とにかく彼女は、餓えていた。食料にも愛にも、なにもかも。
どんなに働こうと、借金は思うように減らない。幼い頃から性処理の道具として身体を売り、体力がある程度付いたと判断されてからは「部品」として身体を売らされた。右目、腎臓、子宮、他にもあれこれと。
そこから樵をして月に6万、男たちの慰みものになって一晩1万。現在の借金総額は――3804万円。
それでもデンコは生きている。相棒である小さな悪魔を連れて。
「やっぱさぁポチタァ、儲けるんならさぁ」
名前を呼ばれてキャンと鳴く姿は、悪魔というより仔犬。そんなポチタの尻尾を引っ張ると、けたたましい音を立ててその鼻先が動き出した。まるで、チェンソーのように。
いやそれは、まさしくチェンソーである。ポチタがなぜそんな事が出来るのか、デンコは知らない。しかしポチタがいれば、戦える。それさえわかっていれば、後はどうでもいい。
爆音を奏でるチェンソーを翳す先にあるのは、真っ赤な異形。恐らくはトマトの悪魔だろうが、デンコにとっては種類などどうでもいい。
悪魔を殺せば、金になる。それだけで十分過ぎる。
「デビルハンターが一番儲かるよねぇ!!」
――それは悪魔を殺す仕事、デンコが知る一番儲かる仕事。
悪魔は人を恐怖させる存在で、どこから生まれてどう生きているのかは分かっていない。しかし大事なのは、それが金の種になると言う事。
依頼が来た悪魔を一体殺せば、雇い主のヤクザが数十万円の依頼金を手にする。そこから借金と利子、その他諸々を引いた額がデンコの取り分。手元に入った翌日には光熱費や水道代で消えてしまうとは言え、大事な収入。
勿論これはフェアではない、何処のデビルハンターも生活費で解けるような端金では動かない。だがデンコは親がこしらえた借金の為、そしてポチタという「悪魔」をお目こぼしして貰っている都合上、雇い主には逆らわず忠実に仕事を遂行している。
もしも親がろくでなしでなければ、ポチタをただの悪魔として処理してしまっていれば、デンコはこんな生活はしていないだろう。
だからデンコは、餓えている。なにも持ってないから、誰にも満たして貰えないから。
雨が降る音を聞きながら、デンコはポチタを抱き締めたままベッドの上から動かない。今日は何処の男もデンコで性処理する気分ではないのだろう、静かに夜は更けていく。
デンコの家は、家とは呼べないくらいにみすぼらしい。家具と言えるのはベッドだけ、冷蔵庫もキッチンも無い。食べ物も残り少ない、今あるのは食パンだけだ。焼きもせず何も付けず、そのままかじる他にデンコはパンの食べ方を知らない。風の噂で「ジャム」なるものの存在は聞いたが、口にしたことはない。知っているのは、甘くて美味しいものらしいという事だけ。
ここに来る男たちはデンコを穴としてしか扱わないから、食べ物なんかくれはしない。愛してもくれない、出すもの出したら金を投げて帰っていく。それで何度か妊娠したが、腹が膨れる頃には毎回酷く殴られて堕胎させられた。腹の中で感じた胎動が消え去って数日後、出て来た「それ」は形こそ人だったが、命の無い単なる肉の塊でしかなかった。
人間にさえなれないまま死んだ「それ」をデンコは最初可哀想だと思ったが、二度三度とするともう気持ちも動かなくなる。運がなかったな、くらいにしか思わない。次はマトモな母親に宿りなよ、そう投げ遣りに願うのが精々。
しかし、しかし。子宮を失って二度と子供を持てなくなった事には、少しだけ後悔している。『もう腹が膨れて殴られる事はないぞ、良かったな』と笑う男の顔を、殴り飛ばしてやろうかとも思った。
「……生きた子供、産んでみたかったな……」
小さく呟いた声を心配したのか、ポチタは顔を寄せてきた。チェンソーだった鼻先はもう柔らかい犬の鼻に戻っていて、ちょっとこそばゆい。今デンコを気遣うのは、この小さな悪魔だけだ。
ポチタがなんなのか、デンコはやっぱり知らない。父が借金だけ残して死に、貸し主であるヤクザに脅され、どうにもならないまま彷徨っていた所に傷だらけで倒れていた。
幼いデンコも悪魔は人間の敵だとは知っていたし、もし見かけたら大人―できればデビルハンター―を呼ばなければならない事も知っていた。
だがどういう訳か――デンコはそうしなかった。いや、出来なかったのだ。死にかけた小さな悪魔の姿に、首を吊った父が重なって見えたから。
幼いデンコにとってさえ父はろくでなしで、感謝したことなど一度もない。母が病で早くに亡くなったのも自分が大人たちに乱暴されるのも父のせい、そう考えていた。死んで悲しいとさえ思わない程に、何の愛情もない形だけの親。
だが。
それでも。
弱りきり目の前で尽きようとする生命を見るのは、無性に腹が立ったのだ。
私の目の前で、死のうとするな。勝手に死ぬな、私を置いていくな。
何故今見たばかりのしかも悪魔相手にもそう思うのか、当時のデンコには分からなかったし今でもまだ分からない。
それでもデンコは、瀕死の悪魔へと自分の腕を差し出していた。悪魔は人間の血肉を喰いとても強靭だ、血を飲ませれば傷が治るかもしれない。
そしてもうひとつ、幼いながらに何故か知っていた悪魔の生態への知識を以て。
人間が自ら悪魔に血を与える事は、契約の儀式。何処で聞いたかは分からない、でもデンコはそれを知っていた。
だから――叫んだのだ。『助けてあげるから、私を助けろ』と。
そこからは、ただただ勢いだけ。近くに発生した悪魔をポチタの力を借りて殺し、その死骸をヤクザの下へと持っていって『デビルハンターをして借金を返す』と宣言して、そして今に至っている。
この生活はきっと、長くは続かない。この借金は余りにも多くてどうにもならない、生きている間には返しきれない。自分の死によって全てが終わるしかないのだと、デンコは知っていた。そもそも杜撰な手術で内臓を幾つも失い、しかも母から受け継いでしまったらしい心臓の病も抱えている。なんにせよ、長くはないのだ。
そうなったら、ポチタはどうなるのだろう。デビルハンターに狩られるのか、それとも一匹で生きていくのか。それはデンコにはどうにも出来ない、どうにもしようもない。世の中の大半が、そうであるように。
だからこそ、デンコは夢を見るのが好きだ。
有り得ない人生を考えるのが、とても好きだ。
「もしさぁ……もしちゃんと子供を産めたら、私今よりは幸せなんだろうな。私バカだけどさぁ、頑張って育てるんだ。先に死んだりしないで、ずっと……一緒に暮らすんだ……」
そんなことは決して有り得ないと、デンコはわかっている。ポチタもそうなのだろう、慰めるように顔を刷り寄せ甘えてくる。その時は僕も一緒だよ、と言いたげに。
普通の人生、普通の幸福。何処にでもある筈のものが、デンコの所には来てくれない。
誰のせいなのか、デンコはやはり知らない。
夢を見たことは、罪なのだろうか。大それた事を考えたから、バチが当たったのか。
身体を切り刻まれゴミ入れに投げ込まれ、デンコは薄れ行く意識の中で思う。
デンコは自身がこうなった理由を知らない、廃倉庫へと呼び出され突然刺されたから。それも、雇い主である筈のヤクザに。
今までずっと悪魔を狩れと指示してきた彼は何故か悪魔と一緒にいて、一言だけデンコに言った。『俺たちも悪魔と契約する事にした』と。それで何故自分が刺されるのか、なんて疑問を口にする暇さえ無かった。
大量の刃が肌を裂き、だいぶ数が減った臓物がぶちまけられ、そして首を切断され。今こうしてまがりなりにも命が残っているのが、自分自身でも信じられない程に彼女は損壊され廃棄された。この状況に怒りさえ通り越して、すでにデンコは諦観に到る。
どうせロクな死に方はしないんだ、これでもう良い。
死ねば腹も減らないし、誰も戻ってこないって事は「あの世」は良いところなんだろう。
――と。デンコは最後の最後で、心残りを思い出した。大事な相棒の事を。
ポチタもまた真っ二つにされた、だがポチタは悪魔であって人間ではない。デンコは知っている、悪魔の生命力とその性質を嫌と言うほど。
悪魔は人間の血を飲めば、瀕死の状態からでも息を吹き返せる。もしかしたら、間に合うかもしれない。
もう数少ない稼働部位を必死で動かし、デンコは残り少ない血をゴミ入れの中で撒き散らしていく。同じ場所に放り込まれたのだ、上手くすればポチタの口に血が入るかもと信じて。血流を失った脳が活動を停止し、最後の息を吐くまで。
「手間かけさせやがったな」
男は血にまみれた床を一瞥し、溜め息を一つ。たかが小娘一人に、ここまでする意味はあったか。
実を言えば、デンコをそこまで嫌いでもない。どんなに安い金でも働くし言う事は聞く、それに長年使ってやっているから情もある。そうは思えど、このまま生かしておくのもリスクが高い。
本来デビルハンターは悪魔を殺しはするが、死骸を売り飛ばしたりはしない。万が一蘇生するとまた暴れだすから、公安が厳重に廃棄するのがルールになっている。彼はそこを誤魔化して闇市に死体を流していたが、段々とそれが難しくなっていた。公安の環視が暗躍し、同業者は次々に検挙されている。このまま発覚すればどうなるかわかったものではない、その可能性は潰さなければ。
デンコがバカのまま従順でいてくれれば良いが、小知恵を付けて妙なことを考えられては困る。
だからこそ彼は――ゾンビの悪魔と組んだのだ。
配下にある者をゾンビにする、という能力は都合が良い。命令を実行しさえすれば良いのだ、部下に意思など不用。物言わぬ死体の軍勢を率いるのは、とても効率的である。自分だけはアリバイを徹底し、ゾンビたちに汚れ仕事をさせるのが一番。
惜しむらくはデンコをゾンビには出来なかった事か。彼自身を含め悪魔と契約した人間はゾンビに出来ない、それがルールだという。殺すだけで済ませても良かったが、ゾンビの悪魔が『ぼくデビルハンター嫌い! バラバラにする!』と言うものだから仕方なく刻んでやった。
悪魔はメジャーな存在ほど強く悪どい、広く知られた概念が基になっているゾンビの悪魔は相当に上位である。だからこそ自ら契約して対等な立場になったのだ、上手く利用する為には良好な関係が不可欠だと彼は知っている。
仮に自分の思考がゾンビの悪魔によって侵食されていたとしても、対処する方法は練り上げてあるし万が一の備えはある……そう認識して彼はボスの座を保ってきた。
だが、しかし。
いつでも計算違いは、若しくは悪い偶然と言うものは起きてしまう。起きてほしくないときにこそ、そうなってしまう。
彼にとってそれは――まさしく今だった。
「……ん?」
ふと立ち止まったのは、小さな違和感から。
何かが音を立てたような、いや音がする前の前兆があった気がする。
しかしそんなものは有り得ない、視線の先にある金箱に入っているのは放置されてたゴミの他は死骸だけの筈。
気にしすぎだ、デンコを始末することに僅かな罪悪感を覚えたせいだ。
一応の理屈を付けて背を向けた、その瞬間。
彼の耳は疑いようも無い程確かに、すぐそばでダイナマイトが爆発したかのような凄まじい衝撃音を聞いた。
「なんだ、これは……!」
振り返ったその先にあるのは粉々になった金箱と、確かに殺した筈のデンコの姿。
解体した身体は全て繋がり、その双眼は光を灯している。摘出して売りに出した筈の、右目までもが。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!」
青白いふしあわせな少女は、闇に吠える。それはまさしく、産声であったのだ。
ずっと失せていた右半分の視界が戻り、身体の中にあった違和感は逆に消えている。それがどういう仕組みで成し遂げられたか、デンコは知らない。だが起こったことは分かる、分からないはずがない。
失った物が、戻ってきたのだ。そしてそれはポチタのお陰なのだと、デンコは理解している。臍から飛び出す細い細い紐が、お腹の深い部分に感じる熱が、痛いほどそれを物語っているから。
妊娠していた期間は毎回僅かだったが、それでも胎内でデンコは生命の拍動を感じてきた。その感覚が今、そこにあるのだ。ポチタが取り戻してくれた、夢を見られるようにしてくれた。
そしてポチタ自身も、消えてなどいない。腹から生える紐はポチタの尻尾にそっくりだ、ポチタは自分の中にいる。いつかきっと、また会える。
だから、そう――今は私がするべき事をしよう。
一度バラバラにされて血が抜けたせいか、デンコの頭は今までにないほど冴え渡っていた。
「私ぃ、バカだったよなぁ……。借金なんか、返す必要ないのにさぁ……」
いつもポチタの尻尾を引っ張るように臍の紐を引くと、ポチタが変形する時のように身体がチェンソーへと変わっていく。違うのは顔でなく、四肢までもが刃と化していく事。大量のソーチェンが奏でる音はまるで暴風のように吹き荒れ、ゾンビたちをも怯ませる。
次の瞬間デンコは低く跳躍し、目の前にいた元雇い主を真っ二つに切り裂く。最初からこうすれば良かったな、と呟きながら。
「アンタ殺したらさぁ、借金パァじゃんよ! もっと早くこうしてればさぁ、私きっと幸せになれてたんだよ!!」
デンコには細かいことなど、分からない。
貸し主が死んだのだからもう借金はない、後はこの悪魔を殺せば金になる。デンコにとって大事なのは、その事実だけ。目指す先も、一つだけ。幸せで穏やかな、いつも夢に見る『普通』の人生。ポチタを取り戻して一緒に、そんな生活をする。それ以外の全てが、デンコにとってはどうでも良い。
眼前でわめく悪魔がなんであろうと、取り巻きが人間だろうとゾンビだろうと、知ったことではないのだ。
もう二度と、何一つ失わない。残りの人生はハッピーで埋め尽くす。それを奪おうとする奴は斬って刻んで擂り潰す、神も悪魔も殺してやる。獣の眼光に決意を乗せて、再びデンコは叫んだ。
「私の邪魔するンなら、死ねぇ!!」
荒れ狂う刃の竜巻が止まったあとに残ったのは、外壁と屋根と平らな床以外に無い。
なにもかもすっかり切り刻まれた血塗れの舞台の上で、デンコは安らかな顔で眠っていた。
彼女はまだ、なにも知らない。
ここへと向かっている公安の車の事も、そこに自分の運命を悉く変えてしまう存在が乗っている事も。
憧れ続けたジャムトーストの味も、誰かと囲む食卓の温もりも。
大嘘つきで自分と同じくらいバカな角女の事も、アル中の癖に異常なほど強い上司の事も。
公安がいや世界中が追っている「ある悪魔」の正体も、仲間が悲惨な死を迎える事も。
人生の意味も友情も淡い恋心も、道半ばで死んでしまう事も。
自分の事も、ポチタの事も。
忘れてしまっている、大切な事も。
それを知るのは、ずっとずっと後のお話。
これにて「始まり」の段、語り仕舞い済み済まし。
続きはまたの御目文字にて。
本当に――有り難うよ。
続きは多分無いかもしれません。もし要望があれば考えますが。