時折、彼女はどこか遠い所を見つめる。ぼうっと、焦点が合っているのかも分からない胡乱げな眼で。
「おーい、かすみーん」
こうなったらダメだ。声をかけても応答無し。
あまりにも反応がないので、今のような二人きりの時にこうなってしまうと、まるで音そのものが伝わらないという宇宙空間の中にいるような。そんな錯覚に陥りそうになったり、ならなかったり。
からん、と手に取ったコップの中の氷が音を鳴らす。どうやらここは宇宙空間ではなかったようだ。
「暇ね」
今日はポピパの練習がお休みの日。我がバンドの誇るリズム隊どちらも不在であるためである。
聞くところによれば、どうやらヤマブキパンの店主が腰をやったらしい。店主さんもいい歳だ。「面目ない……面目ない……」と鳴き声を上げる父親を背に、健気なポニテガールは今頃パンをこねていることだろう。ニンジャは知らない。おにぎりでも握ってるんじゃない?
くぴくぴと麦茶を飲んでいれば、コップの中が空っぽになっていた。
傍に座るランダムスタ子(かすみんの呼び名の一つらしい)のコップを見ればそちらの中身も無くなっていたので、健気なあたしは替えの飲み物を取ってきてやることにした。
「かすみーん、麦茶でいいよね?」
案の定だが、返事はなかった。
☆☆☆
クラパ(仮)がポピパになってから、それなりに月日が経った頃。
活動範囲も広がり、演奏場所にガールズバンド御用達という感じのライブハウスが新たに追加された。
外部のスタジオやライブハウスを使うようになってから、バンド間の交友関係もそこそこ広くなった……と思う。
より一層〝外〟に触れる機会が増えた感じがするし、あたしも多少は見知らぬ人間と話せるようになった気がしている(今でも嫌なことに変わりは無いけど)。
かすみんがああやってどこかを見つめるようになったのも、そのように〝外〟の才能達と触れ合う機会が増えてきた頃からだったかな――
「あ、麦茶のストック切れてるじゃん。うそ〜……」
冷蔵庫の中身を見て、思考が中断される。
中に入っていたのは漬物に佃煮、あと自家製の梅シロップ。どれも美味しいけど、今求めているものでは無かった。
仕方なしと、戸棚に仕舞われていた茶筒の中身を見てみれば、これまた見事に空っぽ。
「えぇ」
祖母は不在。古くからの友人と外食をするとのこと。今この家にはあたしと、かすみんしかいないわけで。
窓の外からは日差しが差し込んでいる。
文句なし、憎らしいほどの快晴。
「はぁぁぁあぁぁぁ……よしっ」
鉛のように重い溜息を吐ききった後、冷蔵庫の前で回れ右。
いっちに、いっちに、と足を進めて、辿り着いたのは元いた部屋。かすみんは意識を取り戻していたようで、アンプに繋いでいないランダムスターの弦を爪弾いていた。
可愛らしい鼻唄に合わせてD、G、Aの三つのコードを循環させる姿に満天の星空を幻視しながら、浸っている場合ではないと声をかける。
「かすみん、戻ってたのね」
「あ、有咲ちゃん。〝戻ってた〟って……?」
「あー、うん。ごめん。気にしないで」
「気になるよー」とあざとく頬を膨らませる彼女の頭にチョップを入れてみれば、抗議の視線を向けられた。
「麦茶の茶葉が全滅してたから買ってこようと思うんだけど、かすみんも着いてきてくれる?」
「有咲ちゃん店員さんと顔合わせられないもんね」
改めてチョップ。
「事実なのに……」
「正論が人を救うことはないのよ。ほら立ちなさい
「ひどい!」
強まった抗議の視線をスルーしながら、財布の入ったエコバッグ(祖母がいつも使っているもの)を肩に掛け直す。さっきまであたしを袖にして遠くの空と交信してたのだから、これくらいは許されるべきだろう。
ギタースタンドにランダムスターを立て掛ける彼女を見ながら、思い出していたのは先程のきらきら星。
かすみんがギターを手にしてから初めて演奏した曲ということもあって、今では彼女の手癖とでもいうべき存在になっていた。
かすみんは、自身にとっての音楽を〝信仰〟と呼ぶことがある。
自身の原体験である星空をテーマとしたその曲を弾いている時の彼女は、いつからか、大いなる存在の意思を受け賜る巫女であるかのようで、それでいて、宇宙を夢見る幼い子供のような。遠く、遠くの方へと吸い込まれていくような雰囲気を纏うようになっていた。
――そうやって、あんたも、あたしを置いてお星様になっちゃうの?
「有咲ちゃん?」
「……早く行くよ! かすみん!!」
「ひ、引っ張らないでよ、有咲ちゃん!?」
気付かぬうち、彼女の手を掴んでいたことを誤魔化すように。
掴んだ手を引いて、玄関口へと足を早めた。
☆☆☆
中秋、要するに〝秋の真ん中〟と世間が表現する時期に入っても、まだまだ夏の匂いは消えそうになかった。
日向を歩けば、身体が溶けんばかりの暑さが我が身を襲う。この暑さのことを〝残暑〟と表現するのはやめた方がいいと、そう考えているのは恐らく自分だけではない。
「今日も暑いわね。溶けそう……」
「有咲ちゃんの声も溶けかけてるね」
「この声は元からよ」
「それもそっか」と、かすみんが言葉を返す。
近所のスーパーへの道のりは、近いようで遠い。健全な若者ならば一瞬で辿り着く道のりも、引きこもり一歩手前の自分からすれば千里の道。
最初はあたしがかすみんを引っ張る形で歩いていたのが、気づけばかすみんに先導されるような形で歩いている。
彼女に引っ張られるまま数分(※体感一時間近く)歩いた末、辿り着いたスーパーマーケットには冷気が漂っていた。
熱にやられ、疲労を帯びた身体を癒そうと店内へと足を踏み入れてみれば、見慣れたそれとは少し異なった風景が眼前に広がる。
目に飛び込んできたのは、黄色い真ん丸と、杵を持った白い兎の絵。
「お月見、か」
スーパーの入り口近くには〝お月見コーナー〟という文字と共に、月見団子などの、月見に関係する商品が陳列されていた。
九月の中旬、中秋といえば〝中秋の名月〟。お月見シーズンとして有名だ。
「お月見……そっか、もう九月だもんね」
買い物かごをもったかすみんが、横でそう呟いた。
「かすみんは毎年お月見とかするの?」
「昔はしてた気もするけど、最近はしてないかなぁ。有咲ちゃんは?」
「……あたしも、昔にやったくらいかな」
あたしが本当に小さい頃、一度だけお月見をしたことがあった。
それはまだ、父が生きていた時の話で。あたしはお茶を、父は月見酒を飲みながら、一緒に団子を頬張った記憶が、朧げに残っている。
「……丁度今夜は十五夜らしいし、うちでお月見する?」
口をついて出たそんな提案は、彼女の興味を惹いたようで。
月見団子を二パック分、ぶんぶんと頷く彼女に苦笑しながら買い物かごへと入れた。
☆☆☆
家へ辿り着く頃には、祖母も食事会から帰ってきていた。麦茶を淹れようと赴いた調理場には良い香りが漂っており、かすみんのお腹はぐぅと一鳴き。
頬を赤らめる彼女へ、祖母が微笑みながらお茶碗を差し出した。
「香澄ちゃんもご飯食べていくかい?」
お月見をする以上、かすみんの帰りは遅くなる。家に着く頃には、戸山家も消灯時間になっていることだろう。
そういう訳で、かすみんも我が家で夕食を摂る運びとなった。
好きな食べ物に「白いご飯」を入れるほどの彼女は、笑顔で祖母の食事を頬張っていた。
「美味しいです……!」とかすみんが伝えれば祖母が嬉しそうにお代わりを提案するので、月見団子の入るスペースを空けておくよう注意しておく。
「べ、別腹だから」
月見団子の原料は米だよ、かすみん。
断りきれずに、一度おかわりしたかすみんにジト目を向けていれば、あたしにもおかわりの提案が来る。断りきれずにおかわりをすれば、かすみんがジト目を向け返してきた。
気恥ずかしくなってかすみんのほっぺを摘むと「はしたない」と祖母に注意されたので、大人しく食事に戻る。
普段は祖母と二人ということもあってか、かすみんが一人加わるだけで、少し賑やかになった気がして。
いつもより、時間の経過が速いように思えた。
☆☆☆
その日の月は、本当にきれいだった。
☆☆☆
食事を終えた後、月見団子と麦茶を傍に、かすみんと二人縁側に座っていた。
〝月に叢雲、花に風〟とは言うけれど、幸い今夜は月を雲が覆い隠すことなく、柔らかな光が降り注いでいる。
(懐かしいな)
小さい頃、父とこうやって月を見ていた時の思い出が頭に浮かぶ。あの時もこうやって、麦茶と一緒に月見団子を頬張っていた。
飲んでいるものが違うことに不満を持ったあたしへ、「いつかお前と一緒に酒を飲みたい」なんて恥ずかしいことを言っていたっけ。
あたしの頭を撫でてくれたあの手のひらの感触は、いつの間にか既に遠い記憶となっていて。
まるであの月の浮かぶ夜空のどこかへと、遠く、遠くに消えてしまったような気がしていた。
「――きれい」
横からそう聞こえてきたと思えば、かすみんが
(かすみん……)
紫水晶のような綺麗な瞳に、あたしは映っていない。月見団子にすら手をつけず、夜空を見つめている。
目を離せば消えてしまいそうな程に儚げで、まるでおとぎ話に出てくるようにきれいだった。
――『ロックスターは早くに死ぬものなんだって』
いつか、どこかで聞いたそんな言葉が、頭を過る。
後年はあたしを猫かわいがりし、ロックとはほぼ無縁の人生を送っていたと言われるあたしの父も、結局の所はロックンローラーであったようで。
父の死を悼み、悲しんだ人達も、その早死に関してはどこか納得の表情を浮かべていた。
あたしはその表情が嫌いだった。
一緒に酒を飲もうと。大きくなる姿が楽しみだと。
そう言ってくれた父のことを強く思い出すようになったのは、かすみんと出会い、「成り上がりノート」を手にしてからだった。
……とんだ親不孝者だが、父の死を飲み込むには、時間が必要だった。彼等の表情も、思い出したくなかったから。
だけど、かすみんと出会って、バンドを始めて、日々を駆け抜けていく内、こうやって過去を想いながらも、父との思い出が詰まったこの蔵を出て、前へ進むことができるようになった。
そんな、前へ進むきっかけになったかすみんが、目を離したら消えてしまいそうな雰囲気を漂わせているのが、堪らなく嫌だった。
気付かぬうち、煙のようにこの手をすりぬけて、どこかへと消えてしまいそうな。そんな彼女の眼を見る度、まるで氷柱が身体を貫いたかのように、冷たくイヤな感触が全身を駆け巡る。
遠く、遠くを、上ばかり見つめているその瞳に向けて、〝下を向かないと見えないものだってある〟のだと叫びたくなる。
「――かすみん!」
指に掴んでいた団子を頬張り、空いた手のひらで、かすみんの手を握りしめた。
地面から離れていかないように、固く、固く。
「……ぁ、ありさちゃん?」
もう片方の手で、彼女の口へと月見団子を突っ込む。
「むぐっ、あ、
その瞳には、あたしの姿が映っていた。
「綺麗ね、満月!」
あげてやるもんか。あたしのロックスターは長生きするんだ。あたしと一緒に!
そうやって月に吠える自分の姿をみて、噴き出したかすみんの口へとさらに月見団子を突っ込んだ。
魔王を倒してエンディングのゲームとは違う、長い、長い人生を、歩んで行くんだ。あたしも、かすみんも。
「有咲ちゃん」
ぽかん、としていたと思えば、あたしと同じように団子を麦茶で流し込んで、かすみんが立ち上がる。あたしも彼女に手を引っ張られて、よろめきながら立ち上がった。
「か、かすみん?」
困惑するあたしの口へと、仕返しと言わんばかりに月見団子を突っ込んだ。
「
「……おばあちゃんになっても、一緒にバンドしようね」
頬を赤らめてそう言う彼女は、確かにここに生きていて。
雲のかからぬ月の下。
柔らかな月明かりに照らされながら、笑顔を浮かべる彼女の姿は本当に、本当に可愛いらしかった。