地下に眠るダイヤモンド   作:ニャンニャンコポン

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代償

 

 

 

 

 夜だった。

 

 旧調査兵団本部。

 

 団長室には、重い沈黙が落ちている。

 

 机の上へ広げられた地図。

 

 壁外調査ルート。

 

 長距離索敵陣形。

 

 赤い印。

 

 そして。

 

 中央に置かれた、一枚の紙。

 

 “アスカ・ラングレー”

 

 その名前が記されていた。

 

「──で?」

 

 最初に口を開いたのはハンジだった。

 

 椅子へ浅く腰掛けながら、頬杖をつく。

 

「どうするの? あの子」

 

 エルヴィンは答えない。

 

 窓際へ立ったまま、外を見ている。

 

 月明かりが自由の翼を照らしていた。

 

 部屋の空気は静かだった。

 

 だが。

 

 張り詰めている。

 

 ソニーとビーンが殺されて以降、調査兵団本部の空気は変わった。

 

 皆、理解し始めている。

 

 敵は壁の外だけじゃない。

 

 内側にもいる。

 

「新兵だぞ」

 

 低い声。

 

 リヴァイだった。

 

 ソファへ座り、腕を組んでいる。

 

「まだ判断材料が少ねぇ」

 

「でも勘はかなり鋭いよ?」

 

 ハンジが返す。

 

「“裏切り者”って答えた時、私ちょっと鳥肌立ったもん」

 

「勘だけで信用は出来ん」

 

 今度は別の声。

 

 壁際へ立っていた男。

 

 ミケだった。

 

 鼻を鳴らす。

 

「地下街出身だ。人間不信でも不思議じゃない」

 

「それはそうだけどさ」

 

 ハンジが肩を竦める。

 

「逆に言えば、人間の悪意に敏感って事でもある」

 

 エルヴィンは黙ったまま地図を見ている。

 

 誰も急かさない。

 

 団長が考えている時、口を挟む意味が無いと知っているからだ。

 

 やがて。

 

 エルヴィンが静かに口を開く。

 

「アスカは死に慣れている」

 

 低い声。

 

「だが、壊れてはいない」

 

 リヴァイが僅かに目を細める。

 

「……」

 

「トロスト区で仲間が死んだ時、精神が揺れていたと報告を受けている」

 

 ハンジが少しだけ視線を上げる。

 

 見ていたのだ。

 

 ちゃんと。

 

「感情が残っている証拠だ」

 

「兵士としては悪くねぇ」

 

 リヴァイが短く返す。

 

「少なくとも、そこらの新兵より使える」

 

「へぇ」

 

 ハンジがにやつく。

 

「随分買ってるじゃん」

 

「買ってねぇよ」

 

 即答。

 

「戦力として見てるだけだ」

 

「はいはい」

 

 完全に流された。

 

 ミケが低く鼻を鳴らす。

 

「問題はそこじゃない」

 

 静かな声。

 

「“内部”の話をどこまで聞かせるかだ」

 

 空気が変わる。

 

 ハンジの表情から笑みが消えた。

 

 ソニーとビーン。

 

 内部犯。

 

 エレンを狙う敵。

 

 まだ全て仮説だ。

 

 だが。

 

 確実に何かがいる。

 

 兵士の中に。

 

「仮に」

 

 ミケが続ける。

 

「もしアスカが敵側なら?」

 

 部屋が静まる。

 

 リヴァイは何も言わない。

 

 ハンジも口を閉ざした。

 

 エルヴィンだけが、静かに窓の外を見ている。

 

「……可能性はある」

 

 団長の声。

 

 誰も否定しない。

 

 調査兵団は、もう“仲間を疑う段階”へ来ている。

 

「だが」

 

 エルヴィンが振り返る。

 

 青い瞳が、全員を見渡した。

 

「だからこそ、試す価値がある」

 

 コンコン、と。

 

 静かなノック音が響いた。

 

「入れ」

 

 扉が開く。

 

 入ってきたのは、アスカだった。

 

 部屋へ足を踏み入れた瞬間、僅かに目を細める。

 

 視線の先。

 

 エルヴィン。

 

 リヴァイ。

 

 ハンジ。

 

 そしてミケ。

 

 調査兵団の主力が揃っていた。

 

「……なんか、場違いな気しかしないんですけど」

 

「気のせいじゃないかもね」

 

 ハンジが笑う。

 

 リヴァイは壁へ寄り掛かったまま無言だった。

 

 ミケは鼻を鳴らす。

 

 エルヴィンだけが静かにアスカを見る。

 

「座ってくれ」

 

 低い声。

 

 アスカは机前の椅子へ腰掛けた。

 

 背筋が自然と伸びる。

 

 空気が重い。

 

 呼吸一つまで見られている感覚があった。

 

 少しの沈黙。

 

 やがて。

 

 エルヴィンが口を開く。

 

「何故、“裏切り者”だと思った?」

 

 単刀直入だった。

 

 アスカは一瞬だけ目を細める。

 

 やはりそこか、と思った。

 

「……ソニーとビーンですか」

 

「あぁ」

 

 エルヴィンは頷く。

 

「何故、巨人ではなく“兵士”を疑った?」

 

 部屋が静かになる。

 

 ハンジも。

 

 ミケも。

 

 リヴァイも。

 

 全員がアスカを見ていた。

 

 試されている。

 

 そう感じた。

 

 アスカは数秒考え込む。

 

 言葉を探す。

 

「……上手く言えません」

 

 正直に言った。

 

「根拠も、ちゃんとある訳じゃない」

 

 だが。

 

 頭の中へ浮かぶ違和感は、確かに存在していた。

 

「巨人化したエレン」

 

 静かな声。

 

「壁内でも大事になった。それを知った敵……あるいは裏切り者」

 

 エルヴィンは何も言わない。

 

 アスカは続ける。

 

「ソイツ、いや……ソイツらがエレンを……エレンを……」

 

 そこまで言って、言葉が止まる。

 

 喉の奥が引っ掛かったみたいに動かない。

 

 あと少しで何かに届きそうなのに。

 

 繋がらない。

 

「……分からない」

 

 悔しそうにアスカは吐き捨てる。

 

「でも、ソニーとビーンを殺したのも、多分そういう事だ」

 

 拳が僅かに握られる。

 

「巨人の秘密を、これ以上知られたくなかった」

 

 ハンジの目が少しだけ細くなる。

 

 アスカは気付かないまま続けた。

 

「ハンジさんの実験、核心に迫りつつあったのかもしれません」

 

 静寂。

 

 部屋の空気が少し重くなる。

 

 ミケが低く鼻を鳴らした。

 

 リヴァイは壁へ寄り掛かったまま無言。

 

 エルヴィンだけが静かにアスカを見ている。

 

「でも」

 

 アスカは小さく息を吐いた。

 

「結局、根拠なんて曖昧です」

 

 視線を落とさない。

 

「だから最後はカンです」

 

 ハンジが少しだけ眉を上げる。

 

「カン?」

 

「あぁ」

 

 アスカは低く返す。

 

「地下街で生きてきた時、最後に信じられるのはカンだった」

 

 静かな声。

 

「違和感です」

 

 一拍。

 

「アイツはなんかヤバい、とか」

 

「今逃げろ、とか」

 

「今近付くな、とか」

 

 地下街では。

 

 間違えれば死ぬ。

 

 理屈より先に、身体が危険を察知する。

 

「根拠なんて後から付いてくる」

 

 アスカは言う。

 

「だから俺は、最後はカンを信じる」

 

 そして。

 

 少しだけ口元を歪めた。

 

「カンを信じて、そこに賭ける」

 

 団長室が静まり返る。

 

 アスカは部屋を見回した。

 

 エルヴィン。

 

 リヴァイ。

 

 ハンジ。

 

 ミケ。

 

 調査兵団の上澄み。

 

 壁の外を生き抜いてきた化け物達。

 

「それに」

 

 一拍。

 

「俺をここに呼んで、調査兵団の上澄みであるあなた達が揃ってる」

 

 青い瞳を真っ直ぐ見る。

 

「なら、俺の推測とカンも、あながち間違ってないって事でしょ」

 

 数秒。

 

 誰も喋らなかった。

 

 やがて。

 

 ミケが低く鼻を鳴らす。

 

 ハンジは少し面白そうに笑っていた。

 

 リヴァイは無言のまま。

 

 だが。

 

 ほんの僅かに、目が細くなる。

 

 エルヴィンは静かに目を閉じた。

 

「……なるほど」

 

 短い声。

 

 そして。

 

 ゆっくり椅子へ腰掛ける。

 

「アスカ」

 

 青い瞳が向く。

 

「これから話す内容は、他言無用だ」

 

 空気が変わる。

 

 アスカの表情も自然と引き締まる。

 

「我々は現在、“敵が内部に存在する可能性”を前提として動いている」

 

 静かな声。

 

「敵の正体は不明。知性巨人である保証も無い」

 

 一拍。

 

「だが、おそらくそうだ」

 

 アスカは黙って聞く。

 

「次回壁外調査」

 

 エルヴィンの指が地図へ触れる。

 

「そこで敵が動く可能性が高い」

 

 そして。

 

 机の上へ、新しい紙が広げられた。

 

 複雑な陣形図。

 

 無数の印。

 

 矢印。

 

 列。

 

 信煙弾の伝達経路。

 

「……なんだこれ」

 

 アスカが素で呟く。

 

 ハンジが待ってましたと言わんばかりに身を乗り出した。

 

「長距離索敵陣形!!」

 

「いや名前じゃ分かんないです」

 

 ハンジが陣形図を指差す。

 

「調査兵団って、昔は壁外出る度に死にまくってたんだよね」

 

「言い方」

 

「でもエルヴィンがこの陣形作ってから、生存率がかなり上がった」

 

 エルヴィンは静かに腕を組んだまま。

 

 ハンジが説明を続ける。

 

「まず最外周にいる索敵班が巨人を発見すると、赤色の信煙弾を撃つ」

 

「それを見た次列が同じ赤煙弾を撃つ」

 

「さらに後方へ伝達して、中央の団長まで情報を届ける訳」

 

 アスカは図を見る。

 

 赤。

 

 白線。

 

 矢印。

 

 正直、まだよく分からない。

 

「……?」

 

 顔に出ていたらしい。

 

 ハンジが「ん?」と笑う。

 

「分かんない?」

 

「いやまぁ……」

 

 複雑過ぎる。

 

 列も多い。

 

 役割も多い。

 

 その時だった。

 

 リヴァイが小さく溜息を吐く。

 

「貸せ」

 

 短く言って、壁から離れた。

 

 静かに机へ近付いてくる。

 

 ブーツの音が止まり、アスカのすぐ横へ立つ。

 

 近い。

 

 思ったより小柄なのに、妙に圧があった。

 

 リヴァイは机へ片手を付き、陣形図を指で叩く。

 

「ここが初列」

 

 低い声。

 

「巨人を最初に見つける奴らだ」

 

 指が外周をなぞる。

 

「で、見つけたら赤煙弾を撃つ」

 

 そのまま指が内側へ滑る。

 

「次列がそれを見る」

 

「そうしたら同じ煙弾を撃って、さらに奥へ伝える」

 

 アスカは地図を見る。

 

 指の動き。

 

 線。

 

 配置。

 

 さっきより分かりやすい。

 

「つまり」

 

 リヴァイが机を軽く叩く。

 

「巨人を見つける役」

 

「情報を伝える役」

 

「進路を決める役」

 

「全部分けてるって事だ」

 

「……あぁ」

 

 それなら理解出来た。

 

 一人で全部やるんじゃない。

 

 役割分担。

 

「一人で全部やろうとすると死ぬ」

 

 リヴァイは続ける。

 

「だから情報を繋いで、巨人を避けながら進む」

 

 一拍。

 

「奇行種だけは別だがな」

 

 そこでハンジが再び身を乗り出した。

 

「そう!! そこ重要!!」

 

 目が輝いている。

 

「通常種は割と動きが読めるんだけど、奇行種は別!!」

 

「だから奇行種を見つけた場合は黒煙弾を使う!!」

 

 ハンジが陣形図へ指を滑らせる。

 

「で、団長はその情報を全部見て進路変更を決める」

 

「緑煙弾を撃って、陣形全体を動かす訳!!」

 

 アスカはようやく図を見ながら理解し始める。

 

 つまり。

 

 これは軍隊というより。

 

 一つの生き物だ。

 

 情報を共有し。

 

 全体で動く。

 

「……よく考えましたね、これ」

 

「考えたのエルヴィンだけどね」

 

 ハンジが笑う。

 

 エルヴィンは否定しない。

 

 ただ静かに地図を見ていた。

 

「壁外では、一つの判断ミスが全滅へ繋がる」

 

 低い声。

 

「だからこそ、情報伝達が最優先になる」

 

 アスカは無言で頷く。

 

 理解はした。

 

 だが同時に。

 

 この陣形がどれだけ死と隣り合わせかも分かる。

 

 最初に巨人を見る奴。

 

 つまり。

 

 最初に死ぬ可能性が高い奴がいる。

 

 その時。

 

 エルヴィンの指が、陣形図の右翼最前列を叩いた。

 

「アスカ」

 

 低い声。

 

「お前はここだ」

 

 右翼前方索敵。

 

 最外周。

 

 最前線。

 

 アスカは数秒そこを見つめる。

 

「……随分前ですね」

 

「右翼は接触率が高い」

 

 エルヴィンが言う。

 

「特に今回は、敵がエレンを狙う可能性がある以上、外周の索敵精度が重要になる」

 

 静かな説明。

 

 だが。

 

 アスカには分かっていた。

 

 それだけじゃない。

 

 見られている。

 

 試されている。

 

 自分がどこまで動けるのか。

 

 壁外で。

 

 本物の地獄で。

 

「トロスト区での戦闘報告を見る限り、お前は危険察知能力が高い」

 

 エルヴィンが続ける。

 

「加えて立体機動の技量も高い」

 

 一拍。

 

「適任だと判断した」

 

 アスカは小さく息を吐く。

 

「断る権利は?」

 

「あると思うか?」

 

 即答だった。

 

「ですよね」

 

 ハンジが吹き出す。

 

 だが。

 

 その横で。

 

 リヴァイだけが少し眉を顰めていた。

 

「……いきなり最前列か」

 

 小さな声。

 

 誰へ向けた訳でもない呟き。

 

 エルヴィンが視線を向ける。

 

「問題あるか?」

 

 リヴァイは数秒黙る。

 

 やがて。

 

「死ぬ確率が高ぇ」

 

 短く返した。

 

 団長室が静まる。

 

 ハンジが少しだけ目を丸くする。

 

 ミケは鼻を鳴らした。

 

「だが、生き残れる可能性も高い」

 

 エルヴィンが静かに返す。

 

「アスカの勘は、壁外では有効だ」

 

 リヴァイは不機嫌そうに視線を逸らした。

 

 アスカは、その反応を少し不思議そうに見る。

 

「……?」

 

 何故そんな顔をする。

 

 よく分からなかった。

 

 ただ。

 

 リヴァイがほんの少しだけ、自分を気に掛けている。

 

 その事だけは、なんとなく伝わっていた。

 

「それと」

 

 エルヴィンが言う。

 

「明日の夜、新兵の入団式がある」

 

「入団式?」

 

「あぁ。104期訓練兵達の所属決定だ」

 

 アスカの目が少し動く。

 

 104期。

 

 ジャン。

 

 サシャ。

 

 コニー。

 

 ライナー。

 

 アニ。

 

 色んな顔が浮かんだ。

 

「お前も来い」

 

 エルヴィンが続ける。

 

「これから共に戦う兵士達がいるかもしれない」

 

「……分かりました」

 

 静かに返す。

 

 だが。

 

 胸の奥が少しだけ重かった。

 

 調査兵団へ入る。

 

 それはつまり。

 

 死に近付くという事だ。

 

 あいつらも。

 

 自分も。

 

 もう後戻りは出来ない。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 翌日の夜。

 

 旧調査兵団本部の広間には、張り詰めた空気が満ちていた。

 

 104期訓練兵達が並んでいる。

 

 誰も喋らない。

 

 緊張。

 

 恐怖。

 

 迷い。

 

 全部が混ざっていた。

 

 アスカは壁際から、その様子を見ていた。

 

 調査兵団のマントを羽織ったまま。

 

 既にこちら側の人間として。

 

 前方。

 

 演台へエルヴィンが立つ。

 

 青い瞳が訓練兵達を見渡した。

 

 静寂。

 

 誰も息をしない。

 

 やがて。

 

 エルヴィンが口を開く。

 

「諸君」

 

 低く、よく通る声。

 

「君達は今、大きな選択を迫られている」

 

 広間へ響く。

 

「壁外へ出れば、多くの命が失われる」

 

「巨人と戦い、生き残る保証など無い」

 

 誰も動かない。

 

 クリスタが小さく唇を噛んでいた。

 

 コニーの喉が鳴る。

 

 サシャは俯き。

 

 ジャンは険しい顔のまま。

 

 ライナーは真っ直ぐ前を見ていた。

 

 ミカサも。

 

 アルミンも。

 

 誰も目を逸らさない。

 

 エルヴィンの声だけが広間へ響いていた。

 

「壁の中で生きる限り、安全は保証されるだろう」

 

 エルヴィンの声は静かだった。

 

 だが。

 

 一言一言が、訓練兵達の胸へ重く沈んでいく。

 

「だが、それは同時に」

 

 一拍。

 

「壁外で死んでいった兵士達の犠牲の上に成り立っている」

 

 空気が張り詰める。

 

 アスカは壁際から、104期達の背中を見ていた。

 

 誰も動かない。

 

 ジャンの拳が震えている。

 

 クリスタは泣きそうな目をしていた。

 

 ユミルはそんなクリスタを気に掛けるように横目で見ている。

 

 サシャもコニーも、恐怖を隠し切れていない。

 

 当然だ。

 

 巨人と戦った兵士は死ぬ。

 

 それも大量に。

 

 トロスト区で、それを嫌というほど見た。

 

「人類が壁外を取り戻すその日まで」

 

 エルヴィンの視線が、訓練兵達を貫く。

 

「誰かが戦い続けなければならない」

 

 静かな声。

 

 だが。

 

 その言葉には妙な熱があった。

 

 死を前提にしているのに。

 

 それでも前へ進もうとする狂気。

 

 調査兵団そのものだった。

 

「今ここで去る者を、私は責めない」

 

 エルヴィンが続ける。

 

「生きる事は、恥ではない」

 

 広間が静まり返る。

 

「だが」

 

 一拍。

 

「それでも人類のために心臓を捧げる覚悟がある者だけが」

 

 青い瞳が鋭く細められる。

 

「ここへ残れ」

 

 所属希望の最終確認が始まる。

 

 調査兵団以外を希望する者達が、静かに広間を出ていった。

 

 重い足音。

 

 誰も笑わない。

 

 皆、生きるために去る。

 

 それを責める者はいない。

 

 しばらくの沈黙。

 

 動かない兵士達がいた。

 

 エルヴィンが右腕を胸へ叩き付ける。

 

「これが本物の敬礼だ!!」

 

 広間が震えた気がした。

 

「心臓を捧げよ!!」

 

「「「ハッ!!!」」」

 

 一斉に響く敬礼。

 

 拳が胸へ叩き付けられる音。

 

 104期達の声は震えていた。

 

 恐怖で。

 

 覚悟で。

 

 それでも。

 

 誰も敬礼を崩さなかった。

 

 アスカは壁際から、その光景を黙って見ていた。

 

 残った者達。

 

 ジャン。

 

 コニー。

 

 サシャ。

 

 クリスタ。

 

 ユミル。

 

 ライナー。

 

 ベルトルト。

 

 ミカサ。

 

 アルミン。

 

 誰も、もう訓練兵の顔をしていなかった。

 

 死地へ進む兵士の顔だった。

 

 その時だった。

 

 後方の扉が開く。

 

 外へ出ていく訓練兵達の流れ。

 

 その中に。

 

 金髪が見えた。

 

「……」

 

 アニだった。

 

 アスカは僅かに目を細める。

 

 アニも、こちらに気付いた。

 

 一瞬だけ。

 

 目が合う。

 

 廊下の空気が静かに冷える。

 

 アニは少し足を止めた。

 

「……調査兵団、入ったんだ」

 

 小さな声。

 

「あぁ」

 

 短く返す。

 

 沈黙。

 

 互いに、何を言えばいいか分からない。

 

 マルコ。

 

 死体処理。

 

 火葬。

 

 全部が、まだ生々しく残っていた。

 

「死ぬよ」

 

 アニが言う。

 

「かもな」

 

「怖くないの?」

 

 アスカは少し考える。

 

「怖ぇよ」

 

 即答だった。

 

「でも」

 

 一拍。

 

「行くしかねぇ」

 

 アニは何も言わない。

 

 ただ、視線だけが少し揺れた。

 

 アスカは少しだけ視線を逸らす。

 

「……別に慰める気はない」

 

 アニの目が動く。

 

「マルコは死んだんだ」

 

 静かな声だった。

 

「簡単に元気出せなんて、俺は言えねぇよ」

 

 沈黙。

 

 アニは小さく目を伏せた。

 

「……うん」

 

 掠れた声。

 

 扉の向こう。

 

 憲兵団へ向かう訓練兵達の足音だけが響いていた。

 

 やがて。

 

 アニはそのまま歩き出す。

 

 振り返らない。

 

 アスカも引き止めなかった。

 

 ただ。

 

 去っていく背中を、無言で見送っていた。 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

「いやぁー、新兵が増えるとなると忙しくなるねぇ」

 

 ハンジが机へ大量の書類を積み上げながら言う。

 

 調査兵団本部。

 

 夜。

 

 ハンジ班の部屋は相変わらず散らかっていた。

 

「増やしてるの大体ハンジさんですよね」

 

 モブリットが死んだ目で返す。

 

「えー?」

 

「えー、じゃありません」

 

 ケイジが椅子へ深く座りながら笑う。

 

「相変わらずだなぁ」

 

「笑い事じゃないですよ……」

 

 アーベルが小さく肩を竦めた。

 

「まぁでも新兵入ると空気変わるな」

 

「そうですね」

 

 二ファも柔らかく笑う。

 

 アスカは椅子へ腰掛けながら、小さく息を吐いた。

 

 壁外調査。

 

 長距離索敵陣形。

 

 右翼前方索敵。

 

 考える事が多過ぎる。

 

「そんな固くなんなって」

 

 ケイジが笑う。

 

「初の壁外調査の前は皆そんな顔をする」

 

「そういう問題じゃないです」

 

「新兵の初の壁外調査の死亡率は3割くらいだ」

 

「フォローになってないですよ」

 

 アーベルが吹き出した。

 

「お前、意外とちゃんと敬語使うんだな」

 

「使いますよ、一応」

 

「一応ってなんだ」

 

 少しだけ。

 

 部屋の空気が柔らかかった。

 

 その時。

 

「はい」

 

 二ファが湯気の立つカップを差し出してくる。

 

 アスカは少し目を瞬かせた。

 

「……俺に?」

 

「顔色悪いから」

 

 柔らかい声だった。

 

 アスカは数秒黙った後、小さく受け取る。

 

「……どうも」

 

 地下街では無かった。

 

 こんな、見返りの無い気遣い。

 

 少しだけ落ち着かない。

 

「ん?」

 

 ハンジがこちらを見る。

 

「疲れてる?」

 

「まぁ……」

 

 アスカは机へ肘を付きながら視線を落とした。

 

 自身の立体機動装置が視界に入る。

 

 その時だった。

 

 不意に。

 

 頭の奥へ、違和感が浮かぶ。

 

「……そういえば」

 

 小さく呟く。

 

「?」

 

 ハンジが首を傾げる。

 

 アスカは眉を寄せた。

 

 マルコ。

 

 死体。

 

 半身を喰われた姿。

 

 焼け付いた光景。

 

「……立体機動装置」

 

 ぽつりと漏れる。

 

 モブリットが顔を上げた。

 

「え?」

 

「マルコです」

 

 アスカは低く言う。

 

「104期の奴でした」

 

「同期か」

 

 アーベルが腕を組む。

 

「はい」

 

 アスカは頷いた。

 

「訓練兵団成績六位」

 

「頭が回るタイプです」

 

「冷静で、周りもよく見えてた」

 

 一拍。

 

「自分から死ぬような判断をする奴じゃない」

 

 ハンジ班が静かに聞いている。

 

「マルコの死体には立体機動装置が無かった」

 

 部屋の空気が少し変わる。

 

「巨人だらけの戦場で、立体機動装置を外すなんて有り得ない」

 

「故障とかじゃなく?」

 

 二ファが不安そうに聞く。

 

「それでも外さないと思います」

 

 アスカは即答した。

 

「アイツはそういう奴じゃない」

 

 モブリットが少し表情を硬くする。

 

「つまり……誰かが外した可能性がある、と?」

 

「分かりません」

 

 アスカは眉を寄せたまま続ける。

 

「でも、一人でマルコを抑え込めるとは思えない」

 

「巨人がいる戦場です」

 

「抵抗されたら終わる」

 

 その時。

 

 ハンジの表情から笑みが消えた。

 

 アスカは気付かないまま続ける。

 

「だから、複数です」

 

 静かな声。

 

「マルコを抑え込んだ奴が、複数いた可能性がある」

 

 部屋が静まる。

 

 だが。

 

 誰もそこ自体には驚かなかった。

 

 ソニーとビーンを殺した犯人も、既に複数と判明している。

 

 問題は。

 

 そこじゃない。

 

「待ってください……」

 

 モブリットが顔を上げる。

 

「つまり、敵はもっと前から兵士の中にいた可能性がある、と?」

 

「……かもしれません」

 

 アスカは低く返す。

 

 ハンジの目が細くなる。

 

 マルコの死。

 

 ソニーとビーン。

 

 エレンの巨人化。

 

 全部が一本に繋がり始めていた。

 

「でも……」

 

 二ファが小さく口を開く。

 

「仲間、ですよね……?」

 

 静寂。

 

 誰も即答出来なかった。

 

 調査兵団にいる以上。

 

 全員、覚悟している。

 

 巨人に食われる事も。

 

 仲間が死ぬ事も。

 

 だが。

 

 “仲間を疑う”のは別だった。

 

 ハンジの表情から笑みが消えていた。

 

 机へ肘を付き、組んだ指へ口元を当てている。

 

「……なるほどね」

 

 静かな声だった。

 

 アスカは眉を寄せたまま続ける。

 

「マルコは何かを見たか、聞いたかしたのかもしれない」

 

「だから消された」

 

「でも、それなら敵はもっと前から兵士の中にいた事になる」

 

 ハンジは数秒黙っていた。

 

 考えている。

 

 巨人の事を考えている時とは違う顔だった。

 

 もっと冷たい。

 

 もっと鋭い。

 

「マルコが何かを見た」

 

 ぽつりと呟く。

 

「あるいは聞いた」

 

 アスカは小さく頷く。

 

「多分」

 

 ケイジが低く唸る。

 

「……嫌な話だな」

 

「あぁ」

 

 アーベルも腕を組んだ。

 

「敵がもっと前から兵士の中にいたって事になる」

 

 モブリットが重く息を吐く。

 

「ソニーとビーンの件だけでも十分異常なのに……」

 

「しかも二人」

 

 ハンジが小さく呟く。

 

「見張りの兵が見たんだよねぇ。立体機動で飛んでいく兵士を」

 

 視線が落ちる。

 

「もしマルコの件も同じ構図なら」

 

 部屋の空気がさらに重くなる。

 

 アスカは黙っていた。

 

 まだ全部が繋がった訳じゃない。

 

 ただ。

 

 違和感だけが残っている。

 

「……嫌だなぁ」

 

 ハンジがぽつりと漏らす。

 

 いつもの軽い調子じゃない。

 

「巨人の事だけ考えてれば良かったのに」

 

 苦笑にもならない声だった。

 

 ケイジが椅子へ深く座り直す。

 

「笑えねぇな、それ」

 

「本当だよ」

 

 ハンジは小さく息を吐いた。

 

「巨人相手なら、まだ単純だった」

 

 一拍。

 

「でも人間は違う」

 

 静かな声。

 

「嘘をつくし、隠すし、裏切る」

 

 アスカはその言葉を黙って聞いていた。

 

 地下街では当たり前だった事。

 

 でも。

 

 調査兵団でも同じだとは、まだ思いたくなかった。

 

 その時だった。

 

「はい」

 

 二ファがそっとアスカのカップへお茶を注ぎ足す。

 

 アスカは少し目を瞬かせた。

 

「……どうも」

 

「冷めてたから」

 

 柔らかい声。

 

 アスカは少しだけ視線を落とした。

 

 地下街では無かった。

 

 こんな空気。

 

 こんな会話。

 

 こんな、普通の優しさ。

 

 だから余計に。

 

 壊れた時の事を想像してしまう。

 

「……でも」

 

 ハンジが顔を上げた。

 

 その目は真剣だった。

 

「君の違和感は多分間違ってない」

 

 静かな声。

 

「私も最近ずっと思ってた」

 

 一拍。

 

「敵は、思ったより近くにいる」

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 調査兵団本部、訓練場。

 

 馬の嘶き。

 

 信煙弾の音。

 

 兵士達の怒号。

 

 壁外調査前の訓練は、訓練兵団のそれとは比べ物にならなかった。

 

「遅い!!」

 

「馬止めんな!!」

 

「隊列乱すな!!」

 

 土煙の中。

 

 104期達も必死に食らい付いている。

 

 その様子を、少し離れた場所からアスカは見ていた。

 

「随分余裕そうだねぇ」

 

 横からハンジが笑う。

 

「そんな事ないです」

 

「でも立体機動はすごく良いね」

 

「実践で嫌でも覚えましたから」

 

「嫌な覚え方だなぁ」

 

 ハンジが苦笑する。

 

 その時だった。

 

 視界の端に、見覚えのある顔が映った。

 

 104期。

 

 ジャン達がこちらへ歩いて来ている。

 

 アスカは小さく目を細めた。

 

「……同期?」

 

「まぁ」

 

 ハンジは察したように笑う。

 

「行っておいで」

 

「……どうも」

 

 アスカは軽く頭を下げ、そちらへ向かった。

 

 訓練場の端。

 

 104期達の輪へ、アスカがゆっくり近付いていく。

 

 最初に気付いたのはコニーだった。

 

「お、アスカじゃねぇか」

 

「久し振りだな」

 

 アスカが軽く手を上げる。

 

「お前もう完全に調査兵団の人って感じだな……」

 

 コニーが自由の翼を見る。

 

「まぁ、一応」

 

「一応じゃねぇだろ」

 

 ジャンが鼻で笑った。

 

「お前、もうハンジ分隊長直属なんだろ?」

 

「勝手に決まってた」

 

「怖いですね、調査兵団……」

 

 サシャが少し引いた顔をする。

 

 その横で、クリスタが少し安心したように笑った。

 

「元気そうでよかった」

 

「そっちもな」

 

 アスカは短く返す。

 

 その時。

 

 ユミルがジロッとこちらを見る。

 

「で? ちゃんと生き残れそうなのか?」

 

「分からん」

 

 即答だった。

 

 ユミルが少し吹き出す。

 

「正直だな」

 

「壁外なんて誰も分かんねぇだろ」

 

 空気が少しだけ緩む。

 

 その時だった。

 

「……あいつら」

 

 後ろからエレンの声が聞こえたのは。

 

「オイ! お前ら!」

 

 ミカサが振り返る。

 

「エレン!」

 

「しばらく振りに会った気がするぞ」

 

 エレンが104期の輪へ入る。

 

 少しだけ。

 

 空気が柔らかくなった。

 

「何か……ひどいことはされなかったの?」

 

 ミカサが真っ先に聞く。

 

「体を隅々まで調べ尽くされたとか」

 

「精神的な苦痛を受けたとか」

 

「ねぇよそんなことは」

 

「……あのチビは調子に乗りすぎだ……」

 

 エレンが少し顔をしかめる。

 

「まさかリヴァイ兵長のことを言ってんのか?」

 

 エレンが呆れたように言う。

 

 周囲が少しざわつく。

 

「エレン!」

 

 聞き馴染みのある声に振り返る。

 

 コニー。

 

 サシャ。

 

 ライナー。

 

 ベルトルト。

 

 クリスタ。

 

 ユミル。

 

「! お前らも調査兵になったのか?」

 

 エレンが周囲を見る。

 

「ってことは憲兵団に行ったのはアニとマルコとジャンだけで、あとは皆駐屯兵ってことか」

 

 その時だった。

 

「マルコは死んだ」

 

 ここにいるはずのない存在にエレンは目を見開く。

 

「ジャン……!?」

 

 エレンが目を見開いた。

 

「何でお前がここに……」

 

 そして、後から言葉が耳に入った。

 

「──って今何て言った?」

 

 確かに聞こえたジャンの声だった。

 

 空気が止まる。

 

「マルコが?」

 

 エレンの表情が固まる。

 

 ジャンは数秒黙っていた。

 

 やがて。

 

「死んだ……」

 

 静かな声。

 

「って……言ったのか?」

 

 エレンの目が揺れる。

 

 ジャンは真っ直ぐエレンを見る。

 

「誰しも劇的に死ねるってわけでもないらしいぜ」

 

「どんな最期だったかもわかんねぇよ…………」

 

 エレンの呼吸が止まる。

 

「あいつは誰も見てない所で人知れず死んだんだ」

 

 沈黙。

 

 エレンの目が大きく開かれていく。

 

 アスカは横で、その様子を黙って見ていた。

 

 これは、俺の口から言うべきことじゃないと思った。

 

 ジャンの口から言わせるべきだと。

 

 だから言うのはやめた。

 

 マルコは死んだ。

 

 その事実だけが、重く残る。

 

「お前……巨人になった時ミカサを殺そうとしたらしいな?」

 

 ジャンが続ける。

 

 周囲の空気が張る。

 

「それは一体どういうことだ?」

 

「違う」

 

 ミカサが即座に口を開く。

 

「エレンはハエを叩こうとして……」

 

「お前には聞いてねぇよ」

 

 ジャンの低い声。

 

 ミカサが口を閉ざす。

 

「ミカサ、頬の傷はかなり深いみたいだな」

 

「それはいつ負った傷だ?」

 

 ミカサは少し視線を逸らした。

 

「……本当らしい」

 

 ジャンがエレンを見る。

 

「巨人になったオレはミカサを殺そうとした」

 

「らしいってのは記憶に無いってことだな?」

 

「……あぁ」

 

「つまりお前は巨人の力の存在も今まで知らなかったし、それを掌握する術も持ち合わせていないと」

 

「……そうだ」

 

 ジャンは静かに周囲を見る。

 

「お前達聞いたかよ」

 

「これが現状らしいぞ」

 

 空気が重くなる。

 

 クリスタが不安そうに目を伏せた。

 

 コニーもサシャも黙っている。

 

「オレ達と人類の命がこれに懸かっている」

 

 ジャンの拳が握られる。

 

「このために……オレ達はマルコのようにエレンが知らないうちに死ぬんだろうな」

 

 エレンの目が揺れる。

 

「ジャン……」

 

 ミカサが低く言う。

 

「今ここでエレンを追いつめることに一体何の意味があるの?」

 

「あのなミカサ」

 

 ジャンが振り返る。

 

「誰しもお前みたいになぁ……エレンのために無償で死ねるわけじゃないんだぜ?」

 

 空気が止まる。

 

「知っておくべきだ」

 

 ジャンが真っ直ぐエレンを見る。

 

「エレンもオレ達も」

 

「オレ達が何のために命を使うのかをな」

 

 エレンは何も言えない。

 

 ジャンは一歩近付く。

 

「オレ達はエレンに見返りを求めている」

 

「きっちり帳尻合わせてくれよ」

 

 鋭い目。

 

 真っ直ぐだった。

 

「自分の命に見合うのかどうかな……」

 

 エレンの喉が小さく鳴る。

 

「だからエレン」

 

 ジャンが目の前まで来る。

 

「頼むぞ?」

 

「あぁ……」

 

 エレンは小さく頷いた。

 

 

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