大怪獣バトルの巻
────これは夢だ。
ふと目を覚ました古市はすぐにここが現実ではないことを悟る。あれだけジャバウォックと激しく戦闘を繰り広げた筈なのに、大の字で地に転がる己の身体には傷が一つもない。あるはずの痛みはおろか身体の感覚はどこまでも曖昧でまるで自分の身体とは思えない。
なにより目の前の摩訶不思議な光景と状況がここが夢だと物語っていた。
大の字に転がっているところは何処か山の中のようで見覚えがない。背の高い木々が我こそと天まで背を伸ばしていた。
そして、周囲には数えるのも億劫になる程の無数の鴉。
けたたましく鳴き声を響かせ、旋風のように周囲を飛び回る様は異様としか言いようがない。
なにより、その異様な鴉の群れのど真ん中で彼女は見知らぬ子供に馬乗りにされて首に手をかけられている。
こんな訳のわからない状況、夢であるとしか言いようがない。
────シンじゃエ。しンジゃえ。
譫言のようにその言葉しか繰り返さない子供の顔は影に隠れて見えない。それでも普通でないのはその様子からも、そして容姿からもはっきりと分かる。
自分と同じ銀髪、だが1番に目を引くのはそれではない。
その子供の背中から生えた小さな身体には似つかわしくない、大人1人余裕で包み込めそうな大きな烏の翼。
まず間違いなく人間ではない。
いや、ここは夢の世界なのだからそんな考えは意味のないものか。
────シんじゃエ。はヤクシんじャえ。
首にかけられている手に力が更に込められる。子供の小さな手が彼女の首に容赦なく食い込んでいくのがわかる。
なのに、身体は金縛りを受けたように指先一つ動かせず抵抗が出来ない。
────シんじゃエ。オまエなンカしンじゃえ。
随分と嫌われたもんだ。
────おマエなんかしんじゃエ。
ワタシはお前が誰だか知らないのに。
いや違うか...誰なのかはなんとなく分かるね。ふわっとした認識だけれど。
────しンジャえ。
この手を離してよ。ワタシ、早く起きなきゃいけないんだ。友達が今も苦しんでるんだよ。
────ミンなしんじゃ
突如、譫言を呟いていた子供の首へ飛び跳ねるように古市の手が掛かった。
これはワタシの身体だクソガキ、とっとと諦めろ。
互いに互いの首を絞め合う。
どちらの手にも人並外れた膂力が込められていく。
互いに憎み合うように、その手の膂力は比例して容赦なく大きく、強くなる。
そんな時、自分と同じ髪を持つ子供の顔が、影に隠れていた筈の顔が見えた気がした。
首を絞められているのにも関わらず口元は大きく弧を描いて歪んでいて、
だけれどその眼は何故か、今にも涙が溢れないように我慢しているようにちぐはぐで────
「...へんな夢」
長い昏睡状態から目を覚ました古市の第一声はそれだった。
見覚えのない天井。しかし今度はここが現実だということは間違いないようだ。
のそり、と上半身を起こして自分のいる部屋を見渡しみれば矢張りそこは見覚えのない部屋で、しかし自分が来たことがないだけでここが学校の保健室だということはすぐにわかった。
照明は消されていて月明かりだけが部屋を照らしている。近くに人の気配は無い。
「夜の学校か..ちょっと怖いな」
なんて呑気な言葉を漏らしつつ古市はベッドから降りて立ち上がる。視界半分をずっと覆っていた頭に巻かれた包帯を取り外す。
しゅる、しゅる。
しめやかに音を鳴らして包帯をそのまま床に垂れ落とし、壁に立て付けられていた鏡を見た。
「..うわ..薄らだけど傷痕が残ってらー..」
包帯の下に隠れていた火傷や裂傷の痕を見てぼやく。当然、跡が残っているのは顔だけではない。
腕も胸も腹も腿も。
身体中に巻かれていた包帯の下に薄く傷痕が彼女の身体に刻まれていてた。
「よく生きてるなワタシ..。まぁきっとあのスライム先生のおかげか。痕はあるけど傷はちゃんと塞がってるみたいだし..うん。ぐちゃぐちゃだった右腕もちゃんと動く」
腕や脚を動かして身体の調子を確かめる。随分と長い間眠っていた所為かやや気怠さや違和感があるが、どこも痛みや不調は無い。
うん、これなら大丈夫。
身体の確認を終えた彼女は全身に巻かれていた包帯を外し、身に付けていた患者医を脱ぎ捨て、側にあった自分の制服を手に取る。
だが彼女の制服は既に着れるような状態ではなく、ありとあらゆる所が破け、焦げ、返り血か己の血かで染められている。
ただしく布切れだ。
「...駄目だこりゃ。てかこんなになってんだから誰か捨てといてよ」
汚れた布切れと化した元制服を投げ捨て、彼女は部屋に設置してある戸棚を片っ端から開けていく。
ここは薬棚。
ここは包帯とか絆創膏とか。
この棚は...スティックコーヒーにお茶菓子。いやいや、今はそんな時間ないから。..だからチョコ一つだけもーらい。
その後も戸棚を開いては閉めを繰り返して、ようやく彼女は目当てのものを見つけることが出来た。
「ま、保健室なら予備の制服くらいあるもんよねー。ちょいと拝借させて頂きやす」
誰がいる訳でもないが手を合わせて断りを入れ、戸棚にしまってあった予備の制服へと手を伸ばす。
なんだかんだいって彼女が聖石矢魔の制服に袖を通すのは初めてで、石矢魔の物と違って緑を基調としたスカートはなんだか新鮮なものだ。
手早くいつもの着こなしを作り、準備を完了させた彼女は部屋の窓を思いっきり開ける。
冷える夜風が部屋の中へと流れ込んできて彼女の肌を撫でた。
深呼吸一つ、瞑目してざわめく心を落ち着かせる。
今、風を通して状況は理解した。
ここから悪魔野学園までどう少なめに見積もっても10km以上は離れてる。
問題ない。3秒もしない内に着く。
あの日、激戦の最中死の淵を彷徨ったことで得たあの感覚は今もこの体に刻みつけている。
風を操るのではなく、身体を風に溶かしていくようなあの感覚。衰えることなく、より研ぎ澄まされていた。まるでそれが当たり前であったかのように。
髪が、スカートがたなびく。彼女を中心に部屋の中で風が緩やかに渦巻き始めていく。
閉じていた目を開いた。
目指すは悪魔野学園時計塔の屋上、一直線。
「どこへ行くの紬貴」
背後から声がかかる。
凛としたよく耳に馴染む声。それに応えて後ろを振り向けば、部屋の入り口によく知っている姿、されどここに居るはずがない人物がそこに立っていた。
「母さん。どうしてここに?ここ夜の学校だよ?」
「娘が大怪我して療養してるというのだから居て当然でしょう」
その手にはタオルやら氷嚢、また着替えも抱えられており夜通しの看病を何度もしていた事が分かる。
「ほら、ベッドに戻りなさい。ようやく目が覚めてくれたのは嬉しいけれどまだ無茶しちゃダメよ。あのスライムみたいなお医者さんによればまだ治療は終わってないって話なんだから」
母は抱えていた荷物をベッドの側に置き、乱れていた布団を整い始める。何故か顔を合わせようとしない彼女に古市は呼びかけた。
「...母さん」
「お医者さん曰く、安静にして治療に専念してたら傷痕も綺麗さっぱりになくなるって。アンタは私に似て美人なんだから綺麗に戻してもらわなきゃね」
「母さん」
「お腹空いてない?1週間も食べてないから空いてるでしょう?今消化の良い物用意してあげるから」
「母さ───
「────ダメよ」
ぴしゃりっ。
優しさと暖かさすら感じられるような声から一変、厳しさの孕んだ声色で古市の声を遮った。
「行ってはダメよ。許さない」
「────..」
「貴女が生死を彷徨っている報せを聞いた時、私は後悔したわ。やっぱり無理矢理にでも引き離すべきだった」
声が僅かに震えている。
「貴女が此処で全身包帯に巻かれたまま眠り続ける姿を見て胸が張り裂けそうになった。このまま目が覚めなかったらと考えるとこわくて仕方がなかった」
母の手がベッドシーツを巻き込んで握り込まれる。
「貴女が友達想いなのも分かってる..けれど私達の想いはどうでもいいの..?貴女が怪我すれば私達も心が痛いの。辛いの」
己が髪と同じ色に染められた前髪に隠れて母の表情は見えない。それでも彼女吐露する想いは嫌というほどに古市の心を揺さぶる。
「悪魔の侵略なんてどうでも良い。魔王の子供も人間界の未来なんかどうでも良い。
叫び、吐き出す。親がもつ素直な願いを。
顔が上げられ漸くの表情が見えた。目尻に涙を浮かべていながらその眼の奥には決して揺るがない覚悟と想いが秘められている。
自分はよく知っている。この眼を。
梃子でも動かせはしないこの想いを。
それでも。
「おかあさん」
ワタシは行かなくてはならないのだ。
「ありがとう。だけど行かなきゃ」
「..ダメ..!」
「笑うために、いま行かなきゃ行けないの」
一歩、また一歩と古市は母へと近づく。
「母さんも父さんもほのかもワタシにとってかけがえの無い程に大事で、それと同じくらいに男鹿や葵、爺さんにイサだって大事。そしてヒルダとベル坊も。どれか一つでも欠けちゃいけないの」
「紬貴...」
「誰も彼もがワタシにとって何より大事な日常を作り上げてるんだ」
きっと今のワタシも母と同じ眼をしているだろう。
同じ血を分けた親娘だもの。
「どれか一つでも欠けたら、笑えないよ。だから行くの」
「お願い..。行かないで..もうボロボロの貴女を見たくない...」
「おかあさん」
ぽろぽろ、涙が溢れる母。
子供の頃は大きく見えた筈の小柄な身体。
古市は優しく、慈しむように、抱きしめる。
「だいすき」
混乱渦巻く悪魔野学園時計塔屋上。
奇襲されたことに気が付かないままに上半身と下半身は切り分けられたサラマンダーは満月を背に遙か上空で滞空する彼女を視界に映す。
その見下すような氷の眼差しに今はっきりと上半分しか無い背筋に冷たいものが走るのを感じた。
この女は凶兆だ。
我々の、そして焔王様の凶兆となり得る存在だと確信を得る。
この襲撃者を生かしていけないと悟り、再生することも忘れ上半身だけのまま即座に反撃のために手を翳す。
が、そこでサラマンダーの意識が途切れた。
何か大きく重いものに押し潰れたからだ。
時計塔の屋上を揺らすほどの衝撃。
斬り飛ばされたサラマンダーの上半身は、先の豪風の際に吹き飛んでいた十字架の落下によって押し潰されたのだ。
抵抗する間もなく戦闘不能にされたサラマンダー。
そんな彼を気にする様子も見せないジャバウォックはただただ嬉しそうに牙を剥いて笑い、空に滞空している襲撃者を見上げた。
「信じてたぜ...お前は必ず来るってなぁ!古市紬貴ぃ!!」
嬉しそうに声高々に叫ぶジャバウォックの肉体を見れば幾つか切り傷が刻まれているが、どれも問題無い程度の深さで既に再生しきっている。
理屈でも何でもない、本能のような野生の勘で彼女の襲来を察した彼は瞬時に魔力を巡らせて防御に徹していた。
彼だけではなく側にいたベヘモットも同様に防御に徹し攻撃を防いでいた。
「手は出すなよ親父。出したら殺す」
「好きにしろ。そもそもワシは今回は戦えん」
脅すように釘を刺してくる息子にベヘモットは肩をすくめ、虚空を開いて姿を消す。
ジャバウォックただ1人となった屋上を遥か上空から見下ろす古市。彼女の腕の中には磔にされ衰弱し切っていたヒルダが横抱きにされている。
息はある。
気を失ってはいるが死んではいない事実に彼女は一先ず安堵し、しかしすぐに医者に見せなくてはならない。
「アランドロォンッッ!!!」
普段の彼女を知る者ならば驚くような、それは大きく荒々しい声でその名を喚ぶ。
そしてその喚び声に応えるように1つの日陰が近くのマンションの屋上から彼女へと向かって飛び上がってきた。
「こちらです古市殿!!」
「ヒルダをスライム先生んとこまで連れてって!!」
「承知!」
アランドロンへの指示、それはヒルダの救急搬送である。
目立つような外傷はなくともあそこまで衰弱し切った様子は到底無視できるものではない。
そしてなにより、
「
ジャバウォックと戦う際に側に置いていては危険すぎる。
「1週間..短いともいえるが俺にとっては随分長く感じたぜ。お前を考えなかった時などないくらいに、俺はこの瞬間を待ち侘びていたんだ」
待ち切れない、身体の隅々から闘志と共に魔力がとめどなく溢れ始める。どこまでも純粋で邪悪な闘志は彼の周囲の空間を歪ませるほどの熱を持つ。
そんな彼の前に古市は音もなく降り立った。
「油断もあった。慢心もあった。だがそれでもな、あそこまで明確に敗けたのは生まれてこの方初めてだった」
昂り震える手を握る。歓喜に口元を歪ませる。
だが対称的に彼の眼は何処までも冷静に古市を見据えていた。
「油断していたから敗けたって?」
「みくびんな...どう取り繕おうが敗けは敗け。覆すつもりはねぇ」
「なら、負けを認めるならとっとと魔界に帰って来んない?こっちはヒルダを取り返したし、帰るなら見逃してあげる」
「嘘つけよ。俺もお前も、互いに闘志が隠せてねぇぞ」
彼の言う通り、古市自身の闘志が風となって周囲を揺らす。
学校に手を出した。友人達に手を出した。ヒルダを苦しめた。ラミアを泣かせた。
見逃す?そんな言葉は何の意味も持たないただの形式の言葉だ。戦わない選択肢を与えたという形式だけの言葉。
当然彼女も、彼も、戦わない選択肢を選ぶ筈がない。
大事な多くのものに手を出した相手、絶対だった己の強さを打ち砕いた相手。
互いにお互いを放っておくことは出来ない。
「俺は負けた。これに言い訳もするつもりもねぇが、それでも俺の全部を出し切っていないのも事実。だから今回は出し切る、最初から全部を...!!」
牙を剥いて凄惨に笑うジャバウォック。その彼を中心に突如魔力の暴風が吹き荒れる。
それは以前に古市と戦った時よら遥かに濃密な魔力だ。
2倍3倍...いやそれよりもっと?
「柱師団の中にはエリムっつうクソみてぇに弱ェ奴が居てな..。それこそそこらの犬にだって勝てないような間抜けな奴さ」
「そーなんだ。アンタら柱師団って弱肉強食ってイメージなのに意外だなぁ」
「それで合ってる。俺たちにとっちゃ強さが第一で弱さこそ罪...だがそいつはかなり特殊でな」
こうして語る間にも彼の放つ圧力が勢いを増していく。
「奴自身には何の力もないが、奴の"補助魔術"だけは一級品でな。この一点においては魔界の中で奴の右に出るやつは居ねぇんだ」
「話が長い..つまり何が言いたいワケ?」
途方もないジャバウォックの魔力と圧力に晒されながらも崩れない古市の言葉と態度。
怯える様子も見せない彼女に彼は心の底から歓喜を覚えた。
「本気ってことだ。悪魔が受ける人間界での弱体化も強引に無くす、正真正銘の本気。慢心も出し惜しみもなしで始める」
空気が鋭く張り詰めていく。
それは遠く離れたラミアや姫川達にすら呼吸を苦しくさせる程に、両者の間に緊張が迸る。
「やるか」
そんな、夜中にコンビニにでも行くかのような軽い言葉。一息つくジャバウォックに張り詰めていた空気が一気に弛緩する。
しかし、その踏み込みは誰の眼にも知覚することは出来なかった。
屋上の床が爆ぜる、その音と衝撃を感じた時には既に遅く彼は拳を振りかぶって目前にまで肉薄していた。
悪魔が受ける人間界での弱体化を強引に打ち消すという世界の法則に真っ向から喧嘩を売っているとしか思えないふざけた補助魔術。部下であるエルムを脅して得たその恩恵は凄まじい物で、そして何より彼の正真正銘の本気というものは途轍もない。
まともに戦えば順当に負けるのは古市、それは彼女自身も彼自身も感じ取っている。
魔力の込められた悪魔の拳が容赦なく彼女の顔目掛けて振るわれる。
が、それをむざむざと受ける彼女ではなく。拳がぶち込まれる寸前に首を傾けて一寸もない間合いで躱わす。
彼の拳が巻き起こす衝撃波と風圧も風を巧みに操り、己の身に降りかからないよう散らしながら、彼女は腕を振り切ったジャバウォックの懐へと潜り込んだ。
そして両の掌を彼の脇腹へと叩きつけた。
そのまま零距離で十振りの"伊太刀"を撃ち放ち、斬り刻む。
これには堪らずジャバウォックも顔を歪ませ、距離を取ろうと飛び退がる。古市は逃すまいと右手で刀印のように人差し指と中指を揃えて向けた。
その2本の指には螺旋状の風が纏わりついてることにジャバウォックが気づくが、
「───
その時には風による不可視の弾丸に眉間を貫かれた。
大きく頭を後ろへの仰け反りよろめく。脳を欠損し意識が飛んでいる攻めの最大の好機だ。
だが彼女は追撃の為に距離を詰めることはせず何故か様子見を選んだ。
「下手くそ。誘うならもっと上手く誘いなよ」
「...はっ。バレたかよ」
古市の言葉に後ろへ力無く仰け反っていたジャバウォックが勢いよく上体を起こす。その彼の額にはすでに傷はなく、それどころか斬り刻まれたはずの脇腹ももう傷一つなく、ただ服が血に染まっているだけだ。
「随分硬くなったなぁ。斬り刻んだ時の手応えがあの時の比じゃない...おまけに再生すんのも随分速い」
「よく言う、それすら物ともしねえテメェはやっぱりおかしいぜ。今の俺に傷をつけれるやつなんか魔界にだって5人もいねぇのによ」
首に手を当て骨を鳴らすジャバウォック。本気の斬撃も受け切って1秒もしないうちには全快する彼の様子に古市は溜息をつく。
やはり本気の彼を相手にまともに戦っていては先に限界が来るのは自分。なによりまだ隠し札を幾つも持っている筈だろう相手に自由に戦わせては勝てるものも勝てない。
問題は戦い方なのだ。
「動きも圧倒的に速くなった..けれど避けれる。硬さも信じられないほどに硬くなったが傷は付けれる。なら..」
────十分勝てる相手だ。
前髪を両手で掻き上げる彼女の不遜な態度、ジャバウォックは獰猛な笑みを深めた。
「あぁ..。そうだろうさ、だから諦めてくれるなよ?ずっも楽しもうぜ...この戦いをォ!!!」
牙を剥いて笑う彼は弾丸の如く飛び出す。
その踏み込みは先ほどより更に速く、強く。
彼の手が不敵な笑みを浮かべた古市へと届くのに瞬きの合間すら要らない。そしてその手が彼女に触れる寸前、
────突如、何かが爆ぜるような途轍もない衝撃が彼を襲う。
全身を打つ予想外の凄まじい衝撃になす術なく吹き飛ばされていくジャバウォック。それどころかさらに追いすがり唸りを上げる豪風が彼を逃さない。
何だ。何が起きている?
状況を把握しようにも唸りを上げる豪風が瓦礫や塵を巻き上げ視界を物理的に塞いでくる。己を逃さない暴れ狂う風が五感を狂わせてくる。
気分はまるで洗濯機にぶち込まれた一枚の衣類だ。何とかこの状況下から抜け出さなければ。
次々と飛んでくる瓦礫を風に呑まれながらも打ち砕き、この豪風を打ち消すべく掌に魔力を集中させる。
なんてことはない、ただの魔力の奔流にて力業で全てを打ち壊すだけ。簡単な事でなにより確実だ。
だが魔力を集中させていた腕が突然切断される。
心の底からの驚愕に身を固まる。すると矢継ぎ早に肩口と右脚に鋭く深い切り口が奔った。
「なんか色々準備してきたみたいだけどさ」
彼女の声が聞こえる。姿は見えないが近くにいるのは分かる。声が聞こえた方へ拳を振るうが、その腕もすぐに斬り落とされた。
このままでは..。すぐに彼が身体の再生へと魔力を集中させればみるみる内に傷は無かったことになった。
しかし、その直後には身体中に無数の斬撃が奔り鮮血が四肢と共に舞い上がった。すぐに再生してはさらに身体を切り刻まれる。
より深く、より鋭く。
常に再生に魔力を回していなければ2秒後には微塵切りにされる程に激しく絶え間のない斬撃の嵐。
「悪いけど..思いっきり気持ちよくなんて戦わせないから」
まさしくそれは牢獄。風と斬撃に身体と魔力の自由を奪われ続ける豪風の牢獄だ。
だがそれは己だけではないはず。たとえ奴が風を操れるといえどその領域を遥かに超えているものだ。
ならば何か、種があるはずだ。これを維持する何かが。
その時、彼の頭部に猛烈な打撃が叩き込まれ身体が大きく揺らされる。
古市だ。あの時と同じように音を容易く置き去る程の速度で直接攻撃を叩き込んできたのだ。
それは問題ではない。来ることくらいは予想に難くはないから、だがその刹那、一瞬だけ視界に収めることできた彼女の姿に彼は驚愕した。
その浅い、けれども決して少なくはない多くの切り傷に。
イカれてる。
暴雨の如く襲いかかる無数の斬撃は自ら傷つけることすら織り込み済みなだけ、種もクソもなかった。
悪魔である己と違い再生することもない癖に躊躇なくこの戦法を取れるなどイカれているとしか思えない。
「..楽しくなってきたなぁ!!!」
幾千幾億の斬撃は確かに脅威ではあるだろう。
魔力も再生術式に大半を割けざるを得ないこの状況も厄介極まりない。
だが忘れるなかれ。
彼が狂竜と呼ばれる所以を。
「────雷..!?」
それは古市が再度音速で突撃に移る直前のこと。
ジャバウォックを中心に四方八方無差別に鋭い閃光が雷鳴にも似た轟音と共に撃ち放たれた。
虚を突かれたその攻撃を彼女は身体を捩り、合間を縫うように躱し切る。しかし肌を突き刺す熱がその恐ろしい程の威力を物語っていた。
そしてそれ以上に彼女は恐怖を感じた。
再生に使っていた筈の魔力を攻撃に転用するという彼の攻撃性の高さと。
この土壇場で一発で再生と攻撃に割ける魔力の最適な比率を見極めるその
「イカれてるなアンタ。下手すりゃ一気に微塵切りになるっつうのにそれでも攻撃に転じるのか..!」
「やられっぱなしってのは柄じゃねぇ!なにより、互いに殴り合った方が楽しいだろうがよ!!」
無尽蔵に飛び交い続ける不可視の斬撃の嵐に悉くを焼き尽くす魔力の雷光線。
互いの術式が交錯しその戦禍はやがて周囲の町々にまで届く。
その最中、渦中の2人胸のうちに共通の考えが浮かび上がってきた。
────この状況が長く続くことはない。
古市の術式は制御出来る範囲を大幅に超越しており、なにより妖力と魔素の消費が激しすぎる。いくら悪魔野学園は魔素が潤沢している環境であるとはいえ、この大掛かりな嵐を三十分も維持出来るほどでは無い。何よりその前に妖力が底をつく。
そうすれば彼の雷光に灼かれて死ぬ。
同時にそれはジャバウォックも同じこと。
1秒に三百は超えていよう斬撃に切り刻まれ続けながらも形を保っていられるのは他でもなく彼が補助魔術にて魔界のいる時と遜色ない魔力を保有しているからに過ぎない。
再生魔術は酷く魔力効率が悪い物であり、この状況が長引けば長引くほど古市の斬撃はやがて彼の心臓にも手がかかる。
(ワタシがコイツを微塵にするのが先か)
(オレがコイツを消し炭にするのが先か)
────ここからは消耗戦だ
唸りをあげて荒れ狂う嵐の中心で狂竜は歓喜に震え、狂犬は容赦なく刃を振い続ける。
「おいおい..。どうなってんだよ..アイツらだけ戦いの規模おかしいだろ。ドラゴンボールじゃねぇんだぞ」
遠くのビルの屋上で唖然としながら呟いた姫川。その手には既に双眼鏡はない。
理由は明白、見ることができないからだ。
────時計塔の屋上から空へと貫く巨大な竜巻によって。
屋上の床を瓦礫に変え、容易く巻き上げていく様はその竜巻の恐るべき威力を物語っている。その風圧は遠く離れたこのビルの屋上にも届くほど。
その竜巻の内側からは幾つもなく紫電のような物が飛び出してきて近くの校舎やらなにやらを破壊し尽くしている。
まさしく災害。局所的に襲いかかる竜巻がその場から動かず暴れ狂い続けている様は異様としか言いようがない。
「古市の奴が変な力持ってるってのは1週間前に早乙女の野郎から聞かされちゃいたが...ここまでなんて聞いてねぇぞ」
「..無茶してるに決まってるわよ」
横で同じく竜巻の方から目を離せないでいるラミアから声が上がる。
「師匠の治療が終わってないのにあんだけ暴れて...下手すりゃまた傷が開らきかねないわ」
「アレで本調子じゃねぇってか?それよりいいのかお前はここに居て?オガヨメのトコに行かなくてよ」
「ヒルダ姉様は外傷よりも精神汚染が危ういの。それはワタシじゃ師匠を手伝えること何もない...行っても邪魔になるだけ」
胸の前で包み込むように握り込まれた彼女の両手に力が籠る。その形は奇しくも祈りにも似ていた。
「だからアタシはここにいる..。あの化け物倒せるのは古市しか居ないけど絶対に無茶をやらかすから。無茶してもまた倒れちゃわないために」
────アタシはアタシの出来ることをやるの。
戦うことはできずとも。
最早ナビの役割もできずとも。
彼女は魔界一の名医の一番弟子。
医師の卵の矜持にかけてここから逃げ出さない。その時が来ればすぐにでも戦地へと赴く準備は出来ている。
小さな彼女の胸の内に大きな決意を抱いた。
そして、屋上より僅か一階層下。
「急に動きが鈍くなってきたな契約者!」
「屋上の侵入者が気掛かりか?だが貴様にそんな余裕はないぞ!」
「うっせぇ!!!」
リンドブルムの攻撃をいなし、返す刀で彼の鳩尾へと拳を叩き込むと同時に
魔力で強化された男鹿の拳にとてつもない爆熱、さしものリンドブルムを意識が飛びかけるが、それでもまだ倒れない。
血を吐き、身体を焼け焦がしながらも彼は凶暴な笑みを男鹿へと向ける。
対する男鹿もまた満身創痍、3人に与え続けたダメージがそっくりそのまま彼の身体に返ってくるのだから当然。今もまた
だがそれ以上に胸の内から湧き上がる不愉快なモノが煩わしい。
「...あぁ..くそ苛つくぜ..」
「アーダブ!!」
「わーってるよ。そんなに怒んな」
揺らぐ脚に力を込め倒れそうになるのを堪えた男鹿は、肩で荒ぶるベル坊の頭に手を乗せた。
「そうだよな..あの野郎はオレ達がブッ飛ばすんだ...。こんな奴等に手こずってるなんざ情けねぇったらありゃしねぇ、これ以上古市に置いてかれてたまるかってんだ」
「ダー!!」
ベル坊の雄叫び。
それを皮切りに彼の雰囲気が一変していくのを三人は肌で感じ取った。
「行くぜベル坊..もう出し惜しみ無しだ。さっさと上に行くぞ」
「マー!!」
ベル坊の強く雄々しい雄叫びが響いた。
雄々しい雄叫び(ベル坊基準)