夜だった。
旧調査兵団本部。
団長室には、重い沈黙が落ちている。
机の上へ広げられた地図。
壁外調査ルート。
長距離索敵陣形。
赤い印。
そして。
中央に置かれた、一枚の紙。
“アスカ・ラングレー”
その名前が記されていた。
「──で?」
最初に口を開いたのはハンジだった。
椅子へ浅く腰掛けながら、頬杖をつく。
「どうするの? あの子」
エルヴィンは答えない。
窓際へ立ったまま、外を見ている。
月明かりが自由の翼を照らしていた。
部屋の空気は静かだった。
だが。
張り詰めている。
ソニーとビーンが殺されて以降、調査兵団本部の空気は変わった。
皆、理解し始めている。
敵は壁の外だけじゃない。
内側にもいる。
「新兵だぞ」
低い声。
リヴァイだった。
ソファへ座り、腕を組んでいる。
「まだ判断材料が少ねぇ」
「でも勘はかなり鋭いよ?」
ハンジが返す。
「“裏切り者”って答えた時、私ちょっと鳥肌立ったもん」
「勘だけで信用は出来ん」
今度は別の声。
壁際へ立っていた男。
ミケだった。
鼻を鳴らす。
「地下街出身だ。人間不信でも不思議じゃない」
「それはそうだけどさ」
ハンジが肩を竦める。
「逆に言えば、人間の悪意に敏感って事でもある」
エルヴィンは黙ったまま地図を見ている。
誰も急かさない。
団長が考えている時、口を挟む意味が無いと知っているからだ。
やがて。
エルヴィンが静かに口を開く。
「アスカは死に慣れている」
低い声。
「だが、壊れてはいない」
リヴァイが僅かに目を細める。
「……」
「トロスト区で仲間が死んだ時、精神が揺れていたと報告を受けている」
ハンジが少しだけ視線を上げる。
見ていたのだ。
ちゃんと。
「感情が残っている証拠だ」
「兵士としては悪くねぇ」
リヴァイが短く返す。
「少なくとも、そこらの新兵より使える」
「へぇ」
ハンジがにやつく。
「随分買ってるじゃん」
「買ってねぇよ」
即答。
「戦力として見てるだけだ」
「はいはい」
完全に流された。
ミケが低く鼻を鳴らす。
「問題はそこじゃない」
静かな声。
「“内部”の話をどこまで聞かせるかだ」
空気が変わる。
ハンジの表情から笑みが消えた。
ソニーとビーン。
内部犯。
エレンを狙う敵。
まだ全て仮説だ。
だが。
確実に何かがいる。
兵士の中に。
「仮に」
ミケが続ける。
「もしアスカが敵側なら?」
部屋が静まる。
リヴァイは何も言わない。
ハンジも口を閉ざした。
エルヴィンだけが、静かに窓の外を見ている。
「……可能性はある」
団長の声。
誰も否定しない。
調査兵団は、もう“仲間を疑う段階”へ来ている。
「だが」
エルヴィンが振り返る。
青い瞳が、全員を見渡した。
「だからこそ、試す価値がある」
コンコン、と。
静かなノック音が響いた。
「入れ」
扉が開く。
入ってきたのは、アスカだった。
部屋へ足を踏み入れた瞬間、僅かに目を細める。
視線の先。
エルヴィン。
リヴァイ。
ハンジ。
そしてミケ。
調査兵団の主力が揃っていた。
「……なんか、場違いな気しかしないんですけど」
「気のせいじゃないかもね」
ハンジが笑う。
リヴァイは壁へ寄り掛かったまま無言だった。
ミケは鼻を鳴らす。
エルヴィンだけが静かにアスカを見る。
「座ってくれ」
低い声。
アスカは机前の椅子へ腰掛けた。
背筋が自然と伸びる。
空気が重い。
呼吸一つまで見られている感覚があった。
少しの沈黙。
やがて。
エルヴィンが口を開く。
「何故、“裏切り者”だと思った?」
単刀直入だった。
アスカは一瞬だけ目を細める。
やはりそこか、と思った。
「……ソニーとビーンですか」
「あぁ」
エルヴィンは頷く。
「何故、巨人ではなく“兵士”を疑った?」
部屋が静かになる。
ハンジも。
ミケも。
リヴァイも。
全員がアスカを見ていた。
試されている。
そう感じた。
アスカは数秒考え込む。
言葉を探す。
「……上手く言えません」
正直に言った。
「根拠も、ちゃんとある訳じゃない」
だが。
頭の中へ浮かぶ違和感は、確かに存在していた。
「巨人化したエレン」
静かな声。
「壁内でも大事になった。それを知った敵……あるいは裏切り者」
エルヴィンは何も言わない。
アスカは続ける。
「ソイツ、いや……ソイツらがエレンを……エレンを……」
そこまで言って、言葉が止まる。
喉の奥が引っ掛かったみたいに動かない。
あと少しで何かに届きそうなのに。
繋がらない。
「……分からない」
悔しそうにアスカは吐き捨てる。
「でも、ソニーとビーンを殺したのも、多分そういう事だ」
拳が僅かに握られる。
「巨人の秘密を、これ以上知られたくなかった」
ハンジの目が少しだけ細くなる。
アスカは気付かないまま続けた。
「ハンジさんの実験、核心に迫りつつあったのかもしれません」
静寂。
部屋の空気が少し重くなる。
ミケが低く鼻を鳴らした。
リヴァイは壁へ寄り掛かったまま無言。
エルヴィンだけが静かにアスカを見ている。
「でも」
アスカは小さく息を吐いた。
「結局、根拠なんて曖昧です」
視線を落とさない。
「だから最後はカンです」
ハンジが少しだけ眉を上げる。
「カン?」
「あぁ」
アスカは低く返す。
「地下街で生きてきた時、最後に信じられるのはカンだった」
静かな声。
「違和感です」
一拍。
「アイツはなんかヤバい、とか」
「今逃げろ、とか」
「今近付くな、とか」
地下街では。
間違えれば死ぬ。
理屈より先に、身体が危険を察知する。
「根拠なんて後から付いてくる」
アスカは言う。
「だから俺は、最後はカンを信じる」
そして。
少しだけ口元を歪めた。
「カンを信じて、そこに賭ける」
団長室が静まり返る。
アスカは部屋を見回した。
エルヴィン。
リヴァイ。
ハンジ。
ミケ。
調査兵団の上澄み。
壁の外を生き抜いてきた化け物達。
「それに」
一拍。
「俺をここに呼んで、調査兵団の上澄みであるあなた達が揃ってる」
青い瞳を真っ直ぐ見る。
「なら、俺の推測とカンも、あながち間違ってないって事でしょ」
数秒。
誰も喋らなかった。
やがて。
ミケが低く鼻を鳴らす。
ハンジは少し面白そうに笑っていた。
リヴァイは無言のまま。
だが。
ほんの僅かに、目が細くなる。
エルヴィンは静かに目を閉じた。
「……なるほど」
短い声。
そして。
ゆっくり椅子へ腰掛ける。
「アスカ」
青い瞳が向く。
「これから話す内容は、他言無用だ」
空気が変わる。
アスカの表情も自然と引き締まる。
「我々は現在、“敵が内部に存在する可能性”を前提として動いている」
静かな声。
「敵の正体は不明。知性巨人である保証も無い」
一拍。
「だが、おそらくそうだ」
アスカは黙って聞く。
「次回壁外調査」
エルヴィンの指が地図へ触れる。
「そこで敵が動く可能性が高い」
そして。
机の上へ、新しい紙が広げられた。
複雑な陣形図。
無数の印。
矢印。
列。
信煙弾の伝達経路。
「……なんだこれ」
アスカが素で呟く。
ハンジが待ってましたと言わんばかりに身を乗り出した。
「長距離索敵陣形!!」
「いや名前じゃ分かんないです」
ハンジが陣形図を指差す。
「調査兵団って、昔は壁外出る度に死にまくってたんだよね」
「言い方」
「でもエルヴィンがこの陣形作ってから、生存率がかなり上がった」
エルヴィンは静かに腕を組んだまま。
ハンジが説明を続ける。
「まず最外周にいる索敵班が巨人を発見すると、赤色の信煙弾を撃つ」
「それを見た次列が同じ赤煙弾を撃つ」
「さらに後方へ伝達して、中央の団長まで情報を届ける訳」
アスカは図を見る。
赤。
白線。
矢印。
正直、まだよく分からない。
「……?」
顔に出ていたらしい。
ハンジが「ん?」と笑う。
「分かんない?」
「いやまぁ……」
複雑過ぎる。
列も多い。
役割も多い。
その時だった。
リヴァイが小さく溜息を吐く。
「貸せ」
短く言って、壁から離れた。
静かに机へ近付いてくる。
ブーツの音が止まり、アスカのすぐ横へ立つ。
近い。
思ったより小柄なのに、妙に圧があった。
リヴァイは机へ片手を付き、陣形図を指で叩く。
「ここが初列」
低い声。
「巨人を最初に見つける奴らだ」
指が外周をなぞる。
「で、見つけたら赤煙弾を撃つ」
そのまま指が内側へ滑る。
「次列がそれを見る」
「そうしたら同じ煙弾を撃って、さらに奥へ伝える」
アスカは地図を見る。
指の動き。
線。
配置。
さっきより分かりやすい。
「つまり」
リヴァイが机を軽く叩く。
「巨人を見つける役」
「情報を伝える役」
「進路を決める役」
「全部分けてるって事だ」
「……あぁ」
それなら理解出来た。
一人で全部やるんじゃない。
役割分担。
「一人で全部やろうとすると死ぬ」
リヴァイは続ける。
「だから情報を繋いで、巨人を避けながら進む」
一拍。
「奇行種だけは別だがな」
そこでハンジが再び身を乗り出した。
「そう!! そこ重要!!」
目が輝いている。
「通常種は割と動きが読めるんだけど、奇行種は別!!」
「だから奇行種を見つけた場合は黒煙弾を使う!!」
ハンジが陣形図へ指を滑らせる。
「で、団長はその情報を全部見て進路変更を決める」
「緑煙弾を撃って、陣形全体を動かす訳!!」
アスカはようやく図を見ながら理解し始める。
つまり。
これは軍隊というより。
一つの生き物だ。
情報を共有し。
全体で動く。
「……よく考えましたね、これ」
「考えたのエルヴィンだけどね」
ハンジが笑う。
エルヴィンは否定しない。
ただ静かに地図を見ていた。
「壁外では、一つの判断ミスが全滅へ繋がる」
低い声。
「だからこそ、情報伝達が最優先になる」
アスカは無言で頷く。
理解はした。
だが同時に。
この陣形がどれだけ死と隣り合わせかも分かる。
最初に巨人を見る奴。
つまり。
最初に死ぬ可能性が高い奴がいる。
その時。
エルヴィンの指が、陣形図の右翼最前列を叩いた。
「アスカ」
低い声。
「お前はここだ」
右翼前方索敵。
最外周。
最前線。
アスカは数秒そこを見つめる。
「……随分前ですね」
「右翼は接触率が高い」
エルヴィンが言う。
「特に今回は、敵がエレンを狙う可能性がある以上、外周の索敵精度が重要になる」
静かな説明。
だが。
アスカには分かっていた。
それだけじゃない。
見られている。
試されている。
自分がどこまで動けるのか。
壁外で。
本物の地獄で。
「トロスト区での戦闘報告を見る限り、お前は危険察知能力が高い」
エルヴィンが続ける。
「加えて立体機動の技量も高い」
一拍。
「適任だと判断した」
アスカは小さく息を吐く。
「断る権利は?」
「あると思うか?」
即答だった。
「ですよね」
ハンジが吹き出す。
だが。
その横で。
リヴァイだけが少し眉を顰めていた。
「……いきなり最前列か」
小さな声。
誰へ向けた訳でもない呟き。
エルヴィンが視線を向ける。
「問題あるか?」
リヴァイは数秒黙る。
やがて。
「死ぬ確率が高ぇ」
短く返した。
団長室が静まる。
ハンジが少しだけ目を丸くする。
ミケは鼻を鳴らした。
「だが、生き残れる可能性も高い」
エルヴィンが静かに返す。
「アスカの勘は、壁外では有効だ」
リヴァイは不機嫌そうに視線を逸らした。
アスカは、その反応を少し不思議そうに見る。
「……?」
何故そんな顔をする。
よく分からなかった。
ただ。
リヴァイがほんの少しだけ、自分を気に掛けている。
その事だけは、なんとなく伝わっていた。
「それと」
エルヴィンが言う。
「明日の夜、新兵の入団式がある」
「入団式?」
「あぁ。104期訓練兵達の所属決定だ」
アスカの目が少し動く。
104期。
ジャン。
サシャ。
コニー。
ライナー。
アニ。
色んな顔が浮かんだ。
「お前も来い」
エルヴィンが続ける。
「これから共に戦う兵士達がいるかもしれない」
「……分かりました」
静かに返す。
だが。
胸の奥が少しだけ重かった。
調査兵団へ入る。
それはつまり。
死に近付くという事だ。
あいつらも。
自分も。
もう後戻りは出来ない。
☆☆☆
翌日の夜。
旧調査兵団本部の広間には、張り詰めた空気が満ちていた。
104期訓練兵達が並んでいる。
誰も喋らない。
緊張。
恐怖。
迷い。
全部が混ざっていた。
アスカは壁際から、その様子を見ていた。
調査兵団のマントを羽織ったまま。
既にこちら側の人間として。
前方。
演台へエルヴィンが立つ。
青い瞳が訓練兵達を見渡した。
静寂。
誰も息をしない。
やがて。
エルヴィンが口を開く。
「諸君」
低く、よく通る声。
「君達は今、大きな選択を迫られている」
広間へ響く。
「壁外へ出れば、多くの命が失われる」
「巨人と戦い、生き残る保証など無い」
誰も動かない。
クリスタが小さく唇を噛んでいた。
コニーの喉が鳴る。
サシャは俯き。
ジャンは険しい顔のまま。
ライナーは真っ直ぐ前を見ていた。
ミカサも。
アルミンも。
誰も目を逸らさない。
エルヴィンの声だけが広間へ響いていた。
「壁の中で生きる限り、安全は保証されるだろう」
エルヴィンの声は静かだった。
だが。
一言一言が、訓練兵達の胸へ重く沈んでいく。
「だが、それは同時に」
一拍。
「壁外で死んでいった兵士達の犠牲の上に成り立っている」
空気が張り詰める。
アスカは壁際から、104期達の背中を見ていた。
誰も動かない。
ジャンの拳が震えている。
クリスタは泣きそうな目をしていた。
ユミルはそんなクリスタを気に掛けるように横目で見ている。
サシャもコニーも、恐怖を隠し切れていない。
当然だ。
巨人と戦った兵士は死ぬ。
それも大量に。
トロスト区で、それを嫌というほど見た。
「人類が壁外を取り戻すその日まで」
エルヴィンの視線が、訓練兵達を貫く。
「誰かが戦い続けなければならない」
静かな声。
だが。
その言葉には妙な熱があった。
死を前提にしているのに。
それでも前へ進もうとする狂気。
調査兵団そのものだった。
「今ここで去る者を、私は責めない」
エルヴィンが続ける。
「生きる事は、恥ではない」
広間が静まり返る。
「だが」
一拍。
「それでも人類のために心臓を捧げる覚悟がある者だけが」
青い瞳が鋭く細められる。
「ここへ残れ」
所属希望の最終確認が始まる。
調査兵団以外を希望する者達が、静かに広間を出ていった。
重い足音。
誰も笑わない。
皆、生きるために去る。
それを責める者はいない。
しばらくの沈黙。
動かない兵士達がいた。
エルヴィンが右腕を胸へ叩き付ける。
「これが本物の敬礼だ!!」
広間が震えた気がした。
「心臓を捧げよ!!」
「「「ハッ!!!」」」
一斉に響く敬礼。
拳が胸へ叩き付けられる音。
104期達の声は震えていた。
恐怖で。
覚悟で。
それでも。
誰も敬礼を崩さなかった。
アスカは壁際から、その光景を黙って見ていた。
残った者達。
ジャン。
コニー。
サシャ。
クリスタ。
ユミル。
ライナー。
ベルトルト。
ミカサ。
アルミン。
誰も、もう訓練兵の顔をしていなかった。
死地へ進む兵士の顔だった。
その時だった。
後方の扉が開く。
外へ出ていく訓練兵達の流れ。
その中に。
金髪が見えた。
「……」
アニだった。
アスカは僅かに目を細める。
アニも、こちらに気付いた。
一瞬だけ。
目が合う。
廊下の空気が静かに冷える。
アニは少し足を止めた。
「……調査兵団、入ったんだ」
小さな声。
「あぁ」
短く返す。
沈黙。
互いに、何を言えばいいか分からない。
マルコ。
死体処理。
火葬。
全部が、まだ生々しく残っていた。
「死ぬよ」
アニが言う。
「かもな」
「怖くないの?」
アスカは少し考える。
「怖ぇよ」
即答だった。
「でも」
一拍。
「行くしかねぇ」
アニは何も言わない。
ただ、視線だけが少し揺れた。
アスカは少しだけ視線を逸らす。
「……別に慰める気はない」
アニの目が動く。
「マルコは死んだんだ」
静かな声だった。
「簡単に元気出せなんて、俺は言えねぇよ」
沈黙。
アニは小さく目を伏せた。
「……うん」
掠れた声。
扉の向こう。
憲兵団へ向かう訓練兵達の足音だけが響いていた。
やがて。
アニはそのまま歩き出す。
振り返らない。
アスカも引き止めなかった。
ただ。
去っていく背中を、無言で見送っていた。
☆☆☆
「いやぁー、新兵が増えるとなると忙しくなるねぇ」
ハンジが机へ大量の書類を積み上げながら言う。
調査兵団本部。
夜。
ハンジ班の部屋は相変わらず散らかっていた。
「増やしてるの大体ハンジさんですよね」
モブリットが死んだ目で返す。
「えー?」
「えー、じゃありません」
ケイジが椅子へ深く座りながら笑う。
「相変わらずだなぁ」
「笑い事じゃないですよ……」
アーベルが小さく肩を竦めた。
「まぁでも新兵入ると空気変わるな」
「そうですね」
二ファも柔らかく笑う。
アスカは椅子へ腰掛けながら、小さく息を吐いた。
壁外調査。
長距離索敵陣形。
右翼前方索敵。
考える事が多過ぎる。
「そんな固くなんなって」
ケイジが笑う。
「初の壁外調査の前は皆そんな顔をする」
「そういう問題じゃないです」
「新兵の初の壁外調査の死亡率は3割くらいだ」
「フォローになってないですよ」
アーベルが吹き出した。
「お前、意外とちゃんと敬語使うんだな」
「使いますよ、一応」
「一応ってなんだ」
少しだけ。
部屋の空気が柔らかかった。
その時。
「はい」
二ファが湯気の立つカップを差し出してくる。
アスカは少し目を瞬かせた。
「……俺に?」
「顔色悪いから」
柔らかい声だった。
アスカは数秒黙った後、小さく受け取る。
「……どうも」
地下街では無かった。
こんな、見返りの無い気遣い。
少しだけ落ち着かない。
「ん?」
ハンジがこちらを見る。
「疲れてる?」
「まぁ……」
アスカは机へ肘を付きながら視線を落とした。
自身の立体機動装置が視界に入る。
その時だった。
不意に。
頭の奥へ、違和感が浮かぶ。
「……そういえば」
小さく呟く。
「?」
ハンジが首を傾げる。
アスカは眉を寄せた。
マルコ。
死体。
半身を喰われた姿。
焼け付いた光景。
「……立体機動装置」
ぽつりと漏れる。
モブリットが顔を上げた。
「え?」
「マルコです」
アスカは低く言う。
「104期の奴でした」
「同期か」
アーベルが腕を組む。
「はい」
アスカは頷いた。
「訓練兵団成績六位」
「頭が回るタイプです」
「冷静で、周りもよく見えてた」
一拍。
「自分から死ぬような判断をする奴じゃない」
ハンジ班が静かに聞いている。
「マルコの死体には立体機動装置が無かった」
部屋の空気が少し変わる。
「巨人だらけの戦場で、立体機動装置を外すなんて有り得ない」
「故障とかじゃなく?」
二ファが不安そうに聞く。
「それでも外さないと思います」
アスカは即答した。
「アイツはそういう奴じゃない」
モブリットが少し表情を硬くする。
「つまり……誰かが外した可能性がある、と?」
「分かりません」
アスカは眉を寄せたまま続ける。
「でも、一人でマルコを抑え込めるとは思えない」
「巨人がいる戦場です」
「抵抗されたら終わる」
その時。
ハンジの表情から笑みが消えた。
アスカは気付かないまま続ける。
「だから、複数です」
静かな声。
「マルコを抑え込んだ奴が、複数いた可能性がある」
部屋が静まる。
だが。
誰もそこ自体には驚かなかった。
ソニーとビーンを殺した犯人も、既に複数と判明している。
問題は。
そこじゃない。
「待ってください……」
モブリットが顔を上げる。
「つまり、敵はもっと前から兵士の中にいた可能性がある、と?」
「……かもしれません」
アスカは低く返す。
ハンジの目が細くなる。
マルコの死。
ソニーとビーン。
エレンの巨人化。
全部が一本に繋がり始めていた。
「でも……」
二ファが小さく口を開く。
「仲間、ですよね……?」
静寂。
誰も即答出来なかった。
調査兵団にいる以上。
全員、覚悟している。
巨人に食われる事も。
仲間が死ぬ事も。
だが。
“仲間を疑う”のは別だった。
ハンジの表情から笑みが消えていた。
机へ肘を付き、組んだ指へ口元を当てている。
「……なるほどね」
静かな声だった。
アスカは眉を寄せたまま続ける。
「マルコは何かを見たか、聞いたかしたのかもしれない」
「だから消された」
「でも、それなら敵はもっと前から兵士の中にいた事になる」
ハンジは数秒黙っていた。
考えている。
巨人の事を考えている時とは違う顔だった。
もっと冷たい。
もっと鋭い。
「マルコが何かを見た」
ぽつりと呟く。
「あるいは聞いた」
アスカは小さく頷く。
「多分」
ケイジが低く唸る。
「……嫌な話だな」
「あぁ」
アーベルも腕を組んだ。
「敵がもっと前から兵士の中にいたって事になる」
モブリットが重く息を吐く。
「ソニーとビーンの件だけでも十分異常なのに……」
「しかも二人」
ハンジが小さく呟く。
「見張りの兵が見たんだよねぇ。立体機動で飛んでいく兵士を」
視線が落ちる。
「もしマルコの件も同じ構図なら」
部屋の空気がさらに重くなる。
アスカは黙っていた。
まだ全部が繋がった訳じゃない。
ただ。
違和感だけが残っている。
「……嫌だなぁ」
ハンジがぽつりと漏らす。
いつもの軽い調子じゃない。
「巨人の事だけ考えてれば良かったのに」
苦笑にもならない声だった。
ケイジが椅子へ深く座り直す。
「笑えねぇな、それ」
「本当だよ」
ハンジは小さく息を吐いた。
「巨人相手なら、まだ単純だった」
一拍。
「でも人間は違う」
静かな声。
「嘘をつくし、隠すし、裏切る」
アスカはその言葉を黙って聞いていた。
地下街では当たり前だった事。
でも。
調査兵団でも同じだとは、まだ思いたくなかった。
その時だった。
「はい」
二ファがそっとアスカのカップへお茶を注ぎ足す。
アスカは少し目を瞬かせた。
「……どうも」
「冷めてたから」
柔らかい声。
アスカは少しだけ視線を落とした。
地下街では無かった。
こんな空気。
こんな会話。
こんな、普通の優しさ。
だから余計に。
壊れた時の事を想像してしまう。
「……でも」
ハンジが顔を上げた。
その目は真剣だった。
「君の違和感は多分間違ってない」
静かな声。
「私も最近ずっと思ってた」
一拍。
「敵は、思ったより近くにいる」
☆☆☆
調査兵団本部、訓練場。
馬の嘶き。
信煙弾の音。
兵士達の怒号。
壁外調査前の訓練は、訓練兵団のそれとは比べ物にならなかった。
「遅い!!」
「馬止めんな!!」
「隊列乱すな!!」
土煙の中。
104期達も必死に食らい付いている。
その様子を、少し離れた場所からアスカは見ていた。
「随分余裕そうだねぇ」
横からハンジが笑う。
「そんな事ないです」
「でも立体機動はすごく良いね」
「実践で嫌でも覚えましたから」
「嫌な覚え方だなぁ」
ハンジが苦笑する。
その時だった。
視界の端に、見覚えのある顔が映った。
104期。
ジャン達がこちらへ歩いて来ている。
アスカは小さく目を細めた。
「……同期?」
「まぁ」
ハンジは察したように笑う。
「行っておいで」
「……どうも」
アスカは軽く頭を下げ、そちらへ向かった。
訓練場の端。
104期達の輪へ、アスカがゆっくり近付いていく。
最初に気付いたのはコニーだった。
「お、アスカじゃねぇか」
「久し振りだな」
アスカが軽く手を上げる。
「お前もう完全に調査兵団の人って感じだな……」
コニーが自由の翼を見る。
「まぁ、一応」
「一応じゃねぇだろ」
ジャンが鼻で笑った。
「お前、もうハンジ分隊長直属なんだろ?」
「勝手に決まってた」
「怖いですね、調査兵団……」
サシャが少し引いた顔をする。
その横で、クリスタが少し安心したように笑った。
「元気そうでよかった」
「そっちもな」
アスカは短く返す。
その時。
ユミルがジロッとこちらを見る。
「で? ちゃんと生き残れそうなのか?」
「分からん」
即答だった。
ユミルが少し吹き出す。
「正直だな」
「壁外なんて誰も分かんねぇだろ」
空気が少しだけ緩む。
その時だった。
「……あいつら」
後ろからエレンの声が聞こえたのは。
「オイ! お前ら!」
ミカサが振り返る。
「エレン!」
「しばらく振りに会った気がするぞ」
エレンが104期の輪へ入る。
少しだけ。
空気が柔らかくなった。
「何か……ひどいことはされなかったの?」
ミカサが真っ先に聞く。
「体を隅々まで調べ尽くされたとか」
「精神的な苦痛を受けたとか」
「ねぇよそんなことは」
「……あのチビは調子に乗りすぎだ……」
エレンが少し顔をしかめる。
「まさかリヴァイ兵長のことを言ってんのか?」
エレンが呆れたように言う。
周囲が少しざわつく。
「エレン!」
聞き馴染みのある声に振り返る。
コニー。
サシャ。
ライナー。
ベルトルト。
クリスタ。
ユミル。
「! お前らも調査兵になったのか?」
エレンが周囲を見る。
「ってことは憲兵団に行ったのはアニとマルコとジャンだけで、あとは皆駐屯兵ってことか」
その時だった。
「マルコは死んだ」
ここにいるはずのない存在にエレンは目を見開く。
「ジャン……!?」
エレンが目を見開いた。
「何でお前がここに……」
そして、後から言葉が耳に入った。
「──って今何て言った?」
確かに聞こえたジャンの声だった。
空気が止まる。
「マルコが?」
エレンの表情が固まる。
ジャンは数秒黙っていた。
やがて。
「死んだ……」
静かな声。
「って……言ったのか?」
エレンの目が揺れる。
ジャンは真っ直ぐエレンを見る。
「誰しも劇的に死ねるってわけでもないらしいぜ」
「どんな最期だったかもわかんねぇよ…………」
エレンの呼吸が止まる。
「あいつは誰も見てない所で人知れず死んだんだ」
沈黙。
エレンの目が大きく開かれていく。
アスカは横で、その様子を黙って見ていた。
これは、俺の口から言うべきことじゃないと思った。
ジャンの口から言わせるべきだと。
だから言うのはやめた。
マルコは死んだ。
その事実だけが、重く残る。
「お前……巨人になった時ミカサを殺そうとしたらしいな?」
ジャンが続ける。
周囲の空気が張る。
「それは一体どういうことだ?」
「違う」
ミカサが即座に口を開く。
「エレンはハエを叩こうとして……」
「お前には聞いてねぇよ」
ジャンの低い声。
ミカサが口を閉ざす。
「ミカサ、頬の傷はかなり深いみたいだな」
「それはいつ負った傷だ?」
ミカサは少し視線を逸らした。
「……本当らしい」
ジャンがエレンを見る。
「巨人になったオレはミカサを殺そうとした」
「らしいってのは記憶に無いってことだな?」
「……あぁ」
「つまりお前は巨人の力の存在も今まで知らなかったし、それを掌握する術も持ち合わせていないと」
「……そうだ」
ジャンは静かに周囲を見る。
「お前達聞いたかよ」
「これが現状らしいぞ」
空気が重くなる。
クリスタが不安そうに目を伏せた。
コニーもサシャも黙っている。
「オレ達と人類の命がこれに懸かっている」
ジャンの拳が握られる。
「このために……オレ達はマルコのようにエレンが知らないうちに死ぬんだろうな」
エレンの目が揺れる。
「ジャン……」
ミカサが低く言う。
「今ここでエレンを追いつめることに一体何の意味があるの?」
「あのなミカサ」
ジャンが振り返る。
「誰しもお前みたいになぁ……エレンのために無償で死ねるわけじゃないんだぜ?」
空気が止まる。
「知っておくべきだ」
ジャンが真っ直ぐエレンを見る。
「エレンもオレ達も」
「オレ達が何のために命を使うのかをな」
エレンは何も言えない。
ジャンは一歩近付く。
「オレ達はエレンに見返りを求めている」
「きっちり帳尻合わせてくれよ」
鋭い目。
真っ直ぐだった。
「自分の命に見合うのかどうかな……」
エレンの喉が小さく鳴る。
「だからエレン」
ジャンが目の前まで来る。
「頼むぞ?」
「あぁ……」
エレンは小さく頷いた。