校長室へ戻った時には、全員が一度ずつ階段から転げ落ちたような姿になっていた。
ハリーの眼鏡にはひびが入り、ロンのローブは裾が半分ほど消えている。ハーマイオニーの髪は普段より広がり、ロメルダは焦げた毛先を反対側へ寄せて隠していた。
ダンブルドア先生は机の前を通り過ぎ、ハリーの正面に立った。
「ハリー。まず、君に謝らねばならん」
壁に掛かった歴代校長の肖像画が、そろってこちらを見た。
誰も眠ったふりをしていない。
ハリーは答えなかった。ひび割れた眼鏡の奥から、ダンブルドア先生を見つめている。
「わしは、君がダーズリー家で大切にされておらぬことを知っていた。それでも、君をあの家から移さなかった」
「なぜですか」
「君の母親が残した守りを、血縁へ結び直したからじゃ。ペチュニア・ダーズリーの家を君が自分の家と呼べる限り、ヴォルデモートは君に手を出せなかった」
ハリーの口元がわずかに歪んだ。
「ダーズリー家の人間から守る魔法はなかった」
ダンブルドア先生は目を伏せた。
「その通りじゃ。わしは君を生かすことを優先し、そこで受ける傷を軽く見た」
言い訳を足さなかったのは、たぶん正解だった。
どんな理由があっても、階段下の物置が寝室になるわけではない。
「もう一つ、理由があった」
ダンブルドア先生は続けた。
「君を、名声から遠ざけたかった」
「名声から遠ざけるために、マグルの家へ?」
「有名になることで、人がどれほど簡単に自惚れるか、わしは自分の経験から知っておった。若い頃のわしは、自分の力と賢さを過信した。君にも同じ危険があると恐れたのじゃ」
ハリーは少し考えてから言った。
「僕が傲慢になるかもしれないから、何も知らないまま育てた」
「そうじゃ。そして、その判断は極端だった」
ロンが何か言いたそうに口を開いたが、ハーマイオニーに袖を引かれて閉じた。
おそらく、名声を避けることと部屋を与えないことは別問題だ、と言いたかったのだろう。
わたしもそう思う。
「だが、言うべきことはそれだけではないはずだ」
暖炉の横から、トムが口を挟んだ。
ダンブルドア先生の眉がわずかに動く。
「今、話す必要があるかね」
「ハリーは全て知る必要がある」
トムはハリーへ向き直った。
「君の中には、ヴォルデモートの魂の一部がある」
ハリーの指が額の傷へ触れた。
「呪いが跳ね返った夜、裂けた魂の一部が君に入り込んだ。君は、彼が意図せず作った分霊箱だ」
ロメルダが息を呑んだ。
「そして、僕も彼の分霊箱だ」
トムが言った。
ハリーの手が杖へ伸びる。
「これこれ。彼は味方じゃよ」
ダンブルドア先生が片手を上げた。
「味方?」
ハリーは杖を抜かないまま、トムを睨んだ。
「トムは日記に分けられたヴォルデモートの魂の一部じゃ」
ダンブルドア先生が説明した。
「マインの魔力で独立した肉体を得た」
全員の視線がわたしへ向いた。
「わたしは本を読んでいただけです」
「大体いつも、そこから始まるよな」
ロンが言った。
否定できない。
「ヴォルデモートが僕を殺さなくなったのも、そのためか」
ハリーがトムへ尋ねた。
「そうだ。あの男は途中で、君が自分の魂を宿していると気づいた。殺すより、取り込んだ方が都合がよいと判断した」
「取り込む?」
「君の身体と名声を利用する。自分は表へ出ず、英雄である君を通じて魔法界を動かすつもりだったのだろう」
「だから、僕をヘンリー・ポーターにした」
ハリーの声が低くなる。
「最初は僕を使うつもりだった」
トムは淡々と答えた。
「ダンブルドアに見捨てられた少年が真実を知り、闇の帝王を倒す。そんな英雄を作ろうとしていた。僕が従わなかったため、君に切り替えた」
「自分の魂を持っている人間を、自分を倒す英雄にするの?」
ジニーが顔をしかめた。
「ずいぶん回りくどいわね」
「本人は洗練された計画だと思っていたはずだ」
「面倒くさいな」
ロンの感想は簡潔だった。
世界征服をたくらむ闇の帝王は、もっと大きなことだけを考えているものだと思っていた。
実際には、自分の過去を嫌い、自分の名前を捨て、他人の名前を作り、校長先生の評判を落とすことに熱心だった。
世界より先に、自分の気持ちを整理した方がよい。
「それから、ロメルダ」
トムが低い声で呼んだ。
ロメルダは焦げた髪を指に巻きながら、顔を上げた。
「なに?」
「ヴォルデモートを相手に、二度とあのような煽り方をするな」
「あのようなって?」
「惚れ薬の話だ」
ロメルダは数秒考えた。
「でも、めっちゃ効いてたじゃん」
「効いたから言っている」
トムの声は冷静だったが、目がまったく笑っていなかった。
「命知らずな行動と、勇敢な行動は違う。的外れな侮辱なら、彼は不愉快になるだけだ。だが、的確すぎる侮辱は殺意を招く」
「あれ地雷だったんだ」
「地雷と分かって踏むな」
「分かってなくて踏んじゃった」
ロメルダは唇を尖らせた。
「だって、恋したことない人が世界を征服なんてできるの?」
「その発想を、本人の前で口に出す必要はない」
「でもヴォルたん、マグルの恋愛とか愛とか、めちゃくちゃ嫌ってたじゃん」
「その呼び方もやめろ」
トムの忠告には、珍しく切実さがあった。
ヴォルデモートを目の前にして惚れ薬の話を始めた時、トムは戦闘中より緊張していたのかもしれない。
「リータ・スキーターが書いた記事には事実もあったんだよ。僕は惚れ薬のせいで生まれてきた」
ロメルダはトムの顔をまじまじと見る。
「トム様のお母さんが、マグルの男に惚れ薬を盛って結婚したってやつ。本当だったんだ」
「……事実を元にしている」
「母は僕を孤児院に残して死んだ。父は、僕が生まれたことすら望んでいなかった」
トムの声には何の揺れもなかった。
揺れないように、長い時間をかけて固めた声だった。
ロメルダはようやく髪から手を離した。
「じゃあ、ヴォルたんがマグルを嫌ってるのって、それもあるの?」
「それだけではない」
トムは即座に答えた。
「純血主義は、彼が権力を得るために選んだ思想だ。自分が半純血であることを隠し、他者より上に立つために利用した。だが、父親への憎しみが何の関係もないとは言わない」
「自分を捨てた父親がマグルだったから、マグル全部を嫌いになったんだ」
「彼は、そういう理屈を好む。自分を傷つけた一人を憎むより、その一人が属するすべてを憎んだ方が、自分は被害者でいられる」
ロメルダは眉を寄せた。
「でも、一番悪いのって惚れ薬を盛った方じゃない?」
トムの目が細くなった。
「何が言いたい」
「だって、好きじゃない人を薬で好きにさせたんでしょ。逃げたマグルだけのせいにするの変じゃん」
トムは答えなかった。
ダンブルドア先生が、ひげの奥からロメルダを見ていた。
ロメルダは腕を組み、ようやく話がつながったという顔をした。
「なるほどね。惚れ薬で始まって、捨てられて、愛なんか信用できないってなったんだ。だからあんなに怒ったのか」
「納得して終わるな」
「でも、ヴォルたんにも事情はあったんだね」
「同情する必要はない」
「してないよ」
ロメルダはあっさり言った。
「事情があるのと、他人を殺していいのは別じゃん」
トムが黙った。
「ただ、次に会ったら惚れ薬の話はしない」
「次に会う前提で話すな」
「じゃあ、恋愛経験ないのに愛を語るなっていう方だけにする」
「何一つ理解していないな」
トムが額を押さえた。
ロメルダは理解したつもりだった。
その差が、次にヴォルデモートと会うまでに埋まるとは思えなかった。
「それにしても、ヴォルデモートはなぜダンブルドア先生の過去まで調べたんでしょう」
ハーマイオニーが尋ねた。
「ハリーを操るだけなら、そこまでする必要はありません」
「ロックハートの影響じゃろう」
ダンブルドア先生が答えた。
「ロックハートは事実よりも、人々に何を信じさせるかを重んじる男じゃった」
ロンが納得した顔になる。
「それで闇の帝王が急に出版へ力を入れたのか」
「闇の陣営の広報担当がロックハート先生ってこと?」
ロメルダが言った。
トムが冷たい目を向ける。
「担当部署のように言うな」
「でも、広報は強そうね」
ジニーがつぶやいた。
それは間違いない。
ヴォルデモートは自分の名前を考えるのが好きで、ロックハートは自分の名前を表紙へ載せるのが好きだ。
二人を混ぜれば、評判を気にする闇の帝王が完成する。
混ぜてはいけないものを混ぜた結果として、妙に納得できた。
「あの、先生。ハリーに取らせようとした予言には、何が記録されていたんですか」
ハーマイオニーが話を戻した。
ダンブルドア先生はしばらく黙った後、杖を振った。
机の上に憂いの篩が現れる。銀色の液面から霧が立ち上り、聞き覚えのあるトレローニー先生の声が校長室へ響いた。
『闇の帝王を打ち破る力を持つ者が近づいている』
『七月の終わりに、彼に三度抗った者たちから生まれる』
『闇の帝王はその者を敵と定め、印を刻むだろう』
『されど彼は帝王の知らぬ力を宿す』
ハリーの指が額の傷に触れた。
『印された者は名を奪われ、偽りの英雄となる』
『されど、真の名は失われない』
『真の名が取り戻される時、闇の帝王は打ち倒される』
『それまでは、印された者も、闇の帝王も、真に己として生きることはできない』
霧が憂いの篩へ沈んだ。
「偽りの英雄は、もう終わった。ハリーは自分の名前を取り戻した。ヴォルデモートを倒せてないのはなんでだ?」
トムがハリーを見る。
「まだヘンリー・ポーターの小説が受け入れられているからだ」
「だったら、その物語を訂正しないと」
「ヴォルデモートは本を使ってハリーを英雄にし、ダンブルドア先生を悪人にした。嘘の本が広まったなら、正しい本を出せばいいんだよ」
ロンが不安そうにこちらを見る。
「僕の本、本当に自分たちで出版できるのか?」
「著作権を奪われない形で出すよ」
「そこは絶対に頼む」
先ほどまで予言について話していたのに、急に契約条件の話になった。
けれど、物語を奪われた原因が本なら、本を取り戻すのは重要である。
「編集作業は私がやるわ」
ハーマイオニーが、当然のように手を差し出した。
ロンは原稿を渡さなかった。
「どうしてお前が決めるんだよ」
「あなたの原稿、時系列が三か所入れ替わっているもの。同じ日の月が満月と三日月になっているわ」
「雰囲気を優先したんだよ」
「月に雰囲気で形を変えさせないで」
ロンは渋々、原稿の半分だけを渡した。
残り半分を抱えているあたり、信用はされていない。
「じゃ、あたしは恋の脚注つける」
ロメルダが対抗するように言った。
ハーマイオニーの手が止まった。
「何を付けるの?」
「恋の脚注。本文の下に、小さく解説を入れるの」
ロメルダは原稿を一枚抜き取った。
「たとえば、ハリーがいつからチョウを意識し始めたとか」
「待て。どうしてロンの本に、僕の恋愛の解説が付くんだ?」
「読者が気になるから」
「気にしなくていい!」
「じゃあ、ハーマイオニーはロンの本の編集担当にするね」
わたしは白紙の羊皮紙に、編集担当としてハーマイオニーの名前を書いた。
その下に、ロメルダが勝手に「恋愛監修」と書き加えた。
ハーマイオニーが消した。
ロメルダがもう一度書いた。
出版社はまだ名前すら決まっていなかったが、編集部の争いだけはすでに始まっていた。
「ダンブルドア先生にも、お願いがあります」
わたしは机の上にあった白紙の羊皮紙を取り、ダンブルドア先生の前へ置いた。
「自伝を書きませんか」
「……わしが?」
「はい。ヴォルデモートが過去を勝手に掘り返したので、本人が書いた方が正確です」
「今、この場で勧めることかね」
「今が一番売れます」
校長室の肖像画たちが、そろって身を乗り出した。
フィニアス・ナイジェラスが、小さな声で言った。
「ヴォルデモートは、ダンブルドア先生を陥れようとしています」
わたしは話を戻した。
「過去を掘り返し、都合よく並べ替え、先生をハリーを苦しめた悪人として広めようとした。だったら、本人の声を出せばよいのです」
「わしの言葉だからといって、人々が信じるとは限らんよ」
「信じてもらうために、立派に書く必要はありません。それはロンの『つまり、ハリー・ポッターは本当に英雄なのか?』で証明されました」
ダンブルドア先生の青い目が、少しだけ細くなった。
「わしは、皆が想像するほど素晴らしい人間ではない」
「だからいいんです」
先生のひげを触る手が止まった。
「……そこは普通、否定するところではないかね」
「素晴らしい人間だと書いたら、また偽りの英雄が一人増えます」
ハリーが、わずかに顔を上げた。
わたしは続けた。
「正しかったことも、間違えたことも書けばいいんです。グリンデルバルドのことも、ハリーをダーズリー家に置いたことも、なぜそうしたのかも。その時は正しいと思っていたのなら、そう書けばいい」
「結果として、多くの者を傷つけたとしても?」
「その結果も書きます」
「容赦がないのう」
「本人が書く自伝なのに、本人に都合がよすぎたら信用されません」
ダンブルドア先生は羊皮紙を見下ろした。
「しかし、人は物語に英雄を求めるものじゃ。迷い、失敗し、言い訳をする老人など、読みたいと思うかね」
「わたしは読みたいです」
わたしは即答した。
「ヘンリー・ポーターみたいに、ずっと格好よくある必要はありません」
ハリーが眉を寄せた。
「比較に僕を使わないでくれる?」
「ヘンリーはハリーじゃないよ」
「そうなんだけど、僕は思い出したくもないんだよ」
みんながハリーから目を逸らしている。たしかにあの時のハリーは酷かったと思い出すような顔だった。
ダンブルドア先生の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「わしにも、格好の悪いところを書けと?」
「はい。迷ったところも、逃げたところも、間違いを認めたくなかったところも」
「そこまで正直な物語は人に受け入れられるのかね」
「読者は完璧な人より、間違えた人がその後どうしたかを読みます」
ダンブルドア先生はしばらく黙っていた。
壁の肖像画たちは、聞いていないふりをする気もないらしい。何人かは額縁の端から身を乗り出している。
「自伝を書くとして」
先生がゆっくりと言った。
「誰が編集するのかね」
「わたしです」
わたしが声を上げる。
「事実確認は私がします」
ハーマイオニーがすぐに続いた。
「恋の脚注はあたしが──」
「付けません」
ロメルダの提案は、ハーマイオニーに即座に却下されて最後まで言わせてもらえなかった。
「グリンデルんとのところだけでも」
「付けません」
「読者が一番気になるところじゃん」
「だからこそ、あなたには触らせないわ」
ダンブルドア先生は二人を見比べ、それから羊皮紙へ視線を戻した。
「わしの自伝なのに、すでにわしの発言権が最も弱いようじゃが」
「本人に任せると、美化しますから」
「マイン、まだ書くとは言っておらんよ」
わたしは羊皮紙の一番上に、仮題を書いた。
『アルバス・ダンブルドア──偉大ではなかった男』
ダンブルドア先生の笑みが深まった。
「題名からやり直そうかの」
ダンブルドア先生は断るとは言わなかった。