カナンと名乗った白髪頭と父ヨセフが話しているのを聞きながら、アンリは湯を沸かして茶を用意する。
不審な男だが、客は客だ。
家は貧しく、茶葉は買えない。
この家で茶といえば、家の周りで育てている薬草を蒸らしたハーブティー。
(しかし、あの男はやけに品が良い。こんな貧乏人の飲み物、手をつけるだろうか)
見た目は怪しいが、言葉使いやしぐさの柔らかさは庶民のものではない。
とはいえ貴族は庶民相手に跪いたりしないから、もしかしたら良家に仕えていた使用人か、そうでなければ。
「アンリ」
寝床でヨセフが呼んでいる。
からのカップと湯気をたてるポットを持ってヨセフの寝室へ行くと、ヨセフがアンリを見つめていた。
カナンはヨセフの手首に触れて、じっと何かを確かめている。
ああ、いやだ。まるで医者みたいだ。
この病は治せない。なけなしの金を支払い医者にそう告げられた日を思い出す。
父は驚かなかった。ただアンリだけが馬鹿みたいに動揺して、泣いた。
不意にヨセフが激しく咳き込み、アンリははっと我に返った。
カナンがヨセフの背をさすっている。
父は体を曲げて、口と胸を押さえて苦しそうに血を吐いていた。
恐ろしくて立ちすくむアンリの足元で、ガチャンとポットが砕け散った。
「な、なんで……父さん、血なんて……いつから、そんなに悪く……?」
ああ、そうか。隠していたのか。
娘が泣くから隠していたのか。
せめて自分が男だったら良かったと思いながら、アンリは泣いた。
成人していない女は、この辺りでは働きに出ることでもできない。
男だったら、誰かの弟子にでもなれば、家計の足しにできたのに。
女で、子供だから、無力に打ちひしがれながら泣くことしかできないのだ。
役立たずで何もできない。
病気なのは父なのに、その父にまで気を使わせて。
自分はなんて無駄な存在なのだろう。
この世でいちばん役に立たない無駄な人間だから、同族嫌悪でアンリは無駄が嫌いなのだ。
ヨセフの咳が途切れ、カナンはゆっくりとヨセフの体を横たえた。
虚ろに開かれた目には、まだかろうじて生気が残っているけれど、今にも消えてしまいそうに揺らいでいる。
「ごめんなぁ」
掠れた声がそう言った。
何を謝っているのだ。死ぬことを?
「大丈夫」
穏やかな声がそう告げた。
カナンがわずかに振り返り、アンリにむけて静かに微笑んでいた。
「病を治すことはできない。でも、取り除くことはできる」
カナンは言い、アンリが落としたポットに指を伸ばした。
指先にあるものは、床に散らばったハーブの束。
ふわりと温かい風が巻き起こり、やさしくアンリの頬を撫でた。
髪が風に巻かれ、窓を覆うカーテンがはためく。
カナンがかざした手を、柔らかな緑色の光が包み込んでいる。
床に打ち捨てられた草花から新しく芽が出て、カナンの手のひらを目指して蔓を伸ばした。
カナンはどんどん手のひらを高く上げてゆく。
蔓はそれを求めて伸び続ける。
そして蔓がカナンの頭上に届いた時、カナンはそれを掴み取って横たわるヨセフの胸にぐっと押し込んだ。
アンリは夢を見ているのかと思った。
蔓はヨセフの胸に根を張った。
葉を茂らせ、茎は太さを増し、蕾をつけ、花を咲かせた。
血の色の花だ。ヨセフの血の花。
花はこれ以上ない程に鮮やかになった後、急速に黒ずんで色褪せ、花びらを散らし、やがて一つの果実を結んだ。
カナンが両の手を差し出すと、果実は萎びてひび割れ、黒い種をポトポトと手のひらに落として崩れ、そしてヨセフの胸に生えた苗ごと塵となって消えてしまった。
しん、と沈黙が落ちる。
風も緑色の光もいつのまにか消えて、なんの変哲もない普段通りの静かさに戻っていた。
夢の痕跡であるその種を、カナンは懐から取り出した巾着袋に慎重にしまっている。
「よし」
アンリは呆然と座り込んだままカナン見ていた。
そうだ、父は。
カナン向こう側にいる父は、どうなっただろう。
膝の力が抜けて立てない。
膝を床に擦ってベッドに寄り、横たわるヨセフを見下ろす。
ヨセフは眠っていた。
呼吸は規則正しい。顔色もいい。
手を握ってみる。
こんなに温かい父の手は、いつ以来だろうか。
嗚咽が溢れた。堰を切ったように涙が止まらなかった。
喜びが体の中に収まりきらなかったのだ。
泣いて泣いて、泣き疲れたアンリはいつの間にかヨセフのそばで眠ってしまった。
目が覚めるとカナンが台所に立っていて、鍋をかき混ぜながら知らない歌を口ずさんでいた。
「……ねえ」
カナンの歌がプツリと途切れる。
振り返ったカナンは、静かに微笑んでいる。
無表情だ、と思った。
ごくりと喉が鳴る。
先程のできごとがまだ鮮明に目に焼き付いている。
常人ならざる技だった。
この男は人間なのだろうか?
恐ろしいと思った。
けれど、父を助けてくれたことには変わりがない。
「あの……ありがとう、父さんのこと」
「約束だからね」
「うん」
話し方を忘れてしまったみたいに、舌がうまく動かない。
カナンはまた無表情に微笑み、器に麦の粥を掬った。
「父君に食べさせてあげるといい。そろそろ目が覚める」
「あ、ああ……いや、そうじゃなくて」
「大丈夫。君が宿屋に連れて行ってくれたら、僕は君たちの前から消える」
アンリは眉を顰めた。
まず何が大丈夫なのかわからないし、消えるとはどういことだ。
「困るだろう。僕のような異端者が、家に居たら。それに君の父君が起きて先程の現象の説明を求められたら、僕も困ってしまう。
だから君は、僕に地図を書いてくれるか、父君に書置きをして、僕を宿屋に連れて行ってくれるかしたらいいと思う。それがいちばん、お互いに困らずに済む」
「宿屋が必要なら、うちに泊まっていかれては?」
アンリは驚き振り返り、カナンはおくれて顔を上げた。ヨセフがそこに立っていた。
粥の器を持ったままため息をついているあたり、カナンはヨセフに気づいていたのかも知れない。
「何も話せないのなら、何もきかない。私は恩知らずではないから、恩人を家から追い出したりはしない」
「……ですが」
ヨセフのきっぱりとした言葉に、カナンは戸惑った顔をした。
「父さんが訊かないなら、娘のあたしもそれに従う」
カナンはますます戸惑ったが、今から宿屋のある村へ向かっても宿が開いているうちに村には着かないと聞き、とうとう諦めて親子の申し出を受け入れることにした。
再び鍋をかき混ぜながら、ため息をついている。
「泊めてもらうのならば、もうひとつ対価を払わなければ。それからヨセフ、まだ横になっていた方がいい。病は取り除いただけです。長い間伏していたなら、胃腸も肉体も弱っている。すぐに元の生活に戻れるわけではないのだから」
カナンはまた無表情に微笑み、少しだけ悲しそうな顔をしてアンリに麦粥を渡した。
「冷めないうちに父君に」
「父さん、部屋に戻ろう」
アンリはヨセフと寝室へ戻った。
ちらりと振り返ると、カナンは途方に暮れたように台所に佇んでいた。
朝になれば、もしかしたら彼はいなくなっているかもしれない。
ベッドのなかで朝陽を頬に受けながら、アンリは寝ぼけてそんなことを考えていた。
不本意そうだった。困った顔をしていた。
おまけに、眠らないので寝所は要らないと言って、一晩を暖炉の前で過ごしたらしい。
何も訊かないと約束した手前、なぜ眠らないのかと問うこともできず、アンリはただ頷いてそれを承諾することしか出来なかった。
ヨセフの病はすっかり消え、あとは体力を回復させるのみ。
栄養をつけ、よく眠ること。
仕事人間だからおとなしく言うことを聞くとも思えないが、もう意見を譲るつもりはない。
しっかりベッドにくくりつけて、養生してもらおう。
まどろみながらそんな事を考える。
思考が父に及んだ瞬間、パチリと目が覚めた。
昨日の奇跡が夢だったらどうしようと、恐ろしくなったのだ。
寝巻きのままリビングに行くと、居るはずのカナンがいない。
一瞬どきりと胸が騒いだ。
けれどキッチンを覗けば昨日の麦粥の鍋があるし、割れたティーポットの欠片が水場のすみに寄せてある。
(大丈夫だ、夢じゃない)
彼はどこに行ったのだろう?
道案内をする約束だから、まだ居るはずなのに。
それとも居づらくなって、出ていってしまったのだろうか。
けれど探し人はすぐに見つかった。
薬草を摘みに外を出ると、そこにカナンがいたのだ。
昨日は服のなかにしまっていた長い白髪を出したまま、彼はあの聞きなれない歌を口ずさみながら指先を宙でふわふわと動かしている。
(なにやってんだろ)
ハーブを摘み終え、アンリは家に戻った。盗み見は気が咎める。
不審者で得体が知れなくても、父の命の恩人なのだ。
何をしていたにせよ、黙っていることが約束。
命の恩人を困らせるだなんて、無駄なことはしない。
壊れたポットは使えない。
小鍋に湯を沸かし、火から上げて鍋に直接ハーブを浸す。
蓋をして蒸らし、甘い木の樹液をまぜる。
甘味がつくと、格段に味が整う。
ハーブティーをみっつのカップに注いでいると、カナンが家に戻ってきた。
目が合うとにこりと笑う。
昨日と同じ、無表情な微笑だ。
「あの……よかったら、これ」
湯気を立てるカップを差し出すと、カナンは少しだけ目を細めた。
弧を描く唇の笑みがほんの少しだけ深くなる。
今度は本当に笑っている気がした。
喜んでいるのか。
「ありがとう」
「へ」
「カモミールの香りがする。僕はカモミールが好きだ。林檎に似ているけれど、林檎より清廉で、この白い小さな花も可愛らしい」
「そう。だったらよかった」
カナンはあたたかいカップを両手で大切そうに包み、ゆっくりと口に含んだ。
また少しだけ、口角が上がる。
ほんのわずかに。
「今夜とまる宿屋にも、これと同じ茶があったらいいな」
「ああ、それはどうかな」
アンリはカナンと並んでハーブティーを飲みながら、顔見知りの宿屋の女主人の品揃えを思い浮かべる。
「そういってくれるのは嬉しいけど……薬草茶は店で出すようなものじゃないから。紅茶が出ると思う」
「ああ……」
ほんの少し上がった口角が残念そうに下がった。
無意味に微笑していて表情が読みにくいかと思ったが、よく見れば結構顔に出ている。
やはり変なやつだな、と思う。
けれどいまはもう、厄介者だとは思わない。
「聞かない約束だったから、答えたくなければ答えなくていいんだけどさ」
アンリはなんとなくそっぽを向いて、飲み終わったカップを水場に片づける。
「先を急いでいるのか? 身なりからして旅人なんだろうけど、どこか目的地があっての旅なの?」
カナンはまたひと口、茶を含み、どうしてか遠い目をしてふと吐息した。
「人を探しているんだ。僕のきょうだいだ。僕は姉に、次の冬までに会わないといけなくて……」
カナンは口をつぐんだ。
軽々しく話せる事情ではないのだろう。
「先は急ぐよ。長くいては、あなた方に迷惑をかける」
「あたしも父さんも、気にしないよ?」
「そういうことではないんだ。君は優しいね」
「は、それこそそんなんじゃねえよ。義理だ。父さんの教えなんだ。恩には報いるのがうちの掟だから」
照れ隠し混じりのぶっきらぼうな答えを聞いて、音を立てずに彼は微笑む。
ティーカップを手中にもてあそびながら、白いまつ毛を伏せて、カナンは呟いた。
「僕が去った後に、この家に訪ねて来る者があるかもしれない。僕のことは、知らないと言いなさい。関わったことを知られない方がいい」
ああ、この人は追われているのだ。
アンリはカナンの状況がなんとなくわかった気がした。
カナンは父の不治の病を治した。父を助けた。
きっと今までの旅でもそうしてきたのだろう。
そしてその力に目をつけた奴がいて、彼は追われて逃げている。
(だから泊まっていってと言った時、あんなに困った顔をしたのかもしれない)
不可能なことを可能にする力を持つカナン。
こういう力を強引に手に入れようとするような輩は、大抵ろくな人間じゃない。
この男はアンリたちを巻き込むことのないように、一刻も早く立ち去ろうとしている。
そうであるならば、やはりそれを邪魔する理由はない。
「わかった。だったら、早く出かけよう。約束どおり、村の宿に連れて行く。行こ」
「わかってくれてありがとう」
ハーブティーを飲み終えたカナンはそっと手をあげて、アンリの頭を子供にするように撫でた。
不意打ちを食らって硬直する十五歳の娘は、父親がはらはらしながら部屋の入り口で立ち尽くしていたことなど、知るよしもない。
行こう、と立ち上がって家を出ると、空き地であった家のまえに何故か畑が出来ていた。
耕され、苗も根付いている。
作物はひと月も待たずに収穫できそうなほど、育っていた。
いったい何が起こったのか。
訳がわからずぽかんと口を開けて立ち尽くすアンリの横で、なんでもなさそうに彼は呟く。
「これは一晩この家に泊まらせてもらったお礼」
訳がわからず棒立ちになるアンリの横を通り過ぎながら、カナンはすたすたと歩いて行く。
白く長すぎる髪を昨日のように服の中に仕舞い込み、旅人の外套を肩にかけて、平然としている。
「ねえあのさ……お節介かもしれないけど、行く先々でこんなふうにサービスしまくってたら、見つけてくれって言ってるようなものだよ。そりゃあ、追われるよ」
慌ててカナンの背を追いこして、アンリは呆れと心配を浮かべて振り向いた。
道案内をするからには先を歩かなければならない。
「そうだね。だから、お世話になった人たちには僕のことを忘れてもらっている。もちろん、気休めだけれどね。少なくとも関わった人たちに迷惑をかけることはないはずだ。僕を追うことはできてもね」
「それってあたしの記憶も消すってこと?」
カナンは頷く。
「君の父君の記憶は家を出るときに消したよ。君のは、宿屋に着いたら」
「いやだな」
言葉はアンリの口から勝手にこぼれ落ちた。
「あたし、忘れたくないな。恩人のことすっかり忘れてのうのうと暮らすなんて、不義理だ」
「覚えていない方が安全なんだ。君と父君が安全だと思えば、僕は安心できる。不義理なことはない」
「でも、そんなこと言ったって」
言い重ねようとして、アンリは口をつぐんた。へ理屈だ。
本当は、ただ感情的にこの出来事を忘れたくないだけ。
ただ嫌なだけだと、心の底では自分でも解っていた。
「友達が欲しくなることはないの?」
「あるよ。僕はいつも寂しい。果てのない時間を生きていると、孤独に蝕まれてあやまちをおかす事もある」
聞いたアンリのほうが悲しくなるような表情で微笑む。
特別な力を持っていて、追われていて、ひとりぼっちで、姉を探す旅をしているという男。
アンリはふと、誰かが困っていたら優しくしてあげようと思った。
そして、助けた人が同じように誰かに優しくしてくれたらいい。
そうやって続いて行く優しさの連鎖が、いつかどこかでカナンにまで辿り着いて、彼の助けになったらもっといい。
そんなことを考えながら宿屋に到着したアンリは、村の宿屋の女将に「お茶はハーブティーが好きなんだって」と言付けをした。
「うちの父さんがお世話になったひとだから、良くしてもらえる? 見た目は変わってるけど、とっても気の優しいひとだから」
宿屋の女将はちょっと面食らった顔をしていたが、はいよとうなづいてカナンに部屋の鍵を渡してくれた。
「帰り道に気をつけて」
「お元気で。姉さんに早く会えるといいね」
カナンは目を細めて微笑み、色白な指先を上げてさよならの挨拶をした。
そうして家に帰ろうと踵を返した瞬間には、父を救ってくれた不思議な男がいたことなど、アンリはすっかり忘れてしまったのだった。