思い出と好意が心にヒビをいれていく――取り繕うことなんてしないまま、剥き出しにいれたら。ただ向き合いたくない現実を突きつけられ、嘘を重ねて誤魔化していく。
人気のない建物の陰でしゃがみ込み、一人ですすり泣く少女――また、この夢か。はっきりと分かる、ずっとこびりついて離れない過去の記憶。自分の苗字が変わって、母親が多忙になり孤独を上手く埋めらなかった小学生時代の話だ。
お前、こんなところで何してんだ? どこからか声がした、声の主を探して見つける。明らかに自分より背が高い少年、仏頂面で様子を窺う。
涙を急いで拭い、立ち上がって普段通りの笑みを作ってみせた。何でもないよ。誰かに泣いているところを見られたくなかった、回り回って母親を心配させてしまうから。
目、赤いけど。鋭く彼は指摘する。そんなことないよ。今なら花粉症かも、だなんて誤魔化せた――けれど幼すぎたあの頃は上手く言葉の盾を作り出すことはできなかった。
別に泣いててもいいと思うけどな。簡単に嘘を見抜いて嘆息をつく少年。俺、誰にも言うつもりないし。無愛想な一言、だが人をすぐに信じられる年頃だったからか、心が自然と緩む。
泣かないよ、泣いてもいないし。けれど意地を張る、寂しいだなんて子供っぽい感情を剥き出しにしたくなかったから。……お母さんに心配かけたくないし、さらっと零してしまった本音は今でも失態だと思っている。
母さんだけなのか? 友達もそうだけど、一番はお母さん。父さんは? ……家にいない。
何度も嫌になる父親がいなくなったという現実を理解する瞬間は。今でも口にしたくない言葉の一つだ。大切な居場所がなくなってしまった、ただそれだけで胸が痛い。
そっか。彼は聡明なのか、彼女の境遇を理解したように頷く。俺も父さんがいない、いなくなった。寂しそうに
え? まさか似たような人間がいるとは思わなかった。改めて少年のことを見つめる――小学生らしい短い黒髪とシンプルなTシャツにハーフパンツの組み合わせ、スニーカーは活発さを表すように泥まみれ。至って普通の子だ、自分と同じような母子家庭だとは思えない。
だから上の名前、まだ覚えられない。彼はぽつりと零す。分かる、わたしも長崎っていうの、まだ変な感じがする。思わず自分の心境をぽろりと零してしまった。
……お前、下の名前は? 真剣な眼差しがぶつかる。わたしは、そよ、そよ風のそよだよ。家族の形が変わったのが自分一人だけではなかった安心感から、すっかり気を許していた。
なんか、優しい名前だな。感心したように少年は感想を述べると――俺、りゅうや、簡素に名乗った。りゅうや、くん。ゆっくりと彼の名前をなぞって、確かめる。
初めてできた、苗字が変わってから心を許せる友達。嬉しくて、たまらない。未だに変化に慣れない者同士という関係性が、何よりも彼女にとって心の拠り所になった。
しかし、長続きはしなかった――少年は彼女よりも一学年上だったため一足先に小学校を卒業してしまう。さらには自身も中学に上がるとき、今の住まいに引っ越してしまった。だから、もう二度と会えないと思っていた、思っていたのに――。
アラームが鳴る。止めて、時刻を確認。まだ出発準備をするには早い時間帯、けれどこれ以上は眠れないだろうと体を起こす。
はあ、またあの夢か――決して悪い夢見ではないが、正直繰り返し見たくはない夢。幼い頃の思い出したくない記憶なぞ、気持ちが重たくなるだけ。何なら今からもっと憂鬱になる。
重いため息をつきながら、
小学校五年生の頃に両親が離婚した、彼と出会ったのは苗字の書き替えを終えた時期――恐らく五年ほど前か。父親がいなくなってから、意外と時は流れていた。未だに昨日のことのような感覚があるのに。
……はあ。またため息が零れる。どうしようもない過去を考えても仕方ない、重たくなりそうな腰を無理やり上げて身支度を進めていく。
今日は楽しみにしていた遠出だ。いい加減、不機嫌そうな表情を直さないと心配されてしまう。鏡を見て、普段と変わらない柔らかな笑みを浮かべる――よし、いつも通りだ。
スマートフォンの画面を起動させ、集合時間と待ち合わせ場所を確認。初めて行く場所だから、早めに出ていこう。いつ帰ってくるか分からない母親へ帰宅予定時間や冷蔵庫の中身などを詳細なメッセージを送り、誰もいない家の鍵を閉めた。
電車に揺られること、しばらく。乗り換えを挟んで辿り着いた目的の駅に降りるも、改札は通り抜けずに通行人の邪魔にならないところで待つ。本来ならば先程乗っていた電車で目的の路線に乗り換えることができる駅まで辿り着けるが、今から顔を合わせる人物たちは別路線から集合場所に向かうため、一旦降りたのだ。
ショルダーバッグにしまっていたスマートフォンを取り出し、現在時刻を調べる。待ち合わせの時間まで、あと二十分。少し早すぎたかもしれないが、電車が遅延してしまう可能性も考慮すれば丁度いい時間に到着できたと思う。
改めて今日着てきた衣服のチェックをして時間を潰す。シンプルな花模様を載せた淡い黄色のノースリーブワンピース、肩口にはフリルがあしらわれている。目立った汚れやヨレは見当たらない。ヒール付きの白いサンダルも至って問題はないし、両腕のブレスレットも装飾が取れていないことが確認できた。
被ってきた大きめの白い女優帽も変なところがないか検める。色的に汚れていると困るが――特に目につくような異常はない。あとは全体的に見栄えよく整えていくだけ。
再び時間を見る、服装を正していた時間を含めて十分ぐらいは経過していた。恐らく彼彼女らはやってくるだろう。鬱屈と緊張が入り混じって、頬の筋肉が硬くなっていく。
あ、そよちゃーん。緩やかで元気のいい声が届く。改札口を見やれば、同じ学校の先輩が手を大振りに振っている――隣には大柄の青年が無愛想な表情でこちらを見つめている。
夢の中、いや初めて出会ったときと変わらない冷淡な
何事もなく改札を通り抜けた二人、おまたせーと
待ち合わせの時間より少し早いですから、大丈夫ですよ。なるべく柔和な笑顔を作りながら返す。自分が気に入らない状況だからって、不機嫌になってしまう子供っぽい感情を表に出すのはみっともない。別に二人のことが嫌いなわけではないのだから。
少しずつ荒れる裡をひた隠しにしながら、予定よりも一本早い電車に乗る。次に降りる駅まで他愛のない話に愛想よく付き合いながら、つと隣を見上げた。
精悍な顔つき、何度も重ねてしまう同じ境遇の少年の面影。きっと彼があの時の少年だろうという確信はある、けれど確証はない。何せ苗字は名乗ってくれなかったから。
同時に父親のことも思い出してしまう。家を出ていったきり、もう二度と帰ってこなくなったあの日――ませた自分がわがままを言わなければ、あの人は今もずっと家にいてくれたのだろうか。またどこかに遊びに行こうと遠出に付き合ってくれたのだろうか、過去が永遠に頭の中を巡って今に向き合えない。
頭上からどうしたと問いかけが降ってくる。意識を現実に戻せば、心なしか心配そうな眼差しで見下ろす戸越の顔が映った。今日、水族館に行くから燈ちゃん誘えれば良かったなって思ってて……お得意の微笑を浮かべて誤魔化す。
そうだな、あいつも誘えれば良かったな。彼も少し残念そうに頷く。先程挙げた自分が在籍しているバンドのボーカルと戸越は同じ中学校の先輩後輩、縁は所属していた委員会が一緒だったため、二人は顔見知りだそう。
燈ちゃん、用事が入っちゃったのは残念だよねーと緩やかに七深が加わる。去年の夏に戸越と出会った彼女、今話題のボーカルとも顔を見合わせていた――戸越が通う高校の文化祭がきっかけで知り合ったらしい。経由はもちろん彼、恐らく親友といっても差し支えない間柄だから遊びに行ったのだろう。
いつの間にか知らない関係性が広がって、自分だけのものだった秘密が脅かされている気がしてしまった。それどころか、彼は自分と出会ったことなんて忘れているぐらい――正確には似たような名前の子と会ったことがあるぐらいの朧げな記憶を初対面のときに話してくれた――日々は過ぎ去ってしまっている。
だから怖かった、淡く彩った好きという気持ちが嘘だと思ってしまいそうで。忘れたくないから、二人きりのときはお互い名前で呼び合おうと約束した。自分勝手な自分が本当に嫌になる。
会話はこの場にいない高松燈とこれから向かう水族館のことで持ちきりになり、何事もなく電車は降りるべき駅に停車。三人は降車し、次の路線へ乗り換えていく。十分ほどで最寄り駅に辿り着き、今回の目的地へ足を運ぶ。
アトラクション施設と水族館が併合された小さな島、様々な人々が行き交い、楽しげな声をあげてはしゃぐ。案内板に従い、チケットカウンターまで赴いて水族館とその周辺施設が利用できるチケットを購入する。少しだけ遊んでから行こうという七深の提案により、すぐに水族館には入らずバラエティー豊かなアトラクションエリアを回ることに。
荷物や帽子をコインロッカーに預け、まずはジェットコースターを堪能。猛スピードで下っては上り、カーブしたレーンも簡単に駆け抜けていく。恐怖や興奮などが入り混じった悲鳴が飛び交う中、そよは前の座席にいる二人を見やる。
楽しそうに声をあげる七深、どう楽しめば分からずに困惑している戸越――いつも通りの組み合わせ、見慣れているのに口の端が下がってしまう。自分は後ろで眺めることしかできない、彼の隣ではしゃぐという未来を夢見ることさえできない。だから呑み込む、無理に二人の仲を引き裂く身勝手な長崎そよになりたくないから。
複雑な心境が並走し、コースターは無事に終着点へ辿り着く。ベルトを外して降り、楽しかったねーと笑う七深の言葉にそうですねと如才なく応じる。戸越さんはどうでしたと柔和な笑みで言問う、楽しかった……と思うと彼は未だに戸惑った表情を浮かべたまま。
ホントですか? からかうように笑って問いを重ねる。あれ、どうやって叫べかいいのか分からないんだよな。戸越は首を傾げて、眉間に気難しい皺を生み出す。
多分戸越が思ったまま叫べば良かったんだよ。七深がほんわかに教え、でも戸越くんらしい叫び声聞こえてたよと柔らかくフォロー。ぎこちない絶叫を耳にしていたそよもその通りですねと穏やかに首肯する。なるほどと納得した彼――次乗るときはもっと叫べるように練習しないとな、少し間の抜けたことを口にした。
そうだね、今度は思いっきり叫ぼうね。適当に流すことなく、七深はにこやかながら真面目な口調で告げる。和やかな空気を壊さないように、そよはただ苦笑いを軽く零すだけ。隆也さん、たまに変なこと言い出すんだよね。
感想戦はそこそこに、三人は次のアトラクションに向かう。今度は船を模した乗り物が振り子のように行き来するもの――また絶叫系だ、とそよは内心どんよりとしていた。連続で同じ方向性の乗り物を乗れるほど、彼女の精神力は強くない。
ただ先輩二人に気を遣われることや一人になるのが嫌なため、一緒に乗って無理やり楽しむ。今度は三人横並びに座れて、少しだけ満足。相変わらず戸越は錆びた機械のような叫び声をあげ、七深は楽しそうに笑っていた。
くたくたになりながら乗り切ったそよ、やんわりと休憩しませんかと提案したところ、そろそろお昼だし休憩しようかーと七深が腕時計を見て賛成する。戸越も混む前に行った方がいいと首肯。三人は昼食をとるためにフードコートへ向かった。
夏の休日、夏休みという期間に入っているからか店内はやはり利用客が多い。コインロッカーから取り出したリュックやバッグで辛うじて確保した三人分、そよと七深が先に注文しにいき、二人が戻ってきたら入れ替わりで戸越が頼みに行く。
ねえ、そよちゃん。隣に座る七深が声をかけてきて、顔を合わせる。柔和な
何を言い出すのだろうか、小首を傾げて次の句を待つ。ずっと気になっていたんだけど……妙にざわめきが遠のく。もしかしてさ、戸越くんのこと、好きだったりするの? あまりにも唐突な質問に何もかもが固まった。
何故、彼女に問われなければならないのだろうか。分かりやすいほど、顔に出ていたとは思えない――上手く隠していたはず、誰にも気づかれないように。
えっと、どうしてそう思うんですか? 空気を吸うのが下手になっていく最中、何とか絞り出した苦笑いの返し。よりにもよって彼と仲がいい人物に訊かれるとは思わなかった、まるで好きになってはいないと誹られている様。
うーんとね、戸越くん見る度、そよちゃんの顔がちょっと怖くなること多いんだよね。その言い方だと普通は嫌ってそうですけど……。でもいつもにこにこしているそよちゃんが、遠くで戸越くんを見ているときとか凄く真剣な顔になるから、もしかしてって思ったんだよ。
本当に人をよく見ている、流石は絵画に向き合っているだけはある。感心しつつも誤魔化すのがいよいよ苦しいと感じた。けれど明確に好きと言ってしまえば、不和が生まれてしまうかもしれない。
どこから取り出すべきか、丁寧に振り返っていく。最初に彼を見かけたのは中学三年生の夏、中学生活最後のコンクールに臨むために猛練習に明け暮れた頃。偶然、部活がなかった日に友人らと談笑しながら校門に向かっていたとき、高等部の月ノ森生と見慣れない男子高校生が話していたのを目撃したのがきっかけ。
詳しい話の内容は分からなかったが、金に染めた頭髪と険しい顔立ちによく似合うがっしりとした体格からして警戒されたのだろう。たまにいる月ノ森へ冷やかしで来る人間、今回も同じ類だと何気なく眺めていた。けれど近くを通りかかった際、一気に瞼が持ち上がる。
似ていたのだ、小学生の頃に出会った同じ境遇の少年と。髪色や背丈は違っても無愛想な相貌だけは記憶と一致。足を止めて話しかけようとしたが、運悪く彼が目的としていたらしい人物が合流してしまう――そう、広町七深だ。
何事もなかったかのように友人らと他愛ない話で花を咲かせ、好奇心を隠す。その日から彼を見かけても声をかけない日々が続いた。また今年の夏に出会うまでは。
まだ名前も聞いていない青年と初めて話をしたのは、まだバンド名すらできてなかったときのこと。ライブハウス『RiNG』のカフェでスタジオに入るまでの時間を潰そうとしたところ、燈と愛音に話しかけられて付き合っている姿を目撃。和やかに話の輪へ入り、彼のことをそれなりに知った。
二人きりの約束ができたのは、少し経ったあと。紆余曲折を経て、『MyGO!!!!!』というバンドが成り立った頃合いに彼と二人きりで会話する機会ができた。昔よく似た少年と出会ったことがあって、少しだけ遊んでいたことがあると苦い思い出も含めて話す。
そいつは本当に俺によく似ているな。戸越も納得して頷いた。けれど決して自分だとは言わなかった――きっと記憶にない事柄だからだろう、人は忘れる生き物だから仕方がない。
用事があるからと彼が去る際、生徒手帳を落としたのを目にする。拾ったときに名前が映った瞬間、“隆也”と書かれてあった。
記憶の中にある少年、一生忘れたくない音。零したくない思い出とともに持ち主を呼び止めて、渡す。りゅうや、さんって言うんですね――やっと現実味を帯びた、初恋。
困惑する戸越に、みんなには内緒にしておくので、これから私と二人のときは名前で呼び合いませんか? 破顔してわがままを言う。何度か唸ったあと、彼は了承し改めて名前を訊く。
私はそよです、そよ風のそよです。出会ったときと同じように名乗る。なんか、優しい名前だな。同じ返しに少し泣きそうになった。
もしかしたら本当は戸越と過去の少年は別人なのかもしれない。だが構わなかった、わがままを一つ言えたから。小さなわがままを積み重ねたいと思う、優しくて強い人――きっと父親の面影も重ねていたのだろう。
ああ、思い返せば思い返すほど言葉にしたくない。声にした瞬間、大切に抱えていたものが全部壊れてしまいそう。独り占めしたい想い、やはり自分はわがままだ。
長い、長い旅路を経て、そよはおもむろに口を開く。多分、昔好きだった男の子に似ていたんだと思います。蓋を閉じて、終わらせたことにする。
忘れられない相手だったんだね。瞼を軽く持ち上げたあと、七深は真摯に頷く。でも、今からでも遅くないと思うよ。優しく首を絞められるような感覚が襲う。
傍にいたら、戸越くんのことも好きだって分かるかもしれないし。まだ好きかどうかも分からない段階だと思われているらしい。お願い、いらない優しさを押しつけないで。
あっ、そよちゃんと向き合うように荷物動かすね。まだ空席の主が戻ってこないをいいことに、七深はささっと自分たちのリュックやバッグを移動させる。ようやく帰ってきた彼は、何か荷物移動してないかと首を傾げつつもそよと対面する席に座った。
嫌でもそらせない
三人揃ったところで昼食後の予定を話し合い、呼び出しベルが鳴ればそれぞれ頼んだものを取りに行き、他愛のない話をしながら食べていく。七深と一緒に頼んだハンバーガー、別に味が薄いというわけでもないのに味気なく感じる。飽きるのを防ぐために外を見やると、父親が小さな子どもの手を引いて歩いていく姿が目に映った。
長崎、具合でも悪いのか? 低い声が届き、すぐに向き合う。箸を止めて、心配そうに見つめる
いえ、大丈夫です……ただ家族で来ている人が多いなって思っただけです。苦でも何でもなかった相好を崩すことが難しい作業のように感じる。
そうだな、多いよな。窓の外を一瞥したあと、彼は箸を進めた。家族で来るのにも楽しい場所だしな。頬張ったものを飲み込んだあと、あっさりと所感を述べる。
特に否定せずに首肯すると、合間に七深がお手洗いに行くと立ち上がり、食べ終わったトレーを持って人混みに紛れていく。突然二人きりになってしまった、助けは誰も呼べない。
……親父さんのこと、思い出していたのか。完食間近で再び箸を止める戸越、問いかける声はいつになく優しい。両親が離婚していたことは彼も知っている、彼もまた母子家庭なのも知っている。
素直に頷き、ちょっとだけ今家族みんなで遊びに行けたらどうしてたのかなって、ゆっくり吐露した。父親はいない、母親も多忙で家を空けることが多い、だから羨ましい。
今日は俺のこと親父だと思っていいぞ。えっと驚き、固まる。俺も頑張って、お前のわがままに付き合う。真面目な顔つきと口調、思わず噴き出す。
私がわがまま言ったら、隆也さんの帰りの電車代なくなりますよ。ころころと笑いながら言い返した。……それは困るな……椎名から借りた分まだ返し終わってないし。悩ましげに彼は唸り始める。
冗談です、お気持ちだけで十分ですから。どこまでも律儀な人だなと微笑ましくなる。どうしても嫌い、だなんて思えない自分が恨めしい。
お待たせ―、緩やかに七深が戻って席につく。おう、お帰り。お帰りなさいとそれぞれが反応し、残った分を食べ終える。注文先の返却口にトレーを返して、フードコートを出た。
直後、戸越が煙草吸いに行きたいと言い出し、喫煙所に向かう。大きな背中を見送った二人、再びガールズトークが始まる。
っで、どう? どうって……いい人だとは思いますけど。うんうん、分かる。戸越くんは見た目で誤解されがちだけど、本当に優しいよね。
楽しそうに語る七深、本当は彼女も彼のことを好きなのではないか。さらに戸越が七深のことに対して、自分よりも信頼を寄せているのは火を見るより明らか。苛立ちも含めたぐるぐると渦巻く感情を律するために爪をいじりながら言問う――そういえば、広町先輩は戸越さんのことどう思っているんですか?
えっ、戸越くんのこと……? 思いもよらない質問だったのか、彼女は驚いて一瞬間だけ固まる。うーん、普通の友達かな。少し考えてから、穏和な笑みを浮かべて答えた。
普通の、友達ですか。予想はできていた、けれど気に入らない返答。別に付き合ってもいいのに、誰も文句は言わないはず。
うん、普通の友達。にこにこと彼女は語る。普通にお話しして、普通に色んなところに遊びに行って、普通に一緒に楽しんでくれる普通の友達だよ。
話を聞けば聞くほど、手が届かないということを嫌でも認識してしまう。彼女の方がお似合いだ、自分なんかよりもずっと。通り抜ける風の湿っぽさが早く消えればいいのに。
悪いな、二人とも。話が丁度切れたタイミングで戸越が戻ってきた。ううん、大丈夫だよ。七深はゆっくり首を横に振って、大らかに笑う。
じゃあ、水族館に行きましょうか。強張った頬を強引動かして微笑するそよ、一刻も早く逃げ出したい気持ちを抑えて歩き出す。あーあ、叶わない恋ならさっさと諦めがつけばいいのに――未だに恋と過去の記憶がしがみついて、心の整理がつかない。
館内に入ればサンゴ礁に棲む生物たちの展示、シロイルカやゴマフアザラシとペンギンのモニュメントが置いてあるフォトスポットが出迎える。有名なアニメーション会社の映画に登場する魚やテレビではあまり取り上げられない魚を一通り見たあと、三人でフォトスポットで記念撮影。順路通りに進めば、真珠取り出し体験コーナーも併設されたエリアに辿り着く。
まるで研究所といわんばかりに小さな水槽を重ねて壁際に展示している室内、様々な生き物の生態が説明されており、知らなかったという言葉が飛び交う。一周して真珠取り出し体験コーナーを見やれば、家族やカップル、友人らと来ている人々が列をなして待っている――今日は難しそうだと断念して、来た道に戻って案内通りに進む。
次に向かった場所はホッキョクグマやアザラシ、ペンギンなど主に北極で生活しているものを展示しているコーナー。プールに飛び込んで悠々と泳ぐ大型生物や水中をジェット機のように突き進む小型生物を見て、子どもや大人の声があちこちに飛び交う。面白そうだと思って指さして父親や母親に話しかける小学生を傍目に、そよはペンギンが展示されている水槽へ意識を向ける。
もし彼女も一緒に来ていたのなら、きっと解説してくれただろう。それかずっと見つめたまま微動だにしないか。いつもは剥き出しの心を見るのが苦手なのに、今は助けを求めている――なんて自分勝手だろうと気が沈む。
どれがどのペンギンか分からんな。隣で戸越が気難しそうに呟く。彼を挟んで奥にいる七深が、あれがアデリーペンギンで今目の前通ってきたのがジェンツーペンギンとキングペンギンだよ、といとも簡単に判別する。
……お前、ホント記憶力いいよな。えー、普通だよ。燈ちゃんに教えてもらったことを言っただけだから。確かに高松なら色々と教えてくれそうだな。うん、一緒に水族館に行ったときにいっぱい教えてもらったんだー。
硬い相好に浮かぶ微かな笑み、本当に彼女と会話している彼は楽しそう。自分と話しているときよりもずっと。真正面では見れない表情を見せられる度、爪をいじりたくなる。
長崎? 再び水槽へ逃げようとした瞬間、頭上から呼び止められる。見上げて、
何故そのような発言が出たのか、ゆっくりと考えて理解した。きっと父親のことを気にしているのだろう、気の遣い方がヘンテコすぎる――けれど嬉しい、自然と口の端が上がるぐらいに。大丈夫ですよ、そよは眉尻を下げて困ったような笑みを湛える。
そうか、何かあれば言ってくれ。多分父親の代わりになろうとしているんだろうな、ダメだ笑っちゃいそう。生真面目でどこかズレている優しさ、やはり心が温かくなる。
ふと彼の陰に隠れていた七深がひょっこり顔を出しているのが目に入る。よかったね、と言わんばかりの微笑。そうですね、と苦笑するしかなかった。
ペンギンたちがいる水槽に別れを告げて、大水槽があるエリアに足を運ぶ。大小様々な生物たちが泳ぐ雄大な水槽を前に三人はそれぞれ感嘆の声をあげる。
あ、そういえばとーこちゃんから聞いたことあるんだけど、昔ここのエイがイカを食べたことあるんだって。あっ私もそれ聞いたことあります。
まあ、美味そうに見えるもんな。実際食べられたのってアオリイカらしいですね。そりゃ美味かっただろうな。
ネットで取り上げられた話題を中心に盛り上がる三人。子どもが近くを走る、あわやぶつかりそうになったところを幼い反射神経で避けていく。危ない、だなんて思うだけだった――追いかけるように走り過ぎた子どもの母親らしき女性が走らないのと厳しく注意する声が聞こえた。
いつからか感謝の言葉が多くなった長崎家の母娘関係、喧嘩どころか怒られることなんて滅多にない。理想かもしれない、だけど寂しさを突きつける形。本当に家族が多い場所は嫌いだ、昔のことや家族のことを無理やりでも想起させるから。
長崎? また心配そうな呼びかけが降ってくる。何でもないですよ、怪我もありませんから。普段通りの笑みを取り繕って見上げた。
ならいいけどな……どこか引っかかっている様子。きっと家族のことを気にしているのだろう、本当に優しい人――喧嘩とか煙草とかで青春を過ごしている不良学生を自称しているくせに。何でもないですから、次見に行きましょう。うやむやにしたくて、足早に先陣を切る。
先を行く彼女を見て、戸越は気難しそうに眉根を寄せた。……戸越くん? 七深が不思議そうに問いかけると、いや何でもないと首を横に振って後を追う。やっぱり二人とも何かあるよね、そよと戸越の二人がじっくり話せる時間を作れないか思案しながら七深も彼らについていく。
トンネル型の水槽を眺めながらエスカレーターを上った先の干潟や藻場などに生息している魚たち、未開の深海に住まう生物、海の王者と呼ばれるサメを中心とした展示などを見て回る。クラゲやサンゴ礁の水棲生物らの展示も見終えたあと、今何時かという質問にスマートフォンを見て現在の時刻を答える――もうすぐイルカショーの時間だ、と七深が反応した。どうせなら観ていこう、戸越の意見に二人は同意し三人はイルカショーが行われるスタジアムへ向かう。
空いている場所がないほどに座席が埋まっているスタジアム内、三人が横並びに座れるスペースを探し出し、一旦腰を落ち着かせる。しかしすぐさま七深がお手洗いに行くと言い、席を離れた。彼女がいなくなった分をリュックやバッグで確保した二人、話し始まるまで少し時間を要す。
家族のこと、気になるのか? おもむろに戸越が口を開く。……バレてましたか。そよは苦笑いを零した。
あれだけ子どもとか親御さんの顔を寂しそうに見ていればな。ですよね、考えないようにはしていたんですけど。やや間を置いて、彼女は続ける。
やっぱり考えちゃうんですよね、今でもお父さんがいたら、とか。お母さんもあんな忙しくしてなくて、ちょっとはみんなと一緒にこういう時間作れたのかなって。
そうか。納得したかのように重々しく戸越は頷いた。なら少しぐらい俺を親父だと思って欲しい。変な気遣いは相変わらずで、けれどそよの口角は柔らかく上がったまま。
生真面目な調子のまま彼は言葉を継ぐ。あんまり欲しいものとか買ってやれない情けない親父だが、一緒に楽しむことぐらいはできる。誠実な
もう十分はしゃぎましたよ。即座に普段通りの微笑を作るも、すぐに素の自分へと戻っていく。でも隆也さんが言うなら……言葉にしようとして、止める。今はイルカショーに備えて少しでも体力温存したいんです、はしゃぎ疲れちゃったので。やはり穏和な笑みを形作ってしまう――剥き出しになれない、素直になったら今の関係が壊れてしまいそう。
また無言になる。けれど、すぐに破られる。あの……隆也さんは広町先輩のこと、どう思っているんですか? 今度はそよが訊ねた。
広町? 普通の友達、だな。あっさりと戸越は返答した。確かにあいつは人より優れているところはある、けど自分のことで悩んだり、友達のことで悩んだりしているどこにでもいる普通の人間。だから一緒に悩んで、喧嘩して、仲直りして――笑って泣いてが一緒にできる普通の友達だ。精悍な相好が楽しげに崩れる、思った通り二人はお似合いで自分は外野に過ぎないと思い知らされる。
奥歯で噛みしめながら、そよは泣きそうなのを誤魔化すように
戸越と七深がそれぞれ楽しそうにショーを見ている横で、そよは二人を一瞥して無表情に。本当に何でこの二人の間にいるんだろう。爪をいじって、不機嫌を堪える――イルカが大きくジャンプした瞬間、歓声を上げる観客に紛れた。
イルカショーを終えると階下の水辺に生きる動物たちの展示が行われているエリアに自然と人が流れる。三人も流れに逆らうことなく階段を下る、しかし順路に向かうことなく下りてすぐにあるプリクラへ。何組か撮影を終えたあと、満を持して入り七深やそよが設定を行う。
限定のフレームがあるみたいだよー、じゃあせっかくですからそれにしましょうか。女子二人の会話についていけず戸越は呆然と立ち尽くすのみ。撮影が始まると彼を中心にし、最初は三人で途中は二人――七深とそよの譲り合いが始まり戸越は棒立ちになるだけ――最後はまた三人で終える。加工モードに移行したら、また女子学生だけで盛り上がって無骨な男子学生は彼女たちが満足するまで筐体の外で待つ。
現像できた写真の切り分けも終えるとそれぞれの手に渡り、一つの思い出が共有される。嬉しいけど苦い記憶、忘れられない一日がまた増える、本当に誰も悪くないのにね。写真をバッグの中に折れないようにしまい、そよは向き合いたくない本心と対峙する羽目に。
はあ、どうして好きになっちゃったんだろう。見た目怖いし、平気で煙草も喧嘩もしている不良だし、どこからどう見ても好きになる要素ないのに。でも嫌いになれない、分かっている、彼の誠実さと優しさがどうしても心を惹きつけるから。
全ての展示を見終えたあと、水族館を出て土産屋巡りが始まる。何がいいかな? 普通なら食べ物とかキーホルダーじゃないか? そっかー。能天気な二人の会話をよそに、そよもバンドメンバーに向けたお土産を手際よく選んで買う。燈ちゃんは絆創膏とかペンギンとかで愛音ちゃんは限定品系、楽奈ちゃんは抹茶が入っているもの、立希ちゃんは……まあ無難なものでいいかな。
いつも仲良くしている学友や近所の人、いつも身を粉にして働いている母親のお土産も購入し、二人の様子を窺う。相談しながらバンドへのお土産を決めた七深、まだ少し悩んでいる様子の戸越。
普通、か……考えたことなかった訳じゃなかったけど、自分から話を振ったことなんてないな――基準線からズレずにずっと歩いてきたから、きっと二人の間に入れないのだろう。今まで自分から逃げてきたツケを思い知らされて嫌になる。けれど仕方のないこと、やっぱり燈ちゃん来て欲しかったな、死にそうだから。
やや時間をかけて戸越もお土産を選び終える。しかし彼の足はガチャガチャコーナーに向かう、高松へのプレゼントができるものがあればいいなと。
戸越くん、お金なくなるよー。七深が珍しく苦笑を湛えてたしなめる。立希ちゃん、今日いないですからね。そよも口を揃えて掣肘。
一回だけだ、一回だけ。既にペンギンのラバーストラップが入った筐体の前にしゃがみ込む戸越。両手を合わせて目を閉じ、祈祷が終えたら薄い財布から貴重な百円玉を三枚投下する。
レバーを回して、ガコンとカプセルが落ちた。慎重な手つきで取り出し、開封――結果はマンボウのラバーストラップ。彼は震える手で追加の一回を回そうと財布を開く。
ストップだよ、ここは諦めよう。実に冷静な七深の声。燈ちゃんならマンボウでも喜ぶと思いますから。穏やかにそよがなだめる。
うんうんと数分唸って、戸越は立ち上がった。だがやはり諦めきれないのか、未練がましい一瞥を投げかける。彼の行動に、二人は困ったような笑みを浮かべるだけ。
お土産も買い終えた三人は店を出る、空はオレンジ色の染まり始めており帰路につくのに丁度いい時間帯。けれど駅に向かうことはなかった――近くに海浜公園あるから海見ていこうよという七深の提案に乗って、橋を渡って海の公園へ。夕暮れ時だけあって、昼間と比べて人は比較的少ない。
静かな波打ち際を歩き、時々勢いよく波から逃げる。海風に帽子がさらわれないように押さえながら、そよは二人より半歩下がってついていく。
伸ばせば届きそうだけど届かない距離感、手を繋いで隣を歩くことなんてわがままだ。ぐっと堪えて色濃い好意に閉じ込め、鍵をかける。つと顔を上げると、真面目な
どうせなら手繋ぐか? 至って生真面目な口調で問われる。えっと困惑して足が止まった。戸越くん、お兄さんみたい。七深が微笑ましそうにそよへ視線を送る――今がチャンスだよ。
今日は……俺が長崎の親父だ。堂々と彼は宣言する、どこまでも本気なんだなと感じて思わず噴き出してしまう。本当に戸越さんって、変な人ですね。ひとしきり笑って、ゆっくりと手を差し出す――さっきまでダメだって思っていたのに、私ってどこまでも自分勝手だな。
ぎこちなく握った手、無骨で大きな手が掴む。父親と一緒に過ごしていた時期を思い出し、噛みしめて、今この一瞬を心に焼きつける。幸せって、こんなにもむず痒いものなんだと。
心ゆくまで海を満喫したら、ようやく駅へ。改札を通り抜ける前に手を離す――忘れたくない温もりが一つ増えた。また乗り換えを含めた長い電車の旅が始まる。
今日のことを振り返り、楽しかった思い出を語り合う帰り道。戸越と七深が水族館で得た見識を交わしている最中、そよは何となく会話に入りながらもずっと繋いだ手の感触を確かめていた。
昔繋いだ父親の手は眼前の青年ほど逞しいものではなかったものの、確かに自分を守ってくれる頼もしさと温かさを感じた覚えはある。もう流石に十六もなって父親と手を繋ぐことはないだろうけども、小学校を卒業するまでに握れたら多分――もしもの未来がまた脳裏によぎっていく。同時に戸越隆也という人間の強さと優しさが沁みついて離れない、きっと人を好きになるということははいつまでも握りしめて独り占めしたいということなんだろう、忘れないように爪はいじらない。
車内アナウンスが流れる、次の駅名は彼らと別れる場所。寂しい気持ちを押し殺して談笑する。電車が止まって扉が開く、別れの挨拶をして見送った。
戸越さんも広町先輩も本当に優しいよね、私のことばかり気にして。二人に心配をかけない、気を遣わせないようにしていたのに結局は迷惑をかけてしまったと自責する。だからこそ何度も思う、あの二人こそ結ばれるべき相手同士だと――何せお互い話しているとき、どこまでも楽しそうで嬉しそうに見えるから。
何気なくスマートフォンを手に取り、スリーブモードを解除。母親からのメッセージが通知欄で表示されているが、ロック画面を開くことなく画面が再び真っ暗になるまで見つめ続ける。暗くなった画面に映ったのは、今にも泣き出しそうな長崎そよの顔だった。
最後まで読んでくださりありがとうございました。
この作品に登場したオリキャラの戸越くんが主役を務める小説も合わせてお読みいただけたら幸いです。ちなみに広町も登場します、何ならヒロインです。
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