酒に潰れた千早愛音と事務員長崎そよの話です

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LOTUS - DIR EN GREY


象の墓場

 命って短くて呆気のないものなんだなあ、と思春期の子供のようなことを初めて実感したのは、バンドが解散した時のことだ。その時、私は二十三歳になったばかりだった。

 音楽活動を続けたけど、在学中にプロデビューだなんて御伽話はそう簡単に転がり込んでくるわけもなく、将来のことを考えて、私たちはそれぞれの道へと歩きはじめた。昔見ていた子供向けアニメの最終回で、悪役三人組が解散を決め、三本に枝分かれした道を歩み始めるシーンを思い出した。そのあと結局道は合流して三人は再び出会ってしまうことが示唆されるという一種のギャグシーンに昇華されていたけど、その三人の背中の小ささがとても印象的だったのを覚えている。

 

 大学を卒業したあと、私は大手出版会社の営業アシスタントに就いた。社会人になったら、生活に追われる激動の人生が幕を開けるのかと戦慄していたがそんなことはなく、学生時代より少し忙しくなった程度で、身体も心も、あの頃と何ら変わらず、日に日に増えていく責任を落とさないようにすることに全神経を注ぐ、世知辛い人生を歩んでいる。

 毎週金曜日、私の直属の上司にして、コンビを組んでいる先輩は取引先との飲み会に出かける。齢三十五、結婚適齢期を過ぎたと電子タバコを吸いながらあっけらかんと笑う女傑は、いつも律儀に私をその飲み会に誘う。大人数の場が苦手な私はいつも何かしらの理由をつけては出席せず、しかし印象が悪くならないようごく稀に参加し、一時間程度でフェードアウトして帰路に着く。

「長崎、今日は来る?」

「はい。皆さんがよろしければ、ぜひ」

 今日は、そのごく稀な日だ。

 流石に二ヶ月も飲み会に参加しないのは先輩の顔が立たないし、先輩もそろそろ眉を顰め始める頃だ。

「安心しなさいな。女五人、男二人。それに男組のうちの片割れは新婚ホヤホヤで、もう一人は下戸だから」

 先輩はどうやら私が飲み会に参加しないのを男嫌いだからだと推測しているらしい。理由としては多少それもあるが、単純に飲み会が合わないだけなんです。だなんて口が裂けても自分からは言えないので、穏やかな笑みを浮かべて頼りにしてますと、猫撫で声で返事をする。

 

 飲み会の場所は、私たちが勤める本社から歩いて二十分程度の創作料理屋。私がこの会社で参加した会の中では、かなり高級志向な店だ。

 つつがなく、取引先への感謝の言葉を口にし、乾杯の音頭を取る先輩。私はモスコミュールのグラスを乾杯と控えめな声で言う。隣の席になった女性に、最近話題になった俳優のスキャンダルの話題を振り掛けられて、適当な相槌を浮かべながらサラダにフォークを伸ばすと、私たちの席に、一人の若い女性が遅れて馳せ参じた。

「遅くなってすみません!片付けに時間かかちゃって…」

 その女性の名前を、私は知っている。

 どうせ遠くない未来、どこかで顔を合わせる。そう直感していた人。長髪だった朱鷺色は、肩に届くぐらいの短さになっていた。走ってきたからか、髪はボサボサで、汗で首筋にへばりついてしまっている。大学時代と同じ黒縁の眼鏡をかけている千早愛音は、ぺこぺことみんなに頭を下げ続ける。

「いえいえ、気にしないでください。お待ちしてました、千早さん。席は私の隣になりますが、よろしいでしょうか?」

 一回りも離れている若輩者にも、先輩は言葉遣いを乱さない。スマートに自分の隣の席へと促し、立ち上がった瞬間にドリンクを聞く。

「あ、ありがとうございます。じゃあカシスオレンジで」

「はい。すみません、カシスオレンジを一つお願いします。あとお冷と手拭きも一つずつ」

 先輩が通りがかった店員に注文をしている間に彼女は席につく。座って改めて周りを見渡したところで、ようやく私の存在に気がついたらしい。

「あ、え、えっ」

 目に見えて動揺した彼女に視線は集まる。視線を感じた愛音ちゃんは恥ずかしそうに俯き、落ち着きなく眼鏡を正す。

 ああ、これは。

 この娘、またやってるな。

 彼女の様子を見て、なんとなく状況を察した。

「長崎さん、千早さんとお知り合いですか?」

 そう聞く新婚ホヤホヤの男性に、私は頷いた。

「はい、大学の同級生です。顔見知り程度ですけど」

 私の言葉に、愛音ちゃんはまた動揺する。馬鹿、せっかくフォローしたんだから合わせなさいよ。つま先で彼女のスネをコツンとつつく。

「あ、は、はい。そうなんです。ひ、久しぶりだね長崎さん」

「久しぶり千早さん。元気そうでよかった」

 それぞれの席に乱立した立場同士の酒の席に花咲く同級生トーク。一言二言だけなのに、みんなはやけに盛り上がった。興味津々な視線を感じた私は、雑な質問が投げつけられるより前に、笑顔を取り繕って今日一番の声を上げる。

「みなさんグラスが空く前に二杯目はいかがですか?」

 

 その後、その席で私は愛音ちゃんに関する質問が来そうになる度にはぐらかした。普段の私ではしない下世話な話。話題のニュース。先輩へのヨイショ。先日とった長期休暇で行った京都旅行の土産話。日頃動かしてない舌が筋肉痛で感覚が無くなりそうになった頃に、お開きとなった。社会人になって初めて、飲み会にフルで参加した。こんなにも疲れるものなのかとため息をついてしまった。

「長崎、二次会はどうする?」

 頬が少し赤くなってきた先輩の誘いに、バツが悪い表情を作って小さく頭を下げる。

「すみません、少し飲み過ぎちゃったみたいで…」

「あー、確かに長崎にしては珍しく飲んでたもんなー」

 これ以上はコンプラ違反になっちゃいます、なんて一本みんなからの笑いを取って、先輩は私に手を振った。

「じゃあウチの長崎はここまでなんで、部下の分までたくさん飲みますかー!」

「申し訳ありません。また機会があれば是非ご一緒したいです」

「皆様はどうされますか?」

 新婚ホヤホヤの男性社員と愛音ちゃんが手を挙げて頭を下げる。新婚ホヤホヤの男性社員は古臭い手振りで、人差し指で頭の上にツノを作る。愛音ちゃんはというと。

「ごめんなさい…私も飲み過ぎちゃって」

 私と同じ理由。これは抜け出す理由が思いつかなかったと見た。

 新婚男性社員は二次会メンバーと途中まで行く先が同じとのことでその場で別れ、みんなの姿が見えなくなるまで手を振り続ける愛音ちゃんを置いて私もその場を後にした。一通のメールを送って。

 

『あとでここに来て』

 

 コンビニ前の手すりに腰掛けた私の元に、彼女はまたしても走ってきたらしい。

「アルコール摂取した後の運動は体に毒だよ」

 肩で息をする愛音ちゃんにミネラルウォーターを差し出す。

「改めて久しぶり」

「久しぶりそよりん……えと、さっきは、どうも…」

 髪型が変わって、たまにコンタクトをつけ忘れた時にかけてる眼鏡の姿を見て大人びたと思ったが、特徴的な八重歯を見せてバツが悪そうに笑う彼女は、私と同じで、あの頃となんら変わっていないように見えた。

「……で、今の会社ではどんなキャラで通ってるの」

「キャラって、普通にあるがままの私だよ!」

「それにしては、随分と印象が違った。大人しそう」

 先の席で、ちらっと愛音ちゃんの様子を見たが、酒は注文するだけで全く進んでいなかったし、常に目配せをしては、誰が見てもわかる愛想笑いを振りまいていた。それは私の知っている千早愛音の姿からは遠いように思えた。あの時の、人の都合より自分の都合。台風の目のように勝手に人を巻き込んでいた学生時代よりも萎んでしまっているように見えた。

「知らないうちに転職して、二社目でも上手くいってない感じ?」

「そ、そんなことない……と、思う…」

 私の言葉がよっぽど刺さったのか、顔を俯かせる。更に萎んでしまって、皺皺の風船だったゴムのようになってしまっている。

「…このあと時間ある?」

「ある…」

「明日は?」

「休み…一ヶ月ぶりの完全休日」

 そう答える彼女の目は、ひどく遠くを見つめていた。

「もしよかったら、一杯飲みに行く?」

 社会人になって、初めて人を飲みに誘った。

 

 場所は大衆居酒屋だ。先ほどの創作料理屋とは違い、喧騒に満ちた狭い店に二人で向かい合って席に着く。

 それぞれ注文したブルドッグとレゲエパンチのグラスを合わせた音は、喧騒に飲み込まれて跡形もなく消えてしまった。

「で、どうしてあんな弱りきった小型犬みたいなキャラになってるの?」

「……えーと、ね」

「自己紹介で失敗したわけじゃなさそうね」

「そんな高校デビューみたいなことしてないってば!」

 まあ高校デビューはしてたじゃん。胸の内でツッコミをし、そして愛音ちゃんが社内であのキャラになっている理由を推測しながらブルドッグに口をつける。

「仕事させてくれないんだよね、今」

 もう飲み終えたらしく空のグラスに残った氷をカラカラと弄りながら呟く。

「仕事させてもらえないって?」

「ずっと雑用させられてる」

「最初は誰だってそうでしょ、どの業界も」

「まあ、それはそうなんだけどね」

 彼女の性格上、やりたいことができないことにヤキモキを抱くのはごく自然なことだ。これが仕事ではなくバイトなら、今頃とっくに辞めてるだろう。

「ただね、雑用の合間に私のデザイン案とか先輩に見せてたりしてるの」

「ふーん。答えは?」

「ボロッボロ。厳しい言葉じゃなくて優しくやんわりとダメなところを伝えてくるから、それが逆に心にくる」

 きっと愛音ちゃんからしてみれば、その言葉は切れ味の良いナイフが、骨に掠ることもなく、綺麗にゆっくりと肌から心臓に突き刺されている感覚なのだろう。

「三ヶ月もそんな言葉聞き続けると、だんだん自分に才能がないんだなって思えてきちゃって。かといって、こんな短い間にまた辞めるわけにもいかないしで……それでだんだん不安になってきて、今に至ってる」

 なんともありふれた悩み話だ。要約するにモチベーションの著しい低下と、積もり始めた責任の重さに雁字搦めになってしまっている。

 彼女は過去の、いってしまえば陽の立場にいた自分を、私の口から少しでも情報が出てしまうことを危惧したのだと私はあの場でにらんだ。彼女の性格上、一度不安が押し寄せるととことん流されるがままになり、悪い未来予想図をどんどん描いてしまい、そしてリセットしようとする。

 恐らく、怖かったのだろう。過去の自分が、高いヒエラルキーにいただけだと周りに思われることが。そして彼女自身もまた、そんな今の自分の姿を過去の自分と比較してしまうことが恐ろしかったのだろう。

 まったく。どこまでも、世話のかかる。

「なんか、失望した」

「え?」

「そんなこと気にするんだ、愛音ちゃん」

 私は心底がっかりした、とわざとオーバーにため息を吐いた。ジンバックを注文し、ドリンク来る間、愛音ちゃんの目をじっと見つめた。

「そんなこと悩んでも意味ないって、マイゴで痛感したんじゃなかったの?」

「それは、そうだけど」

「愛音ちゃん、お世辞にも芸術方面の先天性的な才能は無いと思うもん」

「えっ、酷」

「事実でしょ。ギター弾けないのにギターやるとか身の丈も知らないこと言い出したりさ」

 グラスが空なことに気付いた彼女は、気を惑わすように焼き鳥を頬張る。

「でも弾けるようになったじゃない。デザイナーだって、ただ人より少し絵が描ける程度だったものが、それを職にできる資格を取れるまでになったじゃない」

 席に置かれたジンバックを口にする。仄かなジンジャーエールの甘さが口の中で弾ける。微量の炭酸に刺激された舌が私にしてはよく回る。

「悩んでないで必死になって突き進んで、なんとかなるのが愛音ちゃんなんだと私は思う。だから、生きてほしいな、昔みたいに、身の丈を知らない千早愛音に」

 酔いが回ってきたからか、えらく詩的なことを口にしてしまう。隣の席で好きなアイドルの話をしている派手なメイクをした女子大生らしき二人組の話が聞こえてきて、なんだか今の自分がとても恥ずかしいことを言っているような気がしてきて、無性に唇が乾いていくのを感じた。ジンバックを一口で飲み干して、次に注文するものに考えを巡らせる。メニュー表に目を落としながら、しかしチラリと目の前に座する愛音ちゃんを見ると、彼女はキョトンとした顔で、

「ねえ、いま、そよりんに告白された?」

 なんて、素っ頓狂なことを口にする。

「はあ?なんで」

「今の告白じゃんどう捉えても」

「……疲れすぎて壊れたの?」

「疲れてるけど、感性は鋭いままだよ」

「じゃあ間違った方に鋭くなってるんだ、早く治して」

 この娘はどこまでも普通な娘なのに、変に無鉄砲で周りを顧みずに突き進む傾向がある。さっきみたいに藪から棒に突拍子もないことを言い出して、私を困惑させたことが何度もある。

「そよりんはどうなの?お仕事楽しいですかー?」

「楽しいも何もないよ、仕事に。ただ生活のためにやってるだけ」

「えー、毎日退屈じゃないの?」

「その毎日がお金に変わるなら、退屈さも受け入れる」

「大人だねー」

「もう大人よ、私たち」

 

 大人になるってどういうこと?

 外面良くして三十五を過ぎた頃オレたちどんな顔?

 カッコいい大人になれてんの?

 

 昔、どっかのアイドルグループの歌でそんな歌詞があったなと懐かしくなった。

「仕事から帰ったら何してるの?休日は?」

「合コンみたいなこと言わないでよ」

「あ、合コンといえば恋人できた?」

「すごい話飛ぶわね…いないわよ」

「奇遇じゃん!私もいない!」

「何が奇遇なのよ」

 水気の無い砂地のような会話を繰り広げていると、私の口角が少し上がっていることに気がついた。こんなに生産性が無くて、髪を揺らすほどの風の音よりも耳に残らない言葉の数々を口にしたのはいつぶりだろうか。少なくともここ数年は体感していない。

「でも意外。愛音ちゃんすぐ恋人できそうだったから」

「えっ、私ってそんなにモテそう?」

「収入増えてお金遣い荒くなって遊んでそうって意味で」

「…私ってそよりんにどうやって見られてるの」

 そんな他愛もないけど、僅かに心踊る会話を繰り広げていると、気がつけば時間制限のラストオーダーの時間となった。

 腕時計に目をやると、時刻は既に終電を過ぎていた。

「終電過ぎてる」

「えっ、ほんと」

 とろんとした目で上目遣いになる。台詞は驚いたように聞こえたが、声音は酷く呑気だ。

「愛音ちゃん、家は?」

「ここから四駅先」

「歩くと?」

「一時間弱」

 こんな時間に、ましてや泥酔状態な女性を帰路につかせるのは気が吐ける。つかせたところで無事まっすぐ帰れるか怪しいが。

 近場にネットカフェがあるか調べてみるが、どれも少し遠い。というかこの時間で空室があるかもわからないが。脳内浮かんだいくつかの選択肢の中から、一番採用したくなかった案が徐々に大きくなっていくのを感じる。

 誰であろうと、入れたくなかったけど。

「……ウチ寄って」

「いいの?」

「ここ誘ったの私だし、たぶんネカフェは空いてないし」

 二時間前の自分の行動に少し怒りをぶつけたくなるけど、起きてしまったことは仕方がないと飲み込んで、カードで会計を済ませて愛音ちゃんの腕を引っ張って店を後にする。

「わぁ、恋人みたいだね」

「余計なこと言ってるとここに置いてくわよ」

 なんて一日だろう。運命のイタズラのような出来事のドミノ倒しにため息をこぼしながら、力がすっかり抜けた彼女の手を強く握った。

 思えば、他人の体温に触れるのは久しぶりだ。

 

 人を招く予定なんかなかったから、部屋は生活感に押しつぶされそうになっている。クッションは無造作に置かれていて、秘書検定の参考書には付箋がいっぱい貼られたままで、キッチンのコンロのそばには吸い殻が溜まった灰皿が存在感を消そうと努めるようにある。

「そよりん煙草なんて吸ってるの?」

 吸い殻を見を目にした愛音ちゃんは、酒に酔っているからか、ケラケラとスイッチの壊れたラジオのように笑う。

「たまにね、、一吸いだけ。肺に入れないで味わってお終い」

「グレてるねー」

「叩き出すわよ」

 と口にするが、実際自分が煙草を吸うなんて思ってもいなかった。ある日、先輩に一箱頂いた。そのままゴミ箱に投げ捨てようかと思ったが、一口も味わわないまま屠るのは失礼なのではないかと思い、試しに吸ってみた。肺に入れると息苦しくなって咳き込んでしまうが、口の中で味わうだけなら悪くないと感じてしまい、気がつけば気が向いた時に一本、火をつけて一口煙を口に含めてボーッとしてる。

「そこのソファーと、枕はそのクッションを使って」

「寝室はー?一緒に寝ようよ、恋バナしようよ」

「寝室までは見せる気ないし、どうせ愛音ちゃん先に寝ちゃうじゃない」

「寝ないよ、そよりんの熱い恋の話を聞くまでは!」

「なら一生寝れないと思う」

 洗面台に行って、シャワーを浴びようと思ったが、冷水からお湯に変わるまでの僅かな時間が、待つには長すぎると感じてきてしまって、メイクを落とすだけにして、シャワーは朝にでも浴びようとズボラさに考えを支配されてしまった。

 メイクを落として簡単な保湿をしてリビングに戻ると、愛音ちゃんはソファの上で、とても懐かしいものを抱えていた。

 ウッド調の、少し硬派な雰囲気を醸し出す四弦ベースを彼女はおぼつかない手取りで指弾きしていた。

「寝室入った?」

「お邪魔しましたー」

「これだからへべれけは…」

 怒ろうにも、リスクを覚悟で部屋に招いてしまったのは数十分前の自分なので、怒りは行き先を見失って右往左往してしまう。酔っ払いに常識なんて求めるのが違うか。

「ベース、大事にしまってあったね」

「まあ思い出の物だし」

「今も弾いてるの?」

 ドレミの歌をたどたどしく奏でる愛音ちゃんに、溜め息を吐きながら答える。

「あれ以来弾いてないよ。触ってすら」

 このベースは、いわば私の記憶の形代だ。魔法なんて扱えないちっぽけなただの女ではあるけど、このベースを触ると、あの時の呆れるほど愚直に全力疾走していた時の場面を鮮明に思い出せるのだ。このベースは私を形成する骨の一つであるのだ。

「そっか。ならもらっていい?」

「は?なんで」

 この娘はなんでこう、人の神経を逆撫でするようなことを平気で言えるのだろう。ああ、酒が入ってるからか。

 私の冷たい視線に、彼女は少したじろんで答える。

「弾かれないのは可哀想だと思うんだよ、この子も」

「……」

 まあ、それも、一理ある。

 この世に弦楽器として産み落とされた以上、音を出されずにクローゼットの中で埃を被っているままなのは、確かに居た堪れない気がする。

「私は今でもたまに弾いてるからさ」

 そう語る彼女の横顔は、なんだか十代の少女のように煌めいて見えた。どこまでも真っ直ぐで青臭くて、明るい未来しか見えていない危うい煌めき。

 今の私は、彼女からはどう見えているのだろう。

 愛音ちゃんの隣に腰を下ろして、背もたれに体重を預ける。

「象の墓場って知ってる?」

 そんな彼女の姿に触発されたのか、以前ネットの拾い記事で見つけた言葉について尋ねてみる。

「象の墓場?なにそれ」

 ベースから手を離して、そっと聞く姿勢になるのがわかった。

「像は死が近づくと、静かに群れから離れて、ある所に向かうの。それが象の墓場。誰にも見つけられないところで、そこには象の骨だけが残ってる」

「何それ、雑学披露?」

「ただの都市伝説。実際にはそんなのないって言われてる」

 これは象ほどの巨体を誇る生物の死体が見つからないことから生まれた迷信だ。象は寿命が長い生物だ。死ぬこと自体が珍しく、たとえ死んだとしても、生物がそれぞれの役目を背負っているサバンナでは、死体は腐敗よりも先にライオンやハイエナに食べられて終わる。

「憧れるなぁって。人として生きてたら、そんなことするのって難しいから」

 現代社会において、孤独に死ぬことはほぼ不可能に近い。自殺だろうが事故死だろうが、必ず誰かしらに影響を与え、骨は灰になって、最終的に職場に並べられた無機質なロッカーのような引き出しに押し込められて、定期的に住職が念仏を唱えて、半永久的にそっと置かれる。

 死ぬならみんなに見守られて、お坊さんとか神父さんとか、よくわからないけど色んな人にありがたいお言葉唱えてもらって、みんなに見守られて焼かれた埋められたりするより、一人で人気のないところで死んで、誰かの涙を見ることなく眠りにつく方がいい気がした。

「…自殺でも考えてたの?」

 怪訝な表情を浮かべているのが声音でわかった。

「ううん、まさか」

 軽く笑って、けれども私が積み重ねてきた三年間を思い出して、自然と心が宙に浮かんでしまう。

「でも、ごめん。私さっき愛音ちゃんに嘘ついた」

 神父に懺悔をするように、私の本心を包んでいた毛布が一枚また一枚と剥がれていく。

「退屈さも受け入れるなんて言ったけど、正直辛い。今よりも、マイゴにいた時の方が楽しかった」

 酔いが遅れて回ってきたからか、普段は思いもしない言葉がポロポロと出てくる。

「そんな時に、もし死んだら、マイゴの皆んなはお葬式に来てくれるかなってふと思ったの。死のうとかそういうことじゃなくて、ただ思っただけ」

 みんな集まってくれるだろうか。久しぶりに再会して、あの頃の思い出を私の遺影を前にして語り合ってくれるだろうか。

「まあ、考えるだけ考えて終わっちゃってるけど」

 もし、自分で命を断つのなら。

 その時のプランを、イメージを、私はなんとなくだけど決めた。

 それは像の墓場のように、骨だけ残って、けれど誰にも見つけられずに、一生眠っていることだ。

「でも、死んだらどっちにしろお葬式開くから、みんなに迷惑かけちゃうかって思って。お葬式ぐらい、一人で終わらせたいなって」

 言葉が、形を成していないのがわかった。自分でも何を言いたいのかわからないのだ。涙は流れないのに、寂しさと悲しさが溢れ出てくる。

 深夜二時の、成人女性二人が隣り合う空間に、重い空気が降りかかる。

 何をこんな、つまらない話をしているんだろう。自分の馬鹿さ加減にため息を吐いて、寝室で寝ようと腰を上げると、愛音ちゃんは私の手を掴んだ。

「えっなにそれ。お葬式ぐらいパーっと華やかにして、みんなを笑わせたほうが良くない?」

 愛音ちゃんは不満そうに声を荒げる。

「は?」

「確かに死ぬなら誰にも迷惑かけたくないよ。でもそんなのって現実的に難しいわけじゃん」

 クッションを枕がわりに、大の字になって彼女は自分の終活を語る。

「だったらせっかく集まってくれたんだから、みんなを笑わせたい。シーンとしてるのなんて楽しくないと思う。まあ私は泣くと思うけど」

 表情は窺えないが、声音からして愛音は至極真剣に語っている。こんな、本人にとってこれから遥か先に訪れるイベントを、さも結婚式で袖を通すウェディングドレスのデザインを決めるかのように。

「…もし私の寿命が残り僅かで、例えば明日息を引き取ることが決定してたら、愛音ちゃんは泣いてくれるの?」

「たぶん泣く。きっと、うん」

「そこまで言っといてたぶん、なのね」

「それとこれとはまた別問題でしょー。実際問題、私お葬式に出たことないし、身内みんな元気だし」

 難問を前にした学生のように考える身振りを取る。すると何かを思いついたのか、あっ、と明るい声を上げて、起き上がって私の顔に近づく。

「じゃあさ、そよりんもっと長生きしてよ。人類最後の2人が、私とそよりんの2人だけになるぐらいに。そうしたら私が喪主になって、そよりんのお葬式プロデュースする」

 この娘は一体、何を言っているのだろう。あんまりにも壮大で、そして荒唐無稽な話すぎて、思わず笑ってしまう。

「人類最後の2人って、誰に向けて私を弔うのよ」

「それは……私に?」

「なんで愛音ちゃんに…まあ、お葬式本来の趣旨としては間違ってないけど」

 死の淵に身を預かるのが、千早愛音だって?なんて不安で頼りない名前だろうか。けれど彼女になら私の死を委ねてしまっていいとも思えた。だって、こんなにも真っ直ぐに私を受け止めてくれようとしてるのだ。

「……さそよりん、死にたくなったら、せめて連絡ちょうだい。そうしたら一緒にプラン考えて、理想のお葬式決めようよ」

 死にたくなった時に、どうして彼女に会って、自分の葬式のプランを決めなければならないのだろうか。

 冷静に振り返ればおかしな話だけれど。

「うん、それいいかも」

 かつて止まっていた私の時計を荒治療で動かしたのは他でもない彼女なのだ。あの日から私の人生の道程には愛音ちゃんがいて、何かあるといつも関わってくる。

 いつも私の人生は、千早愛音に振り回されてる。

 それはきっと、私たちの最期まで続くのだろう。


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