わたしの母は、一年前のあの日。季節がまだ冷たいままの早春に、この世を去りました。
 晴れ渡る青空の下、あの日の温かな光景は、未だ重苦しい記憶となって胸に刻まれています。
 わたしはあと何度、母に会えるのでしょうか。出来る限り、会いに行きたいと思っていました。関係は理想的とは言えませんでしたが、確かに愛していたのです。
 わたしは未だにあの日に囚われています。毎晩、毎晩、夢に見るのです。

 作品テーマ『弥生』

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数かぞえ あと何度会えるの 夢見月

 わたしの母は、一年前のあの日。季節がまだ冷たいままの早春に、この世を去った。

 晴れ渡る青空の下、あの日の温かな光景は、未だ重苦しい記憶となって胸に刻まれている。

 

 暗い夜が来るたび、眠りは夢へと誘う。

 月の光が窓から差し込み、部屋をかすかに照らす中、わたしはあの頃の家に帰るのだ。

 

 決して帰りたくなかった、針の筵のような家。

 薄暗い木造の廊下は、軋む音を立て、わたしの足取りに合わせて囁く。忘れかけた日常の温もりと、あの日々の痛みが宿る。

 

 リビングの片隅。柔らかな灯りの下、いつも通りに座る母。

 記憶に刻まれたあの人の好さそうな笑顔と、カラッとした声。複雑な気持ち。

 

 愛されていたとは思う。けれど、理解されただろうか。価値観はまるで異なり、考えに同意を得られたことは一度もなかった。

 家族と揉めた時に、味方をしてくれなかった。才能を信じてもらえなかった。

 

 わたしは、この家が大嫌いだった。

 

(なぜ、帰ってきてしまったんだろう……?)

 

 夢の中のわたしはそんなことを思った。

 

 胸の奥底で忘れ去りたい葛藤が、静かに、しかし確実に蘇る。

 

 「お帰り」

 

 目の前から放たれたはずの声が、かすかに、どこか遠くから響いてくる。

 

 声は優し気なのに、まるで台本に沿ったセリフのように、人間味を失っている。心の行間というものが感じられない。

 

 言葉と言葉の間から漏れる、冷たい隙間風。わたしの心をぎゅっと締め付け、現実と幻の間で揺れる感情を際立たせる。

 

 ――ああ、これはわたしの『おかあさん』ではない。

 

 夢の中の家は、現実と記憶が交錯する奇妙な迷宮のようだ。

 古びた木の床の軋む音、埃をまとった写真立て、ひっそりと佇む家具たち。すべてがかつての日常を思い出させるはずなのに、どこか歪んだ空気が漂う。

 

 似ているのに、何かが違う。あるはずのものが消え、決してありえないものが、そこにある。

 

 母の動かぬその姿。

 瞳の奥の空虚な光、微かに震える唇の、宿る決して忘れ得ぬ冷たさ。時折、人形のような不自然な動きを示した。

 

 震える心で問いかける。

 

「お母さん…どうして、こんな姿になってしまったの?」

 

 心の奥底に潜む罪悪感と未練が、恐ろしくも愛おしい想いをかき立てる。

 わかっている。似せてはいるけれど、本物の母ではない。

 

 それは模倣しながらも、どこかに不気味な欠落を孕んでいる。夢の中の短い会話で、瞬間、かすかな温もりを垣間見せても、すぐに奇妙な冷たさに飲み込まれる。

 

 愛すべき存在が、なぜこんなにも異質なのだろう。

 

 母の返事はどんどん曖昧になり、瞳にわたしは映らない。

 

 それでもひたすらに、わたしは語り続ける。返事はない。涙が溢れそうになる。

 

 差し出す手は、触れた瞬間は暖かい。だが、すぐに氷のような硬さにすり替わる。

 

(あの時の感触だ――すごく冷たくて重かった)

 

 入院中の、看取るまでの虚ろな姿と身体の温もり。

 葬儀の際に拭った手は、震えるほど冷ややかだった。

 死を意識した母のあらゆる場面、その感触。それらがごちゃごちゃに混ざり合ったような感覚に、吐き気と眩暈を覚える。

 

 でも、こんな歪んだ幻影であっても、なぜか目を背けられない。

 不愉快で、気持ちが悪いとすれば、ただ無視してしまえばいいのに。

 

(夢の中だけの、作りものなのに。ニセモノに過ぎないのに)

 

 何度も夢で繰り返される出会いと別れ。

 

 わたしは本物の母へ、罪悪感を抱く。

 現実に伝えられなかった謝罪、もっと大切にすればよかったという後悔を、虚像にすら向けてしまう。

 

 こんなニセモノにそんな気持ちを抱く必要はない。本物の母にこそ、その気持ちを向けるべきだ。それが本当の愛のはずだ。

 

 身内から浴びせられた、無遠慮な言葉が胸に深く突き刺さったままだ。

 

 『お前が一番、母さんに迷惑かけたんだ』『お前のせいで母さんは苦しみ、泣いてたんだ』

 

 ああ、抜けない。心臓に茨のように絡みつき、見えない血が流れている。

 

(わたしはただ、自分の夢のために家を出て、精一杯生きてきただけなのに。それがそんなに悪いことなの?)

 

 失意の中、兄弟に背中を突き刺されるような裏切り。僅かに残っていた家族への信頼は砕け散り、なおも心を抉り続ける。

 

「母さん、ちがうと言って。わたしを愛していたと言って、迷惑じゃなかったと言って。そんな風に思ってなかったと、わたしに応えてください」

 

 でも、きっと生きていても、味方はしてくれなかったかもと思った。今までもそうだったから。病院や葬儀でわたしがどんな風に、扱われたとしても。

 わたしだけの味方をしてくれることは、きっとなかったのではないかと。

 

 ――どこか、信じられずにいた。

 

 偽りの母の、何も映さない瞳の奥。そこにあるのは、わたし自身の弱さと、未だ解けぬ因縁の影。内に渦巻く後悔、そして、ただ赦しを請いたいというエゴ。

 

 病室での最後の日々は、母は言葉という概念すら失い、ただ淡い光のように朦朧としていた。

 ふたりだけで過ごしたあの短くも長い時間は、許される限り傍にいた。

 そこには会話なんて何もなかった。

 

『償えっ! せいぜい役に立てっ!』『母さん、こいつのことこき使ってやれよ』

 

 兄弟の心無い言葉に、歯を食いしばる。

 家族という存在への幻想は、裏切りと憎悪に塗り替えられていく。わたしの心は、もう取り返しのつかない傷を負っていた。

 

 それでも、わたしはできる限り、虚ろな母に思い出を語り、手を握り、触れ合った。顔が歪むたびに、痩せ細った身体の姿勢を変えてあげて。

 

 ただ、現実と向き合い、もがき続ける時間だった。

 

「あと、何回会えるんだろうね、お母さん。……出来る限り、会いに来るからね」

 

 終末期の病棟で、静かに向き合った日々

 母が死ぬ前から、わたしは一人で『母の死』に向き合い、医者の診断や予後という言葉に翻弄されながら、未来への恐怖と後悔に苛まれてきた。

 

 叫ぶことなんてできなかった。誰かにぶつける事なんて、わたしには出来なかった。

 

「そんなに言うなら、アンタが代わってくれたらよかったじゃないッ! わたしにあれこれ言うアンタが、お母さんのために何をしたっていうのッ!」

 

 見る夢に、わたしに寄り添ってくれる誰かはいない。

 気が付けば、出たはずの実家に閉じ込められ、そこから抜け出せないでいる。

 

 母を愛していなかったわけじゃない。ただ、味方をしてほしかっただけ。陰でそっと、「お母さんはあなたのことを、わかっているからね」と言ってほしかっただけ。

 

 そして、最期の日に愛と赦しが欲しかっただけ。

 

 今日も、また夜が訪れる。

 夢の中の家、虚ろな母の姿。

 そして、失われた温もりと深い後悔が、静かに、しかし確実にわたしを『あの頃』に呼び戻す。

 

 どれほどの夜が過ぎようとも、夢の中で交わされる空虚な会話は、心に新たな傷を刻み続ける。

 

 現実と幻の境界が曖昧になる時。

 わたしは、まだ母と向き合う時間を続けている。


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