声零心   作:水里露草

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自作の歌詞があります。ご注意ください


    後編:がらくた

 燈の前でピアノを弾いたことは何度もある。昼休みは音楽室前の踊り場でお弁当を食べて、手を洗ったらピアノに向かうのだ。長い間私自身のルーティーンでもあったことから、大抵の場合はベートーヴェンのピアノソナタ第14番──月光ソナタをよく弾いていた。

 激情迸る第三楽章を駆け抜けて最後の和音を些か大袈裟に叩き鳴らすと、連弾でもするように真隣に座っていた燈はぱちぱちぱち、と可愛らしい拍手をした。いい加減聞き飽きてもおかしくないだろうに、毎回頬を赤らめながら興奮いっぱいの顔で聞いてくれるから気分が良い。

 彼女は艶っぽい感嘆の溜め息をほうと漏らして『さきちゃん、すごいね』と呟いた。

 

『私、あんな風に指、回らない……それに、曲も覚えられないかも』

『ふふふ、こればかりは慣れですわね。暗譜も運指も、やっていればいつの間にか染み付いているものですわよ』

 

 というより、染み付くようなやり方をきちんと模索し考えて練習しなければ非効率だ。漫然となぞるだけで上手くなれるはずもない。やっていればいつの間にか、というのも嘘ではないけれど。

 幼い頃からピアノを弾いていて、一般的に抱かれる華やかな印象とはかけ離れたものであることはよくよく知っている身としては、彼女の純朴な称賛はくすぐったい。それを素直に受け取れず内心で言い訳する自分が、とても卑俗に思えた。

 

『月光ソナタ、だっけ……月、月なのかな……』

『あら、ソムリエの意見は違いまして?』

『そ、ソムリエ……?』

 

 茶化しつつ、やっぱり素晴らしい感性だと舌を巻く。

『月光ソナタ』はベートーヴェン本人の命名ではなく、その死後に詩人ルートヴィヒ・レルシュタープが「スイスのルツェルン湖の月夜の波に揺らぐ小舟のよう」と称えたのが由来だ。更に言えばレルシュタープすら名付け親でなく、この言葉がすっかり人口に膾炙した頃に当時の出版社などが商業目的で付けたらしい。

 もしかしたら本当に月をイメージしていたかもしれないけれど、第一楽章の暗く静かな旋律はともかく第二楽章の軽やかさ、そして怒涛の第三楽章から月光を連想するのは難しい……と訳知り顔をしたくなるのは、知識があるからこその見栄だろう。

 燈はどう感じたのだろうか。その小さな耳が捉えた世界が気になって尋ねてみると、彼女は膝の上で指を組み、困ったような愛らしい顔で悩み始めた。

 

『夜……では、あると思う。暗くて、影が鋭くて……』

『鋭い?』

『うん……足下も手元も見えなくて、獣が潜んでいて、フクロウが鳴いていて……気づいたらあちこちに切り傷を作っていそうな、危ない影。森の中なんだ。夜の。それで、古城とかがあって……その後ろに大きな、大きな満月がある。森の空は明るいのに、城と木々の影に飲まれて、何も見えない』

『ふむ……月は背景であって、主題ではないと?』

『う、うん……森に囲まれた古城の夜、かな』

 

 影の鋭さ、とは。剣呑な空気を刃物や転じて鋭さに喩えることはままあるけれど、実体のない、強いて言えば穴や沼に擬えがちな影をそう捉えるのか。この子にとっての恐怖がどういった感覚なのかが察せられる。……次はもっと柔らかく弾きましょう。ええ。

 

 自分なりのイメージを出力できたからか満足げに頷いた燈は、私と鍵盤の間で視線を彷徨わせた。それから声を潜めて『あの……ピアノ、触ってもいい……?』と伺ってくる。あなたに許されないことなんて何ひとつないというのに。無論の返事に燈は顔を輝かせた。

 

『……確か、えっと……』

 

 鍵盤を探るように指を滑らせる。やがて変ニ長調に辿り着くと、三度で重ねた独特のモチーフをゆっくり鳴らした。辿々しい手つきがこの上なく繊細なピアニッシモを紡ぐ──あぁ、美しいこと。

 

『……あってる?』

『ええ、素敵に弾けていましてよ。……ドビュッシーの月の光ですわね』

 

 印象派の音画的なモチーフはときに和声規則から外れて大胆に動く。禁則も不協和音もお構いなし、イメージの通りに美しく響くのならそれが正しいと言わんばかりのスタンス。

 態度こそ正反対だけれど、誰にも縛られない純粋な光が燈によく似合うと思っていた。

 だから。

 

『さきちゃんに似合う月は、こっちのような気がする』

 

 ね、と微笑んでもう一度奏でられた主題に呆けてしまった。うろ覚えなのだろう、最初の二小節だけを繰り返し繰り返し、ひとつ鳴らすたび響きを研ぎ澄ませて。

 

『……これが?』

『うん。怖い夜じゃなくて、鋭い影じゃなくて、優しい光。……こ、こうじゃ、ないかな』

『いっいえ! その……』

 

 この子の中でどんな姿が描かれているのか、想像するのが恐ろしかった。夜闇に怯える少女なんて弱々しいものであればまだ良い。惨めであればあるほど、私の現状にはよくよく合っているから。

 でも、もしも、美しいのなら。

 私はそんなに綺麗じゃない。

 私は、あなたみたいに、綺麗じゃ──

 

『……ありがとうございます。嬉しいですわ』

 

 私のピアノの技能は、培った人脈は、豊川祥子のすべては、人生に余裕があったから築けたのだ。

 すべて失った空っぽの奥底にあったのは醜いプライドと自己顕示欲だけ。

 

『……燈は』

 

 誰にも理解されない孤独の中でも人を憎まないで。

 他者の意見に流されずありのままの美しさを見て。

 私の穢さに気づかずに、憧れの目を向けてくれて。

 

『……なに? さきちゃん』

『あなたは……本当に美しいですわね』

 

 私と違って。

 

 無私(やさ)しくなりたい。

 無謬(ただ)しくなりたい。

 無垢(きれい)になりたい──あなたみたいに。

 

 

 

 

 

「心配したんだけど?」

「はい……」

「はい……」

 

 いつもの穏やかに努めている笑顔じゃなくて少し黒いそれを浮かべたそよに叱られている。ちょっとお土産を取りに、と言って一時間も待たせたのだから当然だった。

 広々としたリビングでソファではなく床に正座せられているのだけれど、状況より泣き腫らした情けなさより膝から住まいのグレード差を感じ取れてしまったことが一番ショックかもしれない。

 腰に拳を添え仁王立ちのそよは「まったくもう……」と長女ぶった溜め息を吐いた。

 

「さきちゃんのバイトの時間近いからとやかく言わないけど……何があったの?」

「……それは、その……」

「……えっと、えっと……あのね、そよちゃん」

 

 燈が口火を切ったことにそよは驚いた顔をした。

 ……前々から思っていたけれど、燈は引っ込み思案で最初の一歩を踏み出せないだけで始めてしまえば迅速果断の気があるというか、脇目も振らず一直線に走るところがあって、そこに人の事情とかが絡むと、その、少々デリカシーがなかった。

 

「……それで、今のさきちゃんは過剰に怯えてて。よく笑ったり泣いてたのは」

「ポーズってこと?」

「……ううん。それもあるけど、防衛反応の方が強い、かも。だから……」

 

 私の傷が容赦なく暴かれていく。なんですの? カルテの引き継ぎですの? 世に聞く珍しい症例の患者が学会に発表される流れとはこういったものですの? 燈、ねえ燈?

 釈然としないものを感じつつ何も言えないまま説明が終わってしまい俯く私の頭に、呆れをこれでもかと含んだ溜め息が落ちてくる。

 

「……さきちゃん。怒るよ? ううん、怒るね」

 

 え。

 

「え」

「えっじゃないよ。あのね、どうも気づいてないみたいだけど、私たちってさきちゃんのこと大好きなんだからね?」

 

 隣で燈がうんうん頷いて、近くのソファでは睦も小さく倣っていた。立希でさえ。立希でさえ!?

 

「……は? 何? 私が……私が祥子を尊敬してちゃ悪いの!? はぁ!?」

「立希、なにも言ってないよ」

「つっけんどんな立希ちゃんでさえこうだよ?」

 

 ……意外過ぎて開いた口が塞がらない。まったく好かれていないとは常識的に考えて流石に思っていなかったけれど、隔意のひとつふたつあるだろうと。

 

「もちろん、怪我病気で物理的に離れる可能性はあるよ? でも……どんな理由であれ簡単に心が離れると思われてるのは、ちょっと心外だなぁ。ねえ、バカにしてるの? そんな薄情に見える? ねえ」

「そ、そよちゃん! 落ち着いて、大丈夫……これから、大丈夫にするから……!」

「……そうだね。大丈夫にするんだもんね」

 

「もう燈ちゃんはいい子だなぁ大好き」とそよが燈を抱き締めるけれど、言葉が強引すぎて隣の私は震えるばかりだった。一体何を……?

 

「……祥子」

「な、なんですの?」

「私とお前、今日バイト休み」

「……はい!?」

「ん」

 

 立希から携帯を投げ渡さ……危なっ!? 結構な速さでしたわよ!? 受け取って画面を見ると、自分も参加しているRiNGスタッフメンバーのトーク画面だった。

 

『祥子が泣いて帰ってきたので休ませます。すみません』

『いちだいじ!』

『今練習終わったし、私代わりに入るよ』

『私も! たきちゃん一緒にいてあげて!』

『ありがとうございます。代わりにどこか入ります』

 

「……立希、あなた」

「……情緒不安定でいつ泣き出すかわかんないやつなんて、私より接客向かないだろ」

「……これが、戸山先輩の仰っていたつんでれ……?」

「怒るよ!?」

 

 気恥ずかしくて憎まれ口を叩いていると着信が来てしまった。投げ返して壊れることがあってもまずいと慌てていると、立希は画面が見えていないだろうに顎をしゃくって出ろと促す。表示されている名前は戸山先輩だった。

 

「……も、もしもし? 戸山先輩ですの?」

『あれ、祥子ちゃん!? もしかして立希ちゃんと一緒にいる?』

「え、えぇ……バンドメンバーの家に、みんなで」

『ほんと!? よかったー!』

 

 顔いっぱいに広がる笑みが声から見えるようだった。明るく朗らかで太陽のような人柄は周囲にいたことのないタイプで、つられて笑顔になってしまう不思議な力があった。

 気の緩んだ瞬間。

 

『ひとりは、ダメだよ』

 

 小さな子供に言い含めるような優しさで差し込まれて、息が止まった。

 

『や、ひとりで平気な人もいるか。えーっと、うまく言えないけど……ひとりと独りぼっちは別だし! うん! 独りぼっちはダメだからね!』

「戸山先輩……? それは、どういう……」

『バンドってぎゅーっと一心同体だもん。祥子ちゃんが苦しかったら、きっとみんなも苦しいから……泣いちゃうような悩みがあるんだったら、今日はバイトに来ちゃいけませんっ! さーやとふたりで締め出しちゃうんだから!』

 

 ふんすふんすと鼻息荒く出禁を言い渡され噴き出してしまった。「すみません、わかりましたわ」と返すと満足げにうんうん聞こえてくる。

 伝言はあるかと聞かれたので立希に渡そうと思ったけれど、燈がなにか言いたそうだった。持ち主と電話口の向こうに断ってスピーカーモードで差し出す。

 

「あ、あの……こんばんは、香澄さん」

『燈ちゃん! うんっ、こんばんは! どしたの?』

「ライブの予約、したくて……」

「え」

『ライブ? いいじゃんいいじゃん! いつがいい? 一番すぐだとー……月曜の夜かな! 放課後!』

「じゃあ、そこで」

「えっ」

『わかった! えへへ、私たちと、あとAfterglowのみんなもおんなじ日だね! よろしくー! それじゃ、こっちは任せて! バイバイ!』

 

 通話が切れてしまった。

 ライブ? 曲は? いやこれは一応作曲合宿という名目だった。……え? 本当に?

 

「燈?」

「……これで、頑張るしかない!」

「なんてことなさいますの!?」

 

 ぐっと拳を握って真剣な面持ちなのは可愛くて結構だけれど締め切りは可愛くない。月曜? 実質今日と明日で? 本当に?

 

「……やるよ、祥子」

「ほ、ほ、本気で仰ってますの!?」

「やる。曲として成立してるなら祥子とそよと睦は弾けるだろうし、私も自分で考えれば頭に入るはず。……パソコンないけど、最悪紙切れにリフとコード書ければ充分でしょ」

「五線譜なら吹部で使ってるのがあるよ。持ってくる」

「……覚える」

「みなさん燈に甘すぎませんこと!?」

 

 どうして全員乗り気なんですの!?

 立ち上がって叫ぶも聞く耳を持ってくれない。どころか立希は……いや、そよと睦も、じろっと私を睨む。

 

「……コケにされて怒ってんの、そよだけなわけないだろ」

「え?」

「お前のこと、ちゃんと友達だと思ってんだよ。それを何? どうせ離れるって。予防線張るなよ」

「予防線なんて……!」

「じゃあ言い換えてやる。お前のそれは逃げだよね。気を許してふいにされるのが怖いんだ。……仕方ないとは思うけど、ムカつかないわけじゃないんだよ」

 

 立希は「そよ、五線譜ってどんなの? ノート?」「ルーズリーフ」「ちょうだい。買って返す」と尋ねながら立ち上がりリビングを出ていく。

 よくわからず首を傾げていると、ひとり座ったままの睦が淡々と呟いた。

 

「……秋の春日影を、みんなで作るって言った」

「え、ええ……」

「そこに緊急性が加わっただけ。……さきが、わかってなさすぎるから」

 

 よく見たら。

 膝に置かれた握りこぶしが、かすかに震えてる。

 

「……さきは、プライドが高すぎる」

「ふぐッ」

「自分の能力に見合ったことしかしたがらないし、ノブレス・オブリージュ気取って余裕ある態度保つことに全力注ぐ、鼻っ柱の高い人」

「うっ、ぐうぅ……!」

「……それも、さきの強さだったけど。今はなくなって、打たれ弱い。だから泣き虫になったし、素直に認められないからわざとらしい泣き方で茶化そうとする」

「…………」

「さ、さきちゃん……! しっかり……!」

 

 ……睦が怒っているところを初めて見た。

 もはや何も言い返せない私は再び蹲り、白目を剥きそうになりながら耐えるしかなかった。燈も背中を擦ってくれるものの別にそんなことないとは言ってくれない。ショックだ。本当に泣きそうというか以前までの振る舞いへの恥も合わせて吐きそうになってきた私を冷たく見下ろして「……まだ、足りないけど」とご不満の睦、いえ睦さん。

 

 「私は、ギターは上手く弾ける。さきが認めてくれた、CRYCHICのギター担当。……でも、言葉と歌は、苦手だから」

 

 燈の方へ向けてほんのわずか、口元を綻ばせて。

 

「『作詞の天才』さん。……言葉と歌を、お願いします」

「……! 頑張る……!」

 

 燈はやる気いっぱいに頷いた。どうしてそんなにと零しそうになって、今さっき散々怒られたことを思い出し口を噤む。いくらなんでも学習した。

 

「……あぁ」

 

 全員から叱られて叱られて更に間も置いて、それでようやく、戸山先輩の仰ったことを実感した。ひとりと孤独は違う。離れていくのが恐ろしいのは、少なくともまだ孤独でないから。

 

「……私は、ひとりじゃありませんのね」

 

 とはいえ。

 

「……怒りすぎじゃありませんこと?」

「……そういうとこ」

「あのですわね──」

「持ってきた」

「おまたせ〜」

 

 睦のちくっとした反応に何か言う前にふたりが戻ってきてしまった。立希は五線譜だけでなくノートにスケッチブックまで持っていて、そよは背中にベースを背負っている。

 

「メモ書きとかネタ出しにも使うからみんな受け取って。筆記用具は制服と一緒に持ってきてるだろうからそれで」

「ベースも持ってきたから、メロディ思いついた人は勝手に弾いて。……あと、明日は明るくなったら一回楽器とか取りに戻ろっか。色々足らないもの」

 

 さも各々分け合うみたいなことを言いながら全部を私に押し付け──ちょっと!?

 

「わ、私が楽器担当ですの!?」

「お前、今夜に限っては拒否権あると思うなよ。燈に絶対服従だからな」

「そうだね。私たちもアイデア頑張って出すしパートごとの動きはちゃんと考えるけど……さきちゃんに一番頑張ってもらおうかな」

「う……」

 

 私もう割と今日はいっぱいいっぱいですのよ……?

 立希はまあ見慣れているものの、そよの笑みもどこか黒いものが見え隠れしていて何も言えない。四面楚歌だ。じわじわと競り上がる悔しさと恥ずかしさに、この期に及んでまだ偉ぶろうとしていた自分に気づいて──

 

「ふんっ」

「さきちゃん……!?」

 

 両頬を思い切り叩いた。

 鉄面皮も砕けただろうか。ひりひりするのは、きっと素顔の痛みだと信じて。

 

「ごめんなさい! ……誠心誠意! 頑張りますわ!」

 

 深く頭を下げて。上げて。

 ただの豊川祥子として誓った。

 

 

 

 

 

「宅配ピザなんか頼む日が来るなんてね」

「今更言う?」

 

 チーズがたっぷり乗って体に悪そうな最後の一切れを食べながら、立希はそよに顰め面を向けた。

 

「学生っぽいことしたかったんだろ、いいじゃん別に」

「そうだけど……なんだろ、不思議な気分。お母さんは喜びそうだから反抗の快感でもないんだけど、でも悪いことしちゃってスリルはあるみたいな、変な感じ」

「……わからなくは、ありませんわね」

 

 まだお金があった頃の私ならどうだったろう、なんて考えて被りを振った。大差ない、むしろ今の方が酷いだろう。世間知らずはそう変わらないし経済状況は百倍悪化している。割り勘でなければ罪悪()で済まない暴挙だ。油気とは別の意味で胃が痛む気がする。

 一方、この手のものを食べたことのなさそうな睦はどことなく楽しそうだった。新鮮だったと見える。裕福さでは対照的な一般家庭の燈が睦と大差ない辿々しさだったのが不思議だけれど。

 燈はというと、床に蹲って言葉と戦っている。文字が重なろうがお構いなしに浮かんだ側からスケッチブックへと書き留めて、ときどき文章の体をなした節が現れれば罫線付きのノートへと写していく。食事の途中でスイッチの入った燈に最初はみんなで食べさせていたけれど、取り分を与え終えてからは声も聞こえない集中ぶりだったのもあってそっとしている。

 そよが目を閉じて優しく息をついた。

 

「じゃあ、先に歯磨きしちゃおっか」

「……そういえば、寝場所は?」

「布団も来客用のあるから、こっち持ってきてみんなで寝ようよ」

「……どこ?」

「一緒に行こっか」

「うん」

「私も行く」

「わ、私も……」

「祥子は燈といて。……気づいたときみんないなかったら、嫌だろうし」

「……そうですわね。申し訳ございませんわ、いってらっしゃいまし」

 

 布団を取りに行くみなさんを見送る。ドアがパタンと閉まると途端に静けさが立ち込める。廊下の話し声も遮られ、高層階ゆえに街の気配も薄く、燈が鬼気迫る様子で走らせるペンの足音だけが浮かんでは落ちていく。

 ……昔の私ならどう思っただろうと、再び。ひとつ言えるとすれば、今の私はこんなにも孤独な家に娘を置いているそよの母へ、良い感情は持てない。なるべく()()と過ごしたがるそよの気持ちも分かろうというものだった。

 暖房は効いているけれど寒くないかしら、飲み物のお代わりは、でも邪魔になっては……と勝手に気を揉んでいると、燈は手を緩めて意識を浮上させた。

 

「……ぁ、あれ……? みんなは」

「布団を取りに行っていますわ。みなさん今日はここに布団を敷いて寝ますのよ。燈は真ん中ですわね!」

「えぇ……?」

 

 満更冗談でもない。そよは挟んであげなくてもみんなで一緒というシチュエーションだけで大満足、睦も同じくで、私と立希が燈の隣を譲らないから自然そういう形になる。燈もたぶんどうでもいいだろうから私が真ん中になるという手もあるけれど、でも五人の真ん中にこの子が寝てたら可愛いじゃありませんの。

 燈はスケッチブックを一旦閉じてきゅーっと伸びをすると、すんすん鼻を鳴らして表情を崩した。

 

「……おいしかったね」

「ええ。……ジャンクなものを遠慮なく食べたのは久々でしたわ」

「ふふっ、よかった」

 

 穏やかな笑い方だ。なんの嫌味もない綺麗な笑み。

 ……今の私のような立場の人間に対して嘲りを一切匂わせないことがどれほど困難か、よく知っている。些細なそれがプライドをどれだけ傷つけるか、侮蔑された側がどうなってしまうのかも、余程。

 

 街明かりにそそられて、ふたりで大きな窓際に腰掛けた。

 心の奥が滲む。

 変ニ長調の幻。

 

「あなたは……本当に美しいですわね」

 

 いつか思ったことを、今度は清い気持ちで口にした。

 

「……覚えて、おりますかしら。月光ソナタと月の光の話」

「うん。怖い夜と、優しい夜の」

 

 ピアノソナタ第14番嬰ハ短調作品27-2 『幻想曲風ソナタ』とベルガマスク組曲第3曲『月の光』、と正式名称を諳んじる燈。虫や動物の学名などもすらすら出てくるところといい、記憶力のいい子だ。

 

「さきちゃんに似合うとしたら、優しい方だね」

「嬉しかったですわ。………ねえ、燈」

 

 人生の、夜にいるとして。

 こんなに優しい(ひと)が照らしてくれるのなら、何を恐れることがあるだろうか。

 

「私、あなたになりたかったのですわ」

 

 影から一歩、踏み出した。

 

「何も壊さない、何も恐れさせない、柔く照らす清廉な月に」

「……月?」

「だから、あのとき燈が月の光だと言ってくれたのは嬉しいやら申し訳ないやら……」

「え……さきちゃんは、太陽だと思ってた」

 

 …………?

 きょとんとした燈と、しばし目が合って。

 走馬灯が駆け巡って。

 …………え!?

 

「つ、月じゃありませんの!? ほら、あのとき確かに……」

「あ、あれは……月光ソナタよりは、ってだけで……」

 

 即座に切り替えされた。成績優秀な自負はあるけれど単純な記憶力では敵う気がしないものだから、必死に思い返すと言われた通りな気がして……いやでも!

 

「あの言い方だと私を月になぞらえているみたいでしたわよ!」

「つ、月のボンドアルベドは太陽系内惑星中最低の水星に次いで二番目に低いし、可視幾何アルベドだと水星も下回って太陽系天体中下から三番目だから、月光ソナタの勢いある感じは似合わないかなって……」

「アルベド……はい!? なんですの!?」

「て、天体表面への入射光に対する反射光の割合のことなんだけど、これ、主に定義が簡単な代わりに算出が難しいボンドアルベドと天文学で主に使われる幾何アルベドがあって」

「定義はいいですわよ後でお聞かせください! つまり!?」

「さ、さきちゃんの光は春日影だから……優しい光をほのかに反射する月が、あんな強いわけない、って思って……」

「…………はー……なるほど……わかりましたわ」

 

 要するに月光ソナタを従えるには弱々しいと言われているらしい。業腹だけど……でも、睦にも言われたばかりだ。今の私は、すっかり弱い。

 いきなり知らない分野の知らない情報を叩き込まれて脳が酔っている私に、燈は……あら、珍しい。いたずらっぽい、どこかからかうような面持ちで。

 

「……でも、太陽でもないかも。いつも雨模様だから」

「燈こそ、月と言うにはちょっぴりお転婆ですわね。前言撤回いたしますわ」

「……ふ、ふふふっ……そうかな……?」

「……そうですわ。……ふふ。一般的に虫や石を観察して歩き回るのはお転婆でしてよ」

「……ふ、あはははっ……さきちゃんも、集めてたって言ってた……!」

「あーら私はノートまででしてよ! ふ、ふふ……燈みたいにダンゴムシを持ち帰ったりはしてませんわ!」

「ぁ、な、なんで知ってるの……!?」

「お母さまが仰ってましたわよ、小さい頃はこーんなにお転婆で何にでも興味津々でお友達を困らせてー、と」

「そ、そんな……」

 

 耳まで赤くしていますけれど燈より絶対私の勘違いの方が恥ずかしかったですわよ。

 会話にふと間が空いて、それがまたなんだか面白くて、ふたりで俯きながらくすくす笑った。こんな、駄々をこねて叩き合う子供みたいなやり取りを、まさか燈とするなんて。

 

「ねえ、さきちゃん」

「はい」

「幻滅、した?」

「……少し」

「……私も、ちょっとだけ」

 

 片や心の制御も覚束なく、片や人の気持ちがわからない。

 美しい虚像の背を追っていた、がらくたとがらくた。

 

「お揃いですわね」

「……うんっ……!」

 

 夜の日差しを浴びながら、壊れた私達は笑い合った。

 

 ……そういえば銭湯で、燈はぜんぶ通じたらいい、と額を合わせてくれた。……て、手でも繋いでみましょうか? いえ、そんなことで分かり合おうなど浅ましいというか分かり合えないとわかっていて尚手を伸ばしてくれた彼女への冒涜でないかとか、でもこんなことで悩んでいても仕方がないのでは? それにもし怪訝な顔でもされたらちょっと生きていけな──

 

「あっ」

「きゃっ!?」

「……わぁー」

「えっみなさま何してますの!?」

 

 間抜けな声を上げながらリビングのドアを押しのけて布団が雪崩込んだ。出歯亀? 出歯亀にしてももう少しまともな態勢はございませんでしたの!?

 一番前にいたばかりに布団に飲み込まれてしまった(ので悲鳴がくぐもっていた)睦が這い出てきて無表情でピースサインを作ると、全員の無事を確認したそよが「ごめんね、つい……」と申し訳無さそうにした。

 

「立希ちゃんに出歯亀しようって言われて断りきれなかったの」

「言ってない! 監視しようって言っただけ!」

「概ね同じですわよ」

「……でも、イイ雰囲気作ってた」

 

 バカおっしゃい、と一蹴しようとしたけれど。

 ふと隣を見たら燈が真っ赤になっていた。

 静まり返って数秒、そよと立希が無言で布団を投網する。

 

 

「えっちょふぶっ」

「ふわっ……」

「立希ちゃん、寝る前に尋問しよっかこのふたり」

「賛成。燈に手出しやがって……ぶっ殺してやる」

「……曲は?」

「明日早起きする! どうせ詰まってるし」

 

 真っ白な布団で覆われつつも、目の前には燈の顔があった。暑苦しくて馬鹿馬鹿しくててんやわんやだけれど、今、人生が楽しい。

 

 だからこそ。

 直面しなければならない。

 父と。

 

 

 

 

 

 一応、全く帰っていないわけではなかった。家事代行のアルバイトを言い訳にして睦やそよの家に入り浸ってはいるしときどき燈や立希の家に泊まらせてもらったりもしているけれど、どうしたって限度がある。バンドメンバーの家を渡り歩き学校やバイト先になるべく留まり、それでも月に何度かは家で過ごす夜がある。

 真っ暗な家に帰ると、酒瓶が増えていた。

 

「……寝ておりますの? クソ親父」

 

 壁が薄く声も筒抜けで、こんなに休まらない場所もそうそうない。吐き捨てて足下の一升瓶を蹴転がしてやれば奥から物音がした。起きているのだろう。深夜一時、昼間の酒が切れて不安が首をもたげる頃だ。起きているに決まっている。

 蛍光灯が舌打ちして瞬いた。白々として返って暗い印象の廊下の向こうから、背の丸くなった痩せぎすの男が顔を出す。

 ありったけの嫌味を込めて、月ノ森に戻れそうなくらい会心のカーテシーを見せつけた。

 

「……ご機嫌よう、クソ親父」

「…………酒は」

「ありませんわよ」

 

 ぎょろりと睨めつけて催促する父の落ち窪んだ目が、剣呑な気配を濃くさせていく──燈は正しかった。この影は、鋭い。

 影に何が潜んでいるかわからない。獣や草木で、いつの間にか怪我をしているかもしれない。

 でも。

 先の見えない夜闇が恐ろしいのはあるはずのものが見えないからではなく、そこに、ありもしないものを見てしまうからではないか。

 暗い瞳に、一瞬、ほんの一瞬だけ。そこにいるはずもないのに。

 ほんの数年前まであった優しい父の姿を探してしまって──少し、反応が遅れた。

 

「……祥子……このッ、親不孝者!」

「づッ……」

 

 頬に痛みが走る。思い切り叩かれてよろめく私の胸ぐらを掴んで無遠慮に揺すり、父は身勝手を喚き始めた。

 ……身勝手とも言い切れないだろうか。

 働いて得たお金は昔に作った自分の口座に入れている。親であっても勝手に引き出せはしないから、最低限の生活費と食費分だけ入れて自分の懐だけ温めている私は、見ようによっては確かに親不孝かもしれなかった。

 こんなことを思うのは、結局。

 ほんの二年前は心穏やかで優しい父だったのを忘れられなくて。

 そのくせ自分の希望のために躊躇なく割り切ってしまった自分が、醜くて堪らないから。

 

「稼いだ金も碌に入れず遊び歩いて! お前、親をなんだと思っているんだ!? 月ノ森に入れたんだぞ、いくらお前にかけたかわかるか!?」

「う、ぐ……ぁ」

「せめて養育費分くらい、役に立とうと思わないのかッ、この、グズ!」

 

 引き倒されて首を絞められそうになった。咄嗟に手を割り込ませてどうにか逃れているけれど、そのうち押し切られるだろう。そうなれば、ああ、死んでしまう。

 こんな深夜に抜け出してきて、何をしているのやら。

 帰ったら、オートロックを開けてもらわなくては。そよに知られたらまた叱られてしまいそうですし、どうにかこっそり戻りたいのですけれど。

 曲も仕上げないと。立希とアイデアを争っているサビのコード、私の案の方がドラマチックで素敵に決まっていますわ。

 手土産くらい必要かしら。睦にそれとなく聞いてもらえたら良いけれど、最近は自己主張が強いから好きなものを挙げるだけかもしれない。

 燈。

 燈になりたかった。

 隣り合って笑い合って、虚像ばかり追いかけるのは止めようと決めたけれど。

 壊れたままでいいとしても。

 ありのままでいいとしても。

 やっぱりあなたは、とても綺麗ですのよ。

 あれ、私は、何を言いたくて────

 

「──さきちゃんッ!」

 

 体が、軽くなった。

 

「ぐあっ……!?」

「離れて、離れてください、さきちゃんから……!」

「……ともり?」

 

 どうして。

 

「だっ……誰だ、勝手に入ってきて! 不法侵──」

「私の友だちに、ひどいこと、しないで……!」

 

 腕を広げて立ち塞がる背中は小さくて、はっきりわかるほど震えていて、小動物のような愛らしい顔はきっと恐怖に歪んでいて、ごく普遍的な正義を張り上げる声はか細くて、でも。

 暗がりに落ちゆくばかりだった父の足を、確かに止めてくれた。

 

「……君は、なんだ。親子の問題に口を挟まないでくれ」

「私は、さきちゃんの友だちで、家族でッ、運命共同体で! CRYCHICです!」

 

 だらりと諦めかけていた意気地なしの体をゆっくり起こす。

 立ち上がらなくてはならないでしょう。大事な仲間がこんなにも叫んでくれるのに、変わりたいと望んだ私がいつまでも寝転んでいられない!

 

「クラ、シック……? なんだ、それは」

「CRYCHICです、さきちゃんが集めた、私たちのバンドです」

「子供の遊びじゃないか! それがなんだって……」

 

「──私の、これからの人生ですわよ!」

 

 CRYCHIC。

 慟哭の声を瀟洒な歌に。

 過去の苦しみを未来への喜びに。

 私たちの願いの寄る辺。

 

「ええ、まだあなたに縛られていますわよ。でも、すぐには難しくとも、じきに出ていきますわ! 独り立ちして、自分で生きる糧を得て、大事な人たちと手を取り合って──ひとりの、人間として!」

 

 燈の隣に立たんと踏み出したら、後退りした父は腰が抜けたようにへたり込んだ。私を見上げる顔は恐ろしいものを見るようで……記憶の中にあった姿がかき消えていく。酒浸りで寝ていればこんなに痩せ細ってしまいますのね。

 絞められた首を摩る。大の大人が殺しにかかれば一分も保たなかったでしょうに、生きている。

 

「いい大人でしょう。私より余程、生きていく術は多いでしょう。子供に負んぶに抱っこで恥ずかしくありませんの?」

 

 父は黙ったまま俯いた。それはそうだ。会社が倒産して世間から誹謗中傷を受けて平然と再起を図れる方がどうかしている。無理を言っている自覚はあった。

 

「背広は?」

「……ある」

「でしたら、しゃんとなさい。……それと」

 

 燈の手を握る。心配をかけて申し訳ないけれど……今晩は、これを言いにきたのだから。

 

「月曜の夜、池袋のRiNGという場所でライブがありますのよ。 ──娘の晴れ舞台くらい、見に来てくださいまし。お父様」

 

 戸山先輩の言葉がリフレインした。独りは、いけない。人は独りになってはいけない。

 返事は聞かずに踵を返して繋いだ手を引く。酒瓶で転ばないよう丁重にエスコートしながら玄関を出る瞬間……まったく。

 大の大人が、泣かないでくださいな。

 

 

 

 

 

 ライブ当日。

 本番まであと……ええと、どれくらいだったかしら。

 

「…………形、には……なった?」

「おそらく……ねえ立希、やっぱりブラックアダーコードの多用は難しくなりすぎるかと思いますわよ」

「みんな弾けてるんだからいいじゃん……ていうかコルトレーンの進行ぶち込む方がバカだろ。コードチェンジ増えたらミスの危険も増すよね」

「みなさん弾けてますから構いませんでしょうに……」

 

 私たちは放課後に全力ダッシュしてRiNGに駆け込み、最終調整を行なっていた。

 というか今完成させた。

 ちょっと死にそうだった。

 

「仮眠を取りたいですわ〜……」

「床はやめろよ……せめて外のソファ行きなって」

「……」

「あら? うふふ……」

「燈まで……」

 

 制服だけどまあ、と冗談のつもりで寝転がってみたら隣に燈がやってきた。ちょっと不安げにころんと倒れ込んでまあ可愛らしい。

 

「……昨日のあれから仲良し度合い増したよね、ふたりとも」

 

 そよがじっとりとした目を向けてくる。気まずい。

 

 ──昨晩。燈と一緒にそよのマンションまで戻ったは良いものの。

 途中で彼女が抜け出す私を訝ってこっそり後をつけてきただとか、死んじゃったかもって思って死んじゃいそうだったとか、言うべきことを言って肩の荷が下りたとか逆に明日からが不思議と不安だとか、そんなことを話していたらぼろぼろ泣いてしまい。

 偶然起きていた立希がみんなを起こしてくれて中には入れたものの、燈と揃って大泣きしていたので言い訳どころでなく。

 挙げ句にそよのお母様が一旦帰ってきてしまったので、大混乱の末にふたりでそよの前に正座してお説教タイムパート2だった。

 最近は立希相手でも控えめだった嫌味のオンパレードを受け、私よりも猫を被った姿しか知らなかったらしいお母様の方がショックを受けていたのが記憶に色濃い。いや、怒らせておいてこんな態度もどうかと思うけれど。

 何にせよ、私の()()()()は既に周知のところだった。

 

「人生の区切りを共にしてしまいましたもの……いえ本当に、どうしてあんな無闇にドラマチックな……」

「し、心配だったから……」

「あなただって危険でしたのに、もう……」

「いちゃいちゃしなーい。うちでは許さな……仲良い分にはいっか。一日一時間までにしてもらうからね」

「畏まりましたわ大家さん」

「大家っていうか、部屋主はお母さんだけどね」

 

 話を聞かれた結果、どうも私の境遇にこれでもかと思うところのあったらしいそよのお母様から非常に熱心に誘われ、しばらく長崎家にご厄介になることになった。名目上は通いでやっていた家事代行が住み込みになる形で、きちんと給料が出る。

 ルームシェアだけ先に叶ってしまった訳でそよは複雑そうだったけれど……今朝、仕事に戻るお母様と何事か話した彼女はどこかすっきりした面持ちだった。良い変化であればと思う。

 

「……やばッ、和んでる時間もない! 撤収!」

「ウソ、立希ちゃんあと何分!?」

「二十分!」

 

 ならばリハスタの借用時間はあと五分。マナーがよろしくありませんこと!

 

「ケーブル類は手隙の私達で片付けますわ! そよと睦は足下を!」

「うん!」

「……っ」

「燈、ケーブル巻ける……上手だね」

「う、うん……っ! 八の字巻き、得意……!」

「偉いですわよ燈! RiNGでバイトを始めることがあっても安心ですわね!」

「は!? 燈はカフェスタッフとして穏やかにコーヒー淹れてるのが一番に決まってるだろ!?」

「喧嘩してる場合じゃないでしょ!?」

 

 そよに一喝されて静まったけれど三秒もすれば「よく考えたら燈はリペアスタッフとかのが楽しそうじゃない?」「いえPAアシスタントなどで機械を触るのも」「バンドマンの前に燈を差し出すわけにいかないだろ!?」「そんなのリペアだって変わらないどころかあちらは対面ですわよ!?」「ふたりともうるさい!」などと喧嘩になる。

 これのどこが瀟洒(Chic)なんですの。ぎゃーぎゃー姦しく、下らないことを本気で言い争って。今からJOYFOOL(ジョイフール)などに改めた方が相応しいのではなくて?

 

「クライシックー、いるー?」

凛々子(りりこ)さん!? はいっ、CRYCHICいます!」

「すぐ出ます!」

「あはは、大丈夫大丈夫。前のバンドちょっと押してて余裕あるから落ち着いておいで~」

 

 当然落ち着けるはずもなくバタバタしながらリハスタを飛び出し、息せき切ってエフェクターボードだの楽器だのを舞台袖へ運び込んだ。

 会場はまずまずの熱気。似た名字二人組のアコギデュオの脇で眺めているのは──

 

「戸山先輩! それに、美竹先輩も」

「やっほー! 今日よろしく!」

「……よろしく」

 

 Poppin'PartyにAfterglow、人気バンドのギターボーカルたちだった。他のみなさんはいないけれど準備は万端なのか、おふたりは既に衣装に身を包んでいる。……私達も何か用意しましょうかしら?

 後ろで「あっあっあAfterglowさん……!?」と早速ダメになりつつある立希を対面させてあげるべきか逡巡していると、美竹先輩の方から控えめに「……ねえ、祥子」と尋ねられた。

 

「……体調、崩してたって聞いたけど」

「あら……ふふ、元気になりましたわ。お気遣いありがとうございます」

「そっか」

 

 気難しそうな表情がかすかに和らぐ。ぶっきらぼうだけど優しい人だ。このライブハウスはどうしてかそんな人が多い。

 筆頭はこの人だ。「戸山先輩、一昨日はありがとうございました」「あ、ありがとうございました……!」とみんなで深々頭を下げる。戸山先輩は一瞬きょとんとして、それから「あーっ! ううん全然全然!」と恐縮そうにわちゃわちゃ手を振った。

 

「気にしないで大丈夫だよ! さーやだけじゃなくて、おたえとか凛々子さんにもすっごい助けてもらったし! 負担は軽め!」

「胸張っちゃダメでしょ……」

 

 そんなツッコミを入れられて戸山先輩は「でへへ……」と格好を崩した。アルバイトのこと以上に賜った金言の方だったのだけれど、まあいいか。

 戸山先輩の大変そうな様子が気になったのか、控えていたそよが余所行きの笑顔を浮かべて近づいてきた。

 

「さきちゃんのお仕事ぶり、どんな感じですか〜?」

「祥子ちゃんすごいよ! いっぱい頑張ってる!」

「そうでしょうか……?」

「そ、そうだよ……! さきちゃんは、いつも頑張ってる……!」

「燈ちゃんの言う通り! いつも頑張ってる! えらい!」

「……ちょっと恥ずかしいですわ」

 

 燈と一緒になって褒めそやされてニヤけてしまいそうだった。心機一転したとて根っこの高慢さと自己顕示欲の高さは変わりなく、プライドをくすぐられると弱い。

 もにょもにょする私に、美竹先輩がぽつりと言った。

 

「……うん。祥子がいないと寂しいって子、結構見るし。頑張ってる証拠じゃないかな」

「そう! 祥子ちゃんきびきびしてるし優しいし、評判いいの!」

「へ?」

 

 ……今度は、私がきょとんとしてしまった。お給料を頂いている以上は相応の働きをしているつもりだけれど、そんなにだろうか。

 

「私なんか昨日五回くらい『えー香澄ちゃんなのー?』とか『祥子ちゃんを解放しろー!』って言われたのに!」

「……まあ、戸山先輩はあんまり頼りになんないですし」

「なにをー!?」

「……ともかく。RiNGに通う子たちにとって祥子はいつも通りそこにいてくれる、なくてはならない存在……なんじゃ、ないかな」

「蘭ちゃん照れてる?」

「うるさい。……あんまり後輩と顔合わせないから」

 

 ふいっとそっぽ向きながら、それでも美竹先輩は最後まで言葉にしてくれた。胸の奥がじわじわ温まって、まだ治る様子のない罅割れから気持ちが溢れ出してしまう。

 

「ふ、ぐすっ……ありがどうございます……」

「わぁっ!? だ、大丈夫? よーしよーし……」

「さきちゃん、ハンカチある……! フンボルトペンギン……!」

「かわいい!」

「ごめん、恥ずかしかった……?」

「うれじいでず……」

「なに先輩の手を煩わせてッ」

「まあまあ」

 

 ぐすぐす泣きながら思い出すのは戸山先輩の金言だ。ひとりじゃない。ひとりじゃないのだ、私()は。誰かが誰かと繋がって生きている。

 人の間と書いて人間とは、よく言ったもの。

 

「わたくし……いま、人間ですわ……!」

「ど、どゆこと!?」

 

 せっかくだからきちんと説明したかったけれど、涙が溢れて溢れてどうしようもない。見かねたようで背中から「あ、あの……!」と燈が姿を現す。

 

「香澄さん、美竹先輩……さきちゃんを、認めてくれて……ありがとうございます……!」

「高松燈さん、だよね。祥子がいつも自慢してる」

「は、はい、そうで……さ、さささきちゃん……!? なんの話……!?」

「……今はいいじゃありませんの」

 

 立希がすごい目で私を見ている。春日影のここがいいあれがいい燈のあれがすごいこれが可愛いと触れ回っている恥の事実は流してほしい。違った意味で泣きそうだ。

 私は羽沢珈琲店でよくお見かけするけれど、そういえばみなさんとは交流がなかったのか。美竹先輩は私たちをためつすがめつ眺めると、小さく頷いて。

 

「……ん、悪くないじゃん。リラックスできてて」

「……それは、家族と、いるから」

「家族?」

「友だちで、家族で、運命共同体で、CRYCHICです。私たち」

「……そっか」

 

 美竹先輩の表情はただ燈が微笑ましかっただけじゃないような、万感の籠もったものに感じた。

 どんな思いがあるのやら、探るのは無粋だろうけれど気になってしまう──聞くか聞くまいか悩んでいると前のユニットが演奏を終えたようで、舞台の裏まで拍手の音が流れ込んでくる。

 

「あっ! 次って祥子ちゃんたちだよね!」

 

 戸山先輩が応援団みたいに両拳を握った。

 

「……頑張れ、CRYCHIC」

「いってらっしゃいっ!」

「……はいっ、いってきます!」

 

 すれ違いざま、戸山先輩は私たち全員とハイタッチをしながら送り出してくれて。

 それを静かに見送っていた美竹先輩は、最後にいた燈の背中をそっと押してくれた。

 

 

 

 

 

 初めてのライブは瞼の裏に鮮明だ。燈の歌声と詩が響き満たすほどに観客──特に同年代の女の子たちが涙していた。その軌跡が美しくて流星群のようだなんて思ったのを、よく覚えている。

 

 そして、今。

 ずっと深みを増した燈の歌がフロアを飲み込んでいく様に、私は末恐ろしさすら感じていた。

 

「いつしか頬を きらりきらり 熱く 熱く濡らしてゆく──」

 

 ピアノのタッチが偏西風に包まれて暖かさを帯びていく。モデリングサウンドの固いハイが涼風に思えるような熱量が声に乗り広がっていく。

 もともと、情感をたっぷり含んだ彼女の声には惹きつける魅力があった。それが今や吐息ひとつ取っても鋭さと甘さがシームレスに切り替わって──歌に演奏が引っ張られて、景色を作らされる。

 高気圧が立ち込めていた。花の匂いがする。湿度とほのかな温かさで春の気配に抱き締められているような錯覚が、秋を押しのけて。

 

「君の手はどうして こんなにも 温かいの」

 

 歌の緩急がうねりを起こしてバンドを飲み込む。息を合わせるなんて言葉が可愛く思える同調。立希のシンバルがそっと飛び立って、歌の上にどこまでも吹き抜ける空を描く。足跡を刻むそよのベースラインが飛んでいきそうなアンサンブルを捕まえる。睦のギターが歪みを帯びたクリーンで風を立てる。

 ふわりと浮かび上がる花雲の歌。

 日差しのもとへ連れ出す愛の歌。

 あのときの私たちの歌。

 

「ねぇお願い どうかこのまま 離さないでいて」

 

 私の方へ伸ばされた手を取ろうと片手が浮いて疎かになりかけた演奏を、笑みだけ返しながらどうにか完遂した。

 歌い終えた熱の滞留するフロアに歓声が轟く。ステージを取り巻く声援が心地よくて、それを仲間と共にできるのが嬉しくて、クーラーの冷たさが鼻の奥にツンとして、肌が興奮に粟立って……なんのしがらみもない豊川祥子になれる気がして、ライブが好きだった。

 酸素を求めて浅くなる息をそのままに紅潮した顔で天井を仰いで、燈はマイクを握り直した。

 

「……く、CRYCHICです……こんばんは」

「こんばんはー!」

「ひっ」

 

 もうそこそこライブをしているのに、毎回大きな声で帰ってくる客席からの返事に燈はいつもびくびくしていた。可愛いからいいけれど、でも慣れてもよろしいのではなくて?

 一生懸命深呼吸する燈を見守っていると、その隣のそよがペグを回していた左手で小さなサインを作った。畏まりましたわ。

 

「あ……」

 

 いつか弾いてくれた月の光をピアニッシモで。穏やかな夜想曲はライブ会場には相応しくないかも知れないけれど……私達はCRYCHICだから。

 幽玄な主題は熱狂と混ざり合い静かに引いた。高まりはそのまま、期待をじっと留めて言葉を待つ。

 

「…‥新しい曲、作ってきました。春日影は春の私たちの歌だけど、花が咲いていたあの頃のもので……夜の長引いていく今のものじゃないから」

 

 目を伏せ、静かに語る。

 CRYCHICで初めて集まったとき彼女を作詞の天才と呼んで紹介したのを覚えている。でも今思えばそれだけでなく、言葉の天才と呼ぶべきなのかも知れない。小さく吃っても耳を傾けることに嫌な気はせず、そして顔を寄せれば純真な瞳で美しい感性を突き刺してくる。

 

「天気がどうでも、夜は来てしまう。ひとりでどこかへ向かう途中、暗闇を歩かなきゃいけないこともある……その空にせめて、この歌が浮かんだらいい。私たちは月でも太陽でもないけど、間に放たれた言葉は、何にでもなれるから」

 

 目配せ。

 月の光が消える。

 照明が落ちる。

 鍵盤に指を置き直し、同じ呼吸をした。

 

「──悲しみが光ってた 散る花に目を奪われた 周りと同じ綺麗をうまく拾えなくて 石の区別はできるのに 心の形はわからない 胸の内の空っぽに俯いてばかり」

 

 燈と、私にだけスポットが差した。

 こぼれ落ちた和音が四分音符の波紋を広げていく。変ニ長調、寂しげなメジャーセブンスから心ひしゃげるブラックアダーコード、マイナーコードに帰結する悲しみと孤独の色彩。

 小節の頭にそっと添えるだけの繊細な伴奏があるのみ。燈の声が不安げな色を帯びたまま、ひとり場内に揺れている。

 

「一滴ずつ満たしていく コーヒー 440ヘルツ 夜と闇が違うこと 日の当たる場所に連れ出してくれた手の温かさ」

 

 ディミニッシュを挟みながら左手のベースが滑らかに降りていく。燈は向かい合うように私の前へやってきて、両手でマイクを握ったままくしゃりと泣き笑いを浮かべた。興奮で赤らんだ頬に浮かべているのは悲しげな歌詞とは裏腹な、幸福。

 

「歩道橋を渡っていく 暗がりを歩んでいく 今度は──」

 

 伸ばしてくれた手を、絡めとるように握って。

 

「──僕が手を引くよ」

「……ええ、お願いしますわ」

 

 凛々しいお顔に返事をすると、燈は微かに目を見開いて嬉しそうに綻ばせる。私はこれでも胸を高鳴らせて答えたのに、ちょっとつれないですわ。

 ドミナントの借用から、またルートを半音下降で結ぶブラックアダーコード。繊細なピアニッシモの連続の中で一瞬、強く。

 

「正しさが耐えることを強いるなら 一緒に間違うから 罅に差す月明かりが 君を癒せるのなら その色になりたかった」

 

 頽れた私の涙を抱き止めてもらったことを思い出すと、自然と指先に力がこもってしまう。

 ……魂柱の倒れた私を人に戻してくれたあなたを、妬まなかったと言えば嘘になってしまいますわね。

 ずっと──ずっと、どこかでバンドメンバーを見下していた。私が()()()()()()という意識があった。財と能力に恵まれた自負があって、謙虚な振る舞いを心得ていても傲慢さは隠し切れなかった。だから足元が崩れ去ったとき、CRYCHICを辞めようと、逃げ出そうと考えてしまった。

 でも。

 強引にでも辛い現実を忘れさせてくれて、輪の中に連れ戻してくれて。その優しさが眩しくて──あなたのようになりたいと、真に優しくなろうと、心を改めることができて。

 

「わかるよ わからないよ 理解なんてとても傲慢だけど 涙が澄んでいることだけは 声零すそれが綺麗なことだけは 伝えられたなら」

 

 間奏、歌のメロディをなぞる。サビはロングトーンから入るから燈の声がよく映えるけれど、鍵盤でもなかなか悪くない。

 いつだったか、曲のフレーズに悩む立希にアドバイスをしたことがあったけれど、この曲では凝ったアイデアを押し付けあって言い争いまでして。……ふふ。サビのメロディはあなたの勝ちですわね。

 折り返しでドラムが入る。バスドラムは控えめに、ハイハットの煌びやかさとリムショットで穏やかに刻むビート。お姉さんへのコンプレックスがあって技術をひけらかそうとする嫌いがあったけれど、今は必要なことを百二十点でこなすことだけ考えている。

 燈が変えたのは、私だけじゃない。

 

「壊れるのはすぐで 歪みは正せなくて 周りと同じに見せかけた傷が痛むばかり 花の区別はできるのに 人の形はわからない 絆創膏の貼り方もぎこちないまま」

 

 簡単なピアノのオブリガードから、ギターのシンプルなストロークとベースの一音を伴って二番へ。

 睦は主体性こそ薄いけれどやり甲斐を求めないわけではなくて、簡単なことばかりお願いすると拗ねてしまう可愛いところがある。私が泣き叫んだあの日まで、睦はたぶんバンドを楽しいだなんて思っていなかっただろう。単に、簡単だったから。

 そよも家の外に初めて居場所ができただけで、言ってしまえば誰でもよかったのだ。CRYCHICに出会わなくても、たとえばデリカシーの欠片もなく振り回してくる友人でもできればそれなりに安らぎを得たに違いない。

 

「一滴ずつ零れていく 妬み 523日 見ないふりの薄氷 幸せを注ぐほど奥底の澱みが罅から滲む」

 

 睦は燈の歌にピアノとは違う色彩を添えようとストロークの速さやピックの角度ひとつまで拘って、歌を立てて影になる演奏を徹底している。そよは小節の頭だけルートを伸ばしながら、飾り付けのアルペジオに回った私の代わりに低音のカウンターメロディを弾いたり、自己主張が見えるようになった。

 変わっていく。心に罅のあった壊れものたちが、優しさに包まれてゆっくりと。

 歌詞に意識が及んだ──あぁ、あの雨の日から、500日も経っていましたのね。

 妬みと薄氷は、わかっている。

 それでも歩くための歌だ。

 

「交差点を渡っていく 三日月だけが知っている 決意を僕にも分けて」

 

 みなさんと歩いていくための歌を、燈が書いてくれた。

 

「正しさが傷つくことを強いるなら 一緒に壊れるから 罅を伝う一雫が 君を濯げるのなら その雨になりたかった」

 

 ピアノはサビらしく両手伴奏で大胆に。ギターは歪みを増して壁を作り、無駄を排したドラムの上をベースが牽引する。ロックバラードのサウンドが星のように青白くステージを開いて照らす。

 この歌を書いている最中、相談に来てくれた燈もまた傷を打ち明けてくれた。涙を綺麗だと、あまつさえ集めたいとすら思ったこと。酷く沈痛な面持ちで話してくれた彼女に、私はつい笑ってしまった。

 だって、この歌は。

 こんなに穢い私の涙すら、美しいと言ってくれるのだから。

 

「わかるよ わからないよ 君の痛みを引き受けてあげられない痛みは 祈って 抱きしめて それから僕にできることは」

 

 サビの最後でちょっと不安げに私の方を振り返る。こんなラブレターを書き上げておいて何を、と感想を返したのは記憶に新しい。呆れてピアノを高音域に逃がしてやれば、不安を吹き飛ばすような轟音がそこへ滑り込んだ。

 ギターソロだ。深いリバーブと、銀色の大きな筐体のエフェクターで生み出す凶悪なまでの歪みが哀愁を帯びて絶叫する。細かく刻んでどこまでもサスティーンを伸ばす速弾きからリズムを崩した泣きのメロディ。言葉数の少ない睦なりの、きっと激励だ。

 フィードバックノイズが高鳴りクライマックスへ昇っていく。飽和していく。いっぱいに溢れるバンドの音と同じくらい心臓がうるさくて破れそうではち切れそうで、堪えるように前屈みで鍵盤を叩いて、叩いて、叩いて──

 

 気づく。

 手に、滴る雫。

 みなさんの頬にも。

 

「……ああ、そうですわね」

 

 あなたのいうとおり。

 涙は、こんなに美しい。

 

「正しさが星の数だけあって ひとりはひとりのまま それでも寄り添った僕ら 体が隔てるから 全てはわからなくても」

 

 一瞬のブレイクを燈の声が切り裂いた。

 私達と、観客のひとりひとりと目を合わせるようにステージを歩きながら、体を曲げて、捻って、魂の底から叫んでいる。

 

「わかるよ わかるって言うよ 理解なんてとても傲慢だけど 涙が澄んでいることだけは 声零すそれが綺麗なことだけは 伝えたいから──」

 

「──ずっと、隣にいて」

 

 そう歌う彼女に、今度は私から。

 伸ばした手を絡めとるように、握ってみせた。

 

 アウトロはなし。最後の残響が消えていく中で、客席に背を向けたまま燈は呟く。

 

「……ドラム、椎名立希。たきちゃん。ベース、長崎そよ。そよちゃん。ギター、若葉睦。睦ちゃん。キーボード……豊川祥子。さきちゃん。それから、歌、高松燈」

 

 振り返って決然と、一歩、前へ。

 

「私の……友だちで、家族で、運命共同体でッ、未来で! ──これが、CRYCHICです! 悲しいことはあるけど、暗闇にすくむことも、雨に冷えることもあるけど、それでも!」

 

 熱が入るあまり目配せどころではなさそうだと予想の通り。そよと苦笑して、立希と挑発的に睨み合って、睦と信頼と共に頷き合って。

 

「全部連れていくのが人生、らしいから……今の、これからの私たちの最初の一歩をどうか、聞いて──」

 

 スティックカウントはハイテンポ。

 鍵盤は晴れに向かう風を──さぁ、瀟洒に参りましょう。

 

「──壱雫空(ひとしずく)!」

 

 

 

 

 

「さきちゃん! こっちこっち!」

「お待たせいたしましたわーっ」

 

 すっかり冷え込む十一月は秋晴れの土曜日。脱いだコートを脇に抱えながら、私は恥も外聞もなく手を振ってみなさんのところに駆け寄った。

 江戸川楽器なんて初めて来たから迷子になりかけてしまった。睦が通販で弦を揃えていてそよは部活で購入、立希は燈がいない限り一緒に来てはくれませんし。道なんてわかりませんもの。

 

「はあっ、はあ……まさか、約束に遅れてしまうとは……」

「さき、ハンカチいる?」

「……大丈夫ですわ」

 

 まだ泣いていない。息を整えて深呼吸をひとつするけれど、吸えど吐けども息が落ち着かないどころか心臓も跳ねっぱなしだった。

 

「……ど、ドキドキが止まりませんわね!?」

「落ち着……や、初めて自分で楽器買うなら、こんなもんか」

「大丈夫大丈夫、お店は逃げないからね〜。それより、走ってお金落としたりしてない?」

「……問題ありませんわ!」

「迷うなよ」

 

 こんなに慌てたのなんて家無くした初日くらいなんですから仕方ないじゃありませんの、という没落ジョークが口をついて出そうになったところで、燈が私の袖をちょんちょんと引く。

 

「お、落ち着いて……落ち着いた方が、たぶん、楽しみが大きいから」

「燈……そうですわね!」

「んぎゅ」

「おい引き剥がすぞ」

「うん」

「あー!」

「さき、感情表現豊かになったね」

 

 マンゴージュースのストローを咥えた睦の声がどことなく呆れていた。

 でも、仕方ないのだ。

 ようやく自分の鍵盤を買えるのだから。

 

 ──あのライブの後。

 

 会場のどこにも父の姿はなくて。どこか気もそぞろに打ち上げを終えてそよの家に戻り。

 お母様にこれからのご挨拶などをしてから一旦様子でも見ておこうと実家に戻ったら、父の姿も、酒瓶の山もなくて。

 すわ失踪かと青ざめた私が見つけた置き手紙には「履歴書を買ってくる」という情けない細い字で。

 心配するのも癪で数日ほど帰らない日々が続いた後に口座を見ると、二十万円ほど振り込まれていた。

 まあ、そういうことなんだろう。

 

「案外、この予算ならそれなりのものを買えそうですわね」

「それなりどころか良いやつ買えるよ」

「お父さんの方は根っこの金銭感覚がお金持ちのままっぽいよね」

 

 まったく仕方のないクソ親父だけれど、多少はマシになっただろうか。……今日くらい、お礼を言いに帰、いえ今度にしましょう今度に。第一ほとんど最低限とはいえ無職男性より私が家に入れたお金の方が遥かに多いですわよ。お礼なんて言ってたまるものですか。

 

「なんにせよ、やっと私自身の楽器でCRYCHICに参加できますわ」

「……そんなに違うもの?」

「違いますわよ! だって、これでようやくみなさんと対等ですもの」

 

 キーボードのコーナーであれこれ目移りしながら、興味深そうに鍵盤を押していた睦に答える。

 これまで私と燈がバンドの主体ではあったけれど……いや、だからこそだろうか。自分の楽器が使えないというのは心理的に結構な重荷だったのだ。それと、そよの家に楽器を持って集まろうというときに自分だけ何もないのが寂しい。

 あら、目当ての品はこれですわね。

 

「……購入カードは、よし。買ってきますわ!」

「それにするの? 予算的にもっといけそうだけど」

「……それ、春日影を初めて、やったときの」

「ええ!」

「……あの、ついていっていい? 買うとき」

 

 燈が上目遣いでそう言う。私が燈のお願いを聞かないわけないじゃありませんのまったくもう。「もちろん!」と我ながら浮かれた声で返事をすると、嬉しそう、というより安堵を浮かべた。

 

「どうしましたの?」

「……その、見届け人、です」

「みとどけにん」

 

 見届け人?

 

「あ、じゃあ私もついて行こうかなぁ。睦ちゃんは?」

「……いく」

「…………ここでたむろしててもしょうがないし、行くなら早くしようよ」

「まあ!」

 

 全員総出とは。

 レジに持っていくとメンバー勢揃いで現れた私達に店員の方が目を丸くして、それから私しかお金を出さないのを見てもう一度びっくりしていた。確かに割り勘っぽい構図ですわね。

 ただ、みんなで見にくるというのもよくある話だという。

 

「そうなんですの?」

「うん。やっぱりメンバーにとっても大きな出来事だしねー、仲間が楽器買うって。でも、総出はちょっとレアかも」

「私たちは……友だちで、家族で、運命共同体で、CRYCHIC、なので」

「クライシック……バンド名? おっけ、ライブの日程とか調べて見に行っちゃうから」

 

 快活に笑って、ケースに入れたキーボードが引き渡された。

 会計を済ませて外に出る。持つにはかなり重たいけれど、ずっしりと肩に掛かるストラップの感触に胸が高鳴る。

 

「……買えましたわ!」

「おめでとう!」

「……おめでと。そよの家寄って楽器持ってくる?」

「いいじゃない! それからRiNG行って、みんなで楽器弾こうよ!」

「……燈、あの曲」

「あ、う、うん! あのね、新しい曲……今度は、星の歌、作って来てて……」

 

 涼しいのに、みんながいると温かくて。

 不揃いな足音が心地良くて。

 悲しみは、尽きないけれど。それでも。

 慟哭の声は瀟洒な歌へ。

 現在(いま)は礎へ。

 

「ふふっ……じゃあ、急いで帰りますわよ!」

「わ……」

「こら、燈を引っ張るな!」

「あ、待ってよ! 睦ちゃん、行こ?」

「……うん。みんなで」

 

 この一歩で乗り越えていこう。

 CRYCHICの豊川祥子は、これからも生きていくのだから。




声零心(こわれもの) 歌詞全文

悲しみが光ってた 散る花に目を奪われた
周りと同じ綺麗をうまく拾えなくて
石の区別はできるのに 心の形はわからない
胸の内の空っぽに俯いてばかり

一滴ずつ満たしていく コーヒー 440ヘルツ 夜と闇が違うこと
日の当たる場所に連れ出してくれた手の温かさ
歩道橋を渡っていく 暗がりを歩んでいく
今度は僕が手を引くよ

正しさが耐えることを強いるなら 一緒に間違うから
罅に差す月明かりが 君を癒せるのなら その色になりたかった
わかるよ わからないよ 理解なんてとても傲慢だけど
涙が澄んでいることだけは 声零すそれが綺麗なことだけは 伝えられたなら

壊れるのはすぐで 歪みは正せなくて
周りと同じに見せかけた傷が痛むばかり
花の区別はできるのに 人の形はわからない
絆創膏の貼り方もぎこちないまま

一滴ずつ零れていく 妬み 523日 見ないふりの薄氷
幸せを注ぐほど奥底の澱みが罅から滲む
交差点を渡っていく 三日月だけが知っている
決意を僕にも分けて

正しさが傷つくことを強いるなら 一緒に壊れるから
罅を伝う一雫が 君を濯げるのなら その雨になりたかった
わかるよ わからないよ 君の痛みを引き受けてあげられない痛みは
祈って 抱きしめて それから僕にできることは

正しさが星の数だけあって ひとりはひとりのまま
それでも寄り添った僕ら 体が隔てるから 全てはわからなくても
わかるよ わかるって言うよ 理解なんてとても傲慢だけど
涙が澄んでいることだけは 声零すそれが綺麗なことだけは 伝えたいから
ずっと隣りにいて
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