本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。 作:bookworm
ハグリッドの小屋は、学校の中のどの教室よりも、ずっと生き物の気配がした。
石の床には大きな足跡がいくつもついていて、壁には銅鍋や干した薬草や、何に使うのか分からない革紐がぶら下がっている。暖炉では太い薪がぱちぱち燃えていて、そのそばで、わたしより大きな犬が腹を出して寝ていた。
窓の外には、冬の空と禁じられた森が見える。
ホグワーツの城から少し離れただけなのに、ここだけ別の世界みたいだった。教室でも、図書室でも、談話室でもない。森と城の境目にある、ハグリッドの場所だ。
「まあ、座れ。茶ぁ入れてやる」
ハグリッドはそう言って、わたしの前に大きすぎるマグカップを置いた。
机も椅子も、何もかもが大きい。マグカップですら、わたしが両手で持たないと危ないくらいだった。
そして、その中のお茶は、とても濃かった。
濃い、というより、森の奥に生えている何かを煮詰めた味がする。
「でっかい生き物はな、根は悪くねえんだ」
ハグリッドはそう言って、わたしの前に岩みたいなビスケットを置いた。
「ただ、扱い方を間違えると大変なだけでよ」
「それは本も同じですね」
「本?」
「禁書も根は悪くないんですよ。扱い方を間違えると大変なだけで」
「いや、そいつはたぶん違うと思うぞ」
ハグリッドに真顔で否定された。納得がいかない。
暖炉の火がぱちぱちと鳴っている。小屋の中は暖かく、外では冷たい風が吹いていた。ハグリッドは時々、窓の外を気にしている。禁じられた森の方ではなく、学校の外れの方だ。
それに、さっきから妙にそわそわしている。
「ハグリッド先生、何か待ってんですか?」
「ん? いや、別に、何も待っちゃいねえ」
嘘が下手だった。
ハグリッドは大きな手でマグカップを持ち上げた。その手の甲に、赤く腫れた跡がある。
「手、どうしたんですか?」
「ああ、こりゃ何でもねえ。ちょっとな。火ぃ吹くやつに近づきすぎて──」
そこで、ハグリッドがぴたりと止まった。
わたしも止まった。
火を吹くやつ。
「火を吹くやつ?」
「いや、違う。火じゃねえ。いや、火だけども。暖炉だ。暖炉でちょっとな」
「暖炉に近づきすぎて、手の甲だけそんなふうに火傷するんですか?」
「する時はする」
「そうなんですね」
わたしは紅茶を一口飲んだ。
渋い。苦い。
ハグリッドはごほんと咳払いした。
「とにかく、でっかい生き物ってのは、見た目で怖がられがちだが、ちゃんと分かってやれば──」
「はい」
「ドラゴンだって、卵を守ってる時以外はな、むやみに暴れるわけじゃ──」
ハグリッドがまた止まった。
小屋の中が静かになった。
暖炉の薪が、ぱちん、と音を立てた。
「……最近ドラゴンと会う機会があったんですか?」
わたしが言うと、ハグリッドはものすごく不自然にマグカップを置いた。
「俺ぁ、ドラゴンなんて言ってねえ」
「言っていましたよ」
「言ってねえ」
「今、ドラゴンだって、卵を守ってる時以外は、って」
「言ってねえ」
「わたしの耳が勝手にドラゴンを生み出した可能性もあるけど」
「そうだ。それだ」
「ないですよ」
ハグリッドは困り果てた顔で、髭をわしゃわしゃとかいた。
「マイン、いいか。今のは、その、一般論だ」
「一般論」
「そうだ。でっかい生き物の一般論だ。俺ぁ何も、第一の課題がドラゴンだなんて言っちゃいねえ」
わたしは瞬きした。
第一の課題。
ハグリッドの火傷。
なるほど。
「第一の課題は、ドラゴンなんですね?」
「違う! いや、違わねえかもしれねえが、違う! 俺ぁ言ってねえ!」
「言っていました!」
「言ってねえ!」
ハグリッドの声は大きい。けれど、怖くはなかった。むしろ、困っている大型犬みたいだった。
「ハグリッド先生」
「何だ」
「今の、ハリーには言いましたか?」
ハグリッドの顔が、急にしゅんとした。
大きな体が、少しだけ小さく見えた。
「……あいつはまだ子どもだ」
それだけで、だいたい分かってしまった。
ハグリッドは課題の内容を漏らしたいわけじゃない。規則を破りたいわけでもない。ただ、ハリーが心配なのだ。
危ない生き物が大好きで、たぶんドラゴンを見たら目を輝かせる人なのに、それでも、ハリーが傷つくのは嫌なのだ。
「わたし、ハグリッド先生から聞いたって言いません」
「本当か?」
「先生は一般論としてドラゴンと卵の話をしただけ。第一の課題とは一言も結びつけてないです」
「そうだ。そうだぞ」
「わたしはその一般論をもとに、危険な大型火炎生物への対処法を調べます」
ハグリッドは少しだけほっとした顔をした。
「勉強は悪くねえ。一般論ならな」
「一般論なら」
便利な言葉だ。
わたしは心の中で、魔法書研究会の議題を一つ増やした。
第一の課題対策。
ただし、表向きは「大型危険生物に関する読書会」である。
*
その日の放課後、図書室の隅に集まった魔法書研究会で、わたしは席に着いてすぐにこう言った。
「ドラゴンについての勉強会をしたい」
ハリーが固まった。ドラコが警戒するように眉をひそめる。
アストリアは静かに本を閉じ、アーニーは羊皮紙を取り出し、パドマはすでに見出しを考えている顔になった。ルーナだけが落ち着いた顔で「ドラゴンの夢を見た日の朝食は焦げやすいんだよ」と言った。
「待て」
ドラコが低い声で言った。
「今度は何をした」
「何もしてないよ」
「お前の何もしていないは信用できない」
「本当に何もしてないよ。ハグリッドとお茶を飲んだだけ」
「それを何もしていないに分類するな。変なものは食ってないだろうな? あいつまたドラゴンの卵を育てていたのか?」
ドラコは本気で嫌そうだった。
ハーマイオニーが身を乗り出した。
「マイン、第一の課題はドラゴンなのね?」
ドラコがハーマイオニーの意見に「ああ、なんだ」と少し安心したように息を吐いた。
「お兄さまはどういうことだと思ったの?」
「お前が今度はドラゴンを飼おうとしているのかと」
「飼わないよ!」
ロンが「信じないぞ」と言わんばかりに目を細めた。
「さすがのマインも飼わないわよ。ねえ、どこで知ったの?」
「とある筋から得た情報だけど、情報元は言えない」
「今の流れだとハグリッドね」
パドマが即座に断定した。
「たぶん、ドラゴンの卵を取らされるんだと思う」
ハリーの顔が青くなった。
「卵?」
「うん。卵」
「ドラゴンの卵を取ってこいってことかよ?」
ロンが両手で頭を抱えた。
「何だよそれ、死ねって言ってるのと同じじゃないか!」
ハリーは黙っていた。
その沈黙が、逆に怖かった。
何も知らないままよりはましだと思う。けれど、知ったら知ったで、怖いものは怖い。
「僕、ドラゴンと戦ったことない」
「普通はないわよ」
ハーマイオニーが即答した。
「丸腰で戦う必要はないだろ」
ドラコが言った。
みんながドラコを見る。
ドラコは嫌そうに顔をしかめた。
「ハリーの唯一まともな長所を使えばいい」
「唯一まともって何だよ」
「箒だ」
ハリーが少しだけ顔を上げた。
「箒?」
「お前は飛ぶことだけはうまい。ドラゴンを倒す必要がないなら、空中で注意を引いて、卵から離れさせればいい」
「箒を使えるかしら」
ハーマイオニーがすぐに考え込んだ。
「競技場内に最初から持ち込めないなら、召喚すればいいわ。ハリー、アクシオの練習をしましょう」
「今日から?」
「今から」
ハリーの顔がさらに青くなった。
わたしは積んできた本を机に置いた。
『英国における竜種概論』
『火炎耐性呪文の基礎』
『鱗と魔法抵抗』
『巣を守る生物の行動パターン』
『危険生物と距離を取るための十二の心得』
「ドラゴンは魔法抵抗が高いから、正面から呪文でどうにかするのは難しいと思う。だから、倒すより逃げる。卵を取るなら、速さと注意そらし」
「まともなことを言っているのに、本の選び方が怖い」
ドラコが言った。
アーニーが真剣な顔で手を挙げた。
「別案として、ドラゴンを説得するのは?」
「ハリーは蛇語は話せるけど、ドラゴン語は分からないよ」
「ドラゴン語にも方言があるかもしれないわ」
ルーナが首を傾げる。
「それ以前にドラゴン語ってあるの?」
ロンが疲れた声で言った。
そこで、わたしは少し考えた。
「じゃあ、蛇を出して注意をそらすのは?」
「やめろ」
ドラコが即答した。
「まだ何も言ってないよ」
「分かる。お前の言う蛇は、きっと普通の蛇じゃない」
ハーマイオニーも厳しい顔で言った。
「バジリスクは出しません」
「バジリスクとは言ってないよ!」
「顔に書いてあるわ」
ひどい。
ハリーが恐る恐る言った。
「そもそも僕、バジリスクは召喚できないと思う」
「できなくていい!」
ロンが叫んだ。
パドマが羊皮紙に書き込む。
「議事録には『バジリスク案、満場一致で却下』と記録しておくわ」
「満場一致ではないよ。わたしはまだ可能性を」
「満場一致で却下」
ドラコが強引に言った。
それだけで、少し空気が引き締まった。
そこからは早かった。
ハーマイオニーは召喚呪文の練習計画を書き始めた。
アストリアは竜種ごとの資料を開いた。
アーニーは「誰がハリーを代表にしたのか」という欄を作っている。
パドマは記事にしない記事の見出しを三つ考えている。
ルーナは「ドラゴンに好かれる靴下の色」について真面目に考えている。
ロンはまだ青い顔をしていたけれど、ハリーの隣に座ったまま動かなかった。
わたしはそれを見て、少しだけ安心した。
ハリーは一人でドラゴンの前に立つことになる。
でも、そこに至るまでの本は、一人で読む必要はない。
わたしは羽根ペンを持って、今日の議題を書いた。
『大型火炎生物から卵を取って生きて帰る方法』
それから数日、図書室の机は戦場になった。
ハリーは召喚呪文の練習で疲れ果て、ロンはドラゴンの絵を見るたびに顔色を悪くし、ハーマイオニーは練習計画と資料整理を同時に進めていた。ドラコは文句を言いながら、なぜか一番冷静に危険な案を切り捨てている。
わたしは、読むべき本を積んだ。
竜種。
競技魔法。
契約魔法。
三大魔法学校対抗試合の歴史。
炎のゴブレットの選出原理。
ハリーを代表にした誰かの意図。
全部、調べなければいけない。
問題は、時間だった。
本はたくさんある。必要なこともたくさんある。けれど、一日は二十四時間しかない。しかも授業も食事も睡眠もある。
おかしい。
本を読むには、一日が短すぎる。
そんなことを考えていた週のマグル学で、バーベッジ先生は黒板に箱のような絵をいくつも描いた。
洗濯機。
冷蔵庫。
掃除機。
わたしは、それらを見た瞬間、思わず懐かしい気持ちになった。
知っている。
前世で、当たり前のように家にあったものだ。
洗濯機が回る音。冷蔵庫の低い振動音。掃除機のうるさい音。炊飯器から立つ湯気。
どれも、魔法ではなかった。
でも、魔法みたいに便利だった。
もちろん、それを顔に出してはいけない。
ローゼマイン・マルフォイは、純血の魔法使いの家の子である。
洗濯機を見て懐かしむ魔法族は、かなりおかしい。
わたしは羽根ペンを持ち、初めて見ました、という顔で黒板を見つめた。
「これは洗濯機です」
バーベッジ先生が、丸い窓のついた箱を指した。
「マグルは、衣服を洗うときに魔法を使えません。ですから、水と洗剤を入れ、この機械を動かして衣服を洗います」
教室の純血の生徒の何人かが、信じられないという顔をした。
「スコージファイで済むのに?」
誰かが小さくつぶやく。
バーベッジ先生はにこやかに言った。
「マグルはスコージファイを使えません」
教室が、少し静かになった。
マグルは魔法を使えない。
だから、汚れた服を一瞬で綺麗にすることもできない。水を出すにも、火をつけるにも、食べ物を冷やすにも、全部、魔法以外の方法を考えなければならない。
でも、わたしは知っている。
魔法がないから不便なのではない。
魔法がないから、道具が発展したのだ。
「これは冷蔵庫です。中を冷たく保ち、食べ物を長く保存します」
冷蔵庫。
食べ物を保存する箱。
わたしは真面目な顔で書いた。
冷蔵庫=低温で食品を保存する家電。
思わず、野菜室、冷凍室、チルド室、と書きそうになって手を止める。
危ない。
わたしがチルド室を知っていてはいけない気がする。
ルーナがのぞき込んだ。
「マイン、何か書きかけた?」
「書いてないよ」
「冷蔵庫の中に、部屋があると思った?」
「……マグルの箱なら、部屋があってもおかしくないかなって」
「素敵ね。食べ物のための小さな寮みたい」
「それはちょっとかわいいね」
冷蔵庫の中の食べ物寮。
組み分け帽子がいたら、肉は冷凍室、野菜は野菜室、プリンは最上段に組分けるんだろうか。
「次に、これは掃除機です」
バーベッジ先生は、細長い棒のついた道具を指した。
「床のほこりやごみを吸い取ります」
前世の記憶の中で、ぶおおお、という音がした。
吸引力。
紙パック式。
サイクロン式。
コードレス。
ロボット掃除機。
駄目だ。
知っている単語が多すぎる。
知らないふりは難しい。
本を読んでいないふりより難しい。
「マグルの家電製品は、生活の手間を減らすために発展してきました」
バーベッジ先生は黒板に大きく書いた。
手間を減らす。
「洗濯機は洗濯の手間を減らします。冷蔵庫は食材管理を助けます。掃除機は掃除を効率化します。つまり、家電は生活の時間と労力を節約する道具なのです」
時間と労力を節約する道具。
わたしはその言葉に線を引いた。
魔法を使えない人たちが、生活を少しでも楽にするために作った道具。
前世では当たり前すぎて、深く考えたことがなかった。
でも魔法界で改めて聞くと、家電はかなりすごい。
マグルは、魔法がないから弱いのではない。
魔法がないところを、知恵と道具で埋めている。
それは、本当にすごいことだった。
「ただし」
バーベッジ先生は、少し声を強めた。
「家電は、時間を“増やす”道具ではありません。手間を減らし、生活を整える道具です」
わたしは羽根ペンを止めた。
時間を増やす道具ではない。どこかで聞いた覚えがある。
「浮いた時間で、さらに無理をし続ければ、結局は疲れてしまいます。便利な道具は、人を休ませるためにも使われるべきです」
わたしは真面目に書いた。
家電=手間を減らす道具。
時間を増やす道具ではない。
浮いた時間で休むことも大事。
なるほど。
とても大事な話だ。
わたしはしっかりうなずいた。
その横に、小さく書き足した。
ただし、浮いた時間で必要な本を読むのも大事。
ルーナが見た。
「マイン、その“ただし”は、あまり休む気がなさそう」
「必要な本だから」
「洗濯機も、洗濯が終わったあとにまた洗濯物を入れられ続けたら大変ね」
「洗濯機は怒るかな」
「きっと、がたがた揺れるわ」
少し想像した。
働かされすぎて、がたがた揺れる洗濯機。
なんだか他人事ではない。
「では、ここで問題です」
バーベッジ先生は、黒板に描かれた家電の絵を順番に指した。
「これらのマグルの道具には、ある共通点があります。それは何でしょう?」
答えは、すぐに分かった。
電気だ。
全部、電気で動く。
前世では当たり前すぎて、考えたこともなかった。コンセントに差す。スイッチを押す。音がする。熱が出る。冷える。回る。吸う。
魔法ではない。
でも、見方によっては、かなり魔法に近い。
「今日の課題は、家電製品を一つ選び、それがマグルの生活をどのように変えたかを説明することです。便利さだけでなく、使いすぎや頼りすぎによる問題も考えてみましょう」
家電の説明。
わたしはすぐに題名を書いた。
『洗濯機と清掃呪文の比較』
これは面白そうだ。
洗濯機は、魔法が使えないマグルが衣服を清潔に保つための道具である。
スコージファイは便利だが、魔法が使えない人には使えない。つまり、洗濯機はマグルにとって生活を支える重要な道具であり、魔法界における清掃呪文に近い役割を持つ。
すらすら書けた。
『便利な道具は、人を休ませるためにも使われるべきです』
バーベッジ先生の言葉が、頭の端に残っていた。
とても大事な話だと思った。
思った。
思ったのだけれど。
タイムターナーは、授業のために使うものだ。
先生たちも、そう説明していた。
わたしも、一応、そう思っていた。
わたしの時間割で、どうしても授業が重なっているのは月曜日と木曜日だけだった。
その二日は、朝から夕方まで授業がぎっしり時間を戻さないと受けられないくらい詰まっている。普通なら片方を諦めるしかない時間に、別の授業が入っている。
だから、タイムターナーを使う。
授業を受ける。
昼食を食べる。
時間を戻す。
もう一つの授業を受ける。
かなり大変だけれど、これは必要なことだ。
問題は、火曜日と水曜日と土曜日と日曜日だった。
その日は、授業が重なっていない。
つまり、本来ならタイムターナーを使う必要はない。
ない。
ないのだけど。
ハリーの第一の課題は、たぶんドラゴンである。
炎のゴブレットの契約魔法も調べなければならない。
フェルディナンド先輩が言っていた「名」と「契約」の関係も気になる。
家電は時間を増やす道具ではない、とバーベッジ先生は言っていた。
けれど、タイムターナーはどうだろう。
タイムターナーは、実際に時間を戻せる。
授業のために時間を戻せるなら、授業のための読書にも少しだけ戻していいのではないか。
少しだけ。
一時間だけ。
必要な箇所だけ。
そう思って、一度戻した。
成功した。
その日は、とてもよく読めた。
翌日も戻した。
やはり、とてもよく読めた。
さらに次の日も戻した。
読めた。
読める。
すごい。
タイムターナーは、時間を増やせる。
時間が増えれば、本が読める。
本が読めれば、知識が増える。
知識が増えれば、ハリーの第一の課題の助けにもなる。
完璧だ。
完璧すぎて、何かを見落としている気もした。
でも、見落としている何かより、目の前の本の方がはっきり見えていた。
図書室の文字が揺れていた。
最初は、本が古いからだと思った。
古い本のインクは、少しにじむことがある。羊皮紙が湿気を吸って、文字の輪郭がぼやけることもある。だから、目の前の文字が二重に見えるのも、本のせいだと思った。
そんなわけがない。
でも、本を読んでいるときのわたしは、だいたい本に都合よく考える。
「この章だけ……」
わたしは小さくつぶやいた。
机の上には、五冊の本が開かれている。
『三大魔法学校対抗試合の歴史』
『危険生物と競技魔法』
『ドラゴンの対処法』
『炎のゴブレットと魔法契約』
どれも大事だ。
ハリーが勝手に代表選手にされた理由。
ドラゴンにどう対処すべきか。
全部、調べなければいけない。
もちろん、面白いから読んでいるわけではない。
ハリーのためでもある。
たぶん。
ページをめくる。
文字が揺れる。
目をこする。
少し寒い。
少し頭が重い。
少し体がだるい。
少しだけなら、大丈夫だ。
わたしは次の段落に目を落とした。
炎のゴブレットは、名前を通じて代表選手を選出する。ただし、名は単なる記号ではない。魔法契約において名は、意思、所属、血統、責任の一部を担う。
これは面白い。
ハリーの名前を誰かが入れたなら、契約主体は誰になるのだろう。
ハリー本人なのか。
名前を入れた誰かなのか。
炎のゴブレットを騙した者なのか。
あるいは、存在しない学校として登録された何かが責任を負うのか。
もっと読みたい。
わたしは羽根ペンを取ろうとした。
指先が、うまく動かなかった。
「あれ?」
変だ。
机が少し遠い。
いや、近い。
近づいてくる。
違う。
わたしが落ちている。
羽根ペンが床に転がった。
羊皮紙が滑り落ちた。
本のページが、ぱらぱらと勝手にめくれた。
まずい。
本が。
本が汚れる。
そう思ったのを最後に、世界が暗転した。
わたしの体を誰かが受け止めた。
*
薬草とシーツの匂いがする。
わたしは生きている。
よかった。
本は無事だろうか。
体を起こそうとした瞬間、横から低い声が降ってきた。
「動くな」
動けなかった。
声が怖かったからではない。
視線だけをそろそろ横に向ける。
椅子に、フェルディナンド先輩が座っていた。
膝の上に本を置いている。読んでいたらしい。けれど、わたしが目を覚ました瞬間、本を閉じた。
顔が怖い。
冷たいというより、完全に説教をする顔だ。
「……おはようございます?」
「夕方だ」
「おそようございます」
「ふざける余裕はあるらしいな」
第一声を間違えた。
「ここは医務室ですか?」
「見れば分かる」
「どうして先輩が?」
「君が図書室で倒れたからだ」
「本は」
「君はまず自分の心配をしろ」
正論だった。
でも本も大事だ。
「……本は無事だ」
「ありがとうございます」
フェルディナンド先輩は少しだけ目を細めた。
「礼を言うなら、まず休め」
「あの、お礼として大事な情報があります」
「大事な情報?」
「はい。第一の課題についてです」
フェルディナンド先輩の眉が、ほんの少し動いた。
「……ドラゴンだろう」
「気づいていたんですか?」
「代表選手が情報収集をしないと思っていたのか?」
「いえ、思っていませんけど」
「では、君が医務室で倒れながら得意げに差し出すほど新しい情報ではない。君は過労で倒れた」
「過労、ですか?」
わたしは瞬きした。
「わたし、働いていません」
「言い換えよう。読書の読みすぎだ」
「読書は労働ではありません」
「だから余計に悪い」
即答された。
ひどい。
でも、反論しにくい。
「ポンフリー先生の診断は、睡眠不足と過労だ。食事量も足りていない」
「食事はしっかり食べています」
「量が足りていない」
「本を読んでいると、食べる時間が」
「それが駄目だと言っている」
正論が連続で飛んでくる。
事実は時々、人を殴る。
今日はかなり殴ってくる。
フェルディナンド先輩の視線が、わたしの首元に落ちた。
そこには、襟元から少しだけタイムターナーの鎖がのぞいていた。
倒れたときに、ずれて見えてしまったらしい。
フェルディナンド先輩は、静かに言った。
「タイムターナーを使っているのか?」
わたしは布団を少し引き上げた。
「黙っているということは、使っているのだな」
「質問の仕方がずるいです」
フェルディナンド先輩は、椅子の横に置いていた羊皮紙を手に取った。
わたしの時間割だった。
「それ、どこから」
「君の鞄だ」
「見たんですか」
「明らかに一日分の授業で使う教科書の重さではなかったから、中を見させてもらった」
先輩は時間割に目を落とした。
「月曜、木曜。この二日は授業が重なっている。タイムターナーを使う必要はある」
「はい」
「だが、それ以外は重なっていない。土日も同じだ」
「はい」
「そこで何をしていた」
「……本を」
「読んでいたな」
「はい」
フェルディナンド先輩は深く息を吐いた。
怒っている。
これはかなり怒っている。
「君は、時間を戻せば体力まで戻ると思っているのか」
「思ってはいません」
「ではなぜ使った」
「時間が増えたら、本が読めるので」
「体力は減る」
「はい」
「睡眠時間も減る」
「はい」
「ではなぜ使った」
「本が読めるので」
医務室に、冷えた沈黙が流れた。
たぶん冬の湖に落ちた方が、まだ言い訳を聞いてくれそうだ。
「君は馬鹿なのか?」
「本に関しては、少し」
「自覚があるなら直せ」
「努力します」
フェルディナンド先輩は、時間割を指で叩いた。
「授業が被っていない日は、読書のために戻るな」
「えっ、どういう意味ですか?」
「寝るために戻れ」
「寝る」
「そうだ」
フェルディナンド先輩は、当然のように言った。
「時間を巻き戻した分、長く休んで寝るためだけに時間を巻き戻せ」
「……寝るために、時間を戻すんですか? それって、大丈夫なんですか?」
「寝るだけなら時間に干渉することはない。最初は寮のベッドで寝て、二回目は医務室で寝ればいい」
時間を増やして本を読むのではなく、時間を増やして寝る。
ものすごく贅沢な気がする。しかも少しもわくわくしない。
「せっかく時間が増えるのに、寝るだけなんて」
「倒れる方が無駄だ」
「本が読めませんもんね」
「そういう問題ではないが、君にはそれが一番通じるのだろうな」
フェルディナンド先輩は、疲れた顔をした。
わたしは、ふとマグル学の授業を思い出した。
家電は、時間を増やす道具ではありません。
便利な道具は、人を休ませるためにも使われるべきです。
バーベッジ先生は正しかった。
そして、わたしは洗濯機よりひどかった。
がたがた揺れる前に倒れたのだから。
「先輩」
「何だ」
「さっき、図書室で助けてくれましたよね」
「ああ」
「どうして、あそこにいたんですか?」
フェルディナンド先輩は、少しだけ黙った。
本当に、少しだけ。
それから、何でもないように言った。
「用があった」
「図書室に?」
「そうだ」
「わたしの机の近くに?」
「結果的にはな」
「偶然ですか?」
「君は、偶然でなければ何だと思う」
聞き返された。
そう言われると、分からない。
でも、少しだけ変な気がした。
フェルディナンド先輩は、もう一度本を開いた。
「今は考えるな。寝ろ」
「本は」
「寝ろ」
「……はい」
わたしは布団の中に沈んだ。
時間を増やして寝る。
そんな使い方、前世の家電にもなかった気がする。
でも、目を閉じると、思っていたよりずっと体が重かった。
朝起きてから、わたしはフェルディナンド先輩のアドバイスを思い出し、タイムターナーを使って二度寝をした。
その日は泥のように深く眠ることができた。