本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:パラプリュイ

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103話 愛しているとは言わないだけで

 

 ダンブルドア先生の放つ赤金色の炎とヴォルデモートが放つ緑の閃光が衝突した。

 ダンブルドア先生が杖を横へ払った。

 

 赤金色の炎が鳥の翼のように広がり、こちらへ向かっていた緑の呪文を包み込む。炎の中で光が膨れ、眩しいほど白くなった直後、音もなく消えた。

 

 ヴォルデモートが目を細める。

 

「守ることに熱心になったものだな、ダンブルドア」

 

 白銀の髪が、魔力の風に揺れていた。

 

「かつてのお前なら、私を倒すための犠牲は必要だと言ったのではないか?」

 

「昔のわしなら、そう考えたかもしれんのう」

 

 ダンブルドア先生は穏やかに答えた。

 その背後では、怪我をしたハーマイオニーがロンを庇い、ジニーが片足を引きずりながら杖を構えている。

 アルバスとスコーピウスは、ロンをアーチから遠ざけようと移動していた。

 ハリーはまだロックハート先生と戦っている。

 わたしたちも、無傷とは言いがたかった。

 

「じゃが、今のわしは違う」

 

 ダンブルドア先生が杖を持ち上げた。

 赤金色の炎が一気に広がり、わたしたち全員を包む巨大な壁になる。

 

「おぬしを倒すために、子どもたちを見捨てるつもりはない」

 

 闇の帝王の口元から、笑みが消えた。

 

「それがお前の答えか」

 

「その通りじゃ」

 

 緑の光が連続して炎へ突き刺さった。

 一発目で炎が揺れる。

 二発目で石床が割れる。

 三発目を受けても、ダンブルドア先生の足は動かなかった。

 

 そのすぐ隣では、トムとデルフィーが殺し合い寸前の戦闘を繰り広げていた。

 

「インカーセラス!」

 

 トムの杖先から、黒い縄が何本も飛び出した。

 デルフィーは二本を紫色の光で焼き切った。残った縄が腕と足首へ巻きつき、彼女の身体を宙へ持ち上げる。

 

 トムが杖を下ろした。

 デルフィーは背中から床へ叩きつけられた。

 白銀の髪が床一面に広がる。

 起き上がろうとした身体へ、さらに縄が絡みついた。

 

「離しなさい!」

 

「嫌だね」

 

 トムは、床へ落ちたデルフィーの杖を蹴り飛ばした。

 続けて、彼女の首から下がっていたタイムターナーを杖先で引きちぎる。

 

「それを壊さないで!」

 

 スコーピウスが叫んだ。

 トムはタイムターナーを拾い上げ、光へ透かして眺める。

 

「壊さないよ」

 

 スコーピウスが胸を撫で下ろした。

 

「今はね」

 

 すぐに胸を押さえ直した。

 トムはタイムターナーをローブの内側へしまった。

 デルフィーは縄の中から、彼を睨み上げる。

 

「私を殺せばいいでしょう」

 

「どうして?」

 

「私は父のために来た。あなたの友人を殺そうとした。生かしておく理由なんてない」

 

 トムはデルフィーを見下ろした。

 闇の帝王と同じ白銀の髪。

 似た顔立ち。

 追い詰められても、助けを求めようとしない目。

 

「君があの男の娘だというなら」

 

 トムは、ダンブルドア先生と戦っている闇の帝王を一瞥した。

 

「僕の娘でもある」

 

 デルフィーの顔が、露骨に歪んだ。

 

「あなたは私の父ではないわ」

 

「それは助かる」

 

 トムは即座に答えた。

 

「僕も父親らしく振る舞える自信はないからね」

 

「だったら、なぜ殺さないの?」

 

「君の父親が父親としての責任を取らないからだよ」

 

 トムが杖を振る。

 デルフィーを縛る縄に結び目が増えた。

 

「同じ魂を持つ僕が、代わりに引き受けるしかないだろう」

 

「何をするつもり?」

 

「教育する」

 

 デルフィーが、闇の帝王へ向けていたものより強い憎悪をトムへ向けた。

 殺されるより嫌らしい。

 

「まず、読書習慣から矯正しようか」

 

「必要ないわ」

 

「必要だよ。気に入らない作者を殺せば本の内容を変えられると思っている時点で、本の読み方にかなり問題がある」

 

「恋愛小説からがいいと思う!」

 

 ロメルダが離れたところから叫んだ。

 

「最初は絶対、溺愛もの!」

 

「嫌よ!」

 

 デルフィーが初めて年相応の声を上げた。

 

「じゃあ、婚約破棄ものは?」

 

「どちらも嫌!」

 

 その様子を眺めていると、突然、右手を掴まれた。

 白い手袋に包まれた手だった。

 

「帰るぞ、ローゼマイン」

 

 父が、わたしの手を強く握っている。

 顔色はひどく悪かった。白い肌はいつも以上に青ざめ、金色の髪には細かな灰が付いている。

 

「どこに?」

 

「マルフォイ家に決まっている」

 

「でも、お父さまはさっきまでヴォルデモートの側で戦ってたよね」

 

「その名前を口にするな……だからこそ、次に何が起きるか分かる。あの方もお前を雑に扱うことはない」

 

 父は、わたしを自分の側へ引き寄せた。

 

「おまえのいる場所は危険すぎる」

 

「お父さまといる方が安全だっていうの?」

 

「ダンブルドアを信用するな」

 

 父は、炎の向こうに立つダンブルドア先生を睨んだ。

 

「あの男は、目的のためなら子どもでさえ盤上の駒にする」

 

「それは否定しにくいけど」

 

 ダンブルドア先生の眉が、わずかに上がった気がした。

 ヴォルデモートの呪文を防ぐのに忙しそうなので、聞かなかったことにしてほしい。

 

「とにかく、おまえは私の目が届く場所へ戻す」

 

「ローゼマインは引き続きブラック家で預かります」

 

 左側から、フェルディナンド先輩の声が割り込んだ。

 いつの間にか、父とは反対側に立っている。

 

「フェルディナンド、おまえに口を挟む資格はない」

 

 父が、フェルディナンド先輩を睨む。

 

「私はこの子の父親だ」

 

「血がつながっているだけで保護者を名乗れるのなら、ずいぶん楽な話ですね」

 

「何だと?」

 

「これまで、どこで何をしていたんですか?」

 

 父の顔が引きつった。

 フェルディナンド先輩は、さらに一歩近づく。

 

「ローゼマインはブラック家に残ります。私が責任を持って守ります」

 

「だから、おまえに決める資格はないと言っている!」

 

「あります」

 

 フェルディナンド先輩は、少しも迷わなかった。

 

「彼女は私の婚約者です」

 

 時計の針が、全部止まったような気がした。

 実際には動いている。針の音も聞こえている。

 それでも、戦っていた人たちの視線が一斉にこちらへ集まった。

 

 トムがデルフィーへ向けていた杖を少し下げる。

 アルバスとスコーピウスが同時に振り返る。

 ロンが足を滑らせ、支えていたハーマイオニーと一緒に傾いた。

 ロメルダは口を開けたまま固まっている。

 ダンブルドア先生の炎まで、一瞬だけ低くなった。

 ヴォルデモートも、戦闘中とは思えないほど興味深そうにこちらを見た。

 

 わたしも初めて聞いた。

 

 本の感想を聞かれたことなら何度もある。

 食事を残すなと叱られたこともある。

 睡眠時間について説教されたこともある。

 

 でも、フェルディナンド先輩をそういう相手として見たことは一度もなければ、彼から婚約について相談されたことも、一度もない。

 

「……婚約者だと?」

 

 父の声が、聞いたことのないほど弱くなった。

 

「そうです」

 

 フェルディナンド先輩は平然と答える。

 

「ちょっと、フェルディナンド先輩。初めて聞いたんですけど」

 

 わたしが小声で言うと、フェルディナンド先輩はようやくこちらを見た。

 

「今、決めたからな」

 

 恋愛小説なら、出会い、交流、すれ違い、仲直り、告白、両親への挨拶を経て、ようやく婚約する。

 わたしたちは、出会いと交流のあと、戦闘中に婚約と両親への挨拶を同時に済ませようとしている。

 展開があまりに速すぎる。

 フェルディナンド先輩のことだから何か考えがあってのことだとは思うけど、大事な話は前もって相談してほしい。

 

 フェルディナンド先輩は、わたしの前へ片膝をついた。

 床には、割れたガラス片が散らばっている。

 少なくとも、恋愛小説の挿絵には向いていない場所だった。

 

「ローゼマイン」

 

「はい」

 

「私と婚約しろ」

 

 求婚ではなく命令だった。

 けれど、フェルディナンド先輩の目は、父へ向けていたものより少しだけ柔らかい。

 

「ブラック家に残るために必要だ」

 

 ほとんど聞こえない声で付け加えられた。

 やはり茶番らしい。

 父にわたしを連れて帰る口実があるなら、こちらにも残る口実が必要になる。

 

 わたしは少し考えた。

 

 マルフォイ家へ戻れば、ヴォルデモートがいる。当分外へ出してもらえない。

 書庫があるとしても、読む本まで管理されるかもしれない。

 ブラック家には、読みかけの本がある。

 あそこの書庫はとても大きい。マルフォイ家の書庫よりも大きいかもしれない。

 フェルディナンド先輩と婚約するってことは、あそこの本棚を好きにしていいってことだよね。

 それなら、答えは明確だ。

 

 本当に婚約するかどうかについては、あとで話し合えばいい。

 

「はい」

 

 わたしは頷いた。

 

「婚約をお受けします」

 

「ローゼマイン!」

 

 父が叫んだ。

 

「こんな場所で即答するな!」

 

「お父さまも、こんな場所で連れて帰ろうとしたよね」

 

「それとこれとは別だ!」

 

「どこが?」

 

 父は口を開いた。

 何も言わずに閉じた。

 答えが見つからなかったらしい。

 

 その肩へ、そっと手が置かれた。

 

 バーティ・クラウチ・ジュニアだった。

 いつの間に近づいたのだろう。

 少しだけ同情するような顔で、父を見ている。

 

「お気の毒に」

 

「貴様に慰められるほど落ちぶれてはいない!」

 

「急に男が娘に婚約を命令してきたのに?」

 

「黙れ」

 

「しかも今決めたとは何とも雑だな」

 

「黙れ!」

 

 バーティは、父の肩を二度軽く叩いた。

 

「大丈夫だ。僕の父なんて、僕が死喰い人になったことを、裁判中に知った」

 

「何一つ慰めになっていない!」

 

 慰める人選が悪かった。

 そのとき、入口から大勢の足音が響いた。

 

「魔法省だ! 全員、杖を下ろせ!」

 

 先頭に立っていたのは、アンブリッジ先生だった。

 その後ろに、ファッジ、闇祓い、魔法省の職員たちが続いている。

 アンブリッジ先生は、白銀の髪を持つ闇の帝王を見た。

 

 目が少しだけ大きくなる。

 

「あれが白銀卿……」

 

 声が、わずかに高かった。

 すぐに片手を口元へ当てる。

 

「ェヘン、ェヘン」

 

 いつもの咳払いでごまかした。

 

「失礼。容姿は現在の容疑と一切関係ございませんわ」

 

 誰も何も言っていない。

 ファッジは、闇の帝王を見たまま動かなかった。

 

「ま、まさか。本当に……」

 

「ご覧になった通りです、魔法大臣」

 

 アンブリッジ先生は、ローブの皺を整えた。

 

「闇の帝王は、本当に復活したのですわね」

 

「だが、私が聞いていた姿とは異なる……」

 

「美形になったからといって、無罪にはなりませんわ」

 

 アンブリッジ先生は断言した。

 先ほどの声の高さを考えると、説得力が少し足りない。

 

「魔法省を代表し、白銀卿ならびに死喰い人の逮捕を命じます!」

 

 闇祓いたちが一斉に杖を構えた。

 

「いや、あれはきっと、例のあの人とは別人に違いない! なんていったって、顔が全く違うじゃないか! 白銀卿は闇の帝王とは別人だ! 闇の帝王は復活していない、きっとそうだ」

 

 今の発言はかなりまずい。

 

 わたしは近くにいた記者の自動速記羽ペンがすばやくファッジの発言を羊皮紙に書き記すところを見た。

 ヴォルデモートは、いまだに現実を直視しないファッジを見て笑った。

 

「おまえはそういう政治家だと思った」

 

 ファッジの顔から、血の気が引く。

 ダンブルドア先生が杖を動かした。

 

 赤金色の炎が左右へ分かれ、ヴォルデモートの退路を塞ごうとする。

 その直前、黒い煙が床から噴き上がった。

 

「退くぞ」

 

 闇の帝王の声が響く。

 バーティが、父の肩から手を離した。

 

「では、婚約祝いはまた後日」

 

「祝わなくていい!」

 

「おやおや、お父上も、もう少し愛想よくした方がいいぞ」

 

「誰が貴様の父だ!」

 

 バーティは楽しそうに笑い、黒い煙の中へ下がった。

 ヴォルデモートの赤い目が、父へ向く。

 

「ルシウス」

 

 短い呼びかけだった。

 父の肩が強張る。

 わたしの手を握る力が、さらに強くなった。

 

「私は、娘を連れて帰ります」

 

「今ではない」

 

 ヴォルデモートの声から、笑みが消える。

 

「来い」

 

 父は動かなかった。

 白い手袋の指が、わたしの手へ食い込んでいる。

 

「お父さま?」

 

 呼びかけると、父は一度だけ目を閉じた。

 次に目を開いたときには、いつもの冷たい表情へ戻っていた。

 

「ブラック家へ行ってもいいが、婚約を認めたわけではない」

 

 フェルディナンド先輩を鋭く睨む。

 

「この話は、改めてする」

 

「望むところだ」

 

「貴様とは話していない!」

 

「ルシウス」

 

 ヴォルデモートの二度目の呼びかけには、明らかな苛立ちが混じっていた。

 父は、わたしの手をゆっくり離した。

 指先から手袋の感触が消える。

 

「この婚約は絶対に認めない」

 

 それだけを残し、父は黒い煙の中へ足を踏み入れた。

 ヴォルデモートは最後に、ダンブルドア先生とトムを見た。

 

「今日のところは退く」

 

「逃げる人は、だいたいそう言うね」

 

 トムが答えた。

 

 ヴォルデモートの赤い目が細くなる。

 黒い煙が大きく膨れ上がった。

 闇の帝王、父、バーティ、残っていた死喰い人たちの姿が、その中へ消えていく。何人かは闇祓いに捕まっていた。

 

「逃げられましたわ!」

 

 アンブリッジ先生が叫ぶ。

 

「追跡班を! それから白銀卿の外見的特徴を、正確に記録なさい。白銀の長髪、赤い瞳、身長は──」

 

「先生」

 

 ロメルダが声をかけた。

 

「何ですの?」

 

「特徴、めっちゃ細かく見てたんだね」

 

「ェヘン!」

 

 アンブリッジ先生は、今までで一番大きな咳払いをした。

 

 闇の帝王が去り、戦闘が終わると、急に全員の怪我が目についた。

 ジニーは右足の踵がうまく動かないらしく、つま先だけで歩こうとしている。

 

「その歩き方、余計に転ぶよ」

 

「分かってる。でも、踵が言うことを聞かないの」

 

 ジニーが一歩進み、すぐに壁へ手をついた。

 ハーマイオニーは、左腕を右手で押さえていた。

 

 肩の位置が少しおかしい。

 

「脱臼してるね」

 

「見れば分かるわ」

 

「戻そうか?」

 

「絶対に触らないで」

 

 強く拒否された。

 知識はあるのに信用がない。

 

 ハリーは、倒れた時計棚の横で息を切らしていた。

 ロックハート先生へ向けていた杖は、すでに下がっている。

 顔だけを見れば、まだ殺す気が残っていそうだった。

 

「よく殺さなかったな」

 

 ロンが言った。

 

「僕もそう思う」

 

 ハリーは短く答えた。

 

「危ない呪文は使わなかったんだよな?」

 

「使ってない。途中で何度か思いついたけど、もう殴った方がいい気がして」

 

「あなた魔法使いよね?」

 

 ハーマイオニーがあきれたように言った。

 ハリーは、武装解除呪文と盾の呪文だけで戦い切ったらしい。

 ロックハート先生は金色の髪が乱れ、青いローブが何か所か焦げていた。自慢の顔はハリーに殴られてボコボコになっている。

 

「ハリー。君は少し興奮しているようだ。落ち着いて、二人で話し合えば──」

 

「黙れよ」

 

「はい」

 

 ロックハート先生は、すぐに口を閉じた。

 その背後で、黒い縄が音もなく床へ落ちる。

 拘束されていたはずのデルフィーが、立ち上がっていた。

 

「トム!」

 

 わたしが叫ぶ。

 トムが振り返る。

 

 デルフィーは袖の内側から細い銀色の刃を抜き、最後の縄を切った。

 そのままロックハート先生へ駆け寄り、小さな銀色の破片を腕へ押し当てる。

 

 ポートキーだった。

 

「行くわよ」

 

「待ってくれ。私はまだ髪を整えて──」

 

「今すぐ」

 

 二人の身体が青白い光に包まれた。

 トムが呪文を放つ。

 

 赤い光は、二人が消えたあとの空間を貫いた。

 床には、ロックハート先生の金色の髪が一本だけ残る。

 

「逃げられた」

 

 アルバスが呟いた。

 

 戦いが終わったのに、胸の奥の痛みは消えなかった。

 息を吸うたび、細い針が刺さるように痛む。

 誰にも気づかれないように呼吸を整えていると、リラが近づいてきた。

 

 両手で、小さな薬瓶を抱えている。

 中の液体は、淡い金色だった。

 

「お母さま」

 

 呼ばれるたび、まだ少しだけ驚く。

 

「これは?」

 

「薬です」

 

 リラは薬瓶を差し出した。

 

「お母さまを愛する人たちが、何年もかけて作りました」

 

 フェルディナンド先輩が、瓶へ杖を向けた。

 液体の色、魔力、栓に施された封印を順に確認する。

 

「誰が作ったの?」

 

「たくさんの方々です」

 

 リラは指を折り始めたが、途中で足りなくなった。

 

「ドラコおじさま。お父さま。スネイプ先生。マルフォイのおじいさまとおばあさまも。みんなで研究や材料を残したんです。わたしも手伝いました」

 

 リラは少し誇らしげに胸を張った。

 

「マルフォイのおじいさま……って、お父さまも?」

 

「おじいさまは、お金と珍しい材料をたくさん出してくれました」

 

 研究ではなく、資金担当だったらしい。

 とても父らしい。

 リラは薬瓶を見つめた。

 

「わたしの世界には、もうお母さまはいないの」

 

 小さな声だった。

 

「でも、この薬を今から飲んでいたら、きっと元気になるよね」

 

 薬瓶を握る指が震えている。

 

「わたしが生まれた後も、生きていてくれるよね」

 

「リラ」

 

「会えたらいいな」

 

 リラは、泣かないように笑おうとした。

 

「本の話をしたり、一緒にご飯を食べたり、お母さまに叱られたりしたい」

 

「叱られたいの?」

 

「わたし、まだ一度も、お母さまに叱られたことがないから」

 

 胸の痛みとは違うものが、喉の奥へ詰まった。

 わたしはリラの前へ膝をつき、その手ごと薬瓶を包んだ。

 

「必ず会えるよ」

 

「本当?」

 

「うん」

 

 未来がいくつあるのかは分からない。

 どの未来へ進むのかも分からない。

 それでも、子どもがこれほど必死に願っているのに、母親が先に諦めるわけにはいかない。

 

「わたしが会いに行く」

 

 リラの目から、涙が一粒落ちた。

 

「約束?」

 

「約束」

 

 薬瓶の栓を開けた。

 淡い花の香りがする。

 

 一口飲む。

 直後、舌が痺れるほどの苦味が広がった。

 

「にがっ!」

 

 思わず叫んだ。

 リラが目を丸くする。

 

「スネイプ先生が、よく効く薬はたいてい苦いって」

 

「未来でも変わらないんだね……」

 

 感動的な薬には、もう少し感動的な味が必要だと思う。

 涙が別の理由で出てくるほど苦くする必要はない。

 

 少し離れた場所では、ロメルダがハーマイオニーとジニーの前に立っていた。

 

「ハーみょん、ジニたん、ごめん」

 

 いつもの大きな声ではなかった。

 

「勝手なこと書いた。あたし、自分が嫌だったからって、みんなを傷つけた」

 

 ハーマイオニーは脱臼した腕を押さえたまま、ロメルダを見る。

 

「私も、ごめんなさい」

 

「なんでハーみょんが謝るの?」

 

「あなたの気持ちを知らなかったとはいえ、ロンとクラムを天秤にかけるような真似はすべきじゃなかったわ。見せつけられたと思っても無理ないわよね」

 

「別に、見せつけられたとは思ってないし」

 

「思っていたでしょう」

 

「ちょっとだけ」

 

 ロメルダは、指先で少しだけ隙間を作った。

 実際には、恋愛欄を一つ使い切るくらいには思っていたはずだ。

 

「でも、もううじうじ考えるのはやめるんだ」

 

 ロメルダは大きく息を吸った。

 

「本人に言う」

 

「え?」

 

 ハーマイオニーが止めるより早く、ロメルダはロンへ向き直った。

 

「ロンロン!」

 

「何だよ」

 

「好き!」

 

 ロンの口が開いた。

 声は出なかった。

 

「ほんとは、ダンスパートナーに誘ったときからずっと好きだった!」

 

「ええ!」

 

「でもハーみょんといい感じだし、無理かなって思ってた。本人に言わないで恋敵を記事にするなんて最低なことしたから、ちゃんと言う! 好きだよ!」

 

「ちょっと待って」

 

「待たない!」

 

「僕の心の準備が──」

 

「ロン!」

 

 今度はハーマイオニーが声を上げた。

 脱臼した腕を押さえ、顔を真っ赤にしている。

 

「私も、あなたが好きよ」

 

「ハーマイオニーまで!?」

 

「ロメルダだけに言わせるのは不公平でしょう!」

 

「何の公平だよ!」

 

 ロンが左右を見た。

 

 ロメルダ。

 ハーマイオニー。

 もう一度ロメルダ。

 

 ロンは助けを求めるようにハリーを見る。

 

「ハリー」

 

「何だよ」

 

「こういうときどうすればいい?」

 

 ハリーはロンを見返した。

 

「君、今僕に聞いたのか?」

 

「だって、ほかに誰がいるんだよ」

 

「二人から好きだと言われて困っている君が?」

 

 ハリーの声が低くなる。

 

「僕は、自分がヘンリー・ポーターになっていたせいで、やっとの思いで付き合えた子に振られたんだぞ」

 

「いや、それは知ってるけど──」

 

「知っていて聞いたの?」

 

 ロンが口を閉じた。

 ハリーは拳を握り直し、冷たく言った。

 

「後で殴っていいなら、相談に乗る」

 

「あー、やっぱりいいや」

「残念」

 

 ハリーはすぐに顔を背けた。

 

「ああ、ハリー! おまえ戻ったんだな!」

 

 シリウスがハリーがもとに戻ったのに歓喜して抱きついた。

 ロンはあまり期待していない顔で妹を見た。

 

「ロンの人生で一番のモテ期じゃないの?」

 

 ジニーは面白がっていた。やはり妹は妹だ。

 誰も助ける気はないらしい。

 

「そんなこと急に言われても、選べないよ!」

 

 ロンが叫んだ。

 

「今すぐ選ばなくていいよ」

 

 ロメルダは、あっさり答えた。

 

「え?」

 

「でも、あたしが好きってことは覚えといて」

 

「私は、待つとは言っていないわ。今すぐ決めて」

 

 ハーマイオニーが続ける。

 

「どうしろっていうんだよ!」

 

 ロンの声が響いた。

 アルバスとスコーピウスは、そんなロンを見て笑っていた。

 面白がっているというより、全身から力が抜けたような笑顔だった。

 

「やったな、スコーピウス。生きてるよ」

 

 アルバスが言った。

 

「何だよ、急に」

 

「ロン・ウィーズリーが生きてる」

 

 スコーピウスも繰り返した。

 

「しかも、二人から告白されて困ってる」

 

「そこまで言わなくていいだろ!」

 

 ロンは顔を真っ赤にした。

 

 それでも、アルバスとスコーピウスは笑うのをやめなかった。

 二人の世界では、ロンはここで死んでいた。

 

 原稿だけが残り、別の誰かの手で書き換えられた。

 ロンの物語は、闇の帝王の物語を補強するために利用された。

 

「一つのコラムが、そこまで未来を変えるなんて」

 

 ハーマイオニーが呟いた。

 

「僕だって知らなかったよ」

 

 ロンが答える。

 

「ただ、ヘンリー・ポーターはおかしいって書いただけだ」

 

「本は、書いた人の手を離れてからも残るよ」

 

 わたしは、空になった薬瓶を見た。

 

 誰かを救う本にもなる。

 誰かを傷つける本にもなる。

 作者がいなくなれば、別の人に書き換えられてしまうこともある。

 

「原稿を羽ペン通信社以外の出版社に持ち込むのも危険かもしれないね」

 

 ロンの顔が曇った。

 

「じゃあ、出版するのをやめるのか?」

 

「ううん」

 

 むしろ逆だった。

 

 出版社へ持ち込めば、契約を結ぶことになる。

 編集者が直し、経営者が売れる形を決める。

 作者が死んだあと、誰が原稿を扱うかも分からない。

 

「出版社に持ち込む必要なんてないよ」

 

 皆が、わたしを見る。

 

「自分たちで出版しよう」

 

 ロンが瞬きをした。

 

「自分たちで?」

 

「羽ペン通信には、記事を書く人がいる。編集できる人も、印刷方法を考えられる人も、宣伝できる人もいる。出資してくれる人もすぐに見つかるよ。ね、シリウスさん」

 

「俺はいくらでも出すぞ。あのコラムいつも楽しみにしてたんだ」

 

 シリウスは何度も頷いていた。

 

「他人に物語を奪われるくらいなら、わたしたちで守ればいい」

 

 わたしは、ロンへ手を差し出した。

 

「作ればいいんだよ」

 

「何を?」

 

「わたしたちの出版社を!」

 

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