行く先に咲くは徒花と知りながらも   作:高野瀬舞

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第1話 美哉と千聖

「ほら、鳴きなさいよ、犬」

「……ワン」

 

 ばしゃりと水がかけられる。からんとトイレのタイルに空のバケツが落とされた。

 汚い野良犬が綺麗になったと、一笑いが沸き起こる。

 その笑いに混ざることも、何することも許されてはいない。

 ただただ受け入れる。それこそが、私の役割。

 

 笑い続ける同学年の女子たちの中に、一人だけ口を結んだままの子がいる。

 彼女は片ケ瀬(かたがせ)千聖(ちさと)

 同学年の子たちに恐れられる鋭い目が私を見据える。びくり、と僅かに体を震わせてみせた。

 彼女は黒髪を肩甲骨の裏まで伸ばし、他の子とは違い染めることはしていない。しかし、顔や態度を見れば、大半の人が性格がきつい人と思うだろう。女子にしては身長が高いのも、威圧感を増長させる一助となっている。

 実際、虐めグループの中心には彼女がいる。彼女が指示し、彼女が企み、彼女が実現させる。

 確固たる地位を築いていると言ってもいいだろう。

 

「何黙ってんだよ!」

 

 彼女の取り巻きの一人が、空のバケツを拾い投げつけてくる。

 頭にぶつかり、かあんと乾いた音がトイレの中に鳴り響く。廊下にも聞こえているだろうか。

 聞きつけてやってくる人など、いるはずもないが。

 

「ちょっと見えるところはやめなよー」

「今更でしょ。先生たちもわざわざ触れようとなんてしないって」

 

 これが私の日常だ。

 虐める彼女(ちーちゃん)。虐められる私。

 これこそが、私たちの関係値。

 私たちの、築き上げた姿。

 

 始業のチャイムが鳴る。

 濡れた制服を見て見ぬ振りをするために、先生は黒板から視線を移さない。

 手元の教科書をなぞり、ノートに内容を写すだけの、退屈ないつもの授業。

 でも、今日は教科書があるだけ楽だ。学校に持ってくると破られるから、家で全て暗記している。

 

 授業中教科書を出している私を見て、彼女たちは何かを企んでいる様子。

 きっと、次の休み時間で今日持ってきた分を全て台無しにされるだろう。教科書もノートも。

 『お前には勿体ない』、『犬の分際で文字を書くなんて』、そういうことを言われて。目の前で破かれ、踏みにじられ、後は誰にもバレないように片づけておけと紙片をばらまかれるだろう。

 

 表情は沈痛なまま……私は心の内で笑う。

 全ては私たちの――私の予定通りに。

 

 次の休み時間は想像の通りに。お昼休みには――。

 

「ほら! 食べなさいよ!」

「い、いや! やめてください! これだけは本当に――」

「聞いた? 『やぁめぇて~、くださぁい』ですって!」

「凄い似てる! 真似するの天才すぎ!」

 

 お弁当の中身は地面にばらまかれ、土足で踏みにじられた。

 ご飯も茶に汚れ、卵焼きは綺麗に整えた手間の割に一瞬で残骸と変わる。破片が飛び散っており、転がることなく黄色を撒き散らしていた。

 頭を上から押さえつけられ、地面に落ちたものを食べるように強要される。

 これも、今日はましな方だ。酷い時は汚物をかけられる時もある。

 

「『本当に』、なんだよブタ。一々文句を言わないでくれる?」

「あぐっ!」

 

 無理やり地面に顔を擦りつけられる。

 そして、食べきるまで許さないとばかりに複数人で取り囲むのだ。

 観念したふりをして、口を開き食事を口の中に入れる。

 

「見た? こんなの人が食べるものじゃないって!」

「本当に心根が動物とおんなじ!」

「二足歩行してて恥ずかしくないの? もうずっと地面に手をついてなさいよ」

 

 耳障りな甲高い笑い声。

 視線を感じる。少し離れたところで千聖がこちらを見ていた。

 何か言いたげにしているところを、視線を合わせる。

 そっと、逸らされた。

 

「……本当に、惨めね」

「千聖」

「どいて」

 

 彼女が近づいてきた。

 私の顎を鷲掴みにし、無理やり顔をあげさせられる。

 怯えた表情を作る。怖くて怖くて仕方がない、もう今すぐにでも気絶してしまいそうな、そんな哀れな被害者の顔を。

 

 この子は嫌悪の表情を隠そうともしない。

 呼吸を整えて、周りには伝わらないほど些細な迷いを押し殺す。

 べちゃり。次の瞬間には、汚い音が鳴った。

 

「あはははは! 見た? 今の」

「きったなぁい。人としてそんなことできる?」

 

 思い切り弁当の残骸に顔を叩きつけられ、姿を笑いものにされる。

 押し付けられるのとはまた違う。勢いがいいから、周りに汚いものが飛び散る。

 さぞかし滑稽に見えるだろう。

 

「行こう。そろそろ私たちも食べないと」

「あっ、待ってよ千聖~」

 

 私はそのまま顔を地面に擦りつけたまま、周りの声が遠ざかっていくのを待った。

 誰もいなくなったのを確認して、静かに懐から買っておいたサンドイッチを取り出し、口に運ぶ。

 

 帰宅の時間になった。

 既に校門を越える人々が多い中、私は下駄箱の前で呆然と佇む。

 靴がない。

 クスクスと遠巻きに笑う声が聞こえてくる。

 

「どうかした? 美哉(みかな)

「……千聖」

「うん、呼び捨て?」

「千聖、さん」

 

 周りの注目が集まっている。

 今度はどれだけ酷いことをされるのだろうかという期待の眼差し。

 

 これは大衆娯楽なのだ。

 絶対的弱者が強者に虐げられるエンターテインメント。

 歴史における公開処刑と同じだ。

 自分より下の者を見て安心し、あいつに非があるんだからと石を投げる。

 理由があれば、人はどこまでも非道になれる。

 

「ちょっと、こっち来て」

「あっ!」

 

 目の前で行われないにしても、想像だけで人は満たされる。

 一対一、どんな目に遭わされているんだろう。その姿を想像し、嘲笑し、優越感に浸る。

 彼女たちに対しては、もはや何の面白みも感じなくなってしまった。

 バレない程度に冷ややかな視線を浴びせながら、私は胸元を掴まれて連行される。

 

 人が行きかう中を逆走し、誰もいなくなった教室に二人きり。

 教室の中に放り込まれるようにして入れられる。

 彼女は後ろ手で教室の扉を閉じた。

 

 茜指す教室の中、しりもちをつく私と、扉の前で見下ろす彼女。

 僅かの静寂。廊下の向こうにも誰もいなくなったのだろう。聞こえてきていた元気な声が聞こえなくなっていた。

 

 無表情になると怒っているように見える彼女が一歩、私に近づき――。

 

「ごめんねぇ、みーちゃん」

 

 ――その凛々しかった表情を崩しながら、抱き着いてきた。

 私は地べたに座ったまま、そっと彼女の頭を撫でる。

 

「本日も良くできました」

「うん、うん。やりきったよぉ」

 

 ぐすりぐすりと鼻を鳴らしている。

 もう何年目かもわからないのに、この子はまだ慣れてくれない。

 

「でも、お昼のお弁当の時、一瞬表情作るの忘れてたよね?」

「だって、あれは……」

「あれは良くなかった。気を付けようね」

「……うん」

 

 私たちの関係はバレてはいけない。

 一つ間違えれば崩壊する薄氷の上に成り立っている。

 だからこそ、締めるべきところは締めなければならないのだ。

 この子にその重要性を解いても、きっとわからないのだろうけれど。 

 

「この後の予定は」

「えっと、皆とカラオケ行くって……」

「そう、じゃあ話題にはネットニュースになっていたあのアイドルの話をしなさい。歌も合わせたものを。事前に伝えた通り、見たんでしょう?」

「う、うん。でも、大丈夫かな……」

 

 不安そうな彼女を落ち着かせてあげないといけない。

 本当に手間のかかる。

 

「私の言うことに従って、間違っていたことが一つでもあった?」

「……ない」

「でしょう? ほら、反復しなさい」

 

 そっとこの子の顎に手を添えて、優しく私の顔の前まで顔を誘導する。

 見つめあう。涙で揺れる瞳孔が、窓の夕焼けを映していた。

 

「私は千聖。みんなのリーダー」

「『私は、千聖。みんなのリーダー』」

「私の意見にみんなが付いてくる。私が先頭を進み、私の周りに人ができる」

「『私の意見にみんなが付いてくる。私が先頭を進み、私の周りに人ができる』」

「よし。よくできました」

 

 背中に手を回し、優しく撫でてあげる。

 すると、安心した様に目を閉じて体重を任せてくる。

 まるで膝の上に乗って丸くなる猫のようだ。それにしては、私よりも体が大きいけれど。

 

「それじゃあ、もう行きなさい。私も頃合いを見て帰るから」

「う、うん。靴の隠し場所は予定通りのところにしてあるから」

 

 それを最後に、彼女を教室から追い出す。

 最後まで名残惜しそうにこっちを見てくるあたり、誰かに見られたらどうするんだと思ってしまう。

 

 一人残され、窓際に腰を掛け、窓の外を見る

 校門で待つ取り巻きたちのところで向かう彼女の姿が見えるまで待ち……姿が消えてから、私は自分の靴を取りに動き出した。

 

 変わらない私たちの関係。変わらないあの子と私。

 思い返せば、本当に驚くほど変化がないものだ……。

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