝突し、弾ける。爆風が割れた扉を吹き飛ばし、その向こうにあった時の間まで突き抜けた。
部屋の中央で、巨大な釣鐘が揺れる。
腹の底まで震わせる音が、一度だけ響いた。
その鐘の下でも、別の戦いが続いていた。
「オブリビエイト!」
「エクスペリアームス!」
青白い光と赤い光が交差する。
ハリーとロックハート先生だった。
ロックハート先生の戦い方は、わたしが知っている決闘とはまるで違う。
人を吹き飛ばそうとはしない。
傷つけようともしない。
ただ、戦う理由だけを消そうとする。
ロックハート先生は倒れた時計棚を挟み、ハリーと向かい合っていた。金色の髪には細かなガラス片が降りかかっている。それでも口元には、雑誌の表紙で何度も見た笑みが貼りついていた。
「随分と乱暴になったね、ハリー。前の君なら、もう少し素直に私の話を聞いてくれた」
「前の僕を勝手に作ったのは、お前だろ!」
ハリーが杖を振る。
「エクスペリアームス!」
ロックハート先生は身体を横へ滑らせた。
赤い光が肩の脇を抜け、背後の時計を打つ。無数の針が狂ったように回り始めた。
ロックハート先生は振り返りもせず、杖先だけを返す。
「オブリビエイト」
今度の光は、糸のように細かった。
ハリーは頭を振って避けたが、先端が額をかすめる。
その足が止まった。
ハリーは杖を構えたまま、目の前にいるロックハート先生を見る。次に、周囲の壊れた時計へ目を移した。
「……僕は、何をしていた?」
ロックハート先生の声が柔らかくなる。
「私と話をしていたところだよ」
一歩、距離を詰める。
「君が少し混乱しているという話さ。私は君を助けた。つらい過去を取り除き、皆から愛される人生を与えたんだ」
ハリーの杖先が、ゆっくりと下がった。
「ハリー!」
離れた棚の陰から、ロンの声が飛ぶ。
「そいつの話を聞くな!」
ハリーが弾かれたように顔を上げた。
ロックハート先生の笑みが深くなる。
「オブリビエイト!」
ハリーは頭を伏せた。
呪文は髪をかすめ、背後で杖を振り上げていた死喰い人へ直撃する。
男は杖を下ろし、仮面の奥で辺りを見回した。
「私は……なぜここにいる?」
「巻き添えだけは一流だな!」
ハリーが怒鳴る。
杖を三度振った。
「エクスペリアームス!」
一発目がロックハート先生の足元を打つ。
二発目が退路を塞ぐ。
三発目だけが、正確に杖を持つ手首へ向かった。
ロックハート先生は身体をひねり、最後の光だけを時計棚へ流した。金色の髪が揺れ、余裕を装った笑顔の端がわずかに引きつる。
「ハリー。私は君の重すぎる過去を忘れさせた。英雄として新しい人生を与えてあげたんだよ」
「僕の人生を勝手に書き直しておいて、助けたつもりか!」
ハリーが距離を詰める。
「エクスペリアームス!」
「オブリビエイト!」
赤と青白い光がぶつかり、天井へ弾けた。
二人は、互いに奪われた人生を取り返すように杖を振っていた。
その戦いを、ヴォルデモートは愉快そうに眺めていた。
自分と同じ魂を持つトムと、未来から来た娘が殺し合っている。
作られた英雄を取り戻そうとするロックハート先生と、本当の名前を取り戻したハリーが争っている。
戦いを見て笑える感性は、わたしには一生理解できそうにない。
やがてヴォルデモートは飽きたように顔を動かし、赤い目をこちらへ向けた。
視線は、わたしの腕の中で止まる。
彼から借りた『深い闇の秘術』だった。
「読んだようだな」
背後では呪文が飛び交っているのに、声だけは図書室で感想を求めるように穏やかだった。
「読みました」
冷たいものが、額の奥へ触れる。
頭の中へ入り込もうとする指先のような感覚。
わたしは反射的に心を閉ざした。
本だけを心の中へ積み上げる。
『深い闇の秘術』。
『三人兄弟の物語』。
『薔薇色の惚れ薬は二度効く』。
考えていることも、恐れていることも、すべて本の奥へ押し込んだ。
ヴォルデモートが目を細める。
次いで、満足そうに頷いた。
「閉心術まで身につけたか。やはり、お前は見込みがある」
「褒めても、本の感想は変わりません」
「感想だけを聞くつもりはない」
ヴォルデモートは杖を下げたまま近づいてきた。
横から飛んできた呪文を、顔も向けずに弾く。
不死鳥の騎士団員が、そのまま壁へ吹き飛ばされた。
「続きを話せ」
それは、わたしではなく戦場全体へ命じるような声だった。
誰にも逆らえないと思っている人の声だ。
「ローゼマイン。ルシウスとともに、私に仕える気はないか」
視線だけを動かす。
少し離れたところで、父が不死鳥の騎士団員と呪文を撃ち合っていた。
顔は青ざめている。
こちらを見ているのか、ヴォルデモートを見ているのか、分からなかった。
「お前が望む書物は、すべて集めさせよう」
ヴォルデモートは、わたしの視線を引き戻すように言った。
「ホグワーツで禁じられている本でもよい。失われたと思われている本も、古い家の書庫に秘蔵されている本も、望むだけ与えてやる」
ひどく魅力的な申し出だった。
こんな場所でヴォルデモートからでなければ、心が揺れていたかもしれない。
「ヴォルデモート卿は恐れられすぎた」
白銀の髪を指先で払う。
「だから私は、新しい物語を作ろうとしている。白銀卿を、魔法界の救世主にする物語だ」
横から、水晶玉が差し出された。
持っていたのはセオドールだった。
彼はヴォルデモートのすぐそばに立っている。
こちらへ向けられた杖には、迷いがなかった。
「……どうして?」
セオドールは困ったように片方の眉を上げた。
「君が時間を巻き戻したからだよ、マイン」
「わたしが?」
「父上はアズカバンへ送られた」
怒鳴りもしなかった。
責める声でもなかった。
そのことが、かえって怖い。
「本来なら、父上はあの時点では捕まらなかった。君が過去を変えたことで、父上の運命も変わった」
「でも、あなたのお父様は──」
「死喰い人だった。分かっているよ」
セオドールは水晶玉から手を離した。
「それでも、僕の父親だ」
割れた予言の玉を踏みながら、ヴォルデモートの隣へ並ぶ。
「父も家も失った僕を、白銀卿は哀れんでくださった。行く場所も与えてくださった」
「だから、死喰い人になったのですか?」
「他に誰が、僕を必要としてくれた?」
セオドールは笑わなかった。
ヴォルデモートは、彼の言葉を訂正しない。
哀れんだ。
必要とした。
そのどちらも、この人には似合わない言葉だった。
「トムの話が正しければ、お前にはトレローニーと同じ力がある」
ヴォルデモートが、予言の玉を指先で転がす。
「未来を見る力。まだ起きていないことを知り、運命の流れを変える力だ。素晴らしい才能ではないか」
答えなかった。
「だが、その身体では十分に使えまい」
赤い目が、わたしの顔から手元へ下りる。
本を抱える指先が震えていた。
「力がありながら、寿命に縛られる。酷な話だ」
ヴォルデモートは『深い闇の秘術』を顎で示した。
「その本を読んだのだろう?」
もちろん読んだ。
人の魂を裂く方法。
命を器へ封じ込める方法。
死を遠ざけるため、何を差し出せばよいのか。
『分霊箱を作ればよい』
ヴォルデモートは、夕食の献立でも勧めるように蛇語で言った。
『たった一人、殺すだけだ』
腕の中の本が、急に重くなった。
「それだけで、お前は寿命を恐れずに済む。親しい者を選ぶ必要もない。嫌いな人間を一人殺せばよい」
「嫌いな人なら、殺してもいいのですか?」
「誰もがそうしている。大義、正義、国家、戦争。人は理由を用意して殺す」
唇がわずかに持ち上がる。
「必要なら、一人くらい用意してやろう」
やはり、理解できなかった。
本を集めることには、あれほど情熱を注げる。
物語を残したいと願う。
けれど、その物語を読むはずだった誰かの命は、紙くずより軽いらしい。
「わたしは」
声が震えないように、本を抱き直す。
「人を殺してまで生きたいと思ったことはありません」
ヴォルデモートの笑みが薄くなる。
わたしは彼の前へ進み、『深い闇の秘術』を差し出した。
「この本は、とても興味深かったです。魂についての考察も、魔術理論も、知らないことばかりでした」
「ならば──」
「でも、わたしには合いませんでした」
ヴォルデモートの手は動かなかった。
「同じ時期に読んだ本なら、『薔薇色の惚れ薬は二度効く』の方が面白かったです」
「……何?」
「恋愛小説です」
「闇の秘術を、恋愛小説と比べるのか」
「同じ本です。比べてはいけない理由がありますか?」
赤い目が険しくなる。
「死について読むなら、童話の『吟遊詩人ビードルの物語』に収録された『三人兄弟の物語』の方が好きでした」
「たかが童話に何が書いてあるというのだ」
「童話だからつまらないとは限りません。本は、面白いかどうかでしょう?」
背後で、ハリーの怒声が響いた。
「エクスペリアームス!」
ロックハート先生の杖が大きく跳ねる。
落ちる前に左手で掴み、振り向きざまに忘却呪文を放った。
「オブリビエイト!」
「プロテゴ!」
ハリーの盾が青白い光を弾く。
「もう二度と、僕から何も奪わせない!」
わたしはヴォルデモートを見上げた。
「でも、『ヘンリー・ポーター』シリーズも面白かったですよ」
ヴォルデモートの目が、わずかに細くなる。
「白銀卿は格好よく書かれていました。敵が強く、陰謀があり、続きが気になるように作られている。物語として読むなら、とても面白いと思います」
「ならば、何が不満だ」
「それを、本当の物語として伝えようとすることです」
セオドールが、わずかに息を呑んだ。
「面白い物語だからといって、書かれたことが真実になるわけではありません。ハリーの過去を書き換えて、それを本当のこととして残すのは間違っています」
「真実とは、勝者が残した物語だ」
「それは、記録を奪った人の言い分です」
本をさらに前へ差し出す。
「誰かの人生を、読みやすい形へ直しても、それはその人の人生ではありません」
少し離れた場所で、ハリーがロックハート先生へ杖を向けていた。
額の傷から血が流れている。
息も乱れている。
それでも、緑の目だけはまっすぐだった。
「僕はヘンリー・ポーターじゃない」
ハリーが言った。
「僕は、ハリー・ポッターだ」
ロックハート先生の笑顔が歪む。
わたしはヴォルデモートへ本を差し出したまま、口を開いた。
「本を貸してくださって、ありがとうございました」
「その選択が、死を意味するとしてもか」
「借りた本を返さない方が嫌です」
ヴォルデモートは、受け取らなかった。
「あとさあ!」
場違いなほど明るい声が響いた。
ロメルダの髪は乱れ、ローブの袖は焦げている。それでも、ヴォルデモートへ向ける目には一切のためらいがなかった。
「ヴォルたん、乙女の心が全然分かってないよね!」
ヴォルデモートの眉間が動く。
「ヴォルたん?」
ロメルダは、自分の首元を指差した。
以前までスリザリンのロケットが下がっていた場所には、黒いリボンのチョーカーだけが残っている。
「こっちはアクセ代わりにつけてただけなのに、まさか魂が入ってるなんて思わないじゃん!」
「アクセサリー代わりに、あのロケットを身につけていただと……?」
「あれのせいで恋愛欄に余計なこと書いて、友達を傷つけたんだけど!」
「……勝手に書いた記事の責任まで、私に負えというのか?」
ヴォルデモートが、本気で理解できないという顔をした。
ロメルダは両手を腰へ当てる。
「当たり前じゃん。人の恋を暴露する羽目になったのに、責任ありませんみたいな顔するの、ほんっと無理!」
「私が暴露したわけではない」
「ロンロンが好きなの、みんなにばれたんだけど!」
記事を読んだだけで、ロメルダがロンを好きだと気づく人は、それほど多くなかったと思う。
完全に暴露したのは、今のロメルダ本人だった。
離れたところで、ロンがものすごい勢いで顔を背ける。
耳まで真っ赤だった。
ロメルダは気づいていない。
「だいたい、魂を入れるくらいなら、惚れ薬でも入れといた方が、まだロケットらしくない?」
デルフィーの呪文を弾いたトムの杖が止まった。
初めて、トムがロメルダを振り返る。
ヴォルデモートの赤い目が、まっすぐ彼女へ向いた。
「今、何と言った?」
「だって、あんたみたいな性格じゃ、普通にしてても誰も相手にしてくれなさそうだし」
ロメルダは、白銀の髪から黒いローブまでを眺めた。
「顔はいいから、惚れ薬が効いてる間くらいはどうにかなりそう。でも切れた瞬間、全力で逃げられるやつ」
ヴォルデモートの顔から、最後に残っていた笑みが消えた。
「ロメルダ」
トムの声が低くなる。
「それ以上はやめておけ」
「なんで?」
ロメルダが素直に首を傾げる。
「惚れ薬に何か嫌な思い出でもあるの?」
石床に亀裂が走った。
黒い魔力がヴォルデモートの足元から立ち昇り、腕の中の本の頁を激しくめくる。
「愛など、弱者が縋るものだ」
吐き捨てるような声だった。
ロメルダが瞬きをする。
「分からないものを弱いって決めつけるの、読んでない本をつまらないって言ってるのと同じじゃん」
それは、本好きにとってかなり重い侮辱だった。
「愛を知らないんじゃなくて、知ろうとしなかっただけでしょ。まともな恋愛小説、一冊も読んだことなさそう」
ヴォルデモートの整った顔が、ゆっくりと歪んだ。
ロメルダは、その変化を見て眉を上げる。
「あ、図星?」
「もういい」
ヴォルデモートが杖を上げた。
「学生だと思って甘く見ていたが、全員まとめて死ね」
「下がれ!」
トムが防壁を展開する。
黒い呪文が激突し、時の間全体が揺れた。
銀色の防壁に亀裂が広がり、床の石が次々とめくれ上がる。中央の釣鐘が大きく揺れ、耳を塞ぎたくなるほどの音が鳴り響いた。
「随分とご立腹じゃのう」
落ち着いた声が、鐘の音を抜けて届いた。
白い光が、わたしたちとヴォルデモートの間を走る。
次の呪文が弾かれ、壁へ突き刺さった。石が砕け、細かな破片が床を跳ねる。
扉の向こうから、ダンブルドア先生が歩いてきた。
長い銀髪も、深い青のローブも、戦場には不似合いなほど整っている。
その背後には、フェルディナンド先輩がいた。
さらにその影へ隠れるように、リラが立っている。
リラはわたしと目が合うと、ほんの少しだけ唇を噛んだ。
「リラ! 良かった、渡せたんだね!」
アルバスがリラの姿を見つけると嬉しそうに言った。
「遅かったな、ダンブルドア」
ヴォルデモートが吐き捨てる。
「年を取ると、若者ほど急げなくてのう」
ダンブルドア先生は穏やかに答えた。
けれど、目は笑っていない。
「ローゼマインを死なせはせん」
わたしは目を瞬いた。
「無駄だ」
ヴォルデモートは、わたしを一瞥する。
「その娘の身体は長くもたない」
「そうとも限らん」
ダンブルドア先生が杖を構えた。
「マインを生かす方法は、すでにここへ届いておる」
ヴォルデモートの顔から憤怒が消え、代わりに警戒が浮かぶ。
「何?」
「安全な方法じゃ。誰も殺さず、魂を裂く必要もない」
リラが、フェルディナンド先輩の背後から半歩だけ顔を出した。
小さな手が、ローブの下に隠した何かを強く握っている。
ヴォルデモートも、それに気づいたらしい。
「何を持っている?」
リラは答えなかった。
ダンブルドア先生の視線が、わたしからリラへ移る。
「未来から、薬を届ける者がおった」
ヴォルデモートが鼻で笑う。
「薬だと?」
「薬そのものは、ただの手段じゃ」
ダンブルドア先生は、ヴォルデモートを見た。
「この娘を救うために、時間を越えてまで誰かが運んできた。その理由が、分からんかね?」
ヴォルデモートの赤い目が細くなる。
「一体、何だというのだ」
ダンブルドア先生の杖先が上がった。
「愛じゃよ、トム」
「そんなもの、私は信じない」
ヴォルデモートが杖を振る。
緑の光が放たれた。
同時に、ダンブルドア先生の杖から赤金色の炎が走った。
やっぱり昼投稿が一番楽なのでこれからも昼投稿にします!