火曜日のバスには、いつも航がいる。
航の通う高校からバスで大須リンクに行く途中に、いのりの通う中学校があるからだ。それでもバスで毎日顔を合わせるわけではない。高校の方が授業が終わるのも遅いし、航の高校は大須からかなり遠いため、大抵いのりの方が早くリンクに付いてレッスンを始めている。
なので、バスの中で会うのは火曜日だけだった。高校が5限で終わり、中学校が6限まである日の午後3時発の車内に乗り込むと、後ろの席で同級生たちと喋っている制服姿の航が目ざとく気づいて、軽く手を振ってくれる。いのりはいつも少しだけ照れながら振り返して、前のベンチシートに腰掛けるのだ。
航の同級生がいる内には話しかけたりするのも良くないだろうと思って、賑やかな話し声を背景にしながら動画を見たり、ぼんやりと外の風景を見たりする。そうして途中で航の同級生たちが塾の最寄駅で降車すると、いのりか航のどちらかが自然と近い席に移動してリンクにつくまでたわいもないおしゃべりをする、というのが4月に彼が越してきて以来いつのまにかできた習慣だった。
「ユイツカちゃん、バイバーイ」
「さ、さようなら!」
「早く行きなって…」
航と同じフィギュアスケートのクラブにいる子、ということで航の同級生にもいのりはすっかり顔を覚えられており、下車するときに妙に馴れ馴れしく手を振られるのを見送ると、いのりはすす、と航の隣に腰を下ろした。航は男子高校生らしい大きなスポーツバッグを自分の側に寄せると、結束ちゃんもすっかり顔を覚えられちゃったね、と苦笑した。
「ごめんね、なんか馴れ馴れしい奴らで…」
「ううん別に、大丈夫。航くんのお友達、みんないい人だし」
いのりがそう言うと、結束ちゃんはいい子だよなあ…と航はしみじみ呟いた。
「そういや昨日まで強化合宿だっけか。あれ、結構ハードスケジュールだったでしょ。次の日普通に学校もあるし…お疲れさま。合宿どうだった?」
「ちょっと大変だったこともあったけど、すごく楽しかった。舞台芸術の授業とか、外国の先生のレッスンとか…」
「今年はビエール先生来てた?」
「来てたよ!私、本物だーってびっくりしたのに、他の子たちは全然驚いてなくて。ちょっとだけ恥ずかしかった」
「あの先生はちょくちょく長野合宿にも来るからなあ。ノービスで参加してる子からしたら慣れてるよね。俺も初めて会った時は生ビエール!?マジ?ってなったよ」
あれやこれやと、合宿の思い出を語るいのりを見る目は優しい。元々すこし垂れ気味な目尻が、きゅっと細まっていて一分の隙もない慈しみの色があった。午後の光に照らされて、輪郭を淡く光らせた彼の顔を見上げながら、いのりは彼について話していた大蜘蛛蘭の心配そうな口ぶりや、岡崎いるかの辛辣な評価のことを思った。
すい、と視線を下にずらしても、制服のジャケットに包まれた腰は特に異常がなさそうに見えた。練習着を着ている時も、コルセットを付けたり、痛そうな素振りを見せていた記憶はない。けれども航はいのりと出会うよりもずっと前に、交通事故に遭って、リハビリを終えて今ここにいるのだ。本当になんともないのかな、という思いでじろじろ見ていたのがバレたのだろうか、航は首を傾げた。
「…結束ちゃん?どうかした?」
「えっ、あ、な、なんでも……?」
交通事故に遭ったってホント?なんて不躾なことは聞きづらく、咄嗟にいのりが誤魔化すと、航はふうん、と面白そうにグレーの目を輝かせた。航がこういう顔をする時、たいてい隠し事は通用しないとこの3ヶ月と少しの間で学習したいのりはぎくりと肩を強張らせる。
「当ててあげようか。俺に関してなんか悪口言われたでしょ。岡崎?」
「いつも思うけど、航くんってなんで私の考えてること分かるの!?何も言ってないのに!」
案の定、しっかりバレてるどころか言った相手まで当ててきた航に、いのりは悲鳴を上げた。
「結束ちゃんが分かりやすいんだよ。全部顔に出てる…というか、今のは普通に俺の腰見てたから、『あー俺が交通事故に遭ったこと、誰かから聞いたのかな』って。その上で、結束ちゃんが俺に聞きにくいような言い方をしてくる合宿女子メンバーってことで岡崎。どう、当たり?」
「う、当たってる…けど、麒乃ちゃんとか、蘭ちゃんとも航くんの話ちょっとしたし…いるかちゃんは…その…」
航は意外そうに眉を上げて、それからぱっと破顔した。
「麒乃たちが?それは予想外だったな。元気そうだった?」
「うん。私、蘭ちゃんに落とし物も拾ってもらったし、お昼ご飯も一緒に食べたりもしたんだ」
「あはは、そっかあ。蘭ちゃん、いい子でしょ。可愛いし、しっかり者だし、頑張り屋さんで人の良いところを見つけるのも上手だし、スケートも上手い。最強だからね」
かつてのクラブメイトを自慢する航は、どこか子供っぽく、そして柔らかだった。航のこういう所を、いのりはとても素敵だな、と思う。彼は口に出すのにほんの少し照れ臭くなるような褒め言葉を、躊躇いなく言う。いのりの師である司もそうだけど、航は司ほど熱意や勢いを付けずにあっさりと、何気なく賛辞を形にできるところを、いのりは好ましく思っていた。
蘭が彼を慕っているのも、スケートの技術だけじゃなくてこういう部分も含めてのことなのだろう。10年と言う長い間、きっと航は彼女に素敵な言葉をたくさん手渡してきたのだと思うと、いのりは少し羨ましくなった。
「で、岡崎はなんて言ってたの?『もう天才じゃなくなった』とか、『失敗してもヘラヘラしてる』?それとも『怪我なんかする方が悪い』かな?」
「……え、…」
「岡崎は悪口のバリエーションがしょぼいからね。結束ちゃんに言うようなことは俺にも直に言ってる。ま、あいつの言い方はともかく、言ってる内容はだいたい事実だし。言われるのはまあ、しょうがないよなぁ」
にこにこ笑う彼の声のトーンは、大蜘蛛蘭を誉めている時と何ら変わりなかった。あっさりと、さも当然の事実のように自身のことを貶める陰口を言ってみせた航に、いのりは束の間絶句した。
理凰が己を自虐してみせる時のように、皮肉っぽい響きや暗い色がそこには全く存在していない。誰かに言われるより先に自分を傷付けて、苦しさを減らしたいと言うような怯えにも見えなかった。ただ、至極あっさりと。路傍の石を蹴飛ばすときのように、悪気のない彼の口ぶりは明るく、軽かった。
彼は悲しそうではなかった。苦しそうでもなかった。それがかえって、いのりにはひどく残酷なことに思えたのだ。なんでもないことみたいに、自分の悪口を言ってほしくなかった。
「そ、」
反射的に、いのりは座席から腰を浮かせた。彼の手を掴みたかったのか、立ち上がりたかったのか自分でも分からなかった。
「そんなこと言わないでよ!航くんがすごい人だってこと、ちゃんと知ってる!いるかちゃんに航くんのこと…その、悪く言われた時私悔しかったもん。びっくりして言い返せなかったけど、航くんジャンプもスピンも上手だし、勉強も教えてくれるし、ステップも司先生がどんどん上手くなってるねって言ってたじゃん!…怪我だってがわざとなったものじゃないんだから、航くんは悪くないでしょ!」
驚いたように、航は目をぱちぱちさせていのりを見た。閑散としたバスの中で、遠い席に座る客がこちらを伺うのが、視界の端に映る。
「そんな風に…自分で自分のこと、悪く言ってほしくない」
航は少しの間、いのりの熱弁に気圧されたように黙った。いつも笑っていることの多い彼にしてはひどく珍しく、彼は戸惑ったような、眩いものを見るような、それでいて少し寂しいような、なんとも言えない顔をしていた。
(…どうして…)
いのりも、1番じゃない自分が嫌だと思うときはある。氷の上でなら1番になれることを証明したいのに、できていないことが苦しいと思うことがある。でも、自分のことを駄目なスケート選手だと言ったり、思ったりしない。司が信じた自分を、信じていたいと願うからだ。
でも航は、いのりではない。むしろ、いのりが目指す狼嵜光と同じくいくつもの金メダルを勝ち取ってきた、遥かな高みで輝く人なのだ。たとえ2シーズン彼が思うような結果が出ていないのだとしても、そんな風に言ってほしくなかった。氷の上で1番になった金メダリストに、そんな真似をしてほしくなかった。
航が呆気にとられていた時間は、結局ほんの少しの間だけだった。彼はやはり、いつもの人の良い笑みを自然に取り戻していのりに向き直った。
「…そうだよな〜自分を卑下するの、俺のよくない癖だなホント。色んな人に失礼だったな、うん。ごめんね結束ちゃん!もう言わないようにする!」
「え、う、うん……」
受け取ってくれなかった、と咄嗟にといのりは思った。今、いのりが手渡したかった気持ちを。やんわりと拒絶した彼の目はひどく静かで、どこか遠くを見透かしているようだった。彼は大人だから、いのりの言葉に合わせてくれたけれど、多分本心ではそう思っていない。それはいのりにも分かるほどあからさまだった。
『…お前は知らないだろうけど。昔のあいつは、今みたいにヘラヘラしたやつじゃなかった』
『もっと強いやつだった。怪我をして、…変わったよ。すごく』
いるかと仲直りをしたとき、彼女が苦々しい顔でぼやいていた言葉が耳の奥に蘇った。いるかの肩を持つつもりはないけれど、彼女もさっきの自分と同じように彼に言葉をかけたことがあるのかもしれない、といのりは漠然とそう思った。
全盛期の燕条航は、意外なことに無敗ではない。
ノービスA1年目で推薦出場した全日本ジュニアでは2位。ジュニア1年目のJGPファイナル、世界ジュニア選手権でも2位。推薦出場の全日本シニアで3位。超のつくトップ選手であり、国内の同世代最強でこそあったものの、年上で体の出来上がった選手に対して敗北を喫することもままあった。
そんな彼は、それでもなお彼に勝利した選手や、年上の選手を差し置いて『夜鷹純の再来』と呼ばれ続けた。キャリア無敗のまま引退した生ける伝説の後を継ぐ者として、航への期待が止む事はなかった。少なくとも航が事故に遭うときまでは。それは何故か?
燕条航がそれほどに素晴らしい才能の持ち主であったからだろうか。演技が彼に似ていたからか。はたまた、彼を目指していると航が口にしたのだろうか。
どの予想も、全て少しずつ事実とは異なっている。
──答えは簡単。
歴史上、夜鷹純にしか跳べなかったジャンプを、燕条航が成功させたから。
夜鷹純がこの世に生み出し、長きに渡って彼だけのものであった最強の武器を、彼が引退したずっと後になって初めて成功させたのが航だけだったからだ。それを着氷した瞬間に、囁かれ続けていた『夜鷹純の再来』という称号は確たるものになった。きっと。燕条航こそがその名前に相応しいと、あの残像を追いかけて、たどり着いてくれると、誰もが信じたのだ。
「皆さん、おひさしぶりです。こうしてまたルクス東山に来ることができて嬉しいです、今日はよろしくお願いします!」
小柄なそのコーチがお辞儀をすると同時に、わあっととんでもない大歓声が上がった。中学生の生徒からまだ小さい着氷小学生に至るまで、端から端まで大喜びの喜色満面。大須リンクの休憩室は、一瞬でちょっとしたアイドルが来たような騒ぎようになった。ハーネスの先生!とかスナフキンの人!とかちょくちょく変な呼び名で盛り上がっている生徒もいるが、渦中のコーチはまったく気にした様子を見せることもなく、ニコニコと笑っている。
魚淵翔。
フィギュアスケートの元・強化選手であり、今はハーネスを使ったジャンプ専門のコーチとして、特定のクラブに所属せず各地を回って高難度ジャンプの習得を主に教えている講師だ。いのりも去年の全日本ノービスを前に、4回転サルコウをこのコーチから授けられた恩義ある人だった。
「いのりちゃんは新潟以来かな?全日本で4回転サルコウ着氷したんだよね。おめでとう」と、翔が言った。
「はい!あの時はありがとうございました、今日は3回転ルッツ見てもらおうって司先生と言ってたので!よろしくお願いします!」
うんうんと機嫌よく頷く翔が、いのりの後ろをひょいと覗き込むようにして、そこに立っていた航に手を振る。航の方も面識があるのだろう、慣れた様子でお辞儀をした。思えば、彼の憧れとして魚淵翔の名前を上げていた気もする。
「航くんもお久しぶり。名古屋に移籍したのは聞いてたけど、ここのクラブだったんだね」
「そうなんですよ、この4月からお世話になってます。魚淵先生と福岡以外で会うの、なんか変な気分ですね〜。先生のハーネス一本釣り、久しぶりにできるの楽しみ」
「そうだね!今はどうかな、やっぱり4回転フリップ挑戦中?」
航は少しだけ迷って、それから首を縦に振った。
「そう…ですね。去年も見ても頂いて、結局公式戦での投入には至らなかったので。成功率底上げしたいですね」
航の言葉に、分かった、と稀代のジャンプコーチは笑った。彼が何に一瞬言い淀んだのかも分かっているような、そんな笑い方だった。
4回転フリップの歴史は浅い。
史上初の着氷成功例が出来てから未だに20年未満であり、そこから増えたジャンプ取得者も20名を下回っている。フィギュア強豪国である日本で、シニア男子の表彰台を狙おうとするなら4回転は必須になる…と言っても、サルコウやトウループを使ってくる選手の方が圧倒的に多い。そこからループを取得している選手が少数いて、フリップもしくはルッツを4回転で跳べた選手は、歴代でも両手で足りる数しかいないのだ。
──選ばれた人にしか跳べないジャンプ。
基礎点11.00に留まらない希少価値が、そこには宿っている。
ハーネスを装着した航が、翔に後ろで伴走してもらいながら何か会話をしつつ、頷いた航が助走の構えを取った。前向きに滑ってきた航が後ろを向き、右の爪先で氷を叩くときっちりとインサイドエッジで踏み切った。
勢いよく削られた氷のかけらが、灯りに照らされてチカチカと、きらきらと輝きながら飛び散ってゆく。
空中に跳び上がった瞬間に、後ろに控えていた翔がハーネスでくるりとジャンプの軸補正をすると、航の持ち味である軸が細く速度の速い回転が淀みなく制御されたまま、シャア、と彼はクリーンな着氷を決めた。綺麗なチェックの姿勢や伸ばされたフリーレッグも、隅々まで気を張り巡らせているのが見て取れる、美しいジャンプだった。
(…すっごい…4回転フリップ、航くんが前から練習してるの見てたけど…)
高難度のジャンプとは思い難いほど、軽やかで隙がない。あれ、3回転フリップだったかな、と錯覚しそうなほど簡単そうに跳んでいる。練習で散々こけまくっているのもいのりは見ていたけれど、その片鱗すら見せていなかった。行きのバスの中で彼は自分のことを低く見積もっていたけれど、このジャンプを着氷できる時点で、どんな悪口も届かない高みにいるはずだ、といのりは思う。
「うん、良くなってきてる。去年は回転の開始が若干遅くてダウングレード気味だったけど、それがかなり修正されてる…この出来栄えなら公式戦に構成もできるんじゃないでしょうか」
「ありがとうございます!!航さん、エッジジャンプ(サルコウやループなど)より、フリップみたいなトウジャンプが得意だもんね…すごい!早速本番までに組み込めるよう、構成も色々試そうね!」
リンクサイドの司も興奮しきりだ。航がルクス東山に来てから、一応ハーネスの使える彼がサポートをしながら4回転フリップの練習を見てきただけあって、その感動もひとしおのようだった。現在曲かけ練習では4回転ループを使っている航だが、着氷率を上げれば4回転4種を選択肢として持てることになる。現役シニア男子ですら、2人しかいない高難度の技の習得は、格段に戦略の幅が広がることを意味していた。
「俺もハーネスを使って4回転フリップの補助はしていましたが、魚淵先生がやると着氷率が格段に上がりますね…。もし良ければ、以前のように俺がハーネスの操作をするところを見てもらっても良いですか?明日以降の参考にしたくて」
「もちろん!良いですよ。ところでこちらのハーネス、司先生の私物なんですか?」
「そうなんです。買って初めて知ったんですが、思ったより高価ですね…」
コーチ陣がわいわい話していると、ハーネスを装着したままの航が少しばかり控えめな仕草で、あの、と手を上げた。
「…魚淵先生。4回転フリップが使えるようになったのは、すごく嬉しいしありがたいんですが…コンビネーションジャンプの方も見てもらって良いですか」
司は意外な思いで、新しい教え子の顔を見た。航の顔は僅かばかり、強張った色を浮かべている。
「航くん。それは、」
魚淵が静かな目で航を見据えた。
「4回転トウループ+3回転アクセルのことかな」
「…!」
「…はい。そうです」
束の間躊躇って、それから航は頷いた。司はハッとした顔になった。航が移籍してからの3ヶ月、かつての彼の代名詞でもあったそのジャンプを練習したり、はたまた使いたいということを聞いたこともなかった。正真正銘、今が初耳だ。引き継ぎの時に布袋野たちからも『怪我でフォームが変わったことと、身長が伸びてからは使わなくなった』と聞いていたこともあり、彼が跳びたいと思っていることすら知らなかったのだ。
──コンビネーションジャンプには、人体構造上の制約がいくつか存在している。
ひとつ、セカンドジャンプに使えるのは右足で踏み切るトウループかループのみ。
ふたつ、左足で踏み切るサルコウかフリップをセカンドジャンプに使うには、ファーストジャンプとセカンドジャンプの間にオイラーを入れる必要がある。
フィギュアスケートのジャンプ6種類は、全て右足で着氷する都合上、どうしてもコンビネーションの2番目に使えるジャンプは限られてくるのだ。セカンドジャンプはファーストジャンプに比べて回転速度が低下し、また助走がほとんどできない。一回の助走で2つのジャンプを跳ぶが故の弊害は、彼らが重力に縛られる人間である以上、どんな選手にも無視できないものだった。
では、例えばジャンプの中で最も難しいアクセルは、セカンドジャンプには絶対不可能なのだろうか。
そんなことはない。
2回転のアクセルであれば、ファーストジャンプを降りた後足を組み替えて跳ぶことも可能(ちなみにこれは足を組み替えたためジャンプシークエンスと呼ばれ、アクセルの得点が80%になる)であり、実際シニアの選手でも公式戦に組み込んでくる者もいる。
しかし2回転とは言っても、回転速度の落ちるセカンドジャンプにアクセルを持ってくる構成はそれなりにリスキーである。他の種類と比べて半回転多い分、回転速度の低下によって回りきれなかったりエッジエラーを取られる可能性も多々ある。多くの場合これを使うのは、シニア/ジュニアのFSのルールである「同じ種類のジャンプを2回跳べるのは、2種類まで」という競技ルールを考慮した上でのことだった。そして。
3回転アクセルというただでさえ難易度の高い技を、よりにもよってコンビネーションのセカンドジャンプとして、歴史上初めて使った選手がいる。
──夜鷹純である。
19歳のシーズン初戦で、4回転トウループ+3回転アクセルを見事に着氷した彼は、その後引退するまでも何度かプログラムに組込み、一度も転倒することはなかった。言うまでもなく、ほとんどのスケーターには再現不可能な技だ。
3回転アクセルは普通に跳んだとしても高難度の技だが、それをセカンドジャンプに起用するとなると難易度は桁違いに跳ね上がる。回転速度、助走、タイミング。本来、全てが間に合わないはずなのだ。同世代のスケーターから「ジュンは無から回転を生み出してるに違いない」と言わしめた、彼を代表する技のひとつだった。
夜鷹純のこのコンビネーションジャンプは、彼の挑戦後に競技ルールが改定され、基礎点は驚異の17.5点。4回転ルッツ+3回転トウループのコンビネーションが15.7点であることから、現状存在するコンビネーションジャンプとしては最高得点を誇っている。
彼の引退後に、何人ものスケーターが挑戦するも結局公式戦で成功する選手は長らく現れず、史上2人目の登場には10年以上も待つ必要があった。
(…それが、航さんだ)
燕条航が、この史上最高難易度のコンビネーションジャンプに挑んだのは、なんとジュニア1年目。推薦出場した全日本選手権のFS『リバーダンス』の冒頭に持ってくるという、とんでもない挑戦的な構成で彼は5歳以上年上の選手たち、そして見守る観客をも震え上がらせた。
夜鷹純にしか許されなかった、皇帝のジャンプ。夜鷹純が引退した今は、誰にも跳べないジャンプの壁を僅か14歳の少年が超えていった衝撃は凄まじかっただろうな、と司は彼の動画を見返しながら常々そう思っていた。
去年の中部ブロック大会で、3回転ルッツ+3回転ループを成功させた八木夕凪が天才少女と呼ばれたように、燕条航はそのジャンプを持ってして、『夜鷹の再来』の称号を確固たるものにしたのだ。
「航くん、怪我の後は使ってなかったよね。トウループ+アクセル」
翔の言葉に、航が頷く。
「…そもそも復帰した年にやるのは危険すぎるって言われて…その後去年はフォーム変わったのと、身長がかなり伸びて着氷率がガタ落ちしたので実戦投入はできなかったんです。でもあれは…俺にとってすごく、価値のあるジャンプです。取り戻せるなら、そうしたい」
(し、知らなかった……というか、航さん相談してくれてないよな!?これ!)
翔のジャンプレッスンに際しては、習得途中の4回転フリップを見てもらおう!としか決めていなかった司が内心ワタワタと慌てていると、ちらりと翔が司に目を向けた。
「司先生はどうです?このコンビネーションも再習得しておきたいですか」
「えっと…」
前もって相談して欲しかったな!と思いつつも、司は頷いた。
「すみません、俺実は航さんの4回転トウループ+3回転アクセルを生で見ていなくて…一度実演をお願いしても良いですか?それを見てから考えたいです」
司の言葉に、航が少しホッとした表情になるのが見えた。快諾した翔が「じゃ、やってみようか」と航を促して、氷上を滑り出す。
コンビネーションジャンプの2つめに3回転アクセルを持ってくるという飛び抜けた離れ業を成功させるのに求められるは、何よりも回転速度だ。助走ほぼなしでも3回転アクセルを跳べるような動きが必要不可欠になる。
(そういう意味で言うと、航さんは普段からアクセルの助走は並外れて短い。予備動作を極端に短く、前段階に難しいステップを入れても3回転アクセルを難なく跳べるタイプだけど…)
シャア、と難なく4回転トウループを降りた航が、滑らかに足を組み替えて前向きに踏み切った。ループよりは長く、トウループよりは短い間隔で、彼は宙へと跳び出した。翔が修正した軸を中心として、速く、細く、ブレない回転のまま
──しかして、着氷はかなり危うかった。ダン、と硬質な音が鳴り響いたそれは、滑らかな着氷とは程遠い。回転も明らかに足りておらず、ダウングレードどころか2回転アクセルを回り過ぎたか、というようなレベルとなっている。
たたらを踏みかけたところで、しっかりと後ろ側から支えた翔がおかげで転ばずに済んだものの、航の顔は冴えないままだった。熟練のコーチも、流石に手放しで褒めるわけにもいかないのか、考え込む仕草を見せている。
「一回だけで判断するわけにはいきませんが…軸の取り方がズレていると言うよりは、助走の段階の方が問題かな。極めて短い助走で3回転アクセルが跳べるのは航くんの美点ですが、ことこのコンビネーションにおいては1番目と2番目のジャンプの感覚が短すぎるように思います。そのせいで、体を締めるのが間に合っていない」
「俺の体感では、前に跳べていた頃はあれくらいの間隔で意識してたんですけど…変わりましたかね」
難しい顔で首を傾げた航に、翔はもちろんそれもあるだろうね、と頷いた。
「あの頃から航くんは身長も伸びているし、体も重くなってる。前と同じ“目印”で跳ぶことはできないから、体の変化に合わせて細かくフォームも変えて、跳べるポイントを探し続けていかないとね」
そう言った翔は、この超高難易度のコンビネーション再取得のためのアドバイス、としてこう口にした。
「まずは、ハーネスでの練習を続けるのはもちろんとして。ジャンプの間にホップを挟んで跳ぶのがいいんじゃないかな、と思います。」
ホップ…あるいはバニーホップとも呼ぶそれは、ジャンプのアクセントに使う小さいステップのことだ。トウで軽く氷を蹴るもので、バッヂテスト始めたてくらいの子供達でも使用している。ちなみにジャンプの間にこれを挟むと、ジャッジからコンビネーションとは見なされないため、あくまでも助走をしっかり取る練習に、ということだった。
「ホップを挟んで跳べるようになれば、徐々にホップを抜いて跳ぶ。どのタイミングで跳べば回転速度を保ち、なおかつコンビネーションとして見なされるだけの間隔を取れるのか。この高難易度ジャンプを使いこなすためのコツを、どれだけたくさん見つけられるかが鍵になると思います」
▽▽▽
司先生、と呼ばれて振り向くと翔がにこにこと笑っていた。既に夜の貸し切り枠も終わり、生徒たちのほとんども元気のいい挨拶を終えて帰路につく時間だ。先ほどまで手にしていたハーネスをしまったのか、練習着のみの身軽な姿の彼は生徒たちとそう変わらない年頃にしか見えない。司より5歳も年嵩とは、にわかに信じがたい童顔である。きゅるん、という効果音すら聞こえてきそうだ。
「今日はありがとうございました!お忙しい中来ていただいて、本当に助かりました」
「いえ。こちらこそ、たくさん釣れて楽しかったです」
頭を下げた司に、翔はひらひらと手を振った。
「2人の初戦はいつになるんですか?JGPシリーズ?」
「いのりさんはそうです。夏休みにタイでの試合を予定していて…航さんは、今の所は全日本ジュニアのブロック大会です。JGPシリーズでもお声がかかる可能性は、もちろんありますが」
その言葉に、彼はわずかに目を丸くした。けれども何か根掘り葉掘り聞いてくるようなこともなく、静かにそうですか、と呟いた。司よりも前から、航と付き合いのある彼だ。2シーズン続けて不調なことも、もちろん知っているのだろう。
今や、業界の中で当たり前のことなのだ。かつてのジュニア王者のスランプ、という現状は。それが司にはひどく悔しい。
「先ほど航くんがチャレンジしていた、4回転トウループ+3回転アクセルですけど…僕も現役時代に練習したことがあるんですよ」と、翔。司は初知りの事実に驚愕した。
「え!?そうなんですか…全然知らなかった」
「僕が夜鷹純と世代が近かったのもあります。彼が初めてあれを跳んだ当時は、そんなのありなんだ!とすごくワクワクして、ぜひ公式戦でも取り入れたいと意気込んでたんですけど、結局使いませんでした」
声の色はあかるい。既に10年近く前の現役生活を振り返る彼は、ひどく楽しげだった。4回転ルッツまで自力で習得したという、ずば抜けたジャンパーの彼にさえ、あのコンビネーションはできなかったのか…と驚き半分、難易度への恐れ半分で翔の童顔を見た司に、なので、と彼は続けた。
「なので3年前に福岡に呼ばれた時、あのコンビネーションを習得したい、今半分くらいまでは出来ている…と相談された時には驚きつつも嬉しかったですね。あのジャンプが、とうとう他の人にも再現可能な域に近づいてるんだ、思うと」
「…その。魚淵先生から見て、あのコンビネーションジャンプの再取得は、可能な範囲にあるんでしょうか?俺が見た限りでは、時間はかかるかもしれないけどチャンスはある、と捉えていたんですが…」
ふむ、と翔は顎に手を当てた。
「挑戦は可能な範囲だ、と思います。ただもちろん、先生方がどういう構成を選ばれるかにもよるでしょう。他の4回転4種も多めに入れるような構成や、転倒を避けて完成度を上げるのなら、リスキーな選択になるかと」
「そうですか…」
というか。元より、4回転4種も着氷できている時点で上澄みなのだから、それだけで選べる選択肢など山ほどある。わざわざ超高難易度のコンビネーションを跳んで(しかもコンビネーションは失敗した場合の失点も大きい)、リスクを背負う必要性もあまりないのだ。
(ただ…価値のあるジャンプだ、と言っていた)
航にとっては思い入れのあるものだろう。ただでさえ、怪我からの復帰以来成績が低迷している彼にとっては、『怪我で失ったもの』としてより強く喪失感を感じているジャンプなのかもしれない、と司は考えていた。再取得ができれば、それは彼の大きな支えにもなるだろう。
──「成長期は跳べなくなる」は、半分事実で半分呪いだよ。
五里が合宿の席で、しみじみと言っていたことを思い出した。その言葉を信じ過ぎて、体型変化を受けない選手が摂食障害や疲労骨折や関節を痛めたりして、本当に跳べなくなる事態に至ることもある、と。
ただ。呪いではなく本当に体型が変化して、ジャンプに影響が出る選手もいるのだ。怪我後にフォームも変わり、成長期が一気に来た航もこちらに分類される。その影響で高難易度のコンビネーションジャンプを跳べなくなったとしても、それはおかしなことではない。
体型変化に合わせてフォームを変え、しかるべき指導を受け、年齢が上がっても跳び続けられるようになる、というのは簡単だが、強い武器を持ち続けられるというのはそれだけで才能のひとつなのだ。跳び続けられなくとも、それは努力が間違っていたわけでも不運だったわけでもない。ただ、肉体がそう変わった、というだけ。そうなった時には、新しい武器を掴み取って、走っていくほかにない。
強く、あり続けること。
変わり続ける体を抱えて歩くその道の、何と果てしないことだろう、と司は思った。
【挿絵表示】
挿絵
航くん
いのりちゃんと初きまずくなった。この後美蜂先生に「大人げなかったかも…露骨だったかもしれない…」と泣きついている。
いのりちゃん
航を光ちゃんと同じような分類に置いているため、その位置から自虐が出てきてびっくりした。いい子。
司先生
常に航くんのせいで葛藤している可哀想な人。
4回転トウループ+3回転アクセル
羽生結弦が史上初成功してる。YouTubeで見てほしいんですがマジでサラッと跳んでてびっくりする。初回はん?今のトウループ+トウループ?って見逃したぐらい。ちなみに世界には4回転ループ(マリニン)や4回転トウループ(羽生結弦がショーで使ったらしい)セカンドジャンプにしてる人もいます。世界、広い!!!!