昭和十九年二月五日、一時三十八分。蹄桜寮食堂棟二階、廊下。
オーブとの会合を成功裡に収めたリフィーニは、意気揚々と廊下を歩いていた。
階段室の手前に差し掛かったとき、その耳が階段を上がってくる一団の足音を捉えた。リフィーニはさっと身を翻して手近な休憩室に滑り込み、在室を示すスイッチを上げた。
直後、階段室のドアが開いて、足音がなだれ込んできた。そっと扉に耳を当てて、音の主を探る。
「……ソスの奴、夜中に呼び……」「……のおかげじゃないか。向日……」「……という生徒は信用……」
足音はそのまま、廊下の奥へ消えていった。
いくつか聞き取れた言葉を反芻する。おそらく、このどこかにピルソスがいる。そして、少なくとも向日会が呼び出されている。信用という言葉から察するに、何か内部に不和があるか、一部勢力が不安視されている。
「これは、速く動いたもの勝ちのようね」
スイッチを下げて部屋を出たリフィーニは、静かに自室へと足を向けた。
その直後、休憩室の一室。
室内にはピルソスと、一人の生徒がいた。
「遅くに悪いね」と、ピルソスが座布団を勧める。
席についたのは、向日会のシンドウゲッカ、緑閃党のダクティリオスとリコッタ。そしてカズラキであった。
「最初に紹介しておこう。彼女はオータムユーメン。秀愛会から離脱したことは知っているだろうが、正式に我々に協力してくれるそうだ」
手で示されて、ユーメンはそっと頭を下げた。ピルソス以下の面々は皆一年先輩なので、遠慮しているようだ。
「それだけのために呼びつけたのか?」と、ダクティリオスが苛立たしげな目を向ける。
「物事には順番というものがあるだろう、ダクティ」
ピルソスはそうたしなめると、湯気を立てる湯呑みを傾けた。
「本題は、練習生の取り込みについてだ。すでに副会長は一部の練習生を囲い込んで扇動している。君らも、立場にあぐらをかいている場合ではないのだよ」
「向日会は会派の練習生は十分にまとめている。足らんと言うのか」
ゲッカの発言を、ピルソスは手を挙げて遮った。
「君の統率力に疑問はないよ、ゲッカ。しかし練習生だけで千四百は居る。たかが百程度を確保しただけでは、焼け石に水もいいところだ」
「それは、私たちへの嫌味にも聞こえるぞ」と、ダクティリオスが睨みつける。
「緑閃党は代替わりしたばかりで、多少の齟齬は織り込み済みだろう」再びピルソスがたしなめる。
「そう喧嘩腰にならないでくれ。建設的に話を進めよう」
ピルソスは咳払いをすると、ちゃぶ台に一冊のノートを開いた。
「各自治組織の現状を簡単にまとめた。今後は、これを基準に動いてもらいたい」
一同の視線がノートに集まる。ダクティリオスの後ろから覗き込んでいたリコッタの耳が、ぴんと動いた。
「あのお」
「なんだい?」とピルソス。
「この、峰鉄会というのはどういったものでしょうか」
「ああ」ピルソスの口角が、にやりと歪んだ。
「それは彼女に率いてもらう、新しい組織だ」
振り返るピルソスの視線の先で、オータムユーメンがすっと背筋を伸ばした。
「入会条件は学園のために力を尽くせるかどうか、それだけだ。明日にでも全校に公表する」
揚々と語るピルソスに、ゲッカは「そんないい加減な」と漏らした。
「こちらは先手を取られている。もはや手段を選んでいる場合じゃない」ピルソスは勢いよく立ち上がった。
「副会長はすでに生徒会に練習生の代表を入れること、そして高等科生には各委員級への立候補も認めるという二つの公約を掲げている。私たちも余計なしがらみを捨てて立ち向かわなければ、あっという間に天秤は傾くぞ」
「しかしねえ? ピルソス」
カズラキが口を挟んだ。
「練習生にとっては暁光もいいところじゃないの。私たちに勝ち目は薄いように見えるけど?」
「カズラキ、君は視野が狭いぞ」
ピルソスは編み込んだ髪を揺らして胸を反らし、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「物事は長い目で見たまえ。私たちには、優蹄会をはじめとする諸先輩方がついている。推薦候補もいる。対立候補が副会長だけとなれば、リリウムフラーヴ先輩以来の決選投票となるだろう」
「……で、手を貸せと?」
ダクティリオスの猜疑に満ちた瞳がピルソスを貫く。
「当然じゃないか。君たち自治組織は生徒会の承認によって存続できているのだ。その立場をよく理解したまえ」
「あの、質問をよろしいでしょうか」
ダクティリオスの後ろで、リコッタの手が上がった。
「なにかな?」と、ピルソスが鷹揚に答える。
「秀愛会は今後、生徒会の決裁によって認定を取り消されるのでしょうか」
意外にも、ピルソスは即答しなかった。唇を湿らせて、わざとらしく顎をつまんでみせた。
「──そうだ。と言いたいところだが、大正七年に定められた校則によれば決裁権は生徒会長にある。また二月以降、卒業予定であるアザーレア会長の権限は縮小されている。つまり決着が付くのは四月。秀愛会の解体は、新生徒会長が判をつく最初の仕事になるだろう」
「では、その峰鉄会というものも四月までは実体がない、ということになりますが」
リコッタの指摘に、ピルソスの耳が絞られた。当然ながら、決裁を受けていない組織を立ち上げることそのものは校則にはなんら反しない。ただしそれは、正規に認められた組織であることを意味しない。リコッタの指摘は、その矛盾を的確に突いていた。
余計なことを──と、ピルソスはリコッタを睨みつけた。それから冷静に耳を立て、咳払いをひとつ。
「しかし考えてみたまえ。今日残っている組織は、第十九代レッドガーベラ先輩の代に再編されたものばかりだ。各組織は結託して各々に属する生徒の数を盾とし、以て存続を許された。その前例に倣い、峰鉄会も人的物量を盾に裁可を迫る。もちろんペールスターチスは断るまい。支持基盤を無碍にするのは、タコが自らの足を食べるようなものだからな」
「つまり──」疲れを含んだゲッカが声を上げた。
「我々は新組織の云々に口を出さず、各々の組織をきちんとまとめておけ。そういうことだな?」
「結構だ」
満足げなピルソスの後ろで、オータムユーメンがそっと頭を下げた。
「では諸君。遅くまでご苦労だった。今後も一致団結、学園の安定のために協力してくれたまえ」
翌二月六日、午前五時二九分。
起き出したダクティリオスは、ドアの隙間から一枚の封筒が差し込まれていることに気がついた。中を読んだダクティリオスが慌ててドアを開ける。廊下には、緑閃党の名簿や議事録が膝の高さまで積まれていた。
リフィーニ、ノーブルレインボーに続いてリコッタの脱退。緑閃党は、わずか二日のうちに三人の候補生を失ったのであった。
午前九時七分。
西棟一階・生徒会資料室。
その扉は随分とくすんでいた。中を覗き込もうにも、扉にはめ込まれたガラスには暗幕が掛けられている。しかし柱には在室と書かれた札が出ていることを確認したアスターは、深く息をついてから扉に手をかけた。
「スピリオリトス、いるかい?」
呼びかけてみるも、返事がない。
薄暗い室内は、全ての窓に暗幕が引かれていた。古い紙と墨の臭いが押し寄せて、アスターは眉を寄せた。
部屋を見渡せば、壁面は書架で占められていた。収める場所が足りないのか、中央では背中合わせにされた書架が随分と幅をとっている。乱雑に年度だけが墨書きされた木箱と、机の上に山のように積まれた書類。目を落とせば、足元にも紙が散らばり、膝のあたりまでただ積み上げただけの帳簿には、すっかり埃が積もっている。
「リトス、いないのか?」
「はぁい。どちらさまぁ?」
乱雑に積まれた書類の山の中に一対の耳が生えて、一人のウマ娘がぬらりと現れた。埃のついた制服と、左袖には生徒会の腕章。暗幕の隙間から差し込む光に、分厚い眼鏡のレンズがぎらりと反射する。
彼女は眼鏡の奥で目を細め、アスターをじっと見つめた。数秒あって、やっと気がついたように粘っこい笑みを浮かべた。
「なんだアスタぁ。こんな埃臭いところに何の用ぉ?」
「ちょっと探し物にね。今いいかな?」
「ひっひっひ。伏魔殿の底を浚うほどの探し物ぉ?」
「大正十一年か、それ以降の選挙詳報だ。奥にあっただろう」
答えながら積まれた紙の山を縫って、アスターは選挙関連資料と書かれた半紙が貼られた棚の前で足を止めた。
「ここか」
「ああん。だめだヨぉ」
リトスは頭を引っ込めたかと思うと、アスターの真横から現れてその手を掴んだ。どこまでも謎なウマ娘だ。
「勝手にいじらないでヨぉ」
思いの外強い力で掴まれて、アスターは手を引っ込めた。仕事熱心なのは良いことだ。たぶん。
「すまない。持ち場を邪魔するつもりじゃないんだ」
「許してあげるよぉ。ところで、なンに使うのさぁ?」
「ちょっと手詰まりでね。先輩方のお知恵を拝借しようと思った訳さ」
わざとらしく肩をすくめてみせたアスターに流し目を寄越して、リトスは大きくため息をついた。
「ならぁ、ちょっと遅かったねぇ」
「まさか、処分してしまったのか?」
「とぉんでもない」リトスは机の上にあった一枚の紙を突き出し、「これのせいで、全部持っていかれたのぉ」
その紙には「資料整理の必要性に鑑み以下資料を生徒会第三会議室預かりとする」と刷られていた。
署名はもちろん──「ピルソスか。やられた」
「ひっひっひ。奴の方が一枚上手だったねぇ」
不健康そうな手が伸びて書架の扉を開く。中身は、すっかり空になっていた。
生徒会の生徒が生徒会の書類を持ち出そうとする時、その正当性を疑う者はまずいない。それらしい理由がついていれば、断る理由を探す方が難しい。
床に置かれた木箱をがちゃがちゃと漁ってサイダーの瓶を手に取ったリトスは、王冠を指で弾き飛ばした。
「ぷはぁ。アタシも立場上断れないの、わかってくれるでしょぉ?」
リトスに責がないだけに、先手を取られた悔しさでアスターは唇を噛んだ。
「ところでアスタぁ」
ベタつく声に好奇心を滲ませて、リトスがアスターの耳に顔を寄せた。
「アンタ随分暴れ回ってるらしいじゃないのさぁ。アタシにまで聞こえてるよぉ」
切り札と目した手を封じられて半ば自棄になったアスターは、その言葉に自虐的な笑みを浮かべた。
「そうだろう? ウワサの台風の目がここにいるのだ。もしかすると強風を巻き起こして、ここの紙の山も崩してしまうかもしれない」
その言葉に、リトスは大口を開けてケタケタと声を上げた。半ばのけ反りながら「やっと整理したンだから、それはだめだヨぉ」と、今にも転がり出さんばかりだ。もっとも、床に積んである状態を整理したと呼ぶかどうかは別問題かもしれないが。
「冗談さ。君の仕事を台無しにはしやしないよ」
「ひひひひ。──ケド朗報もあるよぉ」
顔を上げたリトスの眼鏡が再び光る。充血した二つの目が、アスターの顔を舐めるように這う。
「四月からはアンタに楽させてあげるヨぉ。アタシ、ココにあるものは全部読んだからぁ」
その言葉に、アスターの耳がぴたりと止まった。今、全部読んだと言ったか? もしそれが事実ならば、アスターの盤面は圧倒的に有利になる可能性がある。
「ちょっと待て。読んだのか?」
「えぇ? なあにぃ?」
「選挙詳報を読んで、覚えているんだな!」
リトスの散漫な様子に苛立ったアスターは、その細すぎる肩を揺さぶった。
首をぐわんぐわんと揺らしながら、リトスはケタケタと笑う。
「当たり前でショぉ。先輩が、全部覚えておくことが書庫番の勤めだっていうからぁ」
「それを書き出してくれ。今すぐ!」
「ムリよぉ」
リトスはアスターの手を払いのけ、「何年分あると思ってンのぉ」
「なら、各年度の選挙管理委員長と立会人だけでいい。頼む」
頭を下げるアスターの前髪を見つめて、リトスは一度眼鏡を外してレンズを拭いた。
「まぁ、それだけならぁ」
「ありがとう。そうしたら」と、アスターはポケットから懐中時計を取り出した。
「夕方取りに来るから……」
「来なくていいヨぉ」
リトスはアスターの言葉を遮って「人をやって届けてもらうからぁ」
「私もあちこち回っている。その時どこにいるかなんて、わからないよ」
「んーとねぇ」
リトスは耳をくるくると回して、「それは詮索しないことが条件ってことで、どぉ?」
アスターは腕を組んで考え込んだ。今は協力を取り付けただけでも良しとするべきか。余計な手間をかけて、次の手を考える時間を無駄にするわけにもいかない。
「君がそう言うなら、それでよしとしよう」
「ひっひっひ。ジャぁ、早速かかるとしようかねぇ」
そう言って、リトスは現れた時と同じようにぬるりと書類の山へ沈んでいった。
アスターは残された紙の山に「よろしく頼む」と言って部屋を出ようとした。
「そうだ、アスタぁ」と、紙が散らばる床のどこかから声がした。
「誰か来ると困るからぁ、外の札を裏返していってねぇ」
「ああ、わかった」
資料室を出たアスターは、言われた通りに在室と書かれた札を裏返した。
そこに書かれていたのは「窟」の一文字だけ。
邪魔をするな、ということかな。アスターは気にも留めず、廊下へと消えた。