「あなたの信者が脱獄したようですよ。まさか、あなたを見捨てて行くなんてね」
テンテラが影に戻るのを感じたその時、聖王がカナンの元へ現れた。
カナンはうつむけていた顔を上げ、横目でシャファクを見る。
青ざめて見えるのは、月光のためか。
「彼は別に、僕の信者などではありませんよ。君でもあるまいし」
「私を挑発し話を逸らそうとしているでしょう。その手には乗りません」
「僕も逃げてしまおうか」
「蛇の毒は抜けても、束縛の魔術は解けないでしょう。今のあなたには」
「そうかもしれない。だが、出来るかもしれない」
「私はどちらでも構いません。命をかけた私の魔術をあなたが破れば、私は死ぬ。望むところです」
「……君は……」
胸の泉に気泡が生まれ、水面に向かってぼこりと蠢いた。
苛立ちと悲しみ。
後悔と自責。
カナンの感情を感じ取ったテンテラが、影の中で不安げに身じろぎをする。
「私はこの命を終えるためならば、手段は選ばない」
「自国の人々を巻き込むとしても?」
シャファクはカナンの椅子の前に立ち、ゆっくりと目の前の白い首に両手をかけた。
ゆっくりと喉を締め上げる冷たい手。
シャファクの赤い目に、激しい感情が揺らめく。
「記憶の石を最後まで読んでくれさえすれば、我々は分かり合えたはずだった」
主人の危機を守ろうとテンテラが影の中から跳びだそうともがく。
カナンは影の奥へとテンテラを引き戻しながら、静かにシャファクを見つめ返した。
(僕には受け止められなかった。すまない)
念話を受けたシャファクの顔が悲しみに歪む。
激情に任せてカナンを手放したシャファクは、喉を押さえて咳き込むカナンから顔を背けて窓を閉めた。
月光が遮られ、風が途絶える。
カナンはすがるようにシャファクを見上げた。
「魔術師の──人間の真似など、もうやめてしまえばいい。その肉体を捨てて本来の姿に戻れば、光も風も呼吸さえ必要なくなるでしょう。
冬の化身が無様に首を絞められて窒息するなど、愚の骨頂。死を作り出したあなたなのだから、こんな私を死に至らしめることなど簡単でしょう?
どうしてその簡単な願いさえ、叶えてくださらないのですか」
「……それは」
尚も口を噤むカナンに、シャファクは悲しみと軽蔑の目を向ける。
「あなたも頑固なことだ」
言い捨て、一切の光も風も途絶えた暗闇の部屋にカナンを置いて去っていったシャファクの心には、もはや一欠片の希望も灯ってはいなかった。
ひとり残された静寂のなかで、カナンは力無く首を垂れる。
(ご主人、なぜあの男を捨て置かない?)
カナンの影の中でもがいていたテンテラが、ようやく引力から解放されて顔を出した。
ずっと奥へ押し込まれていた彼は、不満げに主人を見つめている。
「こら。彼の領域で無闇に姿を現してはならないよ」
主人に諌められては仕方がない、とテンテラは影の中に沈み込む。
密かに瞬く赤い目がふたつ、暗闇のカナンの足元に瞬いた。
「シャファクは、僕にとって特別な存在なのです。僕に初めて出来た人間の友人」
(でも、そう思っているのはご主人だけだ。あの男は思ってない)
「そうですねぇ」
テンテラの率直な意見に苦笑しつつ、カナンはもう寝なさいとテンテラへ命じた。
初めて空を滑空して疲れていた使役の竜は、言われるがまま、素直に影のなかでとぐろを巻いて丸くなった。
「……シャファクに嫌われているのは、僕の自業自得だから仕方がない。それでも失いたくはないのだ。僕はただ、友人をただ殺めたくないだけなのです」
閉ざされた暗闇にぽつりと溢れた独り言。
それを聞く者は誰もいない。
カナンはゆっくりと瞼を閉ざしながら、影の中のテンテラに寄り添うような心地で微睡みに落ちた。
魔術師として人の形を得ている以上、光や風のないこの空間において、必要最低限の生命維持以上に力を使うべきではない。
肉体を眠らせ、体温を下げ呼吸さえ抑制すると、カナンは目を開けた。
目の前に広がる風景はあの暗闇の部屋とは似ても似つかない、カナンが冬籠をするための〈眠りの森〉だった。
シャファクと初めて出会った場所だ。
「魔導に秀でた聖王であろうと、僕の本体を束縛することはやはり不可能だったようだね」
このままあの塔に閉じこもって冬を迎え、国もろともシャファクを滅ぼすわけにはいかない。
友を亡くさず自らも脱出するための策を、考えなければ。
──ああ、人の世界は、人の扱いは難しい。
今でこそ他者の記憶に残らないように細工をしているが、昔はそうではなかった。
故に長命を得た人間、古きものとカナンの関係はシャファクに限らず大抵拗れている。
(シャファクにも〈忘却〉をかけるべきだったのだろうか……)
疲れを覚えて泉の淵に座り込む。
水面を見やれば、浮草の合間を尾鰭の長い大きな魚がゆらゆらと泳いでいる。
そっと水面に触れると、現世の風景が映った。
眠るカナンを見下ろす、聖王の感情を押し殺した顔。
慌てふためく紫の目の少女。
泣いて心配する双子たち。
カナンはそっと目を逸らし、再び水面を突いた。
波紋が広がり、場面が変わり、赤毛の青年の姿が映る。
エミスフィリオと名付けた生徒、元の呼び名はブレス。
ブレスは宿に戻り、部屋の隅に蹲っていた。
何をしているのかと思えば、額に当てた拳から緑色の光がこぼれている。
彼はシャファクの記憶の石を読んでいるのだ。
──あんなにのめり込んでいては、追手が来ても気づかないだろうに。
目を閉じたブレスの眉間には皺がより、額にも汗が滲んでいた。
カナンはもどかしげに唸り、ふと思いついて手のひらに印を描いた。
〈耳〉の印だ。
「……君。エミスフィリオ。聞こえますか」
石の記憶に囚われていた生徒が、驚いて勢いよく顔を上げた。
ブレスはきょろきょろとあたりを見回し、混乱した様子で立ち上がった。
「……先生? いるんですか?」
「探してごらん」
「面白がっている場合じゃないでしょう!」
怒っているようだが、ブレスの声は遠い。
もっとそばに寄って、と告げると、ブレスは声の出所に見当がついたのか、はっとした様子で壁を調べ始めた。
魔力が流れてうっすらと発光する印は、カナンが宿に泊まった日に壁に落書きした〈耳〉の印。
ブレスはその前に立ち、不服そうに印をにらみつけた。
「これか。こんな事態を予測して壁に〈耳〉を描いたんじゃないでしょうね」
「まさか。偶然だよ。〈耳〉が便利なのは認めますけどね」
場所を把握している〈耳〉であれば、音を繋げることが出来る。
宿の壁には〈目〉と並んで、〈耳〉の印が残っていたのだ。
「盗聴以外にも使い道があったんですね、この印」
「ええ。耳から耳に素通り、というでしょう?」
もっともその場合「話を聞いていない」という真逆の意味になってしまうが。
「音は通るのです」
「……魔術って、そういうところありますよね。なんというか、逆説を利用するみたいな……」
「あながち間違いでもない。簡単に言えば、概念が浸透しているということが大切なのです」
「概念が、浸透……?」
「究極的には、信じれば叶うということです。想像力と実力が釣り合えば、という条件付きではありますが」
君がメイリーンの魂を祈りの言葉で天上へ送ったように。
君がそう信じ願ったから、彼女は鳥になって魂はヘロデーから解放された。
カナンがそういい重ねると、ブレスは眉を寄せた。
それは言葉の力、言霊ではなかろうか。
言霊は失われた力だ、納得がいかない。
しかし、今は魔道学について理解を深めている場合ではない。
「訊ねたいことは山ほどあるんですが、次の機会にしておきます。魔術のこととか先生のこととか、本当に山ほどあるんですけど、今はそれどころではないですから」
カナンは水面に映るブレスの姿を前に、しばし沈黙した。
印の前に座り込む生徒の掌には、あのエメラルドが握られている。
「聖王の記憶の石を読みました。ちょっとまだ途中でしたけど」
「ああ」
「それで俺、思ったんですよ。なんでこの人たちさっさと仲直りしないんだろうって」
カナンは一瞬、らしくもなく呆然とした。
カナンはこの生徒に、責められるだろうと思っていた。
病の聖王をそのまま逝かせてやるべきだった、と。
もしくは、カナンが人でないことへの恐れを吐露するか、連れ出しておいて帰れと言ったことに腹を立てるか。
それがどうだろう、仲直りだと?
水鏡に映る生徒の顔は真顔だった。
「シャ、シャファクは、僕を許してはくれないと思います」
取り繕い、やっとそう言い返すが、それでもブレスの表情は動かない。
「なぜそう思うのですか?」
「僕は憎まれているので」
「なぜ、そう思うのですか?」
同じ質問だ。
カナンは戸惑って答える。
「記憶の石を読んだのならば、わかるでしょう?」
それを聞いたブレスは沈黙した。
水面に映る生徒の表情は、みるみるうちに変化していく。
眉間に皺が寄り、もどかしそうにエメラルドを握りしめ、奥歯を噛み締めている。
苛立っていた。
ブレスは怒っているのだ。
「……先生こそ、この石を読んだのだったら、どうしてわからないんですか? まさか読まなかったんですか? 途中でやめちゃったんですか?
そんな……伝えたい思いを全部込めた石を、受け取っておきながら最後まで読まないなんてこと、もし先生がされた側だったらどう思います?
悲しくないですか? 信じたのに踏み躙られたって気持ちになりませんか?」
「それは──そうかもしれないが、でも僕は……僕が間違っていたことはわかっている、シャファクに突きつけられるまでもなくわかっているんだ」
「だからそれは……!」
反論しかけ、ふと怪訝に眉を顰める。
「先生、だいたいこんな状況で俺に話しかけてる場合じゃないでしょう。別に俺は、いややめた、正直言って協会長のところに帰れって説明もなく突き放されたことを根に持ってますけど、それについても説明して頂きたいですけど。
いまは俺なんかよりずっと、先生が話し合わなきゃいけない相手がいるんじゃないですか? 三百年近くも待っていた人がいるんじゃないですか? いったい先生は何をやっているんだ」
「ぐ……」
〈眠りの森〉に閉じこもって逃げる算段を考えている、などとは言えない。
「俺なんかに話しかける余裕があるんだったら、聖王様と話をしてください。いいですか。いいですね」
「君こそ話を聞きなさい、僕は君の身をあんじて声をかけたんだ、追手に見つかれば君はまた閉じ込められる」
「じゃあそうならないためにも早くあの人と仲直りしてくださいよ!」
カナンの言葉をかき消すような大声でブレスが叫んだ瞬間、目の前の水面が激しく波打ち始めた。
水面だけではない。
木々も、地面さえもが形を保てなくなったかのように不安定によじれ、波うち、揺れている。
「……馬鹿な、なんということだ……君の言葉は、そこまで……」
茫然と天を見上げた瞬間、カナンは己の領域である〈眠りの森〉から弾き出された。