冬のカナリア とある魔術師の旅路   作:鹿宮鳩子

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5.5幕間 使い魔たちの羅針盤
45話 猫妖精のご主人 前編


 

 旅人であるふたりの魔術師は、マリーの森を抜けて次の町を目指す。カナンが言うことには、春の乙女プライラルムはこの二十日あまりでだいぶ遠くへ行ってしまったらしい。

 

 心の傷を治すために必要な時間だったとはいえ、旅は巻きで進めなければならないとのこと。

 

 ブレスは普段よりも早足の師に続きながら、日差しに手をかざして眺める。

 マリーのガーネットと、ルシアナのペリドット。

 

 赤い石と緑の石が陽光を浴びてきらきらと輝いている、すっかりお気に入りになってしまったふたつの指輪。

 

 そんなブレスを見やり、耳元でため息をつくものがいた。猫妖精ミシェリーだ。

 

 ミシェリーはブレスが背負っている背嚢(リュック)の上に乗って、ブレスの肩に顎を乗せてだらんと伸びていた。

 

 

 

 

 

 ミッチェは夏が嫌いである。単純に暑いのである。ミッチェの体は長く豊かな黒い毛で覆われている。黒は光を吸収するので熱が溜まる。本当ならば、こんな時期に旅に出るなんてまっぴらなのだ。

 

 どうやらこの魔術師は未熟らしい。そのうえ変な呪いを受けていて、ミッチェがいくら念話で話しかけても全然気づいてくれない。

 

 ミッチェが不機嫌でも、お腹が空いていても、暑くて喉が渇いても、耳元でため息をついてみても、ひよこは自分の指についている宝石に夢中とくれば、苛立ちも積もるというもの。

 

 考えれば考えるほど苛々してきた。我慢の限界、ミッチェはひよこの肩に爪を立てる。いて、と声を上げてひよこが振り向く。

 

「なんだよミッチェ。血が欲しいのか?」

『違うわよ、鈍感。暑いのよ。死にそうよ。どうにかしてよ』

「そんなところにいないで影に入っていればいいじゃないか」

『わたしは妖精なのよ。夜の生き物じゃニャいんだから、影なんかに入れるわけないでしょ』

「そうなんだ?」

 

 なにがそうなんだ、よ。

 

 ぴしりと音を立ててミッチェの尻尾がひよこの肩を叩く。

 ひよこはやっぱり気づきもしない。

 

 フンと鼻を鳴らし、ミッチェは目を閉じた。日が眩しくてくらくらするのだ。

 

 昔はこんなんじゃなかったのに、と心の中で呟く。

 

 サハナドールが魔女に落ちる前の暮らし。

 

 ミッチェが出会ったサハナドールは、心が澄んでいて、天真爛漫で、秋のお日様のようだった。

 彼女の陽だまりのような心に寄り添ってうたた寝をする時間がなによりも幸せだった。

 

 ミッチェはサハナドールが大好きだった。

 

 けれど、彼女は闇に落ちた。彼女が闇に落ちていくのを止めることができなかったことを、ミッチェはいまも後悔している。

 

 後悔はミッチェのなかに小さな闇を作り出した。だからミッチェは不完全だ。

 

 妖精には二種類いる。シーリーコートとアンシーリーコート。善良な妖精と悪い妖精。

 

 人間がそう呼んでいるだけだけれど、悪い妖精、というのは気に入らない。

 

 ミッチェは良い妖精でありたかった。サハナドールがいい子、いい子と言いながらミッチェを撫でてくれたからだ。

 

 けれど、心に巣食った小さな闇が、ミッチェを悪い子にする。きっとこのひよこにもミッチェは悪いことをしてしまう。ひよこはミッチェのことが嫌いになる。

 

 そんな未来しか見えないから、ミッチェは彼女の家を出るときに決めた。

 

 なるべく早くひよこに嫌われて、なるべく早く契約を解かせよう。

 ミッチェはひとりになるけれど、誰かに嫌われたりするよりは良い。

 

『……悪い子になる前に』

「何か言った?」

 

 ひよこが振り返る。ミッチェは寝たふりをした。

 

 

 

 

 

 

 その日の晩は野宿をすることになった。

 

 近くに村があることは知っていたが、その村には魔女たちが派手に返り討ちにした人々が住んでいる。

 通りすがりとはいえ、流石に屋根を借りる気にはなれない。

 

 屋根のないところで夜をこすことにブレスはもう慣れっこだったし、カナンは屋根があろうとなかろうとどうでも良いらしい。

 

 カナンはいま、テンテラの脱皮が気掛かりで上の空なのだった。

 

 今晩の食事はマリーの家から分けてもらった果実と、家を出る前に川で釣り、〈冷気〉の印を描いた布で包んでおいた魚。

 慣れた手順で魚を串を通して火の側で炙っていると、ブレスの視界で何かしゅるりと動いた。

 

「……ミッチェ?」

 

 木立の中に、黒猫の静かな後ろ姿が見えた。ミシェリーはチラリと振り向き、そのまま黒い尻尾をしならせて木々の合間に消えていった。

 

 魚を焼き始めたことも忘れて、ブレスは彼女の姿を探しに闇の中へふみいる。

 

 金色の目がどことなく悲しそうに見えた。

 そんなミシェリーを放っておくことなんて、出来るはずがない。

 

「ミッチェ、どこにいるんだ?」

 

 ブレスは黒猫を呼びながら歩く。日はすっかり落ちて、あたりを照らすものといえば月明かりのみ。

 頭上に浮かぶ満月の光を浴びながら、月と猫の関係が頭をよぎった。

 

 猫は月の生き物である。由来はその瞳孔だ。まるで月のように満ち欠けをする。

 

 それだけではなく、月の満ち欠けは猫たちの精神に影響を与えるとも言われている。

 満月の時期の猫は満たされているはず。

 

 問題は、到底そうは見えなかった、ということ。

 

 不意に気配を感じ、ブレスは振り返った。若木の枝のひとふりに、毛足の長い黒猫の影があった。

 

 よかった、無事だった。ブレスは安堵し、おいで、と腕を伸ばす。

 

「降りておいで。夜は魔物や魔獣が活発になる。君は妖精なんだろう? 夜の生き物とは相性がよくない。危険だ」

『……わたしはお前に仕える気なんてニャいのよ』

 

 想像もしなかった拒絶の言葉に、一瞬頭の中が真っ白になった。

 

「あ……うん、そうだよな。無理もない。自分よりも格が上の生き物を、使役に下すことはできないんだから」

『それは夜の生き物や闇の生き物の話よ。そういうことじゃニャいのよ』

 

 魔物や魔獣や悪魔は仕える主人に対価を要求する。己より力の強い使役を下せないのは、対価が払えきれなくなるからだ。

 

 だが妖精や精霊はどうか。

 妖精は種によって様々だ。精霊は対価を要求しない。

 

 共通している点があるとすれば、妖精や精霊の性質は、宿主の守護者になるということ。

 主人の命令に従う契約関係の使役とは、そもそも性質が違うのである。

 

 ブレスがミッチェより弱くても、ミッチェがブレスを護りたいと思えば、ブレスはミッチェの宿主──主人になりうる。

 

 けれどミッチェは「仕える気はない」と言う。

 

『わたしはあの家を出るために一時的にお前と結んだにすぎニャいのよ』

「つまりそれは……」

 

 今すぐ魂の結び目を切ってほしい、ということだろうか。

 

「俺には、マリー様から君を託された責任があるんだけど」

『わたしはひとりでも生きていけるわ』

「でも、君はずっと飼い猫だったんだろう? 何百年も。外の世界に君を受け入れてくれる場所はあるの?」

『……なんてひどいことを言うの』

 

 ミシェリーの声が歪む。

 満月の光が差し込み、うっすらとその姿を照らし出した。

 

 冷めた金色の目が、月光を跳ね返して青白く光っている。

 ブレスには彼女の体から立ち上る黒いもやのようなものを見えた。

 

 それは魔女の魔力に似ていた。魔法陣から立ち昇っていた、黒い光の揺らぎ。

 

「ミッチェ、きみ……」

『そうよ、行くところなんかないわよ! でもお前のそばにもいられない!』

 

 ミシェリーの気の昂りとともに立ち上る黒い魔力が増大する。

 魔女の側で過ごした数百年が、彼女の存在に干渉し彼女を侵食していたのだろうか。

 

「だめだミッチェ、抑えるんだ」

 

 ブレスは周囲を警戒しながら強い口調で言った。

 

 夜、満月、人気のない暗い場所。

 こんな条件下で妖精が騒いでいれば、魔物や魔獣を引き寄せてしまう。

 

 長寿の妖精ともなれば、何よりも魅力的な餌だ。

 

 ──ああ、遅かった。

 

 ミシェリーが気づいて我に返った時には、すでに周囲を囲まれていた。

 鉤爪とツノを持った犬の姿の邪悪な魔物、悪霊犬バーゲストだ。

 

 バーゲストという魔物はとにかく縁起が悪いことで知られている。死の先触れだとか、見たものには不幸が訪れるだとか、最愛のものを失うだとか、ろくな逸話がない。

 

 けれどもそれは、あくまで神話の時代の悪霊犬の話。そのへんを歩いているバーゲストは、実際のところそんな呪いは持ってはいない。

 

(そりゃイメージ悪いし、遭遇していい気はしないけど)

 

 ブレスとミッチェを囲う悪霊犬は五頭。うち四頭は退化して角と鉤爪を失っているため、ただの凶暴な黒い犬だと思っていい。問題は群れを率いる一頭だ。

 

 身体は他の犬よりも倍ほど大きく、ツノも爪も持っている。この一頭が、血のように赤い目でブレスをじっと見ている。

 四頭が餌を凝視して涎を垂らしているなかで、このツノ付きだけが明らかに異質だった。

 

 首筋がざわざわするような魔術師の勘が、こいつには手を出してはいけないとブレスの本能に訴えかけている。

 

 このツノ付きは賢い。ブレスが逃げれば追ってはこないだろう。

 餌はミシェリーなのだ。つまりブレスが逃げれば間違いなくミシェリーが喰われるということ。

 

 そんな選択肢は無い。

 

(ミッチェ、聞こえるか)

 

 念話で話しかけると、ミシェリーは怯えた目でブレスを見た。ブレスに彼女の言葉は聞こえないけれど、ミシェリーはブレスの考えていることがわかる。

 

(跳ぶんだ。絶対に抱き止める。走って逃げる)

 

 カナンのところまで逃げ切れば、あとはなんとかなる。

 風の力を借りて走ればいい。

 転びでもしない限り、大丈夫。

 

 ミシェリーがブレスを見、バーゲストを見、もう一度ブレスを見る。

 追い詰められた彼女の膨らんだ尻尾と伏せられた耳が、ほんの僅かにピクリと動いた。

 

 いまだ。

 

「さあミッチェ、飛べ!」

 

 直後ミッチェはムササビのように枝から跳び降り、ブレスは彼女を空中で引っ掴んで即座に踵を返した。

 

『も、もっと優しく抱き止めてよ!』

「次があったらそうするよ!」

 

 文句を言うミシェリーを胸に抱きながら疾走する。

 背後で悪霊犬が吠えたてているが、気にしたら負けだ。

 

 息を切らしながら風の精霊に祈る。祈りはブレスの長靴に刻まれた印に力を吹き込み、風のように走る力を与えてくれる。

 

 吠え声が遠のき、先には焚き火の明かりが見えた。野営地の近くまで戻ってきたのだ。ほっとして気が抜ける。

 

 それが油断となってしまった。何かに足を取られた。

 

「いッ……!?」

 

 ミッチェを潰さないように受け身をとりつつ転がって振り返れば、あのツノ付きのバーゲストがブレスの足首を噛んでいる。

 

 そうだ。こいつは賢い。吠えて、己の存在を知らせるような馬鹿な真似なんかするわけがない。

 

 バーゲストの牙がブレスの肉に食い込む。思わず痛みに声を上げると、ミシェリーが腕の中で暴れ出した。

 

(だめだよミッチェ、今出てきたらこいつは君に飛びかかる)

『だからってお前が食われるのを黙って見ていろというの!』

(食われるか。食われるだろうな。追いついてくる四頭に)

 

 そしてツノ付きは、四頭のバカ犬が肉に夢中になっている間にミシェリーを食うだろう。

 冗談じゃない。

 

「……離せ」

 

 名がわからない。魔術や言霊は相手の真名を握っているか否かで効果が大きく変わる。

 この悪霊犬が相手では、ただ命じるだけでは言霊は発動しないだろう。

 

 ならば使えるものを使うのだ。このツノ付きの本質と、ブレスの怒りを。

 

()()()()()()()!」

 

 ありったけの怒りと敵意を込めて怒鳴る。ツノ付きの顎の力が弛み、ブレスは足を引っこ抜いて再び走り出した。

 

 言霊が効いたのかは定かではないが、考えるのは後回し。

 とにかくカナンの元へ戻らなければ。

 

 焚き火の前に飛び出すと、木を背に座っていたカナンが目を開けた。

 同時に、追いついた五頭の悪霊犬がブレスとミシェリーに飛びかかる。

 

 カナンの唇が静かにひとつの名前を呟いた。「テンテラ」。

 

 影から飛び出した巨体が次々に黒い犬を飲み込んでゆくのを茫然と見上げながら、ブレスはその場にへたり込んだ。

 

 

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